魔法先生ツインズ+1   作:スターゲイザー

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第33話 哂う悪魔

 

 何千もの激しい雨粒が身体にぶつかっては砕けて散っていった。たった数歩先の空間すら怪しいほどの、激しい雨が降っていた。

 ネギと小太郎、千草によって連れて来られた少女達は先客であったエヴァンジェリン・茶々丸・アーニャがいる世界樹の枝まで連れて来られた。

 風呂場で襲われた為、裸や下着姿だったので楓と茶々丸から渡されたバスタオルを体に巻いた姿のままの明日菜は、ただ眼下で行われる戦いを目にして驚愕に息を呑んでいた。

 

「凄い風、台風みたい」

 

 大人が何十人も手をつないでようやく囲める世界樹が根から揺らぐほどの激しい風が吹いていた。

 一瞬として留まることのない雷光が世界を断続的に映し出して、一際強く紫電が空を翔けて一瞬の後にこの夜で一番大きい雷鳴が轟いた。思わず少女達は体を竦める。目は閉じない。視線は轟々となり続ける風雨の中、空に向かって咆哮を続ける眼下の戦いに向けられていた。

 

「ぬんっ!」

「オラァ!」

 

 眼下で繰り広げられる戦いの度外れた凄まじさ。ただの己の体を武器とするだけの一対一の武人の対決という原始的な戦闘でしかないはずなのに、迸るエネルギー量が違う。

 幾度となく肉体という人知を超えた武器が交差することによって踏みしめる足が路面を穿つ。ただ拳と拳が打ち合うだけで、これほどの破壊的な力の奔流が吹き荒れることなど有り得ない。回避した一撃の風圧が客席の下段から最上段までを抉る。

 超高速の攻撃は、もはや常人よりも遥かに優れた動体視力を持つ明日菜でも補足しきれない。真っ向切っての力と力のぶつかり合い。ただ、激突し相克しあう二人の余波を見届けることしか叶わない。

 同じように観戦している級友達が見守る中で、常識を置き去りにした戦いに恐怖を抱いているのとは違って、神楽坂明日菜だけはよく知らないドラマを画面越しに眺めているような変な感じを味わっていた。

 地に足が着いていないような気がする。目の前で起こっていることを、頭では理解は出来るけど手で触れることは出来ない。だから周りで起こっていることが全て夢のように感じがして現実感がない。

 でも、不意に思う。どのようなことなら現実なのだろうか。アスカが戦う姿を目にして、神楽坂明日菜だけが別の思考をしていた。

 

(なら、現実って何?)

 

 上位悪魔として莫大な力を有するヘルマンと、ただの人間であるアスカでは圧倒的に身体能力が違うはず。なのに、アスカはヘルマンと闘うに値する力を有していた。

 両者は殆ど肉眼から消える速さで真正面から突っ込むと、全身の筋肉と力を一気に膨張させて相手に向けて拳を叩きつける。

 

「ぜぁっ!」

「フッ!」

 

 抉られて吹き飛んだ客席が、まるでアルミホイルの一片のように異常な形に歪んで軽がると宙を舞い、次の瞬間に戦闘の余波を浴びて粉々に吹き飛んでいく。

 戦闘の余波を食らったステージは、惨憺たる破壊の爪痕が刻まれていた。ステージは既に瓦礫の山と化しており、客席は畑の畝のように掘り返されている。戦場となった一角だけが、まるで直下型の大地震やハリケーンに見舞われ過のような有様だった。

 アスカとヘルマンの対決は、拮抗したまま続いていた。

 風が唸る。この世界の物理法則にあるまじき狼藉に、大気がヒステリーを起こして絶叫している。荒れ狂うハリケーンの直中にあるかのように、大学部にある学祭で使うステージがいま容赦なく蹂躙され、破壊されつつあった。

 たった二人のヒトガタが白兵戦を演じているだけで、ステージが簡単に崩壊していくのだ。人と悪魔の戦い。あくまで個人の戦いでありながら次元を超えた戦いをしている。

 そんな惨状の直中に、アスカとヘルマンは、両者ともあれだけの動きをしながら疲弊の色はなく、未だ掠り傷一つ負わないままに対峙していた。

 

「悪魔パンチ!」

 

 黒い拳から溢れる魔力は砲弾と化してアスカへと撃ち出された。

 全力の状態で放つ悪魔パンチは、『学園結界』で抑えられていた時とは文字通り桁が違った。抑えつけていた魔力が解放された一撃は威力・速さ・魔力が桁違いに跳ね上がって、以前に放っていたのがピストルの弾ぐらいに思えるほどに強大であった。

 

「っ!」

 

 アスカは自身の体を完全に覆い尽くすほどの一撃を半身になって反れて避け、瞬時に足に魔力を集中して地面のアスファルトを蹴りつける。高速移動術である瞬動と呼ばれる技法で、十メートル近い間があったヘルマンとの距離を瞬間移動したと錯覚するほどに一瞬で詰める。

 悪魔パンチを放って伸びている右腕を掻い潜り、深く踏み込みながら顎目掛けて右拳を打ち上げる。

 ヘルマンは残った左の掌で受け止めつつ、アスカの後頭部目掛けて伸びた右腕を曲げて肘を落とす。これをアスカは見もせずに気配だけで察知したのか、左の掌を回して受け止める。

 両手が塞がっているのは両者とも同じ。この近距離で二人には体格差から攻撃オプションが若干だけ異なった。ヘルマンの胸元までしかないアスカの身長。

 

「がっ」

 

 丁度いいところにあったアスカの腹にヘルマンの膝が食い込む。アスカの口から押し出されるように空気が漏れる。

 

「シッ!」

 

 ヘルマンがくの字に折れ曲がったアスカから一ステップだけ下がり、左拳による高速のジャブを放つ。

 アスカには成す術もなく受ける選択肢しか残されていないと思われたが、滞空状態で無数のジャブを全て避け切った。自分から後方に流れて倒立、後に跳躍。後転跳びを連続で行いながら回避したのだ。

 地面を穿つジャブは人間形態に放った悪魔パンチと大差ない。壮絶な粉砕音、一瞬にして地面に亀裂が迸り、鱗の様に罅割れる。アスファルトの地面が砕け、割れた硝子の様に弾け飛び、小型の隕石もかくやというクレーターが出来上がっていく。

 ヘルマンの視界が土煙で覆われてアスカを見失う。爆風が如く周囲を包み、瞬く間に視界が塞がれる。

 

「―――――闇夜切り裂く一条の光、我が手に宿りて敵を喰らえ」

 

 土煙を割って来たのは予想外のモノだった。

 

「白き雷っ!」

 

 土煙を割った向こうに見えたのは己を飲み込まんと迫る強力な電撃。直径二メートルを優に超えるそれは、雨を蒸発させながらヘルマンに迫る。

 

「悪魔アッパ―ッ!」

 

 迫り来る雷を収束させた下から掬い上げるように悪魔アッパーで打ち上げた。振り上げられた拳は、拳の軌跡に沿うように衝撃波を残して牽制も兼ねていた。弾き飛ばされた白き雷はヘルマンの頭上を飛び越えて地面で大爆発を起こす。

 白き雷が地面で大爆発を起こす前に、悪魔アッパーの衝撃を避けて掻い潜る影が一つ。

 

「ぐふっ」

 

 悪魔アッパーを放って空いていた脇腹に何時の間に忍び寄ったのか、地面をしっかりと踏み締めたアスカの崩拳が食い込む。それまで如何なる時でも余裕ある態度を崩さなかった紳士の顔が、初めて純粋な苦痛に歪んだ。

 しかし、直ぐにアッパーを放った右腕を戻し様に腰を捻り、存分に体重を乗せた左をアスカに叩き込んだ。ヘルマンに比べて体重の軽いアスカは何とか間に合った腕で防御しようとも軽々と吹き飛ばされた。

 

「いいね、素晴らしい。これだよ、これが見たかったのだよ。それでこそサウザンドマスターの息子だ!!!」

 

 痛むに呻くことなく、猿のように体を回転させて観客席に足から着地して、一拍も置くことなく向かってくるアスカに喜悦を抑えられないとばかりに叫ぶ。

 

「故郷を滅ぼした私が、君の大切な人を奪った私が憎いだろう。さあ、君の憎むべき敵はここにいるぞ」

「さっきから、ごちゃごちゃと……っ!」

 

 全力で殴りつけるのと、明確な殺意をもって打ち抜くのとでは、意味合いも結果もまるで違う。前者によって相手が死ぬのは不幸な偶然だが、後者による殺害はただの必然だ。

 

「戦う理由は常に自分だけのものだ、そうでなくてはいけない。『怒り』『憎しみ』『復讐心』などは特にいい。誰もが全霊で戦える。或いはもう少し健全に言って、『強くなる喜び』でもいいね」

 

 己を縛る一切を断ち切り、ただ一つのために行う姿のなんと美しいことか。 追いつかれ、またも拳撃を食らっている最中でも、ヘルマンは笑みを崩さなかった。

 

「君が戦うのは仲間の為か? 一般人の彼女たちを巻き込んでしまったという責任感か? 助けなければという義務感? どれも違う。人質を解放した時点で殆どの条件から外れる。何よりも皆と協力した方が私を斃せる可能性が高いにも関わらず、そうしなかった」

 

 ヘルマンの饒舌は続き、一つ一つの言葉がアスカを追い込もうとする。

 

「怒りだ。君の目には怒りだけで憎しみが無い。憎悪故に私を斃そうというのではない」

 

 ヘルマンが地を蹴って飛び出した。凄まじい速度で一足の間合いを燕の如き俊敏さで瞬時にアスカとの距離を詰める。

 アスカはヘルマンの動きの全てを視認して、頭蓋骨を粉砕しようとする拳を空中で体を捻って捌いた。

 ヘルマンは右の拳が躱された瞬間、腰の回転を殺さずに運動エネルギーを左足に移した。拳を放つ際に体重をかけた軸足である右足に重心を移す反動で左足を跳ね上げ、アスカの視界の死角から後ろ回し蹴りで米神を狙う。しかし、アスカはそれが見えているかのように、軽く頭を反らした。左足の踵が数ミリの差で目の前を通り過ぎる。

 

「だからどうした!」

 

 観客席を穿った悪魔パンチによって爆発音によって他の音が掻き消されているのに、ヘルマンの声だけは不思議とアスカの耳へと届く。

 答えるようにアスカが口を大きく開いて、喉の奥から怒りの咆哮を吐き出しながら拳を振るった。が、アスカの攻撃よりも速くヘルマンは無数のジャブを放った。

 

「!!」 

 

 瞬きの間に放たれた拳は、数にして二十に及んだ。その全てがアスカ目掛けて襲いかかってきた。

 散弾銃のようにして扇状に広がる弾幕に対して、アスカは空中で虚空瞬動をして思い切り横へ跳び、地面に伏せるように身を沈めることで何とか回避に成功する。彼の背後では観客席の最上段にあった無数の柱が薙ぎ倒され、超大型台風が直撃したように射線上の観客席が吹き飛んでいく。

 アスカは敢えて立ち上がらず、地面に四肢を貼り付けると、そのまま獣のようにヘルマンへと飛び掛かった。彼我の距離は数メートル。これだけの近距離ならば、立ち上がる等のモーションを省いた方が不意を突ける。

 

「隠されれば意地でも引き出してみたくなるのが悪魔というものでね!」

 

 この程度で不意を突けるほどヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマンは甘くない。今まで手技だけだったヘルマンが飛び掛ってきたアスカの僅かな体勢の崩れを見逃さず、足首を支点にするように勢い良く身を回した。

 カウンターでアスカの顔面を横合いからハンマーを打ちつけたように右足で蹴り飛ばす。アスカの視界が左側へと急速に移動する。

 

「悪魔パンチ!!」

 

 背中を向けて隙だらけで飛んでいくアスカに向けて、レーザー砲のように収束させた手加減なしの悪魔パンチを放つ。

 

「が、ああ!!」

 

 背後から迫る力の波動に、咄嗟に全力で背中に障壁を展開するが一点に凝縮させた悪魔パンチの方が遥かに上だった。背中で爆弾が爆発したような衝撃と痛みに、口の端から血を散らしながら蹴り飛ばされた勢いに過剰して観客席へと突っ込んだ。

 

「く、そ!」

 

 防御に全力を注いだことで観客席に突っ込んだことへの対策は出来ていない。全身に幾つもの傷を作りながらも続くヘルマンの拳撃によって痛みに呻くことすら許されない。

 上に飛び上がることで収束させていない極大の光弾が、先程までアスカがいた観客席跡に激突すると同時に爆発し、その煽りを喰らったアスカの体が揺らぐ。

 ヘルマンの攻撃はまだ終わらない。

 ミサイルをガトリングガンで連射したような破壊の嵐が巻き起こる。アッパーやフックの縦や横の動きも織り交ぜた縦横無尽な拳撃が残っていた柱や観客席が吹き飛ばし、アスファルトが捲れ上がっていく。

 

「!!」

 

 背筋に走った悪寒に従って咄嗟に背中を反らし、空中で上半身だけを後ろへ下げる。直後、目の前を光弾が突き抜け、鼻先の皮膚が僅かに削り取られた。

 背後の直前に吹っ飛んでいた観客席の欠片を塵も残さず粉砕する。

 突進してくるヘルマンをアスカは迎え撃つ。

 打ち合わされる拳と拳、蹴りと蹴り。その一撃一撃が、中位の古代語魔法に匹敵する破壊力を秘めた攻防を繰り返す。

 

「隠してなんかいねぇよ!」

「そう、君には隠している感じがしない。それが不思議だ。あんなことがあったのに君からは全く憎悪を感じない。ありえないことだよ、それは」

 

 ヘルマンは興味深そうに頷いて次々と光る拳撃を打ちながら轟音を立ててステージを破壊していく。

 

「知るか! ごちゃごちゃと…………うぜぇっ!!」

 

 基礎能力は上級悪魔のヘルマンの方が上であると感じ取ったアスカは馬鹿正直に打ち合わない。拳を弾いたと同時に小刻みに足を使い、ヘルマンの死角から死角に渡って一方的に鋭い拳を振るっていく。

 両拳からヘルマンに勝るとも劣らない高速の拳撃が襲い掛かって、拳の弾幕がぶつかると大気を夥しい震動が満たす。殆どの連打をバックステップしながらヘルマンは捌く。回転を重視している所為で一撃一撃は軽く、当たっても致命傷には程遠いが確実にアスカの体力と集中力を奪っていた。

 苦しい吐息がアスカから漏れる。

 

「隠された本性を暴いた時、どうなるか楽しみだ」

 

 側面の死角から蛇のように拳の軌道を変化させた一撃への対応が僅かに遅れた。

 

「くあぁぁっ!?」

 

 ハンマーのような拳に打ちすえられ、苦痛の声が上がる。

 痛みに、動きを乱したところへ更に別方向の死角から拳が襲い掛かる。痛みに喘ぐアスカには防御も回避も間に合わせることが出来なかった。

 先程の一撃とは反対側から入った拳が脇腹に食い込む。嫌な音を立て、めり込んだ拳によってアスカの体を軽々と吹き飛ばした。

 攻撃の衝撃に肺の空気を押し出され、吹き飛ばされながら喘ごうとした瞬間、跳躍して回り込んでヘルマンが力を溜めた左腕を振りかぶっていた。

 何の防御もなく受ければ塵も残さず消し飛ばしそうな一撃を、予期していたとでも言うようにアスカは身を翻して躱す。完全な死角からの奇襲の上に先の攻撃の苦痛による集中力の低下もあったはず。

 少なからず必撃を期して放たれた一撃を事もなげに躱されて、ヘルマンの余裕の表情に初めて揺れた。だが、直ぐに今までを上回る喜悦を浮かべる。

 

「そうだ! 私が見たいのは平和に耽溺した子供ではない。闘争こそを故郷とするアスカ・スプリングフィールドだ!」

「うおおおおおっ!」

 

 アスカが吠えた。それと同時に心から願った。あの悪魔を倒せる力を。今こそ、今こそ誰にも負けない力が欲しい。自分の運命と呼ぶものすら断ち切ることが出来るほどに、強い力を。自分が自分でなくなってもいい。だけど、倒すべき敵だけは、この命に代えても倒さねばならない。

 アスカの願いに呼応するかのように両腕に紋様が浮かび上がり、淡い輝きを漏らし続ける。

 

「もっとだ! もっと見せてくれ! 君の可能性を! 君の全てを私に見せてくれ!」

 

 そんな死闘の只中にあって、心底の喜悦を以って哄笑しながら昂奮したヘルマンは、陶酔した口調で言葉を紡いでいく。怒りに満ちたアスカの心を爆発させるための憎悪の火種をくべ続ける。

 

 

 

 

 

 攻撃の最中、ヘルマンの構えが左右をスイッチしたり、様々なスタイルへと次々と変わる。 そこから放たれる速射砲の如きパンチの連射。一撃で勝負をつける強打。アスカの防御の隙間を縫うような奇打。拳は届かぬとも魔力の乗った拳圧が飛ぶ。

 流石にアスカも全てを回避・捌くことが出来ずに何発か貰ってしまうが、それでも戦闘に響くようなダメージには至っていない。だが、確実にダメージが蓄積していく。

 

「弱い! 君は弱いな! 憎しみが弱いからだ。憎しみの力は殺意の力、殺意の力は復讐の力。まだまだ憎しみが足らんぞ少年!!」

 

 ヘルマンから発せられる狂気。狂気が世界を埋め尽くす。

 それはヘルマンの全身に満ちた猛毒だ。彼の体内から溢れ出した狂気の汚泥は世界を浸食し、侵略し、陥落させていく。そこには正気など存在しない。存在を赦されない。この世界にあって正気は全て狂気に塗りつぶされていく。

 

「うるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」

 

 対峙するアスカにも狂気が伝染してくる。

 輝く、輝く、輝く。淡い輝きでしかなかった腕の紋様が、今はハッキリと知覚できるほどに絢爛に燃える。

 

「死ねぇぇぇぇぇぇぇっ!!」

 

 目の前の敵への激しい怒り、怒りの導火線に火を点けた。腕の紋様を起爆剤として生まれた暗い情念をそのままにアスカは敵を見据え、感情を叩きつける。

 どこか躊躇していた自分の内側から噴き出す力に身を任せる。それを理解してもなお、アスカは止まらず、戦いを止められなかった。意味があるはずもないこの戦いが、何時終わるのか、彼自身分からない。それは体が粉々に砕け散る時なのかもしれない。

 ヘルマンに向かって、アスカは大きく踏み込んだ。

 

「力を求め、殺意に満ち満ちている目………………いい! いいね、それを待っていた!!」

「あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 すれ違うようしてヘルマンの横を通過したアスカが更に気迫を滾らせ、力学をぶち破って反転して虚空瞬動をする。

 

「その調子だ! それでなくてはならん!」

 

 肌にビリビリと響く気迫が更に高まるのを感じてヘルマンは楽しくて仕方がない。振り返っても防御が間に合わず、拳を腹部に打ち込まれながらやり返す。

 

「もっとだ! もっと強くなって私を倒してみたまえ!!」

 

 理屈は分からなくても腕の紋様の輝きが増すごとにアスカの力を増していく。予想を超えて強くなっていく姿はヘルマンの望んだものだ。これが楽しくてならない。

 

「があぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 アスカの耳にはもうヘルマンの声しか聞こえていない。心を埋め尽くすものは、ドス黒く燃える暗い感情のみ。

 もはや何も考えてはいない。耳にただ戦闘本能に任す。怒りに身を任す。目の前に敵。アスカを地獄に追い落とした張本人。それだけだ。ヘルマンをこの手で倒す。他にどんな意味がある。言葉はない。ただ咆哮だけがある。

 激突する化け物たちによって再現されるは神話の戦い。だが、これは化け物と英雄の戦いではない。英雄のいない化け物同士の戦いである。

 活目せよ、この戦いを。

 

 

 

 

 

「あの手の紋様、闇の魔法の物か…………やはり、こうなったか」

 

 尋常ではないアスカの様子と腕にある紋様の正体を見抜いたエヴァンジェリンは呟くだけで何もしなかった。

 

「そのまま闇に呑まれてしまうのか、アスカ」

 

 かなり近くで雷が落ちているらしく、音がひどく大きい。風も激しくなっていた。

 

「う……あ……」

 

 明日菜の口から、堪えようのない恐怖の呻きが漏れた

 刹那から筋が良いと褒められて、自分でも分かるほど腕が上達していた。「私って凄いんじゃない」などと思っていた。しかし、そんな優越感みたいな感情はアスカの戦闘を見て「住んでいる世界が違う」と感じてしまう。

 余程、両者の魔力が高ぶっているからか、突風のように風が巻き起こっていた。

 やがて風は逆巻き、強風から旋風、そして烈風に、さらに勢いを増して竜巻にまで―――――ごく短時間で力を強めた羽風は、気づけば渦巻く竜巻となって吹き荒れていた。

 二人の戦いを邪魔しないようにステージを中心にして覆うように竜巻が巻き上がる。

 戦闘場所だけを範囲に収め、他には殆ど被害を与えずに猛威は止まらない。周りに被害を与えていないことが、感情を高ぶらせながらも魔力の制御を怠っていない証拠である。

 竜巻で上空の雨雲が更に刺激されて雷の勢いが更に増していく。

 

「これが、魔法」

 

 魔法使いとは、それに類する者とはここまで出来る者なのか。そう思わせる光景は夕映の皮膚をビリビリと刺激し、鳩尾を直接殴りつけられた様な嘔吐感に襲われる。口の中はカサカサに乾き、それとは裏腹に額と背中には冷や汗が止めどなく流れる。

 アスカとヘルマンから発せられる凄まじいばかりの狂気と殺意。

 空を見上げれば、勢いを増していく雷・雨・風。二人はただ戦っているだけで天気にまで干渉しているのだ。それも余波だけで。

 たった一人の人間と悪魔の戦闘の余波でそのような真似が可能であると、いったい誰が考えただろうか。特に人間であるはずのアスカは魔法使いの基準からしても突き抜けすぎた次元にある。

 勿論、彼女たちが知らないだけでアスカと同じことを、それよりも更に強大なことをやってのける者は世界には確実にいる。

 例えばネギとアスカの父であり、サウザンドマスターの異名を持つナギ・スプリングフィールド。

 例えば彼女らの直ぐ傍にいる、六百年の長き時を生きて来た闇の福音エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。

 例えば近衛木乃香の父であり、ナギと同じ『紅き翼』に所属していた若かりし頃の近衛詠春。

 例えば神楽坂明日菜を幼少時から面倒見ており、『紅き翼』の一人、タカミチ・T・高畑。

 例えば関東魔法協会の理事を勤め麻帆良学園理事長であり、学園最強の魔法使いである近衛近右衛門。

 彼女たちが知るだけでアスカと同じ領域、もしくはそれ以上の『バケモノ』たちがこれだけいる。だけど、そんなことを知らない彼、彼女達にはアスカが同じ人間ではなく、『化け物』であるとしか見えなかった。

 凄まじい雷光と雷鳴が二人の頭上で炸裂する中、吹き荒れる風と降りしきる雨の勢いに比例するように戦いは激しさを増していく。戦闘の激しさを風の唸りと雷鳴、豪雨が激しく大地を打つ音で掻き消していた。

 

「これが……これが、今のアスカの力なんか」

 

 更に荒れていく天気を見て、震える声で、小太郎は誰に言うともなく呟いた。だが、その認識さえも甘かったことを次の瞬間に思い知る。ただでさえ非常識な力が、更なる高まりを見せたのだ。

 空で瞬く白光が闇夜を照らし、際限なく増幅する上昇気流は頭上にある雷雲の活動を更に活発にさせて、天の雷と地の戦闘で轟く轟音の二重奏は魔獣の咆哮にも似ていた。雷の閃光が辺りを照らし、雷轟が耳を潰さんとばかりに鳴り響く。世界の終末かと錯覚するほどに異常で、異様な光景だった。

 

「俺が一緒に戦ったって足手纏いやないか」

 

 小太郎は目の前で繰り広げられる戦いに、特にアスカの戦いぶりに眼を奪われていた。

 まるで神話の再現のような激突。その脅威と驚愕を、いま目の当たりにしていた。アスカの穿つ雷が天を裂き、ヘルマンが放つ荒れ狂う波濤が大地を砕く。かつて想像だにしなかった領域の世界を、小太郎は瞬きする隙すら見出せずに注視するしかなかった。

 

「この術式を変えて、魔法陣を書き換える。後は……」

 

 誰もが戦いに注視する中にあって、ネギだけは瞼を閉じて黙考する。

 その脳裏には常人ならば発狂するだろう速度で数多の計算式が計算され、一つの形へと到達しようとしていた。ネギにはアスカの戦闘センスも、小太郎のような実戦経験もなければ、アーニャのように機転を利かすことも出来ない。

 ネギが出来るのは考えることだけだ。考えて考えて、考え抜くことしか出来ない。

 

「六年待ったのは、アスカだけじゃない」

 

 戦いも、ネギの作業も、その全てをアーニャは見ていることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 観客の気持ちは関係なく戦闘は続いており、両者共に無傷といかず、所々に血を流していた。だが、拮抗していた状況が遂に動いた。

 人の身体など豆腐も同然に砕く一撃を、アスカは斜め前に踏み出すことで躱した。下手な大砲よりも強力な一撃を掻い潜って懐に潜り込む。時間が経つごとにキレを増していくアスカの動きが、ヘルマンの予測を初めて超えた。

 

「ッ!!」

 

 身体が触れ合うほどの距離に近づかれたヘルマンに攻撃オプションはない。ヘルマンの耳に風を切る音が響いた。音の正体は当然アスカの攻撃だ。

 

「ぬ……」

 

 米神を狙う一撃から咄嗟に顔を守るように左腕を上げたが鈍い音と共に手首の下に直撃する。人体の構造上どうしても脆い所に攻撃を受け、ヘルマンの顔が苦痛に歪む。

 アスカの攻撃はまだ終わっていない。ヘルマンが気がついた時には拳が脇腹に接していた。

 

「ぐ……ぬぅ……っ」

 

 太鼓を叩いたような腹の底に響く轟音が鳴る。突き抜けた衝撃が接触点から背中を通り抜けて炸裂した。。

 膝を叩き込んだ瞬間に二人に降り注ぐ雨が十数メートル単位で弾き飛んだ。これから降りかかる雨も、既に落ちていた雨も、全てが攻撃を加えた箇所の方に弾け飛んだ。

 

「まだまだ!」

 

 が、悪魔であるからかヘルマンにはこれほどの一撃でも致命傷になり得なかった。アスカの後頭部をしぶとくも狙って右肘を振り下ろす。

 

「――――――影の地、統ぶる者、スカサハの我が手に授けん。三十の棘もつ、愛しき槍を」

 

 後頭部という見えない死角であり、大気を切り裂くその威力は当たれば人間の頭など柘榴を潰したようにして吹き飛ばすだろう。

 完全に死角をついた攻撃だったが、アスカには背後であろうと死角は死角足りえない。

 

「雷の投擲!!」

 

 左前方に踏み出して腰を落として肘を避けると魔法名を唱えて雷の槍を硬く握り、ヘルマンの顔面目掛けて打ち放つ。が、ほぼゼロ距離に関わらず、超反応を見せたヘルマンは顔面に伸びてきている雷の投擲を、その手で内側から外側へと大きく払った。

 軌道をずらされ、放たれた雷の投擲はヘルマンの頭部に生えている捻じれた角の片方を抉り取る結果となる。

 ヘルマンならば避けるとアスカは信じていた。そして避けた結果として体勢が万全なのはありえないとも。

 

「避けたな?」

 

 雷の投擲を放った手でヘルマンの服を掴みながら、足を後足で纏めて刈り取った。柔道で言う大内刈りが見事に決まり、ヘルマンの身体が上下に反転する。

 

「ぜあっ!」

 

 足を刈り取った足の勢いに逆らわず倒立して宙を蹴り、頭から落ちるヘルマンの顎に全体重を込めた掌底を打ち下ろした。虚空瞬動をして威力を倍増して振り抜き、頭頂から地面に叩きつける。

 ヘルマンが叩きつけられた箇所はコンクリートの罅割れ程度で済んだが、本当の被害はそんなものではない。貫くことを目的とした一撃は衝撃を通し、地表に現われた表立っての被害とは裏腹にヘルマンの頭部を突きぬけ、接触していたコンクリートを通して地層に致命的なダメージを与えていた。

 もし、この戦闘が終わった後に修繕する際は地面の下から行わなければならない。誰も脆くなった地層が崩れて地盤沈下に巻き込まれたくはないだろうから。

 

「ちぃっ」

 

 そんな一撃を与えたにも係わらず、アスカの表情は勝ち誇ったそれではなく、寧ろ忌々しいとばかりに舌打ちをした。アスカの手に頭蓋骨を砕いた感触はない。まさか悪魔だからといって頭蓋骨がないとは思えない。

 致命傷を与えていないことを直感で悟り、頭だけで倒立をするようなヘルマンの腹部へと追撃を放とうとする。

 それよりも速く、ヘルマンが地面に倒れた状態のままでショートレンジの拳を打ち放った。

 

「な……!」

 

 肉を殴打する鈍い音と共にアスカの体がくの字に曲がる。鳩尾を中心として真上に浮いた。重たい空気が喉奥まで迫る。足が五十センチは地面から浮き上がる。

 威力よりも速度を優先したことで一撃必殺の威力はないが、攻撃を中断させて起き上がり、飛び退って一度間合いを取るだけの時間を獲得した。

 ヘルマンが素早く起き上がるのを見て、悪魔の耐久力の理不尽さを呪った。

 

「ここで決めさせてもらう!」

 

 だが、起き上がるために出来た隙をアスカが見逃すはずもない。取った間合いを一足飛びに詰める。

 成長というより進化と呼ぶべき速さで強くなっているアスカだが、自らの総合力がまだヘルマンに及ばないのを自覚している。戦い続けていれば何時かは追いつくかもしれないが、その前に負けるのは分かっている。ヘルマンが予測を修正してしまう前に、勝負の流れを引き込んで決着をつける。

 

「……っ」

 

 間一髪、起き上がる姿勢のまま飛び退いたヘルマンの鼻先を、轟然と相手の頭部を狙って振り上げられたアスカの右上段の蹴り上げが掠め過ぎる。続けて右足を下げる時にその反動でもう一方の足を振り上げて、もう一度放たれた追い討ちの左上段の蹴り上げも、ヘルマンの首を刈るには至らなかった。

 古菲から盗んだ中国武術の八極拳の一つ、連環腿が空を切るのみに至ったのは、偏にヘルマンの反応速度の速さ故だ。耐久力といい、反応速度といい、人のそれを遥かに凌駕している。

 アスカが先程まで左前だった構えを突然踏み換え、反転させた。その足が内側からヘルマンの前足に絡みつく。鮮やかな鎖歩の足捌きによって、ヘルマンはまんまと体勢を崩された。

 

「雷華――」

 

 握っていた拳を更に強く握り締める。他の事にも使える万能な人間の手を、ただ一つの武器へと変えて、遠目からでも感じられる強い魔力が集める。夜に太陽が現れたような輝きを右手に以て必撃と為さん。

 放つは最強の技である雷華豪殺拳。今のアスカの力量で放てば如何な上級悪魔と言えども只では済まない。

 

「ぬぅっ!!?」

 

 転倒を免れようと踏み止まれば、間違いなくアスカのカウンターが来る。だが後ろに反った重心はもう取り戻しようもない。ならば、活路は唯一。打たれる前に攻撃するのみ。

 ヘルマンにあるのは攻撃のみ。迫るアスカ、焦りもない、怯えもない、ただ眼前の敵を打ち抜く一念だけがある。

 

「!?」

 

 先に切り札を切ったのはヘルマン。

 ヘルマンは薄ら笑いを浮かべて口を開く。口の奥には、不気味な光が集まっていた。

 ヘルマンは石化の呪法の主。その石化方法をアスカは勿論、ネギらも知らない。なのに、アスカはその光に触れたら叔父夫婦と同じ末路になるのだと直感した。

 悪魔の口からは、もう発射寸前の石化の魔法。ヘルマンの石化の魔法の方が間違いなくアスカの攻撃が決まるよりも早い。攻撃の途中で回避は間に合わない。

 

「ア、アスカッ!!」

 

 叫んだのは一体誰か。世界樹の枝の上から伸ばすその手は当然、遥か眼下で一人戦うアスカには届かない。

 ヘルマンから解き放たれた閃光が狙い過たず、避けようもなくアスカを飲み込んだ。

 

 

 

 

 

 解き放たれた閃光。受けるなど無意味、回避することは不可能な状況。アスカが石化したことは覆しようのない事実でありながらヘルマンは翼をはためかせて、空へと浮かび上がっていた。

 

「え……」

 

 そんな声を上げたのは誰だったか。

 迫り来る現実を見たくなくて目を瞑った明日菜がゆるゆると閉じていた瞼を開くと、まず視界に入ったのはネギの杖であった。巨大な世界樹の枝の上で片膝をつくようにして黙考していたはずのネギが杖を眼下へと向けている。

 視線をネギの杖の先に向けると、そこにはヘルマン――――正確にはさっきまでアスカがいた場所を指し示していた。

 

「今のに間に合ったんちゅうんか?」

 

 らしくもない驚愕を露わにした小太郎の言葉に、遅れながらに明日菜もその意味に気づく。

 

「アスカ!」

 

 視線を更にその先へと移すと、何かに跳ね飛ばされたように観客席にめり込んでいるアスカがいた。よほど勢いよくめり込んだのか、雨でも消しきれぬほどの噴煙が薄く漂っていた。

 噴煙の向こうにいるアスカは無事のようだった。明日菜が見る限りではその体に石となった様子はない。

 空中からアスカの無事を見て取ったヘルマンは、世界樹の枝の上で杖を向けるネギに視線を移して悪魔状態で分かりにくいがハッキリと驚愕を現していた。

 

「あの一瞬でアスカ君を風で押し飛ばすとは…………。的確な状況判断能力とかなりの魔法展開速度だ」

 

 絶好の気に放たれた一手を破られてもヘルマンは少しも気落ちなどしていなかった。

 その答えは晴れていく噴煙の先にあった。

 

「しかし、完全には間に合わなかったようだ」

「あ!?」

 

 遠目の明日菜からでもはっきりと見えた。アスカの左手の手首から先が石と化していたのである。ネギの神業ともいうべき魔法発動を以てしても完全な回避には至らなかったようだ。

 

「やれやれ、私が意図したこととはいえ、このような中途半端な結果になろうとは………………まあ、いい。次はネギ君で遊ぶとしようか」

 

 勝敗は決したと、ヘルマンはようやくめり込んでいた観客席から体を起こしたアスカから視線を外して、世界樹の枝の上で杖を戻して再び黙考に入っているネギへと興味を移したその時だった。

 

「!?」

 

 鋭い、刃のような殺気がヘルマンに向けられた。

 本能的に危険を直感したヘルマンは身構え、殺気の発信源がアスカであることを確認すると落胆したように肩を落とした。

 

「何かね。そのような状態でまだやろうというのか」

「ああ、そうだ、勝手に終わらしてんじゃねぇよ」

「そうは言うが私の石化を受けた以上、君の末路は決まっている。見たまえ、石化の範囲が広がっているだろう」

 

 ヘルマンは指差して、既に固まっている手首から先だけではなく、徐々に体の中心部分に向かって石化の範囲を広げていくのを指摘する、

 

「やがて石化は全身に回り、戦うどころか君は永遠に物言わぬ石像と化す。最後に戦った礼儀だ。何か言い残すことがあるならば聞こう」

「だから、勝手に人を終わらるなって言ってんだ! このぐらい……っ!」

 

 言った直後、アスカの全身から魔力が放出された。

 近くにいたヘルマンが圧されるほどの膨大な放出量。その全てが石化した左腕に流し込まれる。

 

「ガ――ッ!?」

 

 左腕を抑えたアスカの口から苦痛の呻きが漏れた。

 

「まさか魔力を通して無理やりに石化を吹き飛ばそうというのかね? 無駄だ。既に君の左腕は石と化している。魔力を流そうとしても逆流してくるだけだ」

 

 ヘルマンの言う通りだった。腕に伝わるその感触に、全てが宿っている。

 腕中の神経や筋肉、血管が耐えられないと叫びを上げていた。叩きつけている剥き出しの魔力が、行き先を失ってまだ石化をしていない腕の中を踊り狂っているのだ。その代償としてアスカの顔は激しい苦痛に塗れていた。

 アスカの突き出した左腕がブレ、弾け散りかねない左腕の痙攣を右手で必死に押さえつける。

 顔色が蒼白を通り越し、白蝋そのものに染まるほどの激烈な痛み。

 

「グ……ああ―――!」  

 

 袋一杯に詰めた刃物が内側から突き出るといったどころではない熱と痛みが左腕を襲っていた。

 信じ難い痛みだった。例えるなら爪と指の合間に他人の腕一本が丸ごと捻じ込まれているようなものだ。神経を直接火鉢で掻き混ぜるかのような、もはや痛みとも熱とも呼べぬ根源的な感覚だった。

 左手を辿って神経は焼け落ち、脳は爛れ、身体中の内臓という内臓が全て炎を上げていく。

 腕の神経と骨の間で、内圧が凶暴に膨れ上がり、一刻も早く解放しなければ逆にアスカを内側から破裂させんばかりに荒れ狂っている。腕の中にいる何かによって肉を噛み、骨を潰されているような錯覚すら覚える。

 時間をかければかけるほど、その錯覚は現実味を増して、もはや自分の身体と炎の区別さえつかない程になっていた。

 目の前が眩む。視界の端がぼやけてきた。食い縛った歯の隙間から白い泡が吹き零れ、少年の苦痛の程を示した。

 

「く……ぉ、あ………っ!」

 

 堪らず吼える。跳ね回る左腕と、左肩から体内に撃ち出される弾丸。薬の副作用のように反発する魔力はザクザクと左腕から体内に進入して内部で跳弾し、消しゴムをかけるようにアスカの中身を傷つけていく。

 容赦なく肉体を激痛が貪り、脳も内臓も何もかも握りつぶし、塗り潰していくようだった。

 

「よくもやる。無駄だと言ってるだろうに」

「うるせぇ! 誰が無駄だって決めた! お前なんかが俺の限界を決めるな!」

 

 呆れと共に吐き出されたため息に、激発したアスカは末尾に込めた叫びと共に更なる力を込める。

 痛みがあるのは神経が通っている証拠。痛みがアスカを世界へと留まらせてくれるのだ。

 

「づ……………! あ、あ、あ―――――!」

 

 増大する魔力に比例するように増していく痛みに唇の端から泡が吹き零れる。

 痛みは左腕だけではない。全身の皮膚の内側を凄まじい熱が蠢いている。ぞりぞりと皮膚と肉の間を鱗で削りながら、骨を啄ばみ、神経の一本ずつを舐め上げて毒を注ぎ込んで益々膨れ上がる毒蛇のよう。左腕も、左腕を押さえている右腕も、踏ん張っている両足も、抑えきれずにがくがくと大きく痙攣している。

 眼球が裏返りかけ、意識が途切れるのを必死で引き止めるために出来ることはたった一つ。

 

「ぎ―――――あ、あア、アアアアアアアアアアアアアアアアアア―――――!」

 

 骨から脳髄までその感覚に冒されそうに鳴りながら吼えた。骨と筋肉を直接削ぐような熱と体内と体外の痛み、悶絶すら出来ぬ感覚に自分が失われていく恐怖を追い返さんと絶叫する。

 

「ガアアアアアアアアアアアア―――――――ッッッッ!!!!」

 

 獣の如き叫びの直後、何かが壊れる音が響いた。

 左手の指先に激痛が走り、循環して帰ってきた魔力が眼球を焦がし、脳を焼く。それが意味することは唯一つ

 

「一か八かの博打をまさか成功させるとは……」

 

 降りて来て羽を消したヘルマンが唇の端を僅かに上げた。その眼は元の肌色を取り戻したアスカの左腕に向けられている。

 

「この麻帆良ならば優れた治癒術士もいるだろう。世界でもトップクラスの君の魔力ならば、魔力抵抗によって石化する速度も遅い。仲間に私の足止めをさせ、逃げれば命を賭けてまで無謀な挑戦をする必要はなかった」

 

 敢えて言わなかった最適行動をヘルマンが口にしたのは、彼にとってもアスカの行動が予想外だったからか。

 視線の先で石化を力尽くで破るために全精力を振り絞り、大きく息を乱しているアスカがいる。

 

「ヘルマン、お前を倒すのは…………俺だ。他の誰かじゃない」

「そんなに息を乱して、よくも大言壮語を吐く」

 

 そんな馬鹿は嫌いではないがね、と心中で呟き、見極めるようにアスカを観察する。

 

「石化を力尽くで破ったことは称賛するが、石化を受ければ致命であることに変わりはない。破るために随分と魔力を消費している。それでもまだ私を倒そうというのかね?」

 

 返答は無言であった。目は口ほどに物を言う。言葉よりも何よりも、貴様を打倒するという決して揺るがぬ瞳が雄弁に答えていた。

 

「よかろう。ならば、死力を尽くして我が首を取りに来たまえ」

 

 この戦いが終わる時は、どちらかの命が尽きるのだと、互いの認識が一致する。

 

「まだまだこれからだ。もっともっともっと――――――命果てるまで私を楽しませてくれ!」

 

 アスカはそれに答えることなく、乱れた息を整えると腰を落とす。

 

「ぉおおおおおおおおおおおおおお!!」

 

 馬鹿正直に真正面から雷光を伴って最高速度で突撃してくるアスカにヘルマンの反応が遅れた。アスカがヘルマンに組み付いて、そのままスピードを緩めずにステージへと叩きつける。

 ヘルマンもやられっぱなしではない。アスカを蹴り飛ばし、直ぐに立ち上がって左ジャブを連打して高速光線を放つ。しかし、鋭角的な動きで光線の群れを避けるアスカには当たらない。

 これでは意味がない、と最後のジャブを放って飛び立って、光線を避けた方向へと先回りしてアスカの腕を外側へと弾く。

 

「!」

 

 ニヤリとヘルマンが笑った直後、腕を弾いたことで開かれた体。無防備に晒されている腹に渾身の右ストレートを叩き込んだ。

 

「フ……ぬ?」

 

 勝ち誇りかけて、手応えが違うことに疑問を持つ前に認識の正しさは直ぐに証明された。

 ヘルマンの拳は人の肉体ではなく、アスカが足元にあった瓦礫を蹴り上げて壁としたのだ。当然、瓦礫は爆発したような激音と共に粉々に粉々に砕けたが、アスカに耐える力を入れる暇を与えていた。

 今度、ニヤリと笑ったのはアスカの方だった。

 

「オラァッ!」 

 

 耐え切ったアスカの拳が、怒涛の如くヘルマンの顔面に襲い掛かった。

 

「ぐっ」

 

 突然の肉弾戦に、ヘルマンは即応しきれなかった。

 一秒で十発以上放たれた乱打が顔面を打ち据え、その度に異形の顔が上下左右に方向転換させられる。無論、それを甘受ばかりしているヘルマンではない。

 

「それっ!」

 

 鼻面に急進してきた拳を手の平で受け止めると、その腕を絡め取って一本背負いの要領でアスカを硬いアスファルトの地面に叩きつけた。

 

「ぬうっ!」

 

 追い討ちを駆けんとヘルマンが振り上げた脚を下ろすよりも早くアスカは動いていた。

 起き上がらずに腕を振り抜きざま、無詠唱で生み出した雷の投擲を真っ直ぐ向けて突き上げる。

 ヘルマンは仰け反るようにして、その切っ先から逃れようとしたが、皮膚一枚ほどの差で躱しきれなかった。腰から胸元までの服を一直線に切り裂いて肌に薄い縦一文字の傷が描かれる。

 ヘルマンはその損傷にかかずらうことなく、逆に右手に魔力を集中させて振り下ろした。

 アスカが後ろへ飛ぶように避ける。振り下ろされた右拳を中心に付近の地面が粉々に爆ぜる。アスカの行動の方が振り下ろされる右拳より半瞬ほど早かった。たったそれだけの差でアスカは命を拾った。

 

(――――!)

 

 しかし、爆砕した地面の破片を払いのけていた左手が爆煙を割って伸ばされた手によって掴み取られた。

 ぐい、と動作方向に引っ張られたことで抗うことも出来ずに、またもやアスカの身体は宙を舞っていた―――――前方に向かって円を描くように投げ飛ばされ、強大な力で背中から地面に叩き落されて息と血反吐が口から漏れ出る。

 

「…………っ!」

 

 背中を固い地面に強く打ったせいで、一瞬呼吸が止まる。悲鳴すら上げられない。しかし、そのまま掴んでいる腕を極めてトドメを刺そうとしているのを目にしては動かずにはいられない。

 

「ぐっ……!」

 

 ヘルマンは掴んでいるアスカの手から生じた雷撃に条件反射的に手を離してしまった。

 雷で弾きながらアスカが地面についた左手に力を集めて解放する。瞬動の要領で右方向へと回転しながら飛ぶ。

 本来ならば足を使うのを手で、しかも片手で行っているので姿勢は安定しない。しかし、緊急時の回避としては十分の距離を取れた―――――と安心した時には既にヘルマンの攻撃は始まっていた。

 両手両足をついて着地したアスカの上、ヘルマンが投げた砕けたアスファルトの欠片が落ちてくる。

 アスカは横っ跳びで、アスファルトの襲来を避けた。しかし、ヘルマンは次々と投げているのか、アスファルトが回避先に飛んでくる。横っ跳びのせいで体勢が悪い。もう躱すことは出来ない。

 

「このっ!」

 

 咄嗟に両腕を振るって、アスカは掌底で身長ほどの大きさのあるアスファルトを叩き割った。その間にヘルマンが疾風の如く近づいていた。

 アスカが向かってくるヘルマンに向かって何かを投げた。振るわれたのは何の力もないアスファルト。掌底で叩き割った時に欠片を手にしていたのだ。

 小さな欠片といえど、目の前に飛んで来れば視界の一部を覆い隠す。条件反射でアスファルトの欠片を払いのける。

 

「なっ……しまっ……!」

 

 ヘルマンが失策を思うより速く、腹に一撃が叩き込まれた。突きか蹴りか、ヘルマンにはそれすら分からぬほどに重い一撃だった。

 よほどの勢いを以て放たれた一撃なのか、破壊的な反作用を齎してヘルマンの体が勢いよく後方へ飛ぶ。

 

「今ッ!」

 

 向こうは体勢が悪く、こちらの一撃を受けた直後。アスカの好機であった。

 右手に収束した魔法の射手を纏い、紫電を帯びながら一直線にヘルマンへ向けて飛ぶ。不可避の一撃。なのに、ヘルマンの顔から笑みは失せていない。ハッタリだと気にせずに突進するアスカ。

 後少しで、というところでアスカの目前からヘルマンの姿が掻き消えた。

 

「なに……ぐはっ!」

 

 ヘルマンに羽が生えたと思ったら掻き消え、刹那の後に腹から鈍い衝撃が走る。

 

「私には羽があるのだよ」

 

 羽をはばたかせ、虚空瞬動をして一回転することで攻撃を躱して、勢いのまま上を通るアスカを蹴り上げたのだ。

 遠心力を乗せた蹴りの衝撃は腹から背骨を伝って全身に広がり、アスカは目を剥いた。息が出来ずに喘いでいると、蹴られた勢いで上昇していた背後に回りこまれていた。ヘルマンの左手が、背中を殴打する。

 まるで十分に遠心力がついたハンマーを叩き込まれたような重い衝撃に、アスカは言葉も出せず、口の端から鮮血を撒き散らしながら上昇とは反対に急速に下降して地面に斜め上から叩き付けられた。

 殴打の衝撃は凄まじく地面を削りながらようやく止まる。

 蹴りと殴打と落下の衝撃。全身に広がる立て続けのダメージで身体が痺れ、目も霞んでいたが、アスカは立ち上がった。敢えて追撃に移らず、用心深く目元の血を拭ったヘルマンはジッと待っていた。 

 

「この程度で終わりではあるまい?」

「当然だ!」

「なら結構!」

 

 二人が同時に踏み出した瞬間、姿が消えた。アスカとヘルマン、二人の姿がかき消すように見えなくなった。それは二人の移動速度が速すぎて、そのように見えただけだ。瞬き一回にも満たない時間が過ぎた時には激突していた。

 もはや互いに惑わすことも、探り合うこともない。より速く、より重く、どちらも相手の一撃を凌駕する会心の一撃を追い求めて、交錯させる猛烈なる攻め技の応酬が繰り広げられる。

 絡み合うように鎬を削る力の余波によって発生した火花は、まさに百花繚乱の狂い咲き。人外のパワーとスピードで駆使される体躯の衝突は音速を超え、観測が意味を失う領域の瀬戸際で極限の冴えを競い合っていた。

 二人がぶつかった瞬間に起こった攻防は十合なのか百合なのか、それすらも肉眼では判別し切れなかった応酬を交わす。逆巻く烈風と生と死の錯綜。雷が奔り、火花が奔り、衝撃波が奔り、光線が奔る。頭上の雲の中を生き物のように轟音を伴った雷光が走り回っている。

 

「悪魔パンチ!!」

「雷華豪殺拳!!」

 

 十メートルの鉄板すら容易くくり貫きそうなヘルマンの拳を、アスカは集束・雷の三矢を拳に乗せて真っ向から迎え撃つ。

 

「ク、カッカッカッカッカッカッカッ」

 

 ヘルマンは必殺の一撃を防がれたことに、遠目からでも分かるほどはっきりと笑い声を漏らした。掠れるような声で、くぐもった嗤いを漏らしてくる。不気味で陰惨であったが、その声にあるのは一筋ではいかない強敵に出会えた歓喜だった。

 今まで以上に魔力を溜めた腕を放つのを、見せぬ速さで鮮やかに横薙ぎに振るった。

 これを上空に跳び上がる事で回避したアスカだが、固定されている観客席はそうはいかず、当たるも幸いに薙ぎ払われていく。二人の戦いによってなんとか原型を留めていたに過ぎなかった観客席が、ヘルマンの振るった一撃によって元がなんなのか分からないほどに破壊されてしまった。

 アスカを追って空中に飛び上がったヘルマンは、バッと背中の背中の羽を広げて怪鳥の如く舞う。

 

「!」

 

 追撃戦になるかと思われたが、ヘルマンは口を大きくガパッと開けて浴びたモノの悉くを石化する光線を放った。

 石化したか、と閃光によって思わず腕で眼を覆った誰もが思った。アスカは右手に集めた魔力で何もない空間を叩いた。さっきもやった虚空瞬動の応用で無理矢理に空中で軌道を変える。

 眩んだ眼が正常に戻って見ると、石化していないが体勢が崩れているアスカの姿があった。

 

「隙有りだ」

 

 直後、空高くより急降下して獲物を強襲する鷲の如く、蹴り落とすヘルマンの姿もまた同時に映る。

 追撃はさせぬと放たれた雷の投擲を避けながら、元が何か分からない様になっているステージ跡に落ちたアスカを嘲る。

 

「次は石化を破ることは出来ぬと避けるのは結構だが、隙を晒しては意味がないぞ?」

 

 互いの取るべき手段は承知の上。

 

「白い雷!!」

 

 アスカの中距離系魔法が放たれ、迎え撃つように石化光線が放たれる。攻撃の余波によって欠片程度には残っていたステージが廃墟どころか更地へと化していく。

 雷鳴が激しく轟いたのは、この時だった。

 

「住んでいる世界が…………違いすぎる………」

 

 遅ればせながらも眼を覚ました刹那は、眼下で起こるバケモノ達の戦闘を見て飛び出しそうなほど目を見開き、滑稽なくらいガタガタ震えていた。

 他の人質たちも歯の根が合わぬほど怯えきっている。血の気の失せた顔で、ただひたすら震えていた。普通人にすぎない彼らも、大いなる力の一端を感じているのだ。

 喉を鳴らし、刹那は思う。その程度しか認識できない者たちは幸せだ、と。

 この、全身を圧迫する<力>をもし、まともに感じ取れたら、とても無駄口など叩けないだろう。

 

『魔と戦うものは自らも魔と化さぬよう心せよ。お前が深き闇を覗き込む時、闇もまたお前を覗き込む』

 

 嘗て刹那は、師である青山鶴子にそう教えられたことがある。だが、それもまた力を求める者の一つの完成形。力のみを求め、守る者無き者の剣は確かに強い。守るための戦いは、ただ自分だけのための戦いより遥かに困難だ、と。

 鶴子の言葉を片時も忘れた事は無い。守るために戦う自分がそんな輩に負けるわけにはいかないと、当時の自分は強くなる決心した。それだけの修練と苦行を乗り越えて強くなった自負と自信がある。けれども、魔そのものと魔に堕ちようとしている者達の戦いを見る目は恐怖に濁り、足は竦み、心は容易く力に屈服する。

 濡れた髪と巻いたタオルが身体中にベッタリと張り付き、底なし沼のように彼女を絶望の底へと引きずり込もうとしている。鼓膜も度重なる轟音によって麻痺してノイズのような音しか拾えず、景色と同じようにぼやけた像しか捉えていない。

 まるで巨大な肉食の獣が目の前で吠えたてているよう錯覚を覚える。

 

「あ……?!」

 

 見ていられずに眼を伏せていた刹那は突然上がった明日菜の声に思わず顔を上げた。

 

 

 

 

 

 二人の戦いは佳境へと移っていた。上空数十メートルに空気を引き裂く拳という名の鈍器から、光が弾となって吹き荒れた。

 アスカは咄嗟に身を捻ったが、それでも脇腹を光が掠める。たったそれだけで、アスカの体が竹とんぼのように回転した。なんとか虚空瞬動の応用で四肢の先から魔力を放ってブレーキをかけることで落下を防いだが体勢の不利は否めない。また、この絶好の気をヘルマンが見逃すはずが無い。

 アスカが体勢を整えるよりも速く、ヘルマンがフックを放つと横薙ぎに光が走った。

 空気を引き裂いて迫る光を、地を滑るように燕のように掻い潜って紙一重で躱したアスカがヘルマンの攻撃を放った腕である右側に虚空瞬動で踏み込んだ。

 

「がっ!?」

 

 アスカの左肘がヘルマンの右脇腹に突き刺さった。そのまま脇の下を潜って体を入れ替え、ヘルマンの背中に肩の裏で体当たりしようとして、

 

「―――――!?」

 

 が、攻撃を耐え切ったヘルマンは素早く反応してターンしたので、死角に回り込むはずが既に攻撃アクションを止められずに躱されたため隙が出来た。

 そのままアスカが横を通り抜けるのをヘルマンは許しはしない。アスカ目掛けてトラックのタイヤのような膝が撥ね上がる。

 

「かっ……」

 

 避けることはできないので受けようとするも防御が間に合わず、アスカの腹にハンマーのような膝先がめり込んだ。二十階建ての建物の屋上からコンクリートで固められた地面に生肉を叩きつけたような音が響いた。

 鉄の塊に殴られたような感覚の後にバキバキと肋骨が砕ける音が響き、「かはっ」と血の混じった唾を吐きながら、突き上げられて身体をくの字に折ったアスカの視界の隅に、狂笑を浮かべたヘルマンが映る。

 

「くっ!」

 

 アスカは歯を食い縛り、痛みに耐えて追撃が来ない内に空中で体を回転させるのと同時に攻撃を繰り出した。

 拳を握って繰り出した左拳は、同じように拳を握り、限界まで魔力を通わせて待ち受けてから打ち下ろされた悪魔パンチで合わせられた。十分に力の乗っていないアスカの左拳と十分に力の乗った悪魔パンチでは勝敗は明らか。

 アスカの左拳が何本も骨の砕ける嫌な音と共に潰れた。

 

「ぬん―――ッ!」

 

 歪に歪んだ左拳の痛みに呻く間もなくヘルマンの巨大な手が視界を覆い、万力染みた凄まじい握力がアスカの頭を締め付けた。

 

「ぐわあああ―――――っ!!」

 

 頭蓋骨の軋む音とともに地が逆流し、頭の中にバチバチと火花が散る。

 アスカの苦痛の叫びに、ヘルマンの唇が一瞬おぞましい笑みの形に吊り上がった。視界をヘルマンの巨大な手で覆われているのに背筋に走った寒気。アスカの第六感に危険の信号を発するが、痛みで行動が遅れた。

 ヘルマンがアスカを掴んだままの腕を振り上げた。悪魔の身体能力にモノを言わせた腕力で振り回され、天地が入れ替わるような浮遊感を感じた直後、豪快に風を切りながらヘルマンが腕を振る。アスカを真下の地面に向かって投げたのだ。

 技でもなんでもない力任せの一撃だが、アスカは抵抗すら出来なかった。まともな悲鳴すら上げられずに凄まじい速度で一直線に落下してゆく。視界を横切る景色が、ただの色の帯となる。

 

「グハッ!?」

 

 隕石が墜落したような衝撃と共にアスカは背中から地面に叩きつけられた。

 全身がバラバラになったような衝撃に意識が遠のく。が、それも一瞬のことで、何かが上に圧し掛かってくるのを感じ取って腕を胸の前で交差させる。

 地面にめり込んだアスカに向けて、ヘルマンはその巨大な膝を叩き込んだ。アスカの主観では巨大な岩のようなヘルマンの膝が、咄嗟に胸の前で交差させた腕ごと胴体に食い込んだことによる激痛によって、意識が一瞬確実に別世界へと飛んだ。

 何かがバキバキと折れる音がやけに大きく響いて聞こえたので、どこかの骨が折れたのは間違いない。アスカの口から血が溢れた。沈み込んだヘルマンの膝は恐らく骨だけではなく、それに護られた器官をも叩き潰したか、折れた骨が傷つけたのか。

 仰向けに横たわり、踏みしめられたままで動くことが出来ない。荒い呼吸の度に口から鮮血が零れる。

 尋常ではない戦闘能力を持っていようが動けないほどの傷を負えば、ただの人と変わらなくなる。もはや戦うどころか起き上がることも怪しくなってきたアスカを、ヘルマンはそのまま手を伸ばして膝で腹を押さえつけたまま頭部を掴んで邪悪な笑みを浮かべて覆いかぶさる。

 

「まだだぞ、少年!」

 

 馬乗りになって太腿で胴体を挟み込み、アスカの自由を完全に封じる。

 空いた手で顔目掛けて連打を加える。僅かなガードの隙間を縫って拳を落としてゆく。腕で辛うじて急所は守っているが振るわれる拳の威力は脅威だった。連打の前には防御などそれほどの意味を持たない。防御しようとも上から押し潰そうとするからだ。

 リズムよく叩きつけると、アスカの顔が面白いように上下する。

 

「ぬははははははっ!」

 

 ヘルマンが高笑いを上げる。拳で肉体を殴打する鈍い音が、生肉をコンクリートに叩きつけたような生々しい音となって辺りに響き渡る。その度に地面が余震のように震え、そこそこ離れた場所にある世界樹が不気味に揺れる。

 

「ぐ、ぐぶっ」

 

 口からは血の泡を溢れさせながら防御の姿勢を取り続けたアスカの右手が、攻撃を繰り返すヘルマンの左手首を突然に掴んだ。

 

「今さらどうしようと言うのだ? 無駄なこと、を…………おぉ!?」

 

 そして体内の魔力を爆発させて、全身の防御を放棄してまで右手一本に集中した状態で力のままに握り潰した。

 魔力を右手に一点集中すれば、他の部分の守りが薄くなる。それこそ一発でも攻撃を受ければ顔が潰れたトマトのようになる危険性があった。多大なリスクを冒してまで行った賭けはアスカに味方した。ヘルマンの顔が激痛に歪み、アスカの指が楔のようにヘルマンの手首に深々と食い込み、皮膚を破って血を吹き出させていた。

 

「おおおおおあああああああっ!!」

 

 アスカは、痛みでほんの少しだけバランスを崩したヘルマンの腕を引っ張って前のめりにさせ、頭突きをして体を浮かさせた。

 跳ね上がる上半身。浮き上がった腰から足を引っ張り出し、胸板を蹴り上げて空中にまで跳ね飛ばした。更にバネ仕掛けの機械のように後転して跳び起きると同時に地面を蹴り、弾丸のようにヘルマンに向けて突進する。

 ヘルマンは飛び上がってきたアスカに向けて、カウンターで口から石化光線を吐く。

 だが、石化光線を予測していたアスカは産毛が掠めるほどの紙一重で躱した。髪の毛数本と服の端が石化したが、その程度では動きを阻害するには至らない。

 腫れ上がった瞼によって右眼が完全に塞がっている。鼻も血が詰まっているのか呼吸が出来ないし、何よりも鼻がついているかどうかも判らないほど感覚がない。砕かれた左拳はミミズが穿ってるような感覚がしてるし、一呼吸する度に内臓が異様に痛い。

 戦況が長引けば不利であり、ここが最大にして最後の好機と見た爆発的なパワーがアスカの身体を突き動かし、後のことなど知らぬと負担も考えずに、無意識に肉体限界ギリギリに留まっていた魔力の出力を上げる。

 

「ヘルマン!!」

 

 アスカの体から魔力が爆発した。それは一時ではあるが見ていたエヴァンジェリンが瞠目するほどのパワーで、上級悪魔であるヘルマンを凌駕していた。音速すら超えられそうな速度で、死を恐れない闘争本能だけの野獣が敵の懐に飛び込む。

 

「明日菜達のっ!!」

 

 アスカの右拳ががら空きになったヘルマンの鳩尾に突き刺さった。

 

「村のみんなのっ!!」

 

 上体を折ったヘルマンの急所という急所に、無数の拳打を、肘打ちを、蹴りを叩き込む。高解像度カメラでも残像しか映らないほどの猛烈なラッシュである。潰れた左拳も使い皮から骨が突き破ろうともお構いなしに拳撃を叩き込む。

 

「俺達を育ててくれたじっちゃんのっ!!」

 

 幾ら限界まで鍛え込んで超上の力で身体強化されているとはいえ、人間を遥かに凌駕する強靭な体組織を持つ悪魔の肉体を貫くには一撃では及ばない。ならば、一撃で及ばないのなら二倍の、二倍が効かないのなら十倍の、十倍が効かないなら百倍の攻撃を放てばいい。

 

「泣いていたネカネ姉さんのっ!!」

 

 百を越える打撃を浴びせたアスカの右腕が折れる音が、拳撃の合間に響く。

 ヘルマンの手首を潰した際に一点集中した魔力の負荷と、肉体許容量を超える出力で放つ拳撃によってまだ完成されていない骨が何度も攻撃を受け、強すぎる力と攻撃を放ち続ける負荷によって遂に限界を迎えてしまった。

 

「悲しんでいたアーニャのっ!!」

 

 血染めの叫びは折られた肋骨、潰れた左拳、折れた右手、食らった打撃によるダメージ等による痛みが全身を走った苦痛の呻きか、それとも際限なく昂揚し続ける殺意の発露であったか、彼自身にも判然としない。

 別に構わないと、痛みすら感じず忘我の域に到達しながらそう思った。

 

「苦しんでいたネギのっ!!」

 

 憎しみに染まっているようでアスカの意識はたった一つの意志の下に先鋭化していた。今この瞬間において己の全てを目の前の相手を打倒することだけに特化させて相手の急所を殴り、蹴り、突き、抉り、破壊する。

 

「みんなの思いをっ!!」

 

 もはやヘルマンを倒すという思考以外は千々に乱れ、意味のあることは考えられない。泣き喚く赤ん坊のように、只管に不快で苦しく痛くて気持ち悪かった。吐き気がする。頭がおかしくなりそうだ。否、そんな地点はとうに通り過ぎている。

 

「思い知れぇええええええええええええ――――――――――ッッッッ!!!!!!」

 

 嵐の如き内面を反映するように攻撃の回転が更に上がる。

 何も考えられない。思考能力は低下し、湧いてくるのは故郷が滅んだ記憶と悪意ある妄念、そして苛々と不快な思考だけだった。

 

「ぐおっ!」

 

 ヘルマンの胸板を両足で蹴り落とし、その身体を地面へと叩きつけた。

 

「フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル!!」

 

 地面にめり込んだヘルマンを追うことなく、空中に留まったアスカが始動キーを高らかに謳う。

 

「来たれ雷精、風の精! 雷を纏いて吹けよ南洋の嵐!」

 

 肉体限界を超越した魔力がアスカの全身から放出され、骨折している右手を掲げた刹那、暗雲の空に蓄えられた巨大なエネルギーが引き寄せられるようにして雷が降った。

 天に走った雷は、あたかもアスカの感情の大きさを示す様に巨大な雷獣が通ったように見えた。

 雷光を受けたアスカの全身が稲光の閃光を湛えた。よく見ると、無数の激しい紫電が拳を始点にして渦巻いていた。

 

「きゃあっ」

 

 アスカに雷が落ちると、耳を劈くような金属音が辺りに反響して響き渡り、ヘルマン以外の両腕の自由な者は耳障りな音に慌てて耳を押さえた。

 

「――――――雷の暴風ッッッッ!!!!!!」

 

 幾百の紫電を散らしながら、アスカの残っていた全魔力が込められた雷の暴風が流星となって天空より放たれる。

 敵を撃滅せんと体を起こしたヘルマンの頭上へと一気に降り注いだ。輝く星空から落とされる一条の光――――――――それは神話にある「神の怒り」すら彷彿させた。

 

「グォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッッ」

 

 耳を劈くような轟きと、目を覆わんばかりの閃きが一角を震わせる。一瞬、辺りが光と轟音に満たされた。明日菜たちの悲鳴を飲み込み、全てが白い闇に沈み、凄まじい破壊の力が辺りを駆け巡った。

 躱すとか、逃げるとか、そういったレベルの魔法ではなかった。ヘルマンのみならず、真下で雷の直撃を受けたステージ跡に隕石が落ちたかのような巨大なクレーターを作り、戦いの余波でボロボロになっていたが完全に瓦礫もなくなった。

 一個人に使うような魔法ではない。普通なら塵すらも残らないような威力。しかしアスカが相対するは悪魔、常人であるはずがない。

 

「私はまだ生きているぞ、少年!!」

 

 全ての魔力を防御に回した上で、羽で全面を覆ってヘルマンは見事に耐えきってみせた。羽の殆どを失い、残っていた角と四肢やあちこちを欠損させたヘルマンは既に死に体、戦える体ではないのにその眼だけはギラギラと戦意を放っていた。

 放たれた雷の暴風によって荒れている気流の中を、残った羽を使って狂念そのままに駆け上がっていく。

 互いに魔力を使い切った。ヘルマンの戦意は些かも衰えず、アスカは必勝を期して勝利を確信しているはずである。四肢やあちこちを失っていようとも、一撃だけならばヘルマンにはまだ石化能力がある。

 空に再び雷光が弾けた。

 

「――――お前なら、きっと耐えて来ると思っていた」

 

 雷光の発信源はアスカで、魔力は尽きているはずなのにその右腕から、先程とは比べ物にならない小さな紫電が迸っていた。

 

「げぇっ!?」

 

 ヘルマンは雷光を発しているのが魔力の力ではなく、気の力によるもの感じ取る。それが修学旅行でアーティファクト『絆の銀』によって小太郎と合体した際に学んだ気の操作方法。極限の状況で発動した魔力とは別の力をその手に宿し、小さな虚空瞬動をして驚愕しているヘルマンへと走る。

 折れた右腕に感覚はない。それでも向かってくる相手に叩きつけることぐらいは出来た。

 

「これで、最後だ――ッ!!」

 

 石化光線を放とうとしているヘルマンの顔へと 六年分の想いを込めて拳を叩き込む。

 

「がっ!?」

「いっけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ―――――――――ッッ!!!!」

 

 重力を味方につけて、アスカはヘルマンと共に地へと落下していった。

 数秒後、地面にぶつかった音が世界樹の枝の上にいる明日菜にも聞こえた。

 

「か、勝ったの?」

「そうみたいね」

 

 雨が降っていても雷の暴風の衝撃で巻き上がった噴煙が視界を遮っていた。明日菜が恐る恐る問いかけたのをアーニャが言葉少なく頷く。

 やがて白い霧が晴れ、再び視界が効くようになって初めて明日菜達が目にしたものは、破壊されつくして露出した地面のクレーターの横で仰向けにぐったりと横たわるヘルマンの姿だった。

 砂塵によって隠れた視線の先、クレーターの底でヘルマンは身体中を損傷して、口から血を流し、下半身は完全に消滅して人間界に限界し続けることができずに末端から少しずつ塵となっているものの、それでも生きていた。

 

「………………」

 

 仰向けに横たわったヘルマンの直ぐ近くで、のっそりとアスカがが体を起こした。 

 呼吸は乱れ、額から流れ落ちる水滴は、なにも雨によるものばかりではなかった。血と汗と泥に塗れ、戦闘のダメージと疲労は決して浅くはない。それでもアスカは五体満足で生きていた。

 

「負け、か。私も焼きが回ったかな」

 

 ヘルマンは痙攣し、ごぼごぼと音を立てて赤黒い血泡を吐いた。

 

「だが、後悔はない」

 

 そう、ヘルマンに後悔はない。悪魔の命は長い。目を瞑れば先ほどあったかのことのように六年前のことが思い出せる。

 あの日、目の前でただ震えていることしか出来なかった少年が復讐心を胸にここまで強くなり、遂には己を打倒するまでの強さを手に入れた。やるだけのことをやった。そして一人前の戦士に倒された結果であれば満足だと、充足感が体を満たす。

 

「見事だ。私を斃すまでに成長しているとは思わなかったよ」

 

 ヘルマンも素直に敗北を認めた。人間形態になったヘルマンは心からの賛嘆を込めて囁くように言う。

 両腕と下半身は既に消滅しており、残っているのは首から上と胴体のみ。それにしても所々を火傷に侵されて外傷も酷い。

 石化光線を出すことも出来ずに死に体であるにも関わらず、ヘルマンの体から覇気が消えていない。元伯爵として無様に足掻こうとせず、素直に敗北を認める姿勢が見て取れた。

 

「君の勝ちだ、アスカ君」

 

 世界樹から降りてきたネギとアーニャの姿を視界に捉え、ヘルマンは哂う。

 復讐者と悪魔の死闘は終った。勝利を掴みながら、その場にいる誰一人も勝鬨を挙げる者はいなかった。

 

「さぁ、私を殺したまえ。君にはそうする義務も権利もある」

 

 嵐もまたエネルギーを使い果たしたのか、次第に勢いを弱めていく。

 あれほど荒れ狂っていた風は鳴りを顰め、戦場となり破壊され荒れ果てたステージに残る死闘の空気を、微かに降り頻る雨が冷まし洗い流していくようだった。

 




開始「時点」のヘルマンの戦闘力を100とすると、アスカは大体60ぐらい。

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