もしもExtraのラスボスが甘粕正彦だったら 作:ヘルシーテツオ
やっぱエロ尼さんを出すと年齢制限は避けられませんな。
天地に注がれる歓びの
天には雲、地には花、大気に満ちるは快なる甘味。
そこはまさしく極楽浄土。総てが楽に満ち足りて、総ての悦がそこにある。
名を、殺生院天上楽土。
あるいは、裏側のムーンセル中枢部。
虚数に浸される月の裏側、その深淵よりたどり着けるもう1つの月の聖杯。
聖杯の裡にて編まれる光の繭星、そこでは1人の化生が誕生の時を待っていた。
数多の欲、数多の魂を受け入れて。
流れ込む膨大な情報量の奔流に、その命は秒単位で死と転生を繰り返す。
その苦痛は推して知るべし。だがそれさえも化生に至る身には悦楽に変ずる。
苦痛による絶叫は同時に艶やかな嬌声を含み、繭星の内にある存在は苦と楽を共有しそれを愉しんでいた。
「調子がいいことだな。俺もお役御免でなんとも清々しい気分だよ」
天の繭星を仰ぎ見るのは、
人から化生へと変態していく己のマスターを眺めながら、少年のカタチをした厭世家は容赦なく毒を吐く。
「まったく醜い。臆面もなくよくもそこまで悦楽のみに耽られるものだ。
信念に邁進する者でも、王聖を遵守する者でもない、こんな淫蕩と我執しか頭にない女が万能の座に至るとは!
ああ、まったく何とも嘆かわしい! 世の無情というやつを呪うばかりだよ、俺は」
己が
衆愚が謳う正義の姿、民草を治める王者の権威、一切合切無価値と断じて。
我が司る理こそ至高。憚ることなく確信を込めて断言する。
――人という生き物は"幸福"を求める動物である。
地球に生きる人間以外の動植物たちを見るがいい。
彼等の在り方は極めてシンプル。生物の本能に従い、生きるために喰らい増えるために繁殖する。
その中で人間だけが無駄に塗れている。不必要な行為が多すぎる。
生の糧を得るための食に美味を求め、繁殖のための性交に愛の情緒を求める。
何故こんなにも無価値なものに傾倒するのか。優れた知性を獲得しながら、どうしてそんな当然の矛盾に気付けないのか。
故に、化生は悟る――――その無価値さこそが人間の本質であると。
無意味に見えるそれらの行為、全ては人が感じる快の喜びに通じている。
愉悦に浸り、快楽を貪り、堕落を楽しむのは、心の欲望を満たすがためだ。
ならばより広義に捉えるならば、人が生きる目的とは即ち幸福を感じることに他ならない。
人の思考が思い描き、心が判断して実行する行為の全ては、自らの幸福に繋がっている。
正義も国も、つまるところは幸福を得るために用いる手段、道具に過ぎない。
万象すなわち幸福の絶頂に至るため。それこそ
ならば良し、貴方がたが至るべき涅槃はここに在る。
無限に蕩け合う快楽の渦は一瞬にして永遠の極楽浄土。
一切の苦を捨て去って、己という極楽に全てを委ねてしまえばいい。
「ふん、ではおまえは万能に至った神の座で何を願う。
淫靡にして醜悪、その最低最悪な本性のまま、世界の総てを己の情欲の海に沈めるか」
愚問なり、答えるまでもなし。
己の"救済"こそが至高の価値観。そう信じて疑っていないから迷いもない。
菩薩とは、悟りを求めし衆生という意味を持つ。
それは同時に、人々と共に在りて悟りに導く存在であると意味している。
悟りの境地に達して尚、衆生に救いをもたらすために菩薩は自ら地に残るのだ。
――ゆえにその化生の名は、魔性菩薩。
諸法無我など猿の戯言、果徳とは蹂躙するもの。溢れ出る六欲に溺れるべし。
堕落に誘うを是とし、快楽のままに果てるを救いと説く。生が苦行であるならば、その生こそを捨て去るべきと厚顔に言い放つ。
世界を蕩かす退廃の救済、この世で最も邪悪な救世者がここにいる。
「結構結構好きにしろ! 元より物を書くしか能のないこの身は最弱のサーヴァントだ。
魔人になるおまえを止める術など持たんし、何より己の作品には最期まで付き合うのが物書きの責任だ。それがどれだけ吐き気のする怪作でもな!
しかしだ、マスター。その欲望を成就するには、倒さねばならない障害が残っているぞ」
その指摘に、耽溺を楽しむばかりの化生の思考が、止まる。
「おまえの得た権利は不正規だ。如何に管理能力を持ったAIを呑もうとも、不正は不正。
正規のルートで獲得した真の
そう、化生の経てきた過程とは不実と謀略で構築されている。
己の毒で狂わせたシステムの一部、ずれ出した歯車の狂いを最大限に押し広げて、化生はこの座に至った。
言うなれば不正規ルート。目的のために過程は問わないとはよく言うが、それでも不正規となるのは正規品より価値が低いからだ。
すでに正規ルートの到達者がいる限り、化生の万能は完全ではない。世界を蕩かすという欲望は、その事実がある限りは果たせない。
そんな己の現状を再認識して、化生たる"女"は情愛に熱く濡れた。
確認されるまでもない。無論、承知の上だ。
むしろそれこそ望むところ。女が目指した本命はそちらにある。
世界を蕩かす己の欲望。無論そこに嘘はない。だからこその熱情である。
あらゆる物事に優先順位があるように、それこそ自分にとっての最優先事項。
女が欲している世界の景色。
そこに映るのは有象無象の衆生などではなく、たった1人の"男"なのだから。
「そうか。ならば俺から言うべきことは何もない」
マスターの心中を聞き入れて、従者たる童話作家は物語が己の手を完全に離れたことを理解する。
舞台が始まったのなら、演出家は疾く舞台より立ち去るのみ。出来る役割などもう何もないと悟っていた。
「せいぜい求める心のままに、その
俺の考えていた顛末とは異なったが、まあこれはこれで悪くはなかろうさ」
立ち去っていく従者。それきり女はその存在を意識の彼方に忘却した。
代わり胸の内を占めるのは、これより相対する意中の相手。
それを思うだけで、ああ、身体は熱く火照り出す。子宮は疼き、股ぐらからは蜜が溢れ出す。
身を苛む苦痛も、女にすれば自慰に等しい。感受する総てを性的快楽に変えて己の欲求を満たすのだ。
人を捨てて神に至る? そんなものは手段であって目的ではない。
この化生変化もまた同じ。これは言うなら衣装替え。
殿方との逢瀬を前に身なりを整え化粧を直す、女として当然の嗜みだ。
受け入れる総ては、そのために。
万象を司る権利に手をかけながら、真実に求めているのはそれのみだ。
悪性は変わらない。しかし唯一無二を求めて邁進する姿には、かつては無かった意志が宿っている。
――――そして、女の変化は完成した。
肢体をあますことなく晒す格好は、扇情的な魅惑と同時に淑女の慎ましさがある。
男性ならば、いや女性であったとしても惹かれずにはいられない蠱惑の魅了。
まさしくその姿は『
一点の異形である、頭より生えた暗黒の双角。それさえも女の人外たる美を際立てていた。
それは有史以来最も破綻した理。
貴方がたは総じて虫けらに過ぎぬから、天地に人は我だけが居ればいい。
遍く
その天に『咒』を付けるなら、随喜自在第三外法・快楽天。
他者を貶め悦楽に浸るを善しとする究極の自己愛、異界の災厄が如き天魔が降り立った。
新しい身体、新しい世界の感触を、女だったモノは存分に確かめる。
思ったほどの異物感はない。すでに感覚はこの肉体を受け入れている。
それよりも沸き上がってくる万能感が素晴らしい。何にでも手が届く、何事をも為せると実感できる。
これが聖杯を手にするということ。数多の英傑が求めたという話も頷ける。確かにこれは善いものだ。
だがそんな感慨も、この空間への侵入者を感知した瞬間に忘却した。
機を窺ったような登場は、まるで女の変化を待っていたかのよう。
いや、実際に待っていたのだろう。"彼"はそういう男なのだ。
それをこうして、自分と同じ位階へ至るまで待っていた。それが男の内にある実に稚拙な欲求からきていることを女は知っている。
ああ、なんという愚か者だろう。
仏の悟りからは程遠い。我欲のままに男は生きている。
そして今なら分かる。そんな貴方だからこそ、自分はこんなにも惹かれたのだと。
「――ああ、ようやく、わたくしを見てくださいましたのね」
そうして女は、焦がれに焦がれた想い人を迎え入れた。
「見違えたな、その姿」
変化を果たした魔性菩薩を、嫌悪のない純粋な感心で甘粕正彦は迎えた。
「その
いいぞ、今のおまえの姿ならはっきりと見える。俺が見るべき輝きだ」
属性は問わない、突き進む意志こそが素晴らしい。
それは魔性が相手であっても変わらない。むしろこの
かつて捨て置いた頃とは違う。劇的なその変革を、甘粕は心から歓迎していた。
「あ……」
そんな甘粕に対し、女の様子は毅然としたものとは程遠い。
端的に言えば、初々しい。かつて幾人もの欲を蕩かした魔性の女とは思えない。
それでも演技の類ではないことは明白だった。男であれば理性が切れる仕草の魅了は、作り物では到底引き出せない。
それはまるで無垢なる
蠱惑の艶やかさとは異なる、別の形での女性の美点がそこにあった。
「……困りました。思い募ったものはたくさんあるはずですのに、言葉になりません」
「どうした? 今さら恥じ入る
「もう、だってわたくし……人前でこんなに緊張するなんて、始めてのことなんですもの。
格好だって、もっと抽象的なものになると思っていましたのに、こんなふしだらな……。
殿方を前にこのような姿を晒してしまっては、わたくしとて羞恥の1つも覚えますわ」
不貞腐れて答えようとして、はたと気付く。
ここに至るまでにこんな初歩的な事項を失念していたことに、女の面は恥で染まった。
「……ああ、本当に、わたくしったらどうしてしまったのでしょう。
こうして貴方様を前にする今の今まで、どうお呼びすれば良いかさえ思い至っておりませんでした」
「そんなこと、好きに呼べばいい。どう呼ぼうが袖にはせんよ」
「好きに……? で、では、御名前でお呼びしても?」
「二言はない。好きにしろ」
「それでは……ま……正彦、さん……?」
恥じらいを浮かべながら、思い焦がれた男の名を呼ぶ女。
その姿はまるで、己の中の恋心を持て余す純真な少女のようで。
「ああ。ならば俺も倣おうか。――なぁ、"祈荒"」
「っ! あ、うぅ……」
己の名を呼ばれて、女は身を震わせた。
それは純粋な喜びの表れだ。常人にも理解できる当たり前の感性で、女は喜びを感じている。
恋の熱に浮いた乙女ならば誰でも生じる、ただ好いた男に名を呼んでもらう、それだけの喜びを。
「さて、ここらで1つ宣してみせてくれるか。
月に昇り、神に至り、数々の難行を超えて俺のもとまで辿り着いた意志、認めよう。
言いたいことがあるのだろう。その胸に秘めたる思いを、俺に示してくれ」
「……ええ、そうです。そのために
未練がましい女だと自分でも思いますが、分かっていても抑えられません。
こんな気持ち、以前には想像することも出来ませんでした」
自身の思いを伝える、それだけを求めてここまで来た。
幾多の難行を経て、神の位階に足を踏み入れたのも、総てはそのために。
それだけのためにと他人は言うだろう。だが女からすればそれこそが真理。
万人に語り聞かせる大義名分など要らない。誰より
総ては募りに募ったこの心の熱を伝え届けるために。
万感の思いを込めて、女は正直な己の気持ちを告白した。
「愛しています、正彦さん――――だからこそ、わたくしは貴方様を蕩かしたい」
女の陰に、魔が帯びる。
「貴方様の持つ欲望の捌け口になりたいのです」
「貴方様という存在を使い尽くして、わたくしの快楽を満たしたいのです」
「その生涯を、その信念を、甘く蕩かして無価値にして、わたくしだけのものにしてしまいたいのです」
恋する乙女の姿のまま、女は己の
忘れてはならない。
この女は魔性菩薩、在るがままに異端である。
如何なる過程を経たとしても、己を抑制する殊勝さなど持ち合わせない。
相も変わらぬ女の裡は、愛する者を己の欲望のままに蹂躙し尽くすことに一点の疑問も抱いていない。
「――素晴らしい。愛という感情が至る極点の輝き。見せてもらったよ感服した」
そして、そんな女に見初められた男もまた、条理の価値観を超越した魔人である。
「求めるがままに欲し、奪うがいい。それがおまえの持つ愛のカタチなのだろう。
その
「ああ、いいぞ美しい。今のおまえにならばそそられるよ」
女の在り方は異端である。甘粕にとってもそれは変わらない。
人の自立心を理念に置く彼の質を考えれば、害悪と言い切ってしまっても良いだろう。
それでも尚、己が信じる思いで突き進む
「ええ、そうですね。あなた様はそういう方ですもの。分かっておりました。
――であるからこそ、許せない。認識を改めさせねばなりません」
そんな男の賞賛を受け取って、女が見せたのは明確な怒気だった。
「貴方様の言葉はわたくしだけを指したものではございませんでしょう?
人間皆等しく、精進する総ての意志を愛していらっしゃる。他を欲することなく、天より見守る父のように」
「さすが、と申しあげておきましょう。貴方様の愛は父性の慈愛、偽りなき善のカタチです。主神の裁きを呑み干したことも頷けます」
ですが、と声音に威を込めて女は続ける。
「わたくしにはそれが我慢なりません。皆を平等に慈しむことは、個人への執着が皆無であるのと同意でしょう。
許せるでしょうか、意中の殿方が他の有象無象に目移りしているこの現状を。ええ、認められるはずがありません」
「わたくしは貴方様の総てを独占したい。互いが互いを求める欲情に従って、満たされる快楽の先で果ててしまいたいのです。
なのに入れあげているのはわたくしだけ。肝心の貴方はつれないまま。わたくしを見ていてもどこか上の空。心はこちらを映しきっていない。
駄目なのですよ、それでは。今この瞬間、世界には貴方様とわたくしだけ。それ以外が入り込む余地なんて微塵もないのですから」
「ああ、なんと浅ましいのでしょう。仏門を志す身としては考えられない堕落です。
貴方様のせいなのです。個に執心し欲を狂わせた悪性に堕ちたのも、ひとえに貴方様がわたくしを壊したから。
知ってしまったら戻れません。身に染み付いてしまった悪性は、もはや拭うことが叶わないのです。この胸に灯った熱は、こんなにも苦しくて、気持ちがいいものなのですから」
魔性菩薩たる女は、自らを善として定義してきた。
如何に破綻した価値観、数多の者を破滅に追いやった悪性とはいえ、女の中では善行なのだ。
個に執心せず全を慈しむ、それは仏道においても善行と言える行為。
少なくとも女の中では、己の行為をそのように理解していた。
だが此度のこれは違う。
己の成したい事でも、同列には扱えない。
個人を欲してその存在に執着する、その行いは仏道にて定義すれば紛れもなく悪。
故に女は理解している。道を乱され我執に囚われた己は、悪性への堕落者であると。
――だが、思い違えることなかれ。
いかに繕おうとも、女の性質は魔性。人を惑わし破滅へ誘う悪質こそ本領。
その内面の方向性、善と悪のどちらに傾く方が強大であるかは語るまでもない。
「ですから、正彦さん。貴方様が愛する人間はわたくしだけで良いのです。
神にも等しいその愛を、わたくしという
己は女、女は女。
男性には想像もつかない領域で、己は愛に生きている。
この愛に広さはない。狭く閉じた価値観は、それ故に深度が計り知れない。
その深さ、女でなければ理解不能なその密度を、しかと思い知らせてやらねば気が済まないのだ。
「ならば成し遂げてみせるがいい。これほどに情熱を抱いて迫った女を拒んでは男が廃るというものだ」
そんな女の求愛を、尚も揺るがぬ強き意志で甘粕正彦は迎え入れた。
「端的に言ってな、おまえの在り方は受け入れられん。
俺の愛する人々の輝き、困難に奮起し立ち向かう勇気の意志と、悦楽に誘い生命の力を折らんとするおまえの欲望は対極だ。
おまえに聖杯は渡せん。俺の後継として認めることなど論外だ」
「そう、俺にとっての相容れぬ障害、つまり試練だよ。俺の信念と真っ向から反逆する意志が、こうして俺の前に立ち塞がっている。
避けては通れん。宿命は俺に突破せよと言っている。真逆であればこそ、残るのは意志で勝る者となるだろう。我が
「その果てに迎える敗北ならば、おまえのものになるのも一興だろうさ」
男と女が向かい合う。
互いの視線が交錯し、その瞳には相手の姿を映している。
交わした睦言も彼方に置いて、二人にあるのは独善的に邁進する狂愛のみ。
彼等の愛は互いの存在を尊重しない。我意のままに蹂躙することを良しとしている。
傍から見れば異常だろう。これほどに自己の欲望に傾倒した愛情も他にあるまい。
それでも彼等は知っている。互いに向けあう感情は確かに相手に対する愛であると。
互いに向かって両者が歩み出す。
距離が縮まる。交わす視線ははっきりと相手を捉えている。
間近まで迫った両者。手を伸ばせば相手を抱き寄せることも可能になったその場所で、
二人は己の
男が降り下ろす軍刀。女が繰り出す掌の拳法。
刃が女の柔肌を斬り裂き、掌底が男の肉体に抉り込まれる。見れば両者の技法は完成され、威力、速度ともに超一級。
だがそんな優劣など二人の戦いでは重点とならない。ここに至れば武器の差など無意味、技量の質すら些末である。
互いに人を超越した魔人同士。そうと思えば条理の法則を覆すなど容易いこと。通常の武技を競い合って何になるだろう。
究極に近づいた両者であればこそ、そのカタチは陳腐になる。彼等の戦いとは、そのような簡潔極まる一言にて言い表せる。
渇望する想いの質量、どちらがより強く自己の欲望を押し通せるか、単純明快な闘争がそこにあった。
その最中、魔性菩薩たる女が感受するのは歓喜の恍惚。
受ける痛みが心地好い。流れ落ちる血が熱い。
痛みの一つ一つが
もっと痛みを、もっとこの快感を与え合おうと、魔性菩薩はその魔技を振るう。
「不浄、辛苦、無常、無我、奥義――四天道!」
詠天流・四念回峰行。
分身とも見間違う高速の四連打。その技の質は
迎撃は英霊の技量でも不可能と言える領域。逃げ道を取り囲んでいく四点打撃は、それだけでも必殺足りえる脅威である。
その魔技を、甘粕正彦は真っ向から迎撃する。
正面からの繰り出された第一打。斬り払う。そこに背後からの第二打が奇襲となり、甘粕の身を穿つ。
続く第三打、第四打。だが先の二打で対応を見抜いたのか、一閃の内に捌き切る。
仕上げとばかりに渾身の力で放たれた五度目の打撃、そこへ返礼にと軍刀の斬撃を浴びせかけた。
鮮血が散り、女が退く。
攻防を制したのは甘粕正彦。攻め手たる女の方がより深い傷を残す結果となった。
「ふ、ふふ……あぁ痛い、痛いわぁ……うふ、うふふふふ……」
だがその顔に浮かぶのは苦悶ではなく、絶頂に至ったような至福の表情。
男から与えられる刺激の総ては、魔性菩薩たる女にとっては最上の悦楽へと繋がっている。
「斬られた痕が熱い、血が流れ出す感覚が冷たいの。ああだけど、こんなに痛くて苦しいのに、それさえも甘く蕩けそうな快感に感じられる。
ねえ正彦さん。これは貴方様の愛なのでしょう? 貴方様がわたくしを見る、貴方様がわたくしに触れてくる。それだけなのにこんなにも満たされるのは、これが貴方様の愛だからなのでしょう?」
「無論だ」
情欲に狂う魔性菩薩に、甘粕は動じることなく肯定を告げた。
「俺が与える
受ける苦痛に屈するな、立ち上がり勇気を示せ。そこに現れる光こそ俺が求めてやまないものだ。たとえ何色であれ、な」
信じる思いに熱意を乗せて、口にするのは異質なる親愛のカタチ。
彼等は互いに自身の愛を信じている。たとえ理解されなくとも、揺らぐことのない己の信念で。
常人が共有する価値観など二人の間では無意味。なぜなら二人共、己の欲する心のままに人類すら超越する意志で臨んでいるのだから。
その信念の強度は神の域に達している。彼等の意志を挫くことが出来るのは、同格である互いの存在のみである。
「故にその輝きに対し容赦もせん。生半な光であれば粉砕されると覚悟しろ」
宣告と共に繰り出すのは、甘粕正彦の有する兵器創形。
展開される戦略規模の兵器群。一個人に向けるには過剰すぎる火力を、躊躇うことなく振り下ろした。
標的の女はおろか国1つさえ焼けるだろう総威力。如何に魔性菩薩といえど、その大破壊をまともに受ければ砕け散るのが必定である。
「まあ、まあまあ、そんな無骨な
だが向けられる女に、その脅威に対して恐怖する様子はない。
むしろ白けると言うように、嘲りの笑みを浮かべながら鉄の殺意を眺め見た。
視界に映る兵器群、それを包み込むようにして手を広げる。
「無粋、ですわ」
そして広げた手が閉じられた瞬間、そこに存在していた兵器も消失していた。
「作り物ではもうわたくし、とても満足できません。
この肢体を剥き出して、思うままに蹂躙するのは貴方様の御手でお願いいたします」
開かれた両の手から出てきたのは1立法センチほどの小さな
それこそが消失した兵器群の成れの果て。その体積も破壊力も極限まで圧縮された凝縮体である。
それは実際の手に収まる範囲だとは意味しない。全体像さえ視界に収まれば数kmもある巨大構造物だろうと圧縮できる。
「ほう――」
だがそのスキルは本来、魔性菩薩のものではない。
本当の使い手であった少女は今、魔性の権能の一部として取り込まれている。
ならば、それの意味するところは――――
「内に在る者の力を使ったか。我欲に耽溺する化生として面目躍如といったところかな」
「クス、ええだってこんなにも甘くて美味しいんですもの、彼女たちの心は。
貴方様への愛を知って以来、こういう乙女心がいっそうの好物になりましたの。その味わい深さがよく分かります」
優しく女が撫でるのは、自身の変化のために取り込んだ少女たち。
全ての発端となった少女、その少女のエゴから生まれた少女たち。総てが女の手により狂わされ利用された哀れな犠牲者だ。
利用されている己への慚愧、自分たちの願いを踏み躙る女への怒りは、女の一部と化して尚も抵抗の意志を示している。
それはなんという意地であろう。あるいはかつての女ならば、彼女等の意志こそが敗因となり得たかもしれない。
「今のわたくしには彼女たちが理解できる。それはつまり、蕩かしてわたくしのモノにすることも容易ということなのですよ」
そんな少女たちの矜持を、女はいとも容易く蕩かす。
その無念も、その怒りも、唯一無二たる彼女たちの恋心ですら、女の舌の上で転がされる果実に過ぎない。
総ての欲望は女のモノ。求め欲し執着する心を持つ限り、魔性菩薩の手の平からは逃れられない。
「貴女はわたくし。わたくしは貴女たち。さあ、共に
完成された欲界が少女たちを包み込む。
それは圧倒的な快楽の芳流。叛逆の意志までも蕩かされて、余さず女の欲となって同化した。
これにて女を阻む要因はいなくなる。
溢れ出る欲望は一切の容赦なく、求める男を蹂躙するために発揮される。
それは即ち、同化した少女たちの
「感じましたる
「みんなが私を怖がる。みんなが私から離れていく。
ああどうして、私は普通なのに。どうしてそんな目で私を見るの?
私は悪くない。だってみんなが虐めるから、壊れていくのは私のせいじゃない。
だからお願い、この手を取って。私のことを好きでいて。
どうしても愛されず憎まれるなら、潰して壊して、身も心も私のモノに」
初手に吐き出されたのは、異形の巨腕を持った欠けた少女。
争いに向かない気質、傷つけられることを恐れる臆病さ。それらとあまりに不釣り合いな悪鬼羅刹が如き破壊の力。
限定された認識障害により自身ではその力を自覚できない。故にその少女は無垢なるままに破壊を繰り返す。
見るべきものを見ようとしない。その愛が辿る末路は愛する人すら壊して潰す悲劇しか有り得ない。
ならばいっそ壊れたままでいい。潰して小さくしてしまえば、傷つけられることはなくなるから。
盲目に鎖された自閉の愛情。純心無垢なるその想いは、だからこそ子供のように残酷だった。
「この腕に抱かれてください――――
伸びてくる巨悪の腕。対象への愛が深ければ深いほどに、その追跡は精度を増す。
愛しい人を捕えて離さないために。独占愛に懸ける想いの重量こそこの腕の力だ。
ならばこそ絶対に逃げられない。女が抱くこの
射程も速度も超越した領域で、巨腕は男を確実に包み込んだ。
「我も人。彼も人。ゆえ対等、基本である。
万人に当て嵌めるべきこの道理。まして愛する者であればまずもってそうであろうが」
男を捕らえた巨腕の
閉じかけた腕がこじ開けられる。盲目的に求める
「己を見ず、相手を見ずに、それで愛がなんだと語るなど片腹痛い。そんな惰弱な想いに捕われるほど、俺は不抜けてはおらん!」
そして振るわれた軍刀の一閃が、両の巨腕を粉々に打ち砕いた。
傷つくことを恐れ、自閉に囚われたままでは光はない。
如何に狂気の域にある熱情であろうとも、一方通行のままでは歪みは正されないのだ。
それでは正道をいく信念には届かない。そう信じるが故に甘粕正彦にとってこの結果は必定だった。
「では次はいかがでしょう。彼女の愛は、今のわたくしと少々似ているもので」
次に解き放たれた欲望は、刃が如き孤高の鋭利さを持つ少女。
己という世界に一点の汚点も許さなかったプリマドンナ、それも今や女の欲界の一部。
憤死級の屈辱であろう現状でさえ、蕩かされた欲望は一切の狂いなくその権能を振りかざす。
「感じましたる
「私の愛に理解は要らない。全ては私の中で完成しているから。
話し合う行為は必要ない、それほど強く愛してる。
触れ合う行為は必要ない、その程度の刺激では物足りない。
愛を告げられる事も必要ない、相互理解なんて求めてないから。
だからどうか、愛しい人。目を閉じて口を噤んで無価値になって、私の中に蕩けて下さい。
名前も人間性も捨て去って、私という揺り篭の中で、永遠に幸福でいてほしい」
理解も共感も求めない、自らが信じる愛のカタチこそ至高とする快楽のエゴ。
その在り方は一切の人間性を認めていない。たとえ愛する者でもそれは変わらない。
総てが人形であればいい。身も心も甘く溶かして己の中で一つになれば良いのだ。
それこそが真なる幸福のカタチ。そうして垂らされた
あらゆる倫理に囚われない完結した愛情。己の快楽こそ相手の幸福と疑わないから容赦もない。
「私と一つになりましょう――――
男を呑み込む水流の渦。それは対物理より対心にこそ真価を発揮する。
良識・道徳を溶かし共同体を崩壊させる毒の渦に浸されて、しかし甘粕正彦は揺らがない。
「自らの在り方こそが絶対と信じ、揺らぐことなく孤高を貫く気高い信念。
なるほどその姿は美しい。どこまでも己の理念を信じ抜く、そうした輩が俺は嫌いではない」
「だがあいにく俺は人形ではない、人間だ。
おまえが他者の価値など知らんと言おうが、俺とてそちらの幸福論など知ったことではない。
侵略されれば抵抗する。当たり前の道理だ。有象無象を対象に取るような毒では俺には足りんよ」
そうして揺らがぬままに振るわれた剣閃が、蜜毒の海を二つに断ち割った。
容易く砕かれた二人の
甘粕正彦の持つ
故にこうなることは分かりきっていた。それは魔性菩薩たる女にしても同様の認識であった。
行使する力では甘粕正彦を打倒できない。
それを理解しながら繰り出した理由を問えば――――理由なし、と答えが返る。
そう、意味なんてない。
ただ好きなのだ。趣味なのだ。
少女たちの
最低最悪なその感性。そんな己こそ善しとして、魔性菩薩はその無意味さに興じている。
無駄な趣向、無価値な行為。
その無意味さこそ悦楽の本質と捉える魔性菩薩にとって、自身の行動は何一つ疑問に感じることはない。
大局的な目的があろうと目先の欲に囚われる。その無軌道ぶりはどこまでも欲に忠実な享楽思考だ。
そして無論、求め欲する相手がいるならば、その執着は己の物とするまで収まらない。
「この娘は貴方様もお気に入りでしたね」
持ち出されたのは、始まりの少女。
ある一つの目的のために月の裏側より聖杯を手に入れるべき行動した。
繰り返される戦争の輪廻に一石を投じた、裏側で起きた戦いの発端となった者だ。
「ムーンセルを狂わせるために作り出した因果の一つ。上手く事が運べば万々歳、いかずとも二の矢三の矢と用いていく心算でしたが。
まさかこんなに上手く、わたくし好みの展開に事が運ぶなんて、この娘には感謝してければいけませんね」
少女の行動が発端ならば、その行動の動機を作ったのが女である。
元は一介の管理AIに過ぎなかった少女。
そもそも少女にはそんな行動に思い至れる機能がない。マスターたちの健康管理というルーチンワークをこなすだけの機械に等しい。
そこに一滴の
その欲望の正体とは、自分に手を差し伸べてくれた相手への、初心で儚い恋心であった。
「おかげで退屈せずに済みました。若人たちの甘い逢瀬のひと時、年甲斐もなくこそばゆい思いでしたわ。
その純情も、決心した行動も、見ていて本当に飽きませんでした。ですから最期まで、わたくしのために役に立ってくださいね」
そしてそんな少女の思いを知り、尚も踏み躙るのが魔性菩薩。
たった一つ胸に抱いた恋の気持ちさえ玩具にして、己のための武器として使用する。
「感じましたる
「自身に残されたのは一夜の記憶。繰り返される時間の中で重ねた蜜月の一時。
特別でないアナタ。どこにでもいる
そんなアナタの差し出してくれた手が嬉しかった。私にとってそれは、何より貴い奇跡だった。
だからアナタのために駆けましょう、38000光年の闇の中を。
世界がアナタを殺すというのなら、私こそが世界となる。たとえ自分が壊れたって構わない。
だって残像のような私にとって、アナタとの思い出こそが本当の真実だから」
語られるのは、少女が秘めた想いの全て。
自己の破滅さえ厭わずに創造主へと挑んだ勇気も、全てはそのために。
胸に灯った想い、それが無為に消えることが耐えられなかった。
自分が間違っているとは分かっている。この行動があの人の意に沿わないものだとも。
それでもその残酷な運命を許容できなかった。あの人が辿る結末を容認できなかった。
たとえ世界を壊してでも、大好きなあの人に生きてほしかった。
少女の想いに大義や理想はない。
誰しも抱ける恋心、そこに懸けた想いの深さ。
それは弱者であった者の矜持。勇気を持って挑んだ意志は、世界をも侵し得る力となる。
「私の影は、世界を覆う――――
膨れ上がった影の津波。世界を犯す虚構の陥穽が男に襲いかかった。
広がる影の正体は、原初の女神の大権能による
大地を生み出した地母神、万物の大元である『根源』に根ざした力。
その情報を写し出し、使用者が望むままの世界で、今ある世界を握りつぶす対界・対星の宝具である。
母なる女神の権能は、父たる主神の権能と同位にある。
ゆえにこの影は打ち破れない。まして万物の創造主という側面では、原初にて名が失われた女神の方が格上だろう。
大地に生まれた者は母なる神の権能には逆らえない。それは生命のシステムそのものへの反逆を意味する。
最大規模で展開される母神の抱擁は、たとえ原初に対抗する力があろうと防ぐことは敵わない。
「唵・摩訶迦羅耶娑婆訶――――」
その不可能に対し、真正面から挑むのが甘粕正彦という男である。
何者も逆らえない女神の権能。
そこに例外があるとすれば、それは魂の在り方が問われることになる。
大地を離れ、宇宙を目指し、知性体としての幼年期が過ぎた時こそ、この権能は破られる。
それこそが母なる者の願い。名を失った女神は子の巣立ちの時を待っているのだ。
だからこそ甘粕正彦は立ち向かえる。
己の意志力で限界を超え、人間の枠組みを凌駕した男。
猛り燃えるその魂は、とうに
「――――
世界を生み出す創造の権能に対抗するのは、世界を平に新生する破壊の権能。
曰く、
金銀鉄の三都市を焼き尽くした
「ふ、ふふ――」
「ク、ハハ――」
共に最高格の神威同士のぶつけ合い。
それはまさに人類史に類を見ない頂上の決戦だろう。
共に人の領域を逸脱した力を行使して、もはや神話の戦いと呼んだ方が適切だ。
そんな神にも等しい闘争を繰り広げながら、二人はどこまでも人間の欲望で戦っていた。
「あっはははははははははは!!!」
「アッハハハハハハハハハハ!!!」
大笑する二人。
充実感が身体を巡る。楽しくて仕方ない。
漲る力を思うままに行使する喜び。唯一無二の全能者では決して味わえない高揚感。
いま世界は彼等だけのモノ。共感する唯一人の同胞として、互いの存在を強く意識し合っている。
募る想いが増す毎に、その欲望も強くなる。
男を求める女の欲求は、ここに至って最高純度の昂ぶりを見せていた。
「――済度の時です。生きとし生ける者、全ての苦痛を招きましょう」
故に、魔性菩薩の持つ"真の宝具"の開帳が宣言された。
そう、ここから先こそ真骨頂。
これまでの少女等など所詮は児戯。互いの欲望を滾らせるための前戯に他ならない。
通じない事は分かっていた。己が愛する男がそんなもので果てるわけがないと。
その漢気を蕩かし尽くし、絶頂の快楽へと誘うのは己の手管でなければならないのだから。
「衆生、無辺、誓願度、歓喜、離垢、明地、焔、難勝、現前、遠行、不動、善想、法雲。
十万億土の彼方を焦がし、共に浄土に参りましょうや――!」
その宝具とは、人類全ての欲望を受け止める大地母神、あらゆる欲の捌け口となる生贄の在り方。
人々の意識を己の内へと招き入れ、何十億という快楽の渦で構成される楽土を築き上げる。
それは知性を持ち、欲望という感情を構築できる生命であれば誰であれ逃れられない極楽浄土。
知性構造が異なっていようとも関係はない。そこに欲がある限り防ぐことは不可能だ。
なぜならこれは苦にあらず。総ての知性が求めるべき楽の極地がそこにはある。
たとえ一瞬でその人生を昇華させられたとしても、呑まれた者らは本望なのだ。それほどの快楽が女の中には渦巻いている。
知っていても逃れられない。知っていてさえ求めてしまう。欲望の化身たる魔性菩薩には抗えない。
人類総ての欲望を呑み込んだ快楽天、それをたった一人の男に向けて解き放った。
「――――
何十億の快楽が渦巻く混沌。
勇気も信念も蕩かし堕とす楽土の地獄。
魂の尊厳を否定する堕落の法に、回避という概念など何の意味もなさず、
混沌の中へと甘粕正彦は呑み込まれていった。
絡み合う蜜と蜜。溶けて混じり合う甘露の海。
交わり喘ぐのはその精神。一切の虚飾を脱ぎ捨てた裸の自分。
肉欲を介した快楽など二流の児戯。真の絶頂、最高の愛欲は魂の逢瀬の果てにこそ訪れる。
「あ―――ああぁ、ああああああああああ!!!」
女が嬌声を響かせる。
受け入れた男の欲望に貫かれて、早くも女は絶頂に達していた。
「ああ、イイ、いいわぁ……最高!
すごいのぉ、こんなの始めて! こんなに
無理ィ! こんなの駄目ぇぇぇ! わたし、すぐに
なんと濃密な人生であろうか。なんと雄々しき信念であろうか。
こんなにも剛直な生命には出会ったことがない。まぎれもなく過去最高、並び立つものなどない快感だ。
何度
貴方の気概がこの身を焦がす、その勇気に満たされる。
己と相反する欲望のカタチ、その熱さが突き抜ける度に身悶える。
ああ、心地好い。人類最上級の強き在り方、それが自分の掌の上にある。
今よりこの益荒男の総てを蕩かす。その果てにあるだろう快感を思い、欲情は堪らぬ疼きを感じていた。
「さあ、わたくしとまぐわいましょう。
万色一体となった魂の閨で、裸になった心と心で交わって
どうかこの快楽に身も心を委ねて、何もかもを捨て去って溺れてしまいましょう」
快楽浄土の理が駆動する。
如何なる正義、矜持を抱こうとも逃れられない悦と楽の混沌流砂。
呑まれた者は沈んでいくのみ。底知れない気持ち良さに抱かれながら、その人生の総てが蕩かされる。
そんな他人の快楽がそのまま己の快楽に変じていく。自であり他である天は、万事が自己愛に完結した欲界。
すなわち他化自在天。総ての善悪欲望を受け入れる器。欲望の権化たる魔性の神格。
「ああぁ、だけど……どうなのでしょう?
こんな極上の人生を味わってしまったら、わたくし、他の
女に思い浮かぶのはそんな懸念。
快楽の絶頂、その究極を知ってしまった果てに、はたして自分が満たされるモノが地上には残っているのか。
有象無象の生など、
他者の中に快楽を見出す魔性菩薩にとって、それは死活問題かもしれない。
「まあ、好いですか。後の話など、どうでも。
この瞬間に身を貫く快楽こそ総て。今に満たされていれば、
懸念に対しそのように結論し、女はただ快楽に耽る。
その在り方はどこまでも欲望のままに。今の快楽にのみ向いている。
それ以外のことは全て無価値。どんな懸念があろうとも、女の欲望は止まらない。
「あぁいえ、いっそそれなら、ああぁ、あああああ!!!
二人共この至高の快楽の果てに、身も心も溺れ尽きてしまうのも悪くないかもしれません」
「そうです、それがいいわ。それこそわたくしの愛にふさわしいカタチ。
ねぇ正彦さん。満たされたこの六欲の浄土の先に、共に至るべき涅槃へと旅立ちましょう。
究極の悦と楽の果て、重ね合わせた心身の中で入滅を遂げる。ああ、それはなんて禁忌に満ちた甘い響きなのでしょう!」
「だから、さあ! 人生も、信念も、余計なものは総て捨て去って、欲望のままに溺れましょう。
ああ――ああぁ、ああぁぁああぁあ!!! ああああああああああ!!!!!」
その欲望が男を蕩かす。
人類さえも、世界さえも犯し尽くす甘い蜜に、雄々しき人生が、抱きし理想が蕩けていく。
知性あるもの全ての天敵。人が人たる証である欲望、それを支配する魔人には誰も敵わない。
そこに例外があるとすれば、俗世の欲望から解放された真なる
あるいは――
「どういう……ことですか……?」
人類規模の女の快楽、それすら凌駕する欲望の持ち主しか有り得ない。
「そんな馬鹿な、ありえるはずがありません。何十億という人の欲望の渦なのに……!
その我慢強さ、貴方の意志力は人類の総体にすら匹敵しているというの!?」
蓄積された人生の経験も、胸に抱いた
だがその奥底、大本たる部分に通った一本の芯はどうあっても蕩かすことが敵わない。
そこより放たれる雄々しき輝きが、女の欲望を撥ね返し逆に砕いていく。
「が、あああ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!」
響き渡ったのは悦楽の嬌声ではなく苦悶の絶叫。
男より溢れるもの、それが女の欲望を氾濫させ器に亀裂を生じさせた。
それは単純な許容限界。人類の総体の欲望を呑み込んだ女の天に、更に同質量の異物が叩き込まれたことで許容できる範囲を超えたのだ。
もう無理だ、これ以上は耐えられない。
女の中に残った理性の声が現状の趨勢を判断する。
深入りすれば自壊するのはこちらの方。ここは一度退いて別の攻め口を模索すべき。
それは勝算を考えた確かな事実。理屈で算出した勝機を冷静に告げていた。
「――――駄目! それは、絶対にッ!!!」
そんな理性の声を、女の感情は断固として拒絶した。
女が一歩を踏み出す。
肉体の無い身の上での比喩表現だが、決して遠いものではない。
輝き溢れる男の芯へ、この氾濫の元凶となっているものへ向けて進み出したのだ。
無論、無事では済まない。
一歩の前進毎に崩壊は加速し、存在の亀裂は広がっていく。
それは痛かったし苦しかった。気持ちいいなんてこれっぽちも思わない。
悦楽こそ至上におく女にとって、それは有り得ない判断。己の快感に繋がらない苦行など魔性菩薩の在り方から外れている。
それでも女は足を止めない。
理由なんて自分でも分からない。我ながら意味不明だ。
だってこんな気持ちよくないこと、何の価値もない。常の自分なら即座に否定している。
苦しいことなんてさっさと放り出してしまえばいい。そうやって楽な事だけを求めていれば、自分は――
「いいえ、それは駄目よ。だって――――」
仮初めの意志が剥ぎ取られる。
元よりここにいるのは裸体の魂。その人間にとっても最も正直な部分が曝け出される。
その真意、魔性の深淵の中より現れる本音、それがようやく、女から吐き出された。
「ここで逃げ出してしまったら、この"恋"までが無価値になってしまうじゃない!!!」
それこそが、女の本音。遥かな内に秘めていた真実の気持ち。
他人の人生に悦楽を見出してきた女。
それは即ち悦楽を他者に依存すること。裏を返すなら、己の人生には何の悦楽も見出せなかったことに他ならない。
魔性の奥に隠された根底の歪み。己自身ですら気付いていなかった欠落に、ここにきてようやく気付く。
他人を無価値と呼んだ女。
だが本当に無価値だったのは、そんな風にしか世界を見れない自分自身だ。
何も持ってない自分。空っぽな自分。
そんな空っぽな器だから、他人なんてものを受け入れられた。
受け入れてその価値を貶めて、己というちっぽけな自尊心を満たしていた。
ああ、なんて無様――神だ菩薩だと嘯いていた己の真実が、こんなにも矮小なものだったなんて。
けれど、そんな無価値な人生の中で、本当の"価値"と出会うことが出来た。
他人の中に欲望を求めてばかりだった自分。それが初めて、自分の中から生じた欲望で動くことが出来た。
そのカタチは浅ましく歪んで、相手の幸福なんてこれっぽちも考えない自己愛であったけれど、想いを抱いたことだけは本当だ。
それを嘘には出来ない。夢見るこの想いを否定することだけは、決して許してはならないのだ。
歩を進める、想いの先へと。
崩壊していく自身への痛み。今にも崩れ落ちてしまいそうな喪失と戦いながら。
そう、戦っているのだ。生まれて初めて、女は試練に真正面から立ち向かっていた。
散々に他者を貶めてきた女。自身と同じ想いを持つ少女等を踏み躙ってきた女。それでも前進する意志だけは、真っ直ぐに。
その意志は実を結ぶ。
輝きを放つ男の芯、目指したその心へと触れる。
後には何の打算もない、胸に秘めた想いの総てを吐き出した。
「好きです――愛していますッ!! 世界なんて要らない、わたくしは貴方だけが欲しいッ!!」
ただ純粋に、真っ直ぐに、その想いをぶつける。
それは常の魔性菩薩の姿からは余りに乖離したもの。
ただ恋に憧れて勇気を振り絞る、一人の乙女の姿がそこにはあった。
「どうして、です? どうして貴方は、そうまで強く在ろうとするのです?
そんな生き方は苦しいはずです。辛く険しい道でしょう。なぜそんな道に、自ら足を踏み入れようとするのですか!?」
女にとってはそれは最も理解し難いこと。
自他に苦難を求める男の有り様。悦楽こそ真理とする女とは真逆の道。
それを理解し呑み干さない限り、この想いが届くこともないと分かったから。
「どうして、貴方は
持てる想いの全てを乗せて、女は男へと問いを投げかけた。
「――――
そんな女の想いを、男は一切の容赦なく跳ね除けた。
「ならば俺も問おう。なぜおまえは
「快楽に身を委ね、そこで得られる満足感。それでどれだけ心地好かろうが、所詮は一時のみの事だろう。
そんなものが真理? それこそが人間の本質だと? 有史以来に積み重ねてきた人の歩みを、その程度のもので語り終えて本当にいいのか?」
「俺は嫌だな、断固拒否する。人はまだまだ幼年期。
人類の旅路はまだまだこれからだ。その輝きも、発揮されるべき真価も、今よりもっと素晴らしいものが現れると信じている」
男が見るのはどこまでも人、はるか広大な世界の姿。
愛するこの人だけがいればいい、二人きりで完結する世界。そんな理屈ではこの男は縛れない。
女の提示する快楽では、甘粕正彦は到底満足できないのだ。
「ああ――、あああ――……」
「人の進歩の前には必ずや試練がある。数多の悲劇、苦難を乗り越えて初めて人は新しい領域へと至れる。
流される血から逃げるなよ。犠牲を出すまいと行動するのは素晴らしいが、犠牲が出たら認めないというのではただの逃避だろうに」
「大いなる喪失をも認め、尚且つそれを乗り越え立ち上がり、失われた以上のものを築くのだ。その行動こそ、人は勇気と呼ぶ。
そんな輝きこそ人の真価。その価値へと到達するためならば、俺はあえて険しき苦難の道を歩もう。その先にこそ素晴らしいものがあると信じているのだから!!!」
楽に人の真理を悟った女。苦こそ人に進歩を促すと信じる男。
まるで正反対な二人。どちらがより正しいか、そんな議論に意味はない。
問われたのは強度の優劣。如何に己の渇望を曲げず、その在り方を貫き通したか、意志の強さが勝敗を分かつ。
故に、すでに決着はついているのだ。
「あ、あああ、ああああああ、ああぁああああぁぁあああぁああああああぁぁぁあああああぁあああぁぁああああッッッ!!?!!?!??!?」
魔性菩薩という器が砕ける。
その内に収めた幾億という欲望が解き放たれ、権能の全てが散り果てる。
もはや抗う力はない。男の意志に弾かれて、女の意識が引き戻されていく。
「魔性菩薩。どこまでも人の楽を追求した理。だがその概念には未来がない。
ああだが否定はせん。それも人間の在り方の一つなのだろう。しかし――」
去りゆく女に、甘粕は最期に告げる。
女より向けられた愛に対する、決定的な断絶を。
「――さらばだ、殺生院祈荒。おまえの
その言葉をしかと耳にして、女は数多の欲と共に去っていった。
弾き出された外で、敗北した女は倒れた。
その身にはもう何もない。
取り込んだ少女等も、書き綴られた物語も、総てが剥がれ落ちていった。
倒れる女は、ただの女。何一つ力もない、たった一人のか弱い女だった。
「ああ……知ってます、これ……」
仰向けに倒れた顔は、上を向いている。
目は虚空を映していたが、意識に映っているのはまるで別の景色だった。
胸に渡来する空虚さ。
痛いとか苦しいとかではない。
寂しくて、悲しい。これも知らない感情だ。
勿論、気持ちよさなんて全然ない。それどころか、
女にとっては毒のような感情だ。そしてそれを拭うことは容易ではない。
視線を動かす。
見える先には恋焦がれた男がいる。
距離にすればほんの僅か。だが今はその距離が、とても遠く感じる。
自分は敗れた。この恋は届かなかった。
もはや追い求めることさえ出来ないのだと、そう理解した。
「失恋、と。そういうのですよね……」
女はただ、静かに泣いた。
倒れ伏した女。
敗北した魔性菩薩に、勝利者たる月の魔王。
その結果は誰の目にも明白。故に断罪者が誰であるかも明らかだ。
甘粕正彦が軍刀を振り上げる。
眼が捉えるのは女の姿。哀れなその姿に対し、情けを見せている様子はない。
過程がどうであれ、人類殲滅を企てた女。その罪業は明らかだ。
その存在は悪。紛れもない外道。その所業は決して許されない。
故にその処断には正当性がある。何人も貶める自己愛に耽ってきた女には、それを止めようとする者もいるはずがなく――
「なんのつもりかな?
だからこそ、女を背に立ち塞がったその存在を見咎めた。
「なんのつもりか、だと? 決まっている。
サーヴァントとは、マスターの前に立つものだ」
迷いなく言い放つ。
魔性菩薩の在り方、その最低最悪な性を理解しても尚、その忠義は薄れない。
「俺の役割は終わった。かくて物語は悲劇で閉じ、主役は己の望みを叶えられず涙を零す。
ならば最期は後始末をつけるだけ。俺の描いた主役と、地獄の底まで共にする」
ただの物書きである彼に戦いの力はない。
甘粕がその軍刀を振り下ろせば、背に置く女ごと斬り捨てられるだろう。
盾にすらなっていない。女を守ろうとする行動としては、ただ無力としか言えない。
だがそうではない。
無力であるなど百も承知だ。別に女を生かそうと考えて前に立っているわけではない。
外道と道を同じくした者としての責任を取る。これはそれだけの話。
己が描いた悲恋の物語と運命を共にする。それが作家の責任だ。
「まあ、個人的にはかなり面白かった物語だったがなぁ!
恋に焦がれ、妄想のままに突っ走り、果てには妖怪変化までしておいて、結局相手にされずにフラれる馬鹿女!
痛快だ、傑作だ! 少年少女の奮闘劇より、こちらの方が俺好みの筋書きだ」
それでも世を捻くれて見る厭世家は、敗者に対しても容赦のない毒を吐く。
自己の価値を見出せず、他者の人生を罵倒しながら語る、どこか女とも通じた在り方で。
「だが作者としては無念だ。
これはその責任だ。この結末へと導いた者として、付けるべき責務があるというだけだ」
それこそがこのサーヴァントの仕え方。
その価値基準は善悪では測れない。元より偏屈な厭世家だ。大衆の善性など皮肉混じりに目を背けるだろう。
彼にとっての光とは、懸命に幸福を求める姿。人生を懸けて自らの幸を追い求める姿にこそ、世に灯る最期の灯火と思えるのだ。
故に
たとえ結末が悲劇に至ろうとも、その結末に殉じることに何の迷いもありはしない。
そんな覚悟を見届けて、甘粕は満足げに笑みを漏らし、掲げた軍刀を鞘に納めた。
「なんだ、とどめを刺さんのか?」
「すでに決着はついた。あえて俺から手を下すこともない。
彼女とて人の輝きの一つと認めているからな。性質はどうあれ、神格にまで至った強さは素晴らしい。惜しみない賛辞を送ろう。
彼女の魔性が再び人々に仇なすとしても、それはその者たちの試練だろうさ」
「賛辞、か。要はこの最低な魔性の女も、おまえの愛するその他大勢と扱いはさして変わらんというわけだ。
ハッ、どこまでも報われんな! こいつは最低の女だったが、男の趣味までも最低とは呆れをこえて爆笑ものだ」
どこまでも毒を吐くその口は、キャスターにとって信念に等しい。
絶望の影を持ったその瞳で、世を悪しきと捉えて容赦なく現実の悪性を書き綴った創作作家。
彼の人物評はその裏の裏まで鑑定する。そして悪意を通したその口で相手の価値に駄目出しするのだ。
だがそれでも、的外れな偏見で物を言うことは決してしない。
残酷な現実を直視する童話作家は、だからこそ曇った主観で物を語ることが許せない。
「ならば次はおまえのことを知りたいな。
なあ、教えてくれよ
友好に接する中でも発揮される甘粕正彦の魔人性。
相対していることも困難な意志の重圧が込もった問いかけに、キャスターは眉一つ動かさずに答えてみせる。
「情愛だと? 馬鹿を言え、俺は人間を愛さない。こんな女にくれてやる愛など一欠片とて持ち合わせるものか。
あるいはこいつが元のまま、人を外れた神か化物の類であれば、愛してやるのも一興だったかもしれん。
だが、こいつを見ろ。これのどこが神だという? そんな大層なものであるものか」
「馬鹿で悪質で淫売で最低な、ただの人間だ。
恋を知り現実に挑んで愛に敗れた、一人の女だ」
「故にそうとも、俺が向けるのは我が舞台の主役に対するプライドだけだ。
俺が描いた物語の主役に、俺はその作者として共にいる」
迷いなく断言する。
その想いが実か虚かは分からない。それでもその口から語られた以上は、それがキャスターにとっての真実となることは間違いなかった。
「作者として、か。確かに名立たる童話作家としてはらしいのだろう。しかし――」
「俺という男の人生観は諦観に支配されている。世の物事がそう上手くいくはずがないと」
甘粕の言葉を遮り、割り込むようにキャスターが強い口調で語りだす。
「春を控えた寒い夜、男は確かな愛がこの世にあると知った。両親に捨てられ、世間に疎まれ、それでも心に優しさを持ち続けた少女の姿に、男は愛という言葉の真理を見た。
身体中が擦り傷だらけ。幸福など欠片も知らない身でありながら、必ずいつか幸福は訪れると世を慈しむ少女の在り方は一つの奇跡だと思った。
彼女の祈りは報われると思った。彼女のような人間にこそ奇跡とは訪れるべきと思った。数年後、古くからの友人である富豪の妻として迎えられて、祈りは成就したのだと確信した。
――彼女の無惨な死体が、街はずれで発見されるまでは」
「事件の顛末など関係ない。世に愛はなく、役には立たない。我々はみな醜いのだと、そんな解答も意味はない。
なんのことはない、男はただ怖かっただけだ。己が真実だと信じる愛の姿が、偽物であると思い知らされることを恐れた。
自分は碌でなしの非人間。彼女に触れる者としてふさわしくないと、そんな理論を逃げ道として、ついに女に触れることをしなかった。
幸福になるべきと思うなら、己自身で幸福にしてやればいい。その手を取って、悲惨な人生に報いるだけの幸せを贈ればよかった」
「心は安定を求めて、男は厭世家となった。人は死以外で幸福にはなれないと、そう哲学において目を背けた。
根底にある真の弱さから逃げ、世の絶望を物語にして書き綴りながら奇跡を待つ、それがハンス・C・アンデルセンという愚かな男の人生だ」
語った
他者に対するのと変わらない毒舌で、キャスターは自らの生涯をこき下ろした。
「――どうだぁ!! 俺の前で
何やら俺の弱さでも語ろうとしていたようだが、馬鹿め! 指摘などされるまでもない」
「こんなものは描き方の問題だ。読者の心証に合わせ、場面を別の視点から描くのと変わらん。
伝えるべき主観はなにか。記すべき客観はなにか。
「舐めるなよ。己自身も客観視できなくて、何が物書きなものかよ」
睨みつけるキャスターの眼光を受け、甘粕は快笑した。
「なるほど、確かに。これは余計なお世話だったようだ。
さすがは稀代の童話作家。俺如きが語れることなど端から無かったらしい」
「その通りだ。元より我が身の武器はこの口先のみ。だからこそ、たとえ一寸先にこの命が散ることになろうとも、俺は忌憚なく他人の
宣言し、キャスターはまた一つの
その対象は言うまでもなく、眼前に立つ月の魔王たる稀代の益荒男、甘粕正彦。
「結論から言えば、貴様は物語の役者として失格だ。0点どころかマイナス点だ!」
「まず主役としてはどうか。確かにその善性は読者の視点に立つのに向いているといえる。
だがそれ以外が壊滅的だ。おまえは余りに強すぎる。展開すべてがヌルゲーだ!
行動力の高さから展開に詰まることがなく、挫折や葛藤など無きに等しい。敗北しようが即座に乗り超える。
いっそ追い詰められ絶望に向かう状況へと放り込んでやればと思うが、そうなったとしても最悪だ。
どんな絶望の物語であろうが、おまえなんぞが出た時点で痛快劇に置き換わる。読者の誰がおまえに絶望など期待するものか!
初めからほぼ勝ち確定。何某ならば仕方ない、その系統の輩と同類だ」
「ならば敵役としてはどうか。これはもっとひどい!
敵役とはそもそも、倒されるべきものとして存在している。故にその悪意は明確に描写されなければならない。
悪意とはそれ自体が敗因だからな。たとえ善性の質に属していようが、悪という矛盾はその信念に決定的な弱さを与える。
魔王が持つ自己矛盾。如何に強大な存在であろうと、その弱さによって最期には正しき善性の下に討たれる。それこそ物語の王道だ。
だがおまえの場合は弱さが弱さになっていない。自己の矛盾などお構いなし。理屈がどうこうではなく単純に気にしないという阿呆ぶりだ。
結果、魔王側が正しき勇気の力で主人公を倒すという無茶苦茶が起こり得る」
「勇者をやるには限度を知らず、魔王を張るには悪意が足りない。
物を考える頭は持っているくせに、いざとなれば呆気なく放り出す。おまけにその方が強いときたものだ。
理想はある。正義もある。それらを叶えんとする気概もある。だがそれ以上に自身の欲望が先行して、何もかもを御破算にする大馬鹿者。
役割の領分を超えて暴走する個性。何処までも物語を破綻させる劇物。それがおまえという人間の本性だ」
「ああくそ! 自分で語っていてムカついてきたぞ。この
死ね! 碌に信念も背景も描写されず、ただ最強とかいうクソキャラにでもやられてろ!」
心底から気に喰わないと、世を悲観する
「的確な指摘、痛み入る。確かに俺はその通りの男なのだろう。
限界など知らん。加減など分からん。どんな物事にも全力で挑んできた。意志の力は不可能という壁さえも超えると信じている」
「それが偽りなき俺という男の姿。変えるつもりなど毛頭ない。
俺をも超えていく輝きは、その試練の先にこそ現れるものだからだ」
「……おまえの望みは、本来ならば誰でも手に入る類のものだ。だが他ならぬおまえの強さがそれを困難極まるものに変えている。
誰もおまえには勝てん。この月の誰一人として敵わんだろう。それでももし、可能性があるとすれば――」
月の魔王を打倒し得る
その可能性を持っているのは神威に至った魔性菩薩ではない。
最弱から最強へ届かせる不屈の意志。誰よりも強い心を持つ者を彼等は知っている。
この戦いも所詮は前哨戦。
月の深淵にて対峙する本当の好敵手。それはすでに決まっていた。
「幾度となく繰り返した闘争の果て、数多の可能性を集わせて俺に刃を届かせてみるがいい」
「もはや繰り返しは効かん。どうあれ聖杯戦争は終わりを告げる。
信じているぞ、その意志を。かつて見せた魂の輝き、それをも超える光を俺に示してくれ」
やがて到来するだろう勇者を思い、魔王たる男は心を滾らせながら笑っていた。
正直ちょっとやりすぎた感。
全開状態の『この世すべての欲』を破るならこんな感じかなと思います。
とりあえずこのSSでキアラの出番はこれでほぼ終わりです。
CCC編ではほとんど絡んできません。裏で色々やっていると思ってください。
アンデルセン先生の語りは結構苦労しました。きちんと原作のような的確さが出せていればいいんですが。
とりあえず愛と勇気で解決のアマカスマンは、先生には一番ムカつく相手と映るでしょう。
次でようやく最終幕です。
その後に回想のような流れでEXTRA編及びCCC編をやっていこうと思います。