戦闘は終わった。造物主の消滅と共に召喚魔が次々と消滅して完全にいなくなったからだ。激しく飛び交っていた火線や爆発していた火球は既になく、新オスティア周辺は静寂を取り戻していた。
失われたものは多かったが、それでも生き残った者達がいた。
突如として召喚魔の群れが消滅したことで戦闘は終結して、戦士達は息をつき、力を抜き、武器を持つ者は凭れて放心していた。
様々な事柄が、あまりにも目まぐるしく動いた。危ういところで生き延びたのを喜ぶには事態が大きすぎて時間が必要だった。
戦場一帯に一種独特の倦怠感が漂っていた。張り詰めていた緊張の糸はぶつりと切れ、今までの疲れが一気に覆いかぶさった。誰もが疲労の色を隠せない。
亡くした者を悼み、生き残った我が身を顧み、沈痛と高揚が交互に訪れる。沈思し、様々な想いを脳裏に浮かべる。
同じようにヘラス帝国軍旗艦の艦橋内の誰もが言葉に言い表せない深い感情に身を沈めていた。自分達がまだ生きているのを不思議がっているような表情で、墓守り人の宮殿を見ていた。
長い、長い沈黙。多くの者達の血と汗と涙と魂のよって世界は守られた。言葉などあるはずはない。
「――――終わった、かのう…………」
それは短い祭りが終わったような、緊張感の緩んだ声だった。
ポツリと呟いたテオドラの言葉に、クルー達が反応して喜びの声を上げた。遂に全てが終わった。その事実が、彼らに底知れぬ安堵感を与えていた。対照的にテオドラは多くの戦士達の冥福を祈るかのように瞳を閉じる。
『損害は小さくないが何とか終わったな』
「おお、生きておったか、リカード」
常に開きっぱなしになっていた通信回線の向こうにいたメガロメセンブリア元老院議員であるリカードに今更気づいたように反応する。
『失ったものは多いし、今後のことを考えると頭が痛いけど、戦いが終わったことは喜ばしいことだわ』
「うむ、決して無事にとは言える状況ではないが一旦はな」
リカードとは反対側の画面に映るアリアドネ―総長のセラスが言いながら小さく息を吐いた。喜悦を露にするブリッジクルーとは違い、セラスはこの後の考えているのか戦いに勝利した喜びは薄く憂鬱そうですらあった。
人が死ぬのには、軍人といえど慣れないものだ。ヘラス帝国の第三皇女であるテオドラも数多の死を見てきたが、やはり慣れるものではない
『多くの英霊達が行ってしまった。また俺は行きそびれちまった』
本質的に議員である前に戦士であるリカードとしては、これほどの戦場で死ねるのは本望と言うものだろう。
「なにを言っているのじゃ。元老院議員ならまだまだやるべきことが山ほどあるだろう。勝手に死なれたら残された周りがどれほどの迷惑を蒙るか考えた方がよいぞ」
『言ってくれる』
物哀しげに戦場を見つめていたリカードは、テオドラの婉曲な引き止めに仕方なさげにしながらも僅かに口の端を持ち上げた。
「全てが終わったわけではない。連合と帝国、他にも色々な者達が一つに纏まれたのは確かに良きことではあるが、これで過去の遺恨が全て消えたというわけではない。本当に大変なのはこれからじゃ」
何年もすれ違いによって積み重なった負の感情は、この戦いで全て晴らされるほど生易しいものではない。これまでの間に彼らはあまりにも多くを失いすぎた。
この傷が癒える日は永遠に来ないかもしれない。この戦いを切っ掛けにしても魔法世界が本当の意味で纏まる日は果てしなく遠い。それまでに何度も争いは起きるだろう。本当に新しい時代を創るには、まだまだ大きな犠牲が必要になる。それどころか完全に纏まる日など、この世界が終わってもあり得ないかもしれない。
世界の存亡を賭けた一事だって、終わってしまえばそれは確定した事実に過ぎない。あくまで歴史の一ページとして記されるだけだ。
移ろっていき、揺蕩っていき、変わっていくのが世界の在り様だ。
『ですが、戦いは終わったのです。これからのことは私達の肩に掛かっていますが今だけは喜んでもバチは当たらないでしょう』
『そうだな。今だけは皆と喜びを分かち合うとしよう』
「折角の日だからのう」
それでも、目に見えない歴史とか呼ばれるだろう流れの中に大きな区切りが付けられた気がした。今日は多くの人の中で忘れられない一日になる。
テオドラは二人の言葉に長く張り詰めていた緊張の糸を緩めて深い息を漏らす。目を閉じて席に身を沈めて、大き過ぎる歓声に艦が揺れているように感じながら身を任せる。
「生き残ったのならば責務を果たさねばならん。だとしても、今だけは勝利の美酒に酔うとしよう」
例えこれが後のより大きな闘いに向けての僅かな休息に過ぎなくても彼らは生き残ったのだ。生きなければならない。これほどの命が失われてもなお、だからこそ生き続けなければならない。命に目的も役目もない。費やすべきが命ではない。命こそが目的であり、義務なのだから。
「艦長、艦と艦隊全ての被害状況の把握を」
「はい」
近くにいた艦長はほっとした顔で、各部と連絡を取り始める。その他のクルー達も気を取り直し、各員の作業に戻っていく。
クルー達が互いの肩を叩き交わしているのを見た後、戦いが終わった実感を確かめるように再び窓外に目をやる。
『後はあそこだけか』
『決着はついたようですが動きは見えないわね』
彼らの視線が向けられているのは、どこよりも激しい戦闘が繰り広げられていた墓守り人の宮殿。今はあまりにも静か過ぎて現実世界から遊離してしまったような感覚があった。
様々な国籍、人種、種族の戦士達が近くあった艦艇の甲板上に降り立ち、激戦の余韻から抜けられず呆然とした目で、戦闘が終結した驚きをもって、ある者は感動を、ある者は悲哀を、肉眼では何が起こっているか分からないが各々の感情をもって戦闘の光が収まった墓守り人の宮殿を見つめていた。
生き残った先に何があるのか、まだ誰も知らない。
手足が異様に重い。感覚も殆どなく、全身の神経を引き抜かれたかのように、体中がぶよぶよとした肉の塊になっている。一点、口端から垂れて落ちていく血の味が現実の質感を肉体に伝えていたが、手を動かして拭う気力は湧かなかった。
手足が重い。まるで重油の底から引き上げられたかの如く、全身が重い疲労を訴えている。限界だった。
体はもうどうしようもない状態だった。それが曲がりなりにも生きているのは強い意志が支えているからだろうが、それにも限度があるだろう。自分が呼吸をしているかさえ判らないし、意識も段々と細くなっていっている。
呼吸に、ごぼごぼといううがいの音が混じっている。呼吸器官である肺が苦しい。酸素が足りないというよりも、もっと根本的な何かが足りない気がした。そのせいで喉が引き攣れて、胸の内部から潰れてしまう様な気がした。
「お……あぁ……」
もどかしくて、どぷっと生理的嫌悪を催す音と共に喉に溜まった血を吐き出した。少しだけ呼吸が楽になった気がする。
全身が鉛のように重くなってはいたが、痛みは不思議なほど感じなかった。それが単にダメージが大きすぎて痛覚が麻痺しているだけなのか、痛みを感じる器官が死んでいるのかは判然としない。
出血と共に体温が失われてゆくのが、実感として分かる。
「あ…………ぁ…………はぁ…………」
声が掠れる。口がまともに動かない。全身が震えるように寒い。思考が纏まらない。これが死。免れようのない絶対の終焉。生命の終着駅。何者をも逃れられない絶対の運命にアスカも呑み込まれようとしていた。
自分の身体が、ゆるゆると分解されていく。細胞一つずつ、分子一つずつ、魂の至るまで残酷なほどゆっくりと剥離されていく。
アスカの体内に残されていたなけなしの生命力は、既に枯渇しかかっている。そっと息を吸い、吐くだけのことでも、じわじわと身体が消耗していくのが、はっきりと実感できる。一つの呼吸ごとに生気がごっそり持っていかれるのを感じた。体の芯が何かを失っていくような悪寒。魂ごと霧散していくかのような震え。
それは強いて言えば、脳髄の中に手を突っ込まれるような感じであった。なのに痛みはなく、少しずつ意識が拡散し、自我が希薄になって認識力が低下する。抵抗できない。喉は雁字搦めで、体は金縛り。指先なんてとっくの昔に感覚がない。
恐るべきことに不快ですらなかった。苦痛すらもない。自分が誰で、何をしているのかさえあやふやになってくる。ともすれば身体を全部を失っても後悔しないかもしれない緩慢で穏やかな死。ただ、自分そのものが消えていくような漠然とした喪失感だけがあった。まさに死の淵を行き来している気分だった。
「ぁ…………あ」
しかし、まだだ。奇跡的にアスカの意識は残っていた。何時意識が途切れるかも定かではない。
この意識が止まれば、自分が死ぬ。死が両腕を広げて待っていることに、アスカは気づいていた。もう心の多くが麻痺していたので、恐怖や痛みを感じることも無かったのは幸いだった。
磨耗しつくして傷ついた心と体は、今すぐに永遠の眠りを欲している。確定した抗いようのない認識と共に、脳裏に去来するのは今までの辛くとも楽しいと思える日々。
(生きたい)
こんな時なのに明日が欲しいと思った。生きたいと願った。
ずっとそんなものは諦めていたというのに、今となっては望む術は無い。どの道、遠からず自分の命数は尽きる。
不意に恐ろしくなった。これまで死を恐れたことなど無かったというのに、何故今になってこんなに怖いのだろう。彼は生まれたばかりの子供のように、初めて生の世界に触れて震えた。
今度こそ、帰る場所はどこにもない。もうここが終着点なのだ。
(――――それでも)
それでもやってやろうと思う。最後の最後まで。どうせすぐに尽きる命。自棄ではない。ただ、やるべきだから。尽きる命だろうが、どこまでも成すべきことを為そう。最後の死の瞬間まで。
命と引き換えに世界を救えるのなら十分に釣りが返って来る。懸念は唯一つ。これが最後と考えても、どれぐらい意識と肉体が保つのか。
始まりはこれからだ。旅立つ時はこれから。
「アスカ!?」
明日菜が傷ついたアスカが動くことを案じて叫んだ。
反対に明日菜を見たアスカの眼には、ただ喜びだけがあった。これからアスカが成すことが成功すれば、魔法世界の呪縛から解き放たれる。その事実を、アスカは深く噛み締めた。そして、気がついた時には体が自然と動いていた。
世界最強の男とは思えぬほどに震える両手を伸ばし、近づいてきていた明日菜の体を抱き締めた、強く、二度と離さぬように。
別離を経て、ようやくこうして触れ合うことが出来た。二度と離さないように、手放なさないように二人は互いを抱きしめた。いなかった間の歳月を埋めるように、温かなアスカの手が優しく少女の後ろ髪を撫でる。
懐かしい温もりに、明日菜はポロポロと大粒の涙を零した。
言いたいこと、言わなくてはならない言葉が沢山あった。伝えなければならない想いも山程あるのに、何も言葉にならない。沸き上がる想いは、どれも言葉にしてもし尽くせない程あって。
だから、口から出た言葉は端的にして簡潔。
「…………良かった」
ようやく取り戻した温もりを確かめながら言葉が漏れる。
確かに、造物主の言うようにこの世界は冷たく、厳しく、どうしようもないほど悪意が満ちている。しかし、同時にこの腕の中のように救いもあった。自らの意志で手を伸ばせば、歯を食い縛って前へ進み続ければ、足掻いて足掻いた先に必ず光は存在する。その一筋の光すらも奪い去るほど、世界は絶望的ではなかった。
「……アスカ……」
他の誰よりも辛く苦しい戦いを超えてまで自分を求めてくれたアスカに、抱き締められた明日菜は吐きかけた言葉を呑み込んで応えるようにアスカの背中に手を回した。
「終わったな」
「うん」
もう誤魔化しようもなかった。呼吸が苦しくなるほど胸が締め付けられても浮かんでくる涙を堪えることが出来なかった。
「やることは分かってるな?」
「…………うん。でも、本当にいいの?」
「是非なんかない。俺は俺の願った為の世界に戦った、周りを巻き込んで。その責任は取るべきだ」
行動には必ず責任が伴う。アスカがしたことは全世界を巻き込んでの行動だった。その為の責任を取るにはアスカの人生と命を賭けたって到底足りるものではない。
等価交換では決してない。それでも世界を存続させる為ならば帳尻が少しは合うのではないだろうか。
「感動の再会をしている最中に水を差すようで申し訳ないのだが」
「墓守り人か」
唐突に現れた墓守り人が抱き合うアスカと明日菜に声をかける。
「儀式の核である黄昏の姫巫女が目覚めた以上、完全なる世界発動はありえない」
明日菜が目覚めてしまっては完全なる世界への移行を行うことは出来ない。となれば、今の世界を続けていく為には犠牲が必要となる。
「とはいえ、儀式を止めても元の木阿弥。崩壊は止まらない」
「止めるさ。それが造物主を下した俺達の義務だ」
プランは構築されている。多分に希望を含むが、それは残された者達が果たす義務である。去り行く者に出来ることは彼らを信じることだけ。
「造物主の鍵は?」
「ここに」
今のアスカはもう一人では立つことすら出来ない。明日菜が支えながら墓守り人が差し出した造物主の鍵を受け取る。
「儀式を始める前に今までに完全なる世界に送られた人たちを元に戻さないとね」
「我、黄昏の姫巫女。創造主の娘、始祖アマテルが末裔アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアの名に於いて命ずる。彼の世界へいる人達をこの世界へ」
造物主の鍵は造物主に次いで使用権限の高い明日菜の命令を忠実に実行する。
「ここに戻すわけにもいかないし、元の場所ってのも危ないからこの下でいっか」
足元の地面に複雑怪奇な魔法陣を浮かび上がらせながら呼び戻す人達の出現場所に悩むもあっさりと結論を出す。
腕を軽く振るだけで魔法陣の輝きが増し、その光景を最も間近で見ていたアスカは荘厳な光景に笑みを漏らす。
光のヴェールの向こうで輝きが一際増した。
「うん、これで大丈夫。みんなも、ラカンさんも戻って来たわよ」
「そっか」
フェイト・アーウェンルンクスに完全なる世界送りにされたジャック・ラカンも戻って来れたのなら一目会いたかったが、流石にそれは高望みというものだろうとアスカは消えていく光を見送る。
「アスカ!」
徐々に頭に靄がかかって、自分がどういう状況にあるのか分からなくなってきた中で目覚めたネギが名を呼ぶ。
声が聞こえた方に顔を向けると魔力の消耗から回復しておらず、立ち上がれない様子のネギが徐々に拡散して薄れていく光越しに座っていた。
「ああ、起きたのか」
穏やかなアスカの声にネギは目を瞬いた。視界を埋めるほどの眩い花弁を想起させる光は徐々に色を失い、虚空に薄れつつあった。
まるで夢を見ているような気分だった。そして実際、その通りなのかもしれなかった。何故なら、ネギの目の前で双子の弟であるアスカ・スプリングフィールドが光の向こうに立っていたからだ。
その距離は決して離れていないのに、どこまでも遠い。
「改めてこうやって向かい合うと、なんかこう、むず痒いな」
光の向こうで声の主がはにかむように笑い、低い言葉が空気を響かせてネギに届く。
都合のいい幻想だ。この場に在る光が自分の願望に応え、こんな夢を見せているのかもしれなかった。それでも、声の相手が誰か分かっていてさえ、ネギは訊かずにはいられなかった。
「アスカ……? アスカなのか?」
「他に誰に見えんだよ」
光の向こうで朧に霞むアスカが微笑んだまま首を縦に振る。
「なんだよ、その有り様は。今にも死にそうな面をしてるなんてアスカらしくない」
アスカは何も言わず、ただ終わりを悟ったかのように微笑むだけ。
「そんな……! そんなのってないよ。これからじゃないか。これからみんなで幸せになればいいじゃないか!」
込み上げる感情が喉を塞ぎ、先の言葉を掻き消した。泣いている場合ではない。自分の気持ちを全てを伝えなければならない。思えば思うほど目が滲み、子供染みた言葉ばかりが紡ぎ出されてきて、ネギは自分の馬鹿さ加減に絶望した。
「後は任せるよ」
もう、道の終点がすぐそこに迫っているアスカに言えるとしたらそんな言葉しかない。
「…………冗談じゃない。認めない。そんな頼みなんて聞いてやらないからな」
自分がしてきたこと、なくしてしまったものの重さがネギの胸を潰した。
いくら悔いても時間は逆戻りせず、失くしたものも二度と戻ってこない。消えてなくなりたい衝動に駆られ、今はそれさえも出来ない自分に気づかされて、ネギは悄然と目を伏せていった。
「勝手に決めて、一人で突っ走って、何様のつもりなんだよ!」
まるで神にでもなったしまったような物言いを続けるアスカをネギは認めることは出来なかった。
これが認められるものか。誰も彼もを置き去りにしていくような身勝手な奴が、英雄などと、自分の双子の弟であるはずがない。何時だって何事も自分以上にそつなくこなしてきたアスカがいなくなるなど許容できるはずがない。
「救世主にでもなったつもりかよ………! 少しは周りを見ろ。誰もそんな結末を求めていないんだぞ!」
馬鹿にするな、と心の奥底から溢れ出る思いを言葉に変え、声の限りに叫んだ。
同じ胎から生まれ、誰よりも同じ時間を過ごしていた半身。アスカ・スプリングフィールドという人間一人が、これからいなくなろうとしている。
自分が嫉妬するほどに多くの人たちが無事を待ちわびているにも係わらず、世俗を振り切ったような顔で、世界救済なんてことをやり遂げ、この世の外に脚を踏み出しつつある。
「こんな不甲斐ない男でごめん」
アスカにとって悔いの残る終わりではない。望みは果たせたし、取り合えず今の自分に出来ること、やるべきことをキチンと終わらせた達成感がある。それに今のネギならナギから受け継いだ想いを託せる。
「謝るな! 頼むから謝らないでくれ」
「皆のことを、これからのことを頼むよ、兄貴」
「っ!? こんな時に限って……」
「最後だからな。バトンタッチにするにしたって、ちゃんとしないとな」
弟だと、自分を兄だと思うならそんなことを言わないでくれ。もっと話したいことがある。やっとこれからだったのに、いなくなる人間に謝ってほしくない。
「どうしてこんな時だけ弟になるんだよ!」
滲む視界にその姿を捉え、小さな子供のように手を眼に当てて泣きじゃくることしかネギには出来ない。
言葉にならない涙が、後から後から頬を濡らした。涙に滲む視界で去り行く光を見ていた。もう決して追いつくことの出来ない、それはあまりにも美しい幻像だった。
「明日菜……」
「明日菜さん」
そのネギの叫びに目を覚ました木乃香と刹那が、アスカと同じように微笑む明日菜の姿に胸が押し潰されそうな悲しみを感じていた。
「ありがとう、二人とも。みんなにも一杯一杯伝えたいことがあったのに、いざとなったら言葉が出てこないや」
目の端に薄らと涙を浮かべながらも、アスカと同じように終わりを見定めてしまった者特有の頑迷さが浮かんでいた。
明日菜の眼差しを見返して、木乃香は呆然としていた。
信じられないといった目で、周りを見渡したが誰もが二人を止める言葉を持たず、ただ見守ることしか出来ていなかった。
彼らはアスカの戦いを見ている。命を賭け、存在を賭け、尊厳を賭けて戦ったアスカを止めることなどできはしない。出来るだけの言葉を持っていない。
よろめいた視線が再度、明日菜は己に据えられて木乃香の発せられなかった批判に全面的に正しいと内心に認めた。
「嫌や。行かんといて」
他に止めようがないから、か細い声で呟く。
鳥の羽に撫でられるようなか弱さが、今ばかりはどんなに強力な一撃よりも響いた。叶うならば抱きしめたくなる衝動を、明日菜もアスカは必死に堪えた。
「心配いらないわよ。直ぐに終わらせるから」
「嘘や!」
木乃香は胸が掻き毟られるような思いに、叫んだ。
「さっきなんでか感じたんや。二人ともこのまま魔法世界の礎になる気なんやろ!」
出し抜けに発せられた悲鳴のような甲高い声が、沈黙を吹き散らして過ぎた。
「そんなことしなくたってええやないか。魔法世界が滅んでも、明日菜がいないなんて嫌や!!」
「そういうわけにもいかないのよ、木乃香」
木乃香の涙交じりの叫びに、しかし明日菜はゆるりと首を横に振る。
「みんなが戦ってくれたのは、世界を続けていく為なのよ。嘘でも滅ぶなんて言っちゃ駄目」
「でも……」
「どっちの道、世界を続けていくには私が支えなくちゃいけないのよ。これは黄昏の姫巫女である私にしか出来ない事なの」
それが正しいことだとは理解しつつも、決して短くはない時を共に過ごした親友がいなくなる現実を受け入れられない。
「世界を背負った責任を俺も取らなくちゃいけねぇ。それが造物主に勝った俺の義務でもあるから」
ハーメルンの笛吹きのように、人々を戦場へと導いた責任を取るべきだ。それが英雄として立ったアスカの役目であるが故に。
掠れた声で呟くと、木乃香は涙で濡れた顔を上げる。
「選べるわけないに決まってるやんかっ!! 魔法世界と二人の命…………どっちかを選べやなんて。だって、どっちも重すぎて両方とも失いたくなんかない。どうして片方を選ばないといけないん? どうして両方を選んだらいけないんや!」
木乃香は感情を剥き出しにして叫んだ。
ここまで駄々っ子のように泣きじゃくる木乃香を見たのは明日菜ですら初めてのことだった。
木乃香は零れる涙を拭おうともせず、刹那が顔を歪ませて想いを口にする。
「これから一緒に笑って泣いて怒って楽しんで…………したいこと、一杯あったはずでしょう。どうして、何もしないまま、さよならなんて言うんですか。私は、私達はこんなことのために、戦って来たんじゃありませんっ!!」
「刹那さん……」
「嫌や……嫌や!! 選びたくなんかないっ!! このままずっと一緒にいるのがいいんや。ずっと……」
「そんなこと出来ないって、分かってるだろ?」
諌めようとした木乃香を、アスカが優しく制止した。
「分からんよっ!!」
木乃香は首を大きく振りながら、もうこれ以上は聞きたくないと言わんばかりに両手で耳を塞ぐ。
そんな彼女を、刹那は悲痛な眼で見つめた。様々な感情を取り除いた個人的な思いとしては同じだった。これからも、ずっと二人と楽しい明日を紡いでいけたらどんなに幸せか。だけど……。
「ふざけたこと言ってんじゃないわよ!!!」
「アーニャ……」
イマイチ事情についていけないアーニャにだって、二人が勝手な行動を取ろうとしているのは分かった。
「自己犠牲で救われたって、私達にはアンタ達を犠牲にしたって罪悪感と悲しみが残るのよ。ずっと恨まれたくなければ、他の方法を探しなさいよ!」
自己犠牲で人は救えない。誰かを救うためには、自分自身が生き残ることを忘れてはならないのだ。アーニャがずっと昔からアスカに言い続けてきたことは結局、この時になっても直っていない。そんな当たり前のことすら今のアスカには守れない。
「今すぐ滅びるわけじゃないんだから、みんなで考えましょう。命を捨てるなんて馬鹿よ。行かないで。もう人がいなくなるのは沢山。生きていれば………生きてさえいれば、どうにだってなるんだから…………」
次第に湿り気を帯びていった声を途切れさせ、アーニャは俯いたきり動かなくなった。近くにいた楓はやり場のない視線をアーニャから逃がした。
恐らくアーニャの言いようが一番正しい。
奇妙な成り行きに浮かされるようにしてここまで来ただけのことで、この結末が当初からの目的だったわけではない。既に結果は出た。
誰もが納得できる結末に至るのならそうするべきだと、そんなことは分かっている。なのに、何故止めろという一声が出せないのかと煩悶する。
「もっと話がしたい。話したいことが一杯あるのよ」
「…………そうだな」
「酷すぎるよ、こんなの。戦って、傷ついて、滅茶苦茶じゃないの………! こんな結末で報われるの! 冗談じゃないわ!!」
搾り出した声が嗚咽に呑み込まれ、吐き出しきれない感情が雫になって目から吹き零れた。
「俺の為に泣いてくれる人がいるだけで嬉しい。それだけで俺は満足だ」
「だって、このままじゃ!」
その言葉に、彼女はゆっくりと涙に濡れた顔を上げる。
酷い喪失感。身体の半分が持って行かれたような、ふわふわと現実味のない感覚。逃れようのない現実に意識ではなく存在そのものが拒みたがっているみたいだった。半身が千切れてしまうような痛み。心のどこかで否定したがって泣いている自分がいるのが分かる。
「みんな命を賭けて戦ってくれた。俺達はそれに報いたいんだよ」
答えを得ない自問が胸中で渦を巻き、動かない口を無為に引き結んだアーニャはアスカの声を聞いた。
「あ……や……」
否定の声があまりに優しかったから、そんな優しいアスカの声を、アーニャは一度も聞いた事がなかった。だから、怖かった。本当に最後なのだと言っている様で認めることが出来なかった。
ぞっ、と恐ろしいものがアーニャの背筋を駆け上がった。恐怖と悲しみに喘ぎながら首を振った。
お願いだから、それ以上なにも言わないでと。
「他にこれ以上の方法はない。何百年も試行錯誤してきて、ようやく現れたチャンスらしいんだ」
「や、やだ……」
止められないことを悟り、アーニャは擦れた声でアスカを呼ぶ。
淡く笑ってアスカは空を見上げる。ただ、それだけのことがどうしてこんなにも悲しく見えるのか。
生きた人間というよりも、精緻な造りの仏像とでも対峙しているかのような、形容し難い違和感を人に与えるアルカイックスマイル。ごく微かな、神韻縹渺たる霧の薄さにも似た微笑。人間を超越して、止めてしまったことで生きている人間特有の生々しさのない菩薩のような笑み。
いるのに、いない―――――唯一、形になった言葉に冷たい不安が、じわじわと喪失の予感に呑まれてゆく。
アーニャは瞬きもしないで、アスカから目を逸らさないでいた。視線の先に捉えていないと、次の瞬間にはいなくなってしまいそうな気がした。
「俺は直に死ぬ。その結末を変えることは出来ない」
両の拳をしっかり握り合わせて、高畑とクルトはアスカを見ていた。少年少女達の気持ちも分かっていたし、止めなければいけないとも思っているのに、言うべき言葉を見つけられずに立ち尽くしている。そんなもどかしさを湛えた二人の瞳は、それが自分に出来る唯一のことだと信じているかのようだった。
「そんなことは……」
「無理なんだよ。全部を出し切った。どんな方法でも俺の結末は変わらない。なら、残った命を世界の為に使いたいって思ってはいけないか」
穏やかな声と共にアスカが僅かに頭を揺らす。視界が霞んでいるのか目がはっきりと見えていないのだろう何度も視線を巡らした。
「守らせてくれ、みんなを。もう俺には出来ることはないんだ」
ようやくアーニャを見出したかの如く瞬き、柔らかく微笑んだ。アスカの微笑みに、悲壮な感じはなかった。優しい。けれど、これから起こる全てを受け入れたような殉教者の瞳をしていた。
「俺が勝てたのは、強くなれたのは、みんながいてくれたからだ」
ここに立つ自分の足を支えてくれた皆がいたから、自身の意思でここにいるから、この「強さ」はアスカ一人だけで出来ていない。
「俺の気持ちを言葉にしたら………ありがとうと言う言葉しか思いつかないんだ」
まるで感情を持たないように淡々とした、だけどどこか物悲しい言葉に聞いた全ての人が胸を突かれた。その視線が見るのは遠く、過去の郷愁か、自身が守った魔法世界の景色か。
最後に何を話せばいいのか迷っていたはずが、ひとまず口火を切ってみれば、後は次から次へと言葉が沸いて出た。
「こんな馬鹿な男に世界を救わせて下さい」
どこか人間臭さが感じられない聖人のような笑みを見て、アーニャは息を飲んだ。
聞いたアーニャはなにかを言い返そうとして果たせず、濡れた目を唯一の抗弁にしてアスカを見つめ続けた。
「うっ……ううっ……うえぇえんっ……!!」
アーニャの頬を一筋の涙が伝うと同時に口から小さな嗚咽が漏れる。まるでそれが合図だったかのように、噛み締めていた唇の隙間から嗚咽が漏れ出し、小さな肩を震わせて只管に嗚咽を繰り返す。
これが彼女にとって残酷な役割であることは分かっている。けれどアスカには、最初からこれ以外の選択肢は用意されていなかったのだ。
「馬鹿よ。アンタ達は世界的な大馬鹿よ!」
抑え切れない感情を吐露するような言葉。身体を折り曲げて泣きじゃくるアーニャの姿が見えるようだった。
哀しみに暮れる彼女を抱きしめてあげたかったけれど、その意に反してアスカの体は全く動こうとしなかった。まるで見えない泥に全身が浸かってしまったかのように、一歩として動くことが出来なかった。
終わりの時間が刻一刻と迫ってきている。
眼の前で泣いているアーニャがいる。ほんの数歩だけ歩けば、彼女に触れられるのにそれすらも出来ない。伝えたいことは山程あるのに、偽りの無い気持ちで言葉をかけてあげたくても歯噛みすることにすら集中を様子する状態ではままならない。
傷つき、擦り切れ、それでも膝を屈しようとしない、止めようとしない二人の姿を目にしてぎゅっと瞼を閉じ、再び開けたエヴァンジェリンは最後まで付き合うべく腹に力を込めた。
(……………)
アスカの姿を目に焼き付けた。例えこの先、どんな終わりが待っていようと忘れぬように、永遠に、この心に焼き付ける。多分、死ぬまで止めなかったことを後悔することを悟りながら止める事が出来なかった。
「また、また会えるんやろ?」
「…………」
戻ってくるとも、帰ってくるとも二人は言わなかった。言えるはずもない。
アスカはまるで切れかけた蛍光灯のように明滅して、命の刻限が間近に迫って死神の鎌が首元に掛けられている状況で、例え世界の機構から外れたとしても無事に帰るなんて不可能なことは言えなかった。
明日菜だって代理人格である以上は人格を保っていられる保証はない。
全身無事なところを探す方が難しい血だらけの姿で、溢れる血で口元を汚したアスカの表情に苦痛などなかった。全て悟って受け入れている明日菜の目が「さよなら」を言っているのが分かった。反射的に木乃香は、いや、いや、と首を横に振った。小さな子供のように。
「ごめんね」
そんな木乃香に、明日菜は精一杯の笑顔を作って言った。自分はもう戻れないけど、安心してくれと。違う。木乃香が望んでいるのはそんなことではない。
泣き出しそうに震える瞳。華奢な首筋と、折れそうに細い肩。刹那はただ彼女の肩を抱きしめながら何も言えなかった。
そんな彼らにひっそりと立っていた墓守り人が口を出す。
「もう、時間がないぞ」
ずっと彼女は見てきた、世界の営みを。
時に愚かで、御しがたく、時に愛おしく、純朴な者達。彼女はずっと見守ってきた。愛おしい自分の子供達を。長い時間の中で繰り返される争いや殺戮………………彼女は終わることのない悲しみを見た。
想いを貫くために、人は不幸を繰り返す。何も学ばない。愚かな生き物。
もしかしたら、人は生きる価値のない滅ぶべき存在なのかもしれない。
それでもない、彼女は自らの肉体を持っていた時に感じた想いを密やかに信じ続けた。愛おしさ。人を愛する気持ち。彼女は人を愛していた。だから、もう一度だけ、人の想いを信じようと決めた。人の手に、人の運命を委ねるために。
「そうだな」
「そうね」
そうして二人は頷き、力を束ね合わせる。
アスカの両腕から発せられる光は、見る者の網膜を焼いてまともに正視できないほどだ。
明日菜のハマノツルギから発せられる光は、神々しいまでの光は温かく母親の胎内にでもいるかのような温もりと慈愛に満ちていた。
爆発的に増大する光量は、何時しか恒星の輝きにも匹敵するほどになり、次の瞬間に光が弾けた。
光輝の乱舞が収束した時、二人は全ての戒めから解き放たれていた。
「ぁ」
蛹が蝶に生まれ変わるように、眩いばかりに光り輝く一対の翼が二人を包み込む。光を放つ対の翼はまるで一枚の絵画のようで息を呑むほどに美しい。
柔らかな光に照らされて、爆発的に拡大する。翼は眩く溢れ出し、墓守り人の宮殿上空の空全面を覆っていった。その光景は、まるで天空に広がる天使の衣のように見え、或いは空を埋め尽くす光のようにも見え、また或いは宝石をふんだんに含んだ雲海のようにも見えた。
「ぁぁぁ…………」
無重力の宇宙飛行士のように二人の体がふわりと宙に浮いた。
世界へ示す確固たる希望の形。絶望も傷跡も振り切るように光の翼が羽ばたく。
アーニャの手が、木乃香の手が、空中の二人の方へと伸ばされる。しかし、どれだけ伸ばしても手は届かない、掴めない。自分も飛び上がって追えばいいのに出来ない。全てはもう終わった後で、何もかもが手遅れなのだと悟ってしまったから。
もう二人は数メートルも浮上している。どれだけ手を伸ばしても絶対に届かない距離。それが今の自分達と二人を隔てるものだった。
「――――ッ!」
誰かがは叫んだ。ありったけの声で叫んだ。何と叫んだのかは、叫んだ本人ですらも分からなかっただろう。
「行っちゃ駄目!!」
アーニャが掴んで引き寄せようとした指が空を掴む。
犠牲になって消えようとしている辛さを振り払うアスカを、少しでもこの世界に繋ぎ止めたくても、もうその願いさえ届かなかった。
「ありがとう」
自身の気持ちが声に現われて張っているのはアスカには直ぐに分かった。
再会は二度と許されない。温もりがここにあるのに離れていくことがこんなにも悲しい。
「お願い、お願いしますっ…………!!!」
二人を見上げて、嗚咽交じりに木乃香が泣きじゃくっていた。
最後の別れを、ただ悲痛なだけのものにはしたくない。しかし、感情がついていかない。ついてくわけが、ない。
「誰か、助けてっ!!」
木乃香の体が揺れて、喉が震えて涙混じりの叫びが世界に伝わっていく。
既に存在しない希望を求め続ける虚しい声が誰に届くことなく垂れ流される。刹那の肩に、二人から剥がれた光の欠片が落ち、あっという間に消えていく。神様、神様、と祈りを捧げる木乃香に光が舞い降りる光景は幻想的だった。
「誰でもいいから誰か!! お願いや、誰か二人を助けて!!」
その絶叫は真実の祈り。悪魔が自らの命を引き換えにすれば助かるのだと言われれば躊躇いもせず差し出す。なのに、応える者はいない。
「神様、助けてっ………!」
救ってくれる神様はいないと知りつつも懇願することしか出来ぬ女の瞳が潤み、震えていた。
捨てられた子犬のようだと、アスカは思った。誰よりも笑顔が似合う彼女に、そんな表情をさせてしまっている自分が恨めしくてならなかったが、同時にそれだけ想ってくれている事が嬉しくもある。
「二人を助けて下さい! なにも、なにも悪くないんです!」
なにも悪くないなんてことはない。アスカは世界を扇動し、明日菜は黄昏の姫巫女として多くの人の命を奪った。
「二人は、なにもっ、なにも――――――!」
アスカが明日菜のためだけに変えてしまう世界。きっと多くの人が大切な人を奪われ、嘆き、悲しみ、憎むだろう。全ての想いが行く果ては、こんな世界にしたアスカ。そんなアスカが少なくとも消え去る今、これだけの人に惜しまれるなら罪人としては上等な部類だろう。
「待って! 行かないで!」
一杯に伸ばされた手を握り、最後に温もりを伝えた二人の光が遠ざかる。薄れゆく温もりを抱き、必死に零れ落ちていく欠片を繋ぎ止めようとする木乃香が上身を折り曲げるも、掴んだ端から解けて消えていく。
止められない現実を前に背中から号泣を溢れさせる。
二人を現世へと縛り付けるありとあらゆる鎖は断ち切られていた。もう彼らを制限するものは何もなかった。迷いはなかった。この時の為に生まれてきたのだと信じて、どこまでも己の求める道を突き進む。
「これで良い」
アスカにもう恐怖はない。疎外感や嫉妬もない。祈りだけがある胸を抱きしめる。魔法世界を作った当初の造物主も、こんな気持ちだったのだろうか? 内奥から湧き出した想いを肯定するように、虚空に浮かぶ光が無数に煌めかせ始めた。
世界の為に犠牲になるつもりはない。お涙頂戴の美化された自殺願望ではなく、ただやるべき行動の先にある種の終わりが待ち構えていて、それでも前へ進んだのだという結果へ。
贖罪ではない。信じたい、可能性を。みんなが生き延びて、二千六百年の絶望が祈りに変わる瞬間を見届けてもらいたい。
「巻き込んでしまってすまない」
深く期するところのあるアスカは、明日菜に思いの丈を伝えた。
「私こそ、ごめんね」
儚くとも暖かみのある想いのやり取りがあった。断固たる決意の確認。
二人の声のない会話は、断じて絶望に押し流された諦観の遺言ではなく、これから行う最後の大仕事に向けた決意の確認であり、互いへの感謝の気持ちの表れであった。
「――――――」
突然、痛みに近い情動が胸を突き上げる。改めて現実を直視した時、胸中に去来したのは細波だった。それはやがて大きなうねりと化し、叩きつけるような勢いでアスカへと襲い掛かっていく。
世界から切り離されたような孤独感が全身を凍てつかせた。
いなくなることを受け入れているはずだった。だがしかし、心の何処かで甘受していない部分があったのだろう。その時を迎えるにあたり、心の奥底で燻っていた生への想いが噴出してきたのかもしれない。
「――――生きたいな」
「きっと百年後になれば目が覚めることが出来るわよ」
だがそれは叶いそうもない。
出来なかったこと、やり残したことが他にも沢山ある。もう会えない。話すことも、触れあうことも出来ない。もっとみんなと触れ合っていれば良かった。この目に焼き付けておくのだった。
アスカがしたことはただの自己満足という名のエゴ。その果てに皆の為に成ればと考えはしても答えは全て自分に帰ってくる。
彼が守りたかったものは、まるで宝箱のよう。子供がビー玉や金属バッチや、とにかくキラキラ光るものを詰め込んだような、少なくとも他の誰にも価値がなくてもアスカだけにとっては特別な輝き。だから、誰に言われようとも結果に満足している。
結局、アスカも造物主と同じで我が侭を通しただけだ
これで全てが変わるとは思っていない。元の木阿弥は歴史上の定番だ。ドラマスティックな手段に訴えれば、思わぬしっぺ返しを食うことだってある。世界は、一人の人が望むようには動かない。自分はそうならないと信じていたはずが、何時しか先達と同じ袋小路に突き当たり、せざるを得ないと諦観の涙に暮れる。そんな日が、人である限りは誰の身にも訪れる。
だから、可能性がいる。暗い道に微かな光を灯し、希望の所在を告げる可能性が。灯し続ける必要はない。一瞬でも強く輝いて見せればいい。色褪せ、忘れられた頃には、きっと誰かがまた新しい光を灯してくれる。
「それでもやらないと」
歯を食い縛り、助けてと叫びたい衝動を辛うじて押さえ込んだアスカは、体に力を込め直して周りを煌めく光に意識を沈めた。
体から溢れる燐光が激しさを増し、飽和したかの如く弾けたのは、その瞬間だった。体から迸る白い燐光が、新たに噴き出した柔らかな光に包まれ、ゆったりと溶け込んでゆく。
沢山の色が溢れた。緑色にも、黄色にも、青色にも赤色にも見える沢山、沢山の光が虹にも似たプリズムを周囲に押し広げていった。あらゆる色が互いを打ち消し合うことなく混ざり合い、輝いた。虹色に輝く光の粒が、淡く激しく世界に舞う。
光が世界を照らしたのは一瞬であったのかもしれない。それとも始めてそれは人類が知覚し得た始まりも終わりもない、永遠の領域であったかもしれない。それはかつて人が神とも仏とも呼んだ光であるのかもしれなかった。
「――――明日菜」
「アスカ……」
最後にと振り向いたアスカが、声に反応して顔を上げた明日菜の唇に不意打ちで自身の唇を重ねた。
血色を失ってカサカサなのに暖かい唇だった。自分の心に相手が直接触れたような、そんな気がした。
言葉は無かった。アスカはそっと手を伸ばし、弱い力で相手の体を抱きしめる。命をかけて守りたいと願った人の体を抱いた愛しさが切なさを伴って胸を打つ。
明日菜は一瞬躊躇ったが、おずおずとアスカの背に手を回す。強く強く掻き抱く。その腕は小さく震えていた。目を閉じてのキスは、視界を塞いでいる分、本来なら相手の存在を感じさせるのに何と遠いことか。だけど、温かい口付けに驚きながらも彼女は目を閉じた。
その瞬間、世界から一切の音が失われ、そして優しい光が広がった。汚れのない―――――純白の光が。
どのくらいの時が流れたのだろう。五秒か、或いは一分か、口付けを交わす二人には分からなかった。 世界を救うほどの大きな想いとは裏腹に、僅か数秒の呆気ない口付けだった。アスカが唇を離すと同時に蝶の燐分にも似た光は全てが幻のように爆ぜて出し抜けに消えた。
明日菜の長い髪から、ふわりと甘い香りがした。まだ幼さの残る頬の肌の感触を手の平に確かめた。夢でもいい、と思う。末期にこんな幸せな夢を見れるなら人生も満更捨てたものではない。もう、別れの時はすぐそこで、だからアスカは最期の言葉を紡ぐ為に口を開いた。
「明日菜」
大切に、大切に、愛しむように名前を口にする。
「愛している」
理由は無かった。思うのは、ただそのことだけだった。消えかけた胸に切なく温かいものが満ちていた。
消えてしまうと、悲しませると解っていても、どうしても伝えたい想い言葉がある。今までの過去とこれからの未来の想いの全てをこの言葉に籠めて、成すべきことを成し遂げた者にのみ許された無上の笑顔で告げる。
救世主というよりも、ごく普通の少年のような笑み。
「私も、愛してる」
今、一時だけ彼女はただの女に戻れた。
神楽坂明日菜は、黄昏の姫御子でも、アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアでも、完全魔法無効化能力者でもない。全ての荷物を下ろした、ただ命がけで愛された少女だ。
ただ魂の発露のように晴れやかで、何もかもから解き放たれたように優しく笑って、この上もない愛を明日菜が返した直後、二人を中心にして再び光が弾けた。
『『ありがとう』』
全ての人たちへの気持ちが口から零れ落ちた。心の中には自分がどこにもいなくなることに恐怖を覚えなかった。世界全てへの感謝の気持ちだけが心を満たしていた。
「明日菜ぁああああああああ――――――――――ッ!!!!」
誰も立つ者のない墓守り人の宮殿で、木乃香が泣き叫びながら明日菜を呼び続けていた。それは二度と取り戻せないものを失った一個の人間の、整理しようのない感情の迸りだった。
「アスカぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ―――――――――――ッ!!!!!」
体を包む気配が消え、虚空に溶け込んだアスカを追い求めて声の限りに名を呼ぶネギの沈痛な叫び声が鳴り響いた。が、それもアスカに届くことはなかっただろう。
光が溢れる。光は一瞬、より強く輝くと、魔法世界一面に広がる。それは、始まりの光。失われた命を悼むように、傷ついた命を癒すように。世界のこれからを幸福を願うように光が降り注ぐ。
そして、世界は光に満たされた。
戦闘が終結したのか新オスティア空域は奇妙な程の静けさを保っていた。他の者も戦闘が終わったと感じても、喜ぶことも安堵することも出来なかった。敵がいなくなっただけで終わりへの実感が湧かなかったからだ。
その時、人々は見た。
光に包まれた。いや、光そのものから成るその存在は、背中に光の羽を広げた。
「天使……」
不思議と眩しくない輝きを見つめて長谷川千雨が言う。その光景を目にしたら誰もが同じ思いを抱くだろう
すると、墓守り人の宮殿に巨大な天使が現れたと思ったら光を放ちながら飛んだ。
頭上に現れたものは、無限の星の群れのような光の結晶。雪のように、光が舞い落ちる。この世の全ての怒りと不幸せを清めるように、ゆらゆらと揺らめく、
輝きは茫然と立ち尽くした人間達にも降り注ぎ、その細胞の一つ一つ、その血潮の一滴一滴までも、淡やかな光の祝福で一杯にする。幼き頃に母に抱かれたような安心感、圧倒的な光景に、みなが茫然と我を忘れていた。
時間の感覚が、どこか降り注ぐ光に紛れて融けて消え去るかのようだ。誰もが何時までも空を見上げた。無数の星達が、際限なく星空から降り注ぐ不思議な光景を。
おそらく千雨のこれまで生きてきた十四年半の中で、この光景は最も綺麗で心に残る瞬間だっただろう。
何時までも、何時までも彼女は光を見ていたかった。
「あ」
突如として赤・青・黄・緑の光が湧き出して、音も無く世界を包んでいくようにどこまでも広がっていった。空という湖に巨大な意志を投じたかのように、広がっていく波紋の如き光の煌めきが視界一面を染めていくのを、長谷川千雨は目で追いかけた。
どこか神々しさすら感じ、人知を超えた大いなる意思の存在を感じずにいられなかった。
神仏にも似た圧倒的な存在を前にしても、見上げる千雨は不思議と恐怖を感じなかった。心が穏やかになったほどだ。
「なんなのですか、この光は……」
目の前に振ってくる光の一つに人差し指を伸ばして呻いた高音の声は尻蕾になって消えていく。
科学や魔法では決して理解できない、神秘の現象。沢山の色が入り混じった、この世のものとは思えない綺麗な、しかしどこか物哀しい光だった。
吸い込まれるように、誰もがその光を見ていた。沢山の色が入り混じり、渦巻く小さな光は、見つめる者の心に不思議な懐かしさと安らぎを与える。恐怖が、憎しみが、痛みが、現実感と共に薄れてゆく。
「綺麗……」
指先が触れるや否や、光は淡雪が解けるように、すうっと消えた。
千雨は意識だにせず泣いていた。
さっきまで広がっていた凶暴な光とは異なり、オーロラともつかない穏やかな光に世界が包まれていく。光は圧倒的で苛烈であったが暴力的ではない。喩えるなら、この光の激しさは力強い生命の力だった。千雨には、その光の一つ一つが生命なのではないかと思いついた。
この光には優しい生命の息吹が宿っているような優しさを感じる。
「綺麗、でも……」
込み上げてきた切なさに、ココネ・ファティマ・ロザは隣りで握っていた春日美空の手に力を込める。
これは終わりの光だ。綺麗な、しかしどこか物哀しい光だった。失われた命を悼むように、傷ついた命を癒すように全てのものに降り注ぐ。
その幻想的な光景は理解し難く、正に奇跡としか言いようがなかった。まさしく神話。降り注ぐオーロラのような光のカーテンは、まるで宗教画の中の世界にいるような光景だった。
「哀しい光、どうしてこんなにも泣きたくなるんだろう」
知らずに涙を浮かべながら美空は空を見上げる。
この現象は天使が起こしたのだろうか。舞い降りる光が地上を追われて天へと帰るために羽ばたいた翼から落ちたように羽のように思えた。
千雨の胸中に郷愁にも似た切なさが過ぎ去っていく。それは多分、僅かに姿を見せた天使に憐れみのような感情を抱いたからだ。どんなに望んだところで地上に天使が帰る場所はないのだから。
「きゃあっ!」
汚れのない光が世界に広がって輝く光景を前に、飛行船で待ち続ける少女達の瞳の向こうで何かが弾けた。同時に悲鳴が聞こえた。
千雨が何事かと思って顔を向ける間もなく、
「――――!?」
脳裏に他の少女達が見た物と同じ映像と音が流れ込んできた。幾つもの光景が、数秒の間に脳裏を駆け抜けてゆく。
それは、剥がれた光の粒子に付着していたアスカと明日菜の記憶の断片であった。
墓守り人の宮殿に突入してからの数々の激闘。デュナミス、フェイト、造物主と続く死闘に命をすり減らしながら向かっていく姿。希望を信じて、人を信じて、未来を信じ続けた男が駆け抜けた一筋の轍。世界を想って、女を想った男が命を散らした終わりの光。
同様の現象は、墓守り人の宮殿周辺の新オスティア空域だけに留まらず、魔法世界、そして世界樹を通じて麻帆良にも拡がりを見せていた。
「今の……」
佐倉愛衣は涙を浮かべて振り返った。
「アスカ、神楽坂……」
世界に広がる光は、終わってしまったアスカの命の輝きであり、明日菜の想いの結晶だった。
無数の光の羽が舞い散る中、千雨の目から涙が零れた。それ以上は言葉にならなかった。千雨は唇を噛み、船の手摺を殴った。
「馬鹿野郎!」
聞こえないと分かりつつ、千雨には怒鳴らずにはいられなかった。
世界中の人種や種族に関係なく、この戦いが終わりを迎えたことを知って涙を抑え切れなかった。
夜が明けようとしているのだろう、上り始めた太陽の光の温もりだけが感じることが出来た。
「卒業式、一緒に出るんじゃなかったのかよ!」
抱きしめられない光を引き寄せ、空を抱いた両腕をぎゅっと胸に押し当て混乱し、喘いで溢れる涙を隠そうともしない。駄々っ子のように喚き散らす。
全知全能を欲し、悪魔メフィストフェレスに魂を売ったファウスト博士然り。願いを叶えるには代償がいる。アスカもまた自身の命を代償にして魔法世界の救世を成そうとしている。
「二人で勝手にいなくなるなよ!!」
長い夜だった。或いは終わることのない夜なのかと思っていた。しかし、明けない夜はない。
空が漆黒から、深い藍色。紺青から群青、そして水色へと変わっていく。朝日が地平の向こうから姿を現して大気の層は透明度を増し、空は徐々に白ばみつつあった。薄明の時間は、全てが曖昧だった。静と動の転換点。夜と昼という二つの世界の境界線だ。
世界が二人の命を糧として、二千六百年の呪縛から解き放たれて目覚めようとしていた。全てが終わらなくとも陽は昇り、何時もと変わらぬ皆の姿を照らす。
長い長い夜は終止符が打たれた。
奇跡は始まり、軌跡は終わる。
光が太陽の澄んだ白と混ざり合い幻想的な風景を作り上げていく。
風が、吹く。
僅かに発光を続ける光と共に、光の粒子が舞い上がる。二人を象っていたそれらは、風に粒子を撒きながら、人の形を失って散っていく。無数の欠片が螺旋の渦を巻き、やがて拡散して溶けていく。さらさらと、風に流れていった虹色の粒子の先には――――――何も、残っていなかった。
世界中を駆け廻った光は、人々の記憶にその名残を与えつつ、緩やかに霧散していった。
そこには、もう誰もいない。
英雄と姫巫女は世界の礎となって消えた。そうして世界は続いてく