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辞令
イゼルローン要塞事務監 アレックス・キャゼルヌ少将
上記の者を、イゼルローン要塞司令官代理に任ずる。
宇宙暦七九七年四月十五日
イゼルローン要塞司令官兼同駐留艦隊司令官 ヤン・ウェンリー大将
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出動命令
イゼルローン要塞駐留艦隊に出動を命ずる。
出動は宇宙暦七九七年四月二十日とする。
惑星ネプティス、カッファー、パルメレンド、シャンプールの武力叛乱鎮定及び
惑星ハイネセンの治安回復を目的とする。
宇宙暦七九七年四月十五日
イゼルローン要塞司令官兼同駐留艦隊司令官 ヤン・ウェンリー大将
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布告された二つの文書で、イゼルローン要塞は騒然となった。特に後者によって。同盟軍同士が相打つという、史上初の事態となるのかも知れなかった。軍人、軍属はまだしも、その家族である民間人に走った動揺は大きい。
出動の準備に、保護者愛飲の紅茶のティーバッグを買いに出掛けたユリアンにまで、ヤンの勝算についての疑問を投げかける人間がいたという。亜麻色の髪をした、繊細な美少年は威厳さえ漂わせて宣言した。
「ヤン・ウェンリー提督は、勝算のない戦いはなさいません!」
弟子の報道官としての意外な才能に、黒髪の魔術師は苦笑して賞賛を贈った。美少年で頭と性格がよくて、スポーツも万能。おまけに家事も達人である。ヤンが教える戦略戦術のみならず、白兵戦や射撃、単座式戦闘艇スパルタニアンの操縦も、それぞれに非凡な才能を見せはじめている。ヤンにとっては、出来すぎるほどの被保護者で、
家事の役割分担は完全に逆転しているが、これは仕方がない面もある。宇宙船暮らしということで、炊事自体の経験がほぼ皆無。家事も多くは宇宙船独特の機器を使用する。いわゆる家電は士官学校に入学するまで見たことがなかった。今も苦手な理由にするのは、キャゼルヌ曰くお坊ちゃん育ちの怠慢だろう。
一方、ユリアンの実技の師匠の採点は案外と辛い。
器用貧乏のおそれを指摘したのは、白兵戦の師匠であるシェーンコップ准将。
おまえには、ヤン・ウェンリーという先行者がいるからこそだと言ったのはポプラン少佐。
これには反論したのはキャゼルヌ少将。なんでも出来るのに越したことはない。師の不得意分野に、生徒の得意分野をぶつければいいのだと。ヤンに白兵戦で勝ち、シェーンコップに空戦で勝ち、ポプランには戦略戦術で勝つ。
まあ、出来がいいゆえの贅沢な不満というやつだろう。保護者はそう思うのだ。もともと適性調査ぐらいのつもりでいたのに、全部に望外の才能を現してしまったのだ。しかし、あの時に講和が結べていたら、この子の才能を戦争なんかに空費させなかったのに。歴史にもしもはない、というのは彼の持論だが、そうやって自分を納得させ諦めをつけてきたことがいくつあることだろう。
出撃までのぽっかりと空いたエアポケットのような日々。無論、デスクワークはあるし、艦隊運用案も詰めなくてはならない。しかし、艦艇は最終点検に入っているし、資金や物資の節約を考えると実働演習が出来ないのは痛い。ユリアンに言ったように、四ヵ所すべての叛乱を叩いて回るのは非効率に過ぎる。だが、情報が揃わない時点で、憶測に基づいて突っ走るのは百害あって一利なしである。これは少々言い訳がましいか。
だが、留守前に決裁しとけと積み上げられた書類の山よ。引き続き副官の座にいる、フレデリカ・グリーンヒルが的確に分類し、概要を要約してくれているからサインするだけで済むのであった。そもそも、この机上にある時点で、アレックス・キャゼルヌという強力な門番のお墨付きを得ているのだから、ヤンはサイン記載装置でしかない。頭と右手以外は不要である。
司令官代理になるのを、前倒してくれてもいいのだが。いや、むしろしてほしい。諸手を上げて歓迎する。無論、面と向かっては言えない。彼の舌鋒が火を吹くに決まっている。一ヶ月半も出張していて、二週間と空けずにまた出撃。本当に申し訳なく思うヤンである。
だが、その事務監は別の見方をしていた。今は拘禁されている統合作戦本部長代理のことだ。遥かに若い大将への
「そうきたか……よろしい、受けて立ってやる」
事務監の不吉な呟きに、部下らは礼儀正しい沈黙で報い、上官一人がなだめ役に回った。キャゼルヌの同格者は三名いるが、年長者も心情的には同意し、最年少者は声に出して共同戦線を形成しそうなので、孤立無援の大将閣下である。再度の留守番の事務引き継ぎの場、司令官執務室での一幕であった。
「まあまあ、落ち着いてください。後方と前線が反目しあったら、クーデター派の思う壺ですよ」
そして、ローエングラム候ラインハルトの。
「ふん、このままじゃ自由惑星同盟軍の実質的中心が、ここになるかもしれんぞ」
キャゼルヌの毒舌は、かなり際どいものだった。白き魔女のご亭主にも、予言の才があるようだ。
「そうならないように出撃するんですから。留守番をまたよろしくお願いします。
今回は、シェーンコップ准将と
「そりゃ構わんが、なんでまた」
「今回の鎮定先は、星間戦闘能力のない惑星が混じっています。
鎮圧に手間を取らせるための、巧妙なものだと思いますけれどね。
彼らの卓越した陸戦能力を、死蔵するのはもったいないでしょう」
「そうか。留守中に連中が帝国に呼応するのを警戒していたわけじゃないんだな」
キャゼルヌの言葉に、ヤンの黒い目が丸くなった。次いで、軽い笑い声を上げる。
「それはまた、誰が言い出したんです? ポプラン少佐あたりかな」
「ほう、当たりだが、ヤン司令官は笑い話だと思うのか」
「ええ、キャゼルヌ事務監がいらっしゃるのに、どうやってその為の武器や食糧、資金を
誤魔化しておけるんです? 先輩が言う時点で冗談だと分かりますよ」
「なるほどなぁ。奴らがおまえさんに忠誠を向けるのが分かる気がするよ」
人を見抜き、信頼する美徳。この頼りなくも天賦の才を併せ持つ青年を、支えてやりたくなる。それがヤン・ウェンリーのもう一つの魔力なのだろう。
「いやぁ、トイレにまで付いてくるのはやめて欲しいんですがね」
「馬鹿か、あそこが一番危ないだろう」
死角は多いし、男であれば誰が出入りしても不審には思われない。清掃に紛れて、爆弾や薬物を仕掛けるのも容易い。
「まあ、そりゃ仰るとおりなんですが。先輩も気を付けてください」
「分かっているさ。用足し中に死ぬなんて、一番不名誉な死に方だぞ。
ユリアンを連れていくのもそれでなんだな」
「連れて行きたくはありませんが、
この要塞内でクーデターに賛同する者が出ないとも限りません。
それが心配なんですよ。
あの子を人質に、クーデター派に下れと言われてもそれはできません。
でも、あの子を失いたくはないんです。
艦隊戦で負けたらどうなると言われると、反論はできませんがね」
厳密に言うと、自分の手の届かない場所で家族が死ぬのには耐えられない。
「ヤン・ウェンリーは勝算のない戦いはしないんだろう?
確かに、おまえさんの傍が一番安全さ。薔薇の騎士らもついているんだろう」
「それにですね、シェーンコップ准将が言うには、私よりユリアンの方が強いそうです」
「おまえさんもちょっとは鍛錬しとけ」
ヤンは肩を竦めた。
「今回はドーソン統合作戦本部長代行のお達しであるから、袖の下はいらんぞ。
送別会を開く余裕はないが、慰労会なら何度でも開いてやる。
必ず、無事に帰ってこい。いいな」
「楽しみにしていますよ。その時は、手土産を奮発しますから。
それと、キャゼルヌ事務監の部下に伝えてください。グリーンヒル大尉への応援を感謝すると」
「ああ、あれか……」
キャゼルヌは渋面になった。部下の女性士官らの言葉は、グリーンヒル大尉への援護射撃として絶大な効果があったが、娘を持つ父の心にも無数の弾痕を穿った。鉄灰色の髪の後輩も、女性陣に賛同。キャゼルヌもまた孤立無援であった。
「俺は聞きたくなかったがな。いいか、ヤン、うちの子達はそんな風にはせんからな」
「ええ、マダム・キャゼルヌがいるかぎりは大丈夫だと思いますよ」
穏やかな口調で、父ではなく母への信を保証する人の悪い後輩であった。キャゼルヌは薄茶色の眼で睨んでやったが、後輩はどこ吹く風だった。
「それにねぇ、個人差が大きいと思うんですよ。
私なんかこんなに不出来な保護者なのに、ユリアンは慕ってくれます。
あの子を連れて来てくれてありがとうございます。
必ず勝って戻ってきます。留守をよろしくお願いしますね」
「……分かった。ヤン司令官、航海の無事を祈る」
それ以上の言葉は見つからず、また不要でもあった。辺塞の寧日はまもなく終わりを告げる。
ヤンの懸念はハイネセンにあった。ヤンの数少ない、旧くからの友人、ジェシカ・エドワーズである。士官学校時代の親友、ジャン・ロベール・ラップ大佐の婚約者だった。アスターテの戦いで親友が戦死し、彼女は政界に身を投じた。反戦と和平を掲げて。これこそが、真っ当な手段による同盟政府の改革というものだ。本来なら。
彼女は不正や理不尽に対して真っ向から正論を述べる人だ。戦死研究科廃科の反対運動で、当事者のヤンやラップを凌ぐほどの組織力と行動力を見せてくれた。だが、今はそれこそが心配だった。自らが折れない人ほど、他人に折られてしまうから。
ラップと彼女は、ヤンにとって大事な人たちだった。家族と家同然の船を失い、あの時に一緒にいられればと悔やんでいた彼を生きているのも捨てたもんじゃないと思えるようにしてくれた。
そして、キャゼルヌやアッテンボロー、校長のシトレ。彼らは、生きていくのを楽しんでもいいのだと思わせてくれた人々だ。人は変わってゆく。12歳の被保護者が出来て、敵を殺しても帰ってこなければという思いを抱くようになった。部下ができて、この人たちも家族のところに帰してやらなくてはと痛感する。一人でも多くの部下を生還させるために、部下の誰かを死なせ、倒す敵にも家族や愛する人がいるとしても。
変わらぬ思いを抱き続けること、それもまた一つの奇蹟、あるいはなんらかの欠落だ。十歳の怒りと友情が十一年経っても変わらないでいられるか。人の心と命の儚さを思えば、ただ一人に全てを賭ける専制や独裁は危ういとヤンには思える。
どんな天才も無謬ではなく、不老不死ではない。あの黄金の
ヤンは首を振って、書類のサインに戻った。あと三日でこれが片付くんだろうかとうんざりしながら。艦隊の編成に伴い、ムライやフィッシャー、シェーンコップ、アッテンボローからも続々と戦闘計画書が上がってくる。先にサインだけして、後で写しを読みふけることになるだろう。そういえば、要塞防御演習結果報告書もまだ手をつけたばかりだった。
黒い髪をかき混ぜて、胸中で呪文を呟く。『これも給料のうち』
そう、もう十年も給料を貰ってきたのだ。やや情けないが、大事な人たちのほとんどは軍の中で知り合った。もしも当初の希望どおりの人生を歩めたら、巡り合うこともなかっただろう。
軍は暴力装置だという持論に変わりはないし、戦争がなくなることも希求している。だが、同盟軍にそれなりの愛着はあるのだった。瓦解しかけているのは確かだが、それが国を滅ぼして終焉を迎えるのを座視するわけにはいかなかった。
何よりも、まだ年金を貰っていないんだから、掛金分は貰わないと
ふいに、鼻先に芳香が香る。最初に会った朝には、引き摺っていたトランクよりも小さな少年だった彼の家族が、琥珀色を湛えた白磁を机上に置いてくれる。少年の初任給で買った、ヤンへのプレゼントだった。
「ヤン提督、どうぞ」
「ありがとう、ユリアン。後でもう一杯貰えるかな。今日はブランデーは入れなくていいから」
少年のダークブラウンの目に、おやという表情が浮かんだ。ヤンはちょっと反省する。
「これを読んでると眠くなってきそうだ。あと三日で片付けないといけないんだが」
「すごい量ですね」
「そうなんだよ。おまえは定時になったら帰りなさい」
「提督、あんまり無理をなさらないで下さいね。
今晩はアイリッシュシチューにしますから、早く帰ってきてください」
「ああ、ありがとう。じゃあ、そいつを目当てに頑張るとしよう」
またこの場所で、少年の紅茶を味わうことができるように、この書類を提出してきた幕僚らを失うことがないようにとヤンは願う。ブランデーはその時に、たっぷりと入れてもらうことにしよう。
宇宙暦七九七年四月二十日、ヤン艦隊出撃す。
銀河英雄伝説外伝IF 辺塞寧日編 ヤン艦隊日誌 了
ここまでお付き合いくださった皆様、ありがとうございました。