もしもExtraのラスボスが甘粕正彦だったら   作:ヘルシーテツオ

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 気がついたらひと月も過ぎていた(焦)。
 途中、妙にテンションが下がって、筆が止まっておりました。 

 早めの更新ペースを維持できる人って本当にすごいと思います。



神話礼装

 砕けていた意識が再生する。

 繋ぎ合わされた意識は主体性が虚ろなまま、客観性の記憶確認を始める。

 

 

 名前の再認識。

 ――岸波白野。問題なし。

 

 状況の確認。

 ――ここは月の戦場。128人の魔術師(ウィザード)が集って殺し合う聖杯戦争。

   報酬はあらゆる願いを叶える万能の願望器。聖杯(ムーンセル)を支配し運用する権利。

   自分は勝者として、SE.RA.PH(セラフ)の海の最深部たるこの場所に到達した。

 

 事態の把握。 

 ――勝者としてたどり着いた熾天の門で待ち構えていた男。

   甘粕正彦。自分の以前に聖杯戦争を勝ち抜いて聖杯を得た。全ての元凶。

   自分は彼と対決し、その結果――――

 

 結果の了承。

 ――岸波白野(わたし)は、敗北した。

 

 

 主体性が復旧する。

 意識が岸波白野(わたし)を認識する。

 取り戻した主観は、まず今現在の状況を認識しようと行動した。

 

 目が開かなかった/目を閉ざされているのかもしれない。

 口が動かなかった/口を噛まされているのかもしれない。

 耳が聞こえなかった/耳を塞がれているのかもしれない。

 鼻が匂いを捉えなかった/鼻を摘まされているのかもしれない。

 舌が味を感じなかった/味覚に何か異常が起きたのかと思った。

 手の感覚がなかった/神経に異変でも起きているのかと思った。

 足の実感がなかった/地についていないのではと思った。

 肌の感触がなかった/脳の障害を疑った。

 全身のどこも動かなかった/よほど厳重に拘束されているのだと信じた。

 内蔵の一切が動いていないと自覚した/そこでようやく事態を認めた。

 

 五感の全てが働いていない、それは完全なる停止の世界。

 その中に在って、意識だけがある。それが今の岸波白野(わたし)の状態だった。

 

 それが単なる身体の機能不全なら、まだ希望がある。

 機能不全ならば回復の可能性がある。一分の可能性があれば諦めるのは早い。

 少なくともそう信じることはできた。どんな夢想でも縋ることができれば持ち直せた。

 

 だが、そもそも岸波白野(わたし)の肉体が、もうどこにもないのだとしたら――――

 

 甘粕正彦を覚えている。その戦いを覚えている。

 戦いの最期、アーチャーが倒れ、自分もまた撃たれたことを確かに記憶している。

 ならば今の自分は、砕かれた肉体から離れ、魂のみとなって飛散してしまったのではないか。

 

 それは恐ろしい想像だった。 

 目が開けば前を見られた。手足があれば前に進めた。

 岸波白野(わたし)に才能なんてなかったが、それでも諦めないで前進することだけは出来た。

 けれど肉体さえ失ってしまったら、本当にどうしようもない。進むことも退くことも出来ない。

 

 想像してしまえば、次に訪れるのは恐怖だった。

 何も感じられないことが恐ろしい。動けないことが耐え難い。

 叫び出したくなるが、声を出す口も喉も存在しない。

 

 誰かいないのかと声を上げる。

 返事をしてくれと必死に叫ぶ。

 手足を伸ばそうと力の限り足掻く。

 肉体を動かそうと生命の限り藻掻く。

 自分の持てる全てを総動員して、自らの存在を主張する。

 ――そうしたつもりで、もちろん全てが無駄だった。

 

 正気を失いそうだった。

 人の精神の拠り所は肉体だ。肉体を失った精神はその形を見失ってしまう。

 自分はどんな形だったのか、どんな人格だったのか、それすら見失ってしまいそうだった。

 もう考えるのを止めてしまいたい。思考を放り出してこの苦しみから逃れたかった。

 

 ……ふと、それこそが正解答なのではと、そんなことが思い浮かんだ。

 

 時間感覚すら曖昧な中、狂いそうな喪失感と戦いながら、自分は意識をつなぎ止めている。

 だがそれは何のためにだ。時間を稼いだところで事態が好転する当てなど何もないのに。

 信念だとか、願いなんて言葉もはるか昔の遠い言葉に感じられる。

 肉体は失った。後はこの意識を手放してしまえば、岸波白野は本当の終わりを迎える。

 

 終わり――すなわち"死"だ。

 その確信がある。手放しさえすればそれは訪れると。

 ただ諦めればそれでいい。こんな状態となっては死こそが救いだ。

 

 ……ああ、もう無理だ。

 これ以上は、耐えていられない。

 闇すら見えない無明。空気にすら触れられない無感。

 発狂してしまいそうだ。絶望しかないこの場所で抗う意味なんてない。

 ここには何もなくて、自分にこれ以上の先はない。それは十分に理解した。

 理解したから、後はただ受け入れるだけ。それはなんて簡単なことだろう。

 

 ――さあ、これで終わり――――

 

 ――もう何も――考えなくていい――――

 

 ――自分は――ここで――終わるんだ――――

 

 ――だから――もう――なにも――しなくて――いい――――

 

 ―――――――これで――――何もかもが―――――――――

 

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 ――――――――――――――――――――それは、本当に?

 

 

「はぁ? なに、オマエ、まだそんなコトしてるわけ?」

 

 ふと、誰かの声が聞こえた気がした。

 声そのものよりも、それを聞き届ける意識が自分に残っていたことに驚いた。

 

「もうとっくにゲームオーバーだって分かんないの? コンテニューの仕様なんてないから」

 

 ……ああ、どうやら自分は随分と死者の世界の近くにいるらしい。

 

 この声が誰のものか、自分はよく覚えている。

 自分が戦い、勝利し、その生命を奪ってきた相手を覚えている。

 どうやら往生際の悪い自分に、彼等の方から迎えにきたようだ。

 

「つうか、オマエ負けたよね。なのに自分だけ生き延びようとするとか何様?

 僕たち相手には、散々そのルール守って殺ってきたくせにさぁ」

 

 ――間桐シンジ。

 偽りの日常の中での友人。自信過剰なゲームチャンプ。

 決して褒められた人物ではなかったけれど、死なせたいほど憎かったわけじゃない。

 

「君自身が選んだ道ならば、如何なる結果でも拒むことだけはしてはならない。

 無様な悪足掻きは、晩節を汚すばかりだぞ」

 

 ――ダン・ブラックモア卿。

 祖国に仕える軍人。狙撃手として歴戦を重ねた遅咲きの魔術師(ウィザード)

 貴方の生き様に自分は多くのことを学んだ。

 

「お姉ちゃんもありすと同じになったんだね。早く一緒に行きましょう。

 あの娘(アリス)も待ってるわ。みんなでお茶会しましょう」

 

 ――ありす。

 さまよえる網霊(サイバーゴースト)。自分とよく似た境遇の、無垢な少女。

 彼女に刃を振り下ろした罪業は、今もこの胸を苛んでいる。

 

 

 ――ランルーくん。彼女のことは、結局よく分からなかった。

 

 

「もう足掻かなくていい。おまえは十分やった。後は眠れ、岸波」

 

 ――ユリウス・ベルキスク・ハーウェイ。

 ハーウェイの恐るべき暗殺者。その凶刃には何度も生命を脅かされた。

 けれど自分は彼の心に触れた。その悲痛な思いを知った今では、かつてのように見ることはできない。 

 

「理解できません。速やかな終了を期待します」

 

 ――ラニ=Ⅷ。

 アトラスなる所から来たという少女。その心は何かを探し求めているように見えた。

 あるいは少し選択が違えば、同じ道を歩んでいた世界もあったのかもしれない。

 

「受け入れましょう。貴女の力では甘粕(カレ)には届かなかった。それが結論です。

 結論が出た以上、この戦いでそれを拒むことは許されない。それは貴女もよく分かっているでしょう」

 

 ――レオナルド・ビスタリオ・ハーウェイ。

 生まれながらに勝者の道を歩んだ少年。世界を担うはずだった王の器。

 彼を失った世界はどうなるんだろう。その未来を刈り取るだけの価値が果たして自分にはあったのか。

 

 この聖杯戦争での対戦相手たち。

 自分は勝ち残り、彼等は敗者として、残酷な死の刑罰を執行されて消えていった。

 そして今、自分は敗者としてここにいる。ならば彼等と同様、自らの終わりを受け入れなければいけない。

 

 どんな道理があっても、そこだけは曲げてはならないことだ。

 敗者には死を。今まで彼等に課してきた絶対のルール。

 納得なんてしていない。それでも相手の死を承知した上で、自分は戦い勝ち抜いた。

 相手には強要し、いざ自分の番になってそれを反故にするなんて、そんな身勝手が許されるはずがない。

 

 死の防壁(デッドライン)の先、見届けてきた結末を、自分が受ける時がきたというだけ。

 彼等もまたそれを望んでいる。岸波白野によって命脈を断たれた者たち、その資格はある。

 疑問の余地はない。自分は甘粕に敗北した。残された力なんてなく、後は潔く結果を受け止めるのみだ。

 

 

 ――――――――――――そう思っているのに、納得できないのは何故なんだろう。

 

 

「オマエさ、どんだけ面倒くさい奴なんだよ。ホント、恥ずかしいね。

 あーあ、身の程を弁えてたとことか僕も気に入ってたのに、いつの間にかウザい奴になっちゃったなぁ」

 

 ……うん、確かにそれは、自分でもそう思う。

 

「愚かな……。その行動は勇者の抵抗ではない。ただの現実からの逃避にすぎん」

 

 みっともない。恥ずかしい。往生際が悪すぎる。

 返す言葉なんてない。自分でもその通りとしか言えないから。

 正直、もう止めてほしい。ここで休みたい。何もかもが限界だ。

 まだ何処かへ向かわせようとする、内に秘める何かにも、無意味だと悟ってほしい。

 

「来てくれないの? お姉ちゃん、ありすにこんなに寂しい思いをさせてるのに。

 ――嘘つき!!! ありすたちに意地悪するお姉ちゃんなんて大嫌い!!!」

 

 ……ああ、責め立てる彼等の声が辛い。

 こんなものは彼等に対しての侮辱だ。怒りの声も無理はない。

 誰もが死にたくなかった。それでも最期は死の定めに消えて逝った。

 その定めを強いた自分だけが、そこから逃れようとしている。これ以上の不義理があるだろうか。

 

「俺のような、悪霊にでもなるつもりか? やめておけ、あんなものに縋っても不幸しか残せない」

 

 唯一つの執着を拠り所に、狂気の域で自身を存続する。

 そんな行為に意味はない。その救われなさはこの目でしかと見た。

 あらゆる者にとっての害悪となってまで自らを繋ぐ。その様は想像するだけでもおぞましい。

 

「あなたの生存に正当性はありません。全ての結論からあなたの自己消去を推奨します」

 

 意味がない。価値がない。行動の理由が何一つ思い浮かばない。

 あらゆる声が自分を責め立てている。その無様な姿を批難している。

 それは正しい。今の自分こそ間違っている。だから早く、この意識を手放そう。

 

「貴女が戦った理由は自らに対する無知だ。

 己が何者なのか分からない。理由も知らないままに潰えることを許容できない。その思いこそ貴女の原点でしょう。

 貴女はすでに答えを得ている。なら後は自らの罪に精算をつけるだけです」

 

 岸波白野には記憶がなかった。

 どうして月にいるのか。なぜ聖杯戦争に向かったのか。

 それが分からない内は死ねないと思った。忘れてしまった空白の中に、譲れないものがあるかもしれないと思ったから。

 

 だがそれに対する解答は出ている。

 岸波白野の存在に理由はない。その戦いに意義はない。

 戦うべきではなかった。生き残るべきではなかった。自分にそんな価値は何もなかった。

 

 だから、もういいだろう。

 生き残るべきでない者が生き残った。これはその精算をつけるだけなのだ。

 奪ってきた生命に贖罪を。あるべきでない道理は元の鞘に収まる。

 

 

 彼等のためにも、これは正しい結末なのだ――――

 

                ――――いや、それは間違っている。

 

 

 なぜだか、否定の意志が沸いた。

 贖罪だと思った。これまで奪ってきた生命に対しての。

 彼等に課してきた死に贖うため、自らもまた終わりを受け入れるべきだと思ったのだ。

 

 だけど、それは違うと思う。

 理屈で考えるよりも早く、その答えを確信した。

 終わりを受け入れようとする心の動き。その心にどうしようもなく耐え難いものを感じている。

 

 この気持ちは一体なんなんだろう。

 終わりに対し抗う意志。それを確信させるに至らしめた思いとは何か。

 彼等の声を、糾弾を、切り捨ててまで押し通す道理など――――いや。

 

「もうさぁ、オマエ死ねよ! 鬱陶しくて目障りなんだよ! ホラ、さっさと消えちまえよ!」

 

 そもそもの話、()()()()()()()()()()()

 

「もう眠れ。それが道理だ。これ以上無様を晒すな」

 

 分かっている。彼等はもういない。

 死とは決定的な断絶だ。彼等の心にはもう誰も触れられない。

 たとえその心に憎しみがあったとしても、その怨嗟の声を聞くことは出来ないのだ。

 

「死んじゃえ! 消えちゃえ! お姉ちゃんなんていなくなっちゃえばいいんだ!」

 

 ならばこの声はなんだ。

 自分のことを執拗に責め立てる声は、誰のものだ。

 

 ……決まっている。

 少し考えてみれば至極当然のこと。

 元よりこの五感の存在しない世界で、聞ける声など一つしか有り得ない。

 

 きっとこれは、岸波白野(わたし)自身の内にある声なんだ。

 

「ここで終われ、岸波。これ以上抵抗するな」

 

 死の世界から声が届くなんてない。これは全て自身が生み出した幻聴だ。

 彼等を殺した、岸波白野(わたし)罪悪感(こころ)そのものが、自身を死に向かわせている。

 

 懺悔というシステムがあるように、人の心は自らの罪に対し強くない

 いつだって人々(わたしたち)は罪業を禊ぎ許されるための機会を求めている。

 他人を自らのために死なせて、平然と心を保っていられる悪性なんて自分は持ち合わせていない。

 

 終わりを望んでいたのは、岸波白野(わたし)自身だ。

 自分が生き残るために彼等の生命を断ち切った、その罪悪を贖うための機会を求めていた。

 甘粕の告げた岸波白野(わたし)の傷。それは自身の罪悪感(こころ)が生んだ死への逃避に他ならない。

 

「消滅を要求します。完結を断言します。あなたに可能性(みらい)はありません」

 

 岸波白野は平凡だ。何度だって断言できる。

 絶対の判断を下せる王器なんて持ち合わせず、英雄のような定まった強さもない。

 自らの判断に苦しみ、その罪業に迷ってしまう、どこまでも平凡で、けれど自由な人間だ。

 

 だからこそ確信を持って言える。

 死による贖罪、その結論だけは絶対に間違っている。

 自分の命には意味がない。その生存には正当性がない。

 そんな言葉こそ言い訳だ。死を納得するための理由を探しているに過ぎない。

 

「なぜ抗うのですか? そうまでして終わりを拒む理由など、貴女には無いはずだ。

 求めていた答えは手に入れたはずです。いったい貴女に、どんな理由があると?」

 

 岸波白野の意志の発端は、自身の不明に対しての奮起。

 どうしてなのか分からない。そんな疑問だけを寄る辺にした、衝動じみた発露だった。

 では疑問の答えを得てしまえば、自分はそれで諦められるのか。自分は亡霊(ゴースト)で生命の価値はない。その答えで満足か。

 

 ――否。

 

 そも、岸波白野(わたし)は分からないから立ち上がったんじゃない。

 理由の一つではあったと思う。けれど根本のところでは違っていた。

 疑問なんて言葉じゃない。あの時の奮起は、もっと原始的なものだったと確信できる。

 

 

 ――――そうだ。きっと岸波白野(わたし)は、

     純粋に、ただ生きることを望んで立ち上がったんだ。

 

 

 死に瀕した始まりの時、自分は自らの不明を恥じた。

 だけどそれは無知であることを許せなかったのではない。

 諦めるなんて認められなかった。あのまま命を放棄することが我慢ならなかった。

 それは恐怖というよりも怒りに近い。何一つ理解のないまま死の運命に囚われる事がどうしても容認できなかった。

 

 思い出してみる。自分が戦いを決意したのは何のためだったか。

 深く考えるまでもなく、そんなものは単純明快。死にたくなかった、それだけだ。

 世界が変えようとか、人々のためにとか、そんな願いで立ち上がったんじゃない。

 ただ目先の運命が許せなくて、ひたすらに抗って生き抜こうとしていただけだ。

 

 ……そうだ。そもそも岸波白野(わたし)は、生まれてまだ一年と経ってはいないんだ。

 

 岸波白野(わたし)が単なる亡霊(コピー)で、ムーンセルからその存在が始まったとするなら、当然そうなる。

 いや、仮に元となったかつての自分を合わせて考えたとしても、それにしたってせいぜいが学生だろう。

 世界の行く末を任せられるような、そんな相手じゃない。学ばねばならないことだらけの未熟者だ。

 そんな者が世界のことを兎や角言うなんて、それこそお門違いというものだった。

 

 停滞する世界を認められないとかつて言った。

 だけど岸波白野(わたし)は、その世界を見たことも触れたこともない。

 認める認めない以前の問題だ。他人の主観だけを頼りに世界を勝手に判断するなど烏滸がましい。

 

 世界の在り方に物申す資格を持つ者。

 それはレオや凛、そして甘粕正彦のように、世界に対して真剣に向き合ってきた者たちだけ。

 自分にそんな資格はない。世界なんて大それたもの、元から自分は背負ってなどいなかった。

 世界を守るためにとか、そんな理由で戦おうとしていること自体、そもそもズレていたんだ。

 

 自分にあったのは、この命だけ。

 不正規に生まれ落ちた無色の魂。背負った過去など何もない。

 葬ってきた者たちに比べ、その命には重さがない。どちらを生かすべきか、訊ねれば誰もが同じ答えを返すだろう。

 その命は偽物だ。誰も岸波白野(おまえ)を待っていない。期待しているものなんて一つだって有りはしない。

 

 ――ああ、だけど、それでも。

 

 ――たとえ世界の全てが岸波白野の価値を認めなくても。

 

 ――岸波白野(わたし)だけは、その生命を大事にしてあげないと。

 

 命が生きることに正当性は必要ないと甘粕は言った。

 それは正しくて、優しい言葉だ。生まれた瞬間から命の価値が決められてしまうなんて、悲しすぎる。

 たとえその存在がどのようなものであったとしても、生まれた瞬間の命には何の罪もないはずだ。

 

 秩序を守る。世界を変える。

 素晴らしい信念だろう。その願いはきっと尊いものだ。

 けれど、ならばその前には個人の生存は否定されるのか?

 ただ生きたいと願う意志は、万人の望む理想の前に潰えなければいけないのか。

 

 そんなのは、違う。

 そんな結論を岸波白野(わたし)は拒む。

 間違っていると誰に言われても、これだけは譲らない。

 それが世界のためなんだと言われたって、自分自身を簡単に明け渡すなんて出来ない。

 

 岸波白野は、自身の命が失われるから戦った。

 それが始まり。それが本質。解答(こたえ)は最初から自分の中にあった。

 分からないなら知りたいと探し、己を脅かす事柄には全力で立ち向かう。

 そうしながら人は前に進んでいく。それこそが生きていくことの本質なんだ。

 

 なんていう遠回り。呆れるほどに頭が悪い。

 気づいてみれば単純明快。こんなもの言葉にして語り聞かせるようなことじゃない。

 前へ進むのは生きるために。それだけのために必死にここまで足掻いてきた。

 この命は偽物で、その誕生に正当さはない。それでもここに在る意志は本物だ。

 たとえば自分の存在が病原体となって大勢の人を脅かすとしても、最後まで自分自身を諦めたくない。

 だからきっと、倒れ伏すその瞬間まで、人々を害さずに、自分の命も救えるような、そんな道を探し続けるだろう。

 

 

 ――――だから、さあ、前に進もう。

 

 

 前に進むための手足がない。

 ――そんなことは大した問題じゃない。

 

 どうやれば届くのか分からない。

 ――そんなものは今に始まったことじゃない。

 

 諦めずに、前へ進む。

 その気概が欠片でも残っているなら、それはまだ終わりじゃない。

 どれほど無様で、みっともないものだとしても、そんな諦めの悪さだけが自分の唯一誇れるものだ。

 それだけを通してここまで来た。ならば最後まで貫かなければ嘘だ。

 

 ここで譲ってしまうくらいなら、始めから勝たなければよかった。

 殺してきた彼等に報いるものがあるとすれば、せいぜいがそれぐらいだ。

 彼等を倒してまで通したこの意志を、最後まで貫き通す。そうでなければ、彼等は何に敗れたのかも分からない。

 

 事態がどうしようもないなんて、いつもの事だ。

 やることは変わらない。元から自分に出来ることなんてそれしかない。

 ただひたすらに足掻く。たとえ身体が動かなくても、この意志が動いている限りは自ら止まることを認めない。

 いつかはこの無感の拷問に、意志も磨り減り折れてしまう時がくるかもしれない。けれどそれは今この瞬間のことじゃない。

 

 だったら、前へ。

 倒れる時がきたとしても前のめりで僅かでも先に。

 意識だけでも残されているのなら思考だけは決して止めるな。

 触れない。見えない。聞こえない。ならば意志だけでも前へと進ませろ。

 

 諦めることを拒むこの意志が負けない限りは、岸波白野(わたし)は前に進むことを止めはしない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――刹那、意識の外皮をかすめる、懐かしい声を聞いた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幻聴かと疑う。

 希望を失った心が見せた、張り子の幻かと。

 だけどこれは違うと、疑心と別の心では確信していた。 

 

 呼びかけてみる。出来なかった。

 それも当然だった。今の自分には声を出す機能がない。

 たとえ呼びかけてきた者が本当にいたとしても、今のままでは返事をすることも出来ない。

 つまりは無意味。どうにかできないものかと思考を働かせて――

 

 無感の中に、確かに感じる熱量を発見した。

 

 その熱を知っている。

 ここに在る確かな繋がりを理解して、先の見えない不安が消えた。

 

 ああ、大丈夫だ、まだ"彼"がいる。

 ならいつまでも燻ってはいられない。きっと笑われてしまう。

 呼びかけは声にならない。けれど呼びかける手段はそれだけじゃなかった。

 ■■■■■を呼ぶ。そのための手段を、自分は最初に受け取っていたのだから。

 

 あとは、ただ一言、彼の名を。

 その呼び名を忘れない。たとえ何万年の牢獄に閉ざされようと決して。

 最初に岸波白野(わたし)へ手を差し伸べた、その存在を良しと言ってくれた戦友の名を。

 

 

 ――――……来て、アーチャー……ッ!

 

 

 魂から振り絞った最後の令呪(さけび)が、その意志を外へと届かせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ああ、まったく、やはり君はそうするんだな、マスター」

 

 肉体が復活する。

 感覚が回復する。

 岸波白野のあらゆる活動が再開する。

 

 いつの間にか伸ばしていた左手は、誰かの掌に包まれている。

 鍛え抜かれた褐色肌の腕。靡かせる赤い外套。シニカルな、けれど信頼を寄せてくれる表情。

 それはよく知る彼の姿。サーヴァント・アーチャーは変わらぬ姿でそこに在った。

 

「あのまま眠っても責める者など一人もいないだろうに。誰よりも君自身がその選択を許せないらしい。

 私も大概に諦めの悪いたちとは自負しているが、君のはそれ以上に筋金入りだ。改めて理解したよ。

 どれだけ強大で、苦難に満ちた障害であろうとも、立ちはだかるのなら君は前に進むことを止めはすまい。

 ――ならば()()も、いつまでも眠っているわけにはいかないな」

 

 アーチャーの言葉がこそばゆい。

 いつも隣にいた彼の言葉が、今はとても懐かしく思える。

 それをもう一度聞けただけでも報われた気分になれるのだから、自分でも単純だと思う。

 

 けど、しょうがないじゃないか。

 アーチャーがまだ生きてる。自分にとってこれ以上の朗報はないんだから。

 少しくらいは浮かれても大目に見てほしい。

 

 ――だけど勿論、そうとばかりも言ってはいられない。 

 

「そうだな。君からすれば今の事態は理解不能な事ばかりだろう。

 そして君に言うのは心苦しいが、まだ問題は何一つとして解決していない。

 言うなれば、君はようやく事態と向き合えるようになっただけだ。立ち上がっただけに過ぎない」

 

 アーチャーが生きていたのは嬉しい。だがそれはどうしてだ。

 自分は確かに目撃している。アーチャーが甘粕によって撃ち抜かれる様を。

 あそこから一体なにが起こり、どうやって自分たちは起き上がったのか。

 

「それがまず一つ目の誤りだな。そして最大の問題でもある。

 残念ながら、私は甦ったわけではない。未だ霊核を砕かれ、地に倒れたままだ」

 

 ……何だって?

 それじゃあ、今こうして話しているアーチャーは……。

 

 いやそもそも、自分たちは今どこにいる。

 辺りを見回しても、まるで見覚えのない奇妙な場所だ。

 どこまでも広がる青の空間。その景色は深海の底を思わせる。

 真っ当に立つことは出来ているが、果たしてそれが錯覚でないという保証はあるのか。

 

「なぜこのような事態になっているのか、大まかに察しはつくが、そこは重要ではない。

 私も仔細を把握しているわけではないが、ここは私の電脳体(インナースペース)内、霊子構造の内側だ。

 君の令呪(よびかけ)で、表側で停止した意識がこちらに表出したのだろう。君自身、私と接続することで外部への接点を得た」

 

 電脳体、つまりここはアーチャーの心の中ということか。

 そして外では、自分もアーチャーも倒れたままだと。

 

「そういうことだ。残念ながら事態が好転したとは言い難い。

 そして私と繋がっている君も、このままでは復帰の見込みはない。強制帰還(ログアウト)はなく、仮に出られたところで今度こそ君の精神は行き場を失う。

 最悪な状況は相変わらず、といったところか」

 

 ……どうやら、事態は思っていたよりも悪いらしい。

 あの無感の牢獄から抜け出せても、その後が八方塞がりだ。

 死んでいないだけ最悪の一歩手前というところだが、どうしたものか。

 

「ふっ。そういう割には、君には落胆の様子はないようだが?」

 

 ……そうなのだろうか、自分では自覚はないが。

 けど仮にそう見えているのなら、きっとただ開き直っているだけだろう。

 

 勝算のあるなしとか、意味がどうのとか。

 そんなことを考えて止まってしまうくらいなら、いっそ考えなしのままでいい。

 元より考えただけで思いつくような利口な頭なんて自分は持ってない。

 ならばまずは直球で、出たとこ勝負の覚悟で挑む。臆していたら始まらない。

 我ながらどうかと思う体当たりぶりだが、諦めて立ち止まってしまうよりはずっといい。

 

 これはもう意地なのかもしれない。

 それだけを貫いた。それだけが誇りだった。だから最期まで譲らない。

 たとえ先が一筋の光明も見えない無明の闇だとしても、岸波白野(わたし)は前へ進むことを諦めない。

 

「……そうか。ああ、ならばもう一つ訊ねたいのだが」

 

「甘粕正彦。あの男について、君の私見を改めて聞かせてほしい。

 奴の信念、その願いについて君はどう思っている?」

 

 ――甘粕正彦。

 

 実際に戦ってみて、その強さはもう疑いの余地はない。

 一介のマスターを超越した力。間違いなくこの月で最強の存在だ。

 

 だけど彼の強さとは、そんな表面上の力が本質ではないと思う。

 何よりも凄まじいのは、常人を逸脱した意志の力。彼があそこまでの存在へと至ったのも、その意志の強さがあったからだ。

 信念に懸ける思いの熱量。王道とも見える強者の有り様は、これまで見てきたマスター達には無かったものだった。

 

「マスター。奴の言う楽園(ぱらいぞ)とは、極論に過ぎない。はっきり言えば、叶えさせてはならない類の願いだ」

 

 ……うん、それは分かっている。

 

「訊けば誰もが拒むだろう。己を脅かす災禍など、人々は望まない。

 奴の打倒は、ある意味で人類の総意だとも言えるだろう。それを担う君は正義の側に立っている」

 

 ……確かに、そうなのかもしれない。

 甘粕の言う世界を望む者なんてそうはいないだろう。

 試練という名の災禍を拒んで、自らの平穏を守る。その行為は正しいものだ。

 

 けれど――

 

「それでも奴を否定しきることは出来ないのは、今を生きる人々を真摯に見ているからなのだろうな」

 

 ――アーチャー?

 

「もしも甘粕正彦が、より良き未来という名の利益のためにこのような真似をしたのなら、迷わず悪だと断言できただろう。

 それがどんなものであれ、利己的な願いを追い求め、他者の命を消費する者はまぎれもなく悪。

 過去の喪失に耐え切れず、消えていった者に報いるために今を犠牲とするのは、身勝手なエゴに過ぎない。

 奴がそんな愚か者なら、オレは迷わなかった。排除すべき対象として、この剣を振るえたはずだ」

 

「……だが、どうやら奴は未来すら見てはいないらしい。

 ただ現在に生きている人々が、苦難を乗り越え立ち上がれる強さを得てほしいと、本気でそれだけを思っている。

 スケールこそ大きいが、思想自体はあまりに幼稚で、そして正しいものだ」

 

 アーチャーの言葉は、嫌悪を含んだものではない。

 それどころか、むしろ甘粕を羨むような、そんな響きさえ感じられた。

 

「正直に言うとな、奴の話を聞いていた時、オレも耳が痛かったよ。

 個人のみで完結する理想に価値はない。そんなもので救えるものはない。全くその通りだ。

 たった一人、友人だと信じられた、そんな者にさえ理解されない理想など、正しいものであるはずがない。

 理解されなかった、いやそもそも理解してもらおうと努力さえしなかった。生前のオレは、最期までその誤ちに気付けなかった。

 身勝手な理想で走り続けたオレの末路は、必然のものだった」

 

 己を責める言葉を吐くアーチャー。

 その自責を聞いて、ようやく彼の思いを理解した。

 

 『多くの人間を助ける、正義の味方になる』という彼の誓い。

 私欲を殺し、理想に徹して、彼はそんな夢のような絵空事の体現者となった。

 百人のために十人を殺す、止む負えぬ事情で悪事を犯した者を一方的に断罪する、血も通わぬような無情の機械として。

 より多くの人々を助けるという偏った正義を、彼は自ら悪だと断じていた。

 

 その結末は、信じた友人に捕らえられての法による断罪。

 けれどそれは友人が裏切ったのではない。

 人として、仲間として好いたからこそ手を貸した友人にすら、正義の下では躊躇なく敵に回れる、そんな在り方自体が友人を裏切っていたのだ。

 結局、理想のために無辜の人々を犠牲とした正義の味方の最期は、正しい糾弾による断罪ではなく、社会に不要とされての粛清だった。

 抱いた理想だけを寄る辺にしてきた一人の男は、一切の救いもなくその人間性を剥奪されて消え去ったのだ。

 

 だが、もしも、男が別のやり方を選択できていたのなら。

 多数のために少数を切り捨てる、そんな無情の在り方ではなく。

 ただ『人を救いたい』という理想を、もっと純粋に、底抜けの莫迦者のように信じられていたとしたら。

 

 そんな可能性を示す甘粕正彦の在り方は、アーチャーにとって眩しく映るものだったのだ。

 

「それを思うと、やはり悔しいな。

 サーヴァントとして在る間は口を挟むまいとしていたが、今のオレは()()として言ってやりたいことがある。

 このままで終わるというのは、端的に言って我慢ならない」

 

 それは、今までのアーチャーからは考えられない言葉だった。

 いかなる敵であれその在り方を完全に否定せず、ただ邪魔だからと切り捨ててきた英霊。

 戦闘代行者(サーヴァント)としての在り方を崩さなかった彼が、今は人らしい感情で対抗心を燃やしている。

 

 そんなアーチャーの姿は、自分には悪いものだとは思えなかった。

 

「ならばマスター。1つだけ、この状況を打開する心当たりがある」

 

 そう言ってアーチャーが指し示すのは、一本道の続く先。

 SE.RA.PH(セラフ)のダンジョンにも似た構造のそれは、底へと沈んでいくように続いている。

 

「推測が正しいのなら、この先にあるものにたどり着ければ我々は意識を復帰できる。

 それどころか、甘粕に対抗できるだけの力をも手に入れられるだろう」

 

 それは、願ってもない話だった。

 生きて復帰することすら不可能と思える現状。反撃の可能性まで掴めるなんて申し分ない。

 唐突すぎるとは思ったが、他ならないアーチャーが言うことだ。

 自分はそれを信じられる。

 

「ただし、そこまでの道のりは君だけで踏破することになる。

 私では近づけないんだ。君でなくては、"アレ"に触れることは出来ない」

 

 念を押すように、アーチャーは言葉を続けた。

 

 それくらいなら、なんてことはない。

 これまでの戦いをアーチャーに頼りきりだったことを考えれば、力になれることがむしろ嬉しい。

 

 アーチャーの示す先を見る。

 奥底へと続く道は果てが見えない。しかしそれくらいで怯みはしない。

 気力は十分、意志をしっかりと持って一歩を踏み出す。

 

 ――先に進もうとした瞬間、電流のような衝撃が身体を走った。

 

「それは警告だ。君は今から、私という存在の"大本"ともいうべき地点へと赴こうとしている。

 それが与える影響は計り知れない。間違いなく君には苦痛を強いる。

 最悪の場合、消滅すらあり得るだろう。決して安易な道ではないことは覚悟しろ」

 

 ……ああ、それはそうか。

 簡単であるはずがない。あの甘粕に届き得る道が。

 あの強さに届くには、それに見合うだけの試練がいる。そうでなければ対抗し得る道理がない。

 少なくとも彼が辿ってきた道と同程度の苦難を乗り越えなければ並び立てるはずがないのだ。

 

「言った通り、これは私の推測だ。結局は無駄な足掻きかもしれん。ああ、ならば潔く諦めてみるのも一つの手だぞ。

 話を信じるならば、この聖杯戦争はループしているらしい。オレのような半端な英霊には見切りをつけ、次の機会を待つのだって選択としては有りだ。

 わざわざ苦しい思いをしなくても、このまま眠ってしまえばそれで済む。その方がずっと楽だろうしな。どうする?」

 

 ――そんなの、考えるまでもない。

 

 迷いなんて今さらだ。

 もう自分は選んでる、この歩みを止めはしないと。

 それに、自分のサーヴァントはアーチャーだけだ。

 他にどんな可能性があったとしても、今ここにいる自分が、最期まで共に戦い抜く戦友は彼しかいない。

 

 だから、その覚悟を示すように。

 確かな意志を抱いてもう一度、脚を踏み出す。

 

 沸き上がる本能の恐怖を押し殺しながら、岸波白野(わたし)は前へと進み始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 心理の回廊は、無限とも思える距離で続いている。

 

 ただひたすら、真っ直ぐに。

 余計なことは気にせずに進んできたつもりだが、一向に変わる気配のない景観には次第に焦りが生まれてきた。

 

 本当に自分は進んでいるのか。

 なにか、終わらない袋小路の中に迷い込んでいるのではないか。

 そんな漠然とした不安が生まれて、心身に重りとなって吊り下がる。

 

 

 ――――ギチリ

 

 

 いや、考えるな。

 どの道、必要なスキルと言われても自分にあるのはこの身一つ。

 出来ることは進み続けるだけだ。ならばその歩みを妨げることなんて、極力考えないほうがいい。

 

 

 ――――ギチリ

 

 

 ここは心理の世界。

 アーチャーの(もと)に繋がる奥底へと沈んでいく。

 真っ直ぐと進んでいるはずなのだが、自分は確かに沈んでいるのだ。

 一歩の歩みの毎に感じる、海の底へと沈澱していく感覚。

 重く冷たい不快感。それでもその感覚だけが、目的の地点へと接近している証左でもある。

 だから進む。この感覚がより強くなる方へと。深く、深く沈んでいく。

 

 

 ――――ギチリ

 

 

 ああ、それにしても身体が重い。

 延々と続く回廊のせいか、身にのし掛かる沈澱感のせいか。

 ひどくだるい。頭痛がして眩暈がする。身体が思うように動かせない。

 

 肉体がないのに疲労を感じている事を不思議に思う。

 だが考えてみれば、この月の舞台に上がってきた時点で、本物の肉体は無いも同然だった。

 虚構で彩られた仮想世界。SFに思い描く世界観の完成形。そこでは全てが現実以上に本物だ。

 

 疲れや痛みも、生の肉体が感じるように受けられる。

 詳しい原理は、正直なところ自分にはよく分からない。

 きっと使用する情報量がどうとか、凛なら的確な解答を返してくれるんだろうけど。

 そういえば、自分は本物の肉体というものを感じたことがないのだなと、そう考えたら少しおかしい。

 

 

 ――――ギチリ

 

 

 けど、それにしたって身体が重かった。

 こんなにも重たいと、心の方まで萎えてきてしまう。

 先ほどから金属の軋む音がしている。その不快さと相まって、掛かる心労もかなり大きい。

 

 身体への負担はまだいい。

 けれど心に掛かる負担は困りものだった。

 一度気力が折れたら立ち上がれない。その確信があったから。

 

 ……少し、走ってみようか。

 

 どこまで続いているかも分からないのに、余計に体力を消耗するやり方は良い判断ではないかもしれない。

 だが、今は身体の疲労より心の疲弊が問題だ。

 この鉛のような重苦しさを吐き出すために、身体の方に緩急を付けておきたい。

 

 

 ――――ギチリ

 

 

 そうと決めたなら、早速実行してみよう。

 立ち止まり、息を吸い込んで姿勢を構える。

 考えるのは全力疾走。肉体に活を入れるため、加減なんてするつもりはない。

 

 吸い込む息を止め、脚に力を入れる。

 踏み込んだ一歩に勢いをつけて、前に進み出ようとして、

 

 

 ――――ギチリ

 

 

 ……ようやく、事態を把握した。

 肉体の疲労だとか、沈澱していく感覚なんてものじゃない。

 この重苦しさは、もっと直接的な問題だった。

 

 ギチリ

 

 不快に響く金属の音は、身体の中から。

 

 ギチリ、ギチリ

 

 身体が重いのは当然だ。

 精神面での話ではなく、物理的に重い物体に置き換わっている。 

 

 ギチリ、ギチリ、ギチリ

 

 走り出そうとして、その拍子に飛び出したものを見る。

 走り出すことは出来なかった。異物の感触に足を取られて転倒したのだ。

 そして伸びきった足に見て取れる、明らかな異常事態。

 もう明白だった。身の内で今まさに起きている、この異常を理解するのは。

 

 ――両脚からは、剣が生えていた。

 

 岸波白野の体内構造がいつの間にか置換されている。

 内側から縫い付ける刃、走り出すことなどすでに不可能。

 本来のものでは有り得ない異質の物質が、肉体を硬質化していた。

 

 それを認識した瞬間、見える世界も変質する。

 いや、変質したのではない。今までそうだと認識できていなかったのだ。

 

 ――そこは、剣製の異界だった。

 

 アーチャーという存在の魂に刻まれた世界図。

 他の一切を混じえない無人の荒野。無限に精製されていく名も無き剣群。

 天空を覆う無数の歯車だけが、世界に音を刻んでいた。

 

 この世界こそ、アーチャーの起源。

 定められた唯一無二の在り方の下、それのみを存在意義とする歯車仕掛けの機械(ヒトガタ)

 存在それ自体を『(つるぎ)』として。異質の法を内包した異端の魂。

 その根源、遥かな深淵へと自分は足を踏み入れているのだ。

 

 ギチギチギチギチ、ギチギチギチギチ

 

 そして、自分の身に起きているこの異常は、恐らく防衛の類ではないのだろう。

 内側にアーチャーの意識が現れているためか、異物として問答無用に排除される感じはしない。

 

 だからこれは、必然として起きた症状だ。

 英霊の原初という巨大な大海に、岸波白野という脆弱な個体を浸した結果。

 大海の質に浸食され、元の形が飲み込まれようとしている。

 

 身体が剣と化していく。

 動作の度に肉の斬れる痛みが走り、四肢はまともに動かない。

 変質していく身体がおぞましい。耐え難い不快さ。

 このまま進めば、症状はよりひどく進行していく。

 受ける苦痛は、想像を絶するものとなるだろう。

 

 

 ――――ああ、つまりは、そんな程度のものでしかないということだ。

 

 

 立ち上がる。

 刃の擦れる音。踏みしめた足に激痛が走る。

 だがこれでいい。痛みがあるのは生きている証明だ。

 先程までの無感の牢獄。その絶望に比べれば、この程度はなんて事はない。

 

 ギチリ、ギチリ

 

 引き摺るように、それでも歩き出す。

 生きているならば、こうやって前に進める。

 重さも痛みも、それだけならば恐れるに値しない。

 何よりも怖いのは、進めなくなること。抗う術すら失うことが何より怖い。

 その恐怖に比べたなら、これぐらい十分に我慢できる。

 

 ギチリ、ギチリ、ギチリ

 

 だから、今、心配するべきことは。

 目的の所に辿り着くまで、この身体が維持できているかどうか。

 このまま全身が剣へと置き換わっていけば、そう遠くない内に動けなくなるだろう。

 それまでに何とか到達しなければならない。懸念すべきはそれだけだ。

 

 ギチリ、ギチリ、ギチリ、ギチリ

 

 広がるのは無限の剣が突き立つ荒野。

 その光景は遥かな果てまで続いて終わりが見えない。

 歩き続けなければならないのは確かだけど、この距離感は考えものだった。

 

 果たして終わりまで保つのかどうか、目算がつかない。

 身体は依然重くなっている。このままいけば、本当に動けなくなるのも――

 

 ギチリ、ギチリ――――ガキン

 

 ……危なかった。

 四肢の重さに引き摺られ、転倒してしまった。

 もしも身体の一部が剣に変わっていなかったら、地に立つ剣の串刺しになっていたかもしれない。

 

 危機感が、再び意識を喚起させる。

 気を散らしては駄目だ。もっと注意深くならないと。

 大地に縫い付けられては、もう動けないだろう。そこから復帰するだけの力はない。

 荒野に突き立つ剣群は、進めば進むほどにその密度を増している。

 この先は更に危険と隣り合わせとなるだろう。益体のないことに気を取られるな。

 

 ギチリ、ギチリ、ギチリ、ギチリ、ギチリ

 

 どれほど進んだのか。

 身体の方は、すでに半分以上が剣に置き換わっている。

 果ては、まだ見えてこない。

 

 ギチリ、ギチリ、ギチリ、ギチリ、ギチリ、ギチリ

 

 埋め尽くす剣群に、荒野自体が見えなくなってきた。

 すでに身体は7割ほどが剣になり、歩みの毎に周囲の刃に斬り裂かれる。

 歩みは止めない。

 

 ギチリ、ギチリ、ギチリ、ギチリ、ギチリ、ギチリ、ギチリ

 

 果ては見えてこない。

 余計なことは考えずに、歩くことだけに集中する。

 自分の身体がどうなっているのか、気にするのはもうやめた。

 激痛を伴いながら、ひたすら足を前に動かす。

 

 ギチリ、ギチリ、ギチリ、ギチリ、ギチリ、ギチリ、ギチリ、ギチリ

 

 ……身体の感覚が無くなってから、どのくらいが経っただろう。

 

 すでに痛みさえ、感じなくなって久しい。

 無感とは違う。自分の感覚が別物へと変貌する。それは異なる形の拷問だ。

 

 それでも足は止めない。

 前へと、ただ前へと足を動かす。

 この身体が動く余地を残している限りは、自ら止まることだけは決してしない。

 

 だってそれだけが、きっと岸波白野(わたし)にできる唯一の戦いだから。

 

 自分には戦う力なんてない。

 凛のような事態に対し的確に対処できる能力もない。

 自分にあるのはこの諦めの悪さだけなんだから、それだけは譲らない。

 

 どうやらこの場所は時間の概念が薄いらしい。

 少なくとも差し迫った刻限に追い詰められる、そんな危険だけはなさそうだ。

 それだけは紛れもなく朗報だ。時間制限(タイムリミット)なんてあったら、本当にどうしようもなかった。

 けれど諦めない限り抗うことが可能なら、可能性は残されている。

 

 だって、岸波白野(わたし)は足が遅いから。

 だから追いつけるように、少しでも多くの歩数を重ねることしか出来ない。

 ただ愚直に、相手よりも一歩でも多く、前を向いて進むだけ。

 それが自分の戦い方だ。諦めるなんて選択は、あの無感の中を抜け出た時に捨てている。

 止まるのは本当の終わりの時。この意志が途切れない限りは、岸波白野(わたし)は前を目指して進み続ける。

 

 ギチリ、ギチリ、ギチリ、ギチリ、ギチリ――――

 

 ――――そして、最果てが見えた。

 

 剣製の丘を越えた先。

 あらゆる装飾、肉付きを廃した"原初"の地点。

 アーチャーという存在が誕生し、最期には還る始点にして極点。

 この先こそ真の無意識の心理領域。すなわち"ゼロ"だ。

 

 身体は、まだ保っている。

 刃の音がしない箇所は一つもない。食い破った剣は全身至る所から突き出している。

 それでも岸波白野(わたし)は保たれている。磨り減り尽くしてはいない。

 つまりは、間に合った。辿り着くことが出来たのだ。

 

 そして、何もない無垢の空間で、待ち受けている者に目を向ける。

 何色をも映さないヒトガタ。アーチャーの"原理"を宿した姿。

 これを解き放てばアーチャーは覚醒する。甘粕正彦に対抗し得る力が手に入るのだ。

 

 そんな自分が見ている前で、ヒトガタはこちらへ向けて剣を構えた。

 

 不味い。

 辿り着くことばかりに躍起になって、この事態を想定していなかった。

 まさか封印そのものが牙を剥いてくるなんて。いや、封印だからこそなのか。

 

 何にせよ、自分に打つ手はなかった。

 身体は満足に機能せず、仮に万全だったとしても英霊の一撃を防げる道理はない。

 ヒトガタが刃を振るえば、自分は認知することも出来ずに命を刈り取られるだろう。

 

 目に捉えたのは、僅かな踏み込みの動作のみ。

 次の瞬間には刃は目前にまで迫っている。

 何も出来ない。ここまで来ておきながら、こんな風に終わるなんて――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――いや、君は十分すぎるほどにやり遂げた。あとはオレに任せてくれ」

 

 振り下ろされた刃は、自分の目前で静止していた。

 寸前まで迫った色のないヒトガタ。はしる亀裂から色彩が生じ、現れたのはよく知る相棒だった。

 

「今のオレと君は、令呪の力で接続されている。君が到達したということは、オレもまた到達したということだ」

 

 見慣れない姿は、獲得した理の証明だろう。

 英霊の原点たる力。同じ位階にあるがゆえに、創造神(ほしづくり)の権能にも対抗できる。

 

 だから、心理の内側に留まる理由も、すでに無かった。

 

 意識が浮遊していく。

 苛んでいた激痛が霧散する。全身に浸食していた剣群も消失した。

 それは覚醒の兆し。資格を得た自分たちは、再び戦場へと舞い戻るのだ。

 差し出されたアーチャーの手を取って、浮上するその流れに身を任せた。

 

「……なぁ、マスター。君は本当に素晴らしい人間だ。君に剣を預けることが出来たのは、最高の誇りだった」

 

 ど、どうしたの? 急にそんな、ストレートに褒めてくるなんて。

 初めてだから戸惑ってしまう。それとも、いつもの慇懃な嫌味の前フリだろうか。

 

「ひどいな。これでも真剣に話しているんだ。茶化さないで聞いてくれ」

 

「過ぎ去ったもの、失なわれたものに報いようと、現在を蔑ろにするなど誤りだ。

 たとえ届かない夢だとしても、絶望せずに目指し続ける。その在り方がどれほど尊いものか、君のおかげで思い出すことが出来た」

 

「言っただろう。この戦いはオレにとっても大いに意義があったと。

 最弱であろうと、人間として正しい心を持つマスターに出会えた事は、オレにとって――」

 

 それは、以前に話を聞いた時には結論までは口にしなかった事柄。

 言葉にしなくても読み取ることはできる。サーヴァントとして、自分という無名の魔術師(ウィザード)と契約した理由。

 

「――奇跡のような幸運だった。生前に果たせなかった本当の願いを、正しいカタチで叶えることができたんだから」

 

 その結論を、少年のような穏やかな笑顔で、アーチャーは口にした。

 

 明言された真意は、読み取った内容と変わらない。

 たとえ口に出さずとも理解は出来ていた。理想を求めるあまりに遠ざけてしまった、アーチャーの本当の願いは。

 

 ――それでも、祝福に満たされた彼の笑顔を見れたことは、決して無意味なんかじゃなかった。

 

「だからオレは、最期まで君のための相棒(サーヴァント)で在りたい。本心からそう思う。

 何を救うべきかも定まらなかったオレが、本当の意味で救ってやりたいと願う相手がいる。そこに後悔を残したくない。

 改めて言うのも変だろうが、岸波白野(マスター)のために戦わせてほしい」

 

 そんなこと、答えるまでもない。

 自分のサーヴァントはアーチャーだ。それ以外は考えられない。

 アーチャーだって分かっている。自分の意思は、すでに語るまでもなく伝わっているはずだ。

 

 けれど、語らずとも分かる意思であっても、語るからこそ伝わる温かさもある。

 

 だから答える。

 精一杯の感謝と信頼を込めて、この温かさが伝わるように。

 自分がどれだけの想いを抱いているのか、その熱を貴方に知ってほしいから。

 

 

 ――――私の英雄(アーチャー)。どうか運命が分かたれる瞬間まで、私と一緒にいてください。

 

 

「あぁ……了解だ、マスター。君は、オレが必ず守る」

 

 彼の宣誓を聞き届ける。

 湧き上がってくる想いがあった。頬を染めるほどの熱が浮かんだ。

 けれども、その想いは口にしない。秘めておきたいと思う温かさであったから。

 

 

 ――――だから、さあ、目を覚まそう。

 

 

 手にすべき覚悟は貰った。自分はもう戦うことを迷わない。

 待ち構えているのは最強の敵。敗北の記憶は新しい。怖くないはずがない。

 でも、それを乗り越えられる勇気がある。だからこうして、震えることなく前に進んでいられる。

 

 そして、その勇気の源は、頼もしく握り返してくれる彼の手から。

 

 もはや妨げるものはない。

 自分たちが向かるべき戦場へと、再びこの脚で降り立とう。

 

 覚醒していく意識の流れのままに、自分とアーチャーは浮上していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「かつてのオレは、理想の下に多くの命を切り捨てた」

 

 誰に向けたものでもない独白。

 それは彼が、己自身に向けた秘めたる想い。

 

「多数のために少数を。数量のみを確かな計りとして、情も何もかも切り捨てて。

 ……きっとその少数とは、君のような人間だったのだろうにな」

 

 それは生前の彼の誤ち。

 より多くの人々を助けようとした。その果てに限界に気付いた。

 人の手が救えるのには定数がある。全ての人間を救いきることは出来ない。

 だからやがて、その数だけを基準とした。私情を排して、そうすることが切り捨てる人々に対するせめてもの義理だと信じて。

 

 けれど、それこそが最大の間違いだ。

 

 その結果が望まないものでも、懸命に手を尽くした果てにあるのなら受け入れるべきだ。

 全てを救うという理想。それだけに囚われてしまえば、原点にあったものもいつか見失ってしまう。

 そんな過去の誤りを、現在の彼は理解している。

 

 サバイバーズギルト。

 事故や災害で多くの人命が失われた後、生還者が抱く罪悪感や責任感といった強迫観念。

 死んでいった皆の分まで、生き残った自分が特別なことを為さねばならない。

 自分よりも他人のために。その強迫観念に突き動かされて、助けられないという結果を認めることが出来なかった。

 

 なんという無様だろう。

 滅私奉公を謳いながら、その救済はあくまで自分のために。

 そんな歪さだから間違えた。結果ばかりに囚われて、その過程を蔑ろにした。

 

 大切だったのは、理想のために走り続ける意志。

 たとえこの手が全てに対して届かなくても、一人の人間として真摯に前に進む。

 叶わない理想でも、そこで一人でも助けられる命があったのなら、そこには確かな意味があったのだ。

 

「……ああ、そうだ。決して間違いではないものもあった」

 

 自らの願いは歪んでいる。

 その自覚はある。始まりから終わりまで、自分の理想は偽物だらけ。

 自身の内から生じたものは一つとしてなく、空っぽの器に目に付いたものを入れただけ。

 全ては詭弁だ。自己の罪業を薄めるため、心の安寧のための代償行為に過ぎない。

 

 ――それでも、綺麗だと思ったのだ。

 

 すでに英霊となった彼に、生前の己の記憶はほとんどない。

 それでも■■■という存在の起点となった光景は覚えている。その記憶だけはどうやっても消し去ることは出来ない。

 

 自分を救おうと差し伸べられた手を覚えている。

 自分という命を見つられけたことに、心から安堵している顔を覚えている。

 そこにどんな打算があったとしても、目の前の命を救いたいと願う、その姿は決して嘘ではなかった。

 

 そんな姿に、憧れた。

 自分よりも他人が大事。それが偽善だとは分かっている。

 それでも美しいと感じた。そのように生きられたなら、それはどんなに素晴らしいと。

 

 

 ――――誰もが幸福であってほしいと願う理想。

 

 

 後の手段は間違えてばかりだったけれど。

 その感情だけは、何一つとして恥じることのないものだ。

 そんな願いを正しいものだと信じた、その心だけは―――― 

 

「――――決して、間違いなどではないのだからな……!」

 

 だから今度は、そのやり方も間違えない。

 助けたいと思う少女がいる。その手を決して切り捨てない。

 

 自分がなりたいと思った"正義の味方"とは、きっとそのような者であるはずだから。

 

 その正しさがある限り、自分は戦える。

 それを示してみせるためにも、己はもう一度あの男と向き合わねばならないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 揺らがない勝者の高みから、甘粕正彦は地に倒れる敗者を見下ろしている。

 

 徒に騒ぎ立てるような事はなく、ただ静謐に。

 まるで彼等の眠りを見守っているように、立ち去り見限ることはしない。

 他ならぬ彼自身が手にかけた彼等が、今にも起き上がると言うように。

 

「どうやら終わったようだね、正彦」

 

 そんな甘粕の元へ、空間を越えて現れる二人の来訪者。

 

 遠坂凛、そして甘粕に賛同する白衣の男。

 共に勝者に付き添う傍観者として、戦いの場から離れていた二人がその姿を見せた。

 

「結果は……こうなったか。予想されたものではあるが」

 

「はく……のん……」

 

 第三者たる彼等にも明白なその結果。

 無残に倒れ伏す姿は、勝者が誰であるかをはっきりと示している。

 岸波白野は敗れ、甘粕正彦が勝利した。その結論だけがこの場にはあった。

 

「未だ後継は現れず、君を超えていく者もいない。この結果も、果たして幾度繰り返したものだったか」

 

 共に永劫の闘争を重ねる同士として、男は戦いを顧みる。

 結果は無情。結論は変わらない。繰り返される闘争は、同じ答えを示していた。

 

「さて、正彦。勝利者として、君にはこの先を決める権利と、義務がある。

 聖杯戦争を制した者として、君はあの聖杯に何を願う?」

 

 男――トワイスが指し示す先。

 天に鎮座する月の聖杯。あらゆる未来を与える万能の演算器。

 戦いの行く末を見守る傍観者として、その用途を問うた。

 

「これまでにそうしてきたように、再び聖杯戦争を巻き直すのか。現れる保証のない悲願の後継、あるいは絶無とすら思える、君以上の強さに至る可能性に期待して」

 

「……私は、もう1つの選択肢。君が至らせた破滅の未来、あえてその道を進むという選択も、悪いものではないと思っている」

 

 それは禁忌ともいえる選択肢だ。

 世界の破滅を容認する。その判断を甘粕が下せば、結果はすぐに訪れる。

 それを避けるための闘争の輪廻(ループ)。トワイスはそれを捨てる考えを示したのだ。

 

「確かに世界文明は崩壊し、人類は多くのものを失うだろう。だが、それに代わる強さも手にする。

 あるいはそれこそ、人を更なる高みへと至らせる光となるかもしれない。

 正彦、君の選択であるならば――」

 

「そう急くな、トワイス」

 

 決断を迫るトワイスの言葉を、あくまで平静を保ったままで甘粕は遮った。

 

「結論を急ぐなよ。まだ終わってはいない」

 

「なに?」

 

 甘粕の言葉が示す意味を理解し、トワイスは敗者の主従へと目を向ける。

 結論は変わらない。無残に果てたその姿は、敗北者以外の何者でもない。

 主従ともに霊核(しんぞう)を撃ち抜かれ、生命活動の停止には疑いの余地はなく――

 

「……! 完全に停止しているというのに、なぜ消去(デリート)されない?」

 

 虚無に包まれ消滅する敗者の運命。残酷なる月の末路は何者に対しても絶対だ。

 それがマスターはおろかサーヴァントまでも健在のまま。動かぬ骸とはいえ、消え去らないのはどういうわけか。

 

「いや、それどころか、これは――!」

 

 動かないはずの骸が、再び鼓動を刻む。寸前まで確かに停止していた肉体に、生の活力が戻っていく。

 脈打つ血潮は刻と共に勢いを増していき、その活性はかつての彼等をして上回る輝きとなって表出した。

 

 あり得ない事態に、遠坂凛も、トワイスも眼を見張った。

 そんなことが起きるはずがないと。目の前の現実を受け入れられず、困惑している。

 その反応は至極正常。死していたはずの者の黄泉帰り。誰もが願い、叶わずに終わる本物の奇跡。

 

 その奇跡が目前で起きている。何人であれ、驚嘆を覚えない道理があろうか。

 

「来るか――」

 

 唯一人、その奇跡を()()()()()、甘粕正彦を除いては。

 

「来るか来るか来るか――来い!!!」

 

 奇跡は顕現する。

 決定的に訪れた死。敗北という結論はここに覆る。

 ただ諦めないという不退転の意志を以て。新たな命を掴んだ彼等は、ここに黄泉帰りを実現させる。

 

 

 

 

 

 ――――そして、岸波白野と彼女の騎士は立ち上がった。

 

 

 

 

 

 かつてない勢いで魔術回路を励起させ、最弱であった少女は揺るがない意志を湛えている。

 並び立つ騎士の姿も見違えた。シンボルにも等しかった赤原礼装は無く、代わりに身を包むのは黄金を備えた原初の礼装。

 死の終わりを乗り越えて帰還した少女と騎士は、甘粕にとっても油断ならない強敵として舞い戻った。

 

「く、はははは、あっはははははははは、ハハハハハハハハハハ!!!!!」

 

 その激変を、甘粕は喜色溢れる大笑と、万雷の如き賞賛で以て迎え入れた。

 

「――素晴らしい!!! 不屈の意志で以て成し遂げたその偉業、奇跡! これこそ俺が愛する人間の輝きに相違ない」

 

「その輝きを前にすれば、血統の才覚だの世界を揺るがす能力だのと、そんなものに価値を見出していること自体が馬鹿馬鹿しい。

 天よりの寵愛を受け、我こそ勇者と宿命を定めてもらわねば行動の一つも起こせない。それで何かを成したと勘違いしている愚か者が多すぎる。

 大した努力も覚悟もなく、何処ぞの某かの神やら悪魔やらに偶然恵んでもらった力を振りかざし、何がそこまで誇らしい?

 自ら運命を切り開く気概もない軟弱者が、自身の在り方がどうだのと主張や理想を語ってみせたところで、滑稽すぎて見るに耐えんわ」

 

「おまえたちのような者こそ、俺の楽園(ぱらいぞ)を彩る住人にふさわしい。喉が裂けるほどに叫びたい、おまえたちこそ真の勇者であると!」

 

「……よく言う。自身でお膳立てをしておいた者が」

 

 褒め称える甘粕に、アーチャーは皮肉を込めて切り返した。

 

「神話礼装。英霊の原初に在る力。使いようによってはムーンセルそのものにも仇なせるだろう。

 許されるはずがないのだ。そんな力をサーヴァントが取得するなど。たとえ僅かな可能性でも、自身の破滅に繋がる因子を、ムーンセルは決して容認しない。

 如何にマスターが無茶をしようと、覆せない道理もある。これでは筋道が通らない」

 

「原初の封印(リミッター)を解除し、権能級のスキルを発現させる。そんな改竄が可能なのは、ムーンセルの使用権を持つ者しか有り得ない。

 我々に道が用意されていたのは、全て貴様の画策だろう。それがなければ私たちにはどうしようもなかった。

 貴様からの賞賛など、貴様自身の自画自賛に等しい。戯言はそこまでにしておけよ」

 

「なに、そう卑下したものではない。俺とて似たような道を辿ってこの権能(チカラ)を手に入れたのだ。

 一方のみが力を有しているのでは公平とは言えん。同様の機会をおまえたちにも与えてこそ真の公平だろう」

 

「そしておまえたちは手に入れた。試練を乗り越え、見事俺と同じ域にたどり着いたのだ。

 誇るがいい。その神話礼装(チカラ)は誰かから恵んでもらったのではない。恥じ入ることなく、自らの手で勝ち取ったのだから」

 

 元より甘粕にとって、力を抑えるというやり方は本意のものではない。

 如何に相手に合わせるためとはいえ、言うなればそれは相手の力量を下と見ての行為である。

 苦難を越え、勝利の果てに手に入れた力であれば、恥じるべき所は何もない。使用を躊躇う必要などどこにもないのだ。

 見縊っている。侮っている。舐めている。自身の力を自ら制限するのは、要はそんな理由でしかない。

 

 互いに持ち得る全てを尽くしての激突でこそ、本気の意志は顕れる。

 ゆえに今この時こそが真の対等。同格の領域に至った彼等は、もはや裁きの対象とはなりえない。

 

「すでに言葉は尽くし、互いの主張をぶつけ合わせる段階は終わった」

 

「譲れるものなどない。ならばあとは互いに持ち得る全てを懸けて、力の限りに潰し合うのみ。

 小細工、手心一切無用の、正真正銘の真っ向勝負だ」

 

「あぁ……俺はこれがやりたかったのだッ!!!」

 

 軍刀を抜き放ち、猛る闘志を抑えもせず甘粕は決戦を了承する。

 

 言う通り、ここからが真の勝負だ。

 対抗できる力は得た。しかし決して、少女の側が有利を得たわけではない。

 都合二度の敗北。一度目は同じ地平にて完敗し、二度目は神の高みより圧倒的に。

 それらの敗北に偽りはない。変わったものが力だけならば、三度目も先の焼き直しとなるだろう。

 

 違いは、その覚悟。

 少女の意志には、もはや畏れ怯む脆さはない。

 強度の差など百も承知。そんなものは恐怖になりはしない。

 自らが弱者であると理解しても、抗う事はあらゆる生命に許された権利だ。

 諦めない、と。勝敗すら度外視した領域で、岸波白野はその命の灯が燃え尽きる瞬間まで生き抜くと決意している。

 

 寄り添う騎士の覚悟も、また等しい。

 己はサーヴァント。少女のために在り、その敵を斬る剣である。

 ならば最期までその通りであろう。後悔は微塵もない。彼女と共に戦えた事は、騎士にとって何よりの誇りだ。

 勝算の有無など度外視し、ただ負けぬと、その決意で以て対峙していた。

 

「甘粕正彦。貴様を倒す」

 

 剣製の世界が具現する。

 大地に突き立つ無限の剣。贋作だけのこの世界こそ、アーチャーの力。

 たとえ偽物ばかりの生涯であったとしても、磨かれた意志の強さには偽り無し。錬鉄の意志を刃に変え、アーチャーは神の如き男に挑む。

 

「いいぞ、それでこそ我が好敵手。そうこなければ俺も相手にする甲斐がない」

 

 申し分ない闘志を受け止めて、甘粕もまた己の神威を発現させる。

 絶対正義を体現する裁きの神。その暴威には弱さなど一点も見られない。

 

「そうとも。こんなもので終われるはずがない。1つの祈りが全ての願いを喰らう聖杯戦争の幕引きを飾る戦い。共に死力の限りを尽くさねば、納得など出来るものか」

 

「俺はまだ何も、力を尽くしたつもりはないぞ」

 

 両者に膨れ上がる闘争の意志。

 仕切り直しはない。決着まで突き進むだろう。

 聖杯戦争の勝者を決める、正真正銘最期の戦いが始まる。

 

「諦めないと、不屈の意志を謳うのなら、その意志で以て俺を超える光を示せ。

 俺が全てを託すに足る存在だと信じさせてくれよ。おまえたちの光を俺に見せろぉぉぉぉぉ!!!」

 

「行き過ぎたその狂念が、果てには世界すら呑み込んだか。甘粕正彦、やはり貴様の存在は許されない。

 見果てぬ理想を抱いてしか生きられないのであれば、その夢に溺れて溺死しろぉぉぉぉぉ!!!」

 

 

 




 覚悟完了回。次でようやく決着です。

 神話礼装獲得までの流れは原作と描写を変えてあります。
 設定的におかしいと思う部分もあるかもしれませんが、これもこのSSの独自設定の1つとして何卒ご容赦ください。

 どうしてここまで溜めに溜めての長々とした話にしたかといいますと、アーチャーの描写が問題だったんです。
 原作でもそうですが、アーチャーはどんな相手にも基本冷静なままで、理詰めで戦います。
 マテリアルにもある通り、相手を否定もしなければ肯定もしないんですよね。
 例外なのは士郎だけで。

 けれど甘粕大尉のSSを書く以上、バトルは熱くしたい。
 そのためにはアーチャーにも熱くなってもらわなければなりませんが、クロスオーバー先の相手に因縁なんてあるわきゃない。
 なので、今まではその因縁作りのための流れでした。
 今なら何とか、士郎戦ばりに熱くさせても、違和感が抑えられていると思っています。

 次回はまさしく漢の王道、意地と気合の戦いとなります。
 今度は何とか早め更新できたらなーと努力してみます。

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