もしもExtraのラスボスが甘粕正彦だったら 作:ヘルシーテツオ
――――聖杯戦争 経過記録 1日目
私がこのレポートを記そうと思ったきっかけは、そう大したものじゃない。
誰かに向けて書いているわけでもなし、必要かと問えば全くの不必要。
このレポートが他人の目に触れる機会があるのかさえ、今の私には分からない。
この聖杯戦争は、片道切符だ。
一度参戦したら戻る道は無し。勝利以外の帰還方法はゼロ。
私も一応試してみたけど、星の誕生からずっと私たちを観察を続けてきたお月様は、やっぱり人間の力でどうにかなるものじゃなかったみたい。
予選を越えた参加者は128名。その内、1名の勝者以外は死ぬ事になる。
1回戦を終えた頃には誰もが悟るでしょう。これは手の込んだゲームなんかじゃない、この戦争は本物の"生存競争"なんだって事を。
もちろん私は死ぬつもりなんてない。
やるからには勝つつもりよ。戦うってそういう事でしょう。
でも、勝算が薄いのは認めなくちゃならない事実。自分が優勝候補の一角だって自覚はあるけど、それで安心できるほど能天気な性格はしていない。
ここには私以上の怪物だって幾らでもいる。その中で私が勝ち抜く公算は、はっきり言ってそう高くはないでしょう。
だから私、遠坂凛はこのレポートを残しておく事にする。
たとえ役に立たなくても、この戦いが確かにあった事を証明するものとして。
無限に広がる電子の海で、いずれ誰かがこの
さて、何から記しましょうか。
主題のムーンセルの事はひとまず置いといて、まずは私たち
何よりその立ち位置こそが、私という個人にこの戦いを決意させた理由であるのだから。
私たち、という表現を使ったけど、遠坂凛は決して
他所からの評判は英雄だとか象徴だとか、西欧財閥からは一緒くたにされて指名手配されてる事は知ってるけれど。
私はあくまでフリーランス。彼等の目的・思想とは必ずしも一致していない。それだけは予め言っておく。
そもそも厳密に言えば、
西欧財閥に敵対する勢力が、その利害関係で結びついただけでしかない。
指揮系統は各々で、その思想や最終目的まで見事にバラバラ。
私も彼等には協力しているけど、私のポリシーに合わない所とは決して手を結ばない。
大規模テロやBC兵器、民間人を無視した破壊活動。あるいはもっと単純に、暴力・略奪などの犯罪行為に走る人たち。
世間一般でのテロリストという評価はあながち否定できない。それを今さら言い訳をするつもりは無いけど、遠坂凛という個人が持つ矜持として、私の眼が届く範囲でそんな真似は絶対に許さないと断言しておく。
私が
正直に言ってしまえば、
仮に何かの奇跡が起きたとして、西欧財閥の打倒を成し遂げたとしても。
私たち霊子ハッカーの事を指す
かつて世界に存在した『マナ』と呼ばれる自然や空間、または生命に宿った魔力を操り、様々な奇跡を行使してきた人たち。
それは決して神話や御伽噺の中の住人だけじゃない。ほんの一世紀前には、彼等はこの世界の暗部に君臨していた。
魔術師という単語が霊子ハッカーに使われるのは偶然じゃない。魔術師が魔術師であるための特性こそ、私たちが霊子ハッカーたる由縁なのだ。
――
この回路の有無が、一般のハッカーと霊子ハッカーの優位性の違い。魂自体をプログラムにして電脳空間にダイブできるのも、魔術回路があるからこそだ。
言わば
最も、当の
彼等の歴史は古い。その目的は金銭や名誉といった俗なものとは全く異なるそうだ。
真理の追究、根源の到達。そうした神秘学上でのアプローチこそ魔術の実践理由で、彼等にとっての命題そのもの。
そのために、何代にも渡って子孫へと秘奥を継承し、一族単位で命題の達成を求めた者たちこそ、魔術師と呼ばれた人々だった。
かくいう私の遠坂家も、そんな魔術師の一族であったらしい。
私自身の才能も、その血統の系譜が与えてくれた
私に魔術師の血統をくれた祖父さん。遠坂の御家自体はとうに没落してるけど、この繋がりを私は悪いものだとは思っていない。
祖母より言伝に聞いたその人に、私は幼心に尊敬を覚えていて、そんな人から受け継いだ血の価値は誇るべきものだと思えたから。
ただし、それはあくまで私個人の話。魔術師の栄華はとっくに過去のものだ。
1970年に発生した
英国の裏側に存在していた魔術協会も、危険思想を持つ集団として西欧財閥により解体。
遥かな神代から続いた魔術師の歴史は、ここに終焉を迎えたのだ。
それでも、たとえ
彼等は自分たちの再興を目指して、西欧財閥の支配に抵抗している。
はっきり言えば、当初の私は、彼等にいい感情を持っていなかった。
いつまでも過去の栄光に囚われてばかりの、見苦しい人たち。
そういう人種を私は好かない。だって生きる事は前を向くって事でしょう。
未来じゃなくて過去に価値を置くなんて、生命として間違ってる。無益としか思えない。
有り体に言えば軽蔑してたし、理解なんて無理。当時の感想としてはそんなところだった。
けれど、実際に彼等を目の当たりにした今では、少し意見が異なる。
それこそ彼等はどんな手段を使っても、それを追い求める。
痛みに耐えて人生を犠牲にして、時には子孫に蠱毒のような真似まで強いて。
総ては真理への到達という宿願のために。決してそこには届かないと理解しながら、彼等は諦める事なく次代へと秘奥を伝え続ける。
その在り方は強さではなく、狂気だ。
代々に渡って彼等は魔道の薫陶と共に、その狂気までも継承する。
費やしてきた時間が、流してきた血が、彼等に諦める事を許さない。
やってきた事が無駄ではなかったと証明するために。その呪いは目指した答えにたどり着くまで解かれる事はない。
それは、あらゆる神秘が駆逐された現在でも同じ。
彼等は諦めない。どんなに無駄だと理解しても、何か方法があるはずだと足掻き続ける。
それが
私から彼等に対し、何かを判断することは出来ない。
遠坂凛は
ただ、その在り方に対して、無駄で無意味で無様だと知りつつも、挑む事を止めない姿に、感じ入った何かがあったのは間違いなく。
彼等の呪いが解ける日は来るのか。それが本当に良いことなのかも、私には分からなかった。
話を戻しましょう。この通り、様々な思惑を持った者たちによって構成されるのが
説明したように、
引き継いで世界の統治を実行できる状態じゃない。西欧財閥という共通の敵を失えば内部分裂は明らかだ。勝利の後には血で血を洗うような抗争が待っている。
今の人類にそれだけの余裕はない。世界を
現在の西欧財閥の管理体制は、不当な支配ではなかった。
ハーウェイがここまで勢力を拡大できたのも、彼等の手腕だけの成果じゃない
枯渇した資源。緩やかに衰退を始めた社会。西欧財閥の台頭は、人類が必要に迫られて選んだ支配のカタチでもあるのだ。
そこだけは、認めざるえない事実でしかない。
だけどそれこそ単純な理由。私は西欧財閥のやり方が性に合わない。敵対する動機はあくまで個人的な理由に依るものよ。
世界の総意がどうとかなんて知った事じゃないわ。だって世界っていうのはつまり、自分を中心とした価値観じゃない。
私の価値観が今の社会を健常なものだと思えないから、私は戦っているの。だから悪いけど、今のままの方が幸せだって意見は取り合うつもりないから。ごめんなさいね。
とはいっても、西欧財閥の勢力は磐石そのもの。
地上でどう足掻いてみせたって、限界は目に見えている。
こればっかりは個人の力がどうこうで何とかなるものじゃない。それくらい今の世界はハーウェイの色に塗り固められている。
だからこそ、私は"聖杯"の存在に賭けた。
聖杯。古くに神様の奇跡だとか万能の杯とかに付けられた名前。
その正体は月の内部に存在する巨大なフォトニック結晶体。規模を考えるなら『月の中に聖杯が』というより『聖杯こそ月そのもの』と表現した方が正しいだろう。
この存在は私たちの概念で量子コンピュ-タが近い。その処理能力は規格外で、既存のコンピュータなんてそれに比べれば石ころでしかない。
事象の書き換えだって可能な神様の
そんな聖杯が、自身の使用権を報酬にして行うのが"聖杯戦争"。
観測対象の1つとしての
ムーンセルは公平だ。西欧財閥も、
誰もが本気で聖杯を求めてる。
西欧財閥は、生還の見込みのないこの戦いに、自分たちの"王"を参戦させた。
現代に残った唯一の
そして"あの人"も。人間の戦いはもう地球上を離れて、このムーンセルに移行している。
私は戦う。この抑圧された世界から抜け出すために。
このレポートを開いているあなた。飼い慣らされる事を善しとしている今の世界に、少しでも疑問を持ってくれたなら、どうかその意味を考えてほしい。
私の書き記す戦いの軌跡が、そのための切っ掛けになれば幸いよ。
宛てがわれたマイルームで、私は意識を覚醒させた。
体感時間にして3時間ほど。休ませていた意識を速やかに適切な活動域へと移行させる。
抵抗活動なんてやっていると、眠っている時間が一番安心できない。最大効率で休息が取れるように心掛けている。
その点、電脳体は便利だ。元々が低血圧の身としては、慣れ親しんだこの作業も結構な重労働だから。
ここは『
仮想現実の世界では肉体的な制約はほとんどない。やろうと思えば休息なしで通す事も出来る。
けれど、意識だって覚醒状態で活動し続ければ、消耗するし効率も落ちてくる。
定期的な休眠は必須事項。戦う前に自分の性能を落とすなんて、間抜けにもほどがある。
「"ランサー"」
思考をクリアにして、私は自分に与えられた"兵器"の名を呼んだ。
実体化して現れる、青い革鎧姿の偉丈夫。
現代では見る機会のない古代の戦装束を纏う彼こそ、この戦争におけるパートナー。
――サーヴァント。
ムーンセルが観測した、歴史の中の偉人・英雄。
記録された彼等のデータを元に再現された存在が、彼等の正体。
その構造規模は桁違い。少なくとも人間じゃあ逆立ちしたって敵わない。
私たち聖杯戦争の
自分の持ち駒は、言うまでもなくとっても重要。
このサーヴァントの能力如何によって、取るべき戦術もがらりと変わる。
配られたカードはアタリかハズレか、それこそが勝敗を分けると言っても過言じゃない。
「よう、起きたか嬢ちゃん。今が朝かは知らんが、今日もいい面構えしてるぜ。
ああいいね、戦士の面だ。加えて美人とくれば、俺も俄然やる気になるってもんだ」
……なんだけど、このサーヴァントを手放しにアタリと喜ぶには、少々抵抗がある。
戦力面での不安はない。
パラメーターは高水準。武装も対人仕様と、1対1の決闘方式ではとても優秀。
アタリかハズレかで言うなら間違いなく大アタリ。そこに不満があるわけじゃない。
サーヴァントには固有の人格がある。
性質としては使い魔に近いが、ただ命令に絶対服従する人形ではないのだ。
サーヴァントの方にも戦うに足る目的がある。私たちに力を貸してくれるのも、つまりは利害の一致というわけ。
それならそれで構わない。こちらも運用の仕方を変えるだけで、ビジネスライクな関係なら望むところだ。
「だが見てくれは問題ねぇが、笑うことが少ないのはいただけねぇな。
アンタみたいなのは笑ってこそ女が引き立つってもんだ。わざわざ美点を潰していくなんざもったいねぇ」
「あなたね、私たちがこれからするのは殺し合いよ。そんなこと何の関係もないでしょう」
「そうか? 殺し合いだろうが何だろうが、やるからには楽しんだ方が得だと俺は思うがね。
嬢ちゃんも戦場は知ってんだろ。俺の頃からは随分と様変わりしたらしいが、根っこの部分は何の変わりもありゃしねぇ。
念願だった戦争に臨んでる嬢ちゃんも気持ちも分かるが、最初から気を張り詰めたってつまらんだけだぜ。
自然体でいいのさ、こういうのは。てめぇで望んだことなら、尚更笑い飛ばしてやるくらいでなけりゃあな」
ああ言えばこう返してくる、この感じ。
飄々とマイペースなこの英雄が、私はちょっと苦手だ。
目的も、戦えればそれでいいという変わり種。まあ悪く言えば戦闘狂って事なんだけど。
乱暴な風でもなし。こちらを見下す事もなく、茶目っ気のある態度で接してくる。
なんというか、調子を崩される。自分のペースで引っ張っていくのは慣れてるけど、誰かに引っ張られるのは慣れてないみたい、私って。
……まあ、悪い人じゃないのは確かなんでしょうけど。
「それより聖杯戦争の話よ。いよいよ本戦が始まるわ。
決戦は七日後。それまでの
この
「あいよ、マスター。短いと分かった付き合いだが、せいぜい上手くやっていこうや」
聖杯戦争の舞台になる月海原学園。
予選と同じ環境で、私たちマスターは来たる戦いの刻に備えた準備を行う。
対策完備のマイルーム。アイテムや礼装を支給する購買部と、支援も実に行き届いてる。
そしてもちろん、それらの施設は全参加者に開放されてる。どんな立場の人間も、強い弱いのレベル差にも関わらず、誰もが平等にサポートを受ける権利が保証されている。
やっぱりムーンセル、観測の神様は機械的に公平だ。
いいわ、望むところよ。それでこそ月で戦う意味がある。
地上でのハンデも、ここなら不利にならない。勝機は幾らでもあるわ。
「参加者全員が1つの校舎に集められてるわけじゃないのね。条件が対等なら、ここにいない参加者も別の月海原学園に集められてるってことかしら」
聖杯戦争の本戦に参加できるマスターは128名。
観察してみたけど、この校舎で見かけた数は明らかに足りていなかった。
あまり一ヶ所に集めすぎても制御が難しいと判断したのか。最後の一人を決める以上、いずれひとつに集められるんでしょうけど。
少し考えてみれば分かる。1回戦を終えれば、参加者の数は64人まで目減りすることになる。
次は32人、その次は16人と、校舎を分散する意味はどんどん薄くなるのだ。
生き残った勝者はいずれ対面する事になる。それは決して遠い先の事じゃない。
「学生の大半はNPCか。彼らが聖杯戦争の運営組ってわけね」
偽りの学生生活から解かれたマスターに代わって、学校の風景を彩っているのはNPCたちだ。
一見すればマスターたちのアバターとも変わらない。流石ムーンセルといったところだけど、よく観察してみれば見分けは簡単についた。
生気が薄い。感情がない。心を持った人間として、あるべき揺らぎが彼らにはない。
舞台装置であるNPCに、人間らしい
さて、ムーンセルの判断といえば、
生徒が1日の大半を授業で過ごす教室が、マイルーム。様々な本を参照するための図書室では、閲覧可能な情報すべてが資料になってる。
つまりは元々あった役割の延長だ。これを機械的と見るか、変な拘りだと受けとるかは、人それぞれでしょうけど。
ともあれ、これからここで戦っていく以上、機能はきちんと把握しておかなくちゃならない。
せっかくの支援なら最大限活用していかないとね。でないと勿体無いじゃない。
「……保健室、か」
そして勿論、治療方面の支援は何よりも重要だ。
校舎1階に配置された保健室。その用途が何であるかは考えるまでもない。
戸を開き、中へ入る。
部屋の様式は、イメージしていたものと大差ない。
予選ではお世話にならなかったその場所は、一般的な学校の保健室そのものだ。
「――何か御用で?」
部屋は無人じゃなかった。白衣を纏ったNPCが、視線の先に立っている。
流れる銀色の髪、金色の瞳が特徴的な、端的に言って綺麗な少女。
彼女もNPCだろう。感情の見えない眼差しは、まるで人形のような印象を受ける。
同性の私から見ても、その美貌は確かなもの。
そんな顔を見ていたら、ふと思いついた事があった。
「そうね。これといって用事はなかったけど……ちょっとそこ動かないでね?」
校舎の構造は大体把握したけど、キャラのチェックはまだ不十分だった。
観察での印象だけでなく、やはり直に触れて調べておくのも大事だろう。
ここは密室で彼女は1人。状況的にもちょうどいい。
「へえ、結構冷たいのね。でも体温がないわけじゃない。低温なのは個性ってこと?
やっぱり見かけだけじゃなく感触もリアルそのものね。ムーンセルの再現に不備はない、か。
NPCまでこんなに作り込むなんて、流石と褒めるべきなのかしらね」
ペタペタ、と。
柔らかな顔に、肉付きのある身体に、さらさらとした髪に触れる。
本当に触感は人間そのもの。女としてちょっと妬けた部分もあったのは内緒だ。
と、しばらく夢中になって調べていると、違和感に気付いた。
人形じみて無表情だった顔が、少し変化して見える。元々が無表情のせいか、些細で分かりづらいけど、これは――
「ん? おかしいわね。なんだか顔色が冷たいというか、冷淡な――」
「ポルカミゼーリア。はしたない雌豚ね」
唐突に、人形と思われたその口から、特級の猛毒が吐き出された。
「無遠慮に淑女の身体をまさぐるなんて、どんな育ちをしているのかしら?
発情した猫か何か? おまけに同性愛者なんて、不生産かつ不道徳極まるわね。
こんな人が優勝候補なんて世も末だわ。儚んで自害でもした方が、人類の品性のためではなくて?」
「どんだけ口が悪いの!? あなたNPCでしょ。なんだってそんな機能まで実装してるのよ!?」
「声を張り上げて、はしたないこと。躾のなってない野生系はこれだから。
何を勘違いしていたかは知りませんが、私は保健室一式の機能を任された上級AI。他のNPCと違い、感情ルーチンまでも人間のそれと遜色なく備えています。
パーソナルネームはカレン。以後お見知りおきを、遠坂凛」
実に慇懃無礼な一礼をかまして、AIはカレンと名乗った。
うわー、恥ずかしい。
人のカタチをした相手を触るとか、絵面的にどうなんだと思ったから、2人きりの状況を選んだわけで。
感情まで備えているなら、サーヴァントと同じく人間と大差ない。そんな相手にベタベタとあんな真似して、まるで私が痴女みたいじゃない。
「し、仕方ないでしょ! AIの上位互換がいるなんて、予選の段階じゃあ知らされてなかったし。これだけキャラの精密な仮想現実を見せられて、食指が動かないなんてハッカー失格じゃない。
大体、そっちも紛らわしいんじゃないの。
「予選では学校生活としての
人権・人格・魂と、私たちの権利はムーンセルより保障されています。NPCだと思って迂闊な真似をすれば、
無表情なのは、再現された元の人物がこうでしたので、如何ともし難く。ですがどうしてもと言うなら、笑顔のひとつでもお見せしましょう」
そう言って、犬か何かを見下すような嘲笑を見せやがったぞ、この女。
「考えを改めるわ。アンタみたいなのを医療担当にするなんて、ムーンセルもバグってるんじゃないの?」
「まあ、元々私は健康管理AIではないのですが。本来は処罰担当でして」
「適任じゃないの。なんで変わったのよ」
「担当の上級AIが機能不全を起こしていまして。急遽、私が後任を。
ですが機能に問題はありません。この役割を十全に務められるだけの能力は備わっています。マスターたちのケアは私にお任せを」
単なる代任ではなく、その役割を必ず果たすと意思を示して。
カレンというAIは、今度こそ本物の聖女のような笑顔を見せた。
「内蔵が飛び出てるくらいの重傷を負った、半死半生の重体人。
数多の病魔に全身を蝕まれた、危篤状態の重病人。
生活不能レベルで心の病を患った、前後不覚の精神障害者。
みんなみんな、この『
……もっとも、言ってる事は物騒極まりなかったが。
「そして、遠坂凛。痴女のように調査熱心なあなたのために、こちらから代案があります。
調査サンプルとしてうってつけの人材に、言峰綺礼というド腐れ外道ダニ神父がいます。監督役の上級AIですが、主に校舎の1階をゴキブリのように徘徊しているわね。
煮るなり焼くなりバラすなり、彼なら好きにしてもらって結構よ。罰則は見逃してあげるわ」
「それ、アンタが排除したいだけじゃないの。あと痴女って言うな」
まあ、言ってる事はともかくだ。
確かに上級AIというのはNPCとは違うらしい。彼らは固有の人格を有している。だってホラ、こんなキャラの濃い奴がモブなんてあり得ないでしょ。
ますますもって、この仮想現実が真に迫ってくる。人間まで完璧に再現できるというなら、それはもう新しい世界そのものだ。
分かっていたけど、ムーンセル。
太陽系に残された超古代の遺物は、私たちの想像を遥かに超越している。
万能の願望器というフレーズも、過大でも何でもない。およそ人間が認識できる事象で、月の聖杯に実現できない事は存在しないだろう。
たった一度の使用権で、世界の総てだってひっくり返せる。
聖杯戦争という苛烈な生存競争も、報酬の途方も無さと比較すれば納得だった。
「さて、遠坂凛。招いた覚えはありませんが、保健室の主として改めて歓待しましょう。
ここでは来訪したマスターに、支給品を恵んで差し上げるのが習わしでして。
回復効果もあるお弁当です。どうぞ受け取ってください」
やった!『激辛麻婆豆腐』を手に入れたぞ……って、ふざけんな!
「なによコレ!? 明らかに健康に悪そうな色してるじゃない!」
「あら失礼な。私が絶賛するオススメの品ですのに。
回復効果も本物ですよ。摂取した者の精神を高揚させて魔力が回復します。
それはもう、火が出るほどの勢いで」
とりあえず、ここに来て分かった事はひとつだけ。
このカレンという女が、碌でもない奴だって事は確実だ。
他人の不幸で飯が美味いという手合い。きっと元となった人物も、さぞや根性のひん曲がった奴だったのだろう。
ともかく、あまり関わり合わない方が良さそうだ。
これ以上有益なものもなさそうだし、吐かれる毒のダメージと割が合わない。
さっさと次へ行こう。そう思って踵を返す。
「――遠坂凛。我々ムーンセルはあなたたちを歓迎します。
その意志の限りに戦い、人間の強さの何たるかを示しなさい。
意思を持たない月に代わって、それがこの闘争の意義なのだから。
健闘を祈ります、月に集ったマスターたちよ。己の祈りを賭して、存分に殺し合いなさい」
最後に告げてきたのは、そんな言葉。
私はそれに何も答えないで、保健室を後にした。
「……どうしたのよ、ランサー。さっきから随分大人しいじゃない」
カレンとの会話にも全然口を挟まなかった。
私の知る彼の性分なら、相手が誰でも口数は多いものと思っていたけど。
「あー……嬢ちゃん。あの女には関わらない方がいいぞ」
現れたランサーは、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
もしかして、あのカレンの事を知っているのか。
「いや、生前に覚えがあるわけじゃないんだが……こう、悪寒がな。
あの女を見た瞬間、妙に身体がザワめくっつーか、前世からの因縁っつーか。
強さがどうとかじゃねえが、とにかくアレには関わるなって警戒心が疼くんだよ」
なんというか、意外。彼にもこういう一面があるなんて。
伝承では恐れ知らずの人なのに。それともやっぱり、女性に嵌められたのは堪えたのかしら。
「とにかくだ。あの女の世話になるような事はなるべく避けとけ。まずロクな目には合わないぜ」
それには私も同感だ。
遠坂凛にとっても、彼女はあまり得意な部類じゃない。出来る事なら一生縁が無ければと思うような手合いである。
それでも、ランサーのこの困った顔を見ていたら、ちょっとくらいなら関わりを持ってもいいかなと思ってしまうのだった。
月見腹学園内の施設の調査も、大体のところが完了した。
先の保健室のような、マスターたちが利用するための各種設備は勿論。
外部との接続に適した視聴覚室や、校舎内での機能を統括する生徒会室など。
各々の性能は大体掴めた。仮にもし何かのトラブルに見舞われても、これらの施設を活用できる自信がある。
分からなかったのは、教会にいたあの姉妹の事か。
彼女たちはムーンセルのAIではないらしい。何でも外から送り込んだ本人の
そんな真似が出来る時点で只者ではない。彼女たちにも目的はあるそうだが、それは聖杯戦争ではないらしい。
なんにせよ、カレンとは別の意味で関わりたくない人種である。
聖杯戦争とは無関係というのも本当のようだし、藪をつついて蛇を掴まないようにしよう。
時刻は昼過ぎ。セラフの仮想現実は、日の移り変わりも忠実に再現する。
午後からは
これを達成しなければ、戦わずして敗北というムーンセルからの課題。言うまでもなく重要だ。
こんな所で躓くつもりはないけど、侮って掛かって馬鹿をみるなんて、それこそ間抜けでしょ。
だから油断なんてしない。準備は既に万端だ。
階段を降りる。
そして1階へと降りた先で、私は"彼"と対面した。
「――凛か」
短く呟かれた声は、それでもこちらの耳にしっかりと届く。
たった一言。ほんの小さな呟きひとつで、私の歩みは止められてしまった。
――甘粕正彦。
理解していた。覚悟していたはずだった。
聖杯戦争に参加するって事はそういうことだって、ちゃんと分かっていたはずだった。
それでも、実感する。地上では同志として、何度も同じ場所で戦い抜いた、彼。
その甘粕が、今は明確な"敵"なのだという事実。それがどれだけの脅威なのか、実際に彼と対峙する事でどうしようもなく感じ取れてしまった。
「やあ。予選以来だな。お互い無事に突破できたようで何よりだ」
そして甘粕の方はといえば、こっちの緊張なんてどこ吹く風だ。
気負ってもいないし、迷ってもいない。甘粕は私を敵だと認識した上で、変わらない態度を貫いている。
「事前準備は順調なようだな。結構なことだ」
「環境の把握と不測の事態の想定。あなたが教えてくれたことでしょう、甘粕」
「ああ、なんの不満もない。教育が行き届いているようで俺も安心しているよ。
勇気と蛮勇は似て非なるものだ。その場限りの感情で奮起したとて、大した力になりはしない。
勝利とは、継続させた意志の果てにのみ訪れる。苦難を想定せず備えを怠るなど惰弱に過ぎん。
目的のために十全の努力を重ね、それでも尚届かぬ境地に手を届かせる一因こそ、勇気だろう」
口にする言葉も相変わらずだ。
甘粕は変わらず、人の可能性を信じてる。停滞した世界を、人間は変わる事ができるんだって。
甘粕の願いは、そんな可能性を促進させるものだ。そこには確かに道理があるし、全てを間違いだと否定する事は誰にもできないだろう。
――でも、それでも、私は……――!
「飽きもせず戯けた事をぬかしおる。確か今の言葉で"浪漫"とでも言うのじゃったか」
それは聞き覚えの無い声だった。
甘粕のすぐ近くから。その響きは少女のもので、けれど余りに不釣り合いな覇気を伴った声。
そして"彼女"は、甘粕の隣に実体化した。
「研鑽には等価の成果を。えてして人はそのように求めたがるが、そうはいかぬが世の常じゃ。
大志を抱き、威勢を誇った傑物も、運気を外せば没するも容易い。万軍を率いた大武将が、千の小将に滅ぼされるように」
「そうだ。だからこそ信念を懸ける意味がある。
可能性とは、閉じるべきものではない。どれだけ道が極小だろうと、踏み出した先に奇跡は必ずや存在する。強者も弱者も、その一点では対等だ。
光があるから人は前に進める。最初から強者の勝利が運命付けられているのなら、弱者の足掻きは全てが無駄だ。揺らぎがあるから変化があり、強者も弱者も等しく運命に誠実であれるだろう。
世界とは、不条理であるからこそ美しいと、俺は思う」
「ハハハッ、おまえにとっては無情も栄華も等しく
この気迫の濃さは、紛れもなく英霊のもの。
間違いない。彼女が、甘粕が召喚したサーヴァント――!
「人のマスターの前で堂々と姿を見せやがるとは、やってくれるじゃねえか。まさかここでおっ始めるつもりか?」
相手に触発されて、ランサーも実体を現す。
サーヴァントは"兵器"だ。実体を現すことは、弾丸を込めるのと同じ。
私たち人間は、次の瞬間には切り捨てられていてもおかしくない。それだけの格差が彼らとの間にはある。
同じサーヴァントであるランサー自身、それをよく分かっている。単に姿を見せただけと、気を緩めていいわけがなかった。
学校内での戦闘はルール違反。発覚すれば強制終了とペナルティを受けるだろう。
そんなリスクを犯してまで、まさか甘粕が不意打ちのような真似はしないと思うが、様々な意味で予想外な事をしてみせるのが彼という男だ。
警戒するに越した事はない。露骨に身構えこそしないが、意識だけは臨戦にもっていく。
「まあそう急くこともない、凛」
その矢先、こちらの戦意を制するように、穏やかな口調で甘粕がそう言った。
「聖杯戦争は1対1の決闘方式だ。俺も、おまえも、いま戦うべき相手は別にいる。
勝ち抜けばいずれ対峙する事になる。焦ることはない。お互いに、まだその時ではないはずだ」
……まあ、その通りではあるんだけど。
分かっていても、素直には受け入れ難い。いちいち気圧されていると感じてしまう。
自分でも反応が過敏だと思う。彼の前に立ってから冷静になりきれていなかった。
「……ふむ、そうだな」
こっちの態度を見て何を感じたのか、特に深刻な風でもなく悩んでみせて。
「いい時間だ。ちょうどいい、一緒に飯でもどうだ?」
なんでもなように、いきなりそんな提案を言ってのけた。
地下1階に配置された学校食堂。
マスターが利用できる施設として、解放された場所のひとつだ。
あらゆる事象を観測するムーンセルに、記録していない情報はない。
それはいかなる分野でも例外なく、料理だって当然のように網羅しているだろう。
食券販売機のメニュー欄だって、ただの形式。再現通りの学校風景を映し出しているに過ぎない。
霊子ハッカーたる
そういう性質の場所であるから、他のマスターたちの姿も見受けられる。
休憩目的の者、嗜好品として食事を楽しむ者、他のマスターらと談笑している者までいた。
その表情は脳天気そのもので、目の前の相手をいずれ殺すことになると、何も分かっていない。
遊び気分で、この聖杯戦争に参加してしまった人たち。開かれた門戸に制限はなくて、能力さえあればああいう人たちでも入り込めてしまう。
けれど、そこから引き返す道はない。ムーンセルの敷いたルールは絶対で、帰還の道は1人だけのもの。彼らもすぐにその事を思い知ることになる。
私は違う。戦いへの気概と覚悟がある。
目の前にいるのは蹴落とすべき敵。馴れ合うなんて心の贅肉。
そんな事は彼も理解してるはず。無益どころか重りにしかならないと分かってるはずだ。
それなのに――
「それで、いったい何だってこういう事になってるのよ!?」
この場の状況に、私は堪らずそう言い出していた。
学食の一角に席を囲んだ4人。
私と甘粕のマスター2人。そして互いのサーヴァントも同席している。
各々に注文まで取って、完全に食卓の体裁が出来上がってる。ほんと、なんだこれ。
「ムーンセルの仮想現実で、食事を取る意味合いは薄い。
より効率を高めた消耗の補填手段は無数にあり、能率で考えるならば必要もない。
味を感じて楽しむという嗜好品的な価値しかない。端的に言って無駄だろう」
和食風の定食を前に、甘粕。
「だが心とは、そう単純なものではない。
これほど真に迫った電脳世界。もはや生身とも違わぬこの感覚。
食とは生きる事の基本だ。歪めれば心身にそれと見えずとも負荷を与える。
人であるならば、糧とは食事という行為でこそ取るべきだ」
いや、そういう事じゃなくて。
言ってる事は正論だけど、問題はそこじゃない。
ここまで乗せられた私も私だが、殺し合う敵同士でこの状況は何なのだ。
「おう、なかなか分かってる奴じゃねえか。美味い飯に美味い酒と、やっぱ召喚されたからには楽しめるもんは楽しんどかねえとな」
ランサー、アンタもか。
彼の前には所狭しと置かれた肉料理や酒がどっさりと。
そこに遠慮しようなんて気持ちは欠片もない。この古代に生きた英雄は、現代料理の趣向を楽しむ気マンマンである。
というか昼間から、肉だの酒だの頼まないでよ。
「うむ。こうした目新しさに触れる事こそ未来に招来された醍醐味じゃ。
趣向・娯楽の多様化、是非にも及ばず。その方がわしも飽きずに済むというもの」
そして同じく満悦気味なのは、甘粕の方のサーヴァント。
サーヴァント2人は既にこの状況を受け入れてる。動じない辺りは流石時代を生き抜いた英霊といったところか。
ちなみに彼女が頼んだのは
「なんだよ、面白いことを言うじゃねえか。
英霊なんて普通、生前の価値観こそ絶対って奴ばかりかと思ってたぜ」
「是非もあるまい。如何な偉業も古きは古き、とうに過ぎ去ったものよ。
そも娯楽とは、退屈せぬために無為へ興じる事であろう。如何なる趣向も回数を重ねれば飽くものじゃ。ならば常に目新しさへと向けた方が驚嘆も薄れずに済むだろうて。
そういう貴様も、なかなか順応しているように見えるが?」
「俺はどんなもんだろうが楽しんだ方が得だと思ってるだけさ。どうせ俺たちにとっちゃあ、なにもかもが道楽みたいなもんなんだからよ」
「享楽の傾奇者か。それもまた是非も無し、か」
状況は意味不明だが、不明なのはそれだけじゃない。
そう、不明というならこのサーヴァントもそうだ。
確かに覇気はある。ランサーを初めとした英雄特有の迫力のようなものは感じてる。
あの甘粕に召喚されたサーヴァントだ。少なくとも並の英霊でないのは間違いない。
ただ、それにしても
勿論、サーヴァントを外見で判断しちゃいけないのは分かってる。だがそれを差し引いたとしても、目の前のサーヴァントは子供にしか見えないほど小柄だった。
顔立ちを見るに、多分アジアの日系人。なのに着ているのは、旧ドイツのものだと思われる黒色の軍服だ。流れる黒髪と整った容姿は、まるで日本人形を思わせるのに、身に纏った剣呑さは全くの正反対。
だからこそ、というべきなのか。旧日本の軍服を纏ってる甘粕と、彼女の姿は絵になるくらい合っているように見える。どんな性質を持った英霊か、それもまだ分からないけど、彼との相性は悪くなさそうだと印象を受けた。
……いや、実際の所、真名の方には当たりがついてる。
それは言動や気配といった話ではなく、もっと明確な、というか見たまんまなんだけど。
「……私もひとつ訊きたい事があるんだけど」
「ふむ、なんじゃ?」
「その頭にでかでかと載っけた
彼女が頭に被った軍帽。そこに燦然と輝く"木瓜紋"。
彼女の軍服はドイツの意匠だ。当然ながら元のデザインではなく、後からのアレンジになる。
クォーターだけど、私だって一応日本人だ。あの国で知名度最高の大英雄の名を知らないわけじゃない。
もしも本当に彼女が、"あの英雄"だとするなら。
なんというか、その、ちょっと頭が緩いのではなかろうかと。
「うつけ、と見えたか? 頭上にこのような代物を戴くなど」
そんなこちらの印象も意に介さず、当の本人はふてぶてしい態度のまま。
言葉から感じられる冷徹な知性は、彼女が自分の行動を正しいとしている証明だった。
「まあ誤ってはおらぬ。定石に乗っとるなら、こんなものはうつけの所業よな。
己の真名は塵も漏らさず秘匿し、決戦まで持っていく。戦における情報の重さは語るに及ばぬ。
なるほど、常道じゃ。なにも間違ってはおらんし勝算も上がるじゃろう。だが、ならばその算段とは、果たして決戦の勝敗を決めるほどに重大であるか?」
……そう問われたのなら、そこは流石に否だろう。
よほどの弱点が明らかになる場合を除けば、真名の開示イコール敗北とまでは繋がるまい。
どんな情報でも、それを元に対策を練らなければ意味はない。極端な話をすれば、多少の不利を物ともしない実力差があるなら、真名の秘匿など不要なのだ。
ただ彼女の言っているのは、それとも意味合いが違うように思える。
力の強大が云々ではなく、戦略としての比重はどうだという話だろう。
「未来の果てまで見通した深謀遠慮も、崩れる時にはつまらぬ運の巡りに崩れるもの。
そんなものよ。算段とはどこまでも算段でしかなく、未来とは見えても尚定まらぬ。拘ろうと拘るまいと、意気ある者にはやがて知れるが真名じゃ。
ならば頓着もすまい。それより生き様を縛られる方こそ疎ましい」
「生き様って、つまり意識の問題ってこと?」
「左様。英雄としての険しき人生、戦いの日々の中でその背には固有の信念、戦の真が刻まれる。
性格だと言えばそうなるが、伝説と称されるまでの一生により定まった性格じゃ。今さらそれを曲げられはせぬ。
己自身の真に従い、在るがままに振舞ってこそ英霊の本懐。それを曲げさせる事こそ最悪の下策なのじゃ」
戦術よりも生き方、それを曲げる事が何より弱さに繋がると彼女は言った。
これには私も同意見。生き方に意味を持たせて信念に変えるのは、強い人間の必須事項。
確かな信念を持たない人間は、何もかもが半端なのだ。やれる事なんてたかが知れてる。
手段を選ばない者こそ強いという意見もあるけど、それだって外道を信条としているだけで、ひとつの信念には変わりない。
サーヴァントは単なる武器じゃない。自分自身の心を持った存在だ。
彼らには彼らの信念が、生き方がある。それは戦術よりも前に、守らなければならない矜持の一線だ。そういうものを大切にするって考えは私にも分かる。
「詮無き定石に囚われ己の指し筋を狭めるなど好かん。ならばわしは晒してみよう。
我が輝ける紋所はここにあり。さあ皆の衆、大いに悩み惑い、対策にと奔放せい。
そうしてせいぜい、最善の一手をと決め打っていくがよかろうて」
その思考はまるで享楽的。とてもまとな考え方とは思えない。
定石無視の奇策。そう言えば聞こえはいいけど、している事が理屈に合わない。わざわざ有利を捨てて、自分から不利になっていっているようにしか見えなかった。
「さて娘。そなたはこのわしをどう見る? 頭の浮わついたうつけものと、そのように決め打つか?」
確かにそう思っても無理はないかもしれない。
行動は奇妙だし、容姿も子供のそれ。珍妙な格好といい、相当な変人であるのは間違いない。
言動も意味不明な部分が多く、まともなマスターなら惑わされまいと、無視を決め込んでいたかもしれない。
――でも、もしそれが彼女の狙いなんだとすれば。
「そうね。こうして話してみて、少しだけどあなたの事を理解したと思うわ」
「ほう?」
「放蕩、考えなしに見えても、裏には理屈の通った思惑がある。 思えば私、さっきからペースを乱されてばかりだし。晒してみせてる情報も、本当に重要な部分はきっちり隠してあるしね。
だってその家紋、あなた自身で付けて見せてるだけで、本当にあなたのものだって保証はどこにもないじゃない。もしその情報だけで決め打って、ブラフだったりしたら目も当てられないわ。
あなたが嘘をついてるようにも見えないけど、何でも真実の通りに話すほど素直でもないでしょう。そういう奇行で周りを欺くところ、"あの英雄"の伝承にもよくあったわよね」
これは勘だけど、あの"木瓜紋"はブラフじゃない。彼女と話していてそう感じた。
この子、王様だ。誰かの下で大人しくしてる性質じゃないし、むしろ先導して引っ張っていくタイプ。
全盛期で喚ばれるはずの英霊が、どうして子供の時分で現界したのかは分からないけど、見掛けとは裏腹な覇気や霊格は、大英雄のそれとして相応しかった。
それに、あの甘粕が、ここで当たりを外すというのも考えづらい。
身内贔屓かもしれないけど、それが最大の根拠だった。
「従来のセオリーとは正反対の奇抜な発想。それってつまり概念の革新でしょう。流石、既存概念を破壊して新規の価値観を築いていった"革新の王"ってとこかしら。
肝心の宝具の事とか、打てる手は大して多くはないけど。あなたがどんなタイプの人間なのか、どんなやり方を好んでくるのか、そこは掴めたかしらね」
具体的な能力が見えなくても、その人となりが見えれば対策は考えられる。
どんな武装だって、結局はそれを使うその人次第だ。もし能力に慢心するなら、そこを突けば活路は開ける。
やられたら必ずやり返す。手段が無ければ探して見つける。挫折、諦めなんて似合わない。それが私、遠坂凛の持ち味だ。
「ふはははははははははは!! なるほど、この娘がそうか!
確かに面白い。この勇進の気概、天運にも愛されておるじゃろうな。
ああ、わしも好みだぞ。やはり人間、命の使い様とはこうあるべきじゃ」
何やら私の態度は、この小さな王様のお気に召したらしい。
ご機嫌そうに、快活に笑ってみせてるその姿は、本当の子供みたいだった。
「ならば優れたそなたには褒美もくれてやろう。答え合わせじゃ。
言うところは正解に近く、決して的を外した考えではない。だが1つばかり言えるのは、考えが行き過ぎている部分があるということ。
貴様が言うた放蕩の裏に通った理。晒して見せたこの紋所の意味じゃが、あれはな――」
と、なかなかに勿体ぶった言い方をしてくる。
なので私も、少しは意識して聞き耳を立てていたのだけど。
「――ただの趣味じゃ」
そんな、人を舐めくさった答えを返してきた。
「うむ。やはり頭頂に我が紋を戴くのは気分がよい。この衣装の“でざいん”も悪くないが、やはりわし自身の趣きも加えねばのう。
わしは生来の傾奇者よ。頭は回るし策謀も駆使するが、そこに凝り固まるのもつまらん。好みは好みとして憚るつもりはない。晒してなお利を取るのがわしじゃ。
そして思案する事の深みに嵌る者とは、相手より晒された事柄には迂遠な考えを巡らすものよ。それがすぐ近くの真から遠ざかるものと気づかずにな。
そなたのような聡い者はとくに当て嵌る。それは正道には強いが奇手には足を掬われやすくなる。せいぜい心しておく事じゃ」
今、確信した。
こいつ、絶対性格が悪い。
基本、人をおちょくって楽しんでる手合いだ。
まともに悩んでいた自分が損した気分。
あれだけ偉そうに語り尽くして、要するに気分屋なんだって馬鹿みたいな答え、呆れるより先に惚れ惚れするわ、悪い意味で。
「だが面白いと感じたのも事実。正彦、そなたが自慢するのも分かる」
「ああ。実に小気味よい気概だろう。俺も自慢だよ」
会話に入ってきた声に、自然と私の意識もそちらを向く。
その声は、誇らしいものを語るように。
本来敵対する者には向けるはずのない言葉を、甘粕は気負いもなく口にした。
「おまえはそのままでいい、凛。それが一番、おまえの輝きを強くする。
彼女が言うところの、それこそおまえの戦の真だ。正々堂々、己を信じて疑わずに勝利へ向けて突き進む。
そんな性質に育ってくれたことは、俺としても誇らしいよ」
その言い方は、まるで子供の成長を祝福する親のようだ。
それも間違いではない。地上での彼は私の立場を保障する後見人で、生き抜くための様々な技能を教えてくれた師でもあるから。
物心ついた頃からわりと殺伐とした人生送ってる私にとって、実親よりも彼の方が育ての親みたいなものだ。
でも、だとしたらおかしいのだ。
ここで行われるのは聖杯戦争。この月で私と彼は敵同士。
いずれ殺し合う間柄なのに、こんな風に一緒に食事をしたり、誇らしく語ってみせたり。
気心を知り合う相手だからこそ、感情も抑えづらい。
流石にそろそろ、我慢も限界だった。
「どういうつもりなのよ、甘粕。
ここはもう地上じゃない。私たちは敵同士でしょう。
なのにこんな、和気藹々と楽しめる仲じゃないでしょう、今の私たちは!」
私たちは袂を分った。もう道を同じくする事はない。
その宣誓は既に地上で為されている。今さら話す事なんてなかったはずなのに。
それとも、まさか侮っているの? 私にはそんな覚悟はないって、そう高を括ってるのか。
「凛、おまえが言わんとする事も分かる。それはもっともな意見だろう。
だがな――」
そこまで言って、唐突に甘粕は言葉を切る。
視線を落として、眼下に置かれた食膳に意識を向けた。
箸を伸ばしかけた一品に手を向けると、その情報構造を解体した。
「これで三度目かの。今日のところは、のう正彦」
「ああ。今度は食事にか。流石に手管が豊富だよ」
分解され、消失していく
いったい何をやったのか、その意味も大凡は察していた。
「ねえ、甘粕。今のって……?」
「うむ、
何でもないことのように甘粕は言う。
仮にも命を狙われた直後だというのに、彼は平然としたままだ。
「こうした罠に、ここに来てから既に何度か襲われている。誰の仕業かは察しがつくがな」
「こんなの、ルール違反じゃない。対戦相手でもないのに、校舎内でなんて。
どうして運営側に報告しないのよ。こんな暗殺じみた手を使ってくるのなんて、あいつしか――」
「断定するには根拠が薄い。手段も確実なものではないしな。恐らくは厳罰対象として、尻尾を掴まれないギリギリのところで仕掛けているのだろう。
奴も、これで俺を仕留められるとは思っていないだろう。俺が奴に気を割いて、少しでも消耗して戦いに不利と働くよう仕向ける。狙いとしてはこんなところか。
ならば気に掛ける事もあるまい。俺には既に向き合うべき相手が他にいるのだからな」
どうということはない、これくらいは当然だという彼の姿は、私もよく知るものだ。
地上での甘粕は、常に命を狙われる立場だった。それこそ指名手配の私とも比べ物にならないくらいに。
その全てを、彼は打破して生き延びた。今と同じく当たり前のような態度で。
その姿を見て、改めて悟る。
和んでいるように見えても、甘粕はとっくに臨戦体勢。備えに不足なんてない。
きっと彼は、必要なら今すぐにでも戦える。あの軍刀を抜くのに躊躇なんてしない。
侮っているなんてとんでもない思い違いだ。
甘粕の心に奢りなんて無い。彼は誰に対しても公平な闘争心で向き合っている。
「話を戻そう。凛、俺は今後もおまえに対する姿勢を改めるつもりはない。俺の愛する強さを持つ子として、今と同じく友誼をもって接するつもりだ。
俺たちはいずれ殺し合う。だからこそ、かつてよりも深く互いを知ることが出来るだろう。打倒すべき宿敵として、その力を余さず知るために。
やはりこの聖杯戦争のシステムはよく出来てる。心を持たない機械が作ったものとは思えんほどにな」
決戦を前に設けられた、6日間の
この間に互いのマスターは相手の戦力を調べ、自らの力を鍛え上げる。
それは必然、自分が殺す相手の事を知ろうとすること。その感覚がどんなものかは、まだ私も実感していない。
「敵に対する殺意を絶やさんがために、知るまいと目を閉じ耳を塞ぐのは惰弱だよ。
それで得られるものなど殺す覚悟だけだ。そんなものはな、その気になれば殺せるという前提が無ければ役には立たん。所詮は受け身の決意で、挑む気概に欠けている。
おまえにそれは似合わない。言っただろう、挑み進む事がおまえにとっての真だと。凛、おまえには俺に挑み、超える覚悟こそ抱いてほしいのだ。いずれ対峙する好敵手としてな」
期待をかけるような言葉は、紛れもなく彼の本心だ。
ランサーのように殺し殺される事を是とする武人の生き方とも違う。
敵対し、確かな戦意を持ちながら、彼に敵意は無いのだ。根底にあるのは信頼で、応えてくれると信じるから、彼は力を振りかざす。
ほんとに、何も変わってない。
自分の
「俺はおまえに様々な事を教えた。おまえはそれに十全に応えた。
苦難に立ち向かうための奮起も、外道に抗するための覚悟も、おまえにはある。過酷な環境でも曲がらずに育ったおまえは、確かに強い。
だが悲しいかな、美点であると同時に欠点として、手を結んだ身内には甘くなる。どうしても非情になりきれない」
そして期待すると同時に、その評価には過大も過小もない。
人の輝きを愛し、それを讃えたいと願う彼だから、その裏にある弱さも理解する。
本人が認めたがらないような心理まで、甘粕は人の性質を見抜く事に長けていた。
「ただでさえ師である俺に苦手意識があるのだ、おまえは。その上気概でも劣っているとなれば、そんな結果は目に見えている。
認め尊んでいるからこそ、そうあっては欲しくないのさ。おまえには今より強く、その輝きを練磨してもらいたい。
狂気と呼んだ俺の意志を、見事に粉砕する強さを手にしてみせろ。そうして成長したおまえこそ、俺は相対してみたいのだ」
その言葉に、私は明確な答えを返すことが出来なかった。
やがて皆が食事を終える。
この奇妙な食事会にも終わりがやってくる。
席を立った甘粕を止める言葉なんて持たない。一礼して去っていく彼とそのサーヴァントを、私は黙って見送るしかなかった。
「……ランサー。どうして黙っていたのよ?」
「なんだよ、口を挟んでほしかったのか? 勝手知ったる仲なんだろ?」
相棒に訊ねてみれば、返ってきたのは彼らしい飄々とした声。
「あれが嬢ちゃんの壁ってわけか。どんな奴にもそういうのはいるもんだが、あれは確かに難物だな。
今の時代にもああいう芯の入った奴が残ってたのは驚くね。ありゃあ英雄になる器だぜ」
甘粕は強い。近くで見てきた私は、彼の強さを知っている。
私には出来ないと思えた事も、彼は苦もなく成し遂げた。その経験があるから、尚更なんだろう。
私は未だに、甘粕に勝てる自分をイメージ出来てない。戦えばきっと負けると、その想像が捨てきれない。
「だが、嬢ちゃんだって負けるつもりはねえんだろうが。
奴の言ってた事は大体その通りさ。そいつと直に向き合っていかなけりゃ壁は越えられねえ。
やっていくしかねえぜ、マスター。アンタだって覚悟の上だろう」
「……当たり前よ。そうでなかったら、私はここにいない」
それでも、私にはもう退く道はないんだ。
月から帰還できるのは1人だけ。生き残るには勝つしかない。
――聖杯戦争は、純然たる生存競争。
人としての強さを、生命としての力を、この闘争では求められる。
強者が勝つだけの戦いじゃない。互いの存在を衝突させて、その果てに勝利へと先駆ける。
理想を、信念を、意地を、人生の全てを懸けて私たちはぶつかる。それはきっと、能力の数値だけで決まるようなものじゃない。
そう私は意気込む。それが私自身に言い聞かせるためのものだと、半ば自覚しながら。
甘粕正彦。やはり彼という人物も、ここで記さなければならないだろう。
西欧財閥に対抗する総ての意志を1つにする、反抗意識の骨子そのものだ。
前項で述べたように、
掲げた大義も、目指す目的も各々で違う。思想と手段が一致しないから、連携するのも難しい。
現状、世界の財源6割と軍備9割は西欧財閥が占有している。勿論、それ以外が全て
そんな状態の中で孤立しながら戦っていれば、各個撃破されるのは明白だ。対抗するためには力を結集し、密度を高める必要がある。
それを実現していたのが彼、甘粕正彦だった。
甘粕は代えが効かない。彼が倒れれば
それは彼が強者だからではない。彼の強さは疑う余地なく本物だが、それだけなら他の誰かでも代用は出来る。
むしろ強さなんてものは、甘粕の本質からすれば外付けの装飾に過ぎない。重要なのはその内面、彼の持つ気質、あるいはその在り方だろうか。
彼しかいないのだ。人種も、習慣も、目的も異なり、
甘粕正彦という男には私欲がない。
金銭、名誉などの価値、それらを求める独占欲。または力を欲する野心。
手に入れるための能力は十全にあるはずなのに、当然あるべきそれらの感情が皆無なのだ。それこそ聖人と呼んでも差し支えないレベルで。
聞いた話によると、彼は自らの異質さをかなり早い時期から自覚していたという。
甘粕正彦は異端だ。内面の思想は元より、その能力までも突出している。出てる杭が叩けないほど上方に向かって。
集団意識の中で、そうした存在は癌となる。先頭に立つ指導者ならば良いのだろうけど、対等に役割を振り分けて機能する群れの一員としては害悪だ。
1人だけでやれる事が多すぎる。際立ちすぎた傑物は否応無しに注目を集め、好かれ悪しかれに関わらず周囲の感情を独占してしまう。
その末路にあるのは、素晴らしい才能と崇拝する人たちによる思想の浄化、あるいは危険な異端者か嫉妬の矛先として排斥される流れだ。
どちらにせよ集団が影響を受けることは避けられない。幼少という時分、どうしても集団の中に属する必要がある時期に、己の才覚で性格が歪んでしまう事例とはこういうわけ。
だから甘粕は当初、自分の才を徹底して秘していたらしい。
これは言うほど簡単じゃない。自分で自分に枷をはめるようなものだ。
ただ手を抜くのではなく、明らかに自分より劣る人たちに合わせて、さもそれが全力であるかのように振舞う。
集団の中に埋もれて、決して個人として傑出する事のないように。なまじ能力があるだけに、優等生を演じるよりも遥かに難しいだろう。
どんな人間だって他人に認められたい。
自らを誇りたいし、思うままに振る舞いたいと思うだろう。
自分の力をあえて制限し、それを自然体として日々を過ごす。誰に褒められるわけでもなく、何かを得られるわけでもない。
普通ならまず持続しない。強い目的がなければ、窮屈な上に無意味でしかない生き方を続けるなんて不可能だ。
もしも甘粕が名誉を望むような人間なら、こんな真似はしなかったし保たなかっただろう。
そうまでした甘粕の目的、それは"学び"だったという。
単なる技能や知識の話じゃない。それなら極論、野に下っても手段はある。
彼はあるがままの"人間"を知りたかった。強烈な個性に
そうして人間を、ひいては世界の有り様を学ぶために。それは1つの場所だけに留まらず、彼はあらゆる場所へ"学び"のために赴いた。
決して何事も、自分の中だけでは決めつけない。しかと目で見て耳で聞き、我が身で感じてその価値を見定めるために。
――甘粕は『平穏』を学んだ。
日々の中で見せる人々の穏やかさを彼は愛したが、尊重はしなかった。
――甘粕は『戦場』を学んだ。
駆り立てられる修羅場で命が無作為に失われる悲劇を彼は憎んだが、否定はしなかった。
――甘粕は『社会』を学んだ。
西欧財閥が実現させた"管理"。その有り様を彼は嘆いたが、構造の正当性は認めた。
他者と比べた甘粕の異質さとは、強さだけではない。
何より異質なのは、その精神性。あらゆるものを公平に扱い、かつぶれない普遍の価値観。
善にも悪にも傾倒しない、もはや超然とした公正さこそが、甘粕が常人を逸脱している要素だ。
たとえば、サバイバーズギルトという言葉がある。
大規模な災害、あるいは虐殺など、大多数が殺戮される事態の中で、奇跡的に生還を遂げた人。
そうした人は、自分だけが生き残った事を亡くなった人々に罪悪感を抱くようになり、その心理に多大な影響を受けるようになる。
"生き延びた自分はその分だけ人を助けなければならない"と、ある種の強迫観念に囚われてしまう場合もあるのだ。
そんな人間は、ある意味では強い。
サバイバーズギルトに限らず、何らかのコンプレックスをバネにして強い意志が発生する事は多々ある事だ。
自身を投げ打ってでも他人を救う事に固執したり、それとは逆に、病魔などの理由による強烈な劣等感からひたすら周囲を憎悪するなど。
そういった人間には確かに強い。強いが、それは偏ったものだ。その偏りがあるからこその強さでもある。
自身の抱く価値観に傾倒する一方で、彼等はそれ以外を受け入れられない。自分とは別の価値観を頑なに拒んでしまう。
その在り方は歪だ。強さと引き換えに、人間としてあるべき意志の自由を捨ててしまっている。
彼、甘粕正彦にそれはない。
過去の強烈な出来事からああなったのではなく、生のままに育ちながら彼はああなのだ。
詳しく聞いた事はないけれど、家庭環境に問題があったとも考えづらい。そうした偏りがなかったからこそ、甘粕はあの公正さを得られたのだと思う。
甘粕の存在は代えが効かないといったのは、そういうわけ。
そして同時に、その厳しさも。彼はあらゆる価値観に理解を示し認めるが、だからこそ裁定にも容赦がない。
その価値を損なう唾棄すべき悪性に対しては苛烈なまでの処罰を実行できる。たとえ友と呼んだ相手でも、それが無価値だと見抜いたなら躊躇なく罰を与えるのだ。
甘粕はこの世界を学んだ。
穏当に生きる人々を、逆境で発揮される強さを、社会が望む停滞を。
どれひとつとして目を逸らさず、その価値を余すことなく見定めた。
正直、本当に大したものだと思う。そのために彼はあらゆる不自由を耐え抜いて、人間という存在を学ぼうと努力を続けてきたのだ。
よほど自制心が強いのか。あるいは、彼が"つい"本気になってしまうほどの事態に、まだ直面した事がないだけかもしれないけど。
そうして学んだ果ての結論として、甘粕は世界に抗うことを決めた。
隠してきた才覚も、一度発揮してしまえば秘匿するのはもう不可能。甘粕正彦という強烈な個性は瞬く間に広がった。
どんな者であれ無視はできない。あらゆる意味で突出した甘粕正彦という人間は、人々の目を引き付けた。
「――英雄とは、人間の飛躍した感情の体現者だといってもいい」
そう述べたのは、知り合いである
その他、様々な二つ名を持つことで有名な人で、私も色々お世話になっている。
ただ当の本人が喜べるような二つ名は、残念ながらひとつも無かったのだが。
「そもそも時代の節目などで、ほぼ確実に出現する突出した傑物、いわゆる英雄と呼ばれる存在は、世界が生み出しているのだとする説がある。
ひとつは、世界そのものの本能として表れる存続意思。純粋に地球という星が崩壊を避けるための存在であるガイア側の抑止力。
もうひとつが、人類が総体として持つ集合的無意識下での意思、阿頼耶識が滅亡を避けようとして発現させる霊長側の抑止力だ。
神代の頃にはよく見られた、神性や概念加護を先天的に有した
たとえば、オルレアンの聖女ジャンヌ・ダルクはその最たる例だ。伝承によれば、彼女は神託を受けたという。彼女はこの声に従い、王太子シャルル7世の元に赴きフランスの窮状を逆転へと導いた。
何の教養も大義も持たないはずの片田舎の少女が、だ。知識不足は勿論、そこまでの行動力を発揮させる意志の原動力。彼女が受けた神託をただ幻聴だとみなすのは、むしろ暴論だと私は思う。
彼女は確かに神の、阿頼耶の声を聞いたのだろう。よほどそうしたものを受信する力に長けた人間だったのか。その声を彼女が信仰するところの主の啓示と捉えたのも、決して間違ったものではない。これは単純な捉え方の差異でしかないんだ。この辺りの普遍概念は昔から神学者たちの間で議論されてきたテーマのひとつでもある。
だがここで問題とするべきなのは、彼女を後押ししたのが霊長側の抑止力である点だ。彼女が立ち合ったフランスの窮状など、星全体から見れば危機でもなんでもないからな。
そして広義に見るなら、霊長側の抑止力というのも違うのだろう。国の栄華と崩壊は人類繁栄のプロセスだ。種が広がる事こそ生命の目的であるのなら、ひとつの国が滅びることも必要過程として容認される。
だから、彼女が受け取った声というのは、もっと狭義の中での無意識だったのではないかな。当時のフランスは敗戦に次ぐ敗戦で人心は疲弊しきっていたという。そうした人々の嘆きを、才能持つ少女が受信し後押しを受けて力に変えた。そもそも神を普遍的な人類の主人と捉えるなら、フランス一国だけに救世主を遣わすのは道理が合わないだろう。
そして純粋な英雄概念の体現者であるジャンヌ・ダルクは、その通りの結末を迎えた。抑止力とは方向の修復者であり、故に方向の修正が完了すればそれ以上には成りえない。役目を終えた聖女は、そのまま何事も成さずに滅びた」
教授が語ったのは、ある意味で最も理想的な英雄像だ。
救国のために力を振るい、結果を出した後は速やかに退場する。
おそらく本人は無心のままに。これほど大衆にとって都合のいい存在はいまい。
その理屈は私も分かる。分かるけど、個人的には気に入らなかった。
「だが彼女ほど顕著な例は逆に珍しいだろうな。たいていの場合、後押しされた人間はそんな自覚も束縛もなく、ただ自らの意識で行動する。
人間たちの祈りや憧憬、こうあってほしいという願いに後押しされて英雄は頭角を現す。別に支配されているわけじゃないが、その存在形成に影響があるのは間違いない。
これは彼等の価値を貶めるものじゃない。先天的な性質の特色として表れるというだけで、その後の彼等の行動はあくまで彼等自身の功績だからだ。
それは清廉潔白ばかりじゃない。人々が抱く憧憬のカタチは様々だ。だが共通して言えるのは、英雄とは強烈な個性であり、それは人間を魅了する要素を備えている点だ。
英雄という羨望対象を望む人々の無意識に後押しされ、彼等は台頭してみせる。戦乱期のような思想の変成が起こりやすい環境で、様々な立場から英雄が生まれるのはこのためだろうな。
これらは阿頼耶が自滅回避のために顕す抑止力ではない。そもそも傑物といえど一個人が世界全体を滅ぼす要因となる事自体が稀だ。大昔に大陸が海に沈んだのは抑止力のためだと言うが、1人を殺すためにいちいちそこまでやっては、それこそ星自身による自傷行為になってしまう。
滅亡の回避こそ抑止力であり、同時に人類意識が全会一致となる極端な事例でもある。それが唯一人の英雄個人を後押しするなど、それこそ超直接的な破滅が差し迫るような事態でも無い限り有り得んだろうさ」
教授V氏は、新世代の
彼の理論は効率重視でかつ実践的。おまけに旧代の魔術に関しても造詣が深い。
それら古き神秘をまとめ、新代の魔術式に置き換えて再現してみせた偉人である。
とりわけ他者の教導に優れ、その人の才能と取るべき手法を教えて能力を開花させる。彼に師事して一流にならなかった者はいないとさえ言われるほどだ。
「英霊とは、英雄が生涯を通した栄光を以て信仰を集め、死後に人々の想念により安定した存在だ。
多くの人々が信じる『力の器』として、英雄ほど適切な存在はいない。神ともなれば付いた"色"の規模が大きすぎるしな。だから抑止の守護者は英雄という存在に宿ってその力を行使したという。
ムーンセルでは、その英霊を再現して闘争を行うという。その情報を
……うん? どうしてこの理論で完成じゃないのかだって? ――ファック、黙ってろ!」
もっとも、肝心の本人にその理論を実践できる力量が無い事が、彼の眉間のしわを深める理由なのだけれど。
「もはや力の器としての英霊は現れない。枯渇した大地に、彼らを支える余力は既にないからだ。
だがそれでも尚、霊長の抑止力は存在する。我々が完全な自滅を渇望しない限り、これは決して消滅しない。故に現在は現し方を変えているのだと私は見ている。
たとえば西欧財閥の台頭なども、その一環だと考えているよ。彼等の管理支配がこれほど早期に成立したのも、人類が差し迫った滅びから逃れようとした結果であるとな。
それが停滞の道だとしても、だ。人の無意識はもはや、緩やかな衰退を望んでいるのかもしれない」
そう述べた教授に対し、私は何も答えなかった。
そうした面が事実であるのは既に承知してる。西欧財閥の社会が正当なものだと認めてはいるのだ。
だけど、関係ない。
たとえそれが人類の結論だからって、遠坂凛の結論は違う。
だったら私は願い下げだ。そんな民主的決定で納得なんてしてあげない。
私の意識はあくまで私のもの。遠坂凛という世界の支配者はどこまでも私なのだから、私自身で感じた正しさに従うんだ。
「話を戻そう。英雄という概念を説明する論理は多岐に渡るが、根本としてあるのは実に単純な要素だよ。
それは、大きいこと。その存在が大きいから、多くの人々の目につくし影響も広くなる。
彼等英雄は傑出した個性であり、故にそれは常人には届き得ない領域への羨望でもある。人は容易く手にしたものには執着せず、得難いと信じる価値にこそ重きを置くからな。
それは強さだったり、理想だったり、あるいは覇業の夢であったりな。そして見果てぬ夢であるからこそ、人々はその夢に自らも乗りたいと願う。
いわゆる覇道、他者を魅了し狂奔させる才能。カリスマと呼ばれる才覚がこれに該当するが、英雄であれば多かれ少なかれこの資質を備えている。たとえ本人にその気がなくとも、紡がれた英雄譚に人々は憧れを向ける。
そして向けられる憧憬があるなら、その逆も然りだ。傑出した在り方は、それ故に肯定と同じく否定もまた集める。万人総てに通用する正義はなく、物事の正しさとは時代や土地の習慣でも変化する。属性としての善悪はあっても、普遍の概念としての善性悪性は有り得ない」
傑出した個性、肥大した感情の体現者こそ英雄だと、教授は言った。
その論法は、甘粕にもそのまま当てはまる。彼もまた常人には理解できない規模で、その感情を肥大させた
甘粕正彦は
誰もが彼の存在に依存している。その強さに勝利を信じ、その公正に裁定を委ねてる。
窮状の中では否定の意思も起こりにくい。利害は様々でも、唯一の可能性は甘粕以外にいないのだから。
やはり彼は"英雄"なのだろう。人々の勇気を愛し、その価値を尊ぶ善性の勇者だ。
そう、彼は正義の人物だ。そして正義とは、人々を慈しむばかりではない。
「……私はな、常々思っている。君たち天才は卑怯だと。
私が思い描いているばかりの場所に、君たちはあっさりと到達する。ただ生まれがそうだと、才覚があったというだけの理由で」
言葉短い教授の告白は、彼の積年の妄執でもあったのだろう。
それを告げる彼の表情は、切実で凄愴なその殺意は、
「だがあの男、甘粕正彦に対してだけは、そう思った事は一度としてない。
生来がどうだという問題じゃない。アレが高みに至った源泉は、余りにも単純すぎて信じ難い。
ただ、ひたすらな修練を。今に出来る事を先延ばしせず、先を見据えて備えを蓄える。そんな当たり前のような事を、想像を絶するような密度で繰り返して、あの男は望んだ場所に到達できる。
正直に言おう。
常日頃から、甘粕はそれを口にしていた。
生得的な素質など、始点の違いに過ぎない。人の真価とはそんなところに有りはしない、と。
そんな自身の持論を証明するように、甘粕はどんな難事でも自ら果たしてみせた。
努力を重ねて、勇気を持って挑む。とても身近で、当たり前の、眩しいくらい正しいやり方で。
それで何とかなるなら苦労はないと、そんな言い訳こそ戯言だと言い放つみたいに。
だから、吐き出された教授の声には、根底まで刻まれた畏怖の念があった。
生来の素養を覆す経験の密度。
より深い研鑽で、より手際良い運用で、才能の格差を取り払う。
努力が才能を凌駕する。それは物語でも好まれる、尊いと感じられる善の趣向だ。
教授自身、才能の壁を研鑽で覆そうとする努力の人だ。その考え方には共感もしてるだろう。
そう、理解できるからこそ恐ろしい。
彼に甘粕の姿は眩しすぎる。焼かれそうで、目を背けたくなるほどに。
だって、甘粕は彼の理想の体現者だ。努力と勇気で、才能を上回る。
人の意志が生み出す力はそれを可能にする。かつて願ったものの完成形で、究極形。
ある意味で近しいものであるからこそ、その常軌を逸した熱量が信じられない。
自分の夢の姿とはこれなのかと、こうしなければいけなかったのかと、思わずにはいられないのだ。
「……いや、これも所詮は錯覚なのだろうがな。
私の感じるこの主観も、結局は多種多様な事実の一部に過ぎず、他の人間には違ったものが映るんだろう。
甘粕正彦は英傑で、それに魅せられる者も数多くいる。それは事実でしかない。
ただ、私にとっての受け取るべき光とは、甘粕正彦ではなかった。それだけの事なんだ」
咥えた葉巻の煙を吐き出しながら、諦観を滲ませて教授は甘粕の評をそう締め括った。
正義、努力、勇気。およそ否定される謂れのない善性の感情。
けれどそれも行き過ぎれば、尊敬よりも畏れが出る。正常だって異常になるのだ。
人は正しいばかりではいられない。どれだけ真っ当な人間でも魔が差す事は必ずある。清濁併せ持つのが、ある意味で人間としての正常だ。
教授の言うことは人間として正常な意見だろう。なまじ身近だからこそ、甘粕の強度に畏怖を覚えてしまう。
だけど、言ったようにそれは主観のひとつ。
甘粕正彦という人物の受け取り方は、それだけじゃない。
「
かつて、甘粕に訊いてみた事がある。
私がどうしても理解し切れずにいた
「無駄を厭わず、無駄に挑み、無駄を得る。
矛盾を受け入れ、死さえ諦観し、それでも無益ではないと信じて歩む。
彼らの生き様を、俺は否定せん。その諦観を越えた先にこそ、本物の到達点があると信じている」
かつての奇跡を忘れられず、真理と呼べる解答を求め、見果てぬ道を辿る人たち。
目に見えた成果など無粋。俗世の発展と袂を分ち、隠者として己の密度を高めていく姿こそ本道だと。
世界からの魔力の枯渇は、むしろ彼等の存在を純化した。
つまらない俗欲に囚われ、超人である事を快楽とした人種は只人に戻り、真に魔術師と呼べる者が残されたと。
真理という無理難題に挑み続ける彼等もまた、人間が持つ輝きのひとつだと甘粕は言った。
「それに、な。彼等の語る魔道への理念が、俺は嫌いではないのだよ」
現代の
決して万能の力ではない。定められた魔術基盤に等価交換の原則と、制約は数多くある。それでも魔術を成立させる最大の骨子とは、できる事を確信する
ならば魔術とは、人の意志が現実以上を引き起こす奇跡だと言い換えられ――
「――人の空想できる全てが起こり得る魔法現象、と。なんとも夢があって素敵じゃないか」
そう語った甘粕の表情は、まるで子供のように澄み切ったものだった。
結局のところ、甘粕正彦の真実とはそれなのだろう。
甘粕は強い。壮絶な努力を繰り返して、鋼の意志は不屈そのものだ。
だけどそれは、決して無理をしてるんじゃない。どこまでも自然体、素のままの自分としてああしている。
その信念と自負に、仕方がないなんて余計はない。純な勇気と純な正義、後ろ向きな不純は微塵もないのだ。
よってその熱量は留まる事を知らない。だって負担なんて無いのだから、下がるどころか上がる一方。
絶望に挑み、屈しないというのは少し違う。そもそも彼は絶望に挑んでみせるのが好きなのだ。
事実、肉体的に消耗した事はあったけど、彼が精神的に摩耗した場面なんて見たことがない。
自分自身という世界の支配者、その理想形。甘粕正彦とは、私にとってそういう人物だ。
それは異常な事だけど、別に間違った事じゃない。
重ねた努力の成果として、等価に見合った強度の獲得。それはとても正しくて美しい。
甘粕正彦は馬鹿だ。能力云々など関係ない。
子供のような純粋さで、望んだ事に全力で取り組むだけ。常軌を逸したと見える密度も、彼にとっては当たり前のもの。
誰もが思ってもやらない事を、彼だけがやっている。自分が一番大好きな事に、馬鹿正直に突っ走ってるから強いのだ。
そんな甘粕のことを、私はどうしても嫌いになれないのだ。
凛視点からの話。
このSSの世界観を説明する回でもあります。
凛と甘粕の関係は、原作の言峰との関係に似ています。
後見人で技の師であり、意識的に苦手な相手でもある。
性質が似ているので、言峰のように嫌ってはいませんが。
なのでそんなに仲は悪くありません。今後も多少の関わりがあったりなかったり。
保健室の主変更は、そんなに深い意味はありません。
桜のままだとあまり話が広がりそうになかったので、せっかくだからということで。
伏線になるだとか、その辺りは未定です。
あと最後に、EXTRA凛がおるならEXTRAⅡ世がおってもええやん(笑)