Ⅰ
四月二十日。市大戦を終えてからおよそ一週間の時が過ぎた。
絶対的エースの不在という問題点を晒しつつも、強力な打線により乱打戦を制し秋大会の雪辱を晴らした青道高校野球部。あともう一つ。次の準決勝を勝ち上がれば関東大会の出場が確実となるため、その練習にはいつも以上に熱が籠る。
――――センター行ったぞ!!
――――ショート、反応が遅い! それじゃ間に合わないぞ!!
――――おらどうしたっ!? もうそれで終わりかっ!!
グラウンドに響き渡る甲高い金属音とそれに負けないぐらいの選手達の肉声。
試合を控えた主力陣は勿論のこと、次の試合に出ることのない二軍の選手達もまたレギュラーに負けじと声をだし、何とか夏の大会では背番号を貰おうと懸命にアピールする。
いかにも強豪校らしい活気に満ち溢れた練習風景に野球部部長太田一義は頬をだらしなく緩め、「うんうん」と恰幅の良い体を揺らした。
「いや~。毎年のことですが、今年もよく声が出ていますな~」
「まだ春先とは言え、夏の大会まで三ヶ月を切っていますからね。選手達―――特に去年後一歩の所で悔しい思いをした三年生達は今年こそという思いが強いのでしょう」
くいっと眼鏡を上げながら、冷静に選手たちの心情を分析する高島礼の言葉に太田は「確かに」と深く頷いた。
片やユニフォーム、片やスーツと異なった服装、異なった性別ながらも共に野球部のことを想う気持ちは変わらない。今年こそは甲子園にと部長・副部長コンビが思いを一つにして練習を眺めていると、太田は本来この光景を最も見るべき人物が見当たらないことに気が付いた。
「そういえば片岡監督はどちらに? 先程から姿が見えませんが……」
「監督なら恐らく第二ブルペンかと」
「第二ブルペン? 川上と丹波が投げているのは第一では―――あぁ、確か今日第二ブルペンで投げるのは……」
「はい。山城君です」
山城空。シニア野球に携わっていた者なら知らない者などいない、中学野球の二大怪物の一人。現在三年の滝川・クリス・優がかつて所属していた東京都丸亀シニアに所属し、“打”の怪物広橋大地と共に中学野球界に旋風を巻き起こした“投”の怪物。
数多の強豪からの誘いを蹴ってまで青道に入学した怪物ルーキーに期待を寄せている者は多く、まだ練習試合にすら出ていないこの時期から休日には多くのOBや記者達が山城を一目見ようと集まってくる。
「まだ入部から二週間ほどだというのにブルペンに入っての投球。それも片岡監督直々に見学とは、余程山城に期待しているんですな」
「中学で実績を残した選手ですし、また能力テストでも非常に高い記録を残しています。もしかしたら片岡監督は、夏の本戦では彼を投手陣の主軸にしようと考えられているのかもしれません」
「えぇっ!? 夏の大会にですか? いくら何でもそれは……」
入って来たばかりのルーキーをいきなり主軸にする。
これまで、シニアで活躍していた選手が高校の壁にぶつかり挫折していった様を何度も見てきた太田にとって、高島の言うことは無茶を通り越して無謀にさえ思えた。
高島はあらと意外そうな顔をして、驚く太田を見た。
「そういえば、太田部長は実際に彼の球をご覧になったことは―――」
「えっ、えぇ。噂は色々聞いていますが、中学の試合は映像も殆どないので実際には……」
「でしたら一度ご覧になってみますか? 中学NO1と謳われた彼の球を」
Ⅱ
青道高校野球部Aグラウンドには二つのブルペンがある。
一つは三塁側ファールグラウンドに作られた第一ブルペン。
もう一つは一塁側ファールグラウンドに作られた第二ブルペン。
二つの間に設備的な優劣はないが、入り口から近い第一ブルペンで主力陣の投手が投げることが多いためOBや記者達は自然とそちらに集まることが多い。
しかしこの日に限っては、主力陣が投げ込みを行う第一ブルペンではなく第二ブルペンに人だかりができていた。
「いや~。土曜とはいえ、すごい人ですな~」
「はい。それだけみな山城君の投球に期待しているのでしょう」
腕組みをしながら真剣な表情で佇む歴戦のOBに、カメラを構えるスポーツ記者。
ネット越しながらも熱い視線を注ぐそのギャラリーの姿に山城への期待感を感じつつ、高島と太田が第二ブルペンに足を踏み入れるとそこには真剣な眼差しで山城を見つめる片岡鉄心の姿があった。
「片岡監督」
太田が呼びかけると、ちらりとサングラス越しの視線を入ってきた二人へと向けた。
いつになく力の籠った目に思わず太田が怯むと、代わりに高島が口を開いた。
「山城君はどうでしょうか?」
問いかけに片岡は答えず、無言で視線を前方へと促した。
二人が揃って片岡が促す方へと目を向けると、そこでは山城が既に左足を高く上げて投球モーションに入っていた。
数多くのシャッター音が降り注ぐ中、流麗かつ豪快なフォームからボールが放たれる。
優に140キロは出ているであろう剛速球。
決して大柄とは言えない山城の体格からは想像し辛いスピードボールが唸りを上げ、空気の壁を切り裂いて突き進む。
まるで浮き上がると錯覚するほどに急激に伸びるその球は、フル装備で待ち構えていたキャッチャーを嘲笑うかのようにアウトロー(右打者の)に構えていたミットの上辺を掠めて軌道を変えると、そのまま後方のネットへと突き刺さった。
おぉとギャラリーの間から感嘆の声が漏れた。
―――今の何キロ出てたんだ?
―――150は言い過ぎにしても、140半ばはあったんじゃないか!?
―――いやいや。速さもそうだが、何よりも注目するべきはあの伸びだろ!
―――あぁ、噂以上の伸びだ。
―――これで捕れなかったのは三人目か。小野が捕れないとなると捕れるのは御幸か宮内だけってことになるな。
―――だがこれで青道の投手事情にも希望が見えたんじゃないか? あの速さであそこまで伸びる球を打てるバッターはそうはいないだろ。
―――いやぁ。稲実の成宮との投げ合いが楽しみだ。
ざわざわと熱の帯びた言葉がネットを介した反対側で飛び交う。
あんぐりと口を大きく開けて目を見張る太田に、高島はくすりと綺麗な笑みを見せた。
「いかがです、太田部長? 山城君は今見せたストレートの他にも二つの球種を持っていますし、それらをコーナーに決めるだけの制球力もあります。スタミナについては実戦で投げてみなければわかりませんが、少なくともシニア時代は登板したほぼ全ての試合を最後まで投げ切っています」
「……いや、驚きましたなぁ。片岡監督、これは行けるんじゃないですか!?」
興奮気味に鼻息を荒げ、太田は目を輝かせた。
相変わらずのお調子者ぶりに苦笑しつつ、しかしと高島は目を細めた。
「山城君は明日の試合には使えないかもしれませんね」
「あぁ」
追い込まれた状態での力を見たいという理由から選手たちにはまだ通達していないが、明日はかねてより予定してあった一年生VS二、三年生の練習試合。
一年生の中でも即戦力として最も期待できるであろう山城が試合に使えないと言う言葉に、太田は驚きの声を上げた。
「えぇっ!? なぜです? これほどの球なら、ぜひとも試合で……」
「だからです、太田部長。彼の球を捕れる捕手が一年生のなかにいるとお思いですか?」
「あっ」
そう。例えどれだけ凄いボールをピッチャーが投げようと、それを捕れるキャッチャーがいなければ試合は成り立たない。
二年生において御幸に次ぐ捕手である小野が捕れないとなれば、まだまだ未熟な一年生が捕れないのは明白。
一昨年のクリスや昨年の御幸の様な存在がいれば話は別だが、今年の一年に二人の様な天才がいない以上下手に山城を試合で投げさせれば怪我のもとにしかならないのは明白だった。
「もったいないですな……しかしそうなると山城はどうしますか? 明日の試合投手以外で出場させることも出来ますが。それでしたらやはりここはまた来週にでも試合を行い、御幸か宮内とバッテリーを組ませて実力を見た方が……」
「……御幸をブルペンに呼べ」
「御幸君をですか?」
「あぁ。それと守備についている結城、小湊(兄)、伊佐敷の三人に打席に入る準備をさせておけ。今から山城の一軍昇格テストを行う」
「えぇっ!?」
「っつ!!」
「わざわざ来週を待つ必要はない。うちの主軸相手にどこまで出来るか……それで山城の実力を測る」
ギラリと、サングラスが怪しく光った。
Ⅲ
「―――はぁはぁはぁ」
もう何時間走っただろう。
酸素を求める息遣いは荒く、その額からは滝の様に汗が流れ落ちる。
疲労の溜まった足腰は少し気を抜けば崩れ落ちそうなほど柔く脆く、腰紐で繋がれた二つのタイヤがまるで鉛の様に重く感じられた。
入部からおよそ三週間。
Bグラウンドの外周を、沢村栄純は今日も今日とて一人走っていた。
……タイヤ引いて三週間。これまで何も言ってこねぇけど、あのグラサンまじで俺のこと忘れてんじゃねぇんだろうな。
―――ヒヒヒ。お前この先一年間はチャンスもらえないかもなっ。
同室の先輩の言葉が頭を過る。
いかんいかんと嫌な想像をかき消すように栄純は首を振り、残った力でタイヤを引く。
そして何度目になるかわからない一塁側ベンチ前を通過しようとしたところで、どよめきと歓声が栄純の耳に飛び込んできだ。
……な、何だ?
音の方角は隣のAグラウンド。
バットがボールを捉える金属音や守備に就く上級生達の声は走っている間よく耳にしていたが、さっきのような歓声が聞こえて来るというのは初めてのことだった。
……まさかあのグラサン、遂に誰か殺しちまったのか?
本人に知られれば激怒間違いなしのことを栄純が考えていたが、他の部員達も気になっているのだろう。ノックの手を一時休め、みな一様にAグラウンドの方へと目を向けていた。誰か確認に行くか? そんな空気がグラウンドに流れかけた時、息を弾ませた部員が興奮した面持ちでBグラウンドに駆け込んできた。
――――おい! Aグラウンドで山城が三年のレギュラーと勝負してるぞ!?
――――はっ? どういうことだよっ!?
――――何でも山城の一軍をかけた昇格試験らしいぜ。亮介、純、哲の三人を抑えられたら一軍らしい!!
――――そんなの無理だろっ!?
――――それが既に亮介を三振に仕留めてるんだよっ!
――――まじかよっ!?
――――いいからお前たちも一旦休憩にしてこっちに来いよっ! Aグラウンドじゃあ、OBとか記者とかも集まってすげぇ盛り上がりだぞ!?
好奇心を抑えきれなかったのだろう。
それまで練習を仕切っていた三年生はいったん練習を止め、他の部員達に休憩を告げるとメッセンジャーとしてやって来た部員と一緒にAグラウンドへと走っていく。
―――山城とレギュラーの対決だってよ!
―――俺らも見に行こうぜっ!
そして先の二人につられる様に、他の部員達も続々とAグラウンドへと向かって走っていく。まるでヌーの群れの様に塊で走っていく上級生や同級生達を見送る栄純の頭には、先程先輩が言った名前が残っていた。
……山城ってたしか。
一週間前の記憶が蘇る。
無意識の内に拳を握りしめ、栄純もまたAグラウンドへと向かった。
Ⅳ
……うわ。すげぇ人。
栄純がAグラウンドに着くと、そこには既に数多くの人が詰めかけていた。
OBに記者、部員に一般生徒。
野球とは実際にプレイするものであって見るものではないという認識の栄純にとって、観戦のためにグラウンドを囲む人の姿というのは非常に新鮮だった。
しかし余り驚いてばかりもいられない。栄純は何とか人の壁をかき分け、関係者しか入れない鉄の扉を潜ってグラウンドの中へと足を踏み入れる。
三塁側ベンチ前に陣取る上級生たちの列の端にひっそりと加わった栄純がそこで見たのは、上級生を空ぶりに取る同じ一年生の姿だった。
―――ストライク! バッターアウト!!
審判のコールに顎髭の生えた打者は大きく吠えると、マウンドでキャッチャーからボールを受け取る山城を睨み付けながらバッターボックスを後にした。
ざわざわと、栄純の隣が騒がしくなる。
―――おい、まじかよ。純さんまで三振かよ。
―――これで二者連続三振……。
―――うちの二、三番が連続三振って、試合でも殆ど見たことねぇぞ!?
―――あぁ、それも二人にほとんど自分のスイングをさせてなかった。
―――特別体格がいいわけでもねぇのに、何であんなボールが投げれるんだ!?
……二者連続三振。あいつが……
どくんと、栄純の中で何かが強く鼓動を打った。
蘇るは一週間前の記憶。
キャッチボールの最中に行ったおよそ90mの遠投。
栄純が助走をつけて投じた球はフェンスまで届かなかった。
しかし、
……あいつは、『助走なし』で届かせた。
それも栄純や三週間前の片岡が投げた様な山なりのボールではなく、低く真っ直ぐの軌道で。胸元辺りの高さで投げられた剛速球がどんどん伸びていき、途中で落ちることなくそのままフェンスにぶつかった様はまるで何かの手品のよう。
栄純はぎりっと歯を食いしばり、今の自分と山城を比べた。
片や一年生でありながらマウンドに上がってレギュラー相手に三振に取り、片や練習に参加することすら認められず毎日グラウンドの周りを走り込む。
遠い。
同じ一年生でありながら、とてつもなくその姿が遠い。
……でも、絶対に諦めねぇ。
例え今は敵わなくとも、いずれ絶対に追い越してエースになる。
沢村栄純は、そのために青道に来たのだから。
決意を胸に、栄純は練習に戻るためAグラウンドを後にする。
―――でも次はこれまでみたいにはいかねぇよな。
―――あぁ。何たって次は。
―――哲さんだからな。
そんな声を背後から聴きながら。
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