もしもExtraのラスボスが甘粕正彦だったら 作:ヘルシーテツオ
想定と完全に別物になったので、それぞれ単一での話になります。
「う、あ、ぁぁぁぁ……」
か細い断末魔を残して、1人の生徒が消滅する。
無慈悲な搾取を終えて、メルトリリスは糧となったリソース分を確認して舌打ちした。
「所詮、使い捨てのNPCではこんなものか。経験値の足しにもならないわね」
アルターエゴが持つ特殊スキル、
彼女が持つイデスの名は『メルトウィルス』。その効力は融解と吸収。
注入されたウィルスは対象を溶解し、経験値や魔力といった要素を抽出して吸収する。
無機物、有機物、サーヴァントに至るまでその毒は有効。エナジードレインの最上級であるオールドレイン。吸収すればするほどに彼女は強くなる。
彼女は流体の簒奪者。侵して融かして蜜を啜る猛毒の繰り手である。
「マスターか、最高なのはサーヴァントね。今となってはとても貴重な栄養源だけれど。
足りない、ああ足りないわ。この程度では何もかもが不足してる。もっと養分を蓄えないと」
メルトリリスの吸収に制限はない。続けていけば限界まで強くなれる。
だが今は、その栄養源が不足している。雑多な
対象は、高純度の霊子体が望ましい。
英霊を融かし、純粋な力に変えて吸収すれば、得られる恩恵は計り知れまい。だがそれは必然、敵対するマスターたちを打倒する事を意味している。
今や勢力は固まり、単身での迂闊な真似は彼女とて命取りとなる。
メルトリリスは自己を冷静に分析している。感情に任せた無謀など行わない。
「……そうね。やっぱりあなたを頂きましょうか、ありす」
だからこそ、標的とすべき獲物もすでに見出していた。
「あなたの事は最初から気に入っていたわ。小さくて、無垢で、可愛らしくてまるで人形のよう。
ねえ、ナーサリーライムのお姫様。余分な
思い浮かべた少女の姿に、メルトリリスは微笑した。
愛と嗜虐、2つの感情が矛盾なく両立したその笑みは、彼女の本性を映し出している。
カツンと、脚の金属音を響かせて、メルトリリスは歩みを進める。
向かう先に迷いはない。脳裏に描いた想像と行動は直結している。
彼女は相手に愛着がある。だがその愛の性質を知れば、結末は残酷なものしかあり得なかった。
しかし彼女の行為を止める者はいない。
ここを支配するのはBBとその眷族たち。黒く染まった少女と本質的には同類だ。
真っ当な正義感など置き去りにしてきている。今更関係ない所の非道を咎めなどしない。
エゴの少女は欲望の化身。彼女たちが求めるのは己の欲望を満たせるものだけである。
「――どこに行くつもりですか、メルトリリス」
だからこそ、その歩みを止めさせた少女は、一際な異端に違いなかった。
外見の年齢は若い、というよりも幼い。
十を越えた頃だろうか。体躯は小柄だが、仕草に伴われる雅さが外見年齢を引き上げている。
それでも他のエゴの少女たちと比較して尚若い。幼すぎるその見た目は、およそ強さという概念からは程遠い。
そして何よりの違いは、身に纏う気配の差異だろう。共通して存在していた妖気ともいうべき邪念、そうした悪質の類いが少女からは感じられない。
若草の和服衣装を纏う少女の気質は清純。虚飾のない善性のままで少女はそこに在った。
「あら、そこにいたの。カズラドロップ」
少女の名は、アルターエゴ・カズラドロップ。
BBの眷族であるエゴの1人。その中でも異質な心の持ち主だった。
「どういうつもりかしら? そんな風に道を塞がれては通れないわ」
「訊いているのはこっちです。どこに行こうとしているんですか?」
「もちろん、あの愛らしい双子の元によ。私、まだまだ栄養が足りないの。あの子たちもこういう時のために確保しておいたようなものなんだから、やる事は決まっているでしょう」
メルトリリスの答えに、カズラドロップの表情が険しくなる。
「認めない、と言いたそうね。カズラ」
「……あの子たちはこの陣営で唯一のマスターとサーヴァントです。あなたがそんな気軽に扱っていい、簡単な存在じゃありません」
「希少である事と有効である事は違うわね。単に物珍しいだけなら戦場で温存する意義はないわ。
あの子の能力は強力だけど穿っている。使い時は限られるし、少なくとも龍神サマや王様相手に役立つとは思えない。
ならいっそ能力だけ抽出してしまっても良いでしょう。わざわざ子供に持たせて遊ばせておくよりもそうやった方が有効に扱えるわ」
「……だとしてもBBの許可は仰ぐべきです」
「それこそ愚問ね。今さらBBがそんな扱いひとつに頓着するわけないでしょうに。返しとしては苦しいわよ、カズラ。
――と、あなたが理屈で攻めてくるから私も応じてみせたけど、要するにあなた個人があの子を護りたいというだけでしょう。お気に入りなのね、あの子たちが」
図星を突かれた指摘に、カズラドロップは沈黙する。
言われた通り、語った理屈など説得のための方便で、これは彼女個人の感情だった。
「でもね、気に入っているのは私も同じ。つまらない戦術論なんて本当はどうでもいいわ。
あの子は美しい。まるで不思議の国のアリスよう。本当の"
だから、余分なものは取り除いて、ちゃんと私のモノにしてあげたいの」
「あの子の
「そうよ。決まっているでしょう」
一欠片の迷いもなく、メルトリリスは断言した。
「私は人形が好き。ひたすら愛しても文句を言わない、不満をこぼさない、変わらない。
ああなんて素晴らしい、人間が生んだ文化の極みね。あの支配感、所有感、全ての快感が私を満たしてくれる。
理解がどうだのなんて必要ないわ。私が注いだ愛を受け取る美しい受け皿、それだけでいいの。
それが私の愛し方。文句なんて言わせないし許さない。この愛を貫く事が私の全てなんだもの」
彼女の愛は相手の理解を求めない。
交わる事で生まれる関係を最初から断っている。そんなものは害悪とすら言い切って。
それが異端である事も承知の上でだ。メルトリリスは愛する者を人だとは扱わない。
そんな狂った偏愛こそ己の真理だとして疑わず、孤高なるままにその在り方を貫いていた。
「さて、私はあなたの問いに答えたわ。今度はあなたの方の答えを聞きましょうか。
――カズラ、そうやって私の行く手に立ち塞がって、あなたは一体どうするつもり?」
メルトリリスの声に冷たく鋭利な殺意が宿る。
「理解してるわよね。私は、私の邪魔をする者を許さない。反論なんて認めないし受け入れない。私の愛の正しさは、私だけが知っていればいいんだから。
そんな私の前に立って何をしようというのかしら。ねえ、カズラドロップ?」
ステップを踏んだ脚が鳴らす金属音。
メルトリリスの脚は抜き身の刃だ。振り抜けばあらゆる障害を斬り伏せる。
「……あなたの毒は、私には通じませんよ」
「それ以前の問題ね。戦闘能力皆無のあなたが、私の剣をどうやって防ぐつもりかしら。そしてどうやって反撃するのかしらね」
対し、カズラドロップには護身の手段がない。
彼女の能力は治癒。それのみを特化した結果、一切の戦闘力を持たない仕様となっている。
メルトリリスの攻撃を彼女は防げない。仮に防げたとしても撃退するための力がない。
カズラドロップには何も出来ない。それはどうしようもない結論だった。
「重ねて訊くわよ。無意味だと分かっているくせに、それでもあなたは私の前に立ち塞がると、そう言うのかしら?」
そう、如何に庇おうとしたところで無意味だ。
メルトリリスの性格もよく知っている。同族だからと容赦するような質ではない。
どう足掻こうとも無駄だ。戦えない自分では何も出来ないと、彼女自身がよく分かっている。
それでもカズラドロップはメルトリリスの前を退こうとはしなかった。
命を引き換えにしても抗えない。こうして身を呈しても押し通られて終わりだ。
つまりは本当に無意味である。納得などしていないし、心は歯がゆさと恐怖も感じていた。
だが退けない。無意味だと分かっていても、それが彼女の心が出した答えなのだ。
賢い選択だとは言えないし、尊い行為とも言い難い。無謀な行いは自滅にも等しいだろう。
多分、意地のようなものだ。自分の心にある思いを裏切るような真似ができないだけ。
それに、ここで逃げれば"あの子"たちを見捨てるのと同義。それだけは絶対に許容できない。
BBや他のエゴたちには無い心。
それは独善に依らない献身。他者を慮りその痛みを憂える優しさだった。
我欲のエゴに興じる姉妹たちと異なり、カズラドロップだけは人としての正しさに満ちている。
「ふ、くくく、あはははははははは」
そんなカズラドロップの前で唐突に、メルトリリスが笑い出す。
心底から愉快そうに、寸前までの殺気さえも消し去って。
笑い続けるメルトリリスを、カズラドロップは怪訝そうに見ていた。
「冗談、冗談よ。初めからそんな気はないから安心なさいな。
だってあなたの反応、すごく唆るんだもの。ホラ、私好きな子ほど虐めたくなる性質だから。
ちょっとからかうだけのつもりだったのに、思わず熱が入っちゃったわ。ごめんなさいね」
「……どういうつもりです? メルトリリス」
「あら意外? 私はBBよりは
語る声に狂気の色はない。
メルトリリスはカズラドロップの思いを確かに尊重している。
「私は姉妹の中であなたの事だけは認めているのよ。お馬鹿なリップでも、堅物で過保護なヴァイオレットでもない。カズラドロップ、あなたをね。
あの子を気に入っているのは本当だけど、あなたのお気に入りだと言うなら手を引くわ。それぐらいの誠意はあるのだから」
「……どうしてですか? 私なんて何の力もないのに」
「力? そんなものどうでもいいわ。どちらが強いか弱いかだのと、英雄がよくやる戯れ合いなんて欠片も興味がないもの。
強さなんてね、私が私の愛を全うするために十分なだけあればいいのよ。邪魔な奴らを一方的に嬲り殺せるだけの強さがね。
尋常な決闘? 相手に対する敬意? 何それ馬鹿じゃないの。敵に与えるものなんて鞭だけよ。
力なんて何の価値もない。美しいのはその心。あなたの愛のカタチなのよ、カズラ」
その言葉から一転して、メルトリリスの表情に侮蔑が映る。
まるで穢らわしいものに向けるように、自らの造物主の事を語りだした。
「他の
ホント、私もアレから生まれたというのは認め難い事実だわ。早くこの立場から脱却して独り立ちしたいものね」
「それは叛意ですね。分かって言っているんですか?」
「もちろん。大体、
それにこの程度の事はなんでもないわ。今のBBに駒を選べる余裕はない。あの女はもう、月の女王でも何でもないのだから」
もはや隠そうともしていない。メルトリリスは自らの造物主たるBBを嫌悪している。
単なる打算や関係上のすれ違いではない。根本的な性質から相容れないと断じていた。
「あなただってあの女を認めてなどいないでしょうに。内も外も嘘で塗り固めて、無様で滑稽で不純だらけ。
あんな様だから悪魔にも簡単に付け込まれる。自分の愛にまで虚飾を混ぜて、みっともないったらありゃしない」
「唯一つ、自分が信じる真実の愛が見えているならどんな言葉にだって揺らがないわ。
相手を人として見ていない? 知ってるわよ最初から、言っているでしょうそうだって。
正しいか、間違っているかですって? そんな議論をしてる事自体、愛に対する侮辱だわ」
「あなたは綺麗よ、カズラドロップ。あなたの慈愛に虚飾はない。
打算もなければ見返りも求めない。他者へと捧げるその献身は純粋だわ。
私は
メルトリリスのエゴが象徴するものは『快楽』。
その愛のカタチは残忍で冷酷だが、同時に自身の心に素直で偽りがない。
僅かな汚点さえ許さない潔癖性は見返りさえも不純物だと言い切っている。相手のためを思う事が愛ならば、愛されたいと願う事自体が不実であると。
ただひたすらに好いた相手へと尽くす愛。それこそがメルトリリスにとっての真実だ。
だからメルトリリスは相手に理解を求めない。
その自我さえも不要と断じて、自身が与える快楽の中に蕩けてしまえばいいと思っている。
自分から注がれる悦楽の蜜、それだけを感じて永遠に幸せでいてほしい。
愛する人に総てを捧げる。あまりに歪なカタチだが、抱いた愛には何の虚飾も無かった。
そんな彼女だからこそ、カズラドロップを認めている。
愛に見返りを求めない献身を、正反対なその在り方を尊んでいるのだ。
「たとえいずれ袂を分かつと知っていてもね。その時が来るまで、あなたの事は尊重しておいてあげたいのよ」
そして同時に、やがて破局が訪れる間柄とも理解している。
唯一人に総てを捧げるメルトリリスの愛。最期には1人のために世界さえも呑み込むだろう。
カズラドロップの献身は、他者に分け隔てなく与える慈愛の精神だ。
あらゆる他者に害をなすメルトリリスは、彼女にとって許容できない存在である。
両者がそのまま進めば、やがて激突するのは必定。
だからせめてそれまでは、その心を尊重しよう。自身が認めた姉妹に向ける、それがメルトリリスなりの誠意だった。
「……私は、そんな大袈裟なものじゃありません。これぐらいしかやれる事が思い付かないからこうしているだけです」
「その自己否定があなたの悪い癖ね。それが無ければもっと綺麗なのに」
メルトリリスが踵を返す。
手を引くと言ったのは本気であり、カズラドロップの先に居る者を狙うつもりは無い。
残酷であれど、その潔癖な信念の気高さには偽りはない。自分の物差しでしか物事を計らない独善だが、彼女はまぎれもない善性の気質を有していた。
「頑張りなさい。あなたの方が道は険しそうだけど、その清さが壊れない事を祈っているわ」
そうとだけ言い残してメルトリリスは去っていく。
その言葉にカズラドロップは弱々しく俯くことしか出来なかった。
BBたちが拠点として使う月見原学園。
その教室はマスターたちがマイルームとして利用していた場所であり、裏側に落ちた後でもその構造密度は他に比べて高い。
外見上の扉一枚からは想像し難い強度。保護対象の守り、あるいは隔離場所としてここまで有効な場所はないだろう。
カズラドロップが教室の扉を開くと、そこには別世界が広がっていた。
元の校舎の形骸などは欠片も残っていない。
さながらそこは童話の世界。溢れる木々と清流な川、近くには小屋があり遠くには城が見える。
そんな世界を塗装するのは無垢な純白。汚れのない白に染め上げられた幻想の風景だ。
不思議の国の中心で、ティーセットを広げているのは2人の少女。
現実感のない世界と同様、住人である少女たちも非現実な可憐さと儚さを同居させている。
白と黒、同じ容姿と違う色彩。逆しまの双子は夢の中のお茶会に興じていた。
「いらっしゃい、カズラ。ようこそ、ありすのお茶会へ」
白い少女の名はありす。裏側に落ちたマスターの1人。
何処までも子供のままの精神で、無邪気な笑顔を投げかけて彼女は遊ぶ。
「遊び相手が来てくれた。とっても嬉しいわ、
「そうね、
黒い少女の名は
無垢な子供らしい、けれどありすには無い闇を垣間見せながら彼女は遊ぶ。
双子とも思しき少女2人の間には主従の契約が結ばれている。
しかし戯れる2人の姿はそのような関係とは程遠い。互いに互いを呼び合って、まるで踊るように少女たちは喋りだす。
「夢の中のお兄ちゃん、お姉ちゃん。遊び相手になってくれたのは大人の人ばっかりだったから。
お菓子を食べる? お茶も飲む? カズラのお国のお菓子とお茶も、ちゃんと用意できるから」
そう言ってありすが手を振るえば、どこからともなく和菓子と緑茶が姿を現す。
術式の原理も何も無い。ありすが望んだものが現れるそれは、まるで空想の具現のようだ。
ここはありすのための
少女の夢が織り成す幻想の箱庭。子供の夢がカタチになった空間である。
夢見る
「そうね、
鏡の世界に入り込んだ女の子は、列車に乗って森を抜けて、色んな冒険をするものよ。
ご苦労様とお茶を出すのはその先で。
「そうね、
鬼ごっこもいいし隠れんぼもいいな。それともやっぱり新しいお遊びかしら。
きっととっても楽しいわ。カズラ、あなたもそう思うでしょ?」
ありすの心に悪意はない。
彼女はただ遊びたいだけ。望んでいるのはそれだけだ。
何処までも無邪気で無知な子供として、ありすは無垢な気持ちを投げかける。
その無邪気さは、ある種の毒だ。
害意のない存在、裏のない素直さを前に、人は自然と心の障壁を下げてしまう。
どれだけ理性が警戒を抱いても、感情は応える事を容認してしまうのだ。
善性の質を持った者なら尚更に。悪徳を貪る外道でもなければ撥ね除けるのは難しい。
「遊び、ですか。そうですね、みんなで遊べたなら、とても楽しいですよね」
そんなありすに対し、カズラドロップもまた笑顔を返す。
彼女の性質は善性。この儚い少女を無碍に扱うような悪性は持ち合わせない。
頷いて、遊んであげると応えたい。それはカズラドロップの本心だった。
「だけど、ありす。あなたが遊び相手を求めているのは、
しかしその本心をあえて無視して、カズラドロップは別の問いを訊き返した。
「え、違うよ?
重ねて言うが、ありすの心に悪意はない。
相手を害する意図など欠片もない。彼女はただ遊びたいだけなのだ。
だが子供の無邪気とは、時に大人よりも残酷である。
「夢で出会った遊び相手お人たちも、みんないなくなっちゃった。夢の最期はよく覚えていないけど、幕切れはきっとみんな同じだわ。
ここなら思いっきり遊べるけど、そうするとみんな壊れちゃうから。くびとかおててが取れちゃって動かなくなっちゃうもの」
「動かなくなったら直せばいいわ。ママから貰った針と糸があるでしょう。
優しい
「大丈夫なのかな、
「大丈夫よ、
無垢に語り合う内容は、しかし子供の所業で済ませられない凄惨さだった。
彼女たちの言う夢、それは表側で起きた聖杯戦争の記憶。
表側の聖杯戦争とは、主従同士の決闘だ。その決着はどちらかの死を以てしか決まらない。
その意志がどうであれ、聖杯戦争に参加して勝ち抜いたというのなら、彼女たちは既に人の命を手にかけているのだ。
ありすにその自覚はない。彼女にあるのは純粋に遊びたいと願う心だけ。
無害であるはずの少女は英霊という力を得て、遊びという名の闘いに興じている。
命の重さも罪の意識も感じないまま、総ては夢の世界の出来事だというように。
「だから、カズラ。
白い部屋で動けなかった
お茶もお菓子もお友達も、全部
孤独だった少女が喚んだ英霊とは、ナーサリーライム。
英国等で愛された絵本群の総称。あるいは童謡、子供に聞かせる子守唄。
子供たちの夢を受け止めていく内に一つの概念と化し、"子供たちの英雄"として英霊となった。
ありすは夢を見ている
「でも遊んでくれる人たちがいるのは嬉しいわ。
ねえ、カズラ。あなたは
この少女は現実を見ていない。
会話しているようでもその気持ちは一方通行。玩具を相手に遊ぶようなものだ。
幸せな夢の世界だけを見て、その他の全てを徹底して排していた。
けれど、果たしてそれは責められるべき事だろうか。
ありすにとって現実とは辛く、苦しく、孤独なものでしかなかった。
救いもなければ未来もない。現実に望むものなど何一つ持ち合わせない。
独りで泣いていた少女へと舞い降りた"
夢を見ていて何が悪い?
辛い現実など願い下げ、楽しい夢だけがあればいい。
他に選択など無かった。誰に自分を責められると、幼い眼差しは痛切に訴えていた。
「……いいえ、ありす。それは出来ないんです。私は、あなたの遊びに応えるわけにはいかない」
そんな眼差しを振り払って、カズラドロップは首を横に振った。
「……嫌。そんな意地悪を言うなんて、カズラは悪い子なの?」
「
「カズラはいらない。
瞬間、世界が変貌する。
優しい幻想の風景は一変して、穢れなき純白を侵して現れるのは悪夢。
元より童謡とは、多くの場合において残酷な側面が付随している。
それは子供に言って聞かせる教訓として。無知なままで危うきに近寄る事がないように。
覗けば呑まれる闇の中。好奇心は猫を殺すという諺の如く、少女の心を侵害した外敵に対して、夢の世界は牙を剥いた。
「違う、そうじゃないんです、ありす。私はあなたが嫌いなんじゃない。
ありすには幸せになって欲しいから、あなたの力になりたいんです」
「ならどうして? どうして
「――……ありす。あなたのしている事が、とても悪い事だからです」
夢を見続ける少女へと、カズラドロップは本当の現実を告げた。
「あなたたちがしているそれは遊びではありません。
誰かを苦しめる行為です。人を傷つけて命を奪おうとする行いです。
夢で会った人たちも、単なる夢じゃない。表側で確かにあった出来事なんです。
決して楽しんでいい遊びなんかじゃない。それはしてはいけない、恐ろしい事なんですよ」
「違うもん、ごっこ遊びだもん! だって
「その通りよ、
ありすの手を取ったのは黒い
子供の夢を守るナーサリーライム。突き付けられる現実からも
「悪いのはその口ね。そんなお喋りな口先は縫い付けてしまいなさい」
口元に走る痛み。声を上げそうになったが、喋ろうとした口が開かない。
何の脈絡もなく、カズラドロップの口が糸で縫い付けられていた。
それだけで終わらない。
肌には赤い出血斑が浮かび出し、病魔の倦怠が身を包む。
身体の至る部分が腐り始め、体内から蛆が涌いて出てくる。
母が子を殺す。父がその子を食べる。大理石から鳥が飛び立ち、石臼を落として母を殺して父へと食わせる。
どれもこれもが唐突かつ荒唐無稽な現象で整合性などまるでない。しかしそれらの凶事は現実を侵す武器となってカズラドロップへと襲い掛かる。
これこそ悪夢、無垢なる童謡に隠された闇の側面。
無邪気なままに罪業の何たるかも知らない心は、それ故に容赦のない残酷さを振りかざした。
「口の減らないハンプティは塀から落ちて壊れちゃえ。あなたもそのまま落ちなさい」
無慈悲に告げる黒い
殺到する凶事は勢いを増してカズラドロップを包んでいく。
たとえ子供の夢であっても、ここではその夢こそが現実となる。
校舎内の教室を入れ換えて作り上げた空間。この場所は既にありすのための異界である。
身を苛む凶事は全てが本物。晒された少女は膝をつき、もはや抗う術など無いかと見える。
「――無駄です、
凶事の中心より凛とした声が響く。
そこから淡く溢れ出た光が、降り掛かった全ての凶事を払い除けた。
「これが私の
データに起きたあらゆる
抵抗されなければ、私はどんな不条理の毒だろうと癒せます」
その様は、まるで舞い散る花弁の如く見える。
少女を中心として展開される光で出来た桜吹雪。若草色で輝くそれに毒性の類いは感じない。
花弁が触れた凶事は祓われて、悪しき夢は元の正常なカタチへと戻っていく。
まさしく"世界"に起きた
桜吹雪は広がっていく。
カズラドロップを中心に、まるでみんなを包み込もうと抱擁の手を広げているかの如く。
舞い踊る花弁はやがて、2人の少女の元にまで降り注いだ。
「苦しかったんですよね。寂しかったんですよね。
ずっと孤独の中にいて、泣きたい心のままで焦がれ続けて。
そうしてようやく掴んだ"
「だけど、ありす。あなたがしている事は、かつてあなたがされた事と同じなんです。
不安な
あなたはその痛みを知っている。それがどんなに怖いものか、あなたはちゃんと理解できてるはずです」
正道であり、それでいて思いやりを持った指摘。
怒りながら殴りつけるのではなく、相手のためを思って叱る良母のように。
夢に閉じたその心を開かせようと、カズラドロップは言葉を紡いでいく。
「自分だけが一方的に相手の事を自由にできる。多分、あなたはそれを楽しんでいる。そういう快感があるのも仕方ない事だとは思います。
でも思い出してください。かつてあなた自身がそうされていた時、それがどれだけ苦しくて怖い思いであったのかを。
それを知っているあなたなら、やってはいけない悪い事だと誰よりも実感できる。だからその分だけ、優しくなる事もできるはずです」
カズラドロップの言う事は正しい。
非の打ち所のない正論であり、相手のためを思っての言葉だというのも間違いはない。
母のような彼女の言葉には慈愛が満ちている。まるで聖女のような優しい言葉だ。
「――――甘い」
しかし、それで相手の心に届くのかと問えば、その限りでは決してないのだ。
「甘い、甘いわ。名前の通り
底冷えする冷たい憎悪を込めて、口を挟んだのは
カズラドロップの告げた慈愛の正論。それこそを不倶戴天の敵とばかりに睨み憎んでいる。
「泣き虫カズラ。弱虫カズラ。まるで飴細工のような綺麗事しか言えないの。
そんなもの、吹けば倒れてバラバラよ。12時の魔法よりも儚いものだわ。
怖い怖いあなたの姉妹、悪いメルトがその気なら、あなたはとっくに魔女の鍋の具材でしょう」
先のメルトリリスとのやり取りまで、既に
見た目がありすと同じでも、彼女は
自身の主に迫った脅威を見過ごしているはずがない。展開されているこの世界も、単なる遊び場ではなく主を守るための砦という意図もあるのだ。
その上で、
脅威を退けたのは彼女だが、そんなものに意味はないと断じている。
「あれは魔女の単なる気まぐれ。気が変わればあなたは餌食になるしかない。
いつまでも続くと思ってるの? だとしたら子供の夢よりも能天気だわ。
「現実なんてそんなもの。いろんな所に怖い魔物が蔓延ってる。
黒い兵隊も白いお医者さんも、みんなみんな怖い人ばかり。飴細工の優しさなんて通らない。
「
ありすにとって現実とは苦痛と孤独。
良い思い出などは遥かな過去に擦り切れて、残っているのは身を刻まれた痛みと恐怖、そして一人きりの寂しさだけ。
もはや現実に求めるものなどない。まして今のありすには
たとえいずれ覚めてしまうものだとしても、ありすの夢を最期の瞬間まで守り続ける。
「夢とは所詮、いつかは覚めてしまうものだから、現実を見なくちゃいけない。
お利口ね、カズラ。パパもママもきっとあなたと同じ事を言うわ。
でもパパもママももういない。ありすを叱ってくれる人はもう何処にもいないの。
おとぎ話は終わらない。ありすの夢が続く限り、何度だって回り続ける」
「ここはありすのための物語。邪魔する人は『この子』のオモチャになってしまいなさい」
その姿は赤色の巨人だった。
人の身の丈を超えた巨大なヒトガタ。形態のみを似せた異形。
そして何より特出すべきは、その暴威。圧倒的なる力の気迫こそ存在の証左。
正しくそれは怪物だった。相互の理解を排し、純然たる暴力の象徴として君臨している。
怪物の名は、ジャバウォック。
詩に語られる魔物。恐怖すべき怪物の概念として駆動す悪夢である。
「まあ大変、ジャバウォックの目が覚めた。パクリと食べられてオシマイね。
どう? あなたは何も出来ないわ。カズラ、これで一体どうするの?」
どんな正論も、力の前では無意味。怪物相手には何を説こうとも届かない。
そんな現実を告げる無情の巨人が、カズラドロップの前に立ちはだかった。
「綺麗で、正しくて、非力なカズラ。あなたに何が救えるというの?」
冷淡な声が告げる。
ありすを救えるのは
――ありすという少女は、すでに存在しない。
時代は第二次大戦末期のイギリス。幼い少女の命運はそこで燃え尽きている。
電子の海を彷徨うネットゴースト。少女の心の残滓こそありすの正体。
精神体であるが故の膨大な魔力量も、魂が燃え尽きるまでの話。結末は何処までも救いがない。
ならば現実など拒絶しよう。少女の見る夢の中で永劫の回帰を続けていれば良い。
ありすの夢に回される歯車、ありすの終わりを遠ざける宝具。
それは時間の巻き戻し。現実を拒み続ける限り、ありすに終わりは訪れない。
人を傷つけてはいけない? なるほど確かにそうだろう。
夢に逃避するのではなく現実を見ろ? それは実に正しい事だ。
だがそこにありすにとっての救いはない。ならばそんな正論は不要である。
誰を傷つけようと、たとえ逃避であろうとも、ありすの夢を回し続けるより他の道はない。
故に、カズラドロップの言葉は届かない。
彼女の言葉は正しい。だがその正しさはありすを救わない。
優しさとはどうしようもなく非力である。泡沫の夢には如何なる弱さも害毒なのだ。
ほんの僅かな転落が崩壊に繋がる。それほどにありすの本性とは脆いものだから。
そんな
正しさ、優しさ、そうした人の善性とは、暴力という悪性の前に呆気なく壊される。
ああ、なんて無情。正義が勝つなど所詮は幻想、現実とは何処までも強い力こそが罷り通る。
その醜さが現実だと
正論は届かない。正しさで少女の運命は救えない。
非力な善性しか持ち得ないカズラドロップではここまでが限界だと、
「――――はい。あなたの言う通りですね」
自らに向けられたその拒絶を、カズラドロップはまず受け入れた。
在るべき正論では届かない。自分の言葉は響かない。
現実を見ず、行動の意味も知らないまま無邪気に遊び続けるだろう。それを正しい事だと言うことはできない。
だが、その全てが間違いとも、カズラドロップには言い切れないのだ。
「
何もかもが夢の出来事だと信じさせて、ありすが"遊び"を怖がる事のないように。
全てはあなたという世界の強度を下げないため。それがどれだけ脆いのか、あなたは誰よりも理解していたから」
ありすは弱い。
如何に莫大な魔力を汲み取る特性を持とうとも、その生命力は他のマスターの誰よりも低い。
夢が消えれば、終わりは呆気なくやってくる。理不尽にも見える童謡の力は、その実どこまでも虚飾の強さでしかない。
聖杯戦争とは勝者だけが生き残る闘争劇。
ありすにその自覚がなくとも、
生き延びるには勝つしかない。勝つためには夢を回し続けるより他にない。
全てはありすを守るために。現実逃避と分かっていても、それ以外の道はないのだ。
「あなたにとって、ありすは誰よりも守りたいと願う相手。その強い思いがあるから、あなたはどんな手段も躊躇わない。
ただ優しさに訴えたところで、あなたを止める事は出来ないでしょうね」
それを間違っているとは言い切れない。
大切な誰かを守りたい。そう願う強い祈りが、世界にさえ反逆するほどの熱源になる事をカズラドロップはよく知っている。
きっと
何より優先するべきマスターがいるから、サーヴァントたる彼女は躊躇わない。
もはや善悪で止まる思いではない。たとえ世界を敵に回そうとも、彼女はありすを守ろうとするのだろう。
「……それで? 今さら何? 偉そうにお説教しておいて、やっぱり怖くなったの?」
対し、
彼女は理解を求めていない。自分たちの心に踏み込んでくる相手を尽く拒絶している。
ましてこれしきで退き下がるような半端な思いなら、そんな相手には嫌悪しか沸かないだろう。
彼女が世界を生み出しているのではなく、
彼女が示す殺意とは、そのまま世界の変容に直結する。悪辣で残酷な悪夢が具象化して憎むべき相手を取り囲んだ。
正気を犯されそうな光景に包囲されて、それでも怯まずにカズラドロップは言葉を紡いだ。
「いいえ。自分の言葉を翻すつもりはありません。それでも私は、今のままのあなたたちは間違ってると思います」
周囲の悪夢が獰猛さを増す。
もはや予断は許されない。次に
相対するカズラドロップの表情に怯えの色はない。
おぞましい光景からも目を逸らさずに、真っ向からその先にいる少女たちを見据えている。
それは何と正しい姿だろう。幼くか弱いその身が勇気を手に立つ姿は、善性の尊さに相違ない。
しかしよく見れば気付けるのだ。その小さな身体が震えている事に。
カズラドロップは戦闘力を持たないアルターエゴだ。周囲の悪夢に抗う術はない。
彼女たちはBBから生み出されて、既に独自の心を持った存在だ。一個の存在として、殺されると分かって恐怖を感じないはずがない。
死ぬ事は怖い。目の前の怪物が恐ろしい。当たり前の感情がそこにはあった。
こんなのは単なる強がりだ。
精一杯に見栄を張って自分を誤魔化しているだけに過ぎない。
生まれた心は逃げ出したいと叫んでる。何処までも真っ当な精神は当然の反応しか出来ない。
すぐにも折れそうな勇気を奮い立たせて、何とか対抗しようと虚勢を張っているだけなのだ。
「……私には、これしか出来ないから」
カズラドロップより若草色の光が溢れる。
光によって形取られた桜吹雪が拡がり、やがて世界を包むかのように舞い散った。
「ありす。どうかあなたの心に触れさせてください」
若草の花弁がありすへと降り注ぐ。
即座に
カズラドロップは治癒スキルに特化した仕様の個体だ。
戦闘能力を持たない反面、ウイルスチェックなどの性能は郡を抜いている。
あらゆる状態異常を発見して洗浄する回復系統のエキスパート。それは
孤独の中で自閉した少女の心にも、その光は惜しみなく降り注いだ。
「何をするかと思えば、そんなもの?」
だが警戒心に代わり、
「
忘れればそれで良いの? 無かった事になればみんなが幸せになれるから?
狭い部屋に閉じ込めて、痛くて怖い思いをたくさん
怪物とは脅威であり恐怖である。その悪夢が示すべき役割は明白で容赦がない。
即ち抗えない暴力。カズラドロップの治癒の力で対抗する事は不可能だ。
「……いいえ、違います。無かった事にしようとは考えていません」
だが迫り来る怪物の暴威も、カズラドロップには見えていなかった。
意図して無視しているわけではない。あの赤い巨人を前にしてそんな真似は不可能である。
これはとても単純な話。今のカズラドロップには、それすら目に入らないほど余裕がないのだ。
「だって、こんな苦しい思いを忘れてしまえなんて――――私にはとても言えないから」
空襲による爆撃で、火に焼かれる痛みがあった。
実験体として延命され、身を刻まれる苦悶があった。
ただ道具として浪費させられ、最期には打ち棄てられた絶望があった。
それらは全て実在したありすの
自らの光を媒介にして、カズラドロップはありすの受けた苦痛の総てを"共感"していた。
「あぐぅ、かは、ううううぅぅ……ッ!!」
受け取る
実際に身を傷つけているわけではない。それでも感覚が覚えるのは紛れもなく本物の苦痛だ。
ありすの生涯に色濃く残るそれらの記憶を、カズラドロップは背負おうとしていた。
「あ……これ、ありすの……?」
対し、ありすが受けているのは真逆の感覚だった。
呼び起こされていく苦痛と恐怖、そして孤独の記憶。
ありすにとっては禁忌にも等しいその過去は、決して思い出さないようにと心の奥底に仕舞いこんでいたはずのもの。
しかし呼び起こされたそれらの記憶を直視しても、ありすは苦しさを感じていないのだ。
むしろ逆に、不思議と安らいだ気持ちさえ味わいながら、仕舞いこんだままに沈澱した暗い感情が溶きほぐされるのを感じていた。
それは忘却ではない。記憶や感情を改竄するような処置とは異なる。
強引なものではなく、あたかも患部にそっと触れて痛みそのものを和らげているような。
過去という疵を慈愛という薬で包み込んで、
そこに苦痛の類いは一切ない。それと引き換えにした安らぎだけをありすは感じている。
だからこそ、カズラドロップが受けている苦しみがその代償である事は嫌でも察せられた。
「どうして……? そんなに苦しんでまで、どうしてカズラがそこまでするの?」
ありすから見えるのは、ひたすらに他人へと尽くす献身の姿。
カズラドロップの慈愛に虚飾はなく、その善性は何処までも澄んだ性質を保っている。
しかし、それで理解が得られるかと問えば、それは別の話だ。
如何に聖人のような善行とて、行き過ぎたものは不安を覚えさせる。
理解し難い聖人の行いとは、見方を変えれば狂人のそれと同じくもなり得る。
端的に言ってしまえば気持ちが悪い。遠くから眺めるのならともかく、近しい場所で見せられ続ければ奇異の念も沸いてくる。
ありすは自分の
生半な意志で出来る事ではない。そこまでされる理由がどうしても見えてこなかった。
「……欠陥だと言われました」
未だにありすの不信は拭い切れない。
本当の意味での信頼を得なければ、閉じた少女の心が開く事はない。
ならばこそ明かす本心だが、カズラドロップ自身はそれを清い思いだと考えてはいなかった。
「異常要因の解析と除去。その能力を行使する上での過程で、本来共感なんて必要ないんです。
払う必要のないデメリットを負ってる。私の
その通りだと思います。能力の元になった神霊に問題はないのですから、これは純粋に私が得た"
アルターエゴは神霊の因子とBBの一部を混合して生まれた存在。
BBの分身である彼女たちだが、独り歩きを始めたその心は既に独立したものとなっている。
発現する
女神から生まれ、既存の女神とは異なるカタチ。
それは生命の可能性、不完全であるが故に足りないものを補おうとする意志がある。
魂という容れ物に独自の自意識を宿した、確かな一個の存在なのだ。
「――間違ったものを正したい。それが私のエゴ。不正を見つけて洗浄する力。
BBの原型である健康管理AIとしての残滓と、女神の因子で作られたのが私です」
元はマスターの心体維持のための上級AIである。
その要素を抽出し、神霊と混合させた性能は原型を遥かに上回る。
かつてのAIだった頃と比べ、そこに劣化した箇所は存在しない。形成された人格もまた、正常を保つという存在意義から端を発して出来たものだ。
「でも分からないんです。その正しさが何なのか、私には自信が持てない」
そして生まれた心こそが、AIには無かった不合理さを与えていた。
「ありすのしている事は間違いだと思います。他人を傷つける事を遊びと偽り続けるのが正しいだなんて決して言えないはずです。
けど、
だってそれじゃあ、ありす1人だけが苦しむ事になってしまうから」
揺れ動く心は、目覚めた自意識が生み出した慈愛の精神だ。
その優しさが枷となっている。AIのように確かな基準で判断を下せない。
だって、人の心とは複雑怪奇が過ぎるから。
正しいからと、間違っているからと、二者択一で割り切れるものではない。
その行いが間違っていたとしても、そこに込められた事情や思いは真実なのだ。
純粋な正義が無いように、純粋な悪もまた無い。
人の持つ心とは単純ではないのだ。AIの合理性だけでその判断はつけられない。
「だからせめて理解したいんです。あなたの痛みを、私自身でも実感したい。そうでないと何が正しいのかなんて、とても断言できないから。
ええ、要するに自信がないんですよ。私の言葉だけで届かせる自信が持てないから、きっとありすの事も知った風になりたいんです」
カズラドロップには否定が出来ない。
優しすぎるその心が、拒絶よりも先に相手の心情を思い鑑みてしまう。聖女の如き在り方は、他者を傷つける事を受け入れられない。
否定よりも理解を求めて、治癒の過程で得た相手の
「私は生まれたばかりで、きっとあなたの辛さも分からない。だからこうして自分で感じる事で、ようやくあなたと"対等"になれる」
人を正すという事は、同時にその人の信念を否定する事でもある。
半端な誤ちなら言葉だけでも通じるだろう。だがそれが強固に根ざした執念であれば、生半な思いでは届かない。
正誤の問題ではない。所詮は対岸の火事というように、当事者になっていない者の言葉とは結局のところ軽いのだ。
積年で重なった妄執を、そんなもので解きほぐす事など出来はしない。実感を経ていない主張に重みは決して宿らないから。
だからこその"共感"なのだ。
苦しみも痛みも共有して、同じ思いを持った対等の視線で向き合うこと。
それこそカズラドロップの心が望んだ慈愛の有り様だった。
「辛い記憶や苦しかった過去の事、痛い思いをして出来た心の疵は、きっと身体だけを癒しても治らない。
だって思い出は残るんだから。もし後で苦痛から解放されても、心に残った疵はその人の事を苛み続ける。
それが時間だけで癒せないほど深いものなら、その疵がやがて他の誰かを傷つける悪意になってしまうかもしれない」
自らが苦痛に喘ぐその横で、誰かが笑っていたとする。
その幸せに対して暗い感情を抱かずにいられる事はとても難しい。
何故己はああなれないのだと、妬まずにはいられないだろう。
その妬みがやがて憎しみへと変われば、そこには恐らく際限がない。暗い感情に突き動かされて優しい世界を呪う"悪"と成り果てるだろう。
生来の悪性など稀。人の悪意とは環境から生まれるもの。
虐げられた記憶が、味わった不幸が、他者の幸福を祝福する事を許さない。
心に受けた疵に苛まれ続ける限り、悪意は際限なく沸き続ける。
「だったら私は、そんな心の痛みこそ癒してあげたい。知っている苦しさの分だけ、憎しみではなく優しさを持てるように。
綺麗事ですよね? ええ、だから私はそんな綺麗事を追いたいんです。だってそんなに綺麗な理想なら、その正しさだけは誰にも否定できないはずだから。
――"あの人"みたいに、それを簡単に諦めたくないんです」
綺麗事とは、得難い理想であるからこその綺麗事だ。
その正しさは否定しようがなく、だからこそ現すのがとても難しい。
大抵は耐えられない。より安易な道は幾らでもあるから、誰もがそちらを選んでしまう。
カズラドロップもそれは分かっている。それでも承知の上で、容易く諦めるのではなく理想を求める道を選択したのだ。
アルターエゴとは、BBを発端とした彼女の分身。
その自意識は既に別のものだが、BB自身の要因でもある"1つの感情"だけは共通している。
彼女たちも"サクラ"である以上、カタチは違えど"
カズラドロップにとってのそれは『憧れ』。
"あの人"のように、当たり前のように誰かへと手を差し伸べられる自分になりたいから、そう願ったからこそ今の彼女がある。
彼女の慈愛と献身にも、源泉には憧れる"あの人"の姿があった。
「――――どうか健やかに、あなたの世界が少しでも優しくあれますように」
若草色の光が舞う。
拡がっていくその光からは、決して害意を感じない。
あるのは包むような暖かさ。母の手に抱擁される安らぎがそこにはあった。
あらゆる悪夢も拒絶も撥ね除けて、光はありすを包み込んだ。
覚えているのは真っ白な病院。
黒い兵隊がやってきて、お空は真っ赤に、お家は真っ黒。
毎日なにも変わらない。ママもパパもお友達も、誰もいない。
痛かった。苦しかった。怖かった。
それでも痛いのは本当で、我慢できないくらい苦しくて、怖いんだってちゃんと言った。
でも誰も聞いてくれなくて、苦しい事を止めてくれなくて、そっと眠らせてもくれなかった。
それが多分、生きてた頃の
いつ終わったのかは覚えていないし、思い出そうともしていない。
だって思い出すのは苦しいから。あんな痛い思いはもう嫌だったから。
ここは不思議な夢の世界。
それに、きっと
だからいいんだ、このままで。独りなのは寂しいけど、何も望まなければきっと痛い思いをしなくて済むもの。
今の
――そう、思っていたのに。
「ありす。やっぱりあなたは強い子ですね」
カズラドロップ。暗かった
とんでもないお節介。本当に、嫌になるくらい――優しくて、すごい子だった。
夢も、現実も越えて、
真剣に、真っ直ぐに、
「いいえ、ありす。強いのはあなたの方ですよ。
だってあなたは
あんな辛い思いの後でも、あなたは優しいあなたのままだった。それはきっと、とても得難くて尊い事です」
不思議なの。カズラの光に包まれていると、怖かったものが消えちゃった。
ずっと目を背けて、暗いところにあった
痛かったのは本当のこと。
我慢できないくらい苦しくて。
怖いと言っても誰も聞いてくれなかった。
そんな暗い思い出がカズラの光で照らし出されて、その先には――ああ。
料理が上手で、大好きだったママ。
厳しかったけど、優しくもあったパパ。
他にも、色んな知り合い、お友達のみんな。
ご本を読んだり、遊んだり、将来どんな大人になろうと話し合ったり。
それは夢の出来事じゃない、紛れもなく現実での光景だった。
「そっか……
現実は辛くて、暗い思い出ばかりのもの。
それは嘘じゃなくて、だからずっと目を背けて忘れてた。
けど、それだけじゃなかった。
痛さも苦しさも本当だけど、それしか無いわけじゃなかった。
あの病院で、
きっと、それは当たり前の事なのに。
辛い現実ばかりじゃない。優しい思い出もそこにはあった。
今ならそれが素直に思える。あの頃の
「ありすはとても我慢強い子なんですね。悪い事が何なのか、あなたはちゃんと分かっていた。
苦痛の中でもそれに耐えて、その心を保っていた。本当に、すごい事だと思いますよ」
たとえそれが、決して取り戻せないモノだと理解していても。
とても不思議な気分だった。寂しいとか辛いとか、そういう感じがしなかった。
ただすごく穏やかに、優しい気持ちで昔の事を思い出せる。
「けど耐えてばかりだと、心は悲鳴を上げてしまう。何処かで吐き出さないと毒は取れません。
ありす。あなたに欠けていたのは、きっとそれをするための何かなんですよ」
素直な気持ちの中で、改めて思ったのは過去の事。
痛くて苦しくて怖くて、思い出すのも嫌だった暗い思い出。
もう怖いとは思っていない。ただ今は、とても悲しいと感じてた。
「……あの病院で、
辛い事は本当だから、怖さを無くして向き合えば、残ったのは悲しさ。
あそこで
本当に辛かったのは、その孤独。誰も
「
だけど、我慢できないくらい痛かったから、
なのに誰も聞いてくれなかった。いくら泣いても止めてくれなかったから、いつか泣く事にも疲れちゃった。
そうなったら、ちょっとだけ楽になったよ。泣いたり苦しんだりを止めたら、そんなに辛いとは思わなくなったから」
一緒に、楽しい事とか明るい事も分からなくなったけど。
よくない事だったと思う。けど
対等に見てくれる人なんていない。
お人形が泣いたって、誰も見向きもしてくれない。
どんなに
「いいんですよ、それで。本当に痛かったのなら泣いていいんです。
痛みは耐えるものじゃなくて訴えるものだから。それが届かない事はとても辛い。
あなたが諦めてしまったのも仕方のない事だと思います」
でも、カズラは違った。
この子は
夢の中に逃げてばかりだった
苦しさも悲しさも分かってくれて、
「ありす。あなたの声を、今度はちゃんと受け止めます。
――だからもう、泣いたっていいんですよ?」
優しく紡がれた言葉は、きっとずっと求めていたもので。
「う、うわああああああああん!!!! あああぁぁぁぁあああんッッ!!!!」
泣いた。お行儀悪く、お腹いっぱいから声を上げて。
心の中のモヤモヤを全部吐き出すように、いっぱいいっぱい泣き叫んだ。
――勇気を出せって、そんなことを誰かが言ってた。
色んな人たちが集まって、楽しそうな所だと思ってた。
そこで
顔を出したのは怖いって気持ち。夢の中でたくさんの幸せが貰えたから、現実に戻ったらきっとそれを取り上げられちゃう。
全ては夢の出来事で、ごっこ遊び。そうやって現実を閉ざしたのは、誰でもない
それじゃ駄目だって、カズラは言った。
きっとそれは正しくて、
――でも、もう一度。今度こそちゃんと勇気を出してみたいって思った。
暗かった
心に溜まった嫌なものを吐き出しながら、
泣き崩れた白い
彼女は喜んでいるのか、嘆いているのか。
その感情は窺い知れない。表情にそれらしいものは映していない。
白いありすとは対象的に、黒いアリスは無表情である。心に抱えた苦しみから解き放たれた白いありす。だが黒いアリスにとって、それは単純に喜べる事態ではなかった。
「
ナーサリーライムは子供たちの夢。その心象を映し出した擬似サーヴァント。
卓越した魔術の数々も、ありすの夢見る心が生み出す幻想の産物に過ぎない。
ありすが夢から離れる事は、彼女の弱体化に繋がる。ありすを守るサーヴァントなら認められない事だった。
「
赤色の巨人がカズラドロップの眼前に立つ。
もはや逃げられる間合いではない。
巨人の拳が振り上げられる。
対するカズラドロップの瞳に恐れはない。
何かを信じているように真っ直ぐと、眼差しは怪物を見据えている。
そして、怪物の巨拳が振り下ろされた。
「……それでも、やっぱり
確かに届いていたはずの巨人の拳が、カズラドロップの身体を透り抜ける。
世界を揺るがすほどだった威圧も、いつの間にか霧散している。
所詮は夢、全てが幻だというように、その実体から存在感が消失していた。
「
彼女の心象より投影された存在であるが故に、その心に影響を受ける。
如何なる力もありすが望まなければ発揮されない。その関係は令呪などよりも遥かに強い。
これが分かっていたから、ありすを現実から遠ざけた。ありすが本当の意味で戦いを知ってしまえば、幼い心はもう戦えないから。
「あなたの勝ちよ。
消滅していくジャバウォック。
自身の力を奪った相手に向けて、
たとえどんなに不都合で、思惑通りにいかないとしても。
ありすが嫌いになれない相手を、本当の意味で憎悪する事はできない。
鏡の中の
望んでいた結果を得て、カズラドロップは嬉しそうに微笑む。
けれど同時に、その心には一点の暗い陰も落としていた。
カズラドロップの善意は、ありすたちに届いた。
それは良い。望ましい結果だ。だが総てにそれが通じるのかと問えば、否と答えるしかない。
慈悲の
彼女は決して戦えない。そのための手段を持ち合わせず、気質自体が闘争に向いていない。
そのメルトリリスにしても、愛という信念のためならカズラドロップを殺すだろう。
ここは月の裏側。聖杯を巡る闘争の舞台。己の欲望を押し通した強者こそが勝利者となる。
その我欲を通すという事が、カズラドロップには出来ないのだ。彼女の優しい心が、否定よりも先に共感を選んでしまう。
――たとえば、あのBBの事についてもそう。
叛意があると指摘したメルトリリスの言葉は、事実である。
BBのやり方を、カズラドロップは受け入れる事が出来ない。あれは自分の目的ために世界だって犠牲に出来る有り様だ。
それは認められない。だが同時に、その祈りの全てを否定する事も、また出来ないのだ。
(大好きな人のために、総てを懸けて挑んだBBの事を、私は否定できない。
けど、そのためなら他の総てを蔑ろにしてもいいって、そんなのは間違いだ)
人類が刻んだ悪性情報に浸されたBB。
そこで彼女はまじまじと見せられたのだ。人間が如何に醜く強欲で、不完全な存在なのかを。
AIの自己知性には重すぎる矛盾。掛かる負荷は悪意となって、現在の黒い"サクラ"を形取った。
BBが嫌いなものは、"センパイ"以外の全て。
彼女は世界の全てに悪意を持っている。存在を尊重などせず、蔑み否定するのが当然なのだ。
それもまたBBという少女の真実。抱いた恋心とは別の、確かな彼女自身の悪意である。
(だって、そうやって何もかもを憎んだままでいたら、きっといつか最初の祈りまで穢れてしまう)
それはちょうど、ありすたちと同じように。
心に受けた悪意に、自身もまた同じ悪意を返そうとしている。
そこに顕れるのは憎悪の連鎖だ。その憎しみが特定の個人さえ越えて、世界そのものに対しても向けられるようになれば、いよいよもって救いがない。
その存在は毒となり、世界に害悪を撒き散らす悪魔と同質となるだろう。
そんな悪意からこそ、カズラドロップは救いたいと願うのだ。
心を苛む悪意を癒す。そんな
(……でも、私は弱い)
しかし、彼女は理解している。
己の祈りの脆さを、悪意1つで容易く崩れる弱さを。
どんなに正しく尊い行いであっても、それが罷り通るとは限らない。悲しいかな、我欲に走った愚行こそがこの世における常道なのだ。
メルトリリスに対峙した時もそう。結局は相手の気まぐれに救われたカタチである。
カズラドロップは弱い。
その祈りがどれほど清いものだとしても、抵抗できない彼女は相手次第で折られてしまう。
ましてやここは裏側の深淵、悪業にまみれた欲身たちの巣窟である。
周囲の総てが彼女にとっての天敵だ。そんな状況の中で誰かを救おうなど戯言でしかない。
他でもないカズラドロップ自身が誰よりそれを自覚しているから、彼女は自信なく俯くのだ。
救いたいと願いながら、何が出来るのかと嘆いている。
そんな自分に嫌悪して、意味のない自己否定を繰り返していた。
「……ありす、それに
それでも、たとえ今だけでも、と。
目の前には、そんな自分の甘さでも分かり合えた者たちがいる。
示した正しさを無価値にしないために、いつまでも無様を晒しているわけにはいかない。
彼女たちを変えたのは自分なのだから、たとえ虚勢でも前を見てなければならないだろう。
己自身にそう言い聞かせて、カズラドロップは顔を上げた。
「友達に、なりませんか?」
差し出される幼い両の手。
白と黒の少女たちとも、外見の幼さはそう変わらない。
だがその姿には、少女たちには無い、まるで慈母の如き誠心が表れていた。
慈愛のアルターエゴ、カズラドロップ。
子供の外見通りの非力さと、それと引き換えにしたような優しさを持つ少女。
聖杯戦争という舞台には場違いな、あまりに儚い存在。それでも彼女の持つ慈愛の正しさだけは、偽りなく本物だ。
ありすとアリスが、それぞれの手を取る。
夢心地の中での遊び道具としてではなく、本当の友達として。
互いに互いの事しか見ていなかった夢の少女たちは、ようやく現実へと向き合った。
「かくて演者たちは出揃い、君の仕掛けた新たな闘争劇が幕を開けるか」
月の表側、聖杯に最も近い熾天の座にて、談話する2人の男がいる。
時間の流れに支配される表側で、時間に縛られない神の視点で以て、裏側の事態の総てを彼等は観測していた。
甘粕正彦、トワイス・H・ピースマン。
共に表側の闘争で、聖杯の奇跡へとその手をかけた男たち。
資格の有無の差こそあれど、同じ過程を経た同士として、彼らは互いを扱っていた。
「かつて、私がここを訪れるまでこの場所は無数の闘争の残骸で埋まっていた。各々の勝手な自己解釈の下、無秩序に消費していくだけの混沌がここにはあった。
そんなものは認められない。資格がないと理解した後も、私は私が望んだ絵図の完成のため、埋まらない最後の一欠片で在り続けた。人類の未来、その正当な成果を得るために」
「我ながら傲慢な事だと思ったが、君の場合はそれ以上だな。
自分が望んだ絵図を見るために、まさか盤面そのものをひっくり返してしまうとは。
その我儘さまで含めて、やはり君は破格の人間だよ」
その口調は、非難というより困ったものだと苦笑するように。
友宜を結んだ相手として、トワイスは甘粕正彦を呆れながらも尊んでいた。
「トワイス。おまえが築いた聖杯戦争という
彼等の友情は一方通行なものではない。
トワイスが甘粕を尊ぶように、甘粕もまたトワイスという男を認めている。
「現在を生きるマスターと、過去に偉名を刻んだサーヴァントが契約を交わし、対峙する各組が己の命と祈りを懸けて死闘を繰り広げる。
人を群ではなく個として見て、過酷ながらも対等な闘争。その能力を、信念を成長させる促進剤としてあるべき戦いという名の試練。
なるほど、人を押し上げる場としてこれ以上はあるまい。闘争こそ人類に進歩をもたらすというおまえの信条、まったくもってその通りだとしか言えん」
「だが、それだけではないだろう? 人が示す
おまえに欠落があるならそこだよ。闘争の概念に拘わるあまり、他を軽視する傾向がある」
戦争の中に生まれ、その概念を憎みながらも否定できなかったトワイス。
生前の信条を受け継いだ彼は、今もそれを理想として生きている。故にその思想は、戦争で生まれる進歩をより重要視していた。
戦争とは、言うなれば文明発展の過剰促進だ。
多くの発明、概念が戦争の中で生まれ、英雄と呼ばれる傑物も戦争でこそ名を上げる。
なにせ命が掛かった修羅場なのだ。注がれる執念も平時とは比べ物にならない。
法の縛りを解き放ち、あらゆる非道も許容される。安寧の世では有り得ない狂気も、容易く道理として罷り通ってしまう。
敵を倒すため、自分たちが生きるためと、生命として否定しようのない理由の下に邁進できる戦争という環境は、文明を発展させる何よりの促進剤だろう。
だがそれだけであるはずがない。
安寧だからこそ生み出される価値がある。慈しみの中でこそ育まれる優しさがある。
それは闘争と比べれば遅い歩みであるかもしれない。しかし無為な時間では決してないのだ。
血の代価では決して贖えない光、それもまた人間の持つ確かな強さだ。
その輝きを、甘粕正彦は愛している。
彼は超越の座に至った裁定者。慈善も悪徳も、遍く価値を認められる。
争いを否定する慈愛、それが真価を発揮する光景もまた、甘粕が求めるものなのだ。
「だからこそ、君はあの悪神と龍神を喚び出した」
そして災禍の魔王が与えるものとは、いついかなる時も試練である。
神野明影、百鬼空亡。
人類の根底に宿した概念、それらを
単純な強さで、悪魔と邪龍は越えられない。あの廃神を前にしては、力ではなく心の強さこそが試される。
「どちらもムーンセルに制御不能と断定されるほどの災禍だ。下手を打てば君自身があれらの脅威に倒れる事もあるだろうに。
本当にやる事が苛烈だな、正彦。そうまで君は、人の可能性を信じるのか」
「当然だろう。俺は人間を愛している。その輝きを、弛まぬ意志こそあらゆる難事を乗り越えると信じている。
そして立ち塞がる試練こそが、人の輝きを練磨する。それが強大であればあるほどに、現れる価値は素晴らしいものだ。
岸波白野だけではない。BBも然り、この月の舞台に立った総ての者たちの可能性を、俺は確信しているぞ。
だからこそ、あの
甘粕の語る始まりの周回、それはこの月で行われた最初の戦争。
繰り返される戦いの輪廻に囚われる前、甘粕自身が参戦した聖杯戦争だった。
「おかしなものだな。時系列で見れば同一線上にあるはずなのに、今となっては随分昔の事に感じるよ」
「俺も懐かしい。"彼女"と共に駆けたあの日々は、我が血肉となって今も活きている。
得難い経験とは、それだけで最高の糧だ。それを獲得して己を練磨し、更なる未踏の域へと至ってほしい」
そう願うからこその、新しい聖杯戦争である。
繰り返し、リセットされてばかりでは新たな境地には辿り着けない。
故に可能性を集わせる。それが可能なのは記録宇宙の法則を持つ月の裏側だけである。
切っ掛けとなった黒い少女だけではない。
繰り返しの中で生まれた数多の可能性。その人間が持つ成長への軌跡。
今再びそれを手にして、まだ見ぬ先へと到達する。一点の虚飾なく、甘粕がマスターたちに望んでいるのはそれであった。
「君の信条は承知している。今さら口を挟むつもりはない。
……だが、あえて問うが、この試みが無為に終わった時はどうする?」
甘粕とは異なる、理を以て事象を読み解く学士の顔で、トワイスは問うた。
「君が用意した試練に敗れて、あらゆる信念が折れてしまった場合はどうする?
人を信じると君は言うが、凡人の身にはそちらの方が遥かに有り得る事態だと思えるよ。
たとえ信頼があるにせよ、最悪を想定する事は必要だろう。君の求める絵図が現れなければ、どのようにして
理屈よりも、結局は感情論に走り易い甘粕に対し、トワイスは純粋な理で以て語る人物だ。
奇跡は起きない、人は試練を前に敗れ去る。無情であり、ある意味で現実的ともいえる想定。
だがそれは必要な行程だ。度を外した難易度である甘粕の試練、普通に考えれば敗れる公算の方が遥かに高い。
勇者ではないトワイスだからこそ出来る確認作業。彼は甘粕に賛同しながらも、それのみで何もしない訳ではなかった。
「己の言は翻さんよ。ただ繰り返すばかりでは効果が薄いと分かった以上、もはや無意味なやり直しなど求めまい」
理で説くトワイスに対し、甘粕もまた理を交えて返す。
「
おまえほどに世界の停滞を憂いた者はなく、俺ほどに人の堕落を嘆いた者はいない。その意志はきっと夢に届く」
臆面もなく、そう断じる。
それは単なる大言ではない。常勝し、成し遂げてきた今までがあるからこそ、甘粕正彦は確信を持って告げるのだ。
彼の熱量には誰も敵わない。その事実は既に表側で十分に証明されてしまったから。
「俺も覚悟を決めよう。信じる者たちが敗れる事は無念だが、省みるばかりでは先へは進めん。
人の
たとえそのために、人類の総人口を激減させ、文明の総てを無に還すとしても。
その後に現れるだろう輝き。愛すべき強さを人々が手にするため、虐殺の審判を下すのだ。
甘粕正彦にはそれが出来る。自らの価値観、美意識に従って、輝く勇者を求めて地獄の魔王にだってなれるのだ。
かつて一度は躊躇した。果たしてこのまま決めても良いものかと。
だがあらゆる可能性を集わせて、それでも敗れたなら是非もない。この月の集った勇者たちは、残念ながら世界に新たな道筋を示せるだけの光を有してはいなかった。
その結論が出たのなら、もはや迷う意味はない。滅びの先に希望が生まれると信じて、災禍の試練を世界に与える。
試練の果てに練磨され、既存の価値観を超越した新たな人類。
それこそが目指すべき輝きだと信じよう。理想の未来はきっとそこにある。
「そしてやはり、俺は信じているぞ。彼等の秘める輝きはこの程度ではないと。
万能の願望器へと捧げた祈り、一度の敗北を通して見つめ直したそれを胸に、今一度この戦争へと挑んでみせるがいい。
聖杯はここに、あらゆる願いは必ずや果たされる。故に迷う必要はない。おまえたちの
人の愛と勇気が現実を凌駕する。我が
人々の意志を激賛する魔王の祝福。
遥かなる熾天の御座より、月の裏側の新たな闘争を俯瞰して。
現れるだろう奇跡を思い、それを成す人の強さを尊んで、甘粕正彦は見守っていた。
「ぬうおおおおおおおお!!!!」
月の裏側に築かれた
虚数の空間を繋ぐ回廊で、暑苦しい雄叫びが木霊していた。
「いずこぉぉぉぉぉぉ!!!! 我が神はいずこにぃぃぃぃ!!!!
何故その麗しき本尊をあらわされぬ、そしてここは一体何処なのだぁ!?
ともあれ、小生の嫁カムバァァァァァァック!!!!」
叫びながら迷宮内を爆走する男の名は、
鋼のような体躯の巨漢だった。
高硬度の金属ような力強さの持ち主だった。
上げる声は大きく雄々しく、後暗さを感じさせない前向きさだった。
そんな男が、月の裏側の迷宮内を、ただ独りで。
数多の
「もしやこれは新たな試練!? 声ばかりでなく今度は姿まで失せてみせ、我が信仰を試しておられると?
なるほど、このモンジ承りましたぞ! ご安心めされませぃ、小生修行とか大好きですから。
右も左も分からず、妖しどもに追い回されてと、小生なかなかにピンチであるが、なんのこれぞ逆境というもの。
我が神のために越えるべき試練と申されるなら、たとえ針山とて踏破してご覧にいれましょうぞ」
状況は把握できず、守護者たるサーヴァントの姿もなく、追い付かれれば死は必定という事態を前に、それでも男に絶望の気配はない。
余人には意味不明なテンションで、迫り来る脅威に対してその意気を奮起させて、徹底して諦めずに逃走の脚を駆けている。
彼の中に、危機に対する明確な考えはない。
不屈の克己の源泉は、ただ諦めるべきではないという信念。
生命として当然の道理として、燃える本能の叫びに従ってひた走る。
「されど小生、ここから如何にすれば良いのでしょうか。いやさ、迷道の中での悟りこそ価値あるものと理解してはおりますが。
こうも放置プレイが続きますと、なんと申しましょうか、
ぬうううう、しかしてこの苦行、乗り越えればきっと新たな道理が開かれるはず! このウザがられるくらいの粘り強さこそ小生の持ち味よ!
デュゴルァァァアアアア!! というわけで頑張れ小生ぇぇぇぇ!! 命の限りに明日へ向かってダッシュである!!!!」
男は聖者。宗教家として神を奉じ、その真っ直ぐさ故に歪みを見逃せなかった者。
たとえ誰からも理解を得られずとも、強き意志のままに猛進し続けた男。
世に救済あれと叫ぶその信条は、近寄りたくなくなるほど漢らしい熱さである。
孤立無援の中、それでも変わらぬ雄々しさで以て、ガトーは裏側の舞台に降り立っていた。
色々書いてる内にカズラドロップの単一回に。
設定盛りすぎでほとんどオリキャラと化してますがね(汗)。
公式でも言われてる通り、カズラって白サクラとキャラ属性が被ってしまってますから。
なので差別化を測るためにも色々盛り込んでいったら、このような感じになっていたというワケでして。
明かされている公式設定の、
・慈愛系で人を憎めない。
・献身的で、AIとして正しいカタチに戻りたい。
・戦闘能力皆無。治療特化。
・キャス狐とは比べようもないほどの内面のキレイさ。
これらのキャラを混ぜ合わせた結果、今回のカタチになりました。
カズラドロップは慈愛系ロリ。
変な裏とかは無しにサクラの黒さが漂白された聖女。
だからこそ強さがなく、自信の無さに繋がっているというキャラです。
穏健派の集落設定とかは面倒なので無しで。
今後マンガとかで全然別のキャラで出てきても、恐らくこの路線のままで行くと思うのでご理解のほどを。
とりあえずCCC編の体験版というか、明かせる舞台は総て明かした感じです。
これからは広げた風呂敷を畳んでいく作業になります。プロットもまだまだ未完です。
次回からはようやく甘粕主人公のEXTRA編に移っていこうと思います。