もしもExtraのラスボスが甘粕正彦だったら   作:ヘルシーテツオ

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3回戦:無辜の怪物

 

 空虚さだけが、彼女にはあった。

 

 その手にも、その腹にも、その心にも。

 何も満たされない、空っぽなまま彷徨い歩く器。

 被った道化の面から覗かせる瞳には、虚空へ続く陥穽のような色の無い光が瞬いていた。

 

「おお……なんと嘆かわしい。妻よ、みたされぬその空腹を直ちに癒すことの叶わぬ、我が身の至らなさを許したまえ。

 されど案じ召されるな。まもなくその腹へと肉が戻ってくる。此度の供物は極上の一品。貴女の純なる愛に捧げられるに足るものであろう」

 

 絶え間なく禍々しさを発しながら、堕ちた黒いランサーが言葉を告げる。

 狂喜を浮かべ高らかに、妻と呼ぶ己のマスターへと壊れた祝福を謳い上げた。

 

「ウン……ウン。オ腹 スイタナア。イツモ コンナニ ペコペコ デ ランルークン ハ 悲シイヨ。オ腹 イッパイ 満タサレル ナラ トッテモ 嬉シイネ」

 

 そんな言葉も、届いているのか、いないのか。

 返される答えに纏う空虚は、それさえも判然としない。

 相手を、あるいは自分自身でさえも、本当に正しく認識できているのか。

 

 道化師(ピエロ)のマスター、ランルーくん。

 仮面に描かれた笑顔の通りに笑みを零しながら、彼女は言葉を吐き出す。

 

「美味シソウナモノ ヲ 食ベラレル ノハ サンネンブリ ノ コトダモノ。トッテモ トッテモ 楽シミダナア。

 アノ時ハ 本当ニ 美味シソウ ダッタモノネ。柔ラカクッテ プリプリシテテ 見テイルダケデモ 美味シソウダッタ。

 美味シソウダッタ。ランルークン ノ ベイビー トッテモ 美味シソウダッタノニ」

 

 独白は過去へと向いている。

 彼女が欲したものは、全てが過ぎ去った後。

 どれだけ彷徨い歩いても、決してその手は届かないのだと、他でもない彼女自身が気付いていない。

 

「アア ナンダロウ。ランルークン 悲シイ。泣キタクテ 堪ラナイ ノニ 涙ガ 出テコナイヨ。

 食ベタイナア 食ベラレタラ 幸セ ニ ナレルノニ。アアデモ 幸セッテ ドンナノダッケ?」

 

「妻よ。それは夢だ。貴女が見ておられるのは遠い彼方の幻想。かつて在りし日の安らぎを求めておられる」

 

 そのようなマスターの姿に、ランサーは凶相に慈しみを浮かべて言った。

 

「微睡まれるが良い。真にその胎が満たされる時まで。貴女にだけはそれが許される」

 

「ウン……ウン」

 

 黒いランサーだけは理解している。

 妻と呼ぶ己のマスター、その狂気の内にある悲しくも美しい心の有り様を。

 その忠義は揺らぎない。凄惨な血の業を身に浴びた漆黒の騎士は、神に捧げる信仰と等しい域でマスターに忠誠を誓っている。

 

「求めるが良い、虚飾なき愛を。貪るが良い、芳醇な血と肉を。我が槍は必ずや、相応しい供物を貴女の前に捧げるだろう。

 故に、貴女は何も悩まれることはない。惑われず、省みず、ただ微睡みの中にあるように、求めるままに在れば良い」

 

「……ウン ソウダネ」

 

 閉じた価値観。狂人の道理は他者には理解されない。

 しかし、だからこそ枠組みの内に在る者同士では、強固な絆が紡がれることもあるだろう。

 真っ当ではなく、決して常人には真似できない価値を心から信じている。その純粋さが噛み合った時、世の道理さえ撥ね返す真理が芽生えるのだ。

 

「そうだ、妻よ。この世で最も残酷で純粋な愛に生きる女よ。貴女の存在こそオレが出会った真の奇跡。貴女のための戦いこそ、この槍を掲げるに足る聖戦なのだから」

 

 かつて最も苛烈に信仰を貫いた英雄が、ただ1人の女性に尽くすことを新たな信心と定めている。

 黒いランサーは躊躇わない。生前の所業の凄絶さもそのままに、鮮血で以て騎士は彼女のために聖杯へと至るのだ。

 

「そういうわけだ、好敵手よ。我が妻は今、甘き夢幻の中を揺蕩っておられる。この安寧の一時を妨げぬため、早々に立ち去るがよい」

 

 故に、自らの前に現れた敵対者に対し、一切の理解も求めない排他の意気を向けた。

 

「つれないことを言う。雌雄を決するべき者同士、いわば最も濃密な時間を共有する間柄ではないか。こうも理解が通わぬままで終わっては無念が残るだろう」

 

 並の者であれば、その狂信を前に拒絶しか思い浮かばないだろう。

 異常極まる怪物性、度し難く見える心象は理解を拒んで然るべきだ。

 

 しかし、この男は違う。

 怪物ではない。真っ当な人間性を持ちながら、異常極まるその心象。

 人の意志を、勇気を愛している。まともなはずの価値観のまま、男は己の愛に狂っていた。

 

「人の関係とは殴り合いだ。己とは異なる価値観、妥協なくぶつけ合ってこその繋がりである。おまえたちが閉じた中で塞がろうとするのなら、俺はそれをこじ開けよう」

 

 甘粕正彦、そのサーヴァント・アーチャー。

 聖杯戦争の3回戦、一方のみが生存できる殺し合いを行う両主従が、ここに遭遇した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アリーナにおける主従同士の遭遇戦。

 7日目の決戦の前段階、準備期間(モラトリアム)中に発生し得るそれは、あくまで偵察戦という意味合いが強い。

 

 戦闘行為を関知した、ムーンセルからの強制干渉。

 戦っていられるのはそれまでだ。戦闘はごく短時間に限定され、決着を付けるのは難しい。

 言い換えるなら、たとえ格上が相手でも仕切り直しが容易だということ。その実力を確認し、後の本番での方策を見出だすための格好の場であるとも言える。

 

 しかし、それは難しいというだけで、決して不可能なのではない。

 余りにも隔絶した実力差、あるいは一瞬で全てを薙ぎ払う超絶の暴力があれば、ムーンセルの介入を待たずして決着を付けることも可能。

 気を緩める暇など無い。準備期間(モラトリアム)といえど、僅かな油断が死に繋がる。聖杯戦争とは容赦ない生存闘争なのだから。

 

「おお、なんと度し難い。我が妻の安寧を妨げようとは、それは我が信仰に唾を吐くも同じ。

 よかろう。ならばおまえたちは徹頭徹尾、無惨に死ぬがよい!」

 

 黒いランサーが槍を振りかざす。

 宙を切った穂先の軌跡。ただそれだけの衝撃で、再現された大気は揺らぎアリーナを震わせた。

 

 目にしただけで分かる。

 この英霊の力、存在の純粋な強度の観点で、これまでのどんな相手も上回っている。

 世界を周回する航海を成し遂げたライダー。森の狩人であり義賊として戦ったアーチャー。どちらも決して脆弱なだけの英霊であったわけではない。

 しかし、力だ。運でも罠でもない、単純な暴力の脅威。そうした見方をすれば、黒いランサーは先の二騎を圧倒しているといっていい。

 英霊としても異常、むしろ人外の魔性と称されるべき暴威。小細工など無用とばかりに、黒いランサーは正面からの突撃を敢行した。

 

「猪武者の類いか。その手の輩の相手取りは、長篠で存分に承知しておるわ」

 

 対し、アーチャーを中心に周囲全域へと展開される種子島の銃列群。

 接近を許せば敗退は免れない。それでもアーチャーに焦りは見られず、冷静に射撃を開始する。

 

「ぬう!? 猪口才なッ!」

 

 放たれた弾幕に、ランサーの突撃が阻まれる。

 年代で見れば神代よりも近代に近く、騎乗のスキルも有していない。

 『三千世界(さんだんうち)』の銃火で圧倒することは難しい。相性戦を得意とするアーチャーにとって、このランサーは型に嵌まった英霊ではない。

 それでも、アーチャーの銃列はランサーの猛攻を防いでいる。宝具の性能ではなく、彼女自身の戦の術理によってだ。

 

 ただ無作為に撃たれているのではない。

 ランサーの攻勢を窺い、適切な機を読みきった上での射撃。

 それがランサーの攻撃の悉くを挫いている。種子島の物量による手数と、それを操作するアーチャーの巧みさが、ランサーを釘付けにして暴れまわる事を許さない。

 

 アーチャーが戦場をコントロールしている。ならば戦況の優勢はアーチャーにあるのかと問えば、それもまた否であった。

 

 黒いランサーは、特異な性能を持った槍兵(ランサー)である。

 サーヴァントの中でもとかく速度に優れた槍兵クラス。本来ならば最高値を得て然るべき敏捷値において、なんと最低値のEランク。

 代わり、その耐久力は最高値を叩きだしている。俊敏さで避けるのではない、耐えに耐えながら重い一撃を見舞うのがこのランサーの戦い方だ。

 

 黒いランサーは城塞だ。

 強大なる征服者に対し自国の領土を護るため一歩も退かなかった護国の鬼将。

 どれほどの攻め手にも斃れない。必ずや耐え抜いて、報復の一刺しを為す不退転の信念だ。

 

 アーチャーの封殺がこれほどに効いているのも、ランサー自身の性能に一因があるだろう。

 だが、言い換えればそこまでとも言える。アーチャーの銃火では動きを止められても、ランサーを仕留めるまでには至らない。

 相性に嵌まらない相手には、種子島は並の威力しか発揮し得ない。相性を取れないランサーでは、アーチャーは決め手に欠いている。

 対し、ランサーもまた攻めあぐねている。機動力を持たないランサーでは、アーチャーの銃火の包囲を振り切って槍を届かせる事が出来ないのだ。

 

 つまりは膠着、両者共に決着までの手段を欠いた状態。

 無論、いつまでもこのままではないだろう。状況が動けば天秤も傾く。やがてはこの膠着も崩れるのが必然だったろうが。

 

『セラフより警告>>アリーナ内でのマスター同士の戦いは禁止されています。

 戦闘行為が確認されました。まもなく強制介入を開始します』

 

 鳴り響く警告音。

 時間が足りない。決着に行き着く前に、ムーンセルによって戦いそのものが止められる。

 生前を英雄として、多くの戦いを経験し完成しているのがサーヴァントだ。ある程度の実力差であれば、早々の決着とはなりずらい。

 だからこそ、遭遇戦とは本番までの前哨戦、偵察の意味合いになりやすい。互いがあくまで様子見として、相手の実力の片鱗だけでも感じ取ろうとする。

 ここで無理をする意味はほとんどない。仮に本領の『宝具』まで開帳して、仕留め損なったら目も当てられないだろう。

 戦闘停止を強制され、ただ切り札の情報を渡すだけの結果となってしまう。故に決着を急ぐ意義は薄く、両陣営とも大きな動きは起こさないのが常道だ。

 

「うむう!?」

 

 そう、それが常道であったからこそ、狂気に染まる黒いランサーをして、相手の行動には驚きを露とした。

 

 向かってくる。

 サーヴァントではない、そのマスターが。

 悪鬼が如きランサーの暴力を知りながら、人間である甘粕正彦が自らその間合いへと踏み込んでいた。

 

「愚かなり。自ら供物になるべきと悟ったか!」

 

 円を描いて落とされる槍の一閃。

 サーヴァントのマスターに対する攻撃制限は、決戦場にて適用されるもの。その一撃を阻むルールは無い。

 繰り出した一閃は標的を捉えている。その威力は人間の霊子構造など容易く砕いて余りある。

 

 そのような絶死の一撃を前に、甘粕は尚も踏み込む力を緩めず、抜刀からの一閃でもって応えてみせた。

 

「なんと!?」

 

 ランサーの槍の軌跡は円の軌道。

 一点の突きよりも速度で劣り、その遠心力が集中するのは先端部。

 槍の中腹を打つ軍刀の斬撃。最短の軌跡と予想外の踏み込みは、槍の間合いの内側へと入り込む事を成功させる。

 それはランサーの油断と見るべきか? いいや、そもそも技が何であれ、サーヴァントの攻撃を人間が正面から防ぎ切ること自体が異常である。

 一芸のみの成果ではない。天賦の才と高密度の修練量、その骨子となる破格の意志。人でありながら、人を逸脱したそれらの要素が、甘粕正彦を英霊の域に届かせている。

 

 槍の間合いを抜け、刀剣の間合いに入り込んだ甘粕には、次の一手に先んじる機が与えられる。

 更なる攻めに転じれば、あるいは仕留める事も可能か? それは難しいとしても、膠着を傾ける痛手を与える事は出来るかもしれない。

 

 主従にとっては絶好の好機。決死の踏み込みで得たその機会で、甘粕はランサーを素通りした。

 

「ッ!? 貴様、まさか――――」

 

 逡巡は一瞬、即座に意図を読み取ったランサーが声を上げる。

 走り抜ける甘粕に追い縋ろうとするが、その追撃はアーチャーの弾幕に阻まれた。

 

「くぅ、おのれぇ! 妻よぉォッ!!」

 

 己という城塞の先にあるもの、必ずや守り抜かなければならない人を思い、ランサーは叫んだ。

 

 アリーナでの遭遇戦が様子見となり易い理由は、もうひとつある。

 時間の問題以上に、アリーナでのサーヴァントは弱点を抱えているのだ。過去に地上で行われた聖杯戦争でも常に付き纏った、"人間(マスター)"という弱点を。

 ここは決戦場ではない。マスターを保護するルールは無い。常に後人の存在を気にかけなければならない以上、戦闘のみに十全を注ぐわけにはいかないのだ。

 

 強者(マスター)が、弱者(マスター)に迫る。

 英霊同士では膠着に陥る実力差も、マスター同士でなら話が別だ。

 いかに狂人といえど、純粋な戦闘能力では超人の域に在る甘粕と比べようもない。

 容易く砕かれ、その命を散らされる。もはや逃げることも叶わない。

 

「……ネエ 君ハ ランルークン ノ コト 好キ?」

 

 己に迫る脅威を目にしながら、それでもランルーくんは動かない。

 

 その瞳は何も映さない。

 あるのは過去への郷愁。かつてあったはずの愛へと思い馳せるばかり。

 今を生きていながら、心はいつも違う場所にいる。本当に求めているものは過ぎた日々にこそあるから、今を見ながら失われた光景を映している。

 

 彼女の視線は現在の誰とも交わっていない。

 虚ろな認識に逃避して、真実は道化の殻に覆われたままなのだ。

 

「ああ、好きだとも。おまえのような信念を持つ人間が、俺はたまらなく愛おしい」

 

 そうした気概を甘粕正彦は見逃さない。

 敵対する相手を見据えながら一片の殺意さえ持たず、しかしそれ以上に獰猛な意気を吐き出して、狂気を纏う道化師へと手を伸ばす。

 

「そう、好きだからこそ、俺は殴るのだ。おまえならば立ち上がってくれるという期待と祈りを込めて。俺が刻むこの愛を、どうか受け止めてくれ」

 

 振りかぶられた掌が、道化の仮面ごとにその顔を鷲掴む。

 その勢いのまま発動した『術式(コード)』が、ランルーくんへと叩き込まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――どうして"異常者(わたし)"は生まれてきたのだろう。

 

 人間(わたし)にとって、人間とは愛すべきものでした。

 パパも、ママも、あの人も、私は心から愛していました。

 私は、彼らの愛によって育まれたから。その温かさを、私は誰よりも知っているから。

 与えられたその分だけ、彼らや産まれてくる子供にも分け与えてあげようと、そう思った気持ちに嘘はなかったはずです。

 

 怪物(わたし)にとって、愛するものとは食べるものでした。

 愛が深まれば深まるだけ、心とは別のところで欲しがる気持ちが強くなりました。

 私は彼らに与えたいと思うのに、彼らから奪いたいと求めてしまいます。

 それは抑えきれないほどに、狂おしく。どれだけ倫理や道徳で覆い隠そうとしても、隠しきれないほど切実に。

 

 食べる事は好きです。

 ペギーくんの時の、あの噛み締めた美味の感動を忘れられません。

 一度、それを味わってしまったから。食べる事の喜びを、美味しいという事の幸せを否定することは出来ないのです。

 

 食欲は嫌いです。

 私の心を裏切って、愛する人たちを傷つけようとするから。

 大切にしたい。幸せになってほしい。そんな人間(わたし)の思いを、怪物(わたし)は台無しにしようとする。

 ただただ自分が満たされればそれでいいと、私の中の怪物は叫び続けているのです。

 

 その異音は今でも絶えず鳴り響いています。

 喰らえ、貪れ、啜り絞れ、蹂躙して奪い尽くせと。

 ずっと聞こえているのです。獰猛な衝動は内から喰い破ろうといつだって喚いています。

 ふと気を抜けば、呆気なく堕ちてしまうほどに。一度でもそれを許せば、きっと私は人間(わたし)では無くなってしまう。

 

 だからこそ、分かっているのです。

 これは怪物(わたし)であって人間(わたし)じゃない。

 私自身が発する声ではないと、そうはっきり認識することが出来るから、譲らない。

 人間(わたし)怪物(あなた)にはならない。そう誓ったあの日の思いは、今も確かに覚えてる。

 

 愛とは、一方的に搾取するものじゃない。

 愛とは、互いが思い合い、与え合うもの。

 ただ奪って自分のものにすることが愛というなら、それは醜悪な怪物の愛。

 その愛は美しくない。そんなものに自分の愛が成り下がることだけは許せない。

 だって、愛とは尊く、重いものだから。どんなに苦しくて飢えていても、引き換えにすることなんてしてはならないのだから。

 

 だから、人間(わたし)怪物(わたし)と戦える。

 どんなに飢えて、人間(わたし)を壊そうとしてきても、きっと耐えられる。

 私には愛する人たちがいるのだから。その人たちを思えば、苦しさなんて怖くない。

 そう信じてる。隣にはきっと愛する人たちがいるから。共に支え合って立ち向かえたなら、結末には幸福があるって信じてた。

 

 ――信じていた。信じていたのに……。

 

 愛していた人たちは、いなくなった。

 怪物(わたし)とは無関係なところで、届かない所に逝ってしまった。

 苦しさには、耐えられるけど。この寂しさには、とても耐えられそうにない。

 

 あの日の思いは忘れていない。

 美しいものを尊いと感じてる。

 生きてるなら、生きなければいけない。

 失ったものがあるのなら、その分まで生きて前を向かなければ嘘になる。

 

 こうして逃げ続ける事が正しくないなんて、そんなことは最初からわかっていた。 

 

 それでも、やっぱり寂しいんです。独りきりなのは辛いんです。

 何を悔やめばいいのか分かりません。どうしていれば良かったのか分かりません。

 残ったのは、埋められない喪失感。誓った思いも意義をなくして、満たされない飢餓は増すばかり。

 

 私は仮面を被ります。

 人間(わたし)自身を忘れるために。

 色んな辛さや悲しみから、目を背けるために。

 ただ苦しみ続けるのは、嫌だから。たとえ嘘でも希望が欲しいから。

 ああ、きっと私は壊れてる。分かっているけど、どうか理解させないで。

 愛したい。愛してあげる。愛せる。きっと彼なら、彼女なら、あの子なら、誰かなら。

 ランルーくんは、食いしん坊だから。色んな綺麗な子たちを愛してあげられる。

 愛してあげる。食べてあげる。きっと、今度こそ、本当よ。だって愛してるんだもの。

 

 ――そうすれば満たされるんだと、どうか信じさせてください。

 

「なるほどな」

 

 繋がり合った心象世界。

 剥き出しとなった心の声を聞き、甘粕は頷いた。

 

「素晴らしい。人として、怪物に堕ちることを善しとせず、信じる愛を守り抜いたその矜持。サーヴァントの崇拝も頷ける」

 

 溶け合う心象は、包み込む揺籃のようだ。

 甘く、温かく、全てを許してしまいそうな多幸感。

 私にはあなたがいる。一切の壁を取り払って向き合う他者は、あらゆる不安から解放される安心の象徴となる。

 全てを許容し、委ね合う。自分は許されているのだと、慈母の手の中にあるような心地よさは、他のどんな快楽にも勝る安楽だ。

 

 コードキャスト・万色悠滞。

 とある尼僧により作られた、そのあまりの依存度により禁忌とされた。

 幸福すぎるのだ。そこに身を委ねたまま、自分自身を捨ててしまいかねないほどに。

 支えを求める心弱き者ならば戻ってこれない。性をも越えた魂同士でのまぐわいである。

 

「あの男はおまえの中に光を見たのだろう。闇にあった魂が尊き愛によって癒される。なんとも実に、王道のようで素晴らしい。感動を禁じ得んよ」

 

 そのような悦楽の坩堝にあっても、甘粕正彦は動じない。

 男にあるのは揺るぎない信念と不屈の覚悟。信じるべき理想を目指すと決めている。

 ならば一時の快楽如き、耐えられぬ道理がない。楽よりも苦を、試練こそが必要だと謳うのだから、己がそれに負けてしまうようでどうするのかと。

 

 心で繋がった両者は、ある意味で同種の人間だ。

 本能よりも強固な価値観に殉じ、その信仰を貫いている。

 ともすれば命よりも、その信条は彼らにとって重い。命を懸けても貫く強さを持っているのだ。

 

「だが、ならば尚の事、その有り様には頷けん」

 

 そう、だからこそ、甘粕は己の信条を貫く。

 相手が誰で、どのような事情があろうとも、信じる理念に手心を加えることはあり得ない。

 

「食べる食べると言いながら、決して相手を口にしない。怪物の皮を被りながら、魂は人間の矜持を貫いている。どれだけ狂ってみせようと、それこそが譲れない誓いだと知るが故に」

 

 繋がった魂が見せる心象世界。

 当人の精神を色濃く反映して映し出された光景は、狂宴だった。

 ケタケタと、無数の道化の顔が笑っている。その口元を血肉で汚し、貪る欲望に酔いしれている。

 それは狂った世界の情景。真っ当な感性を受け付けない、怪物であればこその心象だ。

 

「どのような狂気の悪徳も、それが魂からの渇望であればひとつの真となる。世の人々から受け入れられず、罰せられるべき罪であっても、全てを背負って我を貫けるというのなら、それは善悪さえ超えた輝きだ」

 

 気を抜けば己まで狂ってしまいそうな世界を、甘粕は苦もなく押し退けて進む。

 確かにこれは狂っている。常人ならば目を背けて、直視したいなどとは思うまい。

 忌諱と嫌悪を呼ぶ怪物の心象。だが甘粕は構わずに、更なる深みへと脚を踏み入れていく。

 

「わりとな、俺としてはどちらでも構わなかったのだよ。人間であろうが怪物であろうがな。そこに勇気と覚悟があるのなら、俺の愛する輝きに相違ない。等しく祝福しようとも」

 

 甘粕は目を逸らさない。どれだけ正気を疑いそうな心象であろうとも、それもまた一つの人間の姿だと認め、恐れずにその価値を見定める。

 故にこそ看破していた。この心象は()()。表層のおぞましさだけであり、その真実は張り子であると。

 怪物的な狂気、食人を求める異常な衝動も、所詮は本質ではない。彼女という人間が持つ真価とは、もっと別なところにある。

 ならば、こんなものに強さなどあるはずもない。ただ不気味に映るだけで、心に重きを置くものは何も無いのだ。

 

 狂気の先、霧に覆われたような心象の奥底に、新たな風景が浮かび上がる。

 そこに狂念は微塵もない。一片も侵されることなく純正を保っている澄んだ場所。

 どれだけ外面を取り繕おうと、その深層だけは穢せない。狂気と衝動の中にあっても清潔を守り抜いた此処こそが、この心が持つ真の価値だ。

 

 そこには道化の仮面を被った、1人の女性が佇んでいた。

 

「ならばその姿は偽りだ。本来持つ信念を惑わせて、その輝きを曇らせていくばかり。そんなものは俺の前で必要ない」

 

 手が伸びる。

 対峙した女に向けて、その素顔を覆う仮面へと。

 偽りに己を隠した道化の面。それを不要と断じた甘粕の手が近づいていく。

 

「やめて」

 

 その手を妨げるように、仮面の裏から女が声をあげた。

 

「お願い、どうか私を正気(わたし)に戻さないで。

 思い出したくない。背負いたくないの。せめて忘れたままでいさせてください。

 私はそんなに強くはないんです。こんな痛みを負ったまま、歩いていける強さなんてない。

 立ち上がって、もう一度前を向くなんて出来ない。このままこうしておいてください」

 

 仮面に覆われた表情は見えない。

 しかし見えずとも、聞こえる声には深い悲嘆が刻まれていた。

 

 その心の深層には悲しみしかない。

 真摯に向き合っていたはずの愛は失われ、残ったのは喪失の痛みだけ。

 それがあまりに苦しくて、どうしようもないほど悲しいから、狂気の奥に心を閉ざしてしまった。

 

 その姿は痩せ細り、活力と呼べるものが見えない。

 精神の中だからこそ、その姿はありのままの状態を映している。

 明らかに彼女は弱っている。ただ飢えている事が原因ではないだろう。それならば彼女はとうに死に絶えている。

 絶望が、彼女を弱らせている。生きようとする意志を奪い、その身体から生命を損なわせているのだ。

 恐らくは地上にある肉体も、これと等しい状態なのだろう。飢えと嘆きが、彼女を殺そうとしている。そしてそれに抗える気力を、すでに彼女は持っていない。

 

「やめろ? いいや、やるとも。俺は口にしたならやり通す主義だ。そしてこの行いにも迷いは一切ない」

 

 そんな女の姿を、しかし甘粕は容認しない。

 同情に値するだろう女の姿にも、一片の躊躇さえ見せずにその仮面を鷲掴んだ。

 

「俺は過去にはこだわらん。良くも、悪くもな。どんなに誉れ高く持て囃された、あるいは辛辣な過去があろうと、今に価値が無ければ何の意味もない。

 過去とは所詮、過去に過ぎん。その経験を糧とし、現在に繋がる学びと出来ねば、そんなものは無為でしかあるまい。

 なので俺は基本、過去を理由にした理屈を認めていない。とかく、己が不幸であったからという類いの言い訳はな」

 

 掌に力が加わっていく。

 何をしようとしているのか、繋がった精神を通じてその意図は女にも伝わっていた。

 

 仮面に置かれたその腕を、女の手が掴む。

 細く、弱々しいその手で、それでも女は抗おうという姿勢を見せていた。

 伝わった意図は女にとって許容できない。狂気の内で全てを閉ざしていた彼女が、ここにはっきりと意志を示している。

 

 だが、弱い。

 断固たる甘粕に対し、その力はあまりに脆弱すぎる。

 意志を示したからと、それひとつで強くなるなどあり得ない。所詮は一時のもの、真の強さとはそれのみでは得られない。

 長年を費やした弛まぬ錬磨、そうして破格の意志を磨き続けた甘粕に、女の強さは到底及ばない。

 

 よってこの精神世界で罷り通るのは、より強大な熱量で押し付けられる独善だった。

 

「何故なら、人の夢とは過去ではなく、未来にこそ向けられるべきなのだから!」

 

 容赦なく、何処までも王道を追求した思想で以て、女の被る道化の仮面を握り潰した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 精神内での邂逅は、体感として一瞬の出来事だった。

 

 一時とはいえ融け合った魂同士、各々の意思を伝え合うのに時間はかからない。

 時を要するとすれば、互いの存在を拒もうとするせめぎ合いによる。悦楽のまま融けるのを良しとせず、相手の意思を否定し押し返そうとするから、その齟齬が時間という余分となって精神にも反映されるのだ。

 

 ならばこそ、一瞬という時間もやはり必然のもの。

 甘粕正彦とランルーくん。性質云々ではなくその意志の強度は、一方の抵抗を歯牙にもかけずに押し通していたのだから。

 

「あ、ああ……、いやあアアアアアアアアアアッッ!!??!!」

 

 狂気の仮面は剥がされた。

 理解を拒む魔性、猟奇的な嗜好を思わせる怪物性に覆われていた真実は、ここに明かされる。

 それは悲哀を叫ぶ女の姿。甦った悲劇の記憶に、彼女の心は張り裂ける痛みを再び味わっていた。

 

 どうしようもないことだった。

 あまりに間が悪い不幸だった。

 その悲劇を呑み込んで、納得することなんて出来ない。彼女の信条は尊くとも、たった独りで歩いていけるほど強くはないから。

 だから目を閉じ、耳を塞いだ。怪物の仮面を被って、溢れる悲しみを誤魔化そうとした。

 失った愛は取り戻せない。代えがきくような軽いものではない。その事実から逃げるために、狂気の内で何も見まいとしていたのだ。

 

 だが、もはやその狂気は勇気を信じる男の手により砕かれた。

 目を背けることなど許さない。試練と向き合い奮い起てと促す信条が、偽りの仮面を打ち砕いてしまった。

 抑えられていた悲嘆は、より明確なものとなって顕在化する。それに耐えられる道理が、彼女にあるはずもなかった。

 

 甘粕の手から離れ、ランルーくんと呼ばれていた女は崩れ落ちる。

 そこに甘粕が見たがるような勇気はない。ただ全てに敗れた女がいるだけだ。

 これは互いの生死を賭した生存競争。ならばこの図式は両者の勝敗を決しているとも言える。

 どう繕おうが、人として未来という生命の意義を有しているのは甘粕の方だ。過去に囚われ、狂気に縋った悲しい女。強さがどちらにあるかは明白だろう。

 

 故に、人間(マスター)側だけの優劣で見るのなら、勝利者は甘粕正彦に他ならなかった。

 

「……許さぬ」

 

 しかし、これは英霊と共に在る聖杯戦争。

 たとえ人間(マスター)に勝ち抜く強さが欠けていようとも、サーヴァントの存在がそれを補う。

 単純な生命として生き抜く強さだけではない。どれだけ歪な存在だとしても、自らの有り様で他者を魅了し、英霊すら心酔させるほどの輝きを持つのなら、それも一つの強さだといえるだろう。

 

「許さぬ赦さぬユルサヌゆるさぬぞぉぉォォォォォォッッ!!!!」

 

 信仰を穢された。

 尊き御方を傷つけられた。

 黒い騎士にとって、マスターとは崇め奉るべき存在。その信心は何よりも優先される。

 冒涜は万死にも値する罪。許し難い所業を前に、理性さえ消し飛んだ憤怒の怒号があげられる。

 

 かつて領土を鮮血の恐怖で染め上げた鬼気。

 "征服者"と畏れられた王ですら、一度はその恐怖により敗北を受け入れた。

 彼の信念はまさしく鉄血。鋼の如く揺らがぬ精神力でもって、正義に敵対するあらゆる者に凄惨な罰を与えるのだ。

 

 サーヴァントとは、闘えないマスターのための闘争手段。

 悲嘆に折れた女になり代わり、ランサーは殺戮の真価を発揮した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 戦闘において、怒りという感情は長所とも短所ともなり得る。

 

 怒りという激情が生み出す精神の爆発力。

 それは時に肉体にさえも作用する。決して軽んじて扱えるものではない。

 感情こそ人のみが持つ最大の武器。そこから現れる執念が、想像を超える力となって敵に刃を届かせる場合もある。

 

 そして一方で、怒りとは冷静な思考を曇らせる要因でもある。

 言うまでもなく、激した感情は単調になり易い。その単調さは敵にとって罠に嵌める恰好の餌食となる。

 策士が用いる策とは、大概がそうした怒りを利用したものである。挑発によりその感情を引き出させて、短絡に走ったところを制するのだ。

 

 その論理に則るなら、ここに立つアーチャーはそんな冷静さの権化だ。

 彼女の戦とは常に理詰め。自他の感情さえも道具と見て、徹底した理によって構築される。

 怒りで猛進する相手の制し方など熟知している。ランサーの見せる鬼気にも、アーチャーは平静を保ったまま迎え撃った。

 

 群を為して揃えられた種子島。無数の銃口が一斉に火を放つ。

 言ったように、怒りに駆られるランサーの動きは単調なもの。

 その意気に圧され、機さえ逸しなければ迎撃は容易い。今や防御さえ意識から抜け落ちて、浴びせられる銃弾をくらうがままとなっている。

 如何に宝具としての必殺性を発揮できないといっても、銃火に威力が無いわけではない。何も考えずに受け続ければ崩れるのが必定だ。

 狙いは正確、単調な動きは故に照準も容易い。的確に身体機能を封殺しその生命を削り取ろうとする弾幕は、確実にランサーを討ち取れるだろう。

 

 少なくとも、アーチャー自身はそのように判断していた。

 

「――――な、にぃ……ッ!?」

 

 怒りを制する冷静さという理。

 それも確かにひとつの事実。しかし絶対の真理とは成り得ない。

 感情が、計算を凌駕する。逸脱した愚者の爆発は、時として賢者の行いを凌駕する。

 如何なる冷徹非情な鉄の理といえど、それをも粉砕する狂信の激怒を前にすれば、無為となるが道理であると。

 

「邪ぁぁ魔ぁをするなあぁぁぁぁァァァァァァァァッッ!!!!!!」

 

 ランサーは頓着しない。

 我が身を銃弾が穿とうが、一切気にも留めずに。

 怒りのまま、殺意の赴くままに、その突貫は妨げられることなく押し通される。

 

 意志が力となる精神論。それも決して誤りではない。

 だが通常、それにも限度がある。如何に感情で奮起したとしても、条理を侵すことまでは出来はしない。

 どれだけ猛ったところで、肉体は劇的に変化しない。狂わんばかりに願ったところで、腕が生えてくることなどあり得ない。

 サーヴァントとて、その精神状態に左右されることはあるだろう。しかしだからといって、それだけでステータスの数値まで上昇するわけではないのだ。

 

 ――通常ならば、そうである。

 だがここに在るランサーは、その例外。

 精神が、信仰が、ついには肉体という枠組みさえ上回る実例。

 それを成し遂げられる英霊が、ここには居る。

 

 固有スキル『信仰の加護』。

 最高存在から受け取る恩恵ではない。それは強烈な信心より生じる精神・肉体の絶対性。

 一つの宗教観に殉じた者だけが獲得できる、純粋なる信仰の証。

 そのランクは、最高値すら超えたA+++。もはや高潔ではなく異常と呼ぶべき領域で、苛烈が過ぎる信仰心は己の人格までも歪めてしまう。

 そんな狂った精神が生み出す力、それはあるべき条理までも捻じ曲げて、あり得ない不条理を当然のように引き起こす。

 

 身に撃たれる銃弾が、弾かれる。

 何らかの法則が働いたのではない。それは単純な耐久値による成果。

 我が身は城塞、信仰を護る盾である。狂信が、冒涜者の穢れを受ける事を許さない。

 逸脱して思い抜かれた信念は、実際のステータス値まで変質させて銃火の全てを撥ね返した。

 

 そして、狂信が生み出すのは耐える力だけではない。

 咎人への断罪。為すべき使命を果たすため、粉砕のための筋力値もまた上昇。

 数値とすれば最高値をも超えるだろう。罪ある者を串刺す魔槍が、行く手を阻むアーチャーへと突き放たれた。

 

「ぐ――が、はぁッ!?」

 

 抜かれた刀によって迎え撃つ。

 反撃は狙わない。守りのために行う迎撃。

 感情から放たれる一閃は疾くとも読みやすい。アーチャーの剣は過たず、ランサーの魔槍を受けて捉える。

 

 だが、狂奔せし黒い騎士の猛撃は、アーチャーの守りの理まで諸共に押し潰した。

 

「化け、物めぇ……ッ!?」

 

 思わず漏れた戦慄は、人の条理すら踏み躙る狂念への畏怖。

 かつて魔王と称され一身に恐怖を背負ったアーチャーをして、怪物と呼ばしめる異常性。

 人々の空想に着色され、自身の信心と狂気が結びついた黒いランサーは、まさしく人の枠組みを外れた魔性の名に相応しい。

 

 撥ね除けられたアーチャーは、戦列より退場する。

 猛進するランサーの進路を妨げるものはない。障害を排しての猛進は、真に裁くべき咎人のもとへ。

 尊き御方を辱め、その神聖に泥を塗った涜神者に然るべき報いを与えるために。黒い騎士の心は、今や標的への殺意一色で染まっている。

 

「貴様は妻の安息を踏み躙った。

 侵してはならぬ聖域を侵したのだ。

 最も尊き魂を穢した大罪は、百の地獄を巡ろうとも濯がれぬ。もはや贄とすら憚られる」

 

 血走った双眸は赤色に染まり、憤怒に滾った眼光が映すのは唯一人。

 怒れる凶相は地獄の悪鬼とて及ぶまい。幻想の魔性などよりも、ここに在る黒い騎士こそが恐怖の象徴に相応しいのだから。

 

「愛も、祝福も、罪に穢れたるその身には無用!

 ただ死ね! 疾く死ね! 血肉を吐き出し、骸を晒し、苦悶と共に朽ち果てよォォォッ!!」

 

 迫り来る恐怖の姿に、甘粕正彦は軍刀を手に構えを取る。

 その手は震えてはいない。恐怖そのものである黒い騎士を前にも、勇者たる男は怖れで止まることを良しとしない。

 むしろ魂は奮起を求めて叫ぶのだ。本能はかつてない畏怖に震え、自らの死を確信してくるが、だからこそ覆そうと足掻く意志が生まれてくる。

 

 串刺しの槍に対し、黒色の軍刀が迎え撃つ。

 武技も、魔術も、研鑽してきた全てを尽くして。

 決して及ばない一撃に届かせるため、勇気と覚悟を込めて一閃を振るう。

 交錯の一瞬、瞬間の後には結果が訪れる、全霊の一撃による迎撃は、

 

 まったく、微塵も相手にならず、その軍刀ごと砕かれた。

 

 かつてアーチャーとの剣戟を渡り合った。

 数多の敵手を屠ってきたアサシンの魔拳より生き延びた。

 その強さは超人の域にある。人の枠組みで語る方が誤りだろう。

 あるいは未来で、彼は英雄に至るのかもしれない。過去の誰にも行き着けなかった領域へと行き着いてしまうのかもしれない。その可能性の片鱗は、確かに今もあるだろう。

 

 ――それでも、今はまだ、甘粕正彦は"人間"なのだ。

 

 どれだけ可能性があろうとも。

 行き着く先で、英霊さえも超えるのだとしても。

 今ここにいるのは、未だ人生の途上にある一人の人間だ。

 人の身では英霊には届かない。甘粕正彦は、英霊には及ばない。

 

 手にした得物は砕かれて、伝わった衝撃に身体は痺れている。

 追撃を受ければ成す術もないだろう。そして黒い騎士に、ここで容赦する理由もなかった。

 

 それでも甘粕の足掻きは止まらない。

 イメージを投影し、紡ぎだす破壊の夢。

 精度、威力共に申し分ない。会心の出来の邯鄲法が、攻性の魔術となって放たれる。

 

 それは確かな威力を持った魔術だったが、ランサーを相手には分が悪い。

 対魔力を有するサーヴァントには、魔術による攻撃では決定打を与えることは難しい。

 ましてや今のランサーは宝具による攻撃さえはね返すのだ。人間の扱う魔術では、それこそ意にも介すまい。

 たとえそれが甘粕正彦であろうともだ。狂える黒い騎士を止めるのは、会心の魔術だけでは不足である。

 

 しかし、甘粕は確信していた。

 ランサーは止まる。止まらざるを得ないと。

 たとえその心が憤怒の殺意に染まろうとも、真にその信仰に殉じているならば。

 

 マスターの身を、サーヴァントとして護らないわけにはいかないから。

 

「貴様ァッ!」

 

 仮面を剥がされた女は、まだ動けない。

 周りの状況などロクに入ってはいないだろう。その心は今も悲嘆に沈んでいる。

 誰かが守護せねばならない。その役割を負うべき者は決まっている。サーヴァントにとってのマスターという弱点、それが顕在化した状況だ。

 

 我ながら卑劣漢の格好だが、仕方あるまい。

 足掻きとはそういうものだ。たとえ泥に塗れようが、生きるために死力を尽くす。

 ここで終わるわけにはいかない。理想は揺るぎなく燃えているのだから、そこに妥協などあるはずもない。

 一縷の可能性があるのなら、躊躇いなくそこに手を出そう。そして、たとえ手段が卑劣であっても、必死の覚悟で足掻く姿とは美しい。

 

「それにだ。これで一手分、稼いだぞ」

 

 重ねていうが、人間の魔術ではサーヴァントに決定打とはなり難い。

 所詮は一工程(シングルアクション)を刻んだ程度のもの。威力もたかが知れている。

 得られたのは守りに移った分の僅かな猶予だけ。一手分、その寿命が伸びたまでだ。

 

 だが、その一手分が明暗を分けていた。

 

『――介入を開始。戦闘を強制終了します』

 

 戦闘が中断される。

 ムーンセルからの強制介入。神にも等しい強制力にはサーヴァントとて抗えない。

 月が定めたルールは絶対だ。遺憾に思おうとも、裁定が下った以上は受け入れざる得ない。

 

 

「――――これしきでぇ、なにするものぞぉォッ!!」

 

 

 だが、逃れられないはずの法則に、ランサーは抗った。

 システムが判断をくだそうとも、鉄血の狂信は尚もその意を果たそうとしていた。

 

 月の聖杯戦争のサーヴァントとは、ムーンセルによって過去の英霊を再現したものだ。

 いわば造物主にも等しい関係。当然、反逆という選択肢を封じるための措置が施されている。

 逆らおうとする考え自体が持てず、叛意を持ったとしても介入される。創造物は、造物主に抗う権利を持たされてはいないのだ。

 

 だというのに、黒い騎士は頷かない。

 造物主であろうと、たとえその身が再現に過ぎぬとしても。

 彼が信仰を捧げるのは、無機質な月の意思などではない。真に尊き者へと向けた信心が、ランサーに己の意志を曲げさせることを許さなかった。

 結果として起こる強制力の負荷、自身の存在崩壊を予感させる苦痛に晒されようが、鉄血に満ちた信念は断固として譲らない。

 

 断罪の槍が振り上げられる。

 その槍こそが彼の宝具。あらゆる不義を暴き、その重さに応じて威力を増す正義の呪い。

 苛烈すぎる正義でもって大地を鮮血に染め上げた、串刺し公が誇る拷問魔城だ。

 未だ決戦の日には至らず、ここは単なる遭遇戦。宝具まで持ち出すなど正気の沙汰ではなかったが、元より正気であればこれほどの執念はあり得なかった。

 

 ルールによって脱したはずの危機が、狂気の執念によってこじ開けられる。

 敵対者からすれば、それは理外の脅威。それでも甘粕の信条は恐怖よりも高揚を感じていた。

 死が目前にあると分かる。あの宝具が発動すれば、それは己の命を刈り取る必殺であると。

 不可能だなどと、そんな言葉は気休めにもならない。ランサーの信念は、ムーンセルの縛りさえも突破すると確信している。

 これほどの強固な意志を前にして、その可能性を疑う意味がどこにある。あの槍が我が身へと届くのは、もはや確定事項だ。

 

 ならばこそ、甘粕正彦という男の意志は歓喜を謳いあげるのだ。

 あれはまさしく必殺、防ぐ術などないと理解できるのに、そのような素晴らしい勇気に感動を覚えてしまう。

 そして、そうすれば益々限界を超えようと燃え上がるのがこの男だ。破格の男は諦観などに一秒たりとて囚われず、一撃を受け止めるべく魂を滾らせていく。

 宝具の一撃を迎撃するなど不可能。まず間違いなく無為に終わると決まっているのに、それがなんだと男の表情は揺るぎない情熱で染まっていた。

 

 宝具が振り下ろされる。紡いだ夢がカタチとなる。

 前哨戦でありながら、本番さながらな様相を見せてきた両者。

 彼らはもはや自分を止められない。その激突は必定であった。

 

串刺城(カズィクル・ベ)――――」

 

 受ける制約の一切を無視し、ランサーが宝具を発動せんとする、その刹那。

 

「いいえ、その行動は看過されません。速やかなる停止を要求します」

 

 割り込まれた声とと共に、ランサーの身に布が絡みつく。

 ただの布切れにしか見えない外観からは想像もつかない、強力な拘束力が発揮される。

 サーヴァントすら縛り上げる聖骸布の礼装を操って、カレンは動きを止めさせたランサーに言葉を告げた。

 

「七日目の決戦日以外で、ムーンセルは直接戦闘を認めてはいません。再現されたその本領を存分に発揮して、同等の条件下での有益な記録の取得。それこそがムーンセルの本意です」

 

 無論、そんな言葉に大人しく従うランサーではない。

 拘束された身を抗わせ、聖骸布の束縛を引きちぎらんとする。

 ランサーは止まらない。ムーンセルからの強制力にも、管理側からの警告にも、その信条を曲げようとはしない。

 

「ランサー。あなたは自分の意地に、マスターを心中させるつもりですか?」

 

 しかし、告げられたその言葉には、ランサーも止まらざるを得なかった。

 

「これ以上は罰則(ペナルティ)も致命に繋がります。このままでは両者ともに共倒れか、そうでなくとも多大な損耗を負うでしょう。そうなった時、あなたはこの後の戦いまで勝ち抜いていけると思っているのですか?」

 

 冷静な、非の打ち所のない正論が、ランサーを抉る。

 誅すべき咎人は目の前にいる。裁かずに済ませるなど許容できない。

 しかしマスターに、忠義の信仰を捧げた御方に献上すべき勝利を危ぶませるなど、それもまた許せることではなかった。

 

「決戦の刻はすでに決まっています。たとえ僅かな猶予が与えられたとしても、成すべきことは変わらない。ならばその怒り、当り散らすのではなく来るべき日に解き放ちなさい。

 あなたの信心が本物なら、ただ血に飢える怪物ではないのなら、それを示してご覧なさいな」

 

 葛藤の時間は、決して長くはなかった。

 納得できたわけではないだろう。それでも狂念を抑え、咀嚼して呑み干した上で決断した。

 短くとも、その密度は薄いものでは断じてない。最後にもう一度、己にとっての怨敵となった男の姿を目に焼き付けて、

 

 傷ついた主を丁寧に抱き上げて、ランサーはその場より立ち去っていった。

 

「ふむ。これは礼を言うべきかな?」

 

「不要です。わたしの意図は今しがた申し上げた通り。他意はありません」

 

 ランサーたちがいなくなり、残ったカレンと甘粕が向き合う。

 

 現れたカレンの格好は、学園内で見る白衣ではなかった。

 見ればなかなかに奇抜な格好をしている。彼女なりの戦闘服の類いだとは思われるが、誘惑の意図でもあるのか身体のラインを浮き立たせる扇情的なデザインだ。

 健康管理AIとしての役割ではない、本来の処罰担当としての側面。サーヴァントさえも封じてみせた力量は、彼女の存在を一回りも大きく見せる。

 

「契約は完了しました。与えた魔術(コード)には封印処置が施されます。これでもう、あなたに援助する理由はなくなりました。

 ここから先はあなた方次第です。わたしたちは誰の味方でもない。ムーンセルの眼は公平に、あらゆる人間の戦いを見届けるでしょう」

 

「ああ。心しておくとしよう。今回の戦いは、俺にとっても得難い試練となるだろうからな」

 

 交わす言葉に馴れ合いの色はない。

 運営側として、カレンの立ち位置は明確に一貫している。

 彼女はどちらにも与しない。より良き痛みを善しとして、苦悶を肯定し試練の道を指し示す。それが彼女なりのマスターたちに向ける献身だ。

 

「一筋縄でいかぬと分かるのなら、少しはそれらしい焦りの一つも見せてもよかろうに。もはや毎度のことじゃが、そなたの傾奇者ぶりも筋金入りじゃな」

 

 向き合う2人の元に、復帰したアーチャーが戻ってくる。

 彼女とてサーヴァントだ。何の概念の着色もない一撃では、霊核を破壊されない限りは復帰することは容易い。

 条理を超越するランサーの力はアーチャーを一蹴したが、それでも彼女の剣理は致命に繋がる損傷だけは避けきっていた。

 

「なに、焦りがないわけではない。かつてないほどに死を覚悟したとも。あの拳士ともまったく異なる、別種と呼べる畏怖の念を確かに感じた。

 おまえはどうだった、アーチャー。あのランサーの、狂信という意志が生み出す凄まじさ、その身をもってしかと味わったようだが」

 

「無様の言い訳はせぬ。アレはまさしく魔性の類い、人の理で語れる強さではあるまい。まともな条理で当たろうとしても、容易く撥ね返してくるじゃろう。

 神の名のもとに狂える怪物。後世の伝承に着色されるまでもなく、アレは相応の魔であるよ。その真実を思えば悪魔の名もまだ大人しいものじゃ。

 ああ、確かにアレの相手をするのは、人のままでは些かに骨が折れよう」

 

 それは己の不覚を弁えた殊勝な言葉、と取るにはアーチャーの纏う気が些か以上に不穏である。

 一蹴された自らを認めながら、彼女に敗北への怖れはない。犬歯を覗かせる鋭い笑みを見せ、常と変わらぬ尊大さで告げていた。

 

「今回はわしも本腰を入れようぞ。我が"波旬"の贄が、神に仕えし怪物とはそれも一興。よもや反対はすまいな、正彦よ」

 

「無論、反対などあるわけがない。おまえの全霊に期待しよう。魔王が誇る"世界"でもって、奴の信仰を見事に砕いてみせるがいい」

 

 そんなアーチャーの不遜さを、甘粕はただ是として頷く。

 虚勢からの言葉ではない。アーチャーは心からの確信を込めて言葉を紡いでいる。

 それは信じるものの重さを知るが故に。サーヴァントの本領、宝具とは英霊の伝承・逸話の再現。ならばそれは彼ら自身の生き様を映したものである例は往々に存在する。

 英霊とは、並ならぬ道を辿った英雄の死後の姿。その道が清純であろうと暴虐であろうと、常人とは比較にならない密度と熱量があり、故にこそ軽々しくは扱えない。

 己の過去は嘘をつかない。英雄とは己の正道を信じて突き進める者だ。彼らが真に頼みとする宝具とは、彼らが貫いてきた信念そのものに他ならない。

 

 前哨戦が終わり、次に両陣営が対峙するのは本番の決戦日。

 どちらもがその日の到来を待ち望んでいる。望みの性質は大きく違えども、闘争へ挑まんとする気概に強さに劣るところは何もなかった。

 

「互いが正しいと信じ、譲れないと誓った思いと意地の激突。それは俺の願いであり、この月も求めているものであろうからな」

 

 そのような意志の昂ぶりを愉しむように、甘粕は快活に笑ってみせた。

 

 

 




 思ったより時間が掛かってしまいました。
 自分のSSにとってはそこまでの文量でもないのに、本当は6月以内を目指したかったのですが。
 ああ、速筆できる人たちのスキルが本当にすごくて羨ましい。

 三回戦での対戦相手は、完全プッツンしたブチギレ黒ランサーとなります。
 執念やら渇望やらで、大概のことは何とかなるlight作品法則が増し増しになってる感じです。

 で、多分皆さんツッコミたいかと思われるところ。
 別にヴラド公には神性ないんだからそんなに『魔王』とも相性よくないだろ、と。
 ぶっちゃけその辺り、次回はちょっとこじつけ気味になるかもしれないです。なので先に謝っておきます。
 いやね、そうでもしないとマジで宝具の活躍の場がなくなりそうなので。設定よりストーリー優先な感じですが、どうかご容赦ください。

 というか、神性やら、古い英霊やらと、明らかに設定が青ランサー兄貴を狙い定めてますもん。
 EXTRAで他の神性持ちだと、ギルガメッシュやカルナになるので、噛ませにはものすごくしずらい。
 なので、まあ、この人でなし!しないためにも、どうかご了承くださいませ。
 

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