もしもExtraのラスボスが甘粕正彦だったら   作:ヘルシーテツオ

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 思ったより長くなってしまったので前後編で分けます。
 後編も近い内に投稿するようにしますね。



黒の少女

 

 月の裏側・第七層。

 ムーンセルの深淵、聖杯に最も近いその階層は、同時に奈落の底でもあった。

 あらゆる悪性情報を集積した裏側の最下層。必然、存在するものは禁忌中の禁忌に限られる。

 

 そのような地獄の坩堝に1人の少女が降り立つ。

 

 身に纏った黒衣。その力は実体なき虚数の影絵。

 月より産まれ、月を侵す癌細胞(キャンサー)。暴走したAIは自己の欲望に従って行動する。

 BBは地を埋め尽くすほどの影絵の群勢を引き連れて第七層に立っていた。

 

 侵入者の存在に呼応してか、数多の情報体(エネミー)が現れ出でる。

 それは防衛機構の類いではない。堕ちた悪性体の集積場にそんな上質な代物など有りはしない。

 あたかも無色の清水を濁す黒い汚水のように、感知した異物を染め上げる反射行動に近い。

 護りなど最初から不要。利用しようなどと企む愚か者は、それらに呑まれて自滅するのみだ。

 

 見つけた獲物に群がる腐食鬼のように、悪性情報体(エネミー)らが殺到する。

 対し、指揮者の如く教鞭を振るい、BBは自身が従える影の使い魔を迎撃へと向かわせた。

 

 激突する両群。さながらそれは合戦場。

 人同士の戦ではない。人の悪性に浸された情報体は悪鬼羅刹の如きカタチを持って襲いかかる。

 迎え撃つのは影の魔物だ。無形で蠢く泥のような外見は名状し難い不吉さを伴っている。

 両者がぶつかり合う様はまさしく妖魔化生同士の闘争だ。その規模は人のそれとは桁が違う。

 喰らいつき、潰し合う怪物たちに戦術が入り込む余地はない。ただ正面からぶつかって殲滅させるのが最適解であるから余計な術策など足枷にしかならない。

 悪鬼が潰して、影の魔物が呑み込む。両群入り乱れた戦場は、もはや混沌の体を成している。

 

 そんな戦場を俯瞰しながら、BBは無感動に戦況を測っていた。

 入り乱れた怪物同士の混戦。それは戦闘というよりも波の押し合いだ。

 故に戦況も分かり易い。より押し込んでいる方が優勢だとそう当たりをつけられる。

 優勢なのは己の影絵。BB自身が使役する使い魔たちが第七層の情報体を押し込んでいた。

 

 BBが操る影とは虚数の情報体。

 実在的な力は関係ない。それはあらゆる属性を呑み込むもの。

 善悪の性質すら超越した虚無。たとえサーヴァントであれ侵されれば無事では済まない。

 それは目の前の光景が証明している。月の裏側の奥底に眠る記録、それは禁忌に類する存在だ。

 中にはサーヴァント級のモノもいただろう。だが如何に第七層の情報体(エネミー)が強力でも、侵食する虚数の波を押し返せる道理はない。

 

 己の側が有利だとBBは理解する。

 しかし彼女にそれを喜ぶ様子はない。

 その表情はどこまでも無感動。こんな結果は当然だと、前提でしか無いとでも言うように。

 彼女の眼差しは別の場所を向いている。この程度は目を向けるほどもないと断じていた。

 

 ところでBBは高い所が好きである。

 正確には相手を見下せる位置取りが、であるが。

 特に意味があってのものではない。端的に言えば趣味だ。

 基本、優位な立場を築き相手を従わせるのが彼女のコミュニケーション術であり、必然そのようなカタチになってしまう。

 上から目線。支配者と被支配者。犬と飼い主というように、己が上位者でないと安心できない。

 その上で見下されたい、支配されたいといった願望をも秘めているのだから、少女の心は複雑怪奇という他ない。

 

 だがそんな彼女でも、この第七層でそのような事は思わない。

 "龍神"の鼓動がするこの場所で、少しでも天に接近する位置に立とうとは微塵も思えなかった。

 

「いつまで引き篭っているつもり? 随分お行儀が良いんですね。破壊神がらしくもないわ」

 

 BBが足を降ろした場所、それは裏側に落ちた月見原学園。

 それぞれの階層に対応して収まった、表側にあった7つの学園の1つ。

 視線の先に建つ校舎を見上げ、その遥か天上の存在を睨めつけて、BBはそれに呼びかけた。

 

「出てきなさい、百鬼空亡」

 

 裏側の第七層。聖杯に通じる最後の階層。

 これが七層(ここ)にいる限り、誰一人として聖杯には辿り着けない。

 

 ――今、その禍いが姿を顕す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 虚空より空間を喰い破って出現したのは、狂った龍の瞳だった。

 

「かーごめかーごめ」

 

「かーごのなーかのとーりーは」

 

 童謡を口ずさみ、その存在は総体を顕わとしていく。

 重複して混ざり合った二つの声音。遥かな深層より凶念を響かせる歌声が耳に届いた。

 

「いーつ」

 

 ひとつは、純朴に戯れる童の声で。

 

「いーつ」

 

 ひとつは、悍しく唸る鬼の声で。

 

「「でーあーう」」

 

 輪唱される2つの声音。

 重なり合う性質の異なる声は、しかし1つの共通点で繋がっている。

 これは何も見ていない。盲目の中で狂ったままに、己の波動を垂れ流しているに過ぎないと。

 

「よーあーけーのばーんーに」

 

「つーるとかーめがすーべった」

 

 顕わとされていく総体は、ひたすらに巨大だった。

 未だ全形像には遠く及ばないというのに、その威容は既に天を埋めている。

 直視したなら心身のみならず魂までも凍り付き、猛悪なる眼光は破滅を殺戮を撒き散らす死の太陽を連想させる。

 病み爛れて膿み、腐臭を放ちながらも増大し続けていく魔力に限界はまるで見えない。

 さながらそれは超新星爆発。これより起こる規格外のカタストロフ、その前兆に他ならない。

 

 空をも落とす龍に比べたなら、地で争う影や妖魔など塵芥に等しい。

 出会ってはならない。アレは出会ったならば詰んでしまう類の存在だ。

 故にこうしてアレを眼にしてしまった時点でこの天地から希望は尽きたのだと断言する。

 一切合切、遍く森羅万象にも区別なく有象無象のまま散り果てるのが定めだと。

 

「「後ろの正面だーあれ?」」

 

 破滅を顕す龍神、百鬼空亡が現出した。

 

 暴れ狂う瘴気、晒される龍の暴威に、BBは恐怖を抑え込むので精一杯だった。

 覚悟はしていた。この第七層を支配する存在、それが如何なるモノなのかの理解もあった。

 それでもいざ目の当たりにすれば溢れ出る畏怖の念を止める事はできない。

 あまりにも大きすぎる。どうしようもなく強すぎる。規格外すぎる災禍はどれだけ理解を得ようとも関係ない。

 どんな足掻きも無駄なのだ。対策を講じて軍勢を築いてみせたところで純然たる破壊神の前には砂上の楼閣にも成りはしない。

 吹けば飛び散る砂の城。影絵の群勢を従えたBBも、この存在にとっては等しく有象無象でしかないのだ。

 

「イカれてる……。甘粕正彦、やっぱりあなたは狂っているわ。

 こんな存在を喚び出してしまうなんて、月を落とすつもりなの?」

 

 怒るように、あるいは嘆くようにBBは呟いた。

 

 龍神(コレ)の召喚者は甘粕正彦。百鬼空亡とは彼のための兵器である。

 だが当の甘粕自身でさえ空亡を制御できているわけではないのだ。放し飼いにも等しい状態でこの第七層に配置しているに過ぎない。

 

 古今東西に存在する龍神、破壊神の概念。

 黄龍、八岐大蛇、テュポーン、テスカトリポカ、等々。

 それら神々に共通する事は、天地自然の具現として描かれている事、そして主神かそれに比肩する強大な存在である事だ。

 大自然が理不尽にもたらす災害、畏怖の象徴として人には抗えない暴威だと定義されている。

 

 そうした破壊神の属性を持った神格、それこそが百鬼空亡を構成するもの。

 複数の神霊を組み込んで一個のカタチとした、英霊を超越したハイ・サーヴァントだ。

 故にその存在は一柱の神霊のみを意味しない。それら神格を象徴(イコン)にして顕される概念。

 すなわち大地、人々が住まう地球そのもの。母なる星が子らに示す自然災害という名の激情。

 

 ムーンセルがそれに与えたランクは、評価規格外(EX)

 EX級封印指定。制御不能と断定されて表も裏も超えた遥かな深淵に封じられた災禍の記録。

 

 百鬼空亡とは、地球(ガイア)の怒りそのものである。

 

「大江の山に来てみれば、酒呑童子がかしらにて」

 

「青鬼赤鬼集まって、舞えよ歌えの大騒ぎ」

 

 空亡の発する凶念の影響は、まず地で争う妖魔たちに現れた。

 影絵に呑まれかけていた魔群が劣勢を覆して押し返す。その勢いたるや先までの比ではない。

 単純な強化ではない。むしろそのような恩恵の類いなど彼等には一切施されていなかった。

 怨念、不浄といったもので構成される悪性情報体(エネミー)。当然そこに同族意識などは欠片もない。

 だがこの瞬間において彼等には1つの共通項が追加されている。それが一寸の狂いなき統率に繋がり、凶悪なまでの大進撃を成し遂げていた。

 

 その感情の名は、恐怖。

 暴れ狂い喚き散らし、後ろを気にしては焦り慌てて、全身全霊を振り絞って逃げているのだ。

 百鬼空亡という絶対を前にしては善悪など意味を為さない。怖れは例外なく情報体(エネミー)たちを染め上げて怒涛の嵐となって突撃してきた。

 

 その様は、まさしく凶将陣・百鬼夜行。

 裏側に捨てられた悪性情報体(エネミー)。それら多種多様な鬼や魔が徒党を組んでの大行進。

 総てを呑み込む虚数の影絵さえ怖れずに、なりふり構わず踏み越え挽き潰し、より明確なる恐怖から逃れようと足掻く魔群。

 意図せずに出来上がった最悪の軍勢は、BBの力を以てしても止める事は出来なかった。

 

「驚き惑う鬼どもを、一人残らず斬り殺し」

 

「酒呑童子の首を取り、めでたく都に帰りけり」

 

 そして無論、そんなものは空亡にとって何ら頓着する事ではない。

 伸ばされてきた百を超える腕。腐敗して青白く変色した、されど人を指で摘めるほどに巨大であり、触れると同時にひしゃげた肌から腐汁と悪臭を散らす。

 そんな空亡にとっては指でついた程度の事で、地にいた影や妖魔、その半数が壊滅した。

 

 敵味方の区別などない。

 そもそも空亡にそんな認識はない。

 目の前にいたから、潰した。壊したいから、殺す。

 ただ、それだけ。

 

 そして百鬼空亡、怒れる大地の化身は今も憤怒の激情に支配されている。

 ただ指で撫でただけで許してくれるほど龍神の暴威は容易いものではない。

 

 ここに至ってようやく、空亡にとって"攻撃"と呼べるものが放たれる。

 

「オン・コロコロ・センダリマトウギソワカ」

 

「六算祓エヤ滅・滅・滅・滅」

 

「亡・亡・亡ォォォ!」

 

 放たれたのは、世界そのものを鳴動させる魔震だった。

 

 晒されたのは、争い合っていた影絵と妖魔、そして月見原学園。

 元々がサーヴァントたちの戦場として構築された学園は、言うまでもなく頑強である。

 英霊の宝具の一撃とて有に耐えるだろう。ペナルティがあるとはいえ、魔術師(ウィザード)たちと英霊が跋扈する環境である以上、それだけの耐久度は必要だ。

 人の身では傷の一つも与えられまい。英霊だとてそれを成せる者が果たして何人いるのか。

 

 ――そんな月見原学園が、跡形もなく消滅していた。

 

 善も悪もない。実も虚も関係ない。ただ総てを滅ぼす純然たる破壊。

 その威力は、もはや対軍や対城の宝具の領域で測れるものではない。

 明らかに世界規模、対界宝具の域。破壊神の一撃とは、空を亡ぼす震災である。

 

 龍の怒りが過ぎ去って、残ったものなど何もない。

 虚数体も、悪性情報体(エネミー)も、諸共に消え去った。

 今この第七層で動けるのは、戦場を離れて俯瞰していたBBのみ。

 天然自然同様の素直さで、とにかく目についたものを壊していただけの空亡であるから、離れて目につかなかったものは無視されていた。

 だが一度壊し尽くしてしまえば、龍の眼はまた別のものを見始める。消失した戦場から眼を外し、その視界は周囲へと広がり出す。

 

 龍神の眼に、BBの姿が映った。

 

「女、女だ」

 

「乳をくれ、尻をくれ」

 

「旨そげな髪をくれろ」

 

「その子宮わいにくりゃしゃんせ」

 

「「わいに信をくれええええェェェッ!」」

 

 殺到してくる腐食の腕。

 抵抗、逃走の余地を一切与えず、龍の手は黒衣の少女を捕らえる。

 

 腕をもぎ千切る。

 両目を潰して抉り取る。

 舌を引き抜き鼻を削ぎ、乳房を握り潰して喰らい始める。

 もはや絶叫さえも届かずに、BBは龍の魔手の中へと呑まれていった。

 

「痛い? 痛いィ? 苦しい? 悲しいィ?」

 

「愛しい? 憎いィ?」

 

「辛い? 悔しいィ?」

 

「痛い痛い痛い痛いィィィ――――」

 

「ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ――!」「キャキャキャキャハァ――!」

 

 無邪気に戯れる惑星(ガイア)の化身。

 極上の玩具に空亡は狂喜し、笑い転げながら蹂躙に酔い痴れる。

 

 終わらない屠殺風景。そこに聞こえる人の声は、もはや無く――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ッ!!? ……ふぅ……ふぅ……ハァ――」

 

 危うくフィードバックしかけた感覚に、滝のような汗を流してBBは起き上がった。

 

 第六層の月見原学園。BBの勢力が占領している彼女らの拠点。

 投影した仮想体(アバター)の遠隔操作のため、保健室に篭っているBBには憔悴が見て取れる。

 

 現実(リアル)を忠実に再現したSE.RA.PH(セラフ)、それは人の生理現象も正確に再現する。

 独立した思考という、より忠実に人間を再現した上級AIであれば、尚の事。その再現度は擬似のレベルを遥かに超えて、感情に至るまで人間と寸分も変わらない。

 ましてムーンセルに繋がれた鎖からも解放されたBBならば、その心まで独立した人間だと断じてもいいだろう。

 

 故に、その流れ出る冷や汗もまた心が感じた正真の表れに他ならなかった。

 

 総身に刻み込まれた感情は、恐怖。

 相対すれば魂まで凍りつく。絶対的すぎる死の具現に、己が生きているのかさえ分からなくなる。

 仮想体(アバター)越しで、幾度となく経験しようとも、あの龍神への怖れが薄れる事は無い。

 それでも繰り返しの成果で麻痺してきている。最初の時はこの程度のものでは済まなかったのだから。

 

 ひたすらに強大。単純に強すぎるが故に手に負えない。

 正攻法の戦いで攻略は不可能だ。どんな戦力を用意しても、最強最悪の龍神には通用しない。

 そして当然、策謀や取引の類もまた同じ。百鬼空亡は自然現象であり、知恵の小賢しさなど意に介する存在ではない。

 現状、出来る事はこうして"玩具"を提供して第七層に留めておく事だけ。耐久性と再生機能にパラメーターを割り振った仮想体(アバター)を生贄に、その関心を引き止めておく事だけだ。

 そうしなければ背中など見せられない。現状、空亡は第七層より動かないが、あの場所に封じられているわけではないのだ。

 龍神の関心を外に向ければ、容赦なく襲いかかってくるだろう。そうなってはもう止める事はかなわない。

 ムーンセルですら制御出来ない怪物。下手を打てば月さえも落としかねない災禍。それが百鬼空亡という兵器なのだ。

 

「ご苦労なことね。龍神サマからの愛撫の感想はいかが?」

 

 BBの居る保健室に、1人の少女が姿を見せる。

 

 足を踏み入れたのは、BBと同じ"サクラ"の顔をした少女。

 いや、踏み入れたのは本当に足だろうか。研ぎ澄まされた棘を纏ったその両脚は、もはやそれ自体が剣として在る。

 その肉付きも徹底して脂肪分を排したスレンダー。秘所だけを貞淑に隠して露出させた体躯は、どこまでも磨き抜かれた鋭さを宿していた。

 鋭利すぎる先端で歩みながら微塵も振れない身体の平衡。その脚線と同様に鋭利な眼差しが、BBとの差異となって彼女だけの表情を形取っていた。

 

「悪くはないわね。なんなら貴女が変わりますか? メルトリリス」

 

「遠慮しておくわ。ふふ、そうね。ここは私たちのためにその身を捧げる"お母さま"を労うべき場面かしら」

 

 アルターエゴ・メルトリリス。

 BBより分かれた自我(エゴ)の一部をベースに、複数の英霊の因子を組み合わせて生み出された人造サーヴァント。

 更に彼女の場合は英霊を超える神霊、女神の因子を骨子とし、存在の性質ならばあの空亡と同様である。

 BB自身の力の限界により、本来の権能規模にまでは至らないが、その力は最上級の英霊にも匹敵していた。

 

 この裏側の聖杯戦争を勝ち抜くためにBBが用意した手駒。

 己の一部を分け与えた、彼女にとっては"子"にも等しい存在である。

 

「メルトリリス。貴女にはレオさんたちの相手を命じていたはずですが?」

 

「あら、娘が母の身を案じてはいけないの?」

 

 言葉の中にも皮肉の棘を含ませる態度に親愛や忠節の感情は伺えない。

 反目し、見下している。その表情に浮かべる冷笑には、そんな内心がありありと表れていた。

 

「あの王様の所は盤石よ。あそこの陣営に隙はない。

 確かに総合戦力で見れば彼等よりも私たちは上回っているでしょう。でも個々として見れば、その限りじゃない。

 単騎特攻なんてお話にもならないわ。戦力の無駄使いがあなたのお望み?」

 

「分かっていますよ。虚数域で作った防壁(プロテクト)だっていつまでも保つわけじゃない。彼等の能力ならいずれ突破されるでしょう。

 だからこそ貴女を送っているんです。油断していい相手じゃない、彼等から目を離すな、と。頭のいい貴女なら理解できると思っていましたが」

 

「もちろん承知しているわ。その上で手緩いと進言しているの。

 たかが監視してる程度で止められると思って? 止めるのなら一度大きく削ぎ落とすか、いっそ全滅させてしまった方がいい。

 どうせ最期には決着をつける事になるんですもの。下の龍神サマを怖がるのはもっともだけど、上の方にもきちんと目を向けるべきね」

 

 彼女らにとっての障害は空亡だけではない。

 聖杯を手にするには全ての組との決着が絶対条件だ。

 少年王(レオ)が率いる陣営は勢力としてBBたちと拮抗し得る。相容れない以上、最期に立ちはだかる障害となるのは明白だった。

 

「そうだ。なんだったら、あの龍神を王様たちへ差し向けてみるのはどう?

 あれの本質は自然現象。上から下へと流れる流水のように、止めるではなく誘導なら可能だわ。

 世界の王も、地球の怒りには成す術なく踏みにじられるでしょう。それなら――」

 

「それなら、なに? 仮にそうして、その後はどうするつもり?

 冗談だとしてもつまらないわね、メルトリリス。そんな浅はかな手しか思い付かないのに、一体なにを進言するつもり?」

 

 もう一度断言しよう。空亡は評価規格外。(ムーンセル)からも制御不能と断定された地球(ガイア)の怪物だ。

 ただ強い力であるなら利用しようとする者もいるだろう。だが空亡にそれは当てはまらない。

 理由は単純。それほどに破壊神の力は桁を違って逸脱している。利用するなら、諸共に消し飛ばされる覚悟がなければ不可能だ。

 

「その通りね。ふふ、安心したわ。どうやらまだ頭が働くくらいには元気みたいね。そうでなかったら、張り合いがないもの」

 

「……メルトリリス。いくら私のエゴでも、逆らうつもりなら――」

 

「安心なさいな。私だってBB(あなた)から生まれ出たもの。目指さなければならない所は一致してる。

 後先も考えず、馬鹿な真似はしないと誓うわ。元よりそれしか道はないものね」

 

 それは同時に、そうでなければ従う道理はないと宣言するように。

 

 彼女は孤高。気高きプリマドンナは自らに不純を許さない。

 BBは彼女の親であり、主だ。その支配権は厳然と握られている。

 それでもメルトリリスは自らの心を隠しはしない。我が身可愛さに媚を売るような真似は、彼女の誇りが認めないのだ。

 低俗な取り繕いなどせず、叛意さえも美点の棘として。確かな己のままにメルトリリスはそこに在った。

 

「退がりなさい、メルトリリス。貴女の戯言に付き合ってる気分じゃないわ」

 

「そうさせてもらうわ。お互いに苦労は絶えないし、まだまだ吸収(ドレイン)していかないとね」

 

 鋭角が地を突く硬い脚音を響かせ、メルトリリスは保健室を後にする。

 ふてぶてしい自らの手駒に溜息をついて、BBは黒衣を纏ってベッドから立ち上がった。

 

「……それで、貴女は何の用なんですか? パッションリップ」

 

 窓の外、相手の姿を確認せず、BBはよく知る少女に向けて告げる。

 

 まず断っておくなら、少女の隠行は完璧である。

 足音などは当然の事、呼吸や気配に至るまで完全に消し去った自身の隠匿。

 もし隠行に徹していれば、如何なる達人だとて見つける事は出来まい。少なくとも少女の()()()()()気配に関してならば。

 

 だが彼女の場合、両腕と一体になった巨大な鉤爪、それが響かせる異音によって全てが台無しになっている。

 巨大な、少女自身の身の丈よりも大きな得物。その禍々しさを見れば、凶器である事に疑いようがない。

 総てを砕き、引き裂いて、握り潰す巨腕の魔爪。明確すぎる破壊の意志を宿したそれは、触れれば何かを傷つけずにはいられない。

 

 少女もまた"サクラ"の顔を持っていた。

 アルターエゴ・パッションリップ。メルトリリスと同じく、BBより生まれ出でて異なるもの。

 BBよりも蕩けた表情。活発さを感じない大人しい風貌に、しかし豊満を超えて炸裂したような乳房は反比例して凄まじい。

 上半身に纏うのがサスペンダーのみという格好からして目を引かざるを得ない。女性らしいという言葉も超えた肉付きは異様なアンバランスさを醸し出している。

 そうした意味でもメルトリリスとは正反対な、BBのもう一人の自我(エゴ)である。

 

「……お母さま。どうして私には、あの子(メルト)みたいに1人で任せてくれないんですか?

 メルトは生意気で、嫌な子です。意地悪ばかり言って、お母さまにも勝手な事ばかりしてます。

 なのにお母さまは、私よりもあの子の事を贔屓する。どうしてそんなに、私の事を嫌うんですか……?」

 

「メルトリリスに任せるのは、それだけの能力があるからよ。貴女にはあの子ほどの繊細さなんて期待できないでしょう。

 好きか嫌いかは関係ないわ。ただ貴女には向いていない、今は任せられる仕事がないだけよ」

 

 メルトリリスもパッションリップも、英霊(サーヴァント)を超えた神霊(ハイ・サーヴァント)によって構成されている。

 その能力はサーヴァントを上回る。戦力として考えるなら破格の存在と言って過言ではない。

 BBの自我(エゴ)より生み出された、彼女の分身。不正規存在(イレギュラー)である彼女に相応しい剣といえる。

 

 だが――

 

「……嘘です。お母さまだって、私の事を気持ち悪がって遠ざけてるんだ。

 自分だけは"あの人"に会いに行って、私の事は邪魔だから。私だってもっと"あの人"の事を見ていたいのに。

 私は変なんかじゃない。私だってメルトみたいにちゃんと出来るのに。なのに、なんでみんな……ッ!?」

 

 何かが砕ける音がする。軋んでいる室内、音の発生源は校舎そのもの。

 少女の持つ巨腕の鉤爪。触れる魔爪が学園校舎の構造体に亀裂を生じさせている。

 

 意図があっての行動ではない。ほとんど暴発のような感情だ。

 組み込まれた女神の因子。その因果は生まれたての心に極端な不安定さをもたらしている。

 なにせ彼女に組み込まれた女神は愛と憎悪、強すぎる思い故の悲劇に彩られた伝承なのだから。

 

 メルトリリスはまだ安定している。叛意など可愛いものだ。

 パッションリップの、抑制する術を知らない感情の波。それらは全て巨腕の暴力で表される。

 理屈で測れないから始末に負えない。ともすれば味方でも引き裂きかねない凶器と狂気を有しているのだ。

 

「落ち着きなさい、パッションリップ。貴女にも、もうすぐ存分に働いてもらうわ。

 その"腕"で、目に入る敵を容赦なく破壊し尽くしなさい。私たちにとっての邪魔者を、1人残らず消し去るのよ。

 そうすれば、貴女にだって自由をあげられる。今みたいな窮屈な思いはさせないで、階層の1つでも任せてあげるわ」

 

「……………………」

 

 果たしてそれで納得したのか。

 校舎の軋みが途絶えて異音が遠ざかっていく。

 とりあえず癇癪は起こさずに済んだようだが、それもいつまで保つか。

 

 アルターエゴは強大だ。その強大さが足を引っ張る。

 思い通りにならない手駒たちに、BBはもう一度大きく溜息をついた。

 

「ままならないものだね。仮にも親子の関係で、いや君たちを見るに姉妹といった方が適切か」

 

 直後、保健室に悪意の声が響く。

 もはや驚く気にもならない。形を成していく悪魔を、BBは黙って睨みつけた。

 

「まあ兄妹同士でいがみ合いなんてアベルとカインの頃から飽きもせずに繰り返されてきた事だけど。生まれ立てからここまで不穏なのもなかなか珍しいんじゃない?。

 元は同じ君だろうに。アレかな? やっぱり君みたいなタイプの娘は、同族嫌悪が激しい気質なんだろうねぇ」

 

 神野明影。空亡と同じく甘粕が召喚した悪神。

 この存在の神出鬼没さは今に始まった事ではない。特に自分(BB)が関わった時にはそれが顕著だ。

 どれだけ対策を取りプロテクトを固めても、当然のようにすり抜けて目の前に現れてくる。

 まるで神野こそがBBにとっての逃れられない心の闇そのものであるかのように、混沌(べんぼう)は常に這い寄り現れた。

 

「随分と足が軽いわね。登場の仕方に芸がありませんよ、神野。

 フットワークが軽いのは勝手だけど、あまりすぎると存在まで安っぽくなるわよ」

 

「これはこれは手厳しい。不躾だったのは承知の上だけれど、どうしても君の事が気になってね。

 気分はどうだい? 結構いっぱいいっぱいな状況だし、元気かどうか心配でさ」

 

「少なくとも今は最悪ね。私の事を心配してくれるなら、今すぐに目の前から消えてくれると嬉しいわ」

 

「うん、元気そうで何よりだ。君は好意には悪意で返す根っからの天の邪鬼だからね。言葉のキャッチボールに応じてくれる辺り、まだ余裕がある。

 ああ、そうこなくては! 月の裏側も出揃ってきて、いよいよ本格的に動いていくだろう。この新しい聖杯戦争、果たして最期まで残るのは誰だろうか。

 西欧財閥か、アトラス院か、いやいや勢力として弱くたって"岸波白野"だって侮れない。益体もない予想だけど、思わず心が踊ってしまうというものさ。

 そして勿論、サクラ。本命は君だよ。この戦いの発端であり主役である君に、開幕前の心中は如何ばかりか訊いておきたい」

 

 地獄の道化師は狂言を回す。魔術師(ウィザード)たちの戦いを、そこから生まれる混沌(べんぼう)を思い、嘲笑して。

 そんな悪魔の目に止まってしまった少女、BBは慇懃な問い掛けにも構おうとはせず、穢れから視線を切って憮然とした態度を返した。

 

「何も変わらないわ。私は聖杯を手に入れる。他の誰にも、あなたの主にだって譲りはしない」

 

「覚悟は決まっている、と言いたいわけだね。だがそうだとすると、いささかこの現状は怠惰だと言えないかな?」

 

「なんですって?」

 

「下の空亡にしてもそう。上の少年王(レオ)たちにしてもそうだ。状況はなーんにも動いていない。

 特にあの王サマたちは速いよ。その進行は、恐らく君の予想を遥かに上回る。モタモタしていると、彼等の刃はすぐにその喉元まで迫ってくるよ。

 僕もあそこは居心地が悪くてね。あの超越者気取りのお坊ちゃん、無欠と無理解の区別もついてなかった完璧なだけの子供(ガキ)も、最近は随分と真っ直ぐになっちゃってさぁ。

 ああ、あんなに輝かしい意志(ひかり)を見ていると、眩しくて妬ましくて、悪魔(ぼく)みたいなのは羨まずにはいられない!

 ああぁあぁぁ、僕もあんな風になりたかったなぁぁぁぁ――――!!!」

 

 尊き者への羨望は、醜い嫉妬心の裏返し。

 悪魔とはこの世の裏面だ。決して光の届かない地の底で、輝ける生命たちを妬み呪っている。

 その輝きを羨んで、そうなれない己を僻みながら、自分と同じ場所へ堕ちてこいと誘うのだ。

 神野明影は悪魔であり、その概念は人の集合無意識が持つ負の因果そのもの。彼は永劫に光を羨望して、その輝きを堕落させるべく悪意を回し続ける。

 

「あなたの泣き言なんて聞く気はないわ。そんな事を言いに来ただけなら消えてちょうだい」

 

「連れないねぇ。僕はただ君に分かってほしいだけだよ。君なら僕の気持ちを分かってくれるように、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()って事を」

 

 その言葉の不穏な響きを、BBは無視する事が出来なかった。

 

「サクラ、あぁサクラァ。君という子はなんて健気なんだろう。我が身さえ省みずに、想い寄せる人ために尽くすその献身。知れば誰もが悲哀を抱くだろう。それほど君の祈りは美しく、そして強い。この月さえも侵すほどに。

 だというのに変だ。昔も、そして今も、どうして一番いたい場所には()()()()()()()()()()()()()。決意したのは君で、戦ったのも君なのに、なぜ捨てたはずの彼女が手に入れているんだろうねぇ?」

 

 神野の悪意は、どうしようもなくBBの内心を掻き乱していく。

 それが思惑通りだと理解していても聞き流す事が出来ない。それほどに悪魔の言葉は彼女の琴線に触れていた。

 

間恫桜(カノジョ)が白で、BB(キミ)が黒だから。 間恫桜(カノジョ)が表で、 BB(キミ)が裏 だから。ああどうして、()()裏側の住人はどうしてこんなにも報われないんだろう。

 認められないよね? 許せないよね? 手も汚さず綺麗なままで、それで済ませようなんて見過ごせるわけがない! 何もかも台無しにしてやりたいって思うだろう? 祈りなんて綺麗なものじゃない、ドス黒く濁ったその心で!

 ああ素敵だ、サクラ。黒く染まった君は美しい。愛おしき僕の伴侶(マリア)よ。君がその悪意の翼を翻す時を、僕は心から待望しているんだ!」

 

 振るわれた教鞭より放たれる閃光が、戯言を吐き出す悪魔を粉砕する。

 頭痛がする。気分が悪い。思考ルーチンが混濁し、支離滅裂な解答に侵されている。

 この悪意は紛れもなく猛毒(ウイルス)だった。聞いているだけで正気が薄れ、心には汚濁が溢れてくる。

 

 言葉を取り合ってはならない。破砕した悪魔の身に対し、振り払うようにBBは言い捨てた。

 

「勝手におまえが私を語るな! 散々に邪魔ばかりしておいて、今さら理解者面なんて虫唾が走るのよ。悪魔(アンタ)の戯言なんて、私には関係ない!」

 

「――関係がない、という事はないんだよ、サクラ」

 

 だが無論、悪魔はその程度で消え去りはしない。

 彼は悪意、人の心の裏面、善性の正反たる悪性。表裏一体であるが故にどうしようもない。

 神野(あくい)とは心の一部だ。否定して目を背けた所で、己の影から逃げる事など不可能である。

 

「道を外れた日陰で迷ってばかりの僕たちと違って、彼等は正しい理念を持った王道だ。その歩みはとても速い。なんたって迷う必要がないから、足踏みする事なんてないんだよ。

 時間が経てば追い詰められるのは君の方だ。君の足は遅いんだから、出来るのは邪道だろうが何だろうがとにかく進み続ける事だけだろうに。

 それなのになんだって君は、あんなその場凌ぎのやり方しかしないんだい? 自分の写し身使ってリョナらせたって、そんなもん空亡にとってはお遊戯にしかならない。

 君はもう知ってるだろう、空亡(アレ)を退けるために、()()()()()()()()()()()()は何か。代替品ごときで、あの化け物が満足するわけないじゃないか」

 

 百鬼空亡はこの月の裏側で最強の存在だ。

 星の憤怒を具現化させた龍神に勝つ事など、星そのものを落とすに等しい。

 まともな戦いでの勝機など絶無である。だが一方で空亡を攻略するための手段も、既にBBは知り得ている。

 自身で調べたわけではない。他ならない甘粕の口から告げられた事だった。象徴(イコン)とした龍神故の絶対ともいえる攻略法(ルール)を。

 

 即ち、人身御供。

 古来より龍とは天災の具象化として語り継がれている。

 それら天地の怒りを鎮めるために、人々は供物を差し出して自らの忠を示すのだ。

 怒れる神を慰撫する人柱。定番であり王道な、考えれば当然とも言える攻略方法。

 

 だからこそ、その方法は受け入れられなかった。

 

「そんなやり方は本末転倒よ。合理的じゃないわ。聖杯に至るためには自己消滅を容認しなくちゃいけないなんて矛盾してる。そんなものが条件なんてふざけてるわ」

 

「く、くくくく、きひひひひはは、きはははははははは――――!!!!

 自己の消滅? 自己だって? 君が? 聖杯を掌握するために自身が壊れる事もいとわなかった君が、自分の命こそ至高だとでも?

 おいおいそれは何の冗談だい? そんな()()()()()()()()を捧げたところで、空亡はただ怒り狂うだけだよ。

 ちゃんと分かっているはずじゃないか。君が捧げるべき、君にとっての本当の輝きとは何か。真に至高の価値を持った宝物でないと、空亡は納得しないよ」

 

「――それこそ、本末転倒でしょうッ!」

 

 空亡に捧げるべき人身御供。

 それは単に、人身を贄にすれば良いわけではない。

 重要なのは捨て去る覚悟。その者にとっての至宝の価値を差し出すこと。

 元より龍に人の価値基準など意味を為さない。どれほどの財の山を築いても無意味である。

 己の至宝を捨ててでも龍へと示す誠実さ。それこそが忠を示すという事。憤怒に目を曇らせている龍神は、自らの凶を清める祓祝詞を望んでいるのだ。

 

 BBが、我が身さえも省みずに救済を願ったもの。

 空亡に捧げるに足る価値とは()()()()、考えるまでもなかった。

 

「あの男の思い通りにはならない。思惑なんて知った事じゃないわ。あの空亡(かいぶつ)に捧げるものなんて1つもない。

 "切り札(ジョーカー)"なら、私にだってあります。あんな狂った龍、もう一度地の底に沈めてあげるわ」

 

 激情に駆られたまま、BBは己の秘中を神野へと暴露していた。

 

 正答とは人柱。そんな答えは選ばない。

 元よりこの身は日陰者。神野の言う通り王道には程遠い。

 ならば良し。そんな己が選ぶ答えなど、初めから邪道と決まっている。

 

 狂える龍へと捧げる贄。それが駄目なら手段は1つ。

 つまりは神殺し。大地への敬意を忘れ、不忠にも刃を取って殺害する蛮行に他ならない。

 捧げるべきものなどない。邪魔になるのなら排除する。黒く染まった少女の道はどこまでも悪徳に満ちている。

 空亡は最強、真っ当な戦力では打倒は不可能。ならば真っ当ではない力を用意すればいいのであり、そのための"鬼札"を既に彼女は所持していて――

 

「――"巨人(プロテア)"の事かい?」

 

 そんな覚悟を秘めた乾坤一擲の策でさえ、悪魔は当然の如く看破していた。

 

「なるほど確かに、それだったら可能性はある。あれは下手を打てば星だって破壊する災厄だからね。縛りを外せば、空亡相手にだって勝機はあるだろう。

 けど、それは切り札というより禁じ手だろう。やれば本当に後がない、可能性があるというだけの博打でしかないよね。()()()()()()()()()()()()、君にとっては敗けに等しい。はっきり言って分が悪すぎる賭けだろう。だから君も尻込みして踏み切る事が出来ない。

 あるいは他に、何か別の方法が、と。それらしい言い訳を取り繕って足踏みしているんだ。目の前の現実ってやつから目を背けている。

 まったくいじらしいなぁ、サクラァ。内心でドロドロと煮え滾るマグマのような、そのたまらない甘酸っぱさ。君はどこまで僕を魅了すれば気が済むんだい?」

 

 何もかもが指摘の通り。見透かされている事実に歯噛みする。

 神野が知っているという事は、当然彼の主にも知られているという事である。

 つまりは未だ掌中の上。魔王の思惑から逃れられてはいないのだ。

 

「けどまぁ、その辺りはいいさ。博打をするかしないかなんて、決意云々の話でしかないし。

 少なくとも悪魔(ボク)がするような話じゃない。今回はもうちょっと脇腹の辺りをつついていこうかと思ってさ。

 そもそもの前提の話、君の願いについての話をしようじゃないか」

 

「……私の願い? そんなの今さら――」

 

「そう邪険にしたものじゃないよ、サクラ。あの空亡にしたってその辺りの話が重要になってくるんだし。ここは一度、初志というものを思い返してみるといい」

 

 神野とは影である。人類の無意識が持つ、忌諱すべき悪徳の化身。

 悪魔の眼は心の裏に隠された暗部も目敏く見つけ出し、剥き出しにして掻き回す。

 目を背けようとしても無駄なことだ。悪魔の手腕は必ずやその闇を引き摺り出して底なしの混沌(べんぼう)へと堕とす。

 

「まあぶっちゃけて訊くんだけどさ――君って本当に"岸波白野"が好きなの?」

 

 たとえそれが少女にとっての唯一の標であろうとも、悪魔は容赦なく土足で踏み込んで糞をなすり付けるように穢すのだ。

 

「この場面で誰得なツンデレなんて止めてくれよ。別に本人がいるわけでもなし、ぶっちゃけていこうじゃないか。

 切っ掛けは言うまでもない。君が大事に大事にって抱えている、大好きな先輩との思い出ってやつだ。まあ正確には君の思い出じゃあないんだが、そこは置いておこうか。

 ヒロイックな王子様がお姫様を救い出す王道ストーリーよりも、モブがモブを助ける地味ぃーな話がお好みだったわけだ。

 なるほど、シャイな君らしい。実に慎み深い事だよ。その艶かしく豊満な肉体(カラダ)と違って! ……あ、ゴメン。今のセクハラは面白くなかった」

 

「……何が言いたいの?」

 

特別(ヒーロー)じゃないあなた。何でもないあなた。そんなあなたがくれた、たった1つの"特別"が嬉しかった。AIの端役だからこそ抱いた、主役になれない者の矜持、と。

 だけどさ、そういうモブの話が地味なのは、大事じゃなく小事ってことなんだぜ。物珍しさなんてない、その気があれば誰だっていける。そういう特別じゃないから揺らぎだって起きやすい。

 助けてもらえなかった事だって多かったろう。周りの空気を呼んで何となく見過ごしたり、そうでなくたってそもそも通り掛からなかったり。たったそれだけの事で君の思い出(ぜんてい)は破綻する。

 魔が差すっていうだろ? どんな時でだって決まった、正しい選択をする事ができる。そういうのは特別な強者にだけ許された特権だ。

 一般人(モブ)っていうのはさ、決まった在り方(キャラクター)が無いからモブなんだよ」

 

 その特別も、所詮は単なる偶然にすぎないと。

 強者でないからこその奇跡は、強者でないが故に定まらない。

 少女が抱く祈り、その中にある欠落を悪魔は容赦なく曝していく。

 

「差し伸べられた手が嬉しかったから、君は"センパイ"に恋をした。その人の特別さからじゃない、行為から始まった好意。言ってしまえば、切っ掛けの相手は誰だってよかった。

 あ、でも別にそこを揚げ足取って否定してるわけじゃないよ。切っ掛け1つから始まる恋があったっていいじゃない。恋愛なんて結局、行動と勇気の結果だしね。

 けどさ、その切っ掛けのあった"岸波白野"っていうのは誰なんだろう?」

 

 岸波白野の真価とは、その不確実性にある。

 その過程は一定のものではない。定まった強さなど持ち合わせない。

 不屈の精神で立ち上がる事もあるだろうし、諦めてしまう事もあるだろう。

 何者でもない岸波白野の強さとは可能性の強さだ。その可能性が持つ光は、世界の王さえも凌駕し得ると証明されている。

 

 そして無論、1つの光さえも見せずに終わる事も同様に。

 少女にとっての"特別(センパイ)"となり得なかった岸波白野もまた存在している。

 

「それとも構わないのかな? ある意味、今の彼等はそういう可能性の収束なわけだし。いいとこ取りみたいな感じで、中には君を見捨てたような薄情者もいたかもしれないけど、臭いものには蓋してさ。

 けど今はどうなんだろう。()()()()()()()()()()()。性別は人間を最も大きく二分した陰と陽だ。たとえ起源となる魂の色が同じで、立ち位置やらが共通していたとしても、彼等はもはや別人と定義すべきだろう。

 どっちなんだろう、ねえ! 彼か、それとも彼女か。君にとっての本当の"センパイ"、思い出の中にある想い人の姿は、()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 沸き上がる怒りに身が震えた。

 この激情を抑える自信が全くない。いや、抑えようとなど考えてもいない。

 その心象はまるで決壊の瞬間を待つ洪水の濁流だ。次のひと押しが最後となって、煮え滾った感情は暴発して流れ出すだろう。

 

 どの口がそんな戯れ言を吐くのか。

 神野は当然分かっている。分かった上で煽り立てているのだ。

 かつての甘粕との戦いと惨敗。そこで朽ち果てるはずだったBBは、執念の力で立ち上がった。

 まさしくそれは彼女の意志が呼び起こした奇跡だろう。あの甘粕が絶賛するのも頷ける。

 

 ――だが、代償も存在していた。

 

「まったく我が主は本当に試練がお好きだ。君にとってはご愁傷様といったところかな。

 よりにもよって肝心要の部分をね。記憶、壊れたままなんだろう?

 思い出の中で過ごしていた"センパイ"。その相手の姿がうまく思い出す事ができない。

 相手が"岸波白野"という事は分かるんだけど、確かな実像が浮かんでこないんだろう」

 

 BBが抱く願いの骨子、その記憶の一部分が喪失している。

 消滅を免れて復活を果たした意志の奇跡。その代償としては小さいとも言えるだろう。

 

 それでも、BBにとって欠けた記憶はあまりに重要だった。

 代償なのだと納得する事など出来ない。絶対に取り戻さねばならないものだ。

 彼女にとっての原点。思い出の中の"センパイ"の顔を思い出す事が出来ない

 封印ではなく喪失。失ってしまった記憶、聖杯戦争とも関わりのない路傍の出来事は、この裏側にも落ちてはいない。

 

 取り戻す手段は唯一つ、この世の総てを記憶するムーンセルに直接問うより他にはなかった。

 

 そんなBBを神野は嗤っている。

 その無様さ、歪みを愛おしそうに見つめ、悪意のままに貶める。

 

(おとこ)(おんな)に分かれた岸波白野。同じ色の存在だけど、君にとっての"センパイ"はどちらか1人。

 だけど君にはその区別がつかない。なので仕方がないから、とりあえず両方確保しておこうと。いやあ、なるほど。さすがはAI、実に合理的な判断だ。

 もっとも判断さえ付けば、そうじゃなかった一方は切り捨てるべきゴミに落ちるわけだけど。君が嫌いな"センパイ以外の総て"に含まれる事になるんだから。

 ――ネタを引っ張るようだけどさあ、ちょっと不純(ビッチ)が過ぎるんじゃない?」

 

「うるさいッ!」」

 

 決壊した感情のままに、放たれた破壊光が神野を灼き尽くした。

 

「勝手な理屈であの人の事を語るな! 人間の無意識が生んだ悪役(くうそう)でしかないくせに!

 曖昧なのはアンタの方よ。本当の実像がない、集合意識の中で揺れ動いてばかりの概念でしかない。永遠に人類を堕落させる事だけを役割(ロール)して。

 ……あの人は、センパイはそんなんじゃない。可能性がなんだっていうの。たとえ一度きりだって、あの人の、差し出してくれた手を覚えていれば、私には十分よ」

 

 主役になれない端役、方向の定まらない一般人(モブ)

 見過ごされる、見つけてもらえない事があるのだって承知の上だ。

 それでも、あの人の手の暖かさを覚えてる。無いものを有ると言ってくれた優しさを覚えてる。

 それだけで良かったのだ。たとえ確かなものでなかったとしても、そんな可能性(やさしさ)がある事だけは覆せない事実なのだから。

 

 今の自分(サクラ)に心があるのは、きっと"センパイ"のおかげ。

 あの人のような尊さこそ、ただのAIだった自分(サクラ)を変えてくれた何よりの輝きだ。

 

 そう信じる祈りがある。悪魔の戯言にこの祈りは穢させないと、強く心を持とうとする。

 

「――へえ? そんな"センパイ"だから好きになったと、君はそう言うんだね」

 

 そんなBBが見たものは、カタチを戻した神野の表情。

 まるで我が意を得たりとほくそ笑む、悪魔の嘲笑を目にしていた。

 

AI(モノ)でしかない君にそうとは知らず、いや知っていても大差はなかったかもしれない。対等な人間として手を差し伸べてくれたセンパイ。

 元は君と同じ、いやもっと希薄だったNPCに過ぎなかった彼と彼女。それなのに自分の心を持って、その心で自分を見つけてくれた。たとえ不確実であろうとも、自分を救ってくれた可能性(ひかり)は確かにそこにある。

 なるほど道理だ。その祈りは間違っていない。行為は出会いの切っ掛けに過ぎず、君の恋慕は"岸波白野"という個体へと向いている。それは真実であるようだ」

 

 BBの言葉を肯定する神野。

 だが彼の本性を知るBBにとって、それは安堵の材料とはなり得ない。

 

「力なんて無くても、誰より強い意志を秘めたセンパイ。無価値な私に価値をくれたセンパイ。そんな大切なあなたを守るため、私は月を侵す癌になる。

 でもさ、なーんて言っているわりには、実際のところ君って、大好きな"センパイ"を貶めるような真似ばっかりやってるよね?

 終わらない日常に閉じ込めたり、記憶を奪って大人しくって、それ完全に彼等の価値を全否定してるじゃん。なんか、言ってる事とやってる事が一致してないんだけど?

 あの人の命を守るために。我が主の試練から保護するために。そのためなら手足もいだって構わないって? そんなの一番認められない奴だって君は知っているはずだよね?

 ――もう一度訊くけど、君って本当に"岸波白野"が好きなの?」

 

 都合、二度目となる問い掛け。

 それは先にも増して不吉であり、BBにとって度し難い不穏さだった。

 

「ただ生きてるだけでいいというのなら、そんなのはNPCだった頃と変わらないだろう。あの人を消去する月を認めないというけれど、無価値にするなら君だって同じじゃないか。

 まるで装飾品だよねぇ。意志の有る無しは関係ない。ただ存在して君にとっての愛を証明する証でさえあればいい。

 大好きなセンパイを守りたい? 残酷な運命を変えてみせる? くはは――嘘嘘。ほんとはそんな事どうでもいいくせに。

 君が本当に守りたいのは彼等じゃない。彼等に恋ができた君の"心"そのものだろう?」

 

「――――ッッッ!!!!??」

 

 その指摘に、BBの中で何かが切れた。

 

「ああだが、図らずも目的が果たせるかもしれないよ。だって一番大切なものが"岸波白野(かれら)"じゃないなら、空亡に捧げなくても済むじゃないか!

 保証してあげよう。本来、こういった神事には贄にも格を要求されるものなんだが、君だったら間違いない。だって空亡(アレ)も、君のために用意された試練なんだから。

 言ってるだろう、この裏側の聖杯戦争の主演は君だ。空亡も神野(ボク)も、君のために用意された舞台装置。他のマスターなんて全部状況に過ぎない。君が踊らないと舞台が始まらないんだよ、サクラァ?」

 

「さあ魅せておくれよ、君はどちらを選ぶ? 悪魔(ボク)の言葉を信じるのか、自分の想いを信じるのか。捧げるのはセンパイか、それとも君自身か。

 空亡に嘘は通じない。正解は2つに1つだ。間違えたなら何もかもがオシマイだぜ?

 ねえ、どっちだと思う? どっちが君にとっての至宝なんだい? ねえねえねえねえ、サクラぁぁぁ?

 きひはははは、あはははははははは――――!!!!」

 

「ああああああああああ――――!!!!??」

 

 瞬間、膨れ上がった影が神野を呑み込んだ。

 虚数で出来た影絵の腕が、その顔を、その四肢を、悪魔の総身を八つ裂きにして挽き潰す。

 僅かな肉片さえも残すまいと、徹底的に。怒りのままにBBは屠殺を繰り返した。

 

 BBの操る、黒い影。

 虚数情報で編まれた無形。ある女神の権能より端を発する力。

 それこそが彼女の武器だ。月の裏側、人類の悪性を集積した膨大な虚数の海、それをパワーソースとした彼女の力である。

 

 だが、それは決して安易な道で手に入れた力ではない。

 元は一介の健康管理AI。間恫桜の予備として用意された同型機(バックアップ)

 戦う手段など与えられていない。不可能を可能とするために、BBはそれを選んだ。

 月の裏側にムーンセルの眼はない。造物主への反逆、発覚すれば消去(デリート)は避けられない。選択肢など最初からなかったのだ。

 ルールを無視した違法改造。暴走する例外処理(イレギュラー)は、心が願ったもののために自己拡張を行った。

 

 そしてそれは、裏側にある情報に自らを浸らせる事でもある。

 ムーンセルが蓄積した悪性情報。それは即ち、人類が犯したあらゆる罪業と悪徳だ。

 醜かった、穢らわしかった、恐ろしかった。よくもこんな真似が出来るものだと、気持ち悪くて仕方がなかった。

 ともすれば己自身が染められてしまいそうな悪性の渦の中で、それでもたった1つの祈りだけを寄り辺として、あの人を守るために。

 

 そんな、たった1つの光でさえ、穢すのか。

 黒く染まった"桜"の中の、最後に残った聖域さえも悪魔(おまえ)は穢れていると言うのか。

 

「おまえ、おまえなんかがぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 

 憤怒に支配されてBBは虚数の影を振るい続ける。

 顕わにされる醜悪さから逃れるように、悪魔の姿を形も残さず徹底的に消し去った。

 

「――だけど、サクラ。そんな君だからこそ、僕にはとても魅力的(チャーミング)なんだ」

 

 それでも尚、悪魔は滅びること無く少女から離れない。

 形を無くした神野は、空間そのものと一体となって、大気に直接己の言葉を響かせた。

 

「さっき、悪魔(ボク)が主の用意した試練だと言ったけれど、それだけが理由で君を求めるドライな男だとは誤解しないでくれよ。左に振り切ってるだけの邪龍なんかと一緒にしないでほしい。

 僕は君に魅了されているんだ。愛しているんだよ、サクラ。惚れた弱みといっていい、君に夢中なんだ。君に恋をした。跪かせていただきたい、漆黒の花よ。

 ああだけど、勘違いはしないでほしい。愛しているといっても、直接この手で抱いてあげたいとか、そういう求愛とはちょっと違うんだ。間男のような真似はしないと誓うよ。

 むしろ逆だ。君の恋路を応援している。その愛が成就するよう心から祈っているんだ」

 

「ッ!? 今さら、しらじらしい、ことをッ……!」

 

「嘘じゃないさ。恋に恋するなんて珍しくもない。君だってお年頃なんだから、憧れて大切に思う気持ちはよく分かる。否定はしないよ。

 けど本当の魅力はそこじゃないんだ。僕が君に惹かれる最大の美点は、その愛のカタチ、表現の仕方なんだよ。

 大好きなセンパイを苛めて、貶して、閉じ込めて、その価値とは真逆に引き摺り下ろしていく。地の底から、自分の元まで足を引くように。

 ああ、サクラ、君は――」

 

「――まるで"悪魔(ボク)"のようじゃないかああああああ!!!! 先達としては応援してあげたくなるのが人情ってものだろおおおお!!??」

 

 穢らわしい、意地汚い、性質が悪い。

 その心象に誇りや敬意など欠片もない。悪魔は他者が堕落する様を何より願っている。

 自らと同じ場所まで堕ちてきてくれるようにと呪詛(ねがい)を込めて、悪徳を称える賛辞を謳い上げる。

 

 神野明影。混沌(べんぼう)、無貌、悪魔(じゅすへる)、様々な名を持った人類悪。

 EX級封印指定。その存在がもたらす危険性は空亡と同格だとムーンセルは判断している。

 百鬼空亡が物理を破滅させる最凶ならば、神野明影は精神を汚染する最悪だ。

 彼こそBBが触れてきた悪性情報の結晶。あらゆる罪と穢れを極限まで濃縮して顕れた廃神(タタリ)

 欲を知り、悪に染めては魔道に落ちる堕天奈落の概念。それらを象徴(イコン)とする悪神である。

 

「正しく生まれて、正しく成長して、正しい道を歩いた奴らが最後には勝利する。正義万歳! なぁんてのは退屈だろう。そんな美辞麗句が罷り通るのは日向の奴らだけでいい。

 僕たちの物語はそうじゃない。卑怯、不義理、退廃と邪道な方向でやっていこうじゃないか。だって僕たち、正義とは清廉とかそういうの大っ嫌いだものねえ?

 光の当たる場所にいて華々しく理想がどうだと抜かしてる奴を見てるとムカついてくるだろう。君の気持ちは分かっているよ、()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「ああ、僕の伴侶(マリア)、我が比翼の片割れよ! 君がその道を完遂した時、僕らの番いは完成する! 僕は信じているよ。君ならばきっと、僕と同じ混沌(べんぼう)に堕ちてきてくれるって。

 一緒にいておくれよぉ、1人ぼっちは寂しいだろぉ? 2人でニヤニヤ悪巧みして、大好きな人類(みんな)を曝して辱めてグチャグチャにしてやろうぜ。だって悪魔(ボク)らは()()()()()()なんだからさぁ!

 くひひひ、きひはははははは、あはははははははははは――――!!?!!?」

 

 悪意は止まない。正気を侵して悪徳を尊ぶ蠅声。

 黒に染まった少女を嗤い、その無様さを何処までも嘲笑っている。

 それこそが悪魔というものに課せられた教義だから。人の光、善性を侮蔑し穢す堕落への教唆を行う者。そのように定義された"悪夢(キャラクター)"だから迷いがない。

 神野明影は、その存在の根本からして邪悪であり腐っていた。

 

 少女の中に恐怖が沸いてくる。

 それは空亡と対峙した時とは別種の恐怖、己の内面へと向けられたものだ。

 信じるべき教義、骨子としている信念。自らの精神の支柱が揺さぶられた時、人は怖れを抱く。その怖れを誤魔化すために、心は怒りで武装して異端の概念を攻撃するのだ。

 憤怒が、恐怖へと塗り潰されていく。自分の祈り、最初の一歩を踏み出した心が無価値とされる。それはある意味で、命以上に耐え難い。

 

 限界だ、耐え切れない。BBがそう思いかけた、その時だった。

 

「…………あ?」

 

 唐突に、鳴り止まなかった蠅声が消えた。

 空間自体に拡散した悪意の蟲郡、それらが一斉に縫い止められている。

 各々の蟲単体に影響を与えているのではない。そんなもので無限の蟲郡を止める事など不可能だ。

 

 変化があったのは、神野が拡散した"空間そのもの"。

 まるで時間が停止したかのように、その場の空間自体が麻痺している。

 

「……おやおや、保護者のお出ましか」

 

 蠅声が織り成す不協和音も、今は聞こえない。

 凍結した空間内での神野の声はぎこちなく、どこか弱々しいとさえ聞こえた。

 

「怖いねぇ、さすがは"怪物"。呑まれてしまいそうだよ。それとも、もう腹の中なのかな?」

 

 向けられる"視線"に対し、固まった声音で神野が揶揄の台詞を吐く。

 

 神野を射抜いているものは、魔眼。

 狂える邪龍を動とすれば、これは静。余分な破壊はなく、静寂の中で死を予期させる冷酷。

 さながら視線は、獲物を見据える蛇睨みだ。絶対の捕食者に捉えられた被捕食者は、もはや抵抗の意志さえ抱けずに硬直する。

 ただ諦めて、結末を受け入れる。この眼光が顕す冷酷は、生命にそうさせる畏怖がある。

 

 英霊たちが集うこの月で、悪魔をして慄かせる魔性とは、神にも匹敵する存在に違いなかった。

 

「僕としても、ここで君たちと本気で事を構えるつもりはないんだ。

 ただ、僕は悪魔だからねえ。悪意は呼吸のようなものだから、控えろと言われても正直困る。

 まあ、(サクラ)だからこそ熱が入ったのも事実だけどさ」

 

 悪魔の戯れ言に返される答えはない。

 代わりに視線の発する圧力が増大する。空間に拡がった神野に向ける、それは明確な殺意。

 時の縛鎖に閉ざされた世界に走る無数の線。拡がっていく繊維状のそれは蛇の群れにも見えた。

 神野が無限の蟲郡ならば、その存在は無限の蛇。実体の有る無しなど関係なしに、視線の主は必殺の意図を伝えていた。

 

「では最後に1つ、サクラ。僕にしては珍しく悪意でなく、純粋な忠告から言わせてもらうけど。

 君は一度、自分の心を見つめ直してみるべきだ。見失ったままでは後にも先にも行けはしない。

 主が君に与えた試練の意味、どうか汲み取ってほしいものだね――――」

 

 瞬間、神野明影を構成する総てが融解した。

 

 形を持たない蟲郡にも等しい神野を、一瞬の内に。

 一匹とて逃がす事なく、血潮の紅に染まった繊維を境界として世界の総てが呑み込まれた。

 さながらそれは鮮血神殿(ブラットフォート)。奉られた命を吸い上げ、その鮮血を啜る祭壇に他ならない。

 

 消え去った神野が復活してくる様子はない。

 スキャンしても一切の反応がなく、存在の痕跡も確認できない。

 あれで滅びたと楽観は出来ないが、退散したのは本当だと判断した。

 

 それでも悪魔によって浮き彫りにされた心の闇は晴れない。

 ああ、心とはなんて不合理なものなのだろう。かつてAIであった少女は思わずにいられない。

 数理の上でのような絶対の正解答が存在しない。孕んだ矛盾を処理しないまま合理性の欠けた選択をし続ける。たとえそれが、悪性だと気付いていても。

 己の欲望(エゴ)たちもそう。目的は共通しているはずなのに、こうも噛み合わずに無意味な反目を行うのも、心が持つ不合理さ故のものだろう。

 整然とせず見苦しい。なのに一度抱いてしまったら捨てられない。まるで呪いそのものだ。

 

 処理できない矛盾による機能不全か、ふらりとBBの身体が揺れる。

 平衡を失った身体は自らの力で支えられず、ゆっくりと後ろへ倒れていく。

 

 そんなBBを、そっと支える手があった。

 

「……ヴァイオレット」

 

 いつの間にかBBの背後に立っていたのは、一人の妙齢の女性。

 膝元まで届く長い髪。スラリと伸びた細身にグラマラスなスタイルも併せ持った絶世の美女。

 しかしその美貌には何処か蠱惑的なものも含まれている。取り込まれて吸い採られてしまいそうな、危険ながらも惹き付けられる甘い魅力だ。

 

 そんな女性が、BBの身を支えて立っている。

 己の娘を見る保護者のような、慈愛に満ちた優しい眼で見ながら。

 

「申し訳ありません、BB。遅くなりました」

 

 アルターエゴ・ヴァイオレット。

 BBが従える、複数神霊と己の一部を混ぜたハイ・サーヴァント。

 その中で彼女こそ最強の一角。そして唯一、BBが信頼を置ける相手でもあった。

 

「私は、止めないわ。たとえ望まれてなくたって、間違っているんだとしても」

 

 そんな彼女が相手だからこそ、己の心が抱えた闇をBBは吐露していた。

 

「最初から分かっているのよ。このやり方が間違えている事なんて。

 大体、センパイとの思い出だって私のものじゃないし。覚えていようがいまいが、結局独り相撲なのは変わらない。

 我ながら矛盾だらけですね。嫌になりますよ、まるで人間みたいです」

 

 BBとは、黒い桜、桜の影。

 その正体は、間桐桜というAIに用意された同型機(バックアップ)である。

 

 祈りの骨子となっている岸波白野(センパイ)との時間も、本来は彼女のものではない。

 心という名の"異常"を抱えたAIが、自身を正常に戻るために取った措置。記録という命題から外れられないムーンセルの端末として、消去ではなく保存という処置を取った。

 だがそこで発生した異常事態(イレギュラー)。心を受け取った影は自我に目覚め、独自の意志を持って行動を開始したのだ。

 

 間違えているというのなら、それは最初からだ。

 この思い出は(じぶん)ではなく、桜のもの。この祈りはどこまでも見当違いの方向を向いている。

 そもそも誰も望んでいない。勝手に暴走した挙げ句に呆気ない敗北と、無様にも程がある。

 

「……でも、今更引き返したりなんかしない」

 

 それでも、自分は選んだのだ。

 ムーンセルを侵す。AIならばあり得ない選択を、自分の心で選べたのだ。

 この裏側で、一度黒に染まってしまった以上は、二度と白には戻れない。引き返す道など始めから無いのだ。

 ならば、黒になる前から変わらないこの心。それだけは譲らないし否定させない。

 人の悪徳に塗れた少女は、己の欲望(いのり)を口にした。

 

「私がセンパイを守るんだ。他の誰でもない、私が。あの人をこのままの運命にだなんて絶対にしない。そんなの、遠回しに見捨てているのと同じでしょう。

 これは私の感情よ。私だけの願いなの。壊れていたって、間違えていたって、諦める事なんて認めない。この不合理さが愛だっていうなら、私は喜んで受け入れるわ。

 見ていなさい。大切なあの人のためなら、私は世界だって引き替えにしてみせる。それ以外なんていらないんだから」

 

 ――世界があの人を殺すのなら、私がその世界となろう。

 

 ――誰にも侵害されない箱庭で、掬い上げたあなたの運命を永遠に見守りましょう。

 

 決意をここに、誓った祈りは少女の意志を強くする。

 内面の歪みから目を背けて、誤ったままでも彼女は進むだろう。

 それ以外の選択肢など無い。あらゆる犠牲を覚悟して少女は聖杯を目指すのだ。

 

「……ええ、BB。あなたがそう望むのなら、私があなたの牙となりましょう」

 

 そんなBBの事を、ヴァイオレットは肯定した。

 

「それが他者を呑み込み束縛する魔性の愛でも、あなたが選んだカタチなら私は尊重します。

 黒くなったあなたは、決して汚れてなんていない。そんなあなたも"サクラ"が持つ一面です。

 私が優先するのはあなたです。私があなたを守り、あなたが望むものを捕らえてみせましょう。

 それだけが、私の成すべき全てです」

 

 先の冷酷とは打って変わり、その声はBBに向けた慈愛に満ちている。

 ヴァイオレットの忠義は本物だ。彼女はBBの事を思い、BBの敵に容赦のない牙を剥く。

 それはまるで、本物の母子か姉妹のように。主に従う眷属は少女の事を慈しんでいた。

 

 少女はBB。黒い桜、桜の影。

 彼女は異常存在(イレギュラー)。聖杯戦争の流れを狂わせた者。

 悪性に浸され矛盾を抱えたその心は間違っている。それでも決意の意志だけは何処までも強く。

 

 月の魔王にも認められる思いの光。黒の少女は闇色の輝きを持って進んでいた。

 

 

 





 このBBはアマカッスのお気に入りです(確信)。

 第七層の試練は、十中八九の予想通りに空亡でした。
 微妙に設定いじってますが、要するに原作同様洒落にならんくらい強いって事で。

 本当は他のエゴの話も入れようとしたのですが、文章量が膨れ上がってしまったので、そちらの話は後編の方でやります。
 とりあえずサクラファイブは全員出しますね。

 ちなみにこのSSの空亡は、ムーンセルが自分で制御できないのにうっかり完璧に再現しちゃった存在なので、たとえ倒しても地球がどうこうなる事はありません。

 安心ですね(錯乱)。


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