Ⅰ
7月17日月曜日。
辛かった期末考査も終わり、夏休みまで残すところ一週間を切ったこの日。
青道高校1年3組の教室は朝の一限目から重たい空気に包まれていた。
「えー。人生というのは一度きりのものだ。そしてだからこそ、常に未来を見据えた人生設計を行う必要がある。そう、あれは私が大学に入ったばかりの頃。当時、何をすればいいかわからない私に道を指し示してくれたのが恩師である山岡先生であり――――」
教卓から朗々と聞こえて来る『太田一義(当時19歳)の選択』。
とりたてて感動する話でもなければ、ネタとしてのヤマやオチがあるわけでもない。
ただただ長いだけの昔話に10代の少年達の精神は半ば限界にきていた。
―――なぁ。これいつまで続くんだ?
―――んなもん知るかよ。ていうか、一体いつから三権分立の話が太田先生の人生碌になったんだ?
―――つーか、いい加減止めねぇか? オレ、この話もう三回ぐらい聞いてるぜ。
―――あたしは五回……何かもう頭がおかしくなりそう。東条君、先生に止める様に言ってよ。太田先生って野球部の顧問なんでしょ?
―――勘弁してくれよ。みんな知ってるだろう?
―――あぁ、5組の山田……止める様に言ったら昼休みに呼び出し喰らって延々とマンツーマンで人生談義だっけか?
―――寝たら寝たで問答無用で呼び出しだし……はぁ。休み時間までもう少しだから我慢しよう。
―――人生って……理不尽だよな……
半ばお通夜の様な空気が教室に漂う中、一人講演を続ける太田は絶好調。
気温とはまた違う理由でワイシャツを濡らしながら熱弁を振るっている。
―――早くチャイム鳴らないかな
みな気持ちを一つにして静かにただただ時が過ぎるのを待つ。
そして、遂にその時が来た。
9時50分。
小さなノイズを伴って教室のスピーカーに電源が入る。
そして待ち望んで止まない規則正しい電子チャイムの音が教室中に鳴り響いた。
全国共通の味気ないメロディーではあるが、1年3組にとっては今ほどこの電子音に安堵を覚えた時も少なかっただろう。
語りを中断された太田は顔を顰めたものの、時間は時間。
「もうこんな時間か……うーむ仕方ない。今日はここまでに―――」
『起立!』
太田が言い切る前にクラス委員長が号令を取ると、誰一人遅れることなくクラスの生徒が全員勢いよく立ち上がった。
太田に口を開かせる間を与えることなく、委員長は頭を下げた。
『礼!』
ばっと、一糸乱れぬ動作で全員が頭を下げる様はまるで軍隊のごとく。
どことなく納得してなさそうな顔で太田が3組の教室を後にすると、クラスの空気が一気に弛んだ。
教室の隅にある自分の席でノートを広げていた空は太田が廊下に出たことを確認すると、大きく伸びをして凝り固まった身体を解きほぐした。
「あー。ようやく終わった~」
「あハハハ。相変わらずだったよね、太田先生。悪い先生じゃないんだけど……」
空の前の席で授業を受けていた小湊春市はくるりと椅子を回して苦笑い。
青道高校野球部が危なげなく三回戦の出場を決めた翌日。
初戦敗退という最悪の事態だけは避けられたことで一部の人間たちが安堵の息を漏らしたものの、まだまだ甲子園までの道は長い。
出来ることなら先を見据え、今の内に少しでも選手達に休みをとらせたいというのが全国の高校野球に携わる人間の本音ではあるが、
「試合の翌日でも普通に学校とか……期末考査は終わったんだから休みにしてくれりゃあ良いのに」
「さすがにそれは無理じゃないかな?」
「いや、そこは私立なんだし何とでもなるんじゃ―――」
「ならないと思うよ」
会話に割り込んできた主に春市と空はそろって顔を向けた。
そこにいたのはクラスメートにして、同じ野球部に所属する部活仲間。
クリーム色がかった金髪に万人受けする柔らかな顔立ち。
東条秀明はいつものように人当たりの良い笑顔を浮かべ、空いていた春市の右隣の席に腰を下ろした。
「あっ、おかえり東条君。もう用事はすんだの?」
「まぁ、用事って言っても隣のクラスの奴に借りていたCDを返しただけだし」
「んで東条、何でならないってわかんだよ? スポーツの強豪校ならちょくちょく特別休暇を選手に与えてるって聞くぜ?」
「うん。それがこの前生物の吉沢先生に聞いたんだけど、そういった特別扱いを監督が断ってるらしいんだよ」
「監督が?」
「野球は大事だけど、選手達はあくまでも学生。だから過度な特別扱いは他の生徒に示しがつかないし、選手のためにもならないって」
「あー。確かに監督ならいいそうだね」
納得したとばかりに春市が頷く。
野球部の監督を務める片岡鉄心は良くも悪くも一本筋の通った真っ直ぐな人間であり、不公平が生まれることは好まない。空も自分の期待が望み薄だと理解したのか、諦めと共に広げていたノートのページを捲った。
「なるほどな……監督が言ってるならそりゃ無理だわ」
「少なくとも監督が代わるまでは無理だと思うよ……ところでさ、山城」
「ん?」
「気にならないの?」
「何が?」
「何がって……」
困ったように、東条は目だけを背後へと向けた。
教室から廊下へと続く2つの扉。
開かれたままのその扉の向こうには、いつの間にか廊下を埋め尽くすほどの人だかりができていた。
―――あっ、いたいた!
―――ちょっ、押すなよ!?
―――おー。あれが山城空か、確か昨日の試合9人連続で三振をとったんだろ?
―――三年後にはプロ入り確実らしいし、今の内にサイン貰っとこうかな~
―――私試合見てファンになっちゃった! ほんとスゴかったんだから!
―――はいはい、あんたの話はもう聞き飽きたから。えーと、確かあのピンク髪の子もベンチメンバーよね? かわい~、女の子みたい。
―――1年生エースってことでマスコミも例年になく球場に行ってるみたいだし、俺も次の試合から見に行ってみようかな~
がやがやと嫌でも聞こえて来るざわめきに、突き刺さる数多の好奇の目。
同じ一年のみならず、階が違うはずの上級生すらもぞくぞくと3組の教室の前に集まってくるではないか。もともと人見知りの気がある春市が頬を紅くして居心地悪そうに体を小さくする一方で、最も注目を浴びている筈の空は特に気にした様子もないまま変わらずノートに目を落としていた。そんな一年らしからぬ態度に、東条は引き攣った笑みを浮かべざるをえなかった。
「……凄いね」
「うん? あぁ、上級生とか階も違うのにわざわざここまで来るとかすげぇよな。俺ならクリス先輩に呼ばれない限り絶対上のフロアに行こうとか思わねぇもん」
「いや、そうじゃなくて」
「うん?」
「……いや、もういいよ」
疲れたように、東条は首を横に振った。
「山城がエースに選ばれた理由がわかった気がするよ……」
「あハハ……そうだね」
常識人コンビが顔を見合わせて乾いた笑みを浮かべると、一年生の非常識コンビの片割れは頭上に?を浮かべた。
「二人とも何言ってんだよ?」
「気にしなくていいよ……ところで、さっきから何読んでるのさ?」
「あっ、それ僕も気になってた。授業の間もずっと読んでいたよね?」
「あぁ、これか。見てみるか?」
ほいと、二人にも見えるよう空はノートの向きを変えた。
東条と春市が身を乗り出して広げられたページに目を通すと、そこにはビッシリと複数の選手についての記述が丁寧な字で書かれていた。
「これって……」
「次に当たる学校のデータ。今朝なべさんが渡してくれた」
「なべさん……あぁ! 2年の渡辺先輩。確か初戦の後、自分から偵察に志願したんだよね? 普通そういうのって試合に出れない3年の先輩がやることなのに」
「でも、これほんと良くできてるよ。投手の細かな癖に、打者の得意・苦手なコース。それに状況毎の細かな守備位置の差異まで。よっぽど詳しく試合を分析しなきゃとてもここまでの物はできないよ」
「クリス先輩も感心してた。これなら随分とリードが楽になるって」
レギュラー捕手として試合に出場するクリスは、練習や時間の都合から中々他校の試合を直に観戦するというのが難しい。録画した映像を後で見返すことは出来るが、やはり実際に観戦することで分かる事柄も多々ある。
クリス一人では把握しきれないリアルと映像との穴を、渡辺は見事に埋めてくれていた。
先輩のチームへの献身ぶりに感心しつつ、東条はぱらぱらとページを捲った。
「けどこのデータを見る限りでも、次の試合は大丈夫そうだね」
「まぁな。別に相手を舐める気はねぇけど、普通にやれば問題ない相手だ」
青道の3回戦の相手は都立村田東高校。
初戦の例があるだけに油断こそできないが、それでもごく普通に闘えば問題なく勝てる相手。問題なのはと、春市はノートの最後のページに張られた組み合わせ表に目を落とした。
「4回戦で当たる高校も気にはなるけど、やっぱり注目は市大三校だよね」
「市大……確か春の選抜ベスト8だっけか?」
「うん。準々決勝で当たるのはほぼ間違いなくこの市大だと思うよ。春の都大会では勝ったけど去年の秋大では負けてるし、因縁の対決だね」
「因縁か……」
「どうしたの、東条君?」
「いや、ちょっと中学の時に聞いた話を思い出して」
「聞いた話?」
春市の問いかけに、東条はどことなく空を気にしながら頬をかいた。
「市大のエースの真中さんって中学の頃からやっぱり上手くてさ。大会とかでも結構いい成績を残しててそれなりに有名だったんだよ」
「あー。俺もちょっと聞いたことあるかも。スライダーの真中って。まぁ、部活野球でのことだから詳しくは知らねぇけど。で、それがどうしたんだよ?」
「野球部のヤツに聞いたんだけど、真中さんの中学にはエースの真中さん以外にもう一人いい控えの投手がいたんだって。長身で大きく縦に割れるカーブを決め球にする本格派の投手が」
「長身で……」
「カーブを決め球にする……えっ、それってまさか」
「うん。その投手の名前は丹波って言ったらしいんだ」
東条の言葉に春市は目を見開いた。
空はふぅと息を吐き出し、天井を見上げた。
「中学時代にエースナンバーを争った投手同士が、高校では別の学校で甲子園を目指して競い合うか。まぁそこまで珍しいことでもねぇけど……」
「丹波さんにとっては重要なことだよね。でも丹波さんは……」
「怪我の完治が七月の下旬だから、多分もう少しすれば普通にボールを投げれるようにはなる。けどどれだけ早く見積もっても、実戦で投げられるまでにはそっから最低二週間はかかる」
「そうだね。ボールを投げれるようになったからって、すぐに球威が戻るわけでもないし」
空の予測に、シニアで投手を務めていた東条も同意する。
そう、どう考えても丹波は予選には―――準々決勝には間に合わない。
一年生の三人は誰一人として言葉を発さなかった。
そしてそのまま二限目のチャイムが音を鳴らすと、春市は椅子の向きを変え東条は自分の席へと戻っていく。
空は広げていたノートを机の中に仕舞い、窓の外へと視線を向けた。
「……やっぱ、投げたかったよな丹波さん」
◇
「お願いします。今日から練習に復帰させてください」
それは、片岡と太田がいつものように練習前にプレハブ小屋に入ってすぐのことだった。
一体いつから待っていたのか。
冷房も灯りもついていない、薄暗く蒸し暑い室内で額に汗を浮かべていた丹波は片岡と太田が室内に入るなり、冒頭の言葉と共に頭を下げた。
その余りの突然の出来事に首脳陣二人は面を喰らったものの、すぐに我に帰るとまず太田が叱責を飛ばした。
「なっ。無茶を言うな丹波! お前の顎はまだ完治していないんだぞっ!?」
「……これ以上復帰を遅らすわけにはいきません」
「後一週間もすれば正式に医師から練習の許可も下りる。それまで……」
「それじゃあ遅すぎるんですっ!」
悲鳴にも似た叫びが、小さなプレハブを包み込む。
太田が言葉を失っていると、丹波は固く拳を握りしめた。
「復帰が来週になればどうやっても準々決勝には間に合わない。それだと……意味がないっ!」
「準々決勝……丹波、お前が気にしているのは市大の真中のことか?」
「……はい」
片岡が確認するようにその名を口にすれば、丹波は小さく頷いた。
「小さい頃からかっちゃん……真中は自分にとっての憧れでした。けれどそんな風に憧れてばかりいるのが嫌で、肩を並べたくて青道に入りました」
真中と同じく、丹波もまた市大三校からのスカウトは受けていた。
けれど同じ道を進んでしまえばこれまでと何も変わらない、そう思ったからこそ丹波は市大と肩を並べる強豪校である青道に行くことを決めた。
共にエースとなり、甲子園をかけて戦うことを約束して。
「……怪我でチームを離れ、エース番号もを背負わない自分は青道のエースではありません。でもせめて、真中と―――かっちゃんとだけは自分がっ!」
一言一言に込められた丹波の想い。
指導者という立場からすれば丹波を止めならない。
けれど丹波の想いも痛いほどわかるからこそ、太田はどうすればいいのかわからず片岡の判断を待った。
片岡は伏せていた顔をゆっくりと上げた。
「……言いたいことはそれだけか?」
「っつ!?」
「完治まで後一週間。なるほど確かにボールを投げれないわけではないだろう、無理をすればブルペンにも入れるかもしれん。だがそんな状態で試合のマウンドに上がり、あの市大を抑えられると本気で思っているのか?」
「それは……」
「言葉に詰まるか……丹波、お前自身が今の自分状態を一番わかっているはずだ」
「それはわかっています……けれどかっちゃんとはっ!?」
「一個人の私情で万全でない投手をマウンドに上げるわけにはいかん。話は以上だ、寮で休んでいろ」
「か、監督っ!?」
「どれだけ言おうと、俺はチームの戦力にならない選手を使う気はない」
「っつ!?」
それは事実上の戦力外通告だった。
あまりにも厳しすぎる言葉に丹波は立ちつくし、全身を小刻みに震わせる。
片岡は棒立ちとなった丹波の横を抜けると、壁際のホワイトボードの前で歩を止めた。
「……甲子園だ」
「っつ」
「今年の甲子園は例年よりも開幕が遅い。組み合わせ次第では、試合までさらに時間的な猶予も生まれるだろう」
あくまでもくじ運次第ではあるが、上手くいけば最長で今から三週間弱の猶予がある。
そしてそれだけあれば。
「必ずお前を甲子園で投げさせてやる。だからそれまで腐らず、しっかりと仕上げておけ……あいつらを信じてやってくれ」
「……わ…かり……ました」
震えた声でそれだけ言うと、丹波はプレハブ小屋を後にした。
扉が閉じられた後、太田は不安げな表情で窓から見える丹波の後ろ姿を見つめた。
「丹波は大丈夫でしょうか? その、正直言って納得している風には……」
「真中と戦うことを夢見て丹波はこの三年間をやってきた。それが叶わないとわかった以上、本当の意味では納得しないだろう」
「そ、そこまでわかっていらっしゃるなら何かフォローをしておいた方が……」
「すでにエースナンバーは山城に託した。この状況で慰めたところで、逆効果にしかならん」
最後の大会のマウンドに立てず、一年にエースの座を奪われる。
これまでエースナンバーを背負ってきた丹波にとってそれがどれ程辛い事かは、かつてエースナンバーを背負っていた片岡によくわかった。
「信じるしかない、丹波を。そして丹波のためにも必ず甲子園に行く」
「はい」
Ⅱ
7月20日。
西東京大会3回戦、青道高校対都立村田東高校の対決は戦前の予想通り終始青道ペースで進んでいた。3回終了時にして既に11対0、このまま進めば2試合連続となるコールド勝ちとなる。
9割方結果の見えた試合にスタンド席は早くも終戦ムードで、青道の応援に来ていたファン達は随分と気楽な様子で試合を観戦していた。
―――いやぁ。今年の青道は強いですな~。
―――もともと打線が強いのは知ってましたが、クリスが加わったことで更に打線に厚みが出ましたね。ここまで青道一の打点を誇ってますし、クリーンアップを任せてもいいと思いますが……
―――いやいや。打線もそうだが、やっぱ今年は何と言っても山城でしょ!
―――ここまで2試合の計6回を投げてパーフェクトピッチング。連続奪三振記録は途切れましたが、それでも打者18人に対して三振17個。間違いなく今大会稲実の成宮と並んで二大巨頭ですよっ!
―――もっとピッチングを見たかったけどここでバッテリーごと交代か……
―――確か2回戦も4回から変えてたよな? 勿体ねぇな~ バッティングもいいし、投手を変えるにしても外野で使えばいいのに。
―――後のことを考えて休ませておくんだろ? 僅差ならともかく、こんな大差がついてたらわざわざ試合に出しておく意味ねぇし。
―――にしても青道側の応援席埋まってんな~。まだ三回戦だろ?
―――それだけ注目を浴びてるってことだよ。カメラ持った取材陣みたいなのも多いし、何より声援が黄色い……
―――まっ、山城はそこそこ顔がいいしな。名門で1年からエースナンバーをつけて、顔も良くて実力もあればそりゃモテるだろ。
―――妬ましい……
その後青道は二回戦と同じく4回を沢村―御幸、5回を川上―宮内のバッテリーが無失点で抑え、5回コールド16対0で勝利を収めた。
順風満帆、完璧と言っても過言ではない勝利にほくほく顔で観客達が席を立つ中、だらんと空いた村田東高校側のスタンドにはいくつかの影が残っていた。
……なるほど。これが青道か。
楊瞬臣はずれた眼鏡の位置を戻すと切れ長の瞳をすっと細め、もたれかかっているコンクリートの柱に体重を預けた。
整っている顔立ちをしているだけにそのちょっとした姿も画になるのだが、どこか感じられる冷たい雰囲気が他人の目を寄せ付けないでいた。
……強力な打線に堅実な守備、そして1年ながらもチームを任された絶対的エース。
走攻守がこれほどまでに揃ったチームというのも中々珍しい。
道理で優勝候補に目されるわけだと、楊は感嘆の息を零した。
……あの強力打線は確かに警戒が必要だが、抑えるポイントさえ間違わなければ手も足も出ないわけじゃない。むしろ問題なのは打撃、あの投手からどうやって点を取るか……
青道の若きエース、山城空。
独特の軌道を描く最速150オーバーのストレートに、殆ど球速が変わらず鋭く落ちる縦のスライダー(雑誌の呼び名に従うなら2シームジャイロ)。
これでコントロールが悪いのなら幾らでも対策のしようはあるが、生憎と山城はコントロールもいい。ただでさえプロでも中々お目にかかれないレベルのボールがコースに投げ込まれれば、並のバッターでは手も足も出る筈がない。
……どうする。
考え込む楊に、同じく試合を観戦していたチームメイトが不安な声を上げた。
「な、なぁ、瞬。俺達、あんな投手から点取れるのか?」
「あんな球、マシンでも打ったことねぇぜ」
「……確かにあの1年は手ごわい相手だが、どんな投手であろうと必ず欠点はある」
それにと、楊は不安がるチームメイトの顔を見渡した。
「野球は点を与えなければ負けることはない。青道と戦うためにも、まずは次の試合を勝つぞ」
『おぉ!』
◇
三回戦を危なげなく勝った後、ユニフォームから制服へと着替えた青道の選手達はそのまま学校には戻らず、球場に残りスタンドである試合を観戦していた。
見ているのは三回戦第三試合、都立神山高校‐明川高校。
この試合で勝った方が次の4回戦で青道が対戦する相手ということもあり、選手達はみな真剣な面持ちでプレーの一つ一つに目を凝らしていた。
そして空とクリス、そして栄純と御幸という青道の2つのバッテリーもまた、スタンドの最上段席に腰を下ろし渡辺が集めてきたデータ片手に試合を観戦していた。
そして試合開始から1時間弱。
大よそ結果の見え始めた試合に御幸は声を上げた。
「リードはしてますけど、やっぱナベのデータにもあるように明川のチーム力自体はそれほど高くありませんね」
「あぁ、そうだな」
御幸の批評に、クリスも同意する。
テンポよく進んだ試合は現在7回の表を迎え、3対0と明川がリードしていた。
「明川の打線のレベルはいいところ中の下~中の中。守備は固いが、飛び抜けた能力を持つ選手がいるわけじゃない。やはり明川がここまで勝ち進んできた理由は……」
「はい。間違いなくあの投手ですね」
言葉が向けられた先はマウンド。
そこでは初回から表情を変えることなく、ただひたすらコーナーにボールを投げ続ける機械がいた。クリスは手元のノートに目を落とし、その機械の名を読み上げる。
「楊瞬臣。台湾からの留学生で、恐らく今大会No1であろうコントロールと常に表情を崩さないことからついたあだ名は精密機械。これまでの明川の全得点に絡んでいることから見ても、このチームの中心は間違いなく楊だな」
「えぇ。楊が1回戦からこれまでに出した四球はたったの一つ、それも明らかに勝負を避けた敬遠気味のものだけ……どっかの誰かさんとは大違いだな」
にやりと、御幸は意地の悪い笑みを浮かべる。
本日、村田東との試合の中で1回0失点四球一つ―――先頭バッターを歩かせた変則サウスポーはびくりと、その身体を震わせた。
「いややっぱ、コントロールの良い投手はリードしやすくていいよな~。点差があるのにどっかの誰かさんはいきなり先頭バッター歩かせるし、多少マシになったって言ってもまだ逆玉は多いし。ほんとリードし辛くて仕方ねぇよ。なっ、沢村」
「くっ!? お、俺だってその気になればあれぐらい……」
「あー。無理無理」
「最初から決めつけてんじゃねぇよ!」
うがーと、栄純は御幸に飛びかかったが、御幸はそれを華麗にかわす。
そうして始まった若いバッテリーのじゃれ合いに苦笑しつつ、クリスは試合が始まってからこれまで一言も発さずに楊を見つめている自分の相方へと話しかけた。
「山城。お前は楊のピッチングをどう思う? ずいぶんと熱心に見ているようだが」
「いや、ほんと凄いですねあの人」
はぁと感嘆の息を零し、まいったとばかりに空は小さく両手を上げた。
「これまで大体80球ぐらい投げてますけど、ほとんどキャッチャーがミットを動かしてない。真っ直ぐだけなら似たようなこと出来なくもないっすけど、それが変化球もとなるとちょっと敵いそうにないっすね」
「お前が手放しで他の投手を賞賛するのは珍しいな……」
「いやでも実際凄いですよあの人。これまで球が速い人とか、変化球のキレがすごい人は何人も見てきましたけど、あそこまでコントロールがいい投手は見たことがない」
ストレートの球速は一三〇前半とそこまで速いわけではないが、高校生離れしたコントロールを持って打者を翻弄している。
ある意味、ボールが速いだけの投手よりも攻略が難しい相手である。
その後、試合はそのまま楊がコントロールを乱すことなく9回まで投げ切り、3‐0で明川の勝利に終わった。
「決まったな、次の相手が」
「はい。やっぱり明川が上がってきましたね」
「あぁ、次の試合はいかに楊を攻略するか。そこに尽きるだろう」
次の試合まで後3日。
―――甲子園出場まで、後4勝。
空が青道に入学してからの丹波さん
1、片想いしていた捕手をぽっと出の一年に盗られる
2、怪我で最後の大会に出れない上、エースの座をこれまた一年に盗られる
3、幼馴染との約束を果たせず、監督から戦力外通告を受ける←New
丹波さん……かわいそう過ぎるよ。