もしもExtraのラスボスが甘粕正彦だったら   作:ヘルシーテツオ

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3回戦:第六天魔王

 

 決戦場に至るまでの道のりは、静かであった。

 

 その間に語らいはない。

 敵対する間柄、命のやり取りをする中では、元より言葉は無用だろう。

 だがこの沈黙はそれとも異なる。闘志をみなぎらせて対峙しているわけではない。何一つの意思さえ見えず、両者には敵意の一切もないかのように感じられる。

 ならば本当に何の思いも無いのかといえば、それは否だ。懸ける思いは十分に、むしろ並大抵の因縁とは比較にもならない狂念が込められている。

 

 一度、激発した感情は内へと押し込められている。

 耐えて、偲び、今にも溢れ出さんとする憤怒を総身に満ちさせた。

 より強く、より鋭く、より苛烈に、より凄惨に、処断の刃を振るうために。

 もはや猛り吠えるような無駄はない。誅殺の意志は常態と化し、狂奔の暴威を如何なる時からでも発揮できるよう研ぎ澄まされていた。

 

 舞台は整えられている。慌てる必要は何処にもない。

 昇降機で降りていく一時は、まるで刑場に向かう道のりだ。同じ籠に乗った罪人と処刑人が、共に執行までの時間を過ごすように、粛々とした沈黙だけが流れている。

 

「――時は、来たれり」

 

 そして、降り立った決戦場で、ランサーは宣するように言葉を放った。

 

「尊き美の儚さを省みず、破壊の愛しか謳えぬ愚かな者よ。貴様はおぞましく、あまりにも度し難い。肉を貪る怪物以上に、貴様という存在は許されぬ。

 それは神にのみ許された愛である。不遜にも人の身で抱いたその咎に、もはや裁決は下された。慈悲の光は降りてこないと知るが良い」

 

 厳かに、声を荒げることなく告げる意志は固い。

 静謐であるからこそ、芯から宿った決意を伺わせる。どんな言葉を投げかけようと、もはや黒い騎士を止めることは叶わない。

 

「刑罰を下す。串刺しに処す。一滴残さず、罪に塗れた血を吐き出すがいい。

 今宵は晩餐にあらず。真なる愛を踏み躙った罪業に、安息の場所は何処にもない。

 覚悟せよ。我が槍は決して貴様の魂を逃しはしない」

 

 怪物が、解き放たれた。

 向けられる凶相。立ち昇る魔性の覇気。冷静を装っていた騎士の存在が一瞬で変貌する。

 それは人のカタチをしながら、どんな怪異や魔物よりも恐ろしい。その狂奔故に畏怖されて、ついには『怪物(ドラキュラ)』と創作されるに至った血塗れた鬼王が立ち上がった。

 

「抜かすではない。己たちにしか通じぬ道理など」

 

 そのような目を背けたくなる魔性に対し、微塵も臆することなくアーチャーが向かう。

 

「やはり貴様らは怪物じゃ。所詮、己の中の真実しか語ることが出来ん。

 誰にも有り様を理解されず、怪物だと創作されるのは、単に貴様らがそのような形をしておるからじゃ。

 人は闇を怖れ、そこに物の怪を空想した。いつの世も同じ、得体の知れぬものこそが異端である。無情を叫ぼうが是非もなし。人とは元よりそのようなものなのじゃから」

 

 冷然と告げる。その怪物の呼び名は必然であると。

 如何に尊いと叫び、そこに筋の通った理があろうと、結局は理解され難きを万人は塗り潰す。

 人であると理解するより、怪物だと理解する方が遥かに容易いから。一人の賢者の言葉も、百人の愚者の声によって覆い隠される。

 

 故にその名を、無辜の怪物。

 悪意や罪の意識の自覚はなく、ただ自然に浮かべたイメージだからこそ、それは普遍の幻想と化した。

 怪物を産むのはいつだって人自身。万人が"そうに違いない"と思うから、現実さえ超えて幻想は真実と成り得るのだ。

 

「化生の類いとて、人が生んだ見方の一つ。ならば御しようもあるというものじゃ。

 幻想を塗りたくられた哀れな将よ。この魔王が引導を渡してくれようぞ」

 

 他人より称された怪物に、自らそう称した魔王が告げる。

 

 アーチャーもまた、人々の畏怖から忌名を呼ばれた者の一人だ。

 曰く、仏敵、神をも怯れぬ第六天魔と。それもまた一つの信仰、怪物となるべき人々の幻想に他ならない。

 しかしアーチャーは違う。本来ならば辱めであるはずの忌名を、彼女は自ら称した。仏徒を苦しめ威光を畏れず、数多の所業と共に相応しい幻想を己の手で築き上げたのだ。

 

 故にこそ、彼女は魔王と成り得る。

 魔に染まるのではなく、魔を御する。幻想に左右されることなく、自らが幻想を振りかざす。

 恐怖すべきランサーの姿すら哀れと呼び、思うがままに魔性を纏える革新の王が対峙する。

 

『――――Sword, or Death――――

 with what in your hand...?

 Flame dancing, Earth splitting, Ocean withering』

 

 決戦の火蓋が切って落とされる。

 因縁を明かし、口上を述べて、残したことは何も無い。

 後にあるのはシンプルな図式。斃すべきと定められた相手と対峙して、やる事は一つしかない。

 

 その道理に従って、ランサーとアーチャーは闘争を開始した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰かが戦っているのが見えていた。

 

 一体、あれは誰なんだろう。

 一体、何のために戦っているんだろう。

 知っている気がする。確かそう、自分のために戦っているのだと。

 

 聖杯をくれると言われた。

 願いを叶えると、この喪失を満たしてくれると。

 あの黒い人。激しくて、怖くて、けれども本当は優しくてとても綺麗な、槍兵(ランサー)と名乗った人。

 本物の騎士のように跪いて、彼は自分に対して確かにそう言ったのだ。

 

 ……けれど、ごめんなさい。

 そんなあなたの献身にも、私の心は動きそうにありません。

 

 だって、願っているものなんて無いのです。

 どれだけ世界に愛しいものが満ちたとしても、それは本当の願いじゃない。

 愛しているものは、もう無くなってしまった。失われたそれは、決して元には戻らない。

 たとえ命を、世界を釣り合いに出したとしても、愛とはそれ以上に重いものだから。どんなものにだって、それと引き換えにすることは出来ない。

 

 ――もしも引き換えに出来るのだとすれば、そんな愛はきっと美味しくないものだから。

 

 でも、それを告げる力もまた、私にはありません。

 今の私には何も無い。未来に向き合う気力なんてどこにも無い。

 お腹は今もくうくうと鳴いている。食べたくて仕方ないのに、食べたいと思えるものは何も無い。残っているのは苦しさだけ。

 本当はこうしているのだって辛い。終わりを望んでしまっている。これ以上、私は自分自身(わたし)を続けていくだけの希望を持てなかった。

 

 でも、そんな今の私だからこそ、彼の姿はとても不思議なものに見えるのです。

 

 ランサー、黒い騎士の人。

 私を見つけて、私に喚ばれて、契約したサーヴァント。

 とても怖い人。苛烈で、残酷で、大勢の人たちの血で塗れてる。

 だけど、同時に清廉な人でもある。彼は厳しい人だけど、それは他人だけでなく自分にも同じだから。

 その厳しさのせいで、みんなから怪物のように恐れられてしまった。きっと彼は真面目に生きていただけなのに、それはとても悲しいことだと思う。

 

 だからこそ、分からないのです。

 どうしてそこまで、私のために戦おうとするのか。

 何処にも行けない私に仕えて、そんなにも激しく在れるのは何故なのか。

 

 分からないその疑問を、口に出すことはしない。

 ただ、虚ろなこの瞳で、その姿を焼き付けていくだけ。

 激しくて、厳しくて、痛々しいほど苛烈な彼の生き様を。

 見なければならないと思う。空っぽなこの心でも、それは確かな私の思い。

 目を逸らす事だけはしてはならない。あんなにも必死で、誠実な彼の献身は、虚ろになった私の心にも確かに届くものだから。

 

 最期まで見届けよう。

 何もない私でも、せめてそれだけとは向き合おう。

 そんな思いだけが、空虚となった心に一つ残っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 火線が飛び交う。

 四方八方、戦場全体を包むように展開された種子島。

 唯一人の敵手を狙い、二重、三重の銃火をもってアーチャーは攻め立てる。

 

 先の一戦と比べても、尚厚く、尚緻密に。

 革新の王は理をもって制する。再構築された戦運びは確実に鋭さを増している。

 それは断じて手緩いものではありえない。動乱の時代を駆け抜けた戦の手並みは、英雄たる実力を証明するものだ。

 

 されど、ここに対峙するは英雄にあっても異様なる狂奔の戦鬼。

 身を穿つ銃撃、その悉くを騎士の肉体は意にも介さず弾き落としていく。

 神秘の加護ではない。それは信仰が生む肉体の絶対性。憤怒に染まったランサーの身体には、アーチャーの銃火では届かない。

 火線を集中させ、急所の部位を狙い撃とうが、彼女の銃弾が黒い騎士を穿つことはなかった。

 

「温い、温いぞ! かような鉄礫如きでは、涼風ほどにも感じぬわ!」

 

 叩き落とされる槍の一閃が、アーチャーの小柄な身体を弾き飛ばす。

 

 高い耐久値と引き換えにしたランサーの敏捷性。

 槍兵クラスとして例外的な機動力の無さ。しかしランサーの狂念はそんな弱点さえも塗り潰す。

 不条理そのものな意志力によるステータス値の底上げ。傷つくことをまったく恐れない怪物じみた戦い方。

 阻む要素の一切を粉砕して、迷いなく繰り出される正面突貫。元あった速度差を強引に覆して、その暴力を容赦なくアーチャーへと届かせる。

 

 その光景は先の敗退の焼き直しだ。

 答えは出ている。アーチャーでは、ランサーには敵わない。

 魔性の暴威を振るう黒い騎士を、彼女の『三千世界(さんだんうち)』では仕留めることは出来ないのだと、すでに結論は出てしまっている。

 

「脆弱なり。理に沿うばかりのか細き矛で、我が信仰を揺るがすことは叶わぬと知れ」

 

 放たれた一突きが、剣の守りを崩してアーチャーの身を抉る。

 それでも、受けた勢いを利用して跳び、大きく後退。ランサーの間合いから逃れてみせた。

 

「真理を告げよう。矮小なる人の理では、神の理に敵うことあたわず。

 俗世の物見に左右され、まことの純粋には程遠い。不純の一切を持たぬ、真に尊き御方に仕える清廉の強さに勝てるはずがあるまい。

 理解せよ、小賢しき者。貴様が奉じる理が、如何に脆く容易いものであるのかを」

 

 追い詰めるランサーは謳い上げる。

 己にとっての道理を。確信して揺らがない勝因の何たるかを。

 今の状況がそれを証明している。追い詰められるアーチャーにその言葉は否定できない。

 

 ――であるはずなのに、これはどういうことなのか?

 

 敗者に相応しい顔、恐怖や焦燥といった感情の気配がない。

 明らかに競り負けて、消耗は重なっているというのに、アーチャーの表情は相も変わらず不遜なままだ。

 怯える敗北者の顔ではない。あれは勝機を確信している顔だ。未だにアーチャーは自身の勝利を微塵も疑ってはいない。

 

 ランサーとて狂人である前に、英雄と奉られた将である。

 敵が見せる不穏な気配、それは決して虚勢ではないと察している。

 何かがある。勝鬨のような口上を述べながらも、ランサーの心に緩みはなかった。

 

「そうじゃのう。人とは、まことに不純なもの。貴様が言うように、純真とは程遠き存在じゃ」

 

 不遜なままに、アーチャーは立ち上がる。

 種子島の群列を従えて、狂える暴威を発揮するランサーと対峙する。

 

「容易く流言に惑わされ、賢しい心は利に走りやすい。確かなものなど何もなく、常に移ろいゆく柳が如しよ。

 是非もなし。民草とは、決して純真の美しさを愛でるべき存在ではない。しかとその手綱を握っておらねば、こちらが喰い殺されかねん魔物にも等しいものじゃ」

 

 民の平穏を願い、その幸福のために身命を捧げる。

 清き善王が謳うだろう理念を、アーチャーは謳わない。

 彼女は民を愛したりはしない。信じる心など持たず、理の上での扱い方を心得ている。

 何をすればどう動くか、支配者という操り手としての従え方を知っている。それを以て最も多くの成果を収奪すべき対象だと冷徹に見なしていた。

 

 民とて飢えれば、王に反旗を翻す。

 国のためだとその身を削らせ、苦しみを容認させる事など出来ない。

 決して唯々諾々と従うばかりの人形ではない。彼らは皆、自己という存在を持った人間なのだ。そして地べたで生きる者であればこそ、大義などという言葉とは無縁となる。

 民の視点とは低いのだ。王の持つ高みからの視点と同じくは語れない。彼らの求める安寧とは近しい者らのみで構築されるものなのだから。

 そしてそれは、見方によれば悪とも成り得る。無自覚であろうとも、自分たちの安寧のためにいらないものを切り捨てる。そんな魔に堕ちる側面を、民もまた持っているのだ。

 

「しかしな、ランサーよ。よもや失念したかのう? 不純な存在であればこその、牙剥いた悪意のおぞましさを」

 

 ならば、その価値観に従い民のことを魔と見なすとして。

 承知の上で彼らを支配し、王として君臨してきた彼女とは、いったいどのような存在なのか。

 

「人とは、己が悪しきと定めたものに、とかく虐げる免罪を得た相手に対し、どこまでも残酷となれる。理解など必要とせず、異形と定めた幻想があるのなら、手心などありはせん。

 神が言った。王が言った。これは悪であると、己ではない誰かが言ったがために。そうして無数に膨れ上がる無邪気な悪意、その念量は化生のそれさえも凌駕する。貴様自身、それは身をもって知っていよう」

 

 彼女は人の悪性を知っている。

 その上で、それを操る術を理解しているのだ。人の抱える魔を制してみせる術を。

 故に彼女はその忌名で呼ばれる。魔の上に君臨する"王"と、神をも恐れぬ天魔だと自称した。

 

「これぞ人の業。浅ましく、脆弱であるが故に、受け入れ難きものを排斥する。この俗界を支配する最も悪辣な理に他ならん」

 

 口上を聞き届けるのはそこまでだった。

 不遜の口を黙らすために、ランサーがその暴力でもって捩じ伏せに掛かる。

 

 迎え撃つのは三千にも及ぶ銃火の群。

 銃撃は密集して放たれる。散らした火線で幕を作る弾幕ではない。一点のみを狙い定めた集中射撃だ。

 標的となるのは当然ながらランサー本体。集められた種子島の火力が黒い騎士の突貫にぶつけられる。

 

 それは、やろうと思えば避けて通れるものだっただろう。

 アーチャーの射手としての強みはその物量にある。圧倒的な種子島の数から放たれる弾幕密度が、彼女の攻撃を回避不可能なものへと変えている。

 その利点を失えば平均以下の宝具でしかない。相性の有利を得られなければ、単一でサーヴァントに通用する代物ではないのだ。

 弾幕を密集させれば、必然として逃げ場所は多くなる。今のランサーならば回避とて十分に可能だったはずだ。

 

 だというのに、ランサーはそれを選ばない。

 選べないのではなく、選ばないのだ。

 彼は己に逃げることを許してはいない。為すべきは咎人をその槍で串刺して断罪する事だけ。

 横道には逸れない。ただひたすら真っ直ぐに、不純の一切を混じえない正面からの進撃だ。

 理屈の効率など意味をなさない。もはやそのようなものが通用する領域にいないのだ。たとえどのような障害が立ちはだかろうと、己を阻むことは出来ないのだと信じるが故に。

 

 事実、信じるだけでは終わらない。

 火線を集めた真っ向からの銃火、アーチャーにとっての最大火力をまともに浴びながら、それでもランサーは斃れない。

 狂信が、理屈を上回っている。真っ向からの勝負であればこそ、言い訳の余地はない。アーチャーの銃火では、どうやってもランサーの打倒は果たせない。

 

 ただそれでも、進撃するランサーの脚を留まらせることだけは成功していた。

 

「確かに貴様は恐ろしい。神に仕えし怪物よ。己の信仰のみでそこまでの事を成し遂げる。あの顕如の生臭坊主ぶりとは似ても似つかぬ、その信心は一点の不純もない真じゃろうて」

 

 アーチャーの平静は、ある意味で異常と言えた。

 宝具とはサーヴァントにとっての秘中の秘。頼りとする武器であり、英雄の象徴そのものだ。

 それがまったく通用しないとあって、動揺がないなどあるはずがない。万策尽きるに等しいものであるし、己の誇りを砕かれてどうして平然としていられるだろう。

 

「じゃが、承知しておるか? ここに在るは神仏の権威を焼却する"第六天魔"と」

 

 ならばそれは、窮地を窮地と思わないよほどの酔狂者か。

 あるいは別に、真に頼みとする『第二の宝具』を持つ英霊しかあり得ない。

 

 炎が奔る。

 生じた炎は燃え広がって、瞬く間に世界を覆う大火となる。

 それは地の獄より出でる業火。この世にあらざる魔を吹き込めた神に仇なす焔である。

 

 刻まれる火の線引きは世界に対する境界だ。

 境の内と外とを隔てる結界。一歩脚を踏み入れれば、そこは別なる法則が支配する異界空間。

 世界さえ侵す大儀礼。己の心象風景を具現化させ、既存のルールを上書きする『固有結界』に他ならない。

 

 招来される業火の中心に在って、アーチャーは世界の主のとして君臨する。

 炎は彼女自身の戦装束をも焼き払い、線細くも麗しい肢体を露わとさせた。

 そんな彼女の柔肌に業火が絡みついていく。それは炎を纏うという形容が相応しい。自身の心象より生み出された炎によって、アーチャーは新たな装いへと変じていく。

 それは外面だけの装束に非ず。纏われていく業火によってアーチャーという存在自身が変質し、魔性を帯びた異なる何かへと変貌しようとしているのだ。

 

 後世の空想に着色され、本来の存在を歪められた『無辜の怪物』と似て非なるもの。

 魔性の存在へと変貌していくアーチャーは、しかし何一つとして己という個我を歪めてはいない。

 その幻想は他でもない彼女自身が自称して、そのように振舞ったもの。魔性の名はアーチャーにとっての装飾であり、纏うも纏わぬも彼女の思うがままなのだ。

 本人のより知らぬところで幻想を生み出され、怪物とされてしまったランサーとはそこが決定的に異なっている。魔性という幻想を呪いとしてではなく、完璧に己の力として制御している。

 故にアーチャーは『魔王』なのだ。怪物ではない、魔性さえ自らの道具と見なし、徹底して神秘への畏敬を否定する革新の王の真髄である。

 

「いざ、――三界神仏灰燼と帰せ!

 我が名は第六天魔王波旬、織田信長なり!!」

 

 そして、そのようなアーチャーの心象より現れる世界とは、神仏概念への絶対的なカウンター。

 革新の王・織田信長の所業を宝具化させた、その真名解放がここに発動された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その光景は、まさしく"地獄"そのものだった。

 

 教義に曰く、地獄とは責め苦を味わう場所である。

 生前に犯した罪の清算のため、その罰として落とされる。

 数多ある宗教観においても、その概念だけは共通だ。人の悪性を罰するために、神仏よりの怒りを賜る場所として定義される。

 そしてそのカタチは、人が想像し得る苦痛の数だけ存在する。人の数だけ価値観の違いがあるように、何をもって最大の罰とするかは考え方によって変わるのだから。

 

 ならばこそ、その地獄の名は"大焦熱地獄"。

 一面を大火に包まれて、あらゆる者が焼かれ悶える責め苦の場所。

 罪人たちを薪代わりとして永劫に燃え続ける業火の世界が具現化した。

 

「これは……!」

 

 目の前に広がった地獄に、ランサーは驚愕していた。

 

 怨嗟の声が聞こえてくる。

 地獄において責め苦を負わされ、悲痛な嘆きを響かせる大勢の誰か。

 まさしく地獄に有るべき叫びだ。それはランサーが知るものと同じ。それだけならば彼もここまでの驚愕を見せることはなかっただろう。

 

 だが、これが地獄であるならば、焼かれるべきは罪人であるはずだ。

 ランサーは知る。誰より不義・不正を許さぬ信仰の潔癖さを持つが故に、この焦熱世界で焼かれるものが何であるかを察してしまう。

 それは神聖への畏敬そのもの。神仏の存在へと捧げる祈りの行為、その清廉さを無価値と断じ、塵芥のように炎の中へと棄てている。

 そうしてくべられた信心を薪にして、この世界は燃え続けている。浅ましい俗欲こそを是として、仏道を貶める天魔として。

 

「おのれおのれぇぃッ! ここまで清貧なる信仰を辱めるかぁ!」

 

 これほどの冒涜を、ランサーは知らない。

 ただ異教徒が他の信仰を破壊するのとは違う。これは信仰という行為そのものへの否定と侮辱だ。

 神という存在概念の一切に泥を塗り、その尊さに唾を吐いている。神など人の道具に過ぎないのだと、臆面もなくいい放っているのだ。

 穢れの無い信心さえ俗世の型に嵌め、利用価値のある道具へと落とす。役に立たないならば捨ててしまえと、尊さという価値に目もくれようともしない。

 

 神仏への敬いを持つ者ならば、この世界を許してはならない。

 父なる神を信じ、その愛を授かる者と自覚するのなら、このような地獄を野放しにしてはならない。主に代わり必ずや打倒すべき不倶戴天の敵であると確信した。

 

「そう。これぞ我が世界。かつて霊験あらたかと敬われた地を焼き討ちて、神仏の加護などという幻想を打ち砕いた所業の風景じゃ」

 

 ランサーの怒りに応えて、世界の主たるアーチャーが姿を現す。

 

 髪は炎の朱に染まり、身を覆うのは業火により形取られた戦装束。

 小柄な少女であった体躯は一回りか大きくなり、妙齢の色香を醸し出している。

 変貌した姿は魔王としての特性によるもの。幻想を道具として支配するアーチャーは、自身という幻想の姿さえも例外でなく意のままと出来る。

 

「是非もあるまい。わしは当然の道理を示したまで。神仏とは断じて、行いへの免罪にはならぬのだと。敬われた高僧とて、王に楯突けば罰せられる。地を支配するは神ではなく、人の王であるのだから」

 

 アーチャーは語る。苛烈なまでの神仏否定、その道理とは何であるか。

 それはまるで、今も昔も己の信仰に殉じるランサーに対し、無意味であると告げるようでもあった。

 

「敬虔に戒律を守り、世の悪徳やらを嘆いておればそれで良い。そうした奴輩どもが古びた理屈を持ち出して王の為すべき道を阻む。

 そんなものは無価値じゃ。腐れた格式などに意義はなし。世の新しきに目を向けられぬうつけの群れに過ぎぬ。ならば焼き捨てるが似合いじゃろう」

 

 アーチャーは、世に革新をもたらした王は、それを許さない。

 本来、心の拠り所としてあるべき信仰が、力を持って権威に触れようとするのを。

 その矛盾を、神意という言葉で蓋をして、当然の権利であるかのように振る舞うのを、彼女は断じて許さない。

 

「そのように処したわしを、衆愚どもは魔王と称した。神罰を恐れぬ第六天魔と。

 それも是非なしよ。所詮、人とはこの俗世に最も適した欲界の住人。その王を魔性と呼ぶのならば、魔王こそが真の主君に相応しい。

 であれば名乗ろうぞ。わしこそが第六天魔王波旬であると」

 

 革新の王にとっての価値とは、どこまでも実利である。

 それがたとえ忌み名であっても、利用価値があるのなら存分に用いる。そこに余分な感情を混じえないからこそ、最も適切な利用方法を選べるのだ。

 この世界もまた、それによって得た成果の一つ。人としての正気を保ったまま、獲得した幻想によって魔性の力までも我が物とした。

 

 彼女こそ魔人。信仰という古来よりの価値に否と告げた革新の王。

 神仏に敵対し祈りの功徳を堕落させる第六天魔、その化身に他ならない。

 

「承知した。貴様もまた、我が槍で粛するべき大罪者であると」

 

 聞き届けたランサーは、静かにそう結論をくだす。

 常態化した狂気が、激する感情を内に秘めさせてその鋭さを増していく。

 

「もはや語るに及ばず。欲の王よ。その罪業には死をもって報いる以外に道はない」

 

 言い切るように告げて、ランサーは踏み出した。

 一面を包む大火の中を、黒に染まった鎧姿が駆け抜けていく。

 身を焼かれようとも構わず、そのような熱さなど意にも介さぬとばかりに、炎に巻かれたその突進は勢いを増していた。

 

「是非もなしよな。貴様自身が神であれば、事はもっと容易いものであったのじゃが」

 

 アーチャーの有する固有結界『第六天魔王波旬』。

 その効果とは神性に対する特効作用。神に連なる存在に絶大な効力を発揮する神殺しの異界である。

 神性の属性を持つ英霊では存在することさえ難しい。焦熱地獄の炎から逃れることは出来ず、業火に焼かれた魂は灰塵に帰するだろう。

 無論、この宝具にもアーチャー固有のスキルである『天下布武・革新』の効果は適用される。神代に近づくほどに、血統にも神の因子が入りやすい。

 つまりは餌食だ。本来ならば神霊にも近しい力を持つ神話級の英雄たちが、このアーチャーを前にした途端に無力となる。

 アーチャーの常勝手段は相性戦。彼女の特性とは強大な相手にこそ発揮されやすい。通常ならば強さの基準になるはずのものが、そのまま標的の型に嵌まってしまうのだから。

 

 それ故に、此度の相性戦は必勝を期するには不十分なものだった。

 

 ランサーが有するのは『信仰の加護』。

 それは神からの恩恵として得るものではない。英霊自身の不断の信仰心によって獲得するものだ。

 ランサーに神性の適正は無い。その奇跡じみた強化も、あくまで彼自身の精神力に由来する現象である。

 時代を照し合わせてもアーチャーよりやや古くはあるが、それでも紀元前というほどではない。効果を見ても十全とはいえず、精々が中程度の威力しか発揮し得ない。

 それではランサーは止められない。不滅を誓った意志は焦熱などものともせず、断罪の宣誓を果たそうとするだろう。

 

 事実、今まさにランサーは地獄を突き抜けての進撃を続けている。

 増すばかりの勢いに、発動させた宝具が成果を得ているとは判断し難い。

 

「構わぬ。来るが良い。貴様の視野狭窄な狂気でもって、本当にわしを貫けると思うのならば」

 

 迫り来るランサーに対し、アーチャーも迎撃を開始する。

 展開される銃列。彼女の得物たる種子島。三千の物量で揃えられる砲火力。

 ランサーには通じないと示されたはずのそれを、躊躇うことなく持ち出した。

 

 銃火が放たれていく。

 雨の如く降り注ぐ銃撃に、ランサーが選ぶのはやはり正面突破。

 横道に逸れることなど許していない。狂った決意は不退転のまま、最短距離を突き進もうとする。

 その姿勢は先程までと変わらない。余分な感情を一切混じえない狂信こそがランサーの真髄。相手の宝具が何であれ、躊躇いを抱くようではそもそもこのような真似など出来はしない。

 道理など通用しない。ランサーは紛れもない狂人である。狂人であればこそ、その強さは如何に理屈より外れているかによって決まるだろう。

 そういう意味ではランサーの行動も間違いではない。心の芯から信じ抜いているからこそ、黒い騎士の強さはある。再び一切をはね返すべく、弾幕の中へと飛び込んでいく。

 

 そんな理外の耐久力を発揮しているはずのランサーを、今度の銃火は確かに貫き穿っていた。

 

「ぐ、ぐうぅぅッ!?」

 

 それは決して無視して良いダメージではない。

 事と次第によれば、十分に命にも届き得る。構わず突貫が許される手緩いものではなかった。

 

 アーチャーの宝具『第六天魔王波旬』とは、彼女の持つ魔王の特性を最大限に発揮するものだ。

 それは神性・神秘殺しの特性ばかりではない。魔性の幻想が生み出す畏敬の念、それもアーチャーという英霊にとっての力となっている。

 この焦熱地獄はそんな畏敬の果てに具現化した世界。結界内では魔人の力も強くなる。故に副次的ながら純粋に能力も上がるのだ。

 

 真に魔王と化したアーチャーの銃火は、ランサーの狂信をも貫ける。

 その事実を見過ごすことは出来ない。このまま突貫を続ければ致命にさえ繋がるだろう。

 ならば必然、攻め方を変えるしかない。すでに無謀となった正面突破を捨て、別の方策を探すべきなのは至極当然とさえ言えた。

 

 しかし、ランサーの狂信とは信じ抜いているからこその強さ。

 理屈に囚われてはならない。そんなものなど 意にも介さず、不条理さえも実現させる精神力を発揮しなければならないのだ。

 今の守りで射抜かれるというのならば、より堅牢にと信心の強度を上げるまで。不義なる力に傷を受けるなどあってはならないと。

 慎重な攻め口など元より無縁のもの。如何なる猛攻にも耐えに耐え、どれだけ血を流そうとも苛烈な逆襲によって首級をあげてこそのランサーである。

 故にランサーは猛進を止めない。より深めた狂信で武装して、正面から全てを受けながら進撃する。

 

 だがアーチャーもまた、それを待ち構えた上での迎撃である。

 放たれる銃撃は容赦なくランサーを削っていく。その身は未だに銃火の洗礼から逃れられていない。

 狂信の質は高まりを見せているというのに、それが結果に反映されていない。先まではあれほどに猛威を奮った信仰の加護が、ここにきて低迷を見せていた。

 

 それは、単なるアーチャー自身の強化だけでは納得できない。

 アーチャーの力は確かに強まったが、ランサーの狂信はそれ以上の苛烈さを見せている。不条理そのものな精神論だが、もはやそれを疑う余地はないはずだ。

 ならば要因は別にある。狂ったように貫かれるランサーの信条、その強さに覆い隠された陥穽を突くかのように、銃弾は黒い騎士の身を穿っていた。

 

「分からぬか、狂人よ。無理もなかろうのう。貴様らは己の道理でしか物を測れぬからな」

 

 銃火の成果を当然のものとして、アーチャーは嗤う。

 疑問に思うことはない。この結果は分かりきったものであると、晒したランサーの無様を嘲笑っていた。

 

「貴様はわしを許せぬと叫ぶ。不徳に満ちたこの世界を罪であると言う。その罪業を裁くとな。

 滑稽じゃな。己自身の姿がどのようなものであるか気付こうともしておらぬのじゃろう」

 

「抜かせぇ、この不心得者がぁぁッ!!」

 

 穿たれて血肉を削る身体を無理矢理に動かして、ランサーは尚も進む。

 その意気に衰えは見られない。断罪の決意に迷いはなく、苦痛への恐怖などあるはずもなかった。

 ランサーはそのままだ。彼自身は何ら影響を受けていない。懸ける狂気の思いのままに動き、己にとっての正義を押し通さんとしている。

 

 全ては、信じたものの正しさの証のために。

 彼は信仰への祈りに生きる者。己ではなく尊き何者かのためにこそ力を発揮する。

 ならばこそ迷わない。たとえ我が身に何が起きたとしても、全てを捩じ伏せ押し通してみせると確信していた。

 

「とくと味わえ、裁きの槍を! その流血をもって主への贖罪とするがよい」

 

 掲げられる槍は、串刺しの杭だ。

 かつて幾万もの人間を串刺し貫いたという概念が、槍という形を取ったもの。

 その本性は別にある。未だ本領を現さない己の宝具を、ランサーは天高くまで飛翔させた。

 

 鮮血に彩られる串刺し公の伝承。

 それはオスマン帝国侵攻というキリスト教世界の危機に際し、見事に敵軍を撃退してのけた武勲に由来する。

 そこで用いられた戦術は凄惨極まるもの。自国の民に血を流させる焦土作戦、さらに極めつけなのは敵軍の捕虜を用いて行った大量の串刺し刑である。

 その数なんと二万。長さ3キロ、幅1キロに及んで突き立つ朽ちた林、同胞の悲惨な死に様は敵兵の士気を挫き、骸の腐肉によって充満した死臭は疫病を蔓延させた。

 かの帝国の征服者をして悪魔の所業と言わしめたその苛烈さは、敵国ばかりに向けられたものではない。不徳を働いた自国の民や貴族たちも例外なく串刺しに処されたという。

 生涯を通算した数は十万をも超えるという。僅かな汚点さえ見逃さず罪の在処へと突き立てられる悪斬の杭。対象の罪が深ければ深いほどに威力を増すのだ。

 

 宝具の発動と共に、周囲に変化が現れる。

 無数に乱立する杭の群れ。それは生前の所業を再現する串刺しの野原。

 猛火に包まれる地獄の世界さえも突き破り、罪ある敵対者を屠殺する処刑場を現出させた。

 

「不徳に満ちた魔王よ、黙して処罰を受けるべし!――串刺城塞(カズィクル・ベイ)!」

 

 手が、足が、杭の刃によって貫かれた。

 四肢を串刺しとされ、アーチャーの身体が空中に縫い付けられる。

 罪ある咎人を罰する磔の刑。大の字になって掲げられたアーチャーは、磔刑に処され見せしめとされた罪人の姿そのものである。

 罰はそれだけでは終わらない。自由を封じられたアーチャーの身に殺到する無数の杭。穿たれていく身体に無事な箇所などもはやなく、そこに天より飛来した一刺しが霊核を貫いた。

 

 霊核を穿たれれば、サーヴァントとて死を免れない。

 誰がどう見てもその姿は死に体だ。無数の杭の磔となった身に生存の余地はない。

 ならばこれは決着の光景だろう。ランサーの宝具は、確かにアーチャーの命を討ち果たした。

 

「無駄じゃ。貴様にわしを裁くことは出来ぬ。決してな」

 

 だが声が、その事実を否定する。

 声の主は明白、聞き違えるはずがない。

 相手は目の前にいる。屍を晒したはずのアーチャーが、尚も変わらぬ不遜な声を発している。

 

 杭の野原を炎が包む。

 一度は突き破ってみせた地獄の業火に、屹立した杭の群れが焼け崩れていく。

 炎は世界と、そして何よりもアーチャー自身から現れる。貫かれた疵口より湯水の如く溢れ出て、杭の磔を焼き尽くした。

 

 自由となり、降り立ったその姿は無傷。

 まともであればあり得ない。杭は確かにその身を貫いていた。

 身体は業火で満ちている。たとえ英霊といえども、それは人の理を超えている。穿たれた傷孔を新たな炎で補填していく様は、人ならざる魔性のそれだ。

 

 アーチャーは、英霊・織田信長は魔王である。

 ランサーの伝承が鮮血で築かれた苛烈なら、アーチャーは火と鉄で積み上げた鮮烈だ。

 それは決してランサーにも劣らない。無辜なる者ら着色された怪物幻想、その呪いにして恩恵はアーチャーの身にも施されている。

 ましてやこの世界は、その畏敬と恐怖により具現された地獄の風景だ。此処に在ってはアーチャーこそが魔性を統べる王であった。

 

「罪という言葉は不確かなもの。何をもって罪とするか、それには多くの見方がある」

 

 ランサーの宝具『串刺城塞(カズィクル・ベイ)』。

 その効果とは対象の罪の量に応じて受ける苦痛が増すというもの。

 『逃走』『不道徳』『暴力』。この三種の罪を犯していればいるほどに、宝具の威力は向上する。

 戦乱を生きた覇者であるアーチャーは、この概念に多く当て嵌っている。本来であれば、逃れられる道理はない。

 

「罪を定めしは法。法とは王が敷き、権威によって保証されるものである。

 貴様が奉ずるは神の権威。神の名の下に潔癖であるべしと告げるのが貴様の法じゃ」

 

 『逃走』の臆病に流れるべからず。

 『不道徳』の退廃に陥るべからず。

 『暴力』の横暴を認めるべからず。

 父なる主が言われるように、悪性を許さず善として生きるべし。

 言葉にすれば、ただそれだけ。それこそが法の骨子であるが故に、否定することは出来ない。

 

「その概念ではわしを括れぬ。第六天魔王は堕落への誘い手、世の悪性を担う者。もはや存在としてわしは悪性を背負っておる。

 人を糺すための法では、神の正逆たる魔王は討てん」

 

 アーチャーが担うのは最高位の悪神の名。

 善と悪は正逆であるが故に、同格だ。敵国の君主を自国の法で裁けないように、同位にある者を無条件に断罪することは出来ない。

 この地獄に在って、アーチャーはまさしくその化身。魔王の概念は、串刺し公の概念を上回る。

 

「そして、狂信に殉ずる者よ。そうであるが故に、やはり貴様はわしに勝てぬ。

 狂気とは暗きもの。正気の何もかもを覆いつくし邁進するもの也。たとえ芯では気付いていることでも、狂える者は気付かぬままに進んでしまう」

 

 同じ魔性を背負う者でありながら、アーチャーが説くのはあくまでも理。

 それは普遍に存在する絶対のもの。己だけの狂信に閉じるランサーとは真逆の論だ。

 

「わしを不徳の王と言ったな。だが血塗られし王よ。遍く無辜の者どもから見て、わしらにどれほどの違いがあるという?

 どちらも苛烈に、血と恐怖で縛った畏怖すべき支配者の姿じゃろう。内にどれほどの違いがあろうとも、民草の目に映る姿に如何ほどの違いがあるというのじゃ?

 衆愚の思いなど知らぬ、我が思う故に我ありと、それはわしらには通用せぬ理屈じゃろう。なにせ、わしらはそやつらの幻想によって有り様を変えられた英霊なのじゃから」

 

 アーチャーとランサーは違う。

 有り様も、価値観も、神威を貶める者と守護する者とで相容れることはない。

 

 しかし、民草の目から見れば両者は同じものだ。

 どちらも怠慢への厳しさ、流した鮮血の恐怖によって支配を築いた者同士。

 それは下々の民にとって畏怖の対象となる。内心に恐怖を抱きながら仰ぎ見るより他にない。

 故に真実は届かない。抱いた怖れの幻想こそが民にとっての真実で、差異を慮れる心の余裕などあるはずもなかった。

 

「貴様は正気ならざるが故に強い。そして正気ならざるが故に、承知しておるはずの事実からも目を背けてしまう。

 自らが怪物と、多くの同胞串刺した己こそが殺戮の大罪人であると、他ならぬ貴様自身が承知しておるはずじゃというに、それさえ忘れて弾劾を叫ぶなど滑稽でしかあるまい。

 この地獄は民より見える貴様自身の光景。怪物が、怪物を裁こうなど道理に合わぬじゃろうが」

 

 この地獄を築いたアーチャーと、ランサーは同じものだ。

 如何に弾劾を叫ぼうとも、怨嗟を上げる怨念たちがそれに同調することはない。

 所詮はこの黒い騎士も、魔王と同類。自国民すら串刺しの屠殺を行い、嘆きの山を築いた悪鬼羅刹の類いに他ならない。

 

 そんな者が叫ぶ正義になど、虐げられた者たちが頷くはずもない。

 怨念にとってはランサーも同じ。怨嗟の声をぶつけるべき魔性の徒でしかあり得ないのだ。

 

「ほざけほざけほざけぇッ! その穢れた口を閉じよぉぉォォッ!!」

 

 アーチャーの理をはね除けて、ランサーは再び突貫する。

 

 ランサーは止まらない、止まってはならない。

 真実、彼の心は狂っている。正気の内には決してない。

 一念のみに突出した精神は雑念を混じえない。信念の純性とは盲目的な頑なさの裏返しだ。

 正論を突き付けられようと見向きもしない。その省み無さが強さに繋がっているのは間違いない。

 

「正気にて大業ならず。狂気にて押し通す強さこそ真なりと、正彦が好みそうな理屈じゃが。

 あいにくと、わしはそう思わぬでな。むしろ逆、狂気とは脆いもの。いずれはその破綻により、自滅でもって最期を迎えるのが定めであるとの。

 気合いと根性だけでは何ともならぬが現実じゃ。道理が合わねば事は成せぬと知るがよい」

 

 しかし、そんな狂者の理屈をアーチャーは否定する。

 狭く閉じて広がらない価値観など、世界に新たな価値を拡げた革新の王には無用の長物。

 一部の間で持て囃そうが、そんなものは負け犬の遠吠え。大多数を呑み込んだ喝采に劣るのは必定だろう。

 

 ある一定多数を超えて、その価値が認められるからこその真。

 異端が際立つことなど、所詮は一時のみの物珍しさ。たとえ強さが本物でも、いずれは多数によって押しのけられて淘汰されるのが自明の理だ。

 大勢の支持を得られない正義など、正義ではない。どんな理を叫び、それがどれだけ清廉で賢いものだとしても、誰も見向きもしなければ意味などないのだから。

 

「そしてそれは、貴様自身の承知の事であるはず。たとえ狂気で眼を閉じようとも、奥底ではその道理を思い知っておる。何故なら、貴様は秩序の善性こそ愛しておるからのう。

 清廉な信心を愛する者が、怪物という最もかけ離れた場所へ遠ざかっておる。その矛盾、理不尽を、他でもない貴様自身が得心しておるのじゃ」

 

 どれほど敬虔に仕え、神の愛を謳ったとしても。

 ランサーは殺戮者だ。凄惨な死の群れを地上に生み出した男である。 

 それは悪であり、罪なのだ。自他に苛烈な厳しさを課す男であるから、誰より己の不徳を承知している。

 自罰の意識は常にある。怪物と称される幻想を嫌いつつも、一方では否定出来ずにいる。己は罪深い存在だと、清廉であるからこそ自らを断罪したくて仕方がない。

 

「己は地獄に落ちるべしと、貴様はそう言うのであろう。だが、言うなればそれは、狂える者にとって致命的な欠落ではないのか?

 この地獄こそは貴様の罪の具現。我が心象世界では貴様自身の罪業も浮き彫りとなる。その信心に拭えぬ傷を与えておるのじゃ」

 

 ランサーは本当の意味で己の不滅を願えない。

 彼は自らの断罪を求めている。罪深い存在は地獄に落ちるべきだと自戒している。

 固有結界とは、心象世界の具現化だ。アーチャーの心象に刻まれた光景を映し出した焦熱地獄は、かつてランサーが築いた串刺しの野原と同質のもの。

 映し出される心象世界に偽りはない。紛れもなく己の罪だと理解しているから、たとえ狂気に自らを染め上げようともとも心の綻びは拭えない。

 

 もしもランサーが、己の為した殺戮を善だと臆面もなく宣えていたならば、また違う結果があっただろう。

 それは人の道を外れたもので、醜い姿であるのは間違いない。悪を悪とも分からず狂った理屈だけで正しさを語るなど、永劫救われない罪人の有り様である。

 けれどもそこに一つの真があるのも確かなのだ。本当に心から疑問とも思わないのなら、それこそが真実だと当たり前のように確信しているのなら、己にとっての道理は揺るがない。

 それこそ狂人と呼ばれる人種。人々が持つ普遍の価値観に対し、唯一人の感性でもって外れてしまった異質の怪物たちである。

 

 ランサーの強さとは、最高存在からの恩恵によるものではない。

 それは精神力から生まれる絶対性。揺らぐまいと狂信することで得られる力。

 心が生み出す不条理であるが故に、一抹の疑問であっても致命傷と成り得る。そんな心に生じた綻びが、ランサーの力に影を落としていた。

 

「今一度言おう。狂気とは脆いもの。覆い隠していた矛盾を突きつけられれば、これこの通り。これほどに崩れ易き者が強さや真理を語るなど片腹痛い」

 

 銃撃が総量を増していく。

 必然、それに伴って流される血肉の量も増えていった。

 

 縦横無尽、変幻自在に陣形を変えてくる火縄銃の群列。

 この地獄はアーチャーにとって自らの腹の中も同然。故にこの空間内では『三千世界(さんだんうち)』を一切の制限無しに展開できる。

 神性への特攻、能力の向上と、有利はそれだけではない。物量を振るう軍略家であるアーチャーにとっては、まさしく悪魔が如し手腕を振るえる合戦場でもあるのだ。

 

 絡み取られたその網からは、もはや逃れられない。

 どれだけ狂える姿のままに吼えようとも、ランサーは既にアーチャーの理に囚われている。

 それは理路整然と徹底した現実という理屈。どう足掻き何を叫ぼうとも、明確な相性と優位の要素がアーチャーを勝つべくして勝たせていく。

 

「なり損ないの怪物風情が、魔王に敵うはずがなかろう」

 

 焦熱地獄を満たす三千もの一斉砲火。

 慈悲も、容赦も、逃げ場を見出す余地もない銃火の蹂躙が、ランサーを撃ち砕いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、甘粕正彦は己のサーヴァントの勝利を見る。

 

 それはこの戦いのあらゆる参戦者が望むもの。

 勝ち抜き制のバトルロワイヤル。一度の敗北とて許されないルールの厳しさは語るに及ばない。

 命を賭している以上、誰もが勝利には貪欲だ。願いのため、まず何よりも生きるために、彼らは勝利を求めている。

 

 聖杯戦争とは、たった一つの祈りを懸けた殺し合い。

 この勝利の光景は、その祈りへと近づく貴重な前進だ。命懸けの戦いに挑む者たちにとって、それを得ることに疑問を差し挟む者はいない。

 

「口惜しいな。おまえの叫びはそこまでなのか。ランサー、狂気に染めるほどの慟哭を、魂の声を聞かせてくれ」

 

 しかし、甘粕という男は並み居る強者の中でもとびきりの異質。

 ある意味で、彼こそが真性の狂人だ。甘粕はいつだって、彼の中の道理に従い生きている。

 

「アーチャーは強い。それは契約を交わした俺が保証しよう。

 理解の及ばぬ狂気ではない。それは普遍のものとして皆々が持ち、故にこそ覆し難い現実の道理だ。

 一度は世界を塗り替えて、革新を成し遂げた彼女だからこそ、それを統べられる」

 

 向けられる期待の念、その対象はランサーに。

 己のサーヴァントを認める言葉を口にしながら、今の甘粕の意識は敗れたはずのランサーに向いていた。

 

「悩ましいよ。俺は奇跡を願っているし、諦めなければ夢は必ず叶うと信じてもいるが、容易く叶ってほしいとは思わない。

 何故なら、現実とは厳しいものであるべきだから。容易く覆るような軽いものであってはならない。それは世に生きるあらゆる意志への侮辱となる。

 たとえ世界を敵に回してもと、そう口にする者は覚悟すべきだ。おまえが向かおうとしているのは、遍く人々らによって築かれた現実という巨壁なのだと」

 

 意志の力を奉じる甘粕にとって、アーチャーはある意味で反目すべき存在だ。

 徹底して実利こそを追い求める彼女の王道は、勇気の可能性を信じる甘粕の信念と真逆だろう。

 まったく相反する二つの価値観。もしもそれらが出逢ったならば、その時は互いに滅ぼし合うか、あるいは背中合わせに二つの方向を向いて共生するかの二択である。

 

「現実が厳しければこそ、登りきった意志は素晴らしいと讃えられる。もし現実が容易くつまらないだというのなら、それは乗り越えた成果までも屑に堕ちるではないか。

 彼女という鉄の道理を、無理にてこじ開けるのは至難の技だ。だがその試練が越え難いものであればこそ、おまえの信仰は真を得るだろう」

 

 甘粕正彦は試練を好む。

 それは試練こそが彼の愛するものを輝かせるから。

 夢見る意志が突き当たる現実という試練。それを越えようと足掻く姿にこそ光は宿るのだ。

 

 ならば、アーチャーという英霊は、やはり彼という男のサーヴァントに相応しい。

 現実を凌駕した革新の王、意志の輝きを得る試練として、彼女ほどのものはないのだから。

 

「大多数から支持を得られれば名作とは限らない。たとえ日の目を見ずとも、心震わす素晴らしい作品とてあり得るのだ。少なくとも、声を大にそれを叫ぶ権利は誰にでもある。

 一度は売れずに誰からも見放された作品が、後世になり再評価され名作と万人に讃えられた例は幾つもある。それは現実に屈しようとも、尚も諦めずに挑んでいったが故の成果に他ならん。

 己が至高と信じるならば、誰憚ることなく謳うがいい。劣等と烙印を押された現実を、その意志でもって塗り替えて見せろよ。万人を支配する道理など、その信念でもって覆せ。

 なあ、ヴラド・ツェペシュ。おまえが選んだ在り方とは、そういうものではないのか?」

 

 解き明かした真名で、甘粕は呼びかける。

 ランサーというクラス名ではない。歴史にしかと刻まれた名でもってだ。

 英霊となる以前の、確かにあった人として生きた時間。一人の人間として生まれ、成長し、紡がれていったであろう思いの数々は、伝承などでは語り尽くせない。

 

 その眼は、聖杯戦争における闘争手段サーヴァントを見るものではない。

 相手もまた愛する意志の一つとして、甘粕はランサーにその眼差しを向けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――英雄ヴラド三世は、吸血鬼ではない。

 

 彼は敬虔な信徒である。

 正義と秩序を愛し、不道徳を嫌う人である。

 信じる教えを守るため、あらゆる辛苦を惜しまずに戦った。その功績は紛れもなく英霊として祀り上げられるのに相応しいものだ。

 

 彼は自らを『ドラキュラ』だと自称している。

 しかしそれは吸血鬼としての意味ではない。

 その意味とは『(ドラクル)の息子』。彼の父が神聖ローマ帝国のドラゴン騎士団の一員であり、『竜公(ドラクル)』と名乗っていたことに由来する。

 決して忌名ではない。父の意志を引き継ぎ、己もまた異教徒よりキリスト教世界を守護するのだという意思表示。それは誇りある称号だった。

 

 切っ掛けとなったのは、ブラム・ストーカーという小説家が世に送り出した怪奇小説。

 

 現在において、『竜の息子ドラキュラ』の名とは怪物の代名詞である。

 彼が尊んだ本来の意味、誇りと共に通称を冠した由来は忘れられ、恐怖の象徴としての意義が刻まれた。

 夜に生きる王。血を啜り喰らう伯爵。それは幻想種としての順位さえ逆転させ、狼男や魔女といったより古い歴史を持つ魔性らを従属させるに至る。

 創作が現実を捻じ曲げてしまった最大のサンプルケース。彼の行いは苛烈さと残虐性だけが取り上げられ、怪物としての高名だけが人々の記憶に残された。

 

 ――果たしてそれは、当人にとってどれほどの無念であろうか。

 

 英霊とは、生前の偉業によって高次の存在へと昇華したもの。

 その行いに向けられる祈り、憧憬、あるいは憎悪も含めた数多の感情。

 そんな集合無意識の思いが、英霊という存在を形成して力となる。彼らにとって自らの記録とは、己を己たらしめる"誇り"そのものだ。

 

 その行いを非難されるのは、まだいいだろう。

 立場の違い。民族の違い。教えの違い。住まう場所、文化が違えば善悪もまた変動し、一概に正しさを定めることは出来ない。

 たとえどのように否定されたとしても、生前の自分が確固として決断し、覚悟と共に行いの責任を背負ってきたというのなら、誇りは自らの中で穢されることなく残るのだから。

 それが偉業であれ、もしくは悪行であったとしても、自身の手で確かに行ったものならば、己の道のりの一部として納得することも出来たはずだ。

 

 だが、もしも、己の行いとまったく関係しないところで、まるで真逆の汚名を着せられたのだとしたら……。

 

 ヴラド三世は、紛れもない救国の英雄だ。

 その苛烈な所業も、決して彼自身が悪性であったからではない。

 ただ、彼の善性が自他に対して些か以上に厳しすぎた。横行していた腐敗も、それを見過ごす怠慢も、彼には我慢できるものではなかったのだ。

 その所業によって流された鮮血の凄惨さは、敵味方を含めたあらゆる者に恐怖なって刻まれた。その記憶が後世の怪物伝承のモデルとなり、彼を異形の幻想で塗り替えてしまった。

 

 その屈辱は、断じて許容できるものではない。

 己の所業と一切関係ない、事実無根の想像でもって、その"誇り"が否定されるなど。

 そのために神の信徒である自分が、よりにもよって神の愛を否定する魔性へ堕とされようなど、許しておくことがどうして出来ようか。

 それは奇跡を求める理由として十分すぎる。生前に辿った道のりを否定しないからこそ、そこにある誇りを貶める悪名の存在だけは否定しなければならない。

 

 吸血鬼の名を、ヴラド三世という英霊は決して認めない。

 彼自身が秩序を尊び善性を奉じる属性だからこそ、それを受け入れることはない。

 たとえ無辜なる幻想によって怪物と狂わされようとも、最後の一線では高潔さを保ち続ける。

 

 それこそがランサーの祈り。

 聖杯という万能に捧げんとする、英霊ヴラド・ツェペシュの真実"だった"。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 砕かれた脚が崩れ落ちる。

 手から力が喪失し、頼みとすべき得物も己から離れていく。

 身体に命が廻らない。経路が断たれたためだと、それが意味する事と共に理解する。

 致命である。もはやこの身は骸に等しい。完全に壊れてしまったと、己という器に結論をくだした。

 

 動けない。動きようがない。

 奮起のために必要な機能はすでに損なわれた。

 許さないと心は叫びを上げ、認めないと魂は今も尚吼えている。

 それでも、無駄だ。切れた生命の琴線は決して元には戻らない。それは奇跡にすがらなければ手に入らない恩恵だ。

 己には主より賜る恩恵はない。それは重々承知の上。殺戮の罪を負い、怪物とその名を貶められたこの身に祝福は訪れない。

 罪業の穢れを持つ者に天への門戸は開かれない。己は地獄に落ちるべきだと理解も覚悟もすでにあった。

 

 恩恵はない。奇跡は訪れない。

 創作された怪物性に関わらず、己は穢れに満ちた罪人だ。

 ならばこの結末も頷ける。己の不義から目を背け、断罪の正義を謳ったところで、そこに真が宿るはずがなかった。

 

 届き得なかった事は無念だが、それにも一応の得心は得た。

 叶わない祈りへの未練はあれど、ままならぬ事もまた生というもの。

 遥かな月にて得られた二度目の生。それが死力を尽くしての結果ならば、英雄の矜持と共に再び冥府へ舞い戻ることも許容しよう。

 

 それは、確信を持って言える確かな事実。

 もしも、これが一人きりの歩みであれば、ヴラド三世の道筋はここまでだった。

 

「なんじゃと!? 貴様……ッ!」

 

 ランサーは、起つ。

 崩れた四肢を動かして、死に逝く身体に火を灯して。

 あらゆる道理を踏み越えて、ここにランサーがその無理を完遂させる。

 

 だが確認しておくが、それはあり得ない事なのだ。

 既にランサーの身は死に体。『戦闘続行』のスキルでもどうにかなるものではない。

 銃弾に穿たれた身体に無事な箇所はなく、炎に巻かれた半身は焼け崩れている。その損傷はサーヴァントにとっての急所たる心臓部、即ち霊核にまで及んでいる。

 死に至る傷ではない。()()()()()()()()()()()()()()。霊核さえ失ったランサーは、こうして生を繋いでいるだけでサーヴァントの限界を超えている。

 

 それはランサーが、未だ諦めてはいないから。

 恩恵も、奇跡も舞い降りないのであれば、己が執念で強引にでも掴み取るより他にない。

 ランサーはここでの敗北を断じて許容しない。懸かっているのは己の身命だけではないのだ。

 最も尊いと感じた人がいる。その信仰を捧げるに足ると、必ずや勝利を献上すると誓った人が。

 ならば敗北などあり得ない。たとえこの身が砕け、魂までも灰に消えようとしているのだとしても、斃れることを許しはしない。

 己が死ぬことを許さないから、死なない。もはや理屈さえ通っていない無茶苦茶な根性論で、ランサーは致死の身から再起を果たしていた。

 

 無論、そのような不条理を黙って見ているアーチャーではない。

 装填され、一斉砲火を加える種子島の銃列。先に襲わせたものと同等の密度でもって確実なとどめを刺しにいく。

 それでもランサーは斃れない。銃撃に身は弾け、その衝撃に圧されながらも、膝を折ることは決してしない。

 肉体は確実に削られていきながら、訪れるはずの限界に執念のみで抗っている。どう見ても先がない有様だというのに、心だけは屈するものかと吼えるように。

 

 否、それだけではない。

 見れば、少しずつだがランサーの身に見られる損傷が減少している。

 容赦のない銃火に晒されて肉体は破壊されていく一方だというのに、逆にその身から傷が癒えているのだ。

 穿たれた肉は塞がれて、焼け落ちた半身が再生する。アーチャーの銃火による破壊速度を、ランサーの復元速度が上回っていく。

 勝利という先が無いわけではない。人の理を外れた現象でもって、今まさにランサーは敗北という現実を覆そうとしている。

 

 ――それはまるで、"本物の吸血鬼"のように。

 

「あり得ぬ! 貴様、己がしている事を理解しておるのか!?」

 

 アーチャーは物の道理を読み解くのに長けた英霊。

 そんな彼女だからこそ、それに気付く。ランサーが引き起こしている不条理の如何、それがどのような理屈であるのかを。

 

「貴様が神を捨てるのか、ランサー!?」

 

 その信仰心が生み出す精神力で、条理の限界を超えてきたランサー。

 しかし、これは先までとは次元が違う。これまでも発揮された怪力や耐久力は魔性に傾いていたが、その存在は人の枠内にあった。その武技も戦い方も、人を超越こそすれど、決して人の理を外れてはいなかった。

 傷を耐えるのではなく埋める。失われた肉体を補うために、肉体を創造する。それは治すのではなく戻す現象。たとえどれだけ精神力を発揮させようとも、人という存在であるのなら実現させてはならない理だ。

 それは異形の業、人ならざる魔性の証。神に定められた法則を踏み躙り、堕落の果てに至る存在。父たる主の愛に背を向ける背信行為に他ならない。

 

 人はそれを『怪物』と呼ぶ。

 人を喰らう者として、神に背く異端として。

 恐怖より生まれ、闇夜より出でる怪異なる存在。ランサーの姿はまさしくそれだ。

 英霊としての概念を塗り替えて、自らを別の存在へと置き換える。単に精神力だけの問題ではない。怪物としての幻想が真実をも上回ったヴラド三世だからこそ可能なことだった。

 

 だが、可能であることと、実際に行うことには明確な差異がある。

 ランサーが、篤き信仰を守るために戦った救国の英雄たるヴラド三世が。

 創作により血に餓えた悪鬼が如く語り継がれ、高潔な誇りを穢された恥辱を誰よりも知る男が、あろうことかその汚名を受け入れるなどと。

 

「神が、我が信心が、この槍の妨げとなるのであれば――」

 

 ヴラド三世は、吸血鬼とされた英霊だ。

 こんなにも残酷な人間は、このような恐ろしい人物は、"きっと怪物に違いない"。

 そんな人々の想像によって本来の存在を歪まされた。清廉な武人としての姿でなく、おぞましい怪物として恐怖の象徴とされた。

 人として生きながら、人ならざる者として扱われる。本意であるはずもなく、ランサーにとって吸血鬼の名とは呪いに等しい。

 

 それを、自ら受け入れた。

 それが彼にとっての誇り、篤き信仰に殉じた生き様を穢す行為だと知りながら。

 執念が、幻想に追いつこうとしている。狂い求める勝利への執着が、遂には彼自身を本物の怪物と等しいものに変えている。

 創作にある通り、血を貪り人を喰らう吸血鬼として、身も心も魔性の存在へと堕ちていく。

 

 

 ――――"鮮血の伝承(レジェンド・オブ・ドラキュリア)"――――

 

 

 正気を失い狂うだけでは済まない。

 ランサーは、文字通りに自らを捨てるのだ。

 英雄としての矜持、英霊たる何たるか。己の名すら遠い余所事に思えてならない、自分が自分で無くなる感覚。果てには一切を消失し、理性を持たない魔獣へ堕ちる。

 元に戻る術はない。捨て去るとはそういうこと。ヴラド三世という人格は消滅し、その存在は敵対するあらゆる者を殺戮するだけのものとなるのだ。

 

「――ならばオレは、信仰を捨てよう」

 

 自身の存在意義すら捨て去る決断を、ランサーは躊躇わない。

 たとえそのために、狂えるほどに殉じた神への祈りを捨てるのだとしても。

 己の全てを捨ててでも、守り抜かねばならないと誓ったのだから。

 

「我が汚名が、永久なる真実として語り継がれようと構わず」

 

「我が魂、永劫の魔道に堕ちること厭わず」

 

 誇りがあった。名誉があった。

 武人として、領主として、苛烈な生き様に秘められた数多の思い。

 それは断じて軽いものではない。英霊であっても、否、英霊だからこそ、自らの生きた証を捨てることがどうして出来よう。

 

「そうだ。もはやオレは、何も要らない」

 

 その全てを、今ここで捨てるのだ。

 英雄としての名誉も、神へと奉じた信仰も、何より自分自身でさえも。

 己が手にするあらゆるものを、たった一つの誓いのために投げ棄てるのだと覚悟する。

 

「ただ妻よ、最も穢れなき愛に生きる拒食の姫よ。貴女に勝利を捧げることが出来るのなら、この身は血に餓える不滅の怪物であればいい」

 

 全ては聖杯を獲得し、真に尊き人へと捧げるために。

 静かなる宣誓は、堅く揺るがぬ決意の表れ。意志を定めたランサーには、もはや狂気さえ必要ない。

 

 それを信じ難い目で見つめるのはアーチャーだ。

 彼女もまた英霊、苛烈にして鮮烈な生を歩んだ英雄の一人である。

 だからこそ信じられない。英霊にとって何物にも代え難い生き様への矜持を、たかが人間のために捨て去ろうとするなどと。

 

 主従の関係で結ばれるマスターとサーヴァント。

 しかし従属の関係にあるとはいえ、英霊たるサーヴァントは人間よりも遥かに上位の存在だ。

 その関係は絶対ではない。サーヴァントは確固たる自己を有した存在である。たとえ令呪があろうとも、己より下位の相手に唯々諾々と従う者などまずあり得ない。

 生前の信条から、死者として自らを戒めるか二度目の生を謳歌しようとするかは分かれるだろう。だがどんな英霊といえど、己の矜持を売り渡す真似はしない。

 既に死後の存在であるからこそ、生前の在り方と誇りは何よりも優先されねばならない。その生き様を自ら放棄するなど、サーヴァントならば考えられなかった。

 

 何の強制もなく、サーヴァントにそこまでの覚悟を抱かせたことに、アーチャーは驚愕していた。

 

「聞けぃ、ルーマニアの王よ! まだこの言霊が届く内に!」

 

 だから、アーチャーは声をあげていた。

 相手は怪物に堕ちかけた、もはや四の五の言わずに打倒すべき存在であるというのに。

 消え逝くその人格を惜しむように、最後にヴラド三世という英雄へと言葉を伝える。

 

「信ずる者のため、まさしく全てを擲つその覚悟。そなたの信心は一点の穢れもない潔癖じゃ。

 が、なればこその陥没も見えたぞ。そのあまりにも過ぎた純真こそ、そなたという人物が陥った非業への因果であると」

 

 ヴラド三世という英雄が持つ苛烈さ、残虐性の根底にあるものは、自身の高潔さに対する周囲との差異である。

 彼にとって当たり前のことが、周りの者にはそうではなかった。言葉にしてしまえばそれだけで語り尽くせてしまう。

 虚飾のない潔癖な信仰。秩序の正義を愛し、不覚悟な有り様を憎む。自身に課した当然の戒めを、ヴラド三世は他の人間たちにも同じように求めてしまった。

 堕落への怒りは、彼の苛烈さと結びついて凄まじい血の粛正を断行させる。その恐怖は串刺し公としての統治の糧となったが、同時に民との間の埋められない溝となった。

 

「その純正は人に耐えられるものではない。そなたにとっての正気とは、常人にとっての狂気である。だというのにそなたは、己の民草にもそれを道理と押し付けてしまった。

 それは王道にあらず。個人として抱くべき矜持にすぎぬ。国事における理からではなく、ただ己が耐え難いがために死の懲罰をくだした。

 王として、それは申し開きのない誤りじゃ。よってそなたは王に能わず。王ならざるが故に、そなたは王たる征服者に敗れたのじゃ」

 

 征服者メフメト二世。

 ヴラド三世の生涯における最強の敵。

 彼に対する勝利の功績こそが、ヴラド三世を英雄として決定づけたと言える。

 

 曰く『破壊者』『キリスト教最大の敵』『アレクサンドロス大王の再来』。

 コンスタンティノープルを征服し、東ローマ帝国を滅亡させ、最終的には三十年以上に渡る征服事業によりオスマン帝国に偉大な繁栄をもたらした"征服者(ファーテフ)"。

 その脅威は当時のヨーロッパにとって衝撃となり、教皇ですら逃走の用意をしたという。自国の民には栄光を与え、敵国の全てに畏怖を刻んだ破格の"(スルタン)"。

 

 メフメト二世は、戦においてヴラド三世に退けられている。

 それは確かに彼の敗北だろう。ヴラド三世の残酷さを悪魔と呼んで恐れた。

 だが、武人である前にメフメト二世は王である。万人を率いる偉大な王である彼は、故にこそ恐るべき串刺し公の弱点にもすぐに気付く。

 偉大なるキリスト教世界の盾、英雄ヴラド三世を敗北させたのは、対峙する敵対者ではなく盾の後ろで守られているはずの者たち。恐怖支配が生み出した澱みは征服者が付け入る隙となった。

 実弟が率いる軍に攻められて、自国の貴族には見限られて、同盟を約束したはずの国にも裏切られた。誰よりも高潔であったはずの彼に付いてくる者はおらず、無実の罪を着せられて信仰を救った英雄は処罰されることになる。

 結局のところ、勝利したのはメフメト二世である。如何に一つの戦場では勝ろうとも、国と国、王と王との戦いでは真に王者たる征服者に完敗したのだ。

 

「国を富ませぬ正義などに価値はない。そなたが望んだものは、元より人を喰らうもの。その善は最初から怪物のカタチをしておった。

 王より堕ち、人より堕ちて、最期には善さえも取り零して怪物に堕ちる。求めたはずのものから遠ざかり続けるその徒労、哀れなる殉教に生きる脚をそなたは止めぬというのか」

 

 アーチャーの告げる弾劾。それは人理を介する人の王としての言葉だ。

 同じ人であった者として、哀れとすら思えるランサーの在り方。他者に理解できない純粋さ、それ故に貶められ、排斥されたその結末。

 果てに怪物と名付けられ、遂には人たる最後の誇りさえ捨て去ろうとする姿に、アーチャーもまた一片の慈悲を示したのだ。

 

「――そう、だからこそオレは真実の愛を求めるのだ。遥かな極東に在りし王よ」

 

 だから、怪物に堕ちる寸前の残された理性でもって、ランサーは答えを返した。

 

「国を省みぬは王にあらず。慈悲を垣間見せぬは人にあらず。我が魂は生まれより魔性であった。

 ならば良い。端からその形であるならば、堕ちる事にも躊躇はない。在るべき姿に戻るまで」

 

 理解して尚、止められないものがある。

 ランサーとて理性の部分では分かっているのだろう。自身の潔癖が持つ歪さを。

 やはり彼という心は狂っているのだ。ランサーの信仰とは教えではなく、魂より発せられる声そのもの。人々の共有する正しさでは抑えきれない、まごうことなき異端である。

 

 しかし、それさえもはや絶望には値しない。そのような狂気の中で求め願ったものを、彼は既に見出しているのだから。

 

「然り、然り! 正気の内に真意はない。狂おしき情動こそ真なる渇望。果てにあるのが怪物ならば、その姿こそオレに相応しい!

 ――愛に狂え。その姿は美しい。理解の届かぬ純度なればこそ、其は孤高にて燦然と輝く真実の祈り。その価値を、我が血肉の全てを捧げても肯定しよう!」

 

 ランサーの覚悟に迷いはない。

 怪奇談に謳われた夜の怪物、鮮血の伯爵たる"吸血鬼(ドラキュラ)"の伝承。これより彼は正真正銘の怪物へとなり変わるのだ。

 

 吸血鬼とは、強大な能力と裏腹に多くの弱点でも知られる怪物だ。

 陽の光に弱く、十字架に弱く、流水を渡れない。闇に堕ちた存在として、聖なるものへの畏敬が未練となってその身を焼くのだと。

 だが自らの執念で怪物へと成り果てたヴラド三世には、それさえ通用するか分からない。何故なら彼は、その信仰さえ捨てて魔道へと足を踏み入れたのだから。

 如何なる手段に晒されようとも、滅びを容認しない彼はその信念だけで捩じ伏せてしまうだろう。それは文字通りの不死身の怪物とさえ成り得るかもしれなかった。

 

 そのようなランサーに、アーチャーは気圧されていた。

 自身にとっての世界、この焦熱地獄に在って尚、ランサーの魔性に寒気を覚えている。

 アーチャーのような、理屈で操った仮初めではない。怪物化していくランサーは芯の髄からその存在を魔へと染め上げている。

 正気ではない。これはまさしく狂気の沙汰。だからこそ発揮される意志の熱量は、理で動くアーチャーでは決して到達し得ないものだった。

 断じて屈したわけではない。それでも感じずにはいられない敗北の予感に、アーチャーの気迫は揺るがされていた。

 

「どうした、アーチャー? まだ何も決してはおらんぞ」

 

 そんなサーヴァントの背を押すのは、共に戦うマスターの声。

 

「非情に徹した理こそがおまえの信念。乱世さえ押し退けて築き上げた革新ではないか。

 なにを怯む? 何故躊躇う? 正しき人の理を掲げておいて、何を改めるというのだ」

 

 その声には不安や不信の陰りは微塵もない。

 甘粕正彦は信じている。己が契約した英霊の、その信条の強固さを。

 

「ヴラド・ツェペシュは強い。狂いながらも貫かれる思いは、まさしく人が行き着いた輝きに違いない。

 ならば、我らとて負けてはいられまい。素晴らしい輝きと認めればこそ、その覚悟に応じなければ。

 焼き尽くせ。塵さえ残すな。この地獄の焔でもって、吸血鬼の伝説を灰に帰してやるがいい」

 

 それこそが、死合いの場における唯一の礼節であるが故に。

 これは戦争だ。成就する祈りはひとつきり。どれほど切なる願いであっても、例外なく切り捨てられる。

 決戦の場に立った時点で、情けの余地は何処にもない。ならば最後の決着まで、全霊を懸けて戦い抜くのみだろう。

 

 その道理は甘粕とて変わらず、また誰よりも弁えている。

 故にサーヴァントへと渇を入れるのだ。何事にも囚われず、ただ全力で臨むべし、と。

 

 受け取ったマスターの意思に、アーチャーは破顔する。

 なんと呆れた根性論。理屈らしい理屈が何もない。

 理の信条を肯定しておいて、自分で宣うのはそれだとは。

 そしてこの男のそれは、単なる口先では終わらない。口にしたからには相応の事をやってのける。

 事実、その意志に呼応したように焦熱地獄の強度が増していた。固有結界とは大儀礼。その消耗は著しく、一流の魔術師といえども自前の魔力だけでは数分の展開が限界という代物だ。

 当然、時間の経過と共に世界の強度は落ちていくのが道理だ。だというのにここにきて強度が増すとはどういうことか。

 

 ランサーは怪物だが、この男もまた怪物だ。

 意志というものを原動力に、理屈さえ越えてしまう信念の怪物。

 互いが不条理を成し遂げる怪物同士。アーチャーとは正反対の存在だ。

 それでも、本物だとは認めなくてならないだろう。こうして己も、それに触発されてその気になっているとあっては。

 

「……よかろう。真っ向より、受けて立とうぞ!」

 

 ここに至ってはそれこそが正答。

 これより先の攻勢は熾烈を極める。生半な覚悟ではぶつかれない。

 後退など、それこそ心に緩みを生じさせる。自ら勢いを削ぐ愚行に他ならない。

 後先も考えてはならない時がある。今がその時だと、アーチャーも承知していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 焦熱に包まれる地獄の坩堝で、二騎の英霊が対峙する。

 中空に浮かぶ種子島。掌握される計三千もの銃列が、ランサーを一子乱れずに狙い定める。

 世界を覆った仏滅の大火と、敵を囲う包囲は未だ万全。状況はアーチャーにこそ優位を与えている。彼女が築き上げた理の牙城は崩れていない。

 だが、アーチャーが対峙するのは真性の吸血鬼。常軌を逸した変貌を遂げたランサーは、もはや英霊の枠組みにさえないだろう。

 その執念は、理では決して測れない。理外にあるからこその狂気である。激突が開始されれば、果たして立っているのはどちらであるか、それは両者にも分からない。

 

 それを承知しながら、アーチャーは向かっている。

 己の勝算が万全でない事を。この正面決戦に保証など何もない。

 本来、それは彼女の信条から反している。策を弄して、地の利を整え、確たる勝算を得て動く合理主義。古き戦の有り様を否定した革新の王に、誉れへの執着はあり得ない。

 どちらに転ぶか分からない、博打のような決戦などやる意味は無い。彼女の信条とはそういうもので、この状況は本意であるはずがない。

 だが振り返るのなら、ここまでの戦いはそのようなものばかりであった。確実なはずの勝機をあえて見逃し、格下相手にさえ奮起されて迫られる始末。革新の王の戦とはとても言えまい。

 すべては、勇気を愛して意志のままに突き進む大馬鹿者、甘粕正彦という名の男に見出されたから。その手を取った瞬間から、こうなることは必然だったのだ。

 契約のみの関係ではない。主従を受け入れると決めたのは己自身。この今生を捧げると誓ってみせたのだから、こんなやり方も承知してみせねばならないだろう。

 

 対するランサーもまた、向かう思いは熱量を増すばかり。

 勝利のために、それは誰でもないマスターのためにある。

 そのためならば全てを棄てられる。英霊としての己さえ捧げてみせると豪語している。

 躊躇う気持ちなど一片もありはしない。たとえ生前に殉じた信仰に背く道だとしても、勝利が得られるというのなら喜んでその道を選ぼう。

 すべては、真実の愛に生きる女、奇跡のような光に出逢えたから。その光に跪いた瞬間から、一切の未練を振り切って揺るぎない覚悟を得た。

 形式の契約など関係ない。一目見たその時から、己の忠誠は決まっていた。貴女のための戦いこそ聖戦と定めたのだから、この身がどうなろうとも殉じなければならないのだ。

 

 互いに己の有り様を歪めてでも勝利へと向かっている。

 そして、それをさせているのはどちらも自身が従うマスター故に。

 本来の自分を歪めているからこそ、懸ける執念も尋常ではないと言える。性質も主義主張も何もかも真逆の両者だが、皮肉にもそこだけは共通していた。

 マスターの勝利のため、それはサーヴァントにとって本懐にも等しい意義。戦いのための闘争手段たちは、その存在意義のままに向かい合っていた。

 

 アーチャーに止まる気はない。

 ランサーにも止まる迷いはない。

 横から誰が口を挟もうとも、二人の激突を止める事は叶わないだろう。

 たとえそれが神でも、悪魔でも。定まった両者の決意をどうやって止めるという。

 先にあるのは決着だけ。勝者か敗者か、二者択一の明暗だけが迎えるべき結末だと、互いが承知の上であるが故に制止できる者は一人もいない。

 

「――駄目、止めて」

 

 そこに、もしも例外があるとすれば、やはりたった一人だけ。

 

「ランサー。駄目。それは決してしてはいけないこと」

 

 理由はどうあれ、この闘争を歓迎する者たちの中で、唯一人。

 どんなに苦しく飢えていようとも、他者から奪う事を良しとしなかった、彼女。

 

「あなたは、そんな風になってはいけない人だから」

 

 何処までも己の信心に殉じようとするランサーを止めるのは、祈りの先に在る女自身からの言葉に他ならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつだって彼女は、人の献身によって生かされてきた。

 

 食べる事の出来ない身に、代わる何かを与えられた。

 あまりにずれた人との差異を、誰かからの手によって繋いできた。

 それは打算ではあり得ない。全ては愛があったが故に。思う心があったから、誰も彼女を見捨てようとはしなかった。

 

 彼女が愛に生きられたのも、そのためだ。

 愛は何よりも尊い。愛に生かされてきた彼女だから、それが分かる。

 愛されてもらったから、自らも愛そうと思えた。彼女が守り抜いた人としての愛は、誰かから教わってきたものだった。

 

 心が動かされないはずがない。

 たとえ嘆きの中にあって、虚ろとなった心でも。

 全てを擲ち、自らの尊厳さえ捨て去っても尽くそうとする、ランサーの献身に。

 

 誰よりその尊さを知る彼女が、心動かされないはずがなかったのだ。

 

「――ああ」

 

 洩れる嘆息。そこに込められた思いはなんだろう。

 諦め、納得、そして安堵。異なる様々な感情が一息に込められる。

 無念だと嘆くのか、それでこそだと喜ぶべきなのか。その矛盾、二つの真逆の結論こそ、己が狂気の内に在ってずっと目を背けてきた事なのかもしれず。

 

 だからこそ、それは何よりも明確な"決着"だった。

 

「ああ、やはり、貴女はそれを選ばれるのですね」

 

 向き直った先にいるのは、狂気の仮面を被った道化師ではない。

 そこにはもう仮面はない。道化の面を外して、その素顔に映すのは理性の光。

 かつてランルーくんと名乗った女。壊れていたはずの彼女が、真実の姿となってランサーと向き合っていた。

 

「……ランサー」

 

「分かってはいたのです。貴女という人が望むもの、それが如何なる祈りなのか、始めの時から理解していた。

 食べる食べると望みながら、その実、貴女は倒した相手を口にする事は決してなかった。嘆きの狂気に陥りながら、それでも己の信仰を違えなかった、哀しい女よ。

 そんな貴女が、他者を喰らい奇跡へ至るこの戦いを、是とするはずがなかったのだ」

 

 

 

 愛した者を食べたいと願いながら、決して食べる事をしなかった。

 怪物としての愛を持ちながら、その愛を良しとせずに人としての愛に殉じた、女。

 そんな彼女だからこそ、跪いた。たとえ全てを擲ってでも、彼女のために奇跡へと至るのだと誓ったのだ。

 

 ――他ならない彼女自身が、そのような奇跡を望まないと知りながら。

 

「だからこそ、オレは貴女の不明を良しとした。怪物の仮面を被る貴女を容認し、その正気が立ち戻る事のないように振舞ったのだ。

 釈明のしようもない。貴女の狂気を肯定するため、同じ狂奔の内に閉じるより他に処方を持たなかった至らなさを、どうか謝罪させていただきたい」

 

「……ううん。きっとあなたでなかったら、私はここに居なかった。

 優しくしてくれた時間も、ちゃんと覚えているよ。あなたは本当に、私なんかのために頑張ってくれたんだもの。謝らなきゃいけないのは私のほう。

 本当に、ごめんなさい、ランサー。あなたはそんなになってまで尽くしてくれたけど、やっぱり私はそれに応える事は出来ない」

 

「ええ。それでこそ貴女だ。その妥協ができない愛の潔癖こそ、貴女に見出した真実だ。

 貴女は救われなければならない。そのような貴女だからこそ救われなければならないのだと、そう求めたのはオレ自身の望みであったのだ。

 ならば御身に咎は無い。業の全ては、我が体を以て引き受けよう」

 

「……あなたはどうして、そうまで私のことを?」

 

 傅いて、忠義をも超えた信仰を捧げるランサーを疑ったことはない。

 ただ、彼女には分からないのだ。そこまで自分に尽くしてくれる、その思いがどうしても理解できない。

 

 彼女にとって、自分とはいつだって戒めるべきもの。

 自分は他の人たちとは違う。その食欲は異常なものだと自覚している。

 自身の本性を忌諱してきた日々は、彼女に自罰的な意識を与えている。称賛も献身も、自分には分不相応のものだとしか思えない。

 

 ――それなのに、ああ、どうしてこんなにも。

 私の周りにいる人たちは、私のことをこんなにも愛してくれるのだろう。

 

「命を奪うことは罪だという。しかし見よ、いったいどれだけ多くの者が、必要のみならず遊興で以てその罪を犯しているのか。

 貴女ほどに切実な愛に生きる者はなく、貴女ほどに残酷な飢餓に耐える者はいない。呪われた宿業を持ちながら、その魂は地上の誰よりも清らかだ」

 

「生きる為に喰う獣などとは、悲哀が違う。

 生きる余興に愛する人間とは、濃度が違う」

 

「貴女に虚飾はない。獰猛な欲求、偽りない求愛。幼いままに破綻したその恋慕、されどそこに身を委ねる事なく、穢れなき純愛を貫いたその生き様。

 どうか、今一度言わせてほしい。貴女の存在こそ奇跡だと。オレが求めてやまなかった、真実の愛の体現であるのだと」

 

 誰よりも苛烈に、狂気とすら映る純粋さで生きた、ランサーだから分かる。

 愛したものしか口に出来ず、愛しているからこそ食べる事を選ばない。どれだけ飢餓に蝕まれようと、とりあえず愛するという妥協さえあり得ない。

 逆説的ではあるが、その心の在り方は打算や偽りのない、真実の愛そのものだ。人の欲深さ、おぞましさを知るからこそ、それがどれだけ得難いものかを知っている。

 

「であるのに何故だ!? 何故、貴女の愛が奪われる!?

 貴女ほどに罪の穢れを持たぬ者はなく、貴女ほどに真摯な愛に生きる者はいないというのに、なにゆえこのような悲劇が罷り通るのか!?

 間が悪かったなどと、そんな言葉では済まさせないッ!!」

 

 そう、得難い奇跡だと知っているからこそ、この理不尽に底知れぬ憤怒を抱くのだ。

 

 彼女が、虚飾の無い愛に生きる人だと知っている。

 彼女が、何の罪業も持たない清き人だと知っている。

 そんな彼女の愛が、最も報われぬ形で終わったと知った時の、その怒りたるや形容し難い。

 人の不運に理由はない。多くの場合、ただ間が悪かっただけなのだと、そんな当たり前の道理にさえ怒りを顕わとするほどに。

 

 それ即ち天への憤激、奉じるべき主への叛意の宣言にも等しかった。

 

「あってはならぬ。これは天の不明である。地上で最も清らかな愛が絶望の嘆きに堕ちるのならば、正義の一切はその価値を失うであろう。

 誤りは正さねばならぬ。本来得るべき幸福を、有るべきであった未来を取り戻す。聖杯の奇跡で以て、間違った時間を巻き戻すのだ!

 これぞまさしく聖戦よ! 貴女には飢えを満たす資格がある。その尊厳を取り戻すための戦い、そのために身命を尽くす戦いを聖なる行いと呼ばすして何とする。

 敵対者どもよ、贄となれ。たとえ万を超える屍の山を築こうとも、これ全て誉れある愛の所業であると知るがいい!」

 

 矛盾した論理さえ押し通す、狂気という名の原動力。

 本来ならば承知している道理さえ、ランサーは狂念によって置き去りとするのだ。

 全ては『彼自身の願いのために』。本心を覆い隠した彼女の願いでは、決して彼女は救われない。彼女の愛とは失われた過去にこそあるのだから。

 故に、それを取り戻す。過去の悲劇を覆して、彼女が愛した全てをその手に返す。それこそがサーヴァント側の、ランサーが聖杯に託すべき祈りに他ならない。

 

「……だが、貴女はオレを否定した。畜生の理で動く我が行いを良しとはしなかった。

 それでいい。ならばやはり、貴女には救いが残されている。天に祝福される資格を、貴女は最期まで守り抜いたのだから。

 そして、護国の鬼将と謳われながら、御身を守り抜く事かなわなかった我が槍の不甲斐なさを、どうかお許しください」

 

 だが、そんなランサーの狂気は彼女(マスター)によって止められた。

 そして忘れてはならない。ランサーの身は既に死に体。霊核も完膚なきまでに破壊され、本来ならばとうに決着がついている。

 その命を繋いでいたのは、ひとえに彼自身の狂信によるもの。宝具とすらなっていない伝承概念を、ランサー自身の執念によって"貴き幻想(ノウブル・ファンタズム)"の領域まで押し上げた。

 その信念の不屈から生み出される不条理こそ、ランサーの生命線。現実を覆してきた不条理を失えば、後には当たり前の結果だけが待っている。

 

 ――魔法が、解けた。

 

「ううん、違う。私だって一緒だったもの。その罪は、あなただけのものじゃないでしょう?」

 

「ああ、そればかりは頷けませんな。貴女の言葉といえど、聞く耳を持つつもりはない。

 たとえその手の令呪を費やされようとも、この罪の穢れはオレ自身で持っていく」

 

 それは、優しい拒絶だった。

 消え逝こうとする身であっても、ランサーが案じているのは彼女の事。

 清廉な魂を、殺戮の罪で穢すことがあってはならない。たとえそれが互いの祈りを奪い合う聖杯戦争であろうとも、奪う事を善しとしなかった彼女には相応しくない。

 

 だから、ランサーは全てを己の業にして振舞った。

 彼女の狂気とは嘆きからの逃避。その意志に本当の意味での殺意はない。

 彼女の言葉を受け取って、殺戮へと変えてきたのはランサー自身。願いのための行いだと、決して彼女の信念を穢すことのないように。

 己が全ての泥を被ってでも、奇跡へと至る。それこそがランサーの捧げてきた献身だった。

 

 ――ああ、また、お腹がくうくうと鳴り始めた。

 

 彼女は泣く。己という存在の呪わしさを。

 彼女は震える。奥底より鳴り響く怪物の声に。

 ランサーは消える。それはもう決まってしまったことだから。

 なら、食べないといけない。命は無駄にしてはいけないのだから、食べないと。

 哀しいけど、本当に、とテモ哀シイ事だケレど、食ベナイト。

 

 ダッテ、ソウシナカッタラ、ワタシ ハ ダレモ 愛セナインダカラ――――!

 

「いえ、それには及びません。

 この身は貴女に愛される資格がない。

 貴女にとって愛する事とは、飢餓の苦行と褥を共にせねばならぬ重いもの。

 幾万の血肉を貪った怪物には、あまりにも過ぎたものだ」

 

 そんな彼女の愛を、ランサーは振り払う。

 優しく、静かに、決して手折ることのないように。

 串刺し公の異名からはかけ離れた姿で、教えを諭す聖者が如き慈しみを以て告げた。

 

「貴女の生き方は間違いではない。穢れなき御霊には救いの余地が確かにあるのだ。

 愛するのは、どうかその時に。オレではない。純潔を貫いた貴女の愛は、真に愛すべき者たちへと向けられるべきなのだから。

 貴女は報われるべき人だ。苦行の生にこそ末後の安息は約束される。天より降りる祝福は、必ずや貴女の頭上にも注がれることだろう」

 

 ランサーが示す救い。それは聖杯の奇跡によるものではない。

 実態を持った事象ではなく、それは心の内の、ともすれば誰もが手に出来るもの。

 魔術師の神秘よりも見えざるもので、だからこそ無形のまま信じることに価値がある。

 

「――だから、どうか祈ってください」

 

 其れの名は、祈り。

 地上のあらゆる万人が、英雄・凡庸の区別なく行うこと。

 地域、教えの違いこそあれど、祈りという行為の根元的な意味は変わらない。

 自分たちよりも大きな存在を意識して、何らかの許しを求めている。それは畏敬であり、贖罪であり、救いであったりと人それぞれによって異なる。

 

「案じめされるな。救いは舞い降りる。希望は必ずや、貴女の手の中に収まるのだ。

 どうか疑わず、それを信じていただきたい。信仰とは、元よりそうしたものであるのだから」

 

 元来、信仰という行為に見返りはない。

 どれだけ祈り敬ったところで、分かりやすい加護だの幸運だの、目に見える恩恵があるわけではない。

 物理法則に支配される今の現世に、自然概念の神はいない。神話の時代はとうに過ぎ去って、神なる存在がその姿を降臨させることはなくなった。

 

 実態なき存在を信じ続けることは難しい。

 あらゆる神秘が駆逐された地上では、宗教さえ意義を失いつつあって久しい。

 いずれは教え自体も形骸化し、人の意識は神への畏敬から離れていく。その未来は自明のものであるだろう。

 

 それでも人は、きっと祈る事を止めはしない。

 幸運を欲する時、自身ではどうしようもない事態に直面した時に、やはり人は祈るのだろう。

 教えを知らずとも、神なる存在を信じておらずとも、"何かに祈る"という行為は消えない。

 

 ――だって、そうでなかったら、この世はあまりにも残酷だ。

 

 どうしようもなく、救えないものがある。

 悪事の罪があるとは限らない。そんなものなくたって、人には多くの絶望がある。

 運命とは理不尽で、人はいつだって間が悪い。

 個人がそれに抗うことは難しく、世界には今も不幸の嘆きが生まれている。

 そんな救われない心を救うために、人々は祈るのだ。救ってほしい、救われたいと、嘆きに堕ちた心に再び光を灯すために。

 

「純真なる祈りの前には、勢力の大小も、教えの如何も、奉じる神の名さえ、取るに足らぬ。

 祈ってください。救いはあるのだと、祝福は訪れるのだと。誰より清廉であった貴女には、楽土への道が開かれている」

 

 祈りが届くかは問題ではない。

 聞き届ける神がいるかどうかさえ、問題にはならない。

 祈りを信じることが救いなのだ。救いはあると信じられれば、それは真実にも等しくなる。

 

 大切なのは信心の潔癖。

 何者かの救いの手を求めて祈ってはならない。

 信じてさえいれば報われると思ってはならない。

 見返りを求める打算も、主の実在を疑うのも、総じて不純だ。そんなものがなくとも、何かを思って祈るという行為に支障はない。

 

 ただ純粋に、心穏やかに祈りを捧げた者の魂には、安息は訪れるのだ。

 

「……天国なんて、あるのかな?」

 

「ありますとも」

 

 穏やかに、ランサーはそれを諭す。

 

「……人は、そこに行けるのかな?」

 

「行けますとも」

 

 言葉短く、余計な教えも必要としない。

 ただ伝えれば良い。信じることへの純心を。

 

「……私は、救われていいのかな?」

 

「それこそ、もはや語るに及ばず」

 

 信じる者は救われる。言葉の通り、彼女の救いとはそこにある。

 

「でも……それなら、あなたは?」

 

 あくまで彼女に諭すばかりのランサーに、彼女はそう尋ねる。

 面持ちは穏やかなまま、ランサーは問いに対して静かに首を横に振った。

 

「我が身にその資格はない。血染めの恐怖に塗れた怪物にあるのは地獄への末路のみ。何も変わることはありますまい」

 

「けど、それじゃああなたは……ッ!?」

 

 彼女は知っている。

 どんな苦痛も恐れずに、心の不屈でもって戦える彼の姿を。

 一時の休息の中、色んな昔語りで慰めてくれる彼の声を。

 純粋な人。不器用な人。どうしても不実には生きられなくて、いつも自分を磨り減らしてる。

 本当は優しい姿だって持っている。だけど彼は恐ろしい人だから、みんなが彼を誤解している。

 

 怪物だ、吸血鬼だと、彼はいつまでも言われ続ける。

 きっとそれは変わらない。誤解されたまま見向きもされない。

 彼の真実は覆い隠されて、彼の思いは誰にも届かない。誰よりも人の正しさに純粋であろうとした人が、人々にとっての悪魔として語り継がれるのだ。

 

 それでは、あまりにも救われないのではないか――――?

 

「それこそ、貴女に案じられるまでもありません」

 

 霊子で編まれた身体が解れる。

 仮初めに得られた生命が消えていく。

 奇跡を手にする機会を得ながら、悲願に届かず散る無念。深い渇望を持つからこそ、受ける絶望も推して知るべきだろう。

 しかしランサーの面貌に苦渋はない。その心は晴れやかに、満ち足りたものを抱えながら己の結末を受け入れている。

 

 主への愛を信じて戦った。

 貴族の責務を果たすべく、あらゆる不正を糺してきた。

 何ら不思議なことではない。信仰と正義への思いとは誰もが持つべきもの。

 当然の道理であったはずだ。信仰を尊び、正義に生きる。それを護るため戦うことも、不実に罰を与えることも、彼にとって当たり前の認識だった。

 だが、そんな彼の道理は理解されなかった。彼の清貧さは欲望持つ人々には疎ましく映り、豊かさに溺れる者の悪辣によって殺されたのだ。

 

 ヴラド三世にとっての無念とは、非業を遂げた最期でも、怪物と称されたことでもない。

 自らの行いが"怪物の所業"として映る、その乖離こそが彼にとっての絶望だった。

 

 この地上に、主への愛はない。

 真実と呼べる祈りは、穢れなき清廉たる愛は存在しない。

 生涯を通じて思い知らされたその事実。もはや怒りと嘆きしかない。彼が信じた正しさは何処にも存在しないのだと理解した。

 純粋すぎるが故に妥協が出来ない。それを許すことは不実の罪に他ならないのだから。納得することが出来ない憤怒の念は矛先さえ見失い、ひたすらに彼自身を苛むばかり。

 

 ――しかし、その嘆きはすぐに癒されることになる。

 

 月によって引き合わされた召喚者、道化の仮面に心を覆った哀しい女。

 一目見た瞬間に打ちのめされた。その純性、呪いを抱きながらも穢れを持たず、真実の愛を貫く生き様に。

 全てを捧げて尽くすことにも躊躇はない。人間と英霊の格差など、考慮するにも値しない。

 それほどに彼女という存在は尊い。武勇に優れた英雄や、人より聖者と称される人物よりも、遥かに得難い輝きであると思えたから。

 

「貴女という奇跡に出逢えた。ただそれだけを以て――

 オレはもう、十分に救われていたのだから」

 

 虚無へと消えていく面貌には、最期まで慈しみを浮かべながら。

 最期にはあらゆる狂気から解放されて、心穏やかにランサーは還っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女は祈る。

 奉じるべき神の名を知らない。

 こうと願う救いの形を持たない。

 それでも彼女は祈るのだ。純粋に、誠実に、ただ真摯な思いで以て。

 

 己の"結末"は分かっている。

 狂気の仮面は剥がされた。彼女には既に正気の意識が開かれている。

 ならばこそ、目を背けられた感情とも向き合わなければならない。

 即ち、それは恐怖。彼女もまた人なれば、必然の感情からは逃れられない。

 大切な人々との、多くの別離を味わってきた彼女だから、それの絶望の重さも分かっている。

 落ち着いてなどいられない。差し迫った己の終わりを感じれば、本来なら震え上がらずにはいられなかった。

 

 逃れられないはずの恐怖を、抑えている。

 それは彼女が強いことを意味しない。彼女の心にそうした打ち勝つ強さはない。

 なのに彼女には安息があった。言われた言葉をただ信じて、こうして祈りを捧げてみせるだけで、こんなにも儚い彼女が恐怖すら克服している。

 それは逃避とも呼べるかもしれない。避けられない現実を前にして、都合の良い理屈によって自身を納得させ、恐怖の意味から目を逸らす狂信者の行いとも。

 だが、たとえ行動の性質が似ていたとしても、彼女の姿に狂信などという言葉は似つかわしくない。あるのは純粋に、清廉なまま捧げられる祈りだけだ。

 

 もはや誰にも彼女を否定することは出来ない。

 どのような理屈を持ち出したところで、彼女の純性は揺るがない。

 たとえ神や悪魔だとて、信じるという行為そのものを否定など出来ないのだから。

 ましてや見返りの一つさえ求めないのであれば、その心を穢す手段など何もないに違いない。

 

 ――きっと、パパとママもそうだったのだろう。

 

 目の当たりにした最期の時、彼らに恐怖はなかった。

 その心境は、今の自分が感じているものと似たものだと思う。

 それを素直に嬉しく思う。愛する人たちを近くに感じることが出来る。

 いや、それをいうのなら、きっと"彼"だって同じだった。愛する事に誠実で、自分という異質にも向き合ってくれたから。

 改めて、その覚悟を思う。貴賤なんてない。この思いの尊さは、自分の周りにいた皆が持っていたものだった。

 

 いなくなった彼らの事が、理解できる。

 喪われた彼らの事が、まだこんなにも愛おしい。

 その事を純粋に、ただ嬉しいと素直に思えた。

 

「ああ――」

 

 光が見えていた。

 優しく、暖かい、慈しみに満ちた光が広がっている。

 降り注ぐ光は告げている。貴女を待っていたと。

 彼女は報われるべくして報われる。清廉なる魂に祝福のラッパが吹き鳴らされるのだ。

 

 光の先に、誰かが見える。

 手を差し伸べ、迎え入れようとしているような、"誰かたち"の姿。

 その姿を知っていた。喪われた愛しさを、別たれた苦しみを忘れられるはずがない。

 

 きっとそれは、彼女が本当に求めていたはずのもの。

 愛する人を食べたいと欲するのは衝動だ。彼女の心が求めた願いではない。

 彼女は決してそれを是とはしなかった。彼女が望んだものは、怪物の願いではなかったから。

 

「みんな、そこにいたのね……――――」

 

 さあ、手を伸ばそう。

 もう何も恐くない。何を嘆く必要もないのだと。

 差し出された手を取る資格が彼女にはある。人としての愛を謳う事が、彼女には出来る。

 長い、長い彼女の腕。抱きしめる者のいなくなったその手の中に、再び愛が戻る時がきた。

 

 苦しい生涯には意味があった。

 あの飢餓に耐え抜いた日々があったから、自分は今ここにいる。

 この安息がその答えだというなら、それは十分な幸福だった。

 

 光に向けて手を伸ばす。

 晴れやかに、精一杯に、最期まで。

 心からの安寧の中で、彼女は手を伸ばし続けて――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 赤い障壁が下りている。

 それは決着を示すデッドライン。勝者と敗者を分かつ絶対の境界線だ。

 ムーンセルからの裁決が下った以上、もはや覆すことは出来ない。ここに決戦は終わりを告げ、3回戦を勝ち抜いた勝利者が定められた。

 

「愚かな。自ら勝利を手放すとは」

 

 吐き捨てるようなアーチャーの言葉は、散り果てた敗者たちに向けた侮蔑だった。

 

 敗者の側となった者にとっての必定。生き残れるのは勝者だけ。

 戦いの勝敗がついた時点で、その運命は燃え尽きる。数理の化身に命の尊厳は意味を為さない。

 死に絶えたのが敗者なら、生き延びた者こそが勝者だろう。ムーンセルの判断は絶対であり、何よりも公平で明確だった。

 

 そんな客観視した事実は、アーチャーにとっての結論とも等しい。

 何も掴めなかった敗北者を、まして自らそれを選択した者を尊重する意思など持ち合わせるはずもなかった。

 

「命にも勝り、己の信仰に殉じるか。見事だったぞ、名も記されないマスターよ。

 対し、立つ瀬がないのは俺たちの方だな。試練など、見当違いも甚だしい。おまえはすでに、これ以上ないほどに錬磨された輝きに満ちていたというのに」

 

 だが客観の事実で下される裁定に対し、甘粕正彦は真逆の裁定をくだす者だ。

 事実よりも意志の如何にこそ着目し、それを讃える声を上げている。そこには満足気な笑みだけでなく、何処か憂いも見せていた。

 

 苦難の試練に晒されてこそ人の魂は輝きを放つ。

 最初の時より人から外れた生涯とは、それ自体が試練にも等しいだろう。

 ただ人として生きる事、それだけの事が彼女にとってどれほど難しくあったことか。

 彼女の強さとは、他者と争う強さではない。彼女の持つ尊さは、聖杯戦争という場所では輝かないものだった。

 

 死に際に見せた、信心に殉じる主従の語らい。

 そこに甘粕らの姿はない。彼女たちの信仰は、既に彼女たちだけで完成していた。

 祈りへ殉じる事に敵対者など不要。彼女が得た安息は真実であり、それを穢すことは誰にも出来ない。

 

 何一つの未練も残さず本懐を遂げた。救いを求めて挑むのがこの戦いなれば、それは勝利だとも呼べるだろう。

 

「うつけめ。雑食ぶりも大概にせい」

 

 そんな結論を切って捨てるのがアーチャーという英霊だ。

 合理性を以て成果を成す革新者の王道。理念や思想よりも、彼女が見ているのは事実であり、現実だ。

 祈りの尊さよりも、その意志で以て何を成し遂げられるかを考える。信念の純度・強度が強ければ強いほど、実現の可能性や世界への影響力は強くなるのは間違いないのだ。

 

 だが、初めから己の中で閉じている意志ならば、どれだけ強くとも現実に及ぼせる力はない。

 そのようなものに用はない。己にとって損も得も齎さないものならば、それは関心を向けるにも値しない。

 

 まさしく真逆の方向を向く両者の意見は、落とし所も見い出せないまま広がっていく。

 

「是非にも及ばず。あんなものはつまらぬ敗者の姿に過ぎぬ。

 狂うのは良い。屍の山を築くことも許されよう。じゃが、なればこそ、我らはそんな自らの独善によって世に何某かの実利を残さねばならん。それが善行であれ悪行であれ、確かな成果があればこそ名は残され、それは世を廻す役割を担うのじゃ。

 犠牲の上に望みを築くは怪物ならぬ人の道理。それを奴らめは自ら放棄した。挙句に虚構の安息で己を閉ざした姿を、そなたは勇気と讃えるか、正彦よ」

 

「そうだな。生の苦楽から逃げ、安易に死への逃避を選ぶなど、最も唾棄すべき姿の一つだ。俺としても、そんな輩は軽蔑にしか値せんよ。

 しかしな、それが命と引き換えにしてでも貫かねばならんという決意であれば、その矜持の姿は美しい。あの最期を否定しようという気にはならんさ」

 

「人の稀なる姿に美を見出し、それを価値と置くそなたならばこその言い分じゃな。

 正彦よ。改めて申すが、それはそなたの悪癖じゃ。そなたは人の行為を美しく捉えすぎる。実利にならぬ部分まで重んじようとしすぎておる。

 そなたには利への執着が足りん。なり振り構わぬ貪欲さ、己が欲するために他者を蹴落とす人の浅ましさこそ、そなたに欠けた唯一の強さじゃ」

 

 その言葉は、人類史に確かな偉業を成し遂げた英霊として。

 英雄とは、徳を以て人を導く聖者ではない。信念で武装して、高潔さで磨き上げ、覚悟で以て自らという色を世界に塗り上げる存在だ。

 性質の善悪こそあれど、所業の是非を問うのは人類史にどういった影響を与えたか。歴史に刻まれるのは行いの結果であり、そこにどのような心境があったかなど記されない。

 

 その人物が強く、素晴らしい人格者であったから、英雄になるのではない。

 まず前提として、成し遂げた偉業があるからこそ英雄と呼ばれるのだ。

 一つの生涯を生き抜いた英霊として、アーチャーは指摘する。超越者の如き在り方は、未だ人の身の男に早すぎると。

 

 甘粕正彦は傑物なれど、未だ人間。その身はまだ偉業を成し遂げてはいないのだから。

 

「言わんとする事は分かるぞ。俺がこの戦いにこの上なく真剣なのは言うまでもないが、そうした意味での執念の発露、死に物狂いというべき獰猛さが俺には欠けていると。

 知ってはいるのだ。理解はあるつもりなのだが、なかなかどうして上手くいかん。ままならんものだよ、己の心というものは。

 すまんな、アーチャー。おまえの懸念は最もだが、今のところ対処が思いつかん。それこそ、俺にとっての相応の試練があれば、あるいはと思うのだがな」

 

 そんなアーチャーの指摘は的を射たものだったが、しかしそれだけで改善に繋がるかと言えばそうではない。

 甘粕正彦は努力の男だ。非凡な才能を持ちながら胡座をかかず、弛まぬ研鑽を重ねる事を是としている。そうした人の姿こそ愛しているから、己自身もそう在ろうとする熱意を持っていた。

 含蓄のある言葉だけでは足りない。既に十分すぎる努力を積んだ傑物だからこそ、劇的な変革は難しい。

 

「それに、些か論点がずれているぞ。今ここに限っては、語るべきは俺ではあるまい?

 まあ、あまり実りのある語らいとは思えんがな。俺たちが肯定しようが否定しようが、もはや届かない場所に相手は逝ってしまった」

 

 そうだ。彼らがどれだけ議論を重ねようとも意味はない。

 どんな言葉でもそれを向けるべき相手は既にいない。称賛も否定も届かないものなのだ。

 ならば結論も出ているだろう。安息の中に勝ち逃げされた彼女たちには、もう追いつくことは出来ないのだと。

 

「分かりきったことだというのに、随分とこだわってくるではないか。彼女の有り様に、何か思うところでもあったのかな?」

 

 そう、そんなことは分かりきっていたはずなのだ。

 アーチャーが承知していないはずはない。実利も何もないというのなら、これこそがそうだろう。

 

 消えた彼女、ランルーくんと名乗っていた女と、アーチャーの性質はまるで違う。

 人間と英霊の違いを差し引いても、人格面からして比較するのが間違っている。ここまでジャンルが違ってしまえば、優劣などつけても仕方ない。

 

 彼女は、たった一つの純粋を守り抜いた人だ。

 堕ちる事を拒み続けた心の純正、愛という信仰の潔癖を穢さなかった。

 それは何処までも彼女個人の中で完結する。彼女が純粋な愛に生きた人だという事は、単にそれだけの事実でしかない。

 

 英雄の生き方とは、己という強烈な色を世界に塗りあげること。

 革新という破格の色で天下を染めたアーチャーの生き様はまさしくそれだ。

 己の色の一切を外に漏らそうとしなかった女とは、生き方の方向性が違いすぎる。二つの生き方の是非を問うたところで、結論など出るわけもない。

 

 だから、もしもそこに何らかの思いが絡むのだとすれば、それは内面の心に関わる事ではないか。

 

 英雄・織田信長は乱世の渦中を成り上がった王だ。

 決して生まれから王であったわけではない。本来ならば天下を担う運命などあり得なかった存在だろう。

 群雄割拠の戦国紀、誰もがそのままではいられなかった動乱の時代で、彼女はどれだけの仮面を被ったのか。

 

 人は、ついた嘘が本当になる時がある。

 たとえ最初は偽りであろうとも、振る舞い続ける内にいつしかそれこそが真実へと成り果てる事が。

 心は不変ではない。どれだけ深き思いであっても、必要次第で人は心を如何様にも変えられる。

 

 たとえば、長年の親愛で結ばれた親代わりの人を死に追いやった時であったり。

 

 たとえば、確かな姉弟の仲があった実弟を処断した時であったり。

 

 本心にあった情愛に仮面を被せ、非情なる王としての振る舞い。

 やがてそれは真実の姿となり、鉄の道理を備えた乱世の英雄が出来上がる。

 それは己の中にあった本来の色を変色させる行為。変色に変色を重ねた色は、もはや本人でさえ元の色が何なのか定かでないのかもしれなかった。

 

 己という色を変えなかった者と、変え続けた者。

 優劣の是非はつけられない。それでも違う生き方だからこそ、あり得たかもしれない姿への憧憬も浮かぶだろう。

 揺らぐ心があるのだとすればそこかもしれない。実利の価値では表せないその部分でこそ、英霊・織田信長という器の真実があるのかも知れず、

 

「戯れるな。それもまたそなたの悪癖の一つじゃ」

 

 そして同時に、それしきの揺さぶりで剥がれるほど、その器は軽いものではなかった。

 

「敗者は敗者、もはや過ぎたもの。ああ確かに、その言い分には道理がある。

 認めようぞ。わしの眼も些か曇っておったと。物珍しさは確かであったでな、惑わされていたようじゃ。

 戯れはここまで。我らが眼を向けるべきは次なる戦、それ以外の事柄なぞ全て雑事に過ぎぬ」

 

 果たしてそれは、誤魔化しのための言葉であったのか。

 真意は見えない。それを悟らせるほど、彼女の不遜な面皮は薄くない。

 口調の尊大さは常と変わらず、僅かにあった揺らぎの気配はもう何処にもなかった。

 

「のう、正彦。独りでの祈りに殉じておるのはそなたも同じ。その願いは誰かと共有し、賛同を得られるものではない。

 勝てねば、そなたはただの妄言家じゃ。どんな夢想とて、まずは形と至らねば意味などない。妄言を現実へと変えるのは一つ、勝利だけがそれを成せる。

 勇気の意志が尊ければそれで良いと、少なくとも己自身にはその論を許しはすまい?」

 

 戦いは続く。

 過程に納得いこうがいくまいが、生き延びた者は次なる戦いへ。

 それはこの戦争に参加した者の宿命。何を思い悩もうとも、勝者は進み敗者は死する掟の通りに。

 

 勝利の果てにあるのは、万能の願望器。

 どれだけ現実離れした妄想であろうとも、月の聖杯は正しくその願いを叶える。

 万能を以てしか果たせない望みのため、参戦者たちは勝利を手にするべく足掻き、その意志が惑った者から消えて逝く。

 

 ならばこれもまた、あらかじめ予期された常道(セオリー)に沿った展開として。

 月の意思は順当に、相応しい担い手の選別を進めていた。

 

 

 




 月いちペースすら危うくなった今日この頃。ああ、時間が欲しい……。

 ランサーことヴラド公の設定はエクストラとアポの両方を混じえてます。
 ランルーくんと出逢えたからこそのEXランサーで、そうでなかったらApocryphaのランサーと似た感じだった、というようなイメージで。

 というか、改めてランルーくんというキャラは書きづらい。
 何というかすごく動かしづらいです。色々と複雑すぎて。
 自分で設定捏造しておいてなんですが、狂人をそれらしく描くのって難しい。
 原作でもあまり詳しい掘り下げはされませんでしたが、その理由が少しだけ分かった気がします。

 第六天魔王についてはこんな感じです。
 ・神性特効、炎の地形ダメージ。
 ・ボインちゃんに姿変更。魔王のスキルが発揮され、性能も向上。
 ・地形の優位。『三千世界(さんだんうち)』が容易に展開可能。
 流石に神に強いってだけだと活用しづらいので、色々盛って考えました。
 ツッコミ所はあるかもしれませんが、二次創作の設定として受け入れてくださればと思います。


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