鳳士元という、母の姪っ子が我が家にやってきてから一月が過ぎた。
士元の人見知り及びかみかみはいまだ健在だったが、オレにもようやく少しは慣れてきたらしく、当初のぎこちなさから少し脱却したようだ。
客人という扱いから家族という扱いへ移行したため、彼女の日課は畑で野菜をむしることから始まる。士元は身体が小さいから、水汲みや水撒きなんかの力仕事はオレの担当。母は苗などの様子を見たり、魚を釣ったり、その日の思いつくままのんびり過ごしてる。
噂によれば巷では山賊とか増えてきているらしいけど、そんなことを感じることのない毎日を過ごしていた。ああ、でも最近は母に用事があるだとか、勧誘したいだとか、そんな関係の人よく訪れるようになったかな。だいたいそういう人たちが帰った後の母は、色々と面倒で正直困るから、できれば来て欲しくないんだけど。
今も母が襄陽から来たという立派そうな服を着た人と話をしている。どんなとばっちりが後から降りかかってくるかわからないため、オレたちは急いで畑仕事をこなしているところだ。
「士元、そっちはどう?」
「っ! ……えと、あの、後はこっち側の野菜を収穫すれば、終わりですっ!」
「了解! オレはこの後、念のために水瓶の水を足しておこうと思うから、士元は先に家へ戻ってていいからね」
流れる汗を手の甲で拭いながら、先に家へ戻るように伝える。まあ、話し合いもそろそろ終わるだろうし、オレよりも士元のほうがきっと上手いこと母をなだめてくれるだろうという目論見も、実はあった。そのことがわかったのであろう士元は、「李姓さんは、ずるいです」なんてかわいく膨れているが、そんなことは気にしない。
「あ、まってください……!」
「ん?」
両手に桶を持ち、いざ出発というところで士元に呼び止められ立ち止まると、彼女は収穫に使っていた籠を脇へと置いて、こちらの方へと走りよってくる。
「あ、あの、髪の毛」
「あー、やっぱ邪魔だよなあ。切ろうかとも考えたんだけど、なんとなく切れなくってさ」
桶を傍らに置おくと、耳の横から流れる茶色い髪の一房をつまみ、持ち上げた。いつのまにか背中の半ばまで伸びた髪の毛に、いい加減本気で切ることを考えるかと真剣に悩む。
「あわわ、勿体無い、です。……長い髪も、似合ってます。あの、後ろを向いてくださいっ、髪、結んだ方が……その、いいから」
士元を見ると手に紐が握られていて、どうやらそれで髪の毛を結んでくれるらしく、言われるがままに後ろを向き、その場にしゃがみこんだ。
オレは母よりも少し背が高く、士元よりすごく高い。今日みたいに襄陽から母に会いにくる男よりも高いときもある。きっと普通に後ろを向いただけじゃ結んだりとか出来ない……よな? 多分。
彼女の手が耳の横に回るのを視界の端にとらえて、士元の指は小さく細い指なんだなと思っている間に、オレの髪をするするとまとめて結い上げてしまった。
後頭部の上のほうから一束の房が流れる。その様子は、まるで馬の尻尾のようだ。
一度ゆるく頭を振ってみせると、士元へと振り返り礼を言う。
「サンキュ、邪魔にならなくていい感じだ」
「さん……きゅ?」
「ん? ああ、えーっと、ありがとうって意味。なんかつい口から出ちゃったよ、ゴメンな」
オレの言葉に左右へと揺れる水色の髪の毛を見ながら、先程のやりとりをもう一度脳内で再生させた。今回のように、不意にオレの口から出た言葉の意味が伝わらないことがある。それは何を意味するのだろうか。過去の自分についてを考えることは昔より増えたのだが、それはきっと今の生活に慣れたからなのだろうと思っている。だが、この士元が家に来たことにより、より違和感が増えてきているようにも感じるのだ。
「おい、山民! 統!」
なにか以前のオレと係わり合いがあるのか、そう考えた矢先に家の方から母の怒鳴り声が聞こえてきた。あの声の様子じゃ今日もご機嫌斜めのようだ。これを無視なんてしてると、本当に後が面倒になるので、とりあえず大声で返事を返す。
「ういー」
「はいっ!」
見ると士元も母の声にビクッとした様子で返事を返しており、思わず噴出すとそれを聞きつけた士元が真っ赤になって拳をつくり、オレの腹めがけて叩きにきた。全然痛くない拳がぽかぽかという擬音が似合うような速度でオレの腹に当たっている。士元の必死な様子をこのままもっと見ていたいところだが、このまま母を放置した事に対する後処理を考えると諦めざる終えないわけで。
「ゴメンゴメン、ほら母さんが呼んでるから行こうぜ」
「あ、あわわ……、最近の李姓さんは、いじわるです」
士元の言葉に声を立てて笑うと、オレは傍らに置いた桶を邪魔にならないところへと片付け、収穫した野菜の入った籠を士元から奪い取りつつ、母の待つ家へと向かった。
しかしながら家への扉を開けても静かで、思わず士元と顔を見合わせる。いつもならここで母の
「遅い! なにをしている!」という怒鳴り声が飛んでくるところだ。玄関から覗く卓には座っていると思われた母もおらず、オレらはとりあえず中へと入り奥の部屋を覗いた。
「なにしてんの、母さん」
「ぬ、来たか」
大きな風呂敷とでもいうのだろうか。この場所からは母に邪魔され中身は見えないが、その風呂敷の中になにかが沢山詰め込まれているように見える。ちょっとでも力が入ったら風呂敷を結んでいるところが外れ、中身が全部こぼれてしまうのではないかと思うぐらいの膨らみだ。その風呂敷と一人格闘している母を見つければ、思わずツッコミを入れても仕方が無いとオレは思う。一仕事終わったぜ、とでもいいそうな爽やかな顔で額の汗を拭う母に、士元なんかは視線をあちらこちらへと泳がせてしまっているではないか。
「来たけど、ホントなにしてんの?」
「見たらわかるだろう」
「わからないから聞いてんだろ!」
母の切り返しに怒鳴るような荒い口調で切り返す。内心の呆れやら訝しげやらを抑え、どうにかこうにか紡ぎだした言葉だったというのに、この人はしれっと言い返しやがった。悪気が無いのがなお腹が立つ。なんだ、なんかどこかでこういう人知ってるような気がするんだけど。こう、理不尽の代名詞みたいな人。しかも偉そうというか自信満々というか、アホの子みたいな感じの人。
「山民は見る目が無いの。まあいい、オマエらあっちへ行くぞ」
「あ、あわわ」
何かを思い出しかけた気がするのだが、母の声に思考を一旦引き出しへとしまうと、言われるがままに向こうの部屋へと移る。もちろんあの風呂敷包みはオレが持たされるんだけど、結構な重さがあり、いつ結び目が解けないかと肝を冷やした。とりあえず、玄関の方へと置いておけといわれたので言われたとおりに移動させると、オレは士元の向かいの椅子に腰を下ろす。オレと士元、二人が座ったのを確認すると、母はもったいぶって咳払いを一つし、そして意地の悪い笑みを見せた。
「ワシは今日から家出をする」
向かいに座る士元を見た。きょとんとした表情で母を見ている。あの顔は、何を言っているのかわかっていない顔だ。ちなみにオレも何を言っているのかわからない。母へと視線を戻すと、ヤツは悦にはいったような顔でオレらの様子をうかがっていた。この人が自分の親になったことをちょっとぐらい悔やんでもいいだろうか。そんな考えもよぎるほど、あまりにも突飛過ぎて二の句がつげられないでいた。
「あの人もそろそろ魚梁洲の探索が落ち着くだろうて、ワシの休養も兼ねておる」
「……あの人?」
「ぬ? 山民には話してなかったか。碧玉という、ワシの尊敬し、愛する人のことだ。気分転換も兼ねて、魚梁洲のほうに寓居でも、ということになってな。あの人が先に様子を見に行ってくれておる」
母の口から出てくる言葉は、衝撃的なことが多すぎてオレの脳が上手く作動してくれない。家出、ということは横においておいてでも、後から出てきた碧玉さんという人についてさえも処理しきれない。その中で一番最初に理解できたのは、母が家から出て行くということ。
「えっと、一つ聞くけど」
「応、聞いてみろ」
「その、母さんだけで行くの?」
「そのつもりだ」
「オレらはその間どうすんの?」
「二人次第だな」
ちょっと待て、落ち着けオレ。深く息を吸ってゆっくりと時間を掛けて吐き出した。焦った気持ちが嘘のように消えていくわけもなく、変な汗がうっすらと額に浮かんで、思わず額を袖ぐりで拭う。周りを見渡してみると、カチンコチンと固まった士元が見えた。口癖のあわわすら出ていないところを見ると、士元の中の何かを越えてしまったのかもしれない。彼女の大きな目がぐるぐると渦を巻いてまわっているかのようにみえる様子から、そのまま倒れてしまうんじゃないかと、どこか冷静に状況を鑑みるオレがいた。
「――えっと、ゴメン。意味がわからない」
「ふむ、何がわからんのだ?」
士元から意識を母へと向けることに成功したオレは、素直に謝ってみる。そうすると母は一つ頷いて、問いを投げかけてきた。何が、わからないか。オレはその疑問に首をかしげる。
「あ、あのっ」
「ぬ? なんだ、統」
「あ、あのっ、も! も、戻っていらっしゃるんでしゅか!」
オレが言いよどんでいると、復活を果たしたのか、士元が机に向かって前のめりになり声を上げた。その声の大きさに言った本人が吃驚したのか、周りを見渡し真っ赤になって身体を小さく丸めて、本当に小さな声で「あぅ」と、呟きを漏らす。
「一月か二月か、今のところはそれぐらいを考えておる。その間、オマエらはここで適当に過ごすも良し、統は家に帰るも良し」
「お、オレは?!」
「山民、オマエはここで気張って武者修行」
さっき二人次第っつったよな? な? オレの選択肢は一つしかねーだろ。武者修行ってなんだ、武者修行って。思わず心の中で反論するも、口はパクパクと開くだけで声にはならず、目の前の人物の満足そうな顔に撃沈する。がっくりと項垂れたオレに、母は少し苦笑の混じった声で、言葉を付け加えた。
「正直なところ、連れて行くことも考えたんだがな。最近きな臭い噂が流れておって、オマエらはここに残る方が良いというのがワシの判断になる。まあ、統は高にそろそろ顔を見せても良い頃だから、この機会に家に戻るといいだろう」
「うへー、オレ一人かよ」
「一人がそんなに嫌か?」
思わず漏れた心の声に、母がからかいの混じった口調で問いかけてきたが、反論をする気力もなく「まあね」と短く返す。よくよく考えてみれば、オレが山民として生きてきて……といっても、数ヶ月ぐらいなんだが。まあ、山民としての自覚をもってから初めての一人暮らしになるわけだから、寂しいというか不安が勝ってしまった。なのでうっかりと素直に同意をしてしまったんだけど、それがどうやら母には頼りなく見えたのだろう。片方の眉だけを器用に持ち上げ、少し呆れたような声で付け加えた。
「オマエ、統が無事に家に帰れるまで送って来い」
その言葉に驚きの声を上げたのはオレだけではなく、士元からも素っ頓狂な悲鳴が聞こえる。思わず士元をまじまじと見つめると、案の定真っ赤になってわたわたとあたりを見渡して、何も顔を隠せるものが無いことに気づくと、身体を前に折って頭を抱えるように丸まってしまった。士元ってなんというか、愛玩動物とでもいうか。いや、飼育するって意味じゃなく、平たく言えば、かわいいよな。
最近なんか特に意味も無いけど、からかうわけじゃないが真っ赤にさせておろおろする様を楽しんでいるところがある気もする。罪悪感は、少ししか無い。そんな感じで士元について妄想が暴走していると、母がコホンと咳払いをするのが聞こえ、慌てて母の方へと向き直った。
「山民、顔がニヤけてるぞ」
「うっせ!」
真顔で突っ込みを入れてくる母に短く軽口できり返すと、はーやれやれといった様子で肩を竦めて見せるところが、オレを無性に苛立たせる。
「まあ、良い。どちらにしろ、統が家に帰るのであれば、の話だがな。――どうする、統よ」
「っ! ……あ、あわわっ。あ、あのっ、ぅう、……あぅ」
「士元、落ち着いて。大丈夫、母さんは別に急かしてるわけじゃないから」
「いや、急かしておる」
この人は……! 頑張って耐えていたオレの堪忍袋の緒が盛大な音を立てて引きちぎられ、思わず勢いあまって席を立ち上がろうとすると、慌てた様子で士元が声を張り上げた。
「あっあの! ……ぁぅ、り、李姓さんっ! わ、わた、私と一緒にっ、家に来てくだしゃいっ!」
見事なまでのかみかみだ。真っ赤な顔のままで周りを見渡して隠れれそうなところを探しているところが士元らしいと思いながら、娘の成長を見守る母のような様子で頷く母を視界からそっと締め出した。
「いいの? 母さんの言葉を真に受けなくて大丈夫だから、勢いに任せて言っちゃわない方がいいと思うんだけど」
「あわ、大丈夫でしゅっ! あ、あの、ちゃんと考えましたから」
「うーん、けど……」
いつものこととはいえ、この慌てっぷりというか、かみかみっぷりというか、勢いに任せてるようにしかみえないから余計心配になって、ついつい言葉が鈍ってしまう。たしかに、二月後とか言っていたが約束がきちんと守られる保障がないと思われる母を、いつ帰ってくるかわからないまま一人この家で待つのは寂しすぎる。士元についていけば、きっと気も紛れるし街までとはいえ見聞を広げられるのは間違いないだろう。むむむ、と小さく唸るように呟くとこちらを真っ直ぐ見つめる視線に気づき顔を上げた。
「!!?」
どこかホワンとした表情でこちらを見てた士元と目が合ったが、すごい勢いで視線を逸らされてしまった。 なんか変な顔してたかな?
「ふむ、とりあえずは決まったようだな。途中水鏡先生に会わねばならんから、ワシはもう行くぞ。統よ、高によろしく言っておいてくれ。ついでに、姉上も今度は釣りに付き合ってくださいともな」
オレたちのやり取りがおさまったのを見計らって、母がオレと士元の話を切り上げる。決まってないだろって言いたい気もするが、士元についていく方が良いような気がするので黙っておいた。母の言葉に士元はこくこくと首を上下に振って大きく頷くと、母は士元の頭に手をのせて優しくゆっくりと撫でる。別れを惜しむかのような様子に少し羨ましくもあり、ほほえましくもあった。
「統、家に帰って落ち着いたら、司馬徳操という人物を訪ねると良い。荊州に移ってきたばかりだが、しばらくこちらで住むそうだ。思慮深く、面白いヤツでな。もしオマエが進むべき道に迷ったとき、きっとオマエの道を照らしてくれるだろう」
「は、はいっ!」
諭すような言葉に、士元が強く返事を返す。その返事に母が小さく頷くと、士元の頭の上にのせていた手を退けてこちらへと視線を真っ直ぐに向け、オレの名前を呼んだ。なんとなしに居住いを正して、出来るだけ平静を装って相槌を打ち、母の言葉を待った。
「山民」
「ん、なに?」
「約束を覚えているか?」
「はい」
いつか自分が旅に出るときまでに、真名を決め覚悟が出来たときに母に教えること。
それが母との約束だ。まだオレの中で真名は決まらず、覚悟すら宙ぶらりん状態で、士元の付き添いを兼ねてここから離れ、町に出るということすら不安になっている。そんな後ろめたいような、情け無いような気分の為か、母の視線をまっすぐに受け止めることもできず、視線をそらしながらもどうにか肯定を返すと、母はふむ、と一つ呟きを漏らした。
「まだ名は浮かばぬようだな」
「……はい」
「覚悟はどうだ?」
「自信は、ありません」
静かに、しっとりと柔らかな声音で問われると、情けなさが溢れ頭が下がり俯いてしまう。士元は気を利かしてくれているのか、沈黙を守ったままでオレたちを見守ってくれているようだ。その優しささえも、今は少し心が痛い。
「そうか。ならば次逢うまでに決めておけ。学びて思わざれば則ち罔し、オマエの目で見てオマエが考えるのもまたしかり。ただし、危なくなったら逃げろ。いいな?」
「はい」
オレの返事に母はやや乱暴にオレの頭へと手をのせ、髪の毛をかき回すように撫でた。「手のかかる娘だ」なんてぼやくように言ってはいるが、声音も手つきもどれも優しいものだった。普段の態度とうってかわって、こういう時の母への接し方がどうにもぎこちなく、ただただおとなしくなってしまう。そんなオレを見てる士元の表情はとても優しい顔をしていたのだが、なんだかとても面映かった。
「さて、ワシはそろそろ行く。明日の昼頃に今日来たヤツらがまた来るとかほざいてたから、オマエらも話に付き合いたくないのであれば、明日の昼までにここを出るが良い。残っているものは適当に片付けておいてくれ。勿論戻ってくるつもりはあるが、野党が紛れ込まぬともいえんからな。片付けはきちっとしておくように」
「了解」
「あわわ、がんばりましゅっ」
オレと士元の顔をゆっくりと交互に見て、母が深く頷く。それにあわせオレや士元もしっかりと頷いた。母が椅子から立ち上がり、続いてオレらも立ち上がると、見送るために門口の前までついて行く。大きな荷物をさほど重くなさそうに担ぐ母に、どうにか「道中気をつけて」と言葉を紡ぐと「応」と短い頷きを返してくれた。背を向けて山道を下っていく母の姿を、姿が見えなくなるまで見送り続ける。一度、だいぶ母の姿が小さくなった頃ぐらいに、こちらへと振かえるのが見えて大きく手を振った。オレも、士元も精一杯手を伸ばしてぶんぶんと振る。そうすると母も片手を大きく振ってくれた。それも一瞬で、母は背を向け山道を下って行く。母の背中が木々の間から消えてもしばらくはずっと母が下っていった道をオレたちは見続けていた。
さわさわと風により木の葉が震え、葉擦れの音だけがこの場を満たしているようだった。そういえば、オレが名前を一度無くし、新たに名を得たときのように、今回のことも突然だったように思う。そればっかりじゃない、あの人はいつも突然で、そしていつもこちらが驚くようなことばかりをしでかすのだ。振り回される身にもなって欲しい、片付けなんてそんなにしたことが無いんだぞ。
どこかぼやけて見える木々を睨むように見つめ、心の中で毒づいた。母に驚かされたことや腹が立ったこと、呆れたこと、怒られたこと、嘆かれたこと、そして楽しかったこと。短い期間だったが、沢山の思い出があり、それが次々と思い出せてなんだかこの場から立ち去りづらかった。
くいくいと服の裾が引っ張られる。ぼんやりとしていたオレはそれに気づくのが遅く、何度も裾が引っ張られてから、ようやく自分の服の裾が引っ張られていることに気づいた。傍らの小さな背の女の子に視線を向ける。薄い青紫の色をした髪の毛を二つに結んだ、目の大きな少女がこちらを心配そうに見上げていた。その両の瞳は真っ赤で、鼻も少し赤くなっている。
「オレたちもいい加減、片付けて準備しないとな」
「はいっ」
士元が何かを言い出す前に、オレは名残を切り捨てるかのような少しおどけた口ぶりで、そう言い笑いかけた。彼女もはにかむような笑みをオレに返し、二人で家の中へと戻っていく。まずは作戦会議だ。いつ士元の家へ向かうかとか、どうやって片付けるかとか、決めなければならないことは沢山ある。身体が少し冷えてしまったから、温かいものを飲もうといってお茶を入れ一息つくと、二人で母のあれこれについて思い出を語り合った。彼女から聞く母のことは、オレからみた母と少し違ってて、新たな一面がみれたようで面白かった。
あの後、沢山の言葉を士元と交わした。母はどうも望まない客人が面倒だからと家を出たようなので、その足取りがばれるのは嫌だというところで二人の意見は一致し、明日の昼までにこの家を出ることに決める。しばらく家を空けるための片付けなど、あまり経験の無い二人だったためか知識を出し合うのに手間取り、夜中近くまでかかってしまった。ありがたいことに、荷物はさほど多くなく、オレの思いつきも功を奏して綺麗に片付けることが出来たと思う。荷造りはどうやら苦手じゃないらしい。すごいすごいと褒めてくれる士元にオレはちょっとだけ胸を張った。
夜、朝まで数刻しかないけれど、しっかり寝ておこうということで寝台に寝転がったのだが、色々と思い出して眠れず士元の様子をみる。彼女も眠れないためかころころと寝台の上で寝返りをうっているのが見えた。
「士元、起きてる?」
「~~っ! ぁ、あわわ……ぐ、ぐーぐー」
「いや、寝たふりしなくていいから」
オレが声を掛けた瞬間、ビクッと身体を震わせて文字通りぐーぐーと寝たふりを始めた士元に冷静に指摘をすると、小さな声で「ぁう、いじわるです……」という呟きが漏れる。母の居ない初めての夜はどうにも少しもの寂しくて、士元の存在がとてもありがたかった。
「なんか寝ようとしてると、色々思い出しちゃって困るよな」
「……李姓さん」
「まあ、それで士元が起きてるならもうちょっとだけ話とか出来たらいいなと思ったんだ」
士元が眠くなるまででいいから少し話に付き合ってほしい、そう続けようとした矢先。彼女は自分の寝台を降りてこちらへと近づいてくると、オレの寝ている寝台へと手をかけ潜り込んできた。
「あの、士元?」
「あ、あわ、お、おじゃ、おじゃま、します……」
「う、うん……って、えーっと」
意図を問いただそうと名前を呼んだが、どうやら通じたわけでなく違う返答がかえってきて、なんと言うべきか考えあぐねる。寝台はさほど広くは無いが、士元が小さくほっそりしているためか、二人で横になるのは問題ない。オレと士元の間には少しだがそれなりに隙間があるし、とりあえず壁ぎりぎりの寝台の端っこまで下がっておけば、士元が窮屈に感じることはないだろう。じりじりと壁際へとよりながら、現状について考えた。
なんか焦る。女同士なのだから焦る必要性は無いのだが、なんだか落ち着かない。抱きつくのも変だし、かといって直立不動になるのもおかしいわけで。オレの手の置き場はどこが一番安全なんだろうか、などと後から思えば頓珍漢なことに思考がかたまっていた。
「……あ、あの、李姓さん」
「はいいっ!」
すっかり自分の手の置き場に思考がむいていたせいで、士元からの問いかけに身体を揺らし素っ頓狂な返事を返してしまった。暗闇だが、近くに居るためか彼女の目がまん丸としているのが見える。慌てて咳払いをして、動揺のためずり落ちた掛け布団を直しながら、士元に向かって話の続きを促した。
「っと、ゴメン。どうした、士元?」
「は、はい…えっと、その、……あ、あの」
こちらを向いては直ぐ俯いて、またこちらを向いて何かをいいかけるも俯いて、という動作を繰り返しもじもじする士元に、オレは少し首をかしげる。いったいなにを言いたいのだろうか。母のことか? 眠れないなんて言ったものだから、優しいこの子は気を使って慰めてくれるのかもしれない。ここはやはり変なこと言ってゴメンな~なんて、くだけた感じで言って場を和ませるべきか。そう思い口を開けたと同時、士元も一緒に言葉を紡ぎだした。
「悪い、変な……」
「き、聞いてく……」
お互い、言いかけた言葉半ばで口をつぐむ。場には沈黙が重くのしかかり、そっと様子をうかがうため視線を向けると、同じようにこちらの様子をうかがう士元の瞳にぶつかった。プッと噴出したのはどっちが最初だったのだろうか。オレも士元もお互いの様子がおかしくて声を立てて笑った。ひとしきり笑った後、士元のほうへと向き直り肘を曲げて頭を支え、自分の身体へと空いた手を置くと、改めて話を仕切りなおす。
「それで? 何を言いかけたんだ?」
「あわ、李姓さんが先に、どうぞです」
「んー、オレは変なこと言っちゃったから、士元に気を使わせたかなと思ってさ。ゴメンな」
「ち、違いましゅ! あう、き、気を、気を使ってるというわけでは、ないですっ! あ、あわ、ち、ちがっ、使ってなくはないですが、つ、使ってるんですけど、けどっ、違うんでしゅっ……!」
自分の言った言葉に対して慌てて訂正を入れるも、どう説明していいのかわからないとでもいったようなそぶりで慌てふためく姿に、思わず手を伸ばして士元の頭の上へ手をのせた。柔らかい髪質とでもいうのだろうか、手のひらにさらさらとした感覚を味わいながら、気にしなくてもいいよという気持ちを込めてそっと頭を撫でる。あたふたしていた様子が、今度はカチンコチンと一瞬固まったけれど、何度も撫でている間に小さく息を吐き出し、今ではオレのされるがままになっている。
「気を使ってくれて、ありがとな」
「っ!! いいえっ、そ、そんな、お言葉、もった、勿体無いです……!」
真っ赤になって俯く様子に、小さく笑いながらもう一度ありがとうと伝える。しかし、たまに言葉の使い方が仰々しいことあるけどなんでだろう? 癖なのかな。オレとしてはもっと砕けた言い方でもいいのにって思うけど、こればっかりは強要できないからなあ。止められないことをいいことに、士元の頭を撫でながらぼんやりと考えていると、小さな声で名を呼ばれた。
「あ、あの」
「うん? ああ、士元の話だったよな。さっき士元はなにを言いかけたんだ?」
訴えたいことはうっすらとわかったが、気にせず士元の頭を撫でながら話の続きを促す。こちらを見つめている、ちょっと潤んだ瞳に屈してしまいそうになるが、この感触とお別れと言うのは寂しいので士元の視線は気にせず撫で続けることにした。オレが撫でるのを止めないことを察したのか、諦めたのか。彼女は小さく呻いてから、自分の胸の前で拳を作るとオレを真っ直ぐに見つめ口を開いた。
「わ、私の名前は、鳳統、字は士元」
「……士元?」
「あわわ……、あ、あああの、まだ、まだあるんです。もう一度、いいます……」
自分で言うのもなんだが、訝しい声がでた。いきなり名乗り始めた士元に名を呼ぶと、オレの不審がった声に慌てた様子で待ったをかけられる。もう一度という言葉に頷いて、なんとなく身体を起こして座ると、彼女もオレと同じように座りなおし、深呼吸してから言葉を紡いだ。
「私の名前は、 鳳統といいましゅ……ます。字は士元。ま、真名は雛里……こ、これからは雛里って、呼んでくだしゃいっ」
そういった彼女の真っ直ぐにこちらを見ている瞳に、ドキリと大きな音を立ててオレの心臓が鳴る。士元は緊張のためか普段以上にかみかみだったが、言い終えた彼女の表情は晴れやかだった。
<修正>
2018/05/09 スペースなど文字調整
2018/05/19 サブタイトル修正