あれから夜が明けて天秤祭は最終日である3日目を迎えた。最終日の昼間は〈記録の地平線〉の全員で集まり、せっかくの祭であるから「のみの市」見物でもしようという話になっていた。けれど、そこに加わることを拒否するメンバーが1人いた。
そう、リンセである。
彼女は3日目の朝が来ても部屋から出ようとしなかった。朝食にすら姿を見せず、ギルドメンバーは一様に訝しげに首を傾げる。その様子を見ていたシロエはそうなるよなと苦笑した。
「ミス・リンセはまだ寝てるのだろうか」
「起こしに行ったほうがいいのかな?」
そう話しているルンデルハウスと五十鈴にシロエは首を横に振る。その様子にギルドメンバーは再び訝しげに首を傾げる。疑問を問う複数の視線を受けて、少しばかり言い淀みながらもシロエは答える。
「……さすがに、2日連続で苦手な場所に連れ出すのも悪いし」
「リンセ姉、祭が苦手なのか?」
「そんなところ」
問いかけてきたトウヤにシロエは言う。初めて知る事実に反応は様々だ。ミノリとトウヤは純粋に驚いているし、五十鈴やルンデルハウスは不思議そうにしている。アカツキは少し意外そうな顔をしているし、直継はマジか……と言葉を漏らしていた。にゃん太は驚いたように目を瞠ると、直後やや険しい顔になる。そんな彼らにシロエは苦笑を消すことが出来なかった。
リンセは苦手なことが顔に出にくい人物だ。何かあっても包み隠す技術に長けている人間だ。知られていないのも当然と言える。
「そんなわけだから、悪いけどクロ抜きでいいかな」
シロエの言葉にギルドメンバーは各々頷いた。
そうして〈記録の地平線〉メンバーは3日目の祭へと繰り出した。
彼らが向かった「のみの市」では武器や防具をはじめ、家具やギルドハウスの設備、調度品や書籍や巻物、そして食料品やモンスターのドロップアイテムなど様々な物が取り扱われている。そこには遠方からやってきた〈大地人〉の行商人も数多くいた。
これだけの商品が揃っていれば当然のように物欲も多くなるというもの。トウヤは新しい
一同が祭を満喫している間にも時間は過ぎていき、あっという間に日が暮れた。そしてアキバの街は後夜祭へと突入していく。そこでは様々な人たちの様々な会話が繰り広げられていた。〈記録の地平線〉メンバーも大多数がそこに混ざって祭の間の互いの健闘をたたえ合っていた。
こうしてアキバの街の転機となった“10月の『天秤祭』”は、そのトラブルを知るものも少ないままに幕を閉じた。
*
朝から自室に引き篭もっていた私だったが、予想に反して誰も私に祭に行こうと誘いには来なかった。おそらくシロエが何らかの配慮をしてくれたのだろう。その気遣いに感謝しつつ、お礼に書類でも減らしておいてやろうといくつかシロエの部屋から持ち出し、祭の賑やかさをBGMに処理を始めた。
いくら祭で賑わっているからといっても誰もいないギルドハウスは相応に静かである。私がペンを動かす音と紙が擦れる音、そのくらいしか部屋の中に響く音はない。
「……静か、だな」
ぽつりと呟いてペンを置く。そして、座っていた椅子の背もたれに体重を預けて天井を見上げた。
こんなに静かなのはいつぶりだろうか。この世界に来てからはほとんど誰かと一緒に過ごしていたから体感としては本当に久しぶりだ。
静かなのはいいことだ。余計な雑音が入ってこない。その分自分自身で考えることも多くなるのだが、自分を見返す時間というのも大事だろう。
そんなことを考えながら休憩もどきをしていると、耳元で念話の呼び出し音が響いた。誰だろうと意識を向けると、そこには驚きの人物の名前が表示されていた。
それは、佐々木さんの名前だった。
どうしてと思うのが半分。心当たりがあり苦い顔になるのが半分。なんとなく嫌な予感がして私は少しだけ躊躇った後に念話を繋いだ。
「……もしもし、佐々木さん?」
『ごめんなさいね、こっちから連絡してしまって』
佐々木さんの落ち着いた、けれど、少しだけ申し訳無さそうな声が聞こえる。
彼女たち〈Colorful〉は私がギルドを抜けて以来、自分たちから私に連絡を取ってくることがなかった。おそらく今念話してきている佐々木さんを中心にして私に自分たちから連絡を取らないというルールを決めていたのだと思う。そうでなければマキあたりからは頻繁に連絡が来ていたはずなのだから。彼女たちがそんなルールを定めた理由は私が勝手に推測して語るものではないだろう。
さて、そんな彼女たちの取りまとめとも言うべき佐々木さんからの念話だ。彼女がルールを破ってまでしてきたということは、やはり例の彼女の件だろう。
「それで、用件は何かな?」
『ええ。一昨日ラァラが直接うちに来たわ。それでマキと一悶着あってね』
なんでも売り言葉に買い言葉でマキがラァラに手を上げたらしい。短絡的というか、思い立ったらすぐ行動というか、すぐに手が出るのはマキの短所である。初めて〈記録の地平線〉のギルドハウスに来たときも同じことをしていたとまだ古くない記憶を思い出した。
そして、マキの短所を引き出すようにあえてラァラはマキを煽る言葉を並べ立てたのだろう。マキが行動で示す反面、ラァラは言葉で相手を攻撃するのが得意だった。そんな彼女たちは昔から相性が良くなかったのだ。
本当ならあなたに言うべきことじゃないし私たちの中で解決するべき問題なのだけど、と佐々木さんは声を落とす。
『彼女は私たちの中でも特にあなたのことを崇拝していたから、一応報告しておこうと思って』
「あー、うん。それはなんとなく知ってるし、アキバに来ていることも知ってた」
『でしょうね。〈Colorful〉を脱退したラァラがあなたに連絡しないなんて考えられないもの』
念話の先にいる佐々木さんは少々呆れたような声色だ。呆れているのはおそらくラァラの盲目的な崇拝に対してだろう。
『気をつけなさい、リンセ。あなたはあなたが思っている以上に周囲に影響を及ぼしているの。あなたに何かあったら黙っていない人間が少なくとも1ギルド単位でいることを忘れないで』
「それは、責任重大だなぁ……」
『逆に言えば、あなたの一言であなたに手を貸す人間が少なくとも1ギルド単位で存在するということよ。昨日みたいにね』
うわぁと何とも言えない辟易とした声を漏らすと佐々木さんはクスクスと機嫌が良さそうに笑っていた。
『昨日のことだけど、私たちはみんな好きであなたの手助けをしたのよ。直接念話をもらったロゼッタなんて本当に大はしゃぎだったもの。逆にマキはずるいって拗ねていたけどね』
「うん、マキのことは想像に難くない」
きっといつもみたいに加減せずにロゼッタの肩を大いに揺らしていただろう姿は容易に想像できた。思い浮かんだ光景に呆れたように笑えば、佐々木さんも念話の向こう側で小さく笑った。
『それじゃ、用件はそれだけよ。また何かあったらいつでも連絡してちょうだい』
「あっ、佐々木さんちょっと……!」
それだけ言うと、佐々木さんは私の言葉も聞かずにさっさと念話を切ってしまった。過去のあれこれはもう気にしていないから、そっちから連絡してきてくれてもいいと伝えようとしたのに。もしかして、それを察してさっさと念話を切ってしまったのだろうか。佐々木さんは自分がこうと決めたことは頑なに変えようとしないから。
しかし、また言う機会はあるからいいだろうと私はその話題を頭の片隅に留める程度にしておく。そして、中断していた書類仕事の続きを再開した。
そんな私に例の彼女から連絡が来るのは黄昏時のことである。
*
天秤祭最終日。夜闇の中、シロエはギルドメンバーと離れてアキバの街の南の外れにある廃墟にやってきていた。そこで彼はある人物と落ち合う予定を立てていたのだ。けれど、それは失敗に終わった。取り決めていた場所には目的の人物ではなく1人の〈大地人〉の女性がいたのだ。ダリエラと名乗った人物、彼女に対してシロエは濡羽と呼んだ。すると彼女は艷やかに笑う、どうして分かったのかと。シロエは勘だと言ったがそれは強がりだった。ここで会うはずだった人物とは別系統ソースから得た情報と直感にすぎなかった。
西の総領、濡羽。シロエは彼女に用件を問うた。せっかちだと笑う彼女は殿方に合わせましょうとシロエの問いに答えた。
「シロ様を誘いにきたんです。〈Plant hwyaden〉へ。――わたしの隣へ。わたしと共に歩き、わたしを守ってもらうために」
「なぜです」
「いったままですわ。シロ様のことが欲しいのです。……恥ずかしい話ですけれど、シロ様のことはずっと以前から存じ上げていました」
その話自体は驚くことでもない。シロエも濡羽も〈エルダー・テイル〉では人気のない職業である〈
シロエはそう思っていた。けれど、濡羽は違うという。シロエが特別だから、濡羽はそう言った。
彼女から語られる言葉は徐々にシロエを絡め取っていく。他の誰でもなくシロエを乞いにアキバまで来たということ、嘘か本当かも分からない不器量な女の物語、
シロエにとって濡羽の持つ技術と情報は興味深かった。彼女の創り上げた組織の力を用いれば今よりずっと何もかもが手に入れやすい。それは効率がいいと言ってもいい。現実への帰還を考えるならば最短ルートと言えるだろう。
――いや、そんな理屈は言い訳だ。
自分を特別だと呼んでくれる誰かはひどく魅力的だった。求めてくれるという存在はただそれだけで理由になり得た。
濡羽の誘いに頷きかけたシロエだったが、そこに1つのノイズが響く。
――シロくん。
雫が1つ湖に落ちるように響いた音は誰よりもシロエの近くに在った唯一の声だった。とても小さな小さなひとしずくだった。けれどそれはシロエにとってどうしても手放せないひとしずくだった。縋ってはいけないと、甘えてはいけないと思いながらも離してやれない手だった。それだけは彼女の言葉がなくともシロエの中の「確信」であった。
ぱちりと1つ瞬きをするとシロエの中にあった誘惑への熱が霧散していく。
目の前の濡羽の言葉は、確かにシロエの自意識をくすぐった。濡羽を止められるのは自分しかいないのではないか、と。目の前の濡羽の存在に、確かにシロエは責任を感じていた。そこに罪はなくとも罪悪感を感じていた。
だからこそ。彼女はきっと言うのだろう。
――君はもう気付いたんでしょう?
触れ合うほど近くなった距離で濡羽はシロエの耳元に唇を寄せる。自身を言い訳に、理由にしてくれと。自身を言い訳にしてありとあらゆる我が儘なことをしてもいいのだと。けれど、理由は理由であって言い訳にはなり得ない。それを肯定してしまえば行動の結果そのものを貶めることに他ならないからだ。
できるはずがなかった。触れ合った指先を、感謝の微笑を、あんなに楽しかった夜通しの宴を、左右からつきつけられた甘味を、みんなで出掛ける広大な原野の冒険を――握り返した白い手を、貶めることなんてできるはずもなかった。
〈
シロエは、濡羽を“言い訳”に使うことを拒むように彼女を押し剥がす。
「貴女が話した『作り話』は全部真実だということに
シロエがそう告げると濡羽の表情が凍り付いた。彼女は諦めきれないようにシロエの瞳を覗き込み、失意し、それでもなお縋るように唇を震わせる。
「……なぜです?」
シロエはそんな彼女の心情が手に取るように分かった。それはあの日の自分と、彼にとっての唯一である彼女に覆されたときの自分と同じだったからだ。だからこそ、強引に彼女の手を引いてしまったシロエが濡羽の手を取るわけにはいかなかった。
「貴女の味方になるよりも、貴女の敵でいた方が、貴女の願いに添えるでしょうから」
シロエはようやく自らの意思で濡羽の瞳を見る。そして、自分の意志を確認するように一語一語明瞭に口にした。その言葉が剣のように濡羽に突き刺さる痛みを共に感じながら、シロエはひんやりとした濡羽の頬に触れる。
「いずれ貴女が理由を探すときのために、敵でいることにします」
その言葉が鎖となる音を聞いた。そしてそれを聞いたとき、濡羽は1つの言葉を思い出した。それはシロエと会う前、ラァラを通じて対面した彼女の言葉だった。
――自分を言い訳にしないことをお勧めします。
誰よりも真っ直ぐに濡羽を見た彼女は、誰よりも濡羽に近く、そして、誰よりも濡羽に遠かった。
*
〈記録の地平線〉のギルドハウスの屋上。
少しだけ風に当たろうと思って来てみればそこには先客がいた。ビルを突き抜けている大樹の下、静かに座っているその姿は。
「……クロ?」
夜風に揺れる白い髪は見間違いようがなかった。近付いて顔を覗き込んでみれば固く瞳は閉じられている。どうやら寝ているようだった。
ふわりと白い髪が夜風に靡く。すると普段は隠れている右目が前髪の隙間から覗いた。そして同時にうっすらと残る傷跡も。静かに手を伸ばしてクロの顔の右半分を覆い隠す前髪を耳にかける。さらさらな髪はそれだけじゃ完全にどかすことは出来なくて、何束かはするりと落ちてきてしまった。けれどクロの素顔を見るには十分だった。
閉じられた瞼、綺麗なラインを描く睫毛は長く、1つ1つの顔のパーツは整っており、作り物のように端正な顔立ちをしていた。芸術品とでも言うべきだろうか。あまりにも整っているそれは人によっては恐ろしく感じることもあるんだろうなと思う。人形が怖いと思うのと同じ心理だろう。だからこそ、その顔に残る傷跡が彼女を“人”にしていた。
そっとその傷跡に触れてみる。その傷跡に覆われた瞳は現実の世界では星を宿したような銀色だった。
後天性虹彩異色症。それがその星の名前だった。この世界ではアバターの設定の関係でその色を見ることが出来ないのが少しばかり残念な気もした。
過去に思いを馳せながらクロの目元に触れていると、彼女の瞼がピクリと動いた。驚いて思わずパッと手を離す。
ゆっくりと瞼が開かれていく。そしてそこから深い夜の空を写し取ったかのような、それでいて澄みきった黒曜石が姿を現した。少しだけ宙を彷徨った瞳はぱちりと1つ瞬きをすると僕の方をゆっくりと見つめる。
「おはよう」
眠りから覚めたクロにそう言えば、うん……とぼんやりとした返事が返ってきた。まだ十分に覚醒していないらしい。ぼんやりしているクロの目の前で手をひらひらさせるとクロは露骨に顔を顰めた。
「変態」
「は!?」
覚醒第一声がそれ!? と思わず突っ込んでしまう。けれど、続いたクロの言葉に色々飲み込まざるを得なかった。
「だってシロくん、この距離にいるってことは私の寝顔ガン見してたでしょ」
「う……」
言葉に詰まった僕を見てクロは面白そうに笑った。
「今更シロくんに寝顔見られても何とも思わないけどね」
まあ思わないだろうなと思った。僕だって今更クロに寝顔を見られたところで何とも思わない。下手をすれば家族よりも一緒の時間を過ごしているかもしれない相手なのだ。それだけの時間が僕らの間にはあると自負していた。
クロが自身の隣を指差した。座ったらどうだということらしい。それに甘えて僕はクロの右隣に腰をかけた。
また1束、さらりとクロの前髪が顔にかかる。
「……君くらいだ」
呟くような小さなクロの声が響く。
「何が?」
「そういう風に私の傷跡に触れるのは」
問いかければクロはそう言って静かに目を伏せる。なぜクロが突然そんなことを言ったのかいまいち予想がつかず僕は首を傾げた。それが分かったのか、クロは再び小さく呟いた。
「君は、本当に大事なものに触るように触れるよね。最初にこの傷の話をしたときなんて半泣きだったじゃん」
「ず、随分懐かしい話するね……」
カァッと顔に熱が集まるのが分かった。ちょうど夢に見たと言ったクロは、ゆっくりと目を開いて僕の顔を見るとクスクスと笑う。その笑い方が幼い彼女に一瞬だけ重なった。
それはもう10年以上前、彼女と出会ったばかりの頃の話である。
照れくさいやら恥ずかしいやらでクロから視線を逸らす。すると笑っていたクロも徐々にその笑いをおさめていく。
「色々お疲れ様、シロくん。どうにか大きな問題になることなく天秤祭終わってよかったね」
「うん」
クロの言葉に小さく頷く。
あれから〈円卓会議〉に対する攻撃は途絶えて、僕たちは久しぶりの休日を楽しむことが出来ていた。クロも最終日である今日だけは苦手なものから離れて休息を取れただろう。
視線の先にあるアキバの街はすでに夜に沈み、篝火に照らされた中で開かれていた後夜祭も終幕に向かいつつあるようだった。
「あ、そうそう」
そういえばとでも言うようにクロが声を上げた。その声に誘われるように僕は視線をクロへと向ける。
「濡羽さんに会ったよ」
世話ばなしの延長のように平然と語られたそれは、世話ばなし以上の衝撃を含んでいて。
「どういうこと!?」
僕は思わずクロに詰め寄っていた。僕の剣幕に驚いたらしいクロは、うおっ!? と声を上げると僕から距離を取るように身を引いた。
「どういうことって、そのままの意味なんだけど……」
あちらこちらに視線を彷徨わせたクロは困惑したように眉を顰めた。言葉を待つように見つめていればクロは小さく肩を竦めた。
「一緒に来てほしいって誘いを受けただけで。それはお断り申し上げたので大丈夫だと思うよ」
「本当に?」
「本当に」
額を人差し指と中指で押されて距離を離される。そしてそのまま指を丸めると、クロはビシッとデコピンをしてきた。そこまでの威力ではなかったけれど突然の攻撃に目を瞬かせる。そんな僕の視線の先でクロは幽かな微笑みを浮かべていた。
「君はどうなの?」
その言葉に、ああやっぱりと思った。知っているんだ、クロは知っている。僕も濡羽さんに会っていたことを、そしてクロと同じように誘いを受けていたことを。
「僕も断った」
「そう」
僕の答えを聞いてクロはやっぱりなとでも言うように肩を竦めた。
彼女は今の西の状況をどこまで知っているのだろう。全く知らないということはまずないだろう。知らないのならば、西――斎宮家が“外記”の名を下賜する準備をしていたことも知らないはずなのだから。けれど、知っていたとしても確信の持てない情報は隠してしまう悪癖が彼女にはある。隠す理由はよく知っているしその気持ちも分かるから裏切りだと思うことはないけれど、それでもどこまで把握しているのか知りたいという感情は少なからずある。
聞いたところで答えてくれるのか。いや、きっとクロは答えてくれない。分かっている、結局は彼女から話してくれるのを待つしかないのだ。
こういうところは昔から分からない。解像度が足りなくてはっきりしない。本当に大事なところ、彼女の感情が付随する部分は。
ある程度までは分かる。読み取れる機微は存在する。けれど、彼女が壁を作って立ち入らせないようにしている部分はどうあがいても察することが出来ない。こちらの考えを読んでくるくせに理不尽だと思わなくもないが。
でも、それが
「なーに1人で納得してるの?」
そんなクロの声とともに突然視界のエフェクトが切り替わった。何だと思って目元に手を当てればそこにあるはずの眼鏡がない。ということは。
「ちょっとクロ、眼鏡取って何する……」
「いやぁ、指紋でベタベタにしてやるって宣言したくせにしてなかったなと思って」
「しなくていいよ、そんな地味な嫌がらせっ!!」
クロから眼鏡を奪い返そうとするも、僕の動きを読んでいるらしい彼女はひょいひょいと僕の追跡を逃れる。それを何度か繰り返して満足したのか、クロは唐突に僕に眼鏡を掛け直した。それはいいのだが視界が恐ろしいくらいに不明瞭だ。
「うっわぁ……すごく汚いんだけど」
「まあ、触りまくったからね」
白く霞む視界の先でクロは楽しそうに笑っている。その笑顔は出会ったときから変わっていない。
――一緒に遊ぼう!
そう言って僕の手を強引に掴んだあの日から。
それでいいと思っていた。僕はそれでいいのだと。
耳にかけた前髪はすでに彼女の右目を覆い隠していた。
*
黄昏に沈みつつあるアキバの街。彼女はギルドハウスを出てある場所を目指していた。
その場所にやってきたリンセはそこにいる〈大地人〉を目にして僅かに目を細めた。
「おかしいですね。私はラァラに呼ばれてここに来たんですけど。まさかこんな形でお会いするとは思っていませんでした、濡羽さん」
「うふふ……わたしの名前を知っていてくれたのですね」
過去に2度すれ違ったことのある〈大地人〉を見てリンセはそう言った。相手もリンセがそう言うことが分かっていたかのように言葉を返す。
若葉色の髪が黒く濡羽色に変わっていく。白い肢体は身体のラインを美しく写し取る黒衣のドレスに包まれていく。そこにいたのは〈Plant hwyaden〉のギルドマスター“西の納言”濡羽だった。
「てっきり用があるのはシロエの方だと思っていましたよ」
「ふふっ……」
リンセの言葉に濡羽は小さく笑うだけだった。けれどリンセにとってはそれだけで十分だった。たった1つの笑みでリンセは彼女の目的も行動も全てが見えてしまった。だからこそ、彼女は意図せずに先手を打ってしまう。
「別にシロエは私の物じゃないし、彼があなたと一緒に行くっていうのなら見送りますよ」
その言葉に濡羽は少女のように目を瞬かせた。どうして、と口にしようとした濡羽だったが、それよりも前にリンセが動く。
「斎宮家の方にも関わる気はありませんので、そのようにお伝えいただければと思います」
斎宮家と〈星詠み〉の間には切っても切れない関係があった。彼女も〈星詠み〉へと転職する際に彼らと接触して転職クエストを受けていた。
そもそも、ここ〈孤状列島ヤマト〉における〈星詠み〉は〈大地人〉の間では聖職として認知されている職業である。星の巡りを司る専門家で国の行く末を導く祭事を為すこともある〈星詠み〉は、実務的な政を為す貴族と表裏で統治を行う重要な存在だとされている。〈ウェストランデ皇王朝〉が滅んだ後、聖都イセにおける〈星詠み〉の宗主である斎宮家が〈神聖皇国ウェストランデ〉を興してからはさらにその傾向が強まったという歴史も存在するのだ。そんな〈神聖皇国ウェストランデ〉ひいては斎宮家が
リンセの発言にまたもや濡羽は目を瞬かせた。そして若干の畏怖を覚えた。
ここでリンセに出会ってからずっと濡羽の瞳を真っ直ぐ射抜き続けている彼女の瞳に、自身の最奥、腐り果てた内側を全て見透かされているような気がした。薄汚れていて、さもしげで、みすぼらしい物乞いの彼女を見つめられているような気がした。そんなはずはないと濡羽は思うが、直後そんな考えすら目の前のオブシディアンに読み取られていると感じてしまった。
その予感は正確であり、リンセは濡羽の奥にいる彼女に気付いて小さく目を細める。それは人の感情をも察してしまうリンセの勘が濡羽の傷に触れてしまった証拠だった。触れた指先が小さく痛み、それを“遠ざけなければ”と彼女の中の優しさが働く。
濡羽の足が一歩退く――その前にリンセの白い手が濡羽のそれを絡め取った。
「濡羽さん」
ひとしずく、湖に落ちるようにリンセの声が響いた。その音は濡羽の鼓膜を揺らしその奥の脳髄に抵抗なく浸透する。
「私はあなたを否定しません」
濡羽の心臓が音を立てた。ドクン、ドクンとまるでここにいることを主張するように。
するりとリンセの指が濡羽のそれに絡みつく。そして絡んだ指が一定のリズムで濡羽の手の甲を叩いた。それは幼子を慰めるかのように。
濡羽にリンセの言葉の意図は分からなかった。けれど、リンセが濡羽という皮の内側にある彼女を見つけて、その上で肯定してくれたのだと。濡羽はただそれだけは理解できた。
薄汚れていて、さもしげで、腐り果てたドブのような彼女を厭うことなく、リンセは何も纏わぬ白い手で触れてくれた。腐敗しきった水に嫌がることもなく足を踏み入れ、ぐちゃぐちゃに濡れ果てた身体に駆け寄り、壊れ物を扱うように優しく包容してくれた。
リンセの温度を指先で感じながら濡羽はここまで伴を許した〈吟遊詩人〉の言葉を思い出す。
――リンセ様はわたくしの唯一なのです。
――あの方はわたくしに居場所をくれたのです。
――ここで生きていていいのだと。
――わたくしの愛は愛たり得るのだと。
思い返し、反芻し、濡羽は錯覚する。
――“この人こそ自身の特別なのだ”と。
そして本来の目的であったけれど様相を大きく変えた言葉を口にする。
「リンセ様、ぜひリンセ様にも私の元に来てほしいのです」
濡羽はその名の通りの色をリンセに向ける。リンセはそれを真っ直ぐに見つめ返し、けれど言葉を返さなかった。ただじっと見つめ続けるだけのリンセに濡羽は失意の眼差しを向ける。
「駄目ですか? やはり一番ではないと……」
「なぜ?」
濡羽の言葉を遮ったリンセはどこか無感動な瞳で濡羽を見ていた。
「なぜ、“一番でなければ受け入れてもらえない”と思ったのです?」
濡羽と同系色の、だが明確に違う瞳を向けながらリンセは続けた。
なぜと問われたことに濡羽はなぜと思う。人は誰かの一番に、誰かの特別であることに惹かれるものではないのか。だからこそ一番ではないと受け入れてくれないのではないのか。
リンセは濡羽の考えを読み取って小さく首を横に振った。そして絡めた指に力を込める。
「こうして手を握ること、これは私にとって特別ではありません。濡羽さんは嫌ですか?」
嫌ではない。
言葉に誘導されるように濡羽は首を横に振る。
「濡羽さん、仮に私があなたを求めたとします。ええ、それはもちろんたった一つを望んだわけではありません。嫌ですか?」
嫌では、ない。
再び濡羽は首を横に振る。何かを乞うように、何かを恐れるように。
「つまり、そういうことです。私はあなたに一番を求めません。それでも、あなたが幸せになれる未来を望みます」
リンセはそう言って笑い、濡羽の手から己のそれをほどく。消えていく温度に濡羽は僅かにリンセの手を追うように自身のそれを伸ばした。けれど、再びその手が繋がれることはない。その事実に気付いた濡羽はガラリと何かが崩れ落ちる音を聞いた気がした。
「だから、彼に会う前に1つ忠告しておきます」
砂の城だった錯覚が崩れ落ちて目の前に現実が現れる。そこにいたのは神様でもなんでもない1人の女だった。
「あなたはきっと最後に言葉を間違えるから……自分を言い訳にしないことをお勧めします」
全て覆い隠す笑みでリンセはそこに在った。その姿は濡羽のように偽りだったかもしれない。けれど、その麻薬のような
リンセはそれだけ言うと踵を返して去っていく。その背に揺れる白い髪がリンセの誠実を示しているようだった。
彼女は誰よりも真っ直ぐに濡羽を見つめた。そして、誰よりも彼女という存在に近く、誰よりも濡羽という存在から遠かった。