その日はアキバで人気のおにぎり屋「えんむずび」の試作品の試食会が〈記録の地平線〉のギルドハウスで開かれていた。そこでちょっとしたきっかけからにゃん太がかつて所属していたギルド〈猫まんま〉の話が上がった。にゃん太の若手時代の話を聞いて、五十鈴が言った。
――今は〈猫まんま〉なんて名前のギルド、聞かないよね。
それもそのはず。〈猫まんま〉はすでに解散してしまっているのだから。
にゃん太は〈猫まんま〉のその後を詳細には語らなかった。そんな彼を見て、意図したわけではないが話のきっかけを作ってしまったシロエはやってしまったと頭をかいた。
その後、試食会も終わりにゃん太はギルドハウスの屋上にいた。そこにシロエもやってくる。
「ここからの眺めはいいですにゃあ。星が降ってきそうです。シロエちがこのギルドに誘ってくれた時もこんな夜でしたのにゃ」
にゃん太は夜空を見上げて笑う。言われてシロエはそのときのことを思い出して顔を赤くした。
「今思えば大きく出たもんだよね。班長が昔いたギルドのこととかぜんぜん知らなかったのにさ」
そこでシロエは先程のことを謝罪する。自分が〈猫まんま〉の名前を出さなければ、と。にゃん太は気にした素振りもなく、構わない、栄枯盛衰は世の理だと告げた。
突然柱を無くしたギルド。行き着く先は崩壊で、懸命な努力も虚しく立て直すこともできないまま、結局〈猫まんま〉は散り散りになってしまった。名前の由来となったのはギルドマスターだった玉三郎の夜食だった。ログイン中にデスクに置いてプレイしながら短時間でかき込む、そうやって冒険するほど彼らは〈エルダー・テイル〉に熱中していた。
今はただ何もかもが懐かしいと語りながら、にゃん太はシロエに試作した具材を頂戴して作った猫まんまを差し出す。
そして、その記憶を探ると必然的に彼女との冒険の記憶も付随してくる、とにゃん太は心の中で呟いた。
*
にゃん太が彼女に出会ったのは今から10以上年前。
仲間内でダンジョンで狩りをしているときに出会ったヒーラーが彼女だった。〈神祇官〉をメイン職にしたそのプレイヤーは、敵モンスターの行動を的確に把握して回復魔法とダメージ遮断魔法を使いこなし、パーティーが取りこぼしたモンスターの後処理まで完璧にこなした。その上、手にしている装備が軒並み〈秘宝級〉や〈幻想級〉であることから相当のヘビープレイヤーであることが伺えた。
そのプレイヤーも含めて彼らはダンジョンの最奥部まで攻略した。
「助かったよ、〈神祇官〉さん!」
『お役に立てたようで良かったです』
パーティーの仲間のボイスチャットにそのプレイヤーはテキストチャットでそう返してきた。小燐森と表示されているそのプレイヤーに、にゃん太は覚えがあった。実際に一緒に冒険をしたことがあったわけではない、一方的に知っているだけの情報であったが。
その人物は様々な高難易度クエストに挑戦しては輝かしい戦績を残しているプレイヤーとして有名になりつつある人物だった。その上、何かしらの追加要素があると掲示板などにバグ情報を残していくプレイヤーとしても有名だった。
そんな〈エルダー・テイル〉でも中々の有名人であるプレイヤーは、プレイ中のやり取りを見ても礼儀正しく思慮深く対応しており、にゃん太の中の印象は悪くなかった。
その日はダンジョンを出るまで共に行動をし、フレンド登録をして解散となる。
後日、再びにゃん太は〈エルダー・テイル〉でそのプレイヤーに遭遇する。
「おや。
『にゃん太さん、お久しぶりです』
その日もそのプレイヤーはテキストチャットだった。その頃はまだそこまでボイスチャットが主流ではなかったため、にゃん太は特に気にせずに話を続ける。
「今日もお一人ですかにゃ?」
『はい。にゃん太さんもですか?』
「ええ」
それなら一緒に冒険に行きませんか? とそのプレイヤーは言う。にゃん太はその提案に快く頷いた。
二人でパーティーを組んで世話ばなしをしながら辿り着いたダンジョン。その入口でそのプレイヤーはそうだったと思い出したように言う。
『そういえば先日、ようやくボイスチャットの環境が整ったんです。テストしようと思って忘れていました。申し訳ないのですけど、今テストさせていただいてもよろしいでしょうか?』
「にゃ? そうだったんですか。構いませんにゃ」
『ありがとうございます。今準備しますね』
そのチャットを最後にアバターの動きが止まる。にゃん太は何をするでもなく相手の準備が整うのを待った。
そうして少し経った頃。
『準備が整いました。今からボイスチャットに切り替えます』
「了解ですにゃあ」
その言葉を合図に通話が繋がったような音がして、そのプレイヤーが声を発する。そしてにゃん太は驚きに目を見開くのだ。
『もしもし、聞こえていますか? 音声は良好でしょうか?』
え?
にゃん太は画面越しにぽかんと口を開ける。その声は彼が想像していたよりもずっと、ずっと幼い少女の声だったのである。
『音声大丈夫ですか?』
「え、ええ。問題ないですにゃ」
答えながらにゃん太は先日の彼女の動きを思い返す。礼儀正しく、思慮深く、いっそそういった礼儀作法について教育を施されたのかと思うほどに品行方正だった。その様子と声色の乖離具合がひどく歪だった。けれど、それを問うほど彼らは互いを信頼していたわけでもなく。
結局にゃん太は彼女に抱いた歪さを口にすることなく、共に冒険をしたのだった。
それからもにゃん太は何度か彼女と共に冒険をした。彼女はにゃん太伝いで知り合った〈猫まんま〉のメンバーとも冒険をするようになり、時折、大規模戦闘攻略にも参加したりしていた。
小燐森というプレイヤーは気がつけば〈猫まんま〉というギルドに恐ろしく馴染んでいた。相手の考えを的確に読み取りプレイするスタイルは、どのメンバーとも衝突することなく彼女の存在を浸透させていった。けれど一方で、どこか一線を置いているような不思議な人物だとにゃん太は思っていた。
そんな日々が続いたある日のこと。にゃん太は久しぶりに彼女と二人で冒険に出掛けていた。その時刻は本来であれば子どもは寝ているべき時間である。いや、もしかしたら声が幼く聞こえるだけで実年齢はもっと上なのかもしれないが。ネットで知り合っただけの自分が口を挟むのは如何なものかと思いもするが、それでも気になってしまったにゃん太は疑問を口にする。
「
『もしかして、私の体調を心配してくれていますか?』
にゃん太のヘッドセット越しからクスクスと面白そうな笑い声が聞こえてくる。
『大丈夫ですのでご心配なく。……明日は家から出られなくて学校にも行けないので』
は?
突っ込みどころがありすぎて一瞬だけにゃん太の思考が止まる。
まず、家から出られないということ。一体どんな理由で家から出られないというのか。そして学校にも行けない、とは。
それに、それらの言葉を付け加えた彼女の声がどこか押し殺したような他人事で。
「……大丈夫ですかにゃ?」
にゃん太は彼女を気遣う言葉を口にしていた。
途端、機械越しの声が止む。彼女から冷たい無言が流れ、にゃん太の方から何か言うことも憚られた。
何度か言い淀むような気配がした後、小さく息を吸う音が聞こえる。
『えと……どうでもいいことなので、その……聞き流していただければと思います』
そう言った彼女はぽつりぽつりと吐露しはじめる。
明日は母親の命日で、その傷跡が未だ深い父親と一緒にいなければいけないこと。その関係で明日だけは自由に動くことが出来ず、外出も出来ないこと。そして、芋づる式に小学校にも行けないこと。
『でも、いいんです。父は笑ってくれるし、他の大人の人たちも父親思いのいい子だって……』
母のようになれば大切な人たちが笑ってくれる、だから母のようになりたくて、母のやってきたことを一つずつ覚えていこうと、その過程で〈エルダー・テイル〉を始めたのだと、このアバターも名前の一部も母のものを真似たのだと、彼女はどこか他人事のような声で小さく語った。
にゃん太はその話が嘘だとは思えなかった。そして、その話を聞いてにゃん太はなんて歪な子どもなのだろうと思った。周りに像を押し付けられて、それを演じきってしまう、歪で、心優しくて、どこか迷子の子猫のような哀しい子ども。
きっと誰も彼女を否定しなかったのだろうとにゃん太は考える。でも、それはきっと間違いなのだ。
なら、自分が否定してやればいいとにゃん太は思った。
「……“リンセ”ち」
母のものを真似たというキャラクター、その中で唯一真似ていない部分である彼女自身の名前をにゃん太はあえて呼ぶ。
「リンセちはリンセちですにゃ。他の誰かになれるわけがない、そして、他の誰かがなれるわけもないのですにゃ」
ましてや生者に死者の像を押し付けるなど、どちらに対しても礼を失しているどころの話ではないだろうと彼は画面越しに眉を顰める。
「誰かを目標にすることは悪いことではありませんにゃ。けれど、それを理由にするのは間違っていますにゃぁ」
自分以外の誰かを理由に自分の歩く道を決めること、それは責任の放棄でもあるし自分の存在を踏み潰すことにもなるだろう。誰かがそう言ったから、誰かにそう言われたから、と自分の選択の理由を他者に求め続ければ、いずれ自身の生殺与奪権を他者に与えることになるのだ。
『…………にゃん太さんは』
小さく震えた声がにゃん太の鼓膜を震えさせた。
『私のことを叱ってくれるんですね』
そして、彼女はそれを理解していた。自分が間違ったことをしていると。けれど誰も彼女を叱らなかった、否定しなかった、それが正しいことなのだと言い続けた。崩壊を恐れて彼女はそれに言葉を返すことが出来なかった。
それじゃ駄目なのだとにゃん太は言った。それは彼女がずっと大人たちに求め続けた答えだった。
機械越しの音声が震える。
「いいんですにゃ、泣いても」
にゃん太は優しく語りかける。彼女の押し殺すような声にきっと泣くことすら許されないと思っているのだろうと察したからだ。
許されて、そして、機械越しに子どもらしい泣き声が聞こえる。抑えることもなく、自分の感情のままに訴える声が。
母親という唯一の存在を亡くして、その母親の像を押し付けられて、どうにもできなかっただろう。よくここまで耐えたものだとにゃん太は感服する。なぜなら、彼女は逃げなかったから。その手段は間違っていても、彼女は周囲の人を守ろうと戦い決して逃げなかったのだ。
にゃん太はただじっと彼女の声を聞き続けた。
それはきっと、彼女が殻を破って生まれ落ちた産声だったから。
*
思えばそのときくらいだ、彼女の心情を把握できたのは。
〈
いや、あれは把握できたに含まれるのだろうかと自問自答するが、むしろあの頃のリンセでないと考えていることなど分からないと答えにならない答えを出す。
彼女は歳を重ねるにつれて思考回路も高度になっていったし、言葉で心情を覆い隠すことを覚えてしまった。今ではもうのらりくらりと躱されるくらいだ。そういった意味では彼女は彼らの中で最も〈猫〉であった。それと同時に、にゃん太にとっては殻を破ったばかりの小さな小さな雛鳥でもあった。生まれたばかりの姿を目の当たりにしたからか、どうしても彼女には親心が湧いてしまうのだ。手のかかると表現しているが、にゃん太の方から手をかけていることも少なくはなかった。
「あれ、シロくんにご隠居じゃん。こんなところで何してるの?」
突如聞こえてきた声にシロエとにゃん太は後ろを振り返る。そこにいたのは白い髪を揺らしたリンセだった。にゃん太がシロエに告げた言葉を同じ様に口にすれば、確かにここ眺めが良いですよねとリンセはシロエの左隣に腰を下ろした。
「あれ、シロくん。その猫まんまって」
「ああ、うん……」
リンセに思わず遠ざけてしまった猫まんまを指摘されてシロエは何とも言えない表情をした。具材が〈水棲緑鬼〉であることがよほど衝撃だったらしい。
「私も食べたい、一口ちょうだーい」
言いながらリンセはシロエの回答を待つまでもなく、シロエから箸を取り上げると猫まんまを一口分すくって口に放り込んだ。その隣でシロエは知らないよと言わんばかりに呆れたように顔を顰める。そんな2人のやり取りを微笑ましそうに見ていたにゃん太は、これまたシロエに告げたことを同じ様にリンセに伝える。
「リンセち……その猫まんま、〈水棲緑鬼〉で作ったやつですにゃ」
「え、そうなの? あの魚モンスターいい味出すじゃん」
ただし、リンセはシロエと違って猫まんまを吹き出すことはなかった。なんで気にせず食べられるの? と疑問を呈したのはシロエである。そんな彼にリンセは口に入れば一緒などと答えている。シロエは納得のいっていない表情をしているが、食に関して無関心であるリンセに何を言っても無駄だと悟ったのかそれ以上言及することは諦めたようだ。
異世界で流れる平和で穏やかな時間。それに身を委ねながらにゃん太は静かに目を閉じた。
その裏に映るのは、あの日の続きである。
泣き止んだ彼女は少し枯れた声でこう言った。
『もう大丈夫です。逃げてもいいって分かったので。逃げることは悪いことじゃない、生きるためには時には大事なことなんだって』
にゃん太はその言葉に息を飲んだ。何かを言おうとして、しかし言葉が出てこない。そんなにゃん太に彼女は追い打ちをかけた。
『だから、にゃん太さんが何かから逃げていたとしても、それはとても大事なことだと思います。にゃん太さんがにゃん太さんとして生きるために』
にゃん太は今度こそ言葉を失った。この少女に畏怖を抱いた。何を知っているんだ、と。それなのに彼女の真っ直ぐな声が耳の奥で反響してじっくりと脳に染み渡っていく。失う苦しみを知っている彼女の言葉だからこそ、その重みは桁違いだ。
それ以上、彼女はそのことについて何も言わなかった。いつもと同じトーンで冒険に行きましょうと笑った。
にゃん太には分からなかった。どうして彼女がそんなことを言えたのか。それでも分かることが1つだけあった。きっと彼女は自分を肯定してくれたにゃん太を肯定してあげたかったのだと。
にゃん太はただ、それだけは理解できた。
変わらない、相手の心情を読み取って寄り添うように在る、その姿は。
瞳を開いた先にいるシロエとリンセ、2人のやり取りを見てにゃん太はそう思った。
「ねえ、ご隠居」
「にゃ?」
外側から眺めるようにしていたにゃん太にリンセが声をかける。その隣ではシロエが、本気か? と言いたげな目でリンセを見ていた。どうやらにゃん太が過去に意識を飛ばしている間に彼らの中で何かあったらしい。にゃん太は首を傾げて2人を見た。
「〈水棲緑鬼〉が食べられるなら〈
「…………にゃ?」
さすがに無理でしょ、というシロエに、レベル90の〈料理人〉であるご隠居ならできそう、というリンセ。その表情からは本気なのか冗談なのか判別が付かない。その事実に、こういう話のときくらいはもう少し読める表情をしてくれないかとにゃん太は思った。
「リンセち、もし食べられるとして何の代用にするにゃ……」
「え? 新しい食材で良いんじゃないの?」
駄目だ、突拍子もなくて理解が追いつかない。
シロエとにゃん太の心の声が重なった。それを察したのかリンセは同じこと思わなくていいのにと呟く。はぁ、とにゃん太がため息を吐けば、お疲れ様とシロエがにゃん太に同情の視線を向けた。
「なんでため息吐くのさ」
そう言って口を尖らせるリンセに、にゃん太はもう何度目になるかも分からない台詞を言う。
「誰のせいですにゃ」
「私かな!」
リンセはニコニコ笑顔でサムズアップを決める。
そんな彼女の姿に影はなくてにゃん太は人知れず安堵するのだった。
〈雛鳥〉
――雛はいずれ巣立ちのときを迎える。
――ただ、今はまだその事実から目をそらしたままで。