シェーンコップは事務監執務室を辞去した。精神的に這々の体で。ついでに司令官の執務室にも足を伸ばしたのは、半ばは礼儀であったが、残りの半分は本人にも判然としない。留守部隊の実質的な指揮官として安堵が欲しいのか、後輩から見た『先輩』の情報が欲しいのか。
挨拶をして入室すると、グリーンヒル大尉が張り詰めた表情で、端末機器を操作していた。一流のピアニストもかくや、といった素晴らしいタイピング速度である。
キャゼルヌのところから、順次予算案が送られてきているのだろう。最終的に形を整えたものはこれから準備するので、司令官は意見書とサインだけでも先に寄越せというわけだ。
その前に、グリーンヒル大尉が予算の概要を作成しているのだろう。どこぞの首席と違って、こちらの次席は本物の優等生であった。立ち上がって敬礼しようとするのを、身振りで制止する。彼女もヤンの随員なので、一分一秒でも惜しいはずだった。
さて、その奥には疲れた表情のヤンがぽつりぽつりと端末を叩いていた。亜麻色の髪の弟子が言うには、彼は文章は手で書く主義のようだが、書式が定まっているので仕方がない。手元のメモ書きを文章にしながら入力しているのだろう。
普段は頭に乗っているベレーが机上の端に追いやられ、その下のおさまりの悪い黒髪は、暴風の中で長距離走をしてきたような有様だった。
「閣下、お疲れのご様子ですな」
敬礼しながら声を掛けると、黒い瞳がちらりとこちらを向いた。
「ああ、本当にね。
できるものなら、こちらの代理も貴官にお願いしたいところだが、
こいつも給料のうちだから仕方がない。もう予算要求書は提出してきたかな」
「なんとかでっち上げましたよ。勝手が分からぬことばかりでしたがね」
「そこはキャゼルヌ事務監がうまくやってくれるから大丈夫さ。
おや、貴官には珍しく、顔つきが冴えないね」
さっきまで対面していた相手の名を出されて、
「おやおや、事務監に気に入られたと見えるね。やっぱり貴官と似たもの同士、気が合うのかな」
シェーンコップは愕然とした表情で、年少の上官を凝視した。彼としたことが咄嗟に返答ができず、天使が室内を一周するほどの間を置いてから口を開く。
「閣下、お聞かせ願えませんか。
キャゼルヌ少将と小官のどの辺が似ているとおっしゃるんです」
「髪や目の色もそうだけれど、二人とも私に対する発言に遠慮がないよ。
もうちょっと、優しくしてくれてもいいと思うんだがね」
「聞き捨てなりませんな。小官の言葉など可愛いものです。
キャゼルヌ事務監のは、毒舌などというものではないでしょう。
もっと別の何かですよ」
この反論に、黒い目が細められた。
「ぶつけられる方からしたら、石もアイスピックもどっちも痛いのにかわりはないんだ。
私は貴官ら二人分を受けて立つ身なんだからね。
……そんなに傷付いた顔をしないでくれ。まるで私がいじめたみたいじゃないか」
「もう一つお聞かせください。小官が彼に気に入られたというのは……」
勇者に不似合いな口調に、黒い眉が上がった。ヤンの表情筋に高等技術はないので、素直に両方が。
「あれは先輩なりの親愛の情だよ」
「そんなに痛い愛は結構です」
シェーンコップの返答に、黒髪の魔術師はすげない口調で反論した。
「いや、貴官は愛情でちょっとは痛い目を見たほうがいいと思う」
この上官こそ、あの事務監と似た者同士ではなかろうか。茫洋とした印象の、おとなしい顔を再び凝視する。承服しがたい様子の美丈夫に、ヤンはふっと微笑んだ。
「キャゼルヌ先輩は、誰彼構わず毒舌をふるうわけじゃないんだよ。
気に入らない相手には、逆に敬語のお手本みたいな言葉で接するんだ。
そのほうがおっかないのさ」
「そうですか」
あくまで疑わしげな部下に、ヤンは頷いた。
「『
キャゼルヌ事務監は、半年で少将を異動させた大佐なんだ。
まあ、周りが耐えられなくなって、後任の上官より先任者が残されたんだがね。
私もそうならないように、精々課題を片付けてから出掛けないといけないのさ」
雑談の終わりを告げられたわけだが、シェーンコップは一つ質問を返した。
「想像はつきますが、その上官は誰なのでしょうかね」
黒髪の『後輩』は、穏やかに言った。
「私の口からは言えないな。アッテンボロー少将に聞いてみたらどうだろう?」
穏やかだろうが鋭かろうが、毒舌を言えるのは頭が良くて人が悪い証拠。
三者三様に、『自分は相手よりまし』と思っているに違いない。
なお、『半年間の猛吹雪』は筆者の創作です。
でも、後方畑同士、どこかで所属が一緒になっても不思議ではないということで。
目障りな連中にまとめて腹いせ、ってあり得ると思うんですが……。