「ミルクでなく、砂糖ではなく、ブラックで」
「ワインやウイスキーと同じだ。いい味が出るまで時間がかかる」
被保護者から、分艦隊司令官の言葉を伝えられたイゼルローン要塞の司令官は、ややほろ苦い表情で、脱いだベレーを左手の指先でくるくると回した。近いうちに、艦隊の出動があるのかと問いかけた亜麻色の髪の少年に、そうならないことを祈っていると穏やかに答えを返す。
被保護者に見せたのはそれだけだったが、彼の職場では無論事情が違う。
「まったく、困ったものだ。兵員補充の大半が、新兵と警備隊所属者だとは」
ムライ参謀長の言葉に、パトリチェフ副参謀長も同意した。
「お偉方の考えそうなことですなぁ。自分たちのそばに熟練兵を置いて、
ハイネセンだけ無事に残っても、どうしようもないでしょうに」
「精兵とアルテミスの首飾りに、よほど信をおいているのでしょう」
フィッシャー副司令官が、淡々と応じる。司令官のヤンは、ベレーを脱いでから髪をかき回し、また被り直した。豊かな長めの黒髪が、ベレーの下から思い思いの方向にはみだしている。
ムライは渋い顔をしたが、口に出しては咎めなかった。穏やかな上官のこの癖は、表情を隠すためのものであると察していたからである。
「アルテミスの首飾りか。あんなものは気休めの玩具だがね。
どうにでもできるし、どうにもしなくても別に構わない。
惑星ハイネセンへの物資輸送網が封鎖されれば、
一週間もせずに干上がるしかないからね。
まあ、第十艦隊の熟練兵も少ないながら来てくれているんだ。
手持ちでなんとかするしかないだろうね」
温和な口調で、司令部一同がぎょっとするような台詞を吐くのが、ヤン・ウェンリーという軍事的天才の計り知れないところだった。彼の奇策の前に、宇宙的な難攻不落の代名詞、
「やはり一番の問題は、統一行動の不備による火力集中のばらつきでしょうなぁ。
司令官の号令以下、複数の艦艇がコンマ二桁以下の秒差で、
敵の一隻に主砲を斉射というのは、新兵には困難でしょうよ。
しかも、こちらも相手もそれぞれに動いているときていますからな」
山積している問題の核心を、整理して過不足なく表現できるのがパトリチェフの美点だ。
ヤンは小さく頷くと、銀色の頭の持ち主に向き直り、軽く頭を下げた。
「艦隊運用のほうは、フィッシャー提督のおかげでそれでも形になってきたんだが。
本当に感謝するよ。だが、努力には限界がある。
熟練に至るまでの時間が得られればいいが、そうとは限らない。
戦術ソフトウェアを工夫して、艦隊運動の省力化を図るぐらいしか思いつかないな」
「なるほど、陣形のパターン化ですかな。閣下がアスターテでなさったように」
堂々たる体格にふさわしい、朗々としたバリトンで、パトリチェフが間の手を入れる。
「ああ、それも一つの方法だね。
ただ、あの時とは違って、長期戦も視野にいれなくてはならない。
陣形を変更する際の移行形態を含めて行う必要があるだろう。
もう一つには、砲手の負担の軽減になるかな。
グリーンヒル大尉、麾下艦艇の砲撃を、旗艦や分旗艦で任意に集中管理するのは、
技術的には可能だろうか。旗艦周囲の10隻程度で、ここぞという時でいいんだが」
「閣下、不可能ではありません。ただし、その戦艦が敵艦と交戦している時に、
別の敵艦を強制的に攻撃することにならないよう、調整が必要かと思います」
「結局は、艦隊運用で適正な陣形を保つことに帰結いたしますな」
ムライ参謀長の結びの言葉は、付け入る隙のない正論であった。戦略戦術の勝者は、九割九分が準備をよりよく整えた方だ。それを痛感するヤンではあるが、言葉には嘆息が混じる。
「そういうことになってしまうんだよなぁ。
こればかりは演習で艦隊運動を反復するしかない。
ただ、できるだけ陣形構築の単純化とパターン化を図るようにしよう。
とりあえず叩き台を作るから、皆協力をしてくれ。
フィッシャー提督には特に面倒をお掛けするが、よろしく頼むよ」
「はい、閣下」
初老のフィッシャー少将は、艦隊運用の名人である。アムリッツァの敗戦で、第13艦隊は
ヤンはそう思い、彼に敬意を払っているが、フィッシャーの意見はいささか異なる。艦隊運用の名手がイコール名指揮官ではない。息子のような年齢の若き黒髪の司令官。その天賦の才には、心から感嘆する。
司令部の最年長者でさえ心酔しているのだから、他の部下たちも推して知るべしである。ヤン艦隊司令部の人間関係は、非常に良好であった。
「それからグリーンヒル大尉、要塞防御部や空戦隊とも連携が必要になる。
今週中に、ブリーフィングの予定を組んでくれ。
戦術コンピュータとオペレーション部門の責任者も参加を」
「はい、閣下。調整をさせていただきます」
『ヤン提督の会議好き』と
それでも、手足だって頭の考えることを知っていなくては動かしようもない。この場合、頭と手足の所有者は別人で、後者が遥かに多数なのだから。互いにこんがらがって転ぶのがおちだ。転倒の代償は人の命。そう思えば、言葉を尽くし、説明を重ねなくてはならない。自分の事ならば、理解しようとしない相手に理解をしてもらわなくとも構わないのだが。
「さて、30分休憩後にモデル作成に入ろうか。とりあえずは解散だ」
ヤンの号令で、司令部の面々は一旦散会した。彼は会議をよく行うが、だらだら長々とはやらない。戦略戦術の目的に対して、自身が明確な指針を持っているからだろうか。それを他者に伝え、自分が他者の意見を取り入れる場としているようだ。参謀長のムライは、そう捉えている。
それにしても、人は変わるものだ。休憩のあいだ、パトリチェフ准将とその話になったのだが、彼らが初めて顔を合わせたのは、エコニア捕虜収容所の事件によるものだ。あの時、どうしていいのか分からないといった風情だった黒髪の青年が、今や同盟軍のナンバー3だ。同盟軍史上でも数少ない、二十代の大将である。当時と大して外見が変わっていなくてもだ。
「小官が宙港までヤン少佐を出迎えにいったんですが、会った時はびっくりしましたよ。
まだ大学の2、3年に見えましたからなぁ。なによりもかなり痩せていまして、
倒れやしないかとはらはらしました。立体TVだと、本人の大きさがよく分からんでしょう。
失礼ながら、シトレ退役元帥は比較対象の基準に向いているお人ではありませんし」
当事、エル・ファシルの英雄としてさんざん喧伝されたが、特によく報道されたのが
恩師だったシドニー・シトレ中将と握手をするシーンだった。シトレ中将(現退役元帥)は、二メートルになんなんとする、黒い肌の偉丈夫である。中肉中背のヤンが、彼の前では子供に見えるほどだ。司令官より遥かに体格で勝るパトリチェフでも、身長では頭半分は低いだろう。
だが、これは自身を相当高い棚に投げ上げた発言だ。彼の身長はヤンよりも頭一つ高く、2倍とまではいかないが、1.8倍くらいの体重差があるのだから。
「たしかに。アムリッツァの後でも大分痩せられて、ようやく少し戻ってきたようだがね。
心労から過食するタイプと、食が細くなるタイプがあるが、ヤン提督は後者のようだ」
「まあ、背負っている責任の重さを考えれば無理のないことですがね。
我々では決して肩代わりができませんからなぁ」
エル・ファシルの脱出行は、惑星警備隊のリンチ司令官が、住民を見捨てて逃亡したのが原因だ。
まだ中尉だった21歳のヤンは、上官から押し付けられた民間人三百万人の避難の準備を進め、逃亡した司令官を囮にして脱出したのである。レーダー透過装置を切り、帝国軍の先入観を利用して、避難船団を流星群に見せかけて。その冷静さと大胆さ、そして辛辣さが名将の萌芽だったのかも知れない。
当事は、軍部の失態を糊塗するための美談、偽りの英雄などとも陰口を叩かれた。しかし、三百万人の民間人が助かったのは紛れもない事実である。それを成し遂げた21歳の中尉の人気は凄いものだった。かのローエングラム候のような、飛び抜けた美青年ではないが、いかにも温和で知的な優しい容貌である。よくよく見れば、そこそこのハンサムでもあったし。
表面上はそんな花形のエリートが、あんな辺境の捕虜収容所にやってきたら、それは誰しも何事かと思うだろう。当時の捕虜収容所の所長もその一人だった。三百万ディナールを越える公費の横領をしていた彼は、後ろ暗さからか過剰な反応をした。捕虜の不満分子に偽りの叛乱を起こさせ、ヤンとパトリチェフを謀殺しようとしたのだ。それぞれを、横領を解明して死した英雄と、その犯人に仕立て上げるために。
だが、捕虜たちのまとめ役の老大佐の機転により、彼らは叛乱の場から逃れて、所長を逆に拘束する。その事件の解明に、惑星エコニアが所属していた管区の参事官として調査に訪れたのがムライ中佐だった。彼は所長の横領の証拠を早々に固めてしまい、エコニアに到着した時には、事件に片は付いていたのだ。
この鮮やかな手腕には、ヤン少佐も賛辞を惜しまなかった。だが、ムライ中佐も密かに驚いていたのである。任地に到着したその晩に、捕虜の叛乱を
ナンバー3のヤン参事官がやるしかないと言えばそのとおりだが、現場の保全や負傷者の治療、死亡者の遺体の収容など、一通りのことがきちんと完了していた。最初の一報から、ムライが到着する二日のあいだに。
この頼りなさそうな21歳の少佐には、人をつかう才能があるのかもしれない。実際には部下がやったにしても、仕事を割りふり、きちんと指示を通すというのは難しいものだ。しかも、昨日今日来た余所者として、反発されてもおかしくない状況で。それはパトリチェフ大尉の功績でもあった。彼の陽気で気さくな人柄が、絶妙なクッション役になったのだ。
彼の『複雑な状況を要約して、過不足なく表現する』説明のおかげだったが、それを見抜いたのもヤンである。ほんの一年前は士官学生で、二ヶ月前まで下っ端中尉だった者の眼力ではなかった。
後に聞くところによると、ヤン・ウェンリーはやり手の恒星間交易商人の父を持ち、幼いころからその船に同乗していたのだという。ヤンの父、タイロンは『金育ての名人』と
あれから八年。29歳のヤン大将は、今も線の細い青年だ。大学生が大学院生に進級したぐらいにしか、歳を重ねたようには見えない。
しかし、人をつかい、人の上に立つ才能は、見事に開花した。たとえば、人材を見抜いて配置すること。そして、信頼に足る部下にはかなりの裁量権を持たせている。苦手な部分を誰かに補ってもらうことを躊躇したり、逆に虚勢を張ったりもしない。だが、一見丸投げに見えても、実は要所をおさえている。物事の根幹を理解している証拠だ。そして、決定責任は自分が負うことを明確にしている。まあ、これは決裁権に複数の関門を設けてあるからだ。組織運営者としてもなかなか巧妙である。有能な怠け者などと俗に言うが、完全にそのタイプであろう。
これらの美点と、あの天才的な用兵手腕があれば、周囲も有給休暇を完全消化するぐらい大目に見ようという気になる。あまりおおっぴらには言えないが、昼の休憩が少々長いことも。むしろ、彼が勤勉の美徳を発揮しだすと、遠雷が近づいてくるような気さえする。
「そうでもないだろう。貴官の作戦行動の要約書は、非常に簡潔で明快だ。
今後の戦術会議でも、大いに手腕を発揮してもらいたい」
「そうおっしゃっていただけるとありがたいですな。
なにせ小官は、ややこしい事が苦手でしてね。まぁ、大体の人間はそうだと思うのですが。
ただ、自分なりに要約しているだけですので、ヤン提督の意図するところと食い違いがないか、
参謀長にもよく確認をしていただかないと。では、コーヒーの一杯も貰いましょうや」
「そうだな。ところでパトリチェフ少将、貴官は近々出動があると思うかね」
「小官としても、ヤン提督と同じように願いますよ。
ストレスと食欲の話ですが、小官は完全に前者のタイプでしてなぁ。
これ以上になりますと、軍医に教育入院だと脅かされておるんですよ。
パトリチェフは頭を掻いて苦笑した。竦めた肩はがっしりと厚く、そこから伸びた上腕は、黒髪の司令官の腿ほども太さがあった。ムライもそれに不器用な笑みで応じた。
「貴官の健康問題の方が、手に余る件かもしれんな。
とりあえず、コーヒーはブラックにすることから始めてはどうかね?」
筆者の別シリーズにて、妙に出番が多いのがこのムライ氏。
これを書いていて、ようやく腑におちました。
本編終了後の生存者の中で、司令官にして用兵家のヤン・ウェンリーを最も直に知り、
そして客観的に理解をしている人だからなのです。
弟子のユリアンや妻のフレデリカ、先輩で事務担当のキャゼルヌ先輩とも違う視点で。
アッテンボローは、後輩で友人というバイアスがあるのでまた違う。
完全に職務上の関係から、敢えて損な役割を担い、最終的には憎まれ役を買って出てまで
不満分子を炙り出した、彼の心の軌跡は非常に興味深いのですが、需要がね……。
パトリチェフ氏は、実は大変貴重な人材だと思うのです。
複雑な事象を整理して過不足なく表現するって、その究極形は池○彰氏でしょう。
そんな人が悠々とした態度で、司令官の作戦案に賛同を示すわけですから、
周囲に与える安心感には大変な価値があります。
ヤン艦隊の精強と士気に、深く深く寄与していたはずです。
ユリアンが一杯一杯に見えるのは、この二人の不在と無関係ではないでしょう。
原作のムライさんは「自分が上官と仰ぐのはヤン提督だけ」とも読めるんですが、気のせいですよね……。