もしもExtraのラスボスが甘粕正彦だったら   作:ヘルシーテツオ

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3回戦:狂者の資格

 

 元亀天正の頃、日本中世期に生じた戦国時代。

 応仁の乱以降の秩序の崩壊、古き権威が失われ新たなる支配者が求められた群雄割拠の乱世。

 そこはまさしく混沌の世界。各地のあらゆる領主が我こそはと名乗りを上げる、人の欲望が解放された時代であった。

 

 ――尾張ノ国。

 そうして無数に乱立する主権国の1つ。

 乱世の只中の事、その国の情勢もまた平穏とは程遠いもの。

 外には三方より睨みを利かせる諸外国。芳醇な利権は、同時に他国を誘う毒になる。

 内には下剋上を狙う奸臣の群れ。有能なる君主に抑えられた数多の欲望は、君主の喪失と共に噴出するだろう。

 内外に危機を抱えたこの国の命運は、乱世の荒波に飲まれ果てるかの瀬戸際であっただろう。

 

 そうした尾張ノ国にあって、『稀代の大うつけ』と称された人物があった。

 

 曰く、武家嫡男にも関わらず庶民と関わる変人。

 

 曰く、父君の御葬儀で粗相を働く不心得者。

 

 曰く、とかく意味の分からぬ事を言い出す奇行者。

 

 聞こえてくる悪評は数知れず。

 耳に届けば誰もが嘲笑した。尾張の跡取りはとんだ愚か者であると。

 

 されど、その決断は迅速にして的確。

 戦場においても勇猛果敢。侮る者共を尻目に見て、己の足場たる尾張を平定していく。

 風聞とはまるで異なるその実状。その正体に皆が気付く頃には、名実ともに尾張ノ国の主として君臨していた。

 

 感嘆するべきはその先見性。余人には計り知れない見識の深さ。

 流石は新たな世を築いた革新の王。無理解からの蔑視にも怯まず、己の道理を信じてその価値を敷いた事こそ称賛されるべき事である。

 

 

 ――――と、後世の余人ならば、そのように解釈して納得するだろう。

 

 

 平手政秀という男がいた。

 主君の子の教育役を受け、ある1人の子の世話を承った。

 当時の常識において大名の父子に通常の子守の形式はない。

 父が家を守り、母が子を育てる。そんな当たり前は庶民だけのもの。

 良家貴人においては、我が子といえど己一人で育てはしない。跡取りの采配一つで流血沙汰すら招きかねない、君主の子女とは父子の愛のみでは扱えない存在だ。

 

 故に、乳飲み子の頃よりの世話役であった政秀は、その子にとって親以上に近しい相手だった。

 

 2人の仲も良好そのもの。

 子は政秀を父のように慕い、政秀は子を実子に等しい愛で接した。

 政秀の教育に子は才気を発揮して応え、養育者としてこれ以上ない誉れであった事だろう。

 

 政秀が預かった主君の子とは、長女の『姫』であった。

 

「姫様には優れた先見の明がございます。その聡明さは必ずや一門の力となられるでしょう」

 

 やがて時が過ぎて、両者を取り巻く環境は一変する。

 『姫』であったはずの子は『嫡子』となり、政秀が仕えるべき『主君』となった。

 近しい者ならあまりにも目に見えた矛盾。あり得ないものを真実と言い張るのなら、道理はそれ以上の無理によって押し除けられる。

 それでも忠義は変わらない。政秀は『主君』となった『姫』を受け入れ、その通りに仕えた。

 

 そうして『主君』たる『姫』は、平手政秀を自刃させた。

 

 『姫』は彼を慕い、政秀もまた育て親として、そして臣下として接した。

 その仲は極めて良好だった。決して互いを疎んじていたわけではない。

 『姫』にとって平手政秀という男は、屈託ない己を知る数少ない理解者であり、真に頼れる相手だった。

 

 ――だから『主君』として、『姫』としての己と近すぎた者を消さなければならなかった。

 

 織田信勝という弟がいた。

 同じ父、そして同じ母の腹より産まれた、血を分けた姉弟。

 本来の嫡男、正当な君主の継承者。順当であれば彼こそが主君であり、そこに文句など無かっただろう。

 

 仲が悪かったわけではない。むしろ姉弟仲はとても良かった。

 正当な権利を奪われた身でありながら恨み言もなく、それどころか自ら支えになると申し出た。

 

「姉上の御力は私がよく知っている。この苦難の時、頭領には真に力ある者こそが相応しい。私もまた及ばずながら、姉上の助けとなりましょう」

 

 信勝との間に確執など無かった。

 弟は姉を愛し、姉もまた弟を愛していた。

 世が戦国でさえ無ければ、何の問題もなく君主の座に就けただろう。

 反乱の騒動も、反目する家臣団に担ぎ上げられての事だと理解している。

 あまりに無理を通した家督の相続。反抗する者がいない方がおかしいだろう。むしろ弟が一纏めにしてくれたからこそ、より致命的な内裂を避ける事が出来たのだ。

 憎む道理などなく、姉にとっては尽くしてくれる可愛い弟。どうして害する事を望めるだろう。

 

 ――それでも、国の磐石のためには、『正当な後継者』の存在を生かしてはおけなかった。

 

 母は我が子を『鬼子』と呼んだ。

 伝統の道理を押し退けるのは、流血で為される鉄の道理。

 数多の風聞、悪評に彩られ、根底にあった"問題"はいつしか人々から忘れられる。

 やがて誰もが口を閉ざし、かつて在った『姫』の記録は完全に抹消された。

 

 その王道に義はなく、愛もなく、されど確かな理がある。

 深い親愛の情さえ切り捨てて、王が求めるのは成果の実利。

 結果という報酬は確実に積み上がる。王が鉄血の手腕を振るえば、国は強く豊かになった。

 事実、尾張ノ国は平定され、来たる他国との戦に向かう確かな土台が出来上がったのだ。

 まさしく王こそは乱世の寵児。仁義士道など初めから崩れている。中身のない空虚な道義よりも、鉄の覚悟で行う非道の実利こそが今世を駆ける風雲児には相応しい。

 

 『うつけ』という悪評も、『魔王』という忌名も、全ては王の利用物。

 虚すらも実の力と変えて、古びた権威に新たな秩序を打ち立てた革新の王。

 ならばその心とは? 王とて人の子、親しい者を、愛する者を手にかけて、心が無事でいられるはずがない。

 王は決して語らない。秘めた内心は誰に対しても明かされず、絶対の主君として傲岸不遜に君臨する。我こそ王なりと、豪胆に快活にふてぶてしく、陰りを見せずに笑うばかり。

 

 

 ――――彼の名は、彼女の名は、織田信長といった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 3週目の朝がきた。

 掲示板に対戦者が発表されたと連絡される。

 舞台である仮想の学園生活。学生新聞や連絡簿が貼られる横に、各々が殺し合うべき相手の名が掲載されるのだ。

 

 3回戦を迎えて、生き残っている者も大幅に減少した。

 一度の対戦で必ず一人が消えるルール。1回戦で半数、2回戦でまた半数と消えて逝った今、残っている数は当初の3割以下だ。

 未だ行程の半分にも達していない現状で、あまりに過酷な生存競争。それは同時に、今も生き残っている者は少なくとも2度の死線を越えた事を意味している。

 ムーンセルの厳選は順調だ。聖杯戦争は正しく強者を選び出している――――その性質の如何に関わらずに。

 

「マタ ゴチソウ 食ベテモイイ ゴチソウ! コンナニ 沢山ノ 美味シソウナ モノニ 出会エル ナンテ トッテモ ハッピー。

 ココニ来レテ 良カッタナァ。ランルークンハ トッテモ嬉シイヨ」

 

 壊れた笑顔で口ずさむのは、どこかで見た道化師の格好をした女。

 否、笑顔というのは正確ではない。笑顔であるのはピエロの仮面。その中身がどうなっているのかは判別できない。

 体格、声の質などから女性だと判断できるが、それすらも正確とは言えないだろう。

 

 分かっているのは、彼女が狂っていること。その姿に映る異常の全てが明確な狂気を発していた。

 

「おお、おおおッ!! なんたる奇跡、なんたる祝福! 今ここに、極上の供物が現れた。

 我が妻よ。オレはこれを啓示と捉えよう。神より与えられし試練、貴女に捧げる我が愛を証明する、最上級の捧げ物として。

 こやつらは強い。雄々しく、美しく、苛烈であっても尚その性根には芯がある。我が国土を踏み荒らさんとしたかの征服者の軍勢さえも超える傑物であろう。たとえ如何なる惨状を演出しようと、その意志を挫くことは叶わぬだろうとも!

 それで良い! 試練は険しく、生贄は強くあるべきだ。難敵の血であればこそ、主へと捧げる供物たり得る。この者たちの血肉をもってオレは真実なる愛の誓いを立てるのだ。

 いと尊き妻、我が奇跡の具現たるマスターよ。拒食に空いたその腹に、ついに肉が満たされる時がきた!」

 

 その横に侍る者もまた、狂人の体を示している。

 身に纏いしは漆黒の鎧。深く染み付いた鮮血の気配。騎士なのだろう偉丈夫は狂喜していた。

 同じく狂人であろうマスターを讃え、敬い、崇拝し、聖なる者に対するが如く接している。抗し難い強敵を前にして、それに打ち勝つ事こそ忠誠に表れだと喜んでいた。

 

「アナタノ 愛ハ トッテモ大キイネ。チョット 怖イケド スゴク綺麗ダ。ウン ランルークン アナタノ コトヲ 好キニナレソウダヨ」

 

 語られるのも常人の理解からは遠い言葉だ。当人なりの理屈はあるのかもしれないが、他者には理解できない心象こそ狂人の証だろう。

 これは相手を見ていない。世界は彼らだけのカタチで閉じている。たとえ他者を介在させても、通じていない認識は何処までもすれ違う。

 狂った道理が罷り通り、相互理解が成立しない。そして求めてもいない。すでに彼らの中だけで答えは出ているから、相手の答えなど聞いてもいないのだ。

 

「なんと! これはなんたる僥倖か。妻もまた強くご所望であられるとは、我が槍の贄としてこれ以上のものはない。

 そうであろう、妻よ? そうであろう、我が好敵手よ! この出会いに、この運命に、オレは心からの感謝を捧げよう。この聖戦が主の御心に沿わん事を!

 ――貴女のその愛こそが、この世の真実なる正義であるのだから」

 

 狂気の熱を帯びて、騎士は一方的に捲し立てる。

 そこに対話の意志はない。ただ己らの狂念だけを伝えて、主従は立ち去っていく。

 

 理解し難い、共存できない異端。

 彼らは外れた者だろう。人々とは共有できない価値観で生きている。

 人間としての在るべき倫理では括れない。その在り方は正しく怪物の呼び名が適切だ。

 

 それがこの3回戦における、甘粕正彦の対戦者だった。

 

「気狂いの類いか。そなたの好みとする意志は期待できそうにないな、正彦よ」

 

 そう告げるアーチャーの声は冷淡だ。

 ランルーくんと名乗った今回の相手に、彼女は見るべき所を見出だしていない。

 

「狂い人同士、通じる気心でもあったか。何にせよ無価値じゃ。人を介さぬ化生ならば、そのように討滅すればよかろうて」

 

 狂人は所詮、狂人であると。

 実利を求めた革新の王は、狂人の主従をそのように定義する。

 共有できない価値観だというのなら、初めから理解を放棄する。どの道社会に馴染めない者ならば、王として慮る事もない。

 

 アーチャーは慈愛の王ではない。

 国という大のため、あらゆる小を切り捨てられる非情の王だ。

 民として貢献を果たせない相手を慈しむ道理はない。人になれないのなら死ねばいい。

 たとえ如何なる事情があろうとも、人を外れた時点で王が守るべき民ではなくなったのだ。毒となる異端は切除する、為政者としては当然の結論だろう。

 

 アーチャーは狂人の道理を認めない。魔王と称されながら人の側に立つ王として無価値と断じた。

 

「ふむ、貴女の愛か」

 

 対し、甘粕は彼らの言葉を吟味していた。

 意志が発するあらゆる輝きを愛する男、そう簡単に人の価値を諦めはしない。

 

「なんじゃそなた、あのような気狂いにまで輝きはあると信じるのか?」

 

「無論だよ、アーチャー。どんな人間にも光はある。それこそが俺の信念だ。

 確かに言葉の意味は判断しづらいが、込められた熱の程は伝わったよ。

 "愛"という言葉、それは彼らにとってただならぬ意味があるようだ」

 

「愛? それこそ狂者の常套句じゃろう。人が狂う因果など、むしろ大半が愛だろうて。

 ならば訊くが、愛があればあらゆる所業は許されるのか? 愛こそ全てと、世界さえ引き換えにしても足る大義であると思うのか?」

 

「それは勿論、その通りだとも。そこに世界をも相手取る真の覚悟と勇気があるならば、俺は心からの賛辞を謳い上げよう」

 

「……ああ、そうじゃったな。そなたであればそう答えるか。失念しておったわ」

 

 訊いた自分が馬鹿だったと、嘆息混じりにアーチャーは言った。

 

「だがな、無辜なる者たちの感性で照らし合わせれば、そのような真似は許されぬのじゃ。

 考えてもみよ、その愛が何人に向けられたものだろうが、精々がそれしきの数ぞ? そのために何千、何万の犠牲を強いるなど狂っていると評するよりあるまい。

 たとえ愛を失おうが、いずれ新たな愛も見つけられよう。代わりとなれる者はおらずとも、別のカタチで心を結べる者はいる。愛も所詮は感情の一種。幻想に囚われねば、如何様にでも換えられるのじゃ」

 

 愛こそ至上であると、多くの人が口にする。

 金銭も名誉も、全てを投げうって示される愛の情熱。それは確かに美しい。多くの者の胸を打つ美談である事だろう。

 

 それをアーチャーは否定する。所詮は一時の感情に過ぎないと、美談の幻想を切り捨てて無情の現実論で以て愛を語った。

 

「だというのに、一時の激情に任せて全てを御破算とする。そんな行いが尊いもの、美談であると? わしには狂言の類いにしか聞こえぬな。

 正彦よ、そんなものが勇気か? そなたの愛する意志の輝きだと? 見るべきものから目を背け、痴れた情慕に身を焦がす事が。狂気の域に高めようと、所詮は戯けの夢ではないか。

 彼奴らの抜かす愛が何であるか、わしは知らぬし知る気もないがな。誰にすら伝わらぬ思いで一体何が成せるというのじゃ?」

 

「うむ……」

 

 アーチャーの言い分は尤もだろう。

 どれだけ強い思いがあろうとも、誰にも届かないのでは意味がない。

 狂気の内に籠りきり、見るべきものを見まいとするなら、それは惰弱と言うべきだ。

 そんな軟弱者に示す敬意はない。そんな奴輩には甘粕もまた、無情なる裁きの刃を振るうだろう。

 

 だが、果たしてそれだけなのだろうか。

 

 心中からは疑念が尽きない。

 何故これほどまでに気に掛かるのか、自身ですら判然としない思いに甘粕は悩む。

 無自覚な感情の源泉が分からない。常にあらゆる物事と正面から対峙してきた男にとって、このような事態は珍しい。

 相手は狂人、流石に常人と比較すれば分かり辛い。人の在り方への裁定に優れた審美眼を発揮する甘粕だが、現状までで判っている事はまだ少なかった。

 理解するにしてもこれからだろうに、妙な執着心が内にはあった。まだ初の邂逅を果たしたばかり、語らいすら通じそうにない相手だというのに、これは一体何だろう。

 

「ままならんな。俺も、まだまだ未熟か」

 

 対戦者であるランルーくんについて、甘粕は考察を深めていく。

 彼は全ての人の意志を愛する者だ。アーチャーのように狂人だからと容易く切り捨てる真似はしない。それがどれだけ馬鹿げた行為でも、甘粕が止まる理由にはならない。

 本来なら死力を賭して殺し合う関係で、事実そうなるというのに、偽りなく相手を理解する事を求めている。全ては彼が信奉する愛のカタチ故に、戦場の道理から反するのだとしても。

 

 ――だからそれは、油断とも言い換えられるものだったのだろう。

 

 全身に悪寒が走り、その直後に異変が起きる。

 何か見えない力に引き寄せられるような感覚。それに抵抗する暇すら無く、甘粕は校舎の空間から切り離されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 してやられたな、と。直後の洞察でまずそのように結論付けた。

 

 生じた異変を推察するに、他者からの干渉による不正規(イレギュラー)な強制転移。

 周囲を見渡せば、そこは月見原学園の校舎とは似ても似つかない場所。ざっと見た観察からでは、迷宮(アリーナ)での外観に近いだろう。

 事態は急変の体を見せているが、思考は平静を保っている。確かに突然ではあったが、予測するとなれば十分に可能な範疇。驚くには値しない。

 

 むしろ自罰すべきだろう。このような事態に陥るまで、己の緩みに気付けないとは。

 これは聖杯戦争。いかに決闘の形式を取ろうとも、その本質は戦争だ。生じるリスクと天秤にかけてリターンが勝るなら、対戦者以外への襲撃とて選択肢の一つとなる。

 甘粕とてそれは承知していた。それどころか誰よりも実感していただろう。西欧財閥に反抗する勢力の頭目、それを排除する役目を担う『黒蠍』の存在を忘れるわけがない。

 その存在を知りながら、あらゆる参戦者にとっての空白地帯である場所で物思いに耽けていたのだ。敵からすれば好機でしかなく、自業自得というほかない。

 

 知らず知らずの内に、興していた。

 高揚する好奇心は無自覚の内に緩みを生み、その視野を狭めていた。

 向き合う相手へと傾倒して、それ以外への警戒を怠ったのだ。これを油断と呼ばずに何と呼ぼう。

 そうでなければ、此度の事を防げていただろう。相当な大仕掛けではあるだろうが、常の甘粕正彦であるならば、奇襲に即応して躱す事も出来たはずだ。

 それを出来なかった事は、即ち怠慢に他ならない。猛省し、自戒すべきだろう。身に降りかかる難事の全てを試練と捉えるならば、それら全てに打ち勝たねば本懐は果たされないのだから。

 

 ――ここまでの思考は一瞬の内で済まされている。

 

 態勢はすでに、警戒から臨戦へと換わっている

 切り替えた思考には後悔などの思いはない。そんな余分など残してはいられないと承知していた。

 

 肌を貫くのは、濃密な死の気配。

 それのみでも理解は十分、ここが死地なのだと認識する。

 姿は見えない。他の生物の気配も感じない。だが殺気だけはひしひしと感じているのだ。そしてそれは攻撃を悟らせてしまう類いのものではない。

 言うなれば、それは環境そのもの。周囲に当たり前に存在する空気、己の脚が踏みしめる大地、目上げれば映る空。それら天然自然としか形容できないものが、己に死を纏わせてくる。

 鋭利な刃のような、自を示し他を貫く殺気ではない。空間そのものが殺意を放つという異形の気質。そこから存在を嗅ぎ分けるなど不可能で、しかし意図だけは明確に知らしめている。

 これから貴様を殺すのだと、誓いとも取れる必殺の意志。明確な殺しの宣誓が告げられていた。

 

 本能は悟る。ここで己は死ぬと。

 これは駄目だ。躱せない、防げない、応じられない。

 それほどにこの死は極まっている。極みの果ての極み、術理の果てに達した魔道の理。もはやそれは人技の領域にあるものではない。

 この空間に引きずり込まれた時点で、既に詰みであったのだと理解する。英霊ですらが防げるかも怪しいもの、人の身で越えられる道理など有りはしない。

 

 人としての生命はそのように結論づけて、しかし甘粕正彦という意志は否と断じた。

 

 これは窮地だ。この聖杯戦争でも最大の危機だろう。

 正体すら窺えない敵の技量は、間違いなく己を上回る。この殺気だけでも十分に察せられた。

 己の責だと自覚はしている。油断によって死地に招かれた、今の時点で詰んでいるとも。

 しかしならばこそ、甘粕正彦という勇者の意志は燃え上がる。この試練を踏破してみせようと、気迫は桁を飛ばして跳ね上がっていた。

 自らの不覚だと自罰するからこそ、奮起する。この危機を乗り越えてこそ帳尻は合わせられるのだ。さもなければこの先を進む資格は得られない。

 

 見えない相手、悟れない殺気。

 敵の陰形は完璧だった。2回戦で戦った狩人(アーチャー)すらも上回るだろう。

 感覚を研ぎ澄ませ。どんな些細な要素とて見逃すな。悟れない攻撃を必ずや凌ぐのだ。

 これまでの歩みを思い出せ。持てる全ての経験則を総動員して、次の一手を読み切ってみせる。

 

 感じたものは、ほんの小さな違和感。

 読んだものは、最も防ぎ難いと予測できる一手。

 求めるのは敵を引き裂く重さではなく、敵の技に追い付く神速の精緻さだ。

 

 覚悟を決める。一切の無駄を削ぎ落とし、決意と共に放たれるのは会心の一閃。

 振るわれた軍刀の刃は、確かに不可視の何かを捉え、その"拳"を弾いていた。

 

「――くはははははははは!!!!」

 

 直後に轟いたのは哄笑。

 溶け込んでいた自然から現したその姿は、燃えるような衣装に身を包んだ強壮な偉丈夫だった。

 

「よくぞ躱した。幾多の命を一打に散らせた我が魔拳、よくぞ人の身で防いだものよ。

 訊かせてはくれんか。勘か? 経験か? それとも魔術による予知の類いか? いったい如何にして、儂の拳を見破ったのかを」

 

「あえて言えば全てだよ、サーヴァント。未来予測に縁はないが、勘も経験も魔術も十全を尽くした上で抗わせてもらった。

 初めてだぞ、あれほどに死を錯覚させられたのは。初見では対処も出来ず、奇抜に走ったところで通じはすまい。気配は分からずとも、長年の研鑽に裏付けされた堅い意志だけは感じていた。

 ならば俺もまた、持てる全てを尽くさねばならんだろう。生涯を通じた努力の成果、費やしてきた日々は決して無駄ではないと信じてな」

 

呵々(カカ)、なるほど真理よ。鍛練は嘘をつかぬ。英霊やら宝具やら謳われようが、研鑽を伴わねば蟷螂の斧に過ぎん。如何に強大だとてそんな力は恐れるに足らん。

 先の一閃、心技体を兼ね備えた見事な剣であった。良き功夫を積んでおる。流石は世界に抗わんとする益荒男よ。凡百の魔術師どもとは別種に等しい」

 

 快活に、心底からの喜悦を滲ませながら男は言う。

 せっかくの奇襲を防がれたというのに、表情に落胆の色はない。むしろよくぞ防いでくれたと褒めるように、その様子は好奇と上機嫌を重ねていく。

 

「ユリウス・ハーウェイのサーヴァントだな。己の対戦者もいるだろうに、ここまで直接的に打って出るとはな。俺も随分と気に入られたらしい」

 

「さあて、あいにく儂も軽々しく主の素性を漏らす不忠者ではないのでな。そこは答えを控えさせてもらうとしよう。

 だが、心配事ならばそれも不要よ。我ら本来の対戦者ならば既に仕留めておるわ。ここに至るまでも、未だ一度として決戦の7日目に行き着けた者はおらん」

 

 それは恐るべき事実だった。

 7日目の決戦にまで至らない。それは即ち、その以前の段階で対戦者が死亡したという事。行動や言動を省みれば、それが事故の類いではないのは明白だ。

 暗殺。今まさに甘粕に行われようとしたように、男の見えざる魔拳に悉くその命を散らされてきたのだろう。不正行為に伴われる罰則(ペナルティ)、それさえ恐れるまでもない程の手並みでもって。

 

 自然環境と同一化したとも見紛う、完璧すぎる気配遮断。

 脅威となるのは不可視化だけではないだろう。その自信のほどを考えれば、放つ拳自体も必殺の威力を伴っていると見るべきだ。

 ニ撃を求めず、一撃をもって事を為す魔拳の真髄。繰り出すならば必ず殺すと己に課した意志。それは如何なる相手も初撃で沈める一打となって表れる。

 

 姿無き魔拳士。背中を刺す慈悲なき殺戮者。このサーヴァントこそ"暗殺者(アサシン)"の名に相応しい。

 

「どれもこれも脆弱すぎる。実力は元より意気に至るまで半端な者ばかり、その気質に口寄せられる英霊もまた然り。これでは鵜をくびり殺すのと大差なかろう。

 もはや結果すら見え透いておったわ。その点、やはりお主は違ったな。その両の眼を見た時から、おそらくはこういう結果になるであろうとは読めておったぞ」

 

「ほう。眼だと?」

 

「うむ。儂ほどに殺しを重ねておればな、拳を放つ前から凡その察しがつくものよ。

 始皇帝を討ち損じた荊軻のように、それは時に不条理と思える運気さえ引き寄せる。向き合った表情、立ち振る舞いの一々に気質とは表れる。それが告げておるのだ、もはや天命がその者の死を許してはおらんとな。

 特に眼は、人の魂を映し出す鏡に等しい。その眼差しが向かう先、映るものを知る事は、生涯そのものを悟るのと同義となる。儂に占いの腕はないが、殺しに限っては人より多くが見えておる。

 お主は、このような舞台裏などで果てる天命を課されてはおらんとな」

 

 瞬間、轟いた無数の銃声と共に、豪雨となった銃撃が男へと降り注いだ。

 

 即座に反応して回避に移る。

 逃れ得る間隙など皆無に見えたが、男は超絶の体術で銃弾の悉くを躱していく。

 距離を開け、再び地に脚を落ち着けたその姿には、ただの一発の銃創も無かった。

 

「おおう、これはいかん。つい語らいに興じて決殺の好機を逃してしまったか。この有様ではマスターに弁明すら叶わぬな。呵々(カカ)、まこと難儀なものよ」

 

「影に潜みて背中を刺す忍びにしては、饒舌が過ぎるようじゃな」

 

 甘粕が引きずり込まれた異空間に、アーチャーもまた侵入を果たす。

 この空間を挟んだ分断も、所詮は人の手により為されたもの。同じく人である甘粕らに対抗できないわけがない。

 この空間の意図も、詰まるところは時間稼ぎ。時を置けば対処されるのも必定、長く置けばムーンセルにも発覚するのは目に見えている。

 

 つまりは今までの時間の中で、男は甘粕を仕留めなければならなかったのだ。

 それを徒らに会話にかまけて、闇討ちの機会を失った。暗殺者たる男にとって、それは不覚どころではない失態であったはずだ。

 

「さもありなん、如何に暗殺者などと称されようと、儂の本性は何処までも拳法家よ!

 こうして暗技の拳を振るい続けるのに否はないが、やはり殺すのならば鼠よりも虎、虎よりも龍と、より難関辛苦であるのが望ましい。我が武威の限りをぶつけられよう好敵を前に、昂ぶるなと言う方が無理というものよ。

 礼を言わせてもらうぞ。先ほど結果は予感していたと言ったが、あれは半ば儂自身の願望であったのでな。よくぞ、よくぞ我が魔拳を躱してくれた!」

 

 男の性質は武人。何者にも勝る暗殺拳を持とうとも、真に望むのは生き死にの闘争である。

 そういう意味では、男は暗殺者として三流だ。かの山の翁とは比べるべくもあるまい。彼はあまりにも、殺しに悦楽を求めすぎる。

 故に獲物を仕損じた結果にも、無念さはおろか省みてすらいない。標的の殺害という結果だけを求める者には、これほど厄介な気性もないだろう。

 

「ならば拳法家よ。その悦楽に殉じ、このまま何処とも知れぬ野に骸を晒してみるか?」

 

「そう急くな、傾奇者。元よりこの空間も一時のもの。我らの闘争に耐えうる舞台ではない」

 

 男の言葉を証明するように、周囲の風景がその輪郭を徐々に失いつつある。

 サーヴァントの介入を許した以上、もはやリスクを負うほどのメリットは無いと術者が判断したのだろう。空間は急速に本来の場所へと引き戻されつつあった。

 

「お主らとは、いずれ必ずや闘うことになろう。その時を楽しみにしておくぞ」

 

 その言葉を捨て台詞に、再び男の姿が不可視へと溶け込み消える。

 それと同時に、立つ場所も本来の校舎へと戻っていた。2つの要因に痕跡を断たれて、追跡の望みはほぼ無しだと言っていい。

 

「此度の事は迂闊じゃったな、正彦よ。我らを付け狙う曲者の存在を失念するとは」

 

「ああ。本戦前もそうだったが、ここまでの大仕掛けも平然とやってくるとは。何をやったかは知らんがまともでないだろう。少年王(レオ)の存在を考えれば、命くらい捨てているのかもしれん」

 

 緩みを正す。己がまさに戦場に立っているのだと自戒する。

 これもまた、ある意味で良い教訓だろう。やはりこの試練は容易には踏破し難い。

 だからこそ挑む甲斐があるのだと思う。先の一合でまたひとつ己の限界を超える事が出来た。

 

 ――ああ、自分はあの男を笑えない。最も興じているのは己の方だろう。

 

 命はおろか世界すら懸かった戦い。なのに考えるのは目先の事ばかり。

 策謀を巡らせばいい。徒らに危機を引き上げるような真似をせず、堅実に勝利を目指すべきなのだろう。そうすれば聖杯はもっと容易に手に入る。

 だが自分はそれが出来ない。それでは駄目だと、否、それでは嫌だと感じている。甘粕正彦は人の輝きを愛しているから、自身の光を発掘できる試練を好ましく思ってしまう。

 

 だからこうして、変わらない。

 何を正そうとも、どんな危機に直面しようとも、その在り方がブレる事はない。

 甘粕正彦は今も昔も、人の輝きを引き出すために邁進し続けるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 場所を移し、甘粕とアーチャーはマイルームに帰参していた。

 

 ムーンセルより安全を保証された空間。どんな手段であろうとここに干渉する事は叶わない。

 もしそれが出来るなら、それは月の聖杯に匹敵、あるいは一部でも凌駕する力を持つという事になる。そんな者がいるのなら、聖杯を求める前提自体が覆りかねない。

 つまりは絶対の安全圏。己以外の全てが敵という状況で、唯一気が休まる場所だ。

 それでも尚、甘粕の状態が校舎の時と大差ないのは、それこそが彼にとっての常態である事の証左だろう。もはや意識する必要すらなく、甘粕正彦の心身は疾走を続けている。

 

「さて、此度の方針を聞こうか、正彦」

 

 背徳の礼拝堂。その中にあって尚も不遜に在るアーチャー。

 それが腰掛けるのは新たに持ち込まれたと思しき髑髏意匠の大椅子だ。己に対する怨念、恐怖、それら全てを糧にする魔王は、神仏に対する畏敬など微塵も持たずに振舞っている。

 

「変わらんよ、アーチャー。俺の方針には些かの変化もない。輝きを引き出し、その上で正面から凌駕する。これまでの相手とまったく同じだ」

 

 魔王たる王気を発して話すアーチャーに、甘粕も怯む事なくそう答える。

 彼等は対等だ。どちらが上で下というわけではない。だからこそ今の関係があるのだと、そう結論付けても両者共に否はないだろう。

 

「ハッ、まあ予想はしておったがな。狂人相手にも違わぬとは流石筋金入りじゃ。

 されど、理由くらいは聞かせてもらうぞ。何がそなたの琴線に触れた? あの狂人どもにも光の片鱗を見たからこそ、それほどに心を決めておるのじゃろう」

 

「光の片鱗、か。そうだな、確かに俺はそれを見出していたのだろう」

 

 初めからあった疑念。狂気に満ちた主従を相手に、何故かあった執着の思い。

 輝きの如何さえ判別していない内から、自身ですら判別し難い感情。それは今も変わらず胸の内に存在している。

 

 その正体に対する答えを、既に甘粕は手にしていた。

 

「眼とは、その者の人生を映し出す鏡であるらしい。なるほど、その通りだと納得したよ。

 あれの瞳には確かに色濃い狂気を帯びていたが、その光は格好の奇抜さと違い、陽気とは無縁のものだった。まるで底なしの穴のように暗く深く、およそ正気の光とは思えん。

 そこに俺は悲哀の色を感じたよ。ランルー、だったな。彼女の狂気の裏には、何か底知れぬ悲しみがあるのでは、とな」

 

「それはまた随分と曖昧な理由じゃな。よもや瞳とは、そんなものは理屈にすらなっていまい。

 そなたはそれを悲哀と定義するかもしれんが、果たして当人どもにとっても正しいかは未知数ぞ。狂者とは得てして、心の有り様から常人の感性が通じぬものじゃ」

 

 魔拳の男が語った理屈。道化の仮面から覗かせる双眸の輝きこそが、疑念の答え。

 そう答える甘粕に対し、アーチャーはあくまでも現実の理に沿った言い分で応じる。正気あらざる者への理解など、彼女は求めてはいない。

 

「かつてわしの臣下にもそんな者がおった。殺戮に次ぐ殺戮、戦国乱世にあって尚、忌むべき死を作らずにはおれぬ狂人がの。

 アレの殺しには人としての道理は無い。大義名分など、自らを飾り立てるためだけの道具に過ぎぬ。鬼武蔵。人間無骨。そう呼ばれた英霊こそ、最も暴力に酔い狂った屠殺者であった」

 

 群雄割拠の戦国乱世。

 凄惨な逸話に溢れた時代にあって、尚も血塗られた悪名に満ちた狂気の英雄。

 鬼武蔵と称されたその英雄がある所、敵ばかりか味方までもが殺戮の憂き目にあったという。

 やがて戦場で討たれた際、味方陣営の者たちがその事実を喜んだというのだから、鬼武蔵なる男がどれだけ異形に見られていたか分かるというものだ。

 

 そんな狂気の武将の主君であった者として、アーチャーはその性質を語っていく。

 

「狂人が狂人たる所以とはな、当人がそれを異常と思わぬ事じゃ。

 脚を折ろうが腕を落とそうが、アレにとっては害意ある行動ではない。殺しておらぬという時点で、一応の親愛を示しているつもりらしい。無論、アレの中だけではな。

 もはや理で説明できる性質でもない。鬼武蔵は、純粋に狂っておった」

 

「ほう。だがその割りには、随分と重用していたと聞いているが?」

 

「泰平の世であればな、アレに居場所は無かったじゃろう。だが時は戦国、乱世にあっては殺戮の狂気は様々な事で役に立つ。

 事欠かぬ悪名、理解を越えた惨事の数々は恐怖を生む。戦において恐れの伝播は早い。時にそれのみで決着がつけられる場合まである。

 アレが斬り捨てた関所役人よりも、アレが与える死の恐怖が有用だった。それだけの事じゃ」

 

 アーチャーは革新の王。その王道とは徹底して実利を求める。

 たとえ理解し難い狂人であろうと、有用の理が立つならば利用する。結果としてより多くの成果が得られるならばそれでいい。

 

「……まあ森のオヤジには借りがあったし、蘭丸の手前もあっての。いや、先の言も言い訳ではないぞ、言い訳では。むう、やはり何でもない」

 

 小さく付け加えられたその呟きは、あえて追求はしなかった。

 

「なるほど。狂人の道理とは、所詮狂人自身の内でしか成り立たぬもの。ならばその意志とて、誰かと真に向き合う勇気を持たないものとしかならんか」

 

「で、あるに。そなたの定義する所も、結局はあの狂人にとってのものでしかない。どれだけ怒り嘆こうが、それが筋の通るものとは限るまいぞ」

 

 アーチャーの言葉は何処までも正論だ。

 彼女は狂気の道理を切り離して考えている。常人の理に照らし合わせるべきではないとして。

 狂った気性を人と同じ基準で測ってはならない。彼等は彼等だけの道理で動いている。その境界を見極めて利用するのだと、かつて狂人を用いたアーチャーは告げていた。

 

 その点については同意する。甘粕にとっても、そのような者は評価に値しない。

 アーチャーの語る狂人の定義。狂人は独自の倫理でしか動かない。

 それはつまり、己の殻に閉じているという事。全てが自己完結していて他者の存在を見ようとしない。

 そんな者に勇気はない。少々の物珍しさがあるだけで、己以外の世界へと立ち向かう気概が欠けている。人間失格の烙印を押すのに否はなく、裁定の対象だ。

 

 もしそれだけの事なら、甘粕もまた見限っていただろう。

 しかしそうではないだろう。少なくとも1人は、その道理によって魅せられているのだから。

 

「あの黒い騎士がいる。契約したサーヴァント、あれはマスターに並ならぬ執着があるようだぞ」

 

「狂者同士じゃ。波長が合う事もあろうて」

 

「そうかもしれん。だが、あるいはそうでないかもしれん。

 俺はなアーチャー、おまえたち英霊に心からの敬意を抱いている。これぞ人の輝きを体現せし英傑たちと、そう思う気持ちには一点の偽りもない。

 だからこそ思うのだ。英霊すらも心酔させる輝きとは、果たしてどのようなものなのかとな」

 

「ならばどうする? そなたは試練を求めるのじゃろう。奴らに何を期待する? 何を以てその価値を引き出すというのじゃ」

 

 敵の力を十全に引き出した上で、真っ向勝負によって決着をつける。

 それが甘粕正彦の聖杯戦争の方針だ。人の光を愛するが故、倒すべき相手であってもより強く、美しく輝いてほしいと願っている。

 

 その方針は変えないと甘粕は言った。

 3回戦の対戦相手、ランルーくんと名乗った道化師にも同じ対応で臨むと。

 理解し難い狂人であっても、そこに意志があるのなら等しく裁定を執り行う。

 

「狂気という感情にも、大きく分けて二種類がある」

 

「ふむ?」

 

「一つは己の道理に常軌を逸して信奉する場合。先の鬼武蔵の例がまさにそうだろう。

 これにはあるいは見るべき所もあるだろう。他者の都合に頓着せず、ひたすら我が意のみを道理とする傲慢。そこにあらゆる敵意、排斥の流れに抗わんとする意志があるなら、まぎれもなく輝きと呼べる。俺は心からの賛辞を謳い上げるだろう」

 

 もしも、数多の病魔に蝕まれて、運命より死の宣告をされても尚、我が意こそ至上と声を大に上げられる者がいたとしたなら。

 甘粕正彦はその者を尊敬するだろう。彼の者こそ真に強き勇者だと認める事に否はない。例えそれが、世に仇なす鬼畜外道の類いであろうとだ。

 

 重要となるべきは、あくまでも絶対値であるから。

 世の異端視に泣き言を抜かすのではなく、是として雄々しく在れるなら、甘粕は人間賛歌を歌うだろう。

 

「もう一つは、認めがたい現実を前に、目を閉じ耳を塞ぐため狂気に曇らせる場合だ。

 これは実にくだらない。選択としては軟弱の極み。信念があろうと所詮は欺瞞、見るほどの価値はない」

 

 甘粕正彦は逃避という行いを認めない。

 如何なる理由があろうとも、人が意志を放棄する事を許容しない。叩き直さねばと思っている。

 だからこそ、聖杯に懸ける祈りがある。この世のあらゆる惰弱を正すために、試練の災禍をもたらそうとしているのだ。

 

「もし後者だとしたら認められんよなぁ。その意志の真なる姿がまるで見えていない事になる。

 その光が同類同士の共感に過ぎないのか、それとも英霊さえ心酔させるに足る輝きなのか。分からんのなら確かめるより他にない。

 聖杯戦争は身命を賭しての戦いだ。ならば積年の思いと信条、全てを投げ打ってでも臨むべきだろう。俺の前で道化の真似など許さん。死に逃げなど絶対にさせんよ」

 

 もしも彼の者が狂気の霞に己を曇らせ、道化の仮面に真なる姿を隠しているのなら。

 そんなものは認めない。互いに命を懸けて臨む者同士、真実の思いで対峙する事を求める。

 相手が殻に篭って応じないというのなら、やるべき事など決まっていた。

 

「あの道化の仮面を剥いでやろう。彼女の真実の価値、その意志の如何を確かめてやる。

 俺は人の意志を愛している。何度だって言ってやろう。愛する者たちが腐り落ちていく悲劇、どうして見過ごす事ができるのか。

 我が願いは全ての人々の勇気の再起、そのための試練である。俺自身も、そんな人のための試練として在りたいと思っているのだからな」

 

 常人の心理より外れた狂人である? それがどうした。

 そんな程度では逃がさない。遍く人の括りから外さず、抱きしめてやると豪語しよう。

 異端の道理で歩むというのなら、条理の側の意志と戦う覚悟も当然あるのだろう。甘粕正彦(おれ)は目を背けない、きちんと人として向き合ってやる。

 

 殴るから殴り返せよ。どんな狂人であろうとも、闘争の真理から逃れられはすまい。

 

「わしとした事が、またも失念しておったわ。狂っておるのは目の前にもいたというにな。

 肥大しすぎたその信念は決して止まらず、なまじ理解と共感が可能な部分を有しておるだけに、他者をも狂奔に巻き込む資質まである。鬼武蔵などより遥かに性質が悪い。

 己の道理を憚らず、愛と勇気で世界をも滅ぼす。甘粕正彦、そなたこそ真正の狂人じゃ!」

 

 この3回戦は異常者の戦いだ。

 狂気と狂気、質は違えど常人の領域から逸脱した者同士。

 彼等の戦いに王道は通じない。その結末が何処へと行き着くのか、誰にも推し量る事は出来なかった。

 

 

 




 というわけで、3回戦の相手はランルーくんとなります。

 前にも書いたと思いますが、このEXTRA編にありすは出ません。
 流石に絵にならないですし、か弱さの象徴であるありすが奮起するってのも何か変ですから。

 魔人アーチャーの過去話・その2。
 コハエースのマテによれば、男性として振る舞いための情報規制が後の逸話に繋がったとあったので。
 平手政秀の切腹などは諸説がありますが、せっかくなのでオリエピとして、姫様であったノッブと近すぎたが故に排除されたというカタチにしました。
 今後も夢というカタチで、魔人アーチャーの過去を挟んでいくと思います。

 そして、オリジナルエピソードといえばですが。
 次回では、完全な捏造設定ではありますが、ランルーくんの過去を書いてみようと思います。
 何故ランルーくんが狂気に落ちたのか、断片の設定から思いついたエピソードです。
 もちろん公式でも何でもないので、このSSのみでのものと認識してください。


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