真・恋姫†無双 トキノオリ   作:もんどり

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「……真名」

 

 雛里の手が止まり、口元へ運んでいた芋がぽろっと転がり落ちた。それに気が付く様子もなく大きな瞳を零れ落ちそうなぐらい見開いて、ゆっくりと瞬く。視界の端に落ちた芋を捕らえながらも、肯定を示すため頷いた。

 

「うん、真名にしようかと考えてる」

「……えっと」

 

 口を開いては、ぱくぱくと唇を動かすだけで声は出ず。眉を寄せ、なんとも言えない表情をして軽く俯くも、すぐに顔を上げて口を開くがやはり言葉にはならなかった。

 彼女のこんな姿は想像していなかっただけに、何か問題があったのだろうかと内心で首を傾げるが、オレの中では答えを見つけることが出来ない。

 

「似合わない?」

「ちっ!! ……違いますっ! 似合わないことありません!!」

 

 オレの言葉に俯きがちだった頭がぶんっと持ち上がって、大きな声が紡ぎだされた。その声の大きさに自分でもビックリしたのか、ハッとした様子で辺りを見渡してから、声を調節しながらもオレをまっすぐ見て否定する。

 

「上手く……上手く、言葉が見つからない……けど、似合わないってことだけは、ありませんからっ!」

「雛里」

「ほ、本当に。……なんて言って、いいのか、わからない……けど。そ、その! あ、あわわ……。私に、教えてくれて……嬉しいです」

 

 はにかむような笑顔でこちらを見る雛里に、オレの中でムクムクと沸いていた不安が飛んでいった。思わず力んでいた肩の力を抜き、雛里が落とした芋へと手を伸ばす。雛里はオレの手の動きを視線で追うと、転がり落ちていた芋に気付いて、いつものようにあわあわと慌てふためいた。

 

「ごっ、ごめんなしゃいっ! あわ、ち、ちがっ……ごめんなさい! わた、わたしのお芋っ」

「大丈夫、大丈夫。三秒ルールだよ」

「……さんびょう、るーる?」

「そう、これぐらいの時間なら問題ないってことだよ。それに落ちたのは床じゃなく、机だしね」

 

 不思議そうに小首を傾げる姿にオレは笑って、落ちた芋を口の中に放り込んだ。ほんのりと温かな芋を噛みしめると、芋の甘みが口内へと広がる。ほら、机の上に落ちたとしても、こんなにもおいしい。

 雛里はオレの口の中へ芋が放り込まれる様子を見て拗ねた表情を見せていたが、オレのうまいという言葉に仕方がないなともいうような表情をして笑った。

 

 

 あの後、真名の話はせずに食事が終わった。いつもよりも少し豪勢な食事を終えて、風呂も入って後は寝るだけとなったのだが。雛里は二つある寝台の、それぞれにあてがわれた寝台から抜け出して、オレの寝台へと潜り込んできた。母さんが家出したあの夜よりも、どこか慣れた様子でオレの布団の中へと潜り込む様子はどこか感慨深いものがある。

 

「雛里?」

「あわわ……少しだけ、お邪魔します」

「う、うん……って、えーっと」

 

 雛里と違い、どうやらオレはあれから進歩はしていないらしい。思わず動揺を滲ませた返事を返してから、どうしたもんかと思いつつもじりじりと壁際へと移動した。前回と同じように自分の手の置き場をどうするかと考えつつも、こちらを見上げる遠慮のない雛里の様子に、オレは涅槃のポーズへで迎え撃つ。

 

「李姓さん」

「……うん」

「本当は、一刃さんって……その、呼ぶべきというか……あう、あっ、あの、呼んでも……いいんですか?」

「うーん、そうだね。食事の時は話の途中になっちゃったけど、あの時も言った通り……真名にしようかと考えてる」

 

 顔を覗き込むようにそう問うてきた雛里に苦笑しつつも頷くと、眉をぎゅっと寄せて口をへの字にした雛里は数度深呼吸をしてから、こちらの様子を伺いつつ更に問いを投げかけてきた。

 

「……悩んでる、の?」

「正直に言えば、……悩んでる」

 

 するりとオレの心の葛藤を導き出した雛里に、自分の腰もとへと置いた手を雛里の頭へと伸ばして乱雑に撫でまわす。指先に触れる絹糸のような手触りに自然と目を細めうっそりと息を吐きだした。

 やや粗い手を払うことなくされるがままの雛里は、どこか苦しそうな表情でこちらを見上げていたが、しばらくして不意にぎゅっと抱き着いてきたため、オレはその勢いで背中を寝台へとくっつけてしまう。抱き留めた雛里の柔らかな身体の感触が側面全体に伝わってきて顔が熱く感じられるが、宙に彷徨わせていた手をどうにか雛里の小さな背中へと回すことに成功した。

 片手でぽんぽんとリズムよく雛里の背中を叩きながら天井を見上げる。火は落としているから辺りは薄暗く、天井もはっきりとは見えなかった。おぼろげに浮かぶ天井の筋を見ながら、雛里の様子をそっと伺ってみる。雛里はオレの胸の間に顔を埋め、ぎゅっとしがみついているだけで、当分話をする様子はなさそうだ。色々と考えられることはあるけれど……さて、どうしようか。

 

「雛里?」

「……」

「やめといた方がいいかな?」

「………、…ぃ」

 

 ぐぐもった声が聞こえてきたが、聞き取ることが出来なかった。言い直してくれるのを待っては見るも、言葉が紡がれることはなくただひたすらオレにしがみついている。ああ、参ったな。

 

「……っと」

「っ!?」

 

 雛里を抱きしめたまま寝台を横へ転がって、覆いかぶさるように移動する。雛里をつぶさないように寝台へ両肘をつきながら、雛里の顔を覗き込んだ。

 薄暗い中でもこんなに接近していればはっきりと形がわかる。零れ落ちそうなほど見開かれた瞳は潤んでおり、映ったオレの顔がぼんやりと滲んていた。

 

「もう一回」

「……ぁ、……」

「もう一回、教えて?」

 

 泣き出しそうなのをぐっと我慢するように、眉をぎゅっと寄せて唇を噛みしめる雛里に、オレは自分の額を雛里の額へくっつける。更に近づいた距離に「ふぇぇっ」と可愛らしい小さな悲鳴が聞こえたが、スルーをして雛里の名を呼んだ。雛里の大きな瞳は左右に視線をゆらゆらと移動させ、そして目を閉じる。

 閉じられた瞳と、視線をずらせば暗闇でもよくわかる紅色に染まった、緩く開けられた唇。吸い寄せられそうになる衝動を、口の中に貯まった唾液と一緒に飲み込んだ。

 あぶないあぶない。なんかよくわからない衝動に流されるところだった。上体を軽く起こして雛里の鼻をつまむ。「……ぅんっ」という艶めかしい悲鳴が聞こえたような気もしたけど、スルーだスルー!

 あたふたと雛里の鼻をつまむオレの手を排除した雛里は、少し不貞腐れた表情でオレを見つめてきたが、咳ばらいをしてやり過ごす。

 

「それで? 鳳士元先生の答えを教えてくれないか?」

「……わからない、です」

「えっ?」

 

 拗ねた様子で絞り出すように言った雛里をまじまじと見つめると、ふぅと息を吐きだす様子が見えた。握りこぶしを下唇に当て、顎を引いて言葉を選ぶように考える姿に、オレは姿勢を正して言葉を待つ。雛里の思考しているところ見るに、どうやらおちゃらけた内容とは違うようだ。そんな難しいことを聞いたかな? と内心首を傾げる限りだが真名という内容上、デリケートなのかもしれない。うーん、悪いことをしたかもなぁ。

 

「えっと……」

 

 思考の淵に沈んでいた雛里がこちらをまっすぐと見据えてきた。先ほどの揺らいでいた瞳とは違う、意思を持った眼差しだ。オレは相槌を打つと表情を引き締めて、同じように真剣な目で見つめ返す。

 

「とても、……言葉にするのは難しい感情です。えっと、まず初めにこれだけは伝えさせてください。一刃さんってお名前、私は嫌でもやめといた方が良いとも思いません。……これだけは、間違いない、です」

「そっか。うん、わかった」

「えっと、……あの、……えっと」

「いいよ、遠慮なく言ってほしい」

「っ……、はい、わかりました。先ほど言った通り、私は嫌でもやめといた方が良いとも思わないんですが、なんとなく……。なんとなく、違和感があって……」

 

 雛里の違和感という言葉に、耳の傍で心臓がドクンッと音を立てたような気がした。そう、オレも違和感がある。この名前は、オレの名前じゃないような……何かが違う、そんな気分に陥るのだ。

 

「なんでこう思うのかは、わかりません。でも、なぜかそう感じて……っ、李姓さんも納得していないようでしたし、なんとなく安心しちゃったような気もするし、えっと…わっ、わたしゅっ……私、が。私が、この気持ちを伝えて、りっ、李姓さんにっ、李姓さんにとって良くないことに、せ、背中を押してたらっ! それは、嫌だなって。あ、あと……き、き、きらわっ……嫌われたらどうしようって、おもっ、思って……」

 

 だんだんと頭が下がり、終いには俯いて肩を揺らし涙声になる雛里を抱き寄せる。心の中では先ほどから煩いほどの鼓動が鳴り響いているが、泣いている女の子をそのままにはしておけない。

 

「大丈夫、雛里を嫌いになんてならない」

 

 大丈夫だと、安心してほしいと、心を込めて言葉にすると、雛里もぎゅっとオレに抱き着いてきた。

 

「ひっ、一人はっ……ひとりは、いやぁっ……っ、ふっ、ぅ、き、……ぃで」

 

 ぐずぐずと涙声で訴える姿に、雛里の頭へ頬を載せる。鼻を啜りながら嫌わないでほしいと願う様子は、導き手を亡くした迷い子のようだった。よく考えてみれば当たり前かもしれない。母さんと離れてから短期間で色々起こったのだから。涙はストレスを解消できると言うけれど、泣いたら終わりというわけではないのだ。

 別れる前にはオレの真名を渡したいってのは、オレの我儘みたいなもんだ。そんなことよりも、雛里を泣かせてしまったことの方が問題だし、この様子で人のところに一人で預けるのまずいかもしれない。

 腕の中でしゃくりあげて身体を震わす雛里を抱きしめながら、今後のことを改めて考え直す。先ほどまで感じた、あの不思議なほどの動悸が無くなっていることにも気づかずに。

 

 

「なあ、雛里はオレとずっと一緒に居たい?」

 

 ややあって、泣きはらした目を冷やすために水につけた布を雛里へと渡しながらそう聞くと、雛里はいつも通りに「あ、あわわっ」とかわいい声で慌てふためいた様子でオレの様子をうかがってきた。

 

「オレは雛里と一緒に司馬さんって人のところに行った後、雛里が過ごせるようなところを見つけたら、母さんのところに行こうと思ってた」

「……っ」

「まあ、母さんは碧玉さんって人といちゃいちゃしてるかもしれないから、送り届けたってこととか、その、雛里のお母さんのこととか。そういうのを伝えた後は、……旅に出ようと思ってる」

「……は、い」

「うん、それでね。さっき言ったことにも繋がるんだけど。雛里はオレとずっと一緒に居たい?」

 

 渡した布は手に握りしめたままで、力が入っているのか微かに手が震えていた。眉を寄せこっちを睨むように見つめる雛里に苦笑をこぼすと、オレは雛里の眉の間に指を置いて軽くつつく。

 

「眉間に皺が寄ってるぞ。ほら、寝転んで布を当てないと明日酷いことになるからさ」

「り、李姓しゃんっ!」

「ハイハイ。続きは布を当ててからね。ほら寝転んだ寝転んだ」

「ぅう~~っ」

 

 しぶしぶ寝台へと寝転んだ雛里の瞼の上に、鼻へとかからないように布を被せた。ゆるく布を押し当ててから寝台に腰かけると、そっと雛里の手を取った。ゆっくりと握りこまれる指先にオレは小さく声を立てて笑うと、それに呼応するかのように握った手の力が籠められる。

 

「李姓さん」

「うん」

「わ、私も」

「うん」

「一緒に。……りっ李姓さんと、一緒に……」

「うん」

「……旅に、出たい」

「……、そっか」

「……うん」

 

 握りしめた手の、親指の腹で雛里の手を撫でる。しっとりとした触り心地が指から伝わり、同時にじわじわと喜びが胸の中で広がった。雛里が弱ってるから、ひとりぼっちは嫌だから、そういう気持ちがあるからってことは解ってる。それでも必要としてもらえるのは、ものすごく嬉しいと感じた。

 

「それじゃあ、雛里も旅の準備もしないといけないな」

「っ! はいっ!!」

 

 雛里と一緒に旅に出る。時間もそれほど経っていないのに、なんだか指針が二転三転してるような気もするけど、そういうのも悪くはないだろ。きっと。

 ――周りに振り回されるのは慣れているのだから。

 

 次の日、昨日のことも相まって起きたのは大分遅かった。雛里もオレも遅くって、店の人に起こされ追加料金を取られたという悲しい状況だ。雛里の旅の支度もしなければならないし、お金は計画的に使わねば。荷物を整理したいということもあって、雛里が家に戻っている間にオレが司馬さんの情報を集めることにした。

 

 司馬徳操さん。なんと、知る人ぞ知る有名人だった。どうやら鹿門山の方向に居を構え私塾を開いているらしいけど、山奥らしくってちょっと大変かもしれない。まあ、母さんも硯山(※1)に住んでたんだから、全然フツーに住めるんだろうけどさ。

 話し合いの結果このまま街をでて向かって、山の開けたところで野営するか、それほど遅くなければそのまま押しかけようってことになった。途中で一泊することになるなら、何かしらの用意は必要だよなぁ。なんて考えつつ雛里と合流するために門前に向かうと、すでに雛里は準備できていたみたいで小さな風呂敷を両手で持ち、壁にもたれながら俯いて待っていた。

 

「雛里、お待たせ」

「……李姓さんっ!」

 

 オレの声にパッとこちらへと振り向いた雛里の顔は満面の笑顔で、もっと早くに切り上げて迎えに来ればよかったと反省する。こちらへと駆け寄る雛里の頭を、帽子ごとぽんぽんと叩いてから集めた情報を共有した。

 

「えっと、それじゃあどっかで携帯食買って向かうか」

「はいっ! 確か、あそこの裏手にある通りに、安価だけれど質の良いお店がありました!」

「そうなんだ? それじゃ、そこに寄って念のため二日分購入して向かうことにしようか」

 

 嬉しそうな声ではいっ! と元気よく返事をする雛里の荷物をしれっと奪い取り、代わりに聞き込みがてら購入した饅頭を一つ渡す。あわあわとしている雛里を置いて目的のお店へと向かうと、慌てた様子で追いかけてくる雛里の「まっ、待ってくださいっ!」という声が聞こえてきた。心持ち速度を落として歩いていると、追いついた雛里がぷくっと頬を膨らませる様子が見える。膨れる姿も大変可愛らしい。

 

「……ありがとうございます」

「どういたしまして。暖かいうちに食べて」

「ぅう、……はぁい」

 

 珍しく間延びした返事にじっと雛里を見つめると、そんなオレに気付いた雛里は片手で帽子の鍔を掴んでぐっと顔を隠した。うん、大変よろしい。

 

 そんなこんなで携帯食を手に入れたオレたちは、襄陽の街を抜け川を渡り、鹿門山へと至る山道へと入り込んだ。鬱蒼と茂る木々や藪を横目に、それなりに整えられている道をひたすら歩く。夕方を過ぎているためか辺りは薄暗く、ほどなく夜の帳がおりるのだろう。

 

「あわわ、李姓さん、そろそろ松明の準備をしませんか?」

 

 掛けられた声に足を止めて振り返る。どうやら雛里も同じようなことを考えていたみたいだ。荷物から松明を取り出し火をつけると、先ほどよりもくっきりと辺りが見渡せるようになった。ぼうぼうと燃え盛る火の熱気を感じながら、風が強くなくてよかったと安堵する。本当にこの時代は不便だよな、と思ったところでハタと我に返った。

 

「……李姓さん?」

 

 今の物言いはなんだ。この時代は? 変な言い回しだ。まるで、この時代以外を知っているようじゃないか。

 

「李姓さん」

 

 それだけじゃない。灯りなら松明なんて当たり前だという考えもある。……なんだ? 気持ちが悪い。自分の中で、考えが、いくつも、矛盾して、ぐちゃぐちゃする。

 

「李姓さん!」

 

 松明を持つ手とは逆の腕をぐいっと引っ張られて、視線をその原因へと向けた。雛里の心配そうな眼の中に、オレの強張った表情が浮かんでいる。俺は、……オレは、何を考えていたんだろうか。

 

「りっ、李姓さん、しっかりしてくだしゃいっ!」

「……、うん」

「あわわ……、しっかりしてください」

「うん、ごめん」

「……松明、あぶないです」

「そうだね、面目ない」

 

 深く、深呼吸をする。目を閉じて息を最大限まで吸い込んで、口を小さく窄めて細く長くゆっくりと吐き出した。切り替えるべきだ。そう、雛里が心配する。目を開けて雛里へと視線を向けてから、わざと軽く謝った。

 なんかぼーっとして、という言葉でごまかしながら先へと進もうとするも、雛里はオレを心配してか休憩にしようと言い募る。出る前に夜通し歩くと決めたんだし、もう大丈夫だと説得してどうにか休憩を回避することができた。

 正直なところ、休憩したらきっとさっきの考えが止まらなくなりそうだ。そんなことになったらきっと雛里は心配する。それに、オレは……。

 いや、とりあえず司馬さんの元に訪れるのが先だ。山を越える程ではないって言っていたし。できるだけ考えこまないように、雛里と他愛ない話をしながら山を登っていく。しばらく行くとそれなりに整えられた道の脇に細いけもの道が現れた。道を教えてくれた人が言っていた分かれ道だ。

 松明の炎に気を付けながら、脇道をひたすらまっすぐ進んでいく。時折振り返って雛里の様子を伺うが、それほどへばった様子もなくついてきていた。よかった、休憩するとしてももう少し開けたところでしたい。

 

「あっ! あそこみてきゅださいっ……あわっ!? み、……み、て、ください」

 

 雛里の弾んだ声と噛んだ言葉、そのあとの絞り出すような、恥ずかしさが滲み出る訂正に肩を揺らして笑った。オレが笑っていることに気付いたのだろう、雛里は数歩の距離を詰めてオレの背中を小さな拳で叩く。小柄な雛里の拳ぐらいではオレにダメージを与えることはないので、ごめんごめんと謝りながらも雛里の攻撃を止めようとはしなかった。うん、かわいい。ホント、母さんの元に来た時から比べて大分慣れてきたなぁ、嬉しい限りだ。宥めながら先ほど言っていた場所を再度教えてもらうと、大分先ではあるが木々の隙間から光が漏れていた。

 

「司馬さんが居るかわからないけど、今日はあそこで休憩できたらさせてもらおうか」

 

 荷物から竹筒を出し水を飲んでそういうと、同じように水分補給をしていた雛里も元気よく頷いた。再びあまり整えられていないけもの道を進みながら、雛里と二人司馬さんについて話をするが、往々にして噂話の域を出ない。

 

「どんな人かな?」

「とても、器量ある方だって……言ってた、よ」

「うんうん、他にも人を見る目がすごいって言ってたね」

「あわわ……私、大丈夫かなぁ」

「大丈夫、大丈夫」

 

 自信なさげな呟きを漏らす雛里を励ましつつ、歩きづらい道をしっかりと踏みしめて前へと進む。だんだんと光が近づいてきて、程なくして開けた場所へと出た。

 山奥にあるのにしっかりとした佇まいだ。複数人が住めるような大きさで、目的地の司馬さん宅で間違いなさそうである。流石、私塾を開いているというだけある大きさだ。しかしながら、夜も更けてきたためか辺りは静かで、耳を澄ませてみても虫の鳴く音と葉擦れの音しか聞こえない。ちらりと雛里を振り返ると頷く様子が見え、オレは門へとまっすぐ向かうと、中を覗き込んで大きな声で呼びかけた。

 

「すいませーん!」

「……」

「誰かいらっしゃいますかぁ!」

 

 奥の方からパタパタとした物音が聞こえる。それとともにしばらくお待ちくださいといった声が小さく聞こえた。よかった、人がいるらしい。灯りが消えていたわけではないから、就寝していたわけではないだろう。ほっと息を吐きだすと、不意に服が引っ張られて少しよろけてしまった。

 

「どうした?」

「……あ、あわわ」

 

 オレの服の裾を引っ張る雛里にそう声をかけたが、あわあわとした様子で返事が戻ってこない。どうしたんだと考えてみたところ、一つだけ思い当たる点があった。

 

「人見知り発動?」

「あぅ……、李姓さぁん」

 

 どうやら図星のようだ。涙目でこちらを見上げる姿は可愛いが、そうもいっていられない。パタパタと駆けてくる音がだんだんと近づいてきていて、そのうち門の中から人が出てくるだろう。そして、そうこうしているうちに扉が開く音が聞こえ、「お待たせしました、どちら様ですか?」という声とともに目の前に女性が登場すると、雛里はオレの後ろに隠れてしまった。

 

「夜分遅くにすいません。オレは鳳李姓と申します。こちらは司馬徳操さんのお住まいで間違いないでしょうか」

「ええ、そうですよ」

 

 雛里の代わりに司馬さんのお家かどうかを確認すると、是という返事が返ってきた。まずは一安心だ。女性は少したれ気味の瞳に理知的な光を湛え、ふっくらとした唇を優しそうに持ち上げている。茶色の長い髪は左右を緩く垂らして後ろへと流れ、後頭部でリボンのように結い上げた御髪へと続いている。ゆったりとした上衣は品がよく、大人の女性らしさがひしひしと伝わってきた。ちょっと緊張するけど、まずは泊めてもらえるように交渉だ。

 

「母、鳳尚長に教わり司馬徳操さんに会いに来ました。図々しいお願いで大変申し訳ありませんが、一晩泊めていただけませんでしょうか」

 

 できるだけ丁寧な言い回しで、背筋を伸ばし、四十五度を意識して深く頭を下げ最敬礼する。後ろでも頭を下げている感覚があったから、きっと雛里も一緒に頭を下げているんだろう。頭を下げたまま女性の言葉をじっと待っていると、「どうか頭をお上げください」という声がした。

 

「鳳、李姓さんと言いましたか。何もないところではございますが、よろしければおあがりくださいな。……そちらの、女性もご一緒に」

「あっ、ありがとうございます! ……ほら、雛里も挨拶して!」

「あ、あわ、あわわっ……鳳士元でしゅっ! よ、よろしくおねがいしましゅっ!」

 

 オレの後ろに隠れていた雛里を女性の前へと押し出すと、目をぐるぐると回したような表情で必死に名前を名乗り頭を下げる。雛里のいっぱいいっぱいの様子に目の前の女性はくすっと笑みを零すと、緩くお辞儀をしてから口を開いた。

 

(わたくし)の名前は、司馬徳操。とある名士から水鏡と名付けられまして、最近は専ら水鏡と呼ばれております。そして生徒は今はおりませんが、この住まいで私塾を開いております。――ようこそ、水鏡女学院へ」




※1  正しくは峴山(ケンザン)。文字化けそうな気がしたので当て字にしました。

<修正>
2018/05/16 追記
2018/05/19 サブタイトル修正
2018/06/03 本文修正

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