その頃のお留守番部隊。留守番には留守番の仕事がある。
このときに様々なデータを蓄積し、ガイエスブルク来襲時の防衛に還元したのだろう。
分艦隊旗艦トリグラフの艦橋で、若々しい声の指示がとぶ。
「左翼、0.002光秒分俯角15度で7時方向に後退せよ。
右翼、0.005光秒で仰角15度の1時方向へ前進!
進行方向に対する角度を正確に保て」
戦術コンピュータのモニター上で、整然と光点が動き、斜形陣を形成する。
「各艦、左90度に旋回。宙点Fのデコイを砲撃。
各ブロック、左から集中して狙え。撃て!」
中性子ビームの光の剣が、一斉に振るわれる。平行にではなく、的に対して数本が集中して。後にヤン艦隊のお家芸となる、火力集中である。
「アッテンボロー提督、命中率74パーセント、着弾収束時間の誤差は0.05秒です」
オペレーターの報告に、アッテンボローは頷いた。
「ま、ホワイトウィスキーと呼べるぐらいにはなってきたな。
だが、実際の戦闘ではこの5割も出来ればいいところだ。よって、続けるぞ」
ヤン司令官の後輩と聞くが、ちょっと毛色の違う人だというのが、主任参謀ラオの第一印象だった。外観は共に若々しく、なかなかのハンサムというのも一致している。だが、物静かな学者を思わせる先輩に対して、後輩は悪童のような悪戯っ気がある。頬に散ったそばかすのせいばかりではないだろう。
だが、伊達に27歳当時のヤンを凌ぐ昇進速度なわけではない。彼には大尉が6時間などという昇進記録はないのだから。味方を鼓舞する雰囲気作りがうまい。演習が続いても、モチベーションを維持させ続けている。反骨的な言動に、参謀長は眉間に皺を寄せたりもするが、下士官や一般兵からの人気は高い。手腕の方も、今すぐ艦隊司令官が務まりそうだ。指揮する艦隊がないのは悔やまれてならないが。
アッテンボローは、分艦隊全体に放送を入れる。
「本日の目標は命中率八割以上。宙点Aへ移動。
左翼はそのままイゼルローンを時計回りに周回して合流せよ。
右翼は逆方向からだ。当艦は左翼につく。
各艦に3点伝達だ。
攻撃開始は20分後、15時だ。
本日は雷神の槌の発射演習も行う。移動開始!」
その命令を受けて、左翼、右翼の先頭集団が整然と動き出す。中央のトリグラフは左翼最後尾となるため、アッテンボローは指揮席にいったん腰を下ろした。
「いや、時間ってのはありがたいもんだな。どうにか格好がつくようになってきた。
正副の司令官と参謀長には、足を向けて寝られんよ。あと、事務監殿にも」
しみじみと呟く同盟軍最年少の提督に、ラオも深々と頷き、同意した。
「全くですよ。複雑な艦隊運動を分解して、単純な動作の積み上げに変えるとは、
本当によく考えていただいたものです。旗艦からのコントロールも強化されましたし」
「ああ、メイド イン イゼルローンの通信衛星のお陰でな。
通信衛星の設置を蹴られたから、兵器廠の改善要請を通して、
自前工場で作っちまうんだもんな。しかも安くさ。
たしかに、戦艦の各種センサーとイゼルローンの装甲作成ラインがあって、
そいつで作っちまえば司令官権限で通せるなんて、普通は考え付かないぜ。
ほんとに事務屋ってのは凄いよなぁ」
「キャゼルヌ事務監を基準になさったら大間違いですよ、閣下」
この鉄灰色の髪と青灰色の瞳の青年は、ご本人も充分以上に凄い。が、基準にする先輩二人が色々と凄すぎるので、基準がどこかずれている。ムライ参謀長がおっしゃったそうだが、天才は模倣してはならないというのには、満腔の思いを込めて同意する。
「そりゃ分かってるよ。あんなに怖い学校事務のお兄さんが二人といて堪るか。
事務のおばさんはもっとおっかなかったが」
「……同感です」
彼ら二人はほぼ同年代だが、その時にはベテランの女性事務員が君臨していた。教材を壊すと、般若のような顔で叱られ、始末書を書かされたものだ。だが、教員や学生に怪我はないか、教室に大きな破損はないかをすぐに確認し、翌日には修理が済んでいる。かの『先輩』は、あのおばさんに相当に仕込まれたのだ。
「さてさて、その通信衛星と同盟、帝国の記録のお陰で、
雷神の槌の範囲が正確になったのは大きいな。
経験から、D線を見極めちゃいたが、結構誤差があった。
雷神の槌のせいで、そこまで肉薄もできなかったが、要塞砲台も馬鹿にできん。
前者をブラフに、後者をぶちかます戦術は使えるな。乱戦のふりして引き摺りこむ」
「はあ、逃げるふり前提ですか。それは帝国軍は承知しているでしょう」
アッテンボローは、敗走艦隊の再編成に長けた、変わり者の指揮官だ。大軍をきちんと維持しつつ、粘り強い防衛戦を行うヤンだが、守れるというのは敵の戦術が分かるということだ。先制、あるいは同時攻撃も高水準でこなすに違いない。まだ、そこまでには至っていないと本人は思っている。だが、それだけではここまで昇進などできない。
「三十六計逃げるに如かずだぞ。ほんとに逃げられればそいつが一番いい。
こっちの被害が少なくて済む。ところで、要塞砲台の数値化した資料は建設時のものだった。
その後にブラッシュアップしているかどうかだな。
少なくとも、うちの要塞防御部門ほどじゃない。
なんやかんや言っても、攻略戦の頻度は約5年に一回だそ。将兵の異動期間を考えてみろよ」
「きちんとデータが蓄積されているか、引き継ぎがなされているかですな。
で、イゼルローンの資料はこちらが押さえてしまっています」
「探せば出てはくるだろ。オーディーンのどこに埋まっているかは知らんがね。
こいつはな、今後こっちにも出て来る課題だぞ。ずっとヤン司令官が駐留するかどうかだよ」
アッテンボローは、声を潜めてラオに囁いた。
「別の大将、中将閣下が来るかもしれん。
どうするよ、ドーソン、パエッタコンビが来たりしたら。
三十六計、というわけにはいかんのだぜ。味方なんだから」
ラオの目鼻の小さい顔が、渋い表情を浮かべた。
「閣下、さすがに言いすぎですよ。
あのお二人にそんな重責を担わせるなんて、いくら軍の上層部でも考え付かないはずですよ」
真面目に言い切った主任参謀の顔を、アッテンボローはまじまじと凝視した。
「いや、貴官こそ結構言うなぁ……」
「小官はアスターテで、ヤン准将の魔術の立会人になりましたからね。
ヤン准将の元上官のことも存じております。で、大将閣下のジャガイモ騒ぎは、
小官のいた部署で起こったことです。小官がまだ大尉の頃でしたがね」
世の中、巡り合わせの悪い人間もいるものだ。
「その、何と言ったらいいか。悪かったよ。……大変だったな」
「本当にそのとおりです。閣下が昇進をなさるのを期待します」
「ま、努力しよう。だが、取りあえずは演習だな」
苦々しい表情で頭を振るラオと、遠い目をして肩を竦めるアッテンボロー。昇進には大規模な戦闘の勝利ありきだが、同盟軍にその余力はない。最前線のイゼルローン要塞を維持して、さて何年稼げるものか。
だが、それには演習、演習また演習。新兵による兵員補充は、約10万人。残りは敗残兵と警備隊からの異動者だ。そうなると、選択による集中というものが必要だ。熟練兵は、ヤン司令官率いる艦隊本体へ。大規模な演習を行うには限りがあるのだ。基本行動が身についている兵員ならば、シミュレーターによる仮想訓練でも一定の教育効果がある。
新兵にこそ、現場で実機による演習をさせねばならない。これも一種のOJTと呼べるだろう。彼らを中心に引き受けたのは、フィッシャーとアッテンボローだった。フィッシャーは、艦隊運用の名人だ。まず、彼の下で艦隊運動のイロハから叩きこまれる。
ものになってきたら、アッテンボローが攻撃行動を担当する。アッテンボローはヤンとの付き合いが長く、ヤンの戦術思想を肌で理解している将官だ。
複数艦の主砲を一点に斉射するというのは、それほど容易いものではない。主砲は中性子ビーム線である。すなわち、光とほぼ同速。0.1秒で3万キロ分の誤差が生じるということだ。敵軍との
あともう二、三歩、と言えるだろう。昨年の12月にアッテンボローが報告した時は、新兵と敗残兵の烏合の衆だった。あれから四分の一年を経て、精兵の集まりに変容しようとしていた。彼の報告を元に作成された、ヤン艦隊司令部謹製、戦闘フォーメーションのプログラムである。
ヤン司令官が一人しかいないように、フィッシャー副司令官も一人しかいない。では、独立行動中心の分艦隊の艦隊運用をどうするか、という回答の一つである。複雑な艦隊運動を、単純化した一動作に分解し、時系列によって順次実施する。1、2、3といった具合にだ。簡単な動作を機械的にしていくうちに、半月陣で右翼と左翼のシフト攻撃を行っているという按配である。
名人が熟練の技でやっていることを、理詰めに分解して再構築する。理論と緻密の人、ムライ参謀長にしかできない事だ。この枝葉を更にカットし、積み木のように平準化するのはパトリチェフ副参謀長。ここでもう一回、ヤン、フィッシャーの正副司令官のチェックが入って、グリーンヒル大尉によるプログラムモデルの作成。
モデルから戦術オペレーション部門が、更に細分化したものを作成、何度もシミュレーションを重ね、艦隊による演習に投入されたのが、一月半ば。新年パーティーの準備の最中も、ヤン以下の司令部は動いていたのだ。目には見えがたいし、見えてもいけない。魔術のタネは、魔術師と舞台スタッフだけが全容を知っている。これが機密というものだ。
その演習中に、帝国からの捕虜交換の申し入れがあって、思わぬ中断が起こってしまった。さらには、帰還兵輸送に司令官が同行することになり、予算要求事務の前倒しで、要塞事務監のキャゼルヌはそれにかかりきりだった。
先日、次年度予算要求書が完成し、超光速通信でハイネセンに送付された。事務監としての仕事が一段落したので、ようやく要塞司令官代理のキャゼルヌ少将として、雷神の槌使用の立会が可能になったのだ。
実際に稼働するのは、要塞防御指揮官シェーンコップ准将以下、砲手とオペレーター。不測の事態に備え、要塞整備の技術士官らも第一級配備に就く。演習と実際の戦闘に、大差はない。そしてあってもいけない。そうでなくては軍隊の練度を向上させることはできない。
「よし、合流地点までの時間を計測。各艦に連絡せよ。
右翼、宙点Aに到達したら、フォーメーションBの右翼陣に変形。
左翼は、同Bの左翼陣だ。各艦、戦術コンピュータ、回路はB-1を開け」
そして、キャゼルヌ事務監の
「ふん、手元の資源を生かさないから却下されるのは当然だ。
ここには他に何がある。雷神の槌より貴重なものがあるだろうが」
イゼルローンには、ほぼ無補給で食糧自給が成り立つ生産プラントがある。
そして材料を必要とするが、ミサイル等を生産する兵器廠。艦艇を修理するドック。
「まさか、先輩……」
「買ってくれないなら作ってしまえ。まあ、チープな分、数をばらまきゃいいさ。
民間から動員された技術士官の中に、通信機器企業出身者がいる。
なかなかできる奴だそうだ。彼をチームリーダーにしろ。
幸い、イゼルローンの外壁装甲の生産ラインもある。
艦艇用の策敵センサーと通信波の受信発信増幅器の類は、腐るほど予備がある。
要塞付帯施設修繕とでも名目を付ければ、ハイネセンの連中には分かりゃしない。
すでに数限りなく実施しているし、予算執行監査委員は、技術屋じゃないからな」
「お見それいたしました、キャゼルヌ先輩。組織を知っていてこその名案です」
「もっと誉め讃えていいんだぞ、後輩よ。袖の下も絶賛受付中さ」
酒席での一幕である。共犯者の笑みを浮かべ合った、要塞のツートップ。もしリンツ中佐が絵にしたら、題名は『悪代官と
こちらの手配は順調に進み、プロジェクトリーダーの技術士官は発奮した。好きで就いた仕事を兵役で中断されていたところに、同盟軍の英雄からの御指名だ。目の前に、リボンをかけた人参をぶら下げられたも同然だった。チームの他の面々も同様である。翌日には企画書と仕様書が提出され、すぐに関門を通るやいなや、もの凄いペースで通信衛星の作成に取りかかった。
帝国の帰還兵が出立すると、すぐに衛星が設置された。その間、わずか一月足らず。技術屋の情熱に、ヤンも脱帽したほどだ。通信だったが、チームを労い、感謝の言葉をかけてから出立した。彼らがさらに感激したのは言うまでもないだろう。
そのおかげで、格段に通信状況が向上した。戦術コンピュータによる艦隊運動などの制御が一段進んだのだった。事前に複数のフォーメーションを構築し、入力しておくのは大変な苦労だが、その分戦場での負担を減らせる。この演習のように。
戦術コンピュータの指示に従って、宙点Aに集合した艦隊が、整然と凹陣形に並ぶ。アッテンボローの指示に従い、まずは艦隊でデコイの前衛部を斉射。次に、後退しながら中央から二分して、雷神の槌の射程を脱出、雷神の槌の発射というシナリオである。半歩間違えば、死につながる。この行動自体は、これまでにも反復練習してきた。雷神の槌単独の発射演習も、すでに何度も実施している。双方を同時に実施するのが初めてだ。モニターを見、指示を行うアッテンボローのこめかみに汗がにじむ。
本作は、銀河英雄伝説の原作に準拠しております。なので、アスターテ会戦のパトロクロスにいたのはラオになっています。また、この時期のアッテンボロー旗艦が判然としないため、便宜上トリグラフとしました。ご了承ください。