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「母さん!」
そう大声で叫ぶと、いつものように池のほとりで釣り糸をたらしながら、のんびりとした様子でくつろいでいる徳公に駆け寄った。
こちらを振り向いた彼女は、樹木の枝葉の間からさし込む光をまぶしそうに目を細めるも、オレの姿を認めると笑みを零し手を振ってくれる。その姿がオレは嬉しかった。
「どうした、そんなに慌てて」
母は側まで来たオレを見上げてそういうも、「まあ、座れ」と自分の隣を顎で指し示す。
オレの呼吸の荒さのおかげで魚も逃げていくぞと笑いながらからかわれれば、しぶしぶながらもそこに座るしかないわけで。
あがっていた息を整えながらも、言われた場所へと腰を下ろすと横目でチラリと母である徳公の顔を窺った。
もうオレの方は見ておらず、たらした糸への視線を向けている。
その表情は飄々としているようでもあり、どこか柔らかな笑みをたたえているようにも見える。
スラリと伸びた鼻先は格好よく、女性の割りに薄い唇がより涼しげな表情を強調している。
間違いなく美人だ。自分はというと、残念ながら母とはまったく似ていない。
そりゃそうだ、血が繋がっていないのだから似るわけもない。
強いて似ているところをあげるのならば、この胸の二つの大きさはこの母と同じくらいの重量ぐらいにはなるだろうというところだろうか。
自分の胸を見て小さなため息を一つ吐き出した。
そんなオレの様子に母はこちらをチラリと見るもすぐに視線を元に戻す。
どうやらオレから話出すのを待ってくれているようだ。
気遣いに感謝しつつ、オレは身体を母の方に向けて座りなおすと、真っ直ぐに見やり言葉を紡いだ。
「母さん、真名を決めたよ」
◇◇◇
遡ること、半年以上前。
オレが母である鳳徳公に拾われたところから始まった。
母の話によるとオレはこの湖からもう少し山の頂上の方へと向かって歩いていった所に落ちていたそうだ。
追い剥ぎに遭うにしても、人は殆ど通らないような山道だ。
母曰く「怪しすぎて生死を確認するのに躊躇ったよ」という状況だったらしい。
放っておいたら寝覚めが悪いという理由を言ってたけども、何はともあれオレを家まで連れて帰ってくれたのだから、案外と母はお人よしなのだろう。
さておき、なかなかオレの目が覚めなかったから医者にみせようかと腰を上げたところで、オレが目覚めたそうだ。
目が覚めたオレはというと、なんというか、ぼんやりとした状態だった。
その時のことは正直あまり覚えていないのだが、寝起きの時のぼんやりとした、全てのものが霞んで見えるというか、簡潔にいうと感覚が鈍かった。
目の前の人物からの問いをぼんやりと聞いていたのだが、目の前の人物は埒があかないと思ったのだろう水を飲ませてもらい、ご飯を食べ、人心地ついた時にオレはようやく気づいたのだ。
「自分が何も持っていない」ということに。
さて、参った。自分の名前もわからない、自分が何者かもわからない、自分が何をしようとしていたのかもわからない。
今も、過去も、未来も行く手塞がりだ。
お腹は満たされたが、今度は心が満たされない。
がっくりと項垂れるオレの思考には目の前の人の存在すら吹き飛んでいた。
後から考えれば、救ってくれたお礼を言うべきところだったのだろうが、それどころじゃないぐらいこの事実に動揺していたのだ。
見えていた視界が認識できなくなり、考えた言葉が自分の中の全てを支配する。
文字通りオレは自分のことで頭がいっぱいだった。
だから、助けてくれた恩人がこの家から出て行ったことにはまったく気づかず、しばらくずっと頭を悩ませていた。
葛藤は色々あったがしばらくして、いくら悩んだところでこの状況が変わらないというところにたどり着いた。
落ち着くとおかしなもので、さっきまでは受け付けていなかった自分のおかれている状況がすんなりと入ってくる。
木の芳香が充ちた家だ。目の粗い敷布だが、パリッとした手触りが清潔な感じを窺える。
綿は薄く寝やすいというわけではないが、大事に使い込まれているのだろう、きちんと繕われていた。
先程自分が食べたであろうご飯を入れていた茶碗は姿を見せず、空になっていた水差しに水が補充されていた。
周りをゆっくりと見渡してみる。
寝台は二つ、箪笥が一つ、小さな窓があり、傍らに花瓶に可愛らしい花が飾られている。
耳を澄ましてみた。窓の外から小鳥の囀る音が聞こえる。
だが、それ以外の音はしない。オレは恐る恐る隣の部屋と繋がっているのであろう、この部屋の入り口へと視線を向けた。
扉はない。卓が少し見えるから廊下ではないのがわかる。
じっと見つめてみるも視界には何も映らず、人の気配すら感じなかった。
その瞬間、オレの中でなんというか、肝が冷えたとかいう次元を超越した。
もう、本当に自分にうんざりしたぐらい変な汗が出た。
恩人を放置して礼を言わずに自分のことに夢中になっていたのだ、流石に恥ずかしい。
慌てて寝台から飛び起きると、卓がある部屋の方へと駆け寄った。
小さな部屋だ。こじんまりとした卓が一つある。
椅子は二つ、左奥に厨房と思わしきものが見える入り口がある。
右側の奥は……扉がついている入り口があった。
一瞬迷ったが、左の部屋を覗き人が居ないことを確認してから、扉を開け恩人を探すべくこの家から飛び出した。
恩人は案外と近くに居た。
家を出たオレの目の前には木々が溢れるほど立ち並んでいたが、道があった。
右へ行くか左へ行くかは賭けだったが、どうやら見事勝ち取ったらしい。
しばらく行くと木々の隙間から湖が見え、そこに恩人が座っていたのだ。
名前を聞きそびれたということもあり、声をかけるのに迷ったわけだが、無難に「すいません!」という言葉で声をかけることにした。
「おや、目が覚めたみたいだな」
息を切らせながらも恩人の側まで行くと、彼女はこちらを見て片方の眉を持ち上げ、からかうようにそう言った。
言葉が刺さるというのはこういうことを言うのだろうか。
自業自得だとは思うが、ちょっと前の自分に説教したい。小三時間ぐらい説教したい。
「あの…、……」
「まあ、座れ」
恩人の言葉にちょっと逡巡するも、彼女の隣へと腰を下ろすと、すぐさま向き直り地面へ手をついて頭を下げる。
先手必勝、というか本当になんかものすごく居心地悪い! とりあえず謝りたい!
「本当にすみませんでしたっ!」
オレの叫ぶかのような大声の後、鳥の鳴き声だけがこの池の畔に木霊する。
恩人の声は聞こえない。
更に地面に額を擦り付けるのかというぐらい頭を下げる。
それでも恩人の声は聞こえない。
こうなってくると、だんだんと不安になってくる。
怒らせちゃった? やっぱり怒るよなー……、普通怒るよな……。
どんよりと落ち込みつつも、誠意だけは見せたくてしっかりと頭を下げる。
水の中に何かが投げ込まれたような、まさしくちゃぽんという擬音がふさわしいだろう水の音が聞こえ、そしてすごく間を置いてから恩人からポツリと呟きがもれた。
「……というか、何で謝られてんの? ワシ」
恩人はなんというか器が大きかった。
オレが自分のことに一杯になって、助けてもらったお礼も言わずに自分に掛かりきりになったにもかかわらず、「さもありなん」の一言で終わらせた。
落ち着いたオレに彼女はもう一度オレ自身のことを改めて聞いてきた。
だが、思い出すことも出来ずこれからどうすればいいのかもわからないことを伝えると、「ふむ」と一言呟いて、釣り具らしきものを片付け始める。
オレは戸惑ってしまったわけで、気づいたら彼女が荷物を全て片付けて立ち上がっていた。
恐る恐る彼女を仰ぎ見ると、薄く意地の悪い笑みをみせて顎で地面に置かれたバケツを指し示し口を開いた。
「帰るぞ。オマエはそのバケツを持つんだ」
「……っ! はいっ!」
オレは慌てて立ち上がると、魚の入ったバケツを持ち上げて彼女に続く。
これからのことや、いままでの自分に不安があったが、それよりも目の前の彼女に自分という存在を受け入れてもらえたという事実に、嬉しく思った。
「さて、改めて話をしようか」
飛び出てきた建物に戻ると先程オレだけ食事を振舞われたというのもあり、彼女が飯を食べるのに付き合って軽く食事をした。
その後、食べ終わった茶碗などを一緒に片付け、お茶を入れて卓で一息入れていた時にこう切り出されたたのだから、ビクッと身体が震えてしまったのは仕方がないことだと思ってもらいたい。
「まずは、ワシの自己紹介をしよう。鳳尚長、見ての通りここで生活をしている」
そこで彼女は言葉を切ると、少し考える様子を見せた。
切れ長の瞳に理知的な光が見える。こういう顔が眉目秀麗というのだろうか。
パッと見て若くも見えるが、瞳を見ると相応の年齢をつんでいるようにもみえる。
つまりは……年齢不詳にということだ。
そんな彼女が言葉を選んでいるのだ、何を言われるのだろうかとちょっと焦る。
自分を落ち着かせるためにそっと茶器を手に取り、一口お茶を飲んだ。
……うーん、ぬるい。
「おい、オマエ」
「すみませんっ! お茶ぬるくてすみませんっ!」
急に呼ばれ慌てて謝るも、少し驚いた様子でこちらを見る彼女に自分の取り違いということに気づいてげんなりした。
コホン、という咳払いに居住まいを正す。
ちょっと気を抜いた矢先にこれだ。変な汗をかきすぎて、今オレの服を絞るとしずくが滴り落ちるに違いない。
そんな他愛ないことを考えながら彼女の言葉を待った。
「オマエは、これからどうするつもりだ?」
彼女の口から出たのは、なんとなく考えるのを避けていたことについてだった。
今日は色々あったから寝て、また明日……なんて考えは、楽観的な考えだったのだろう。
これから、という言葉に眉を寄せる。
どうしたかったなんて思い出せない。
もしかしたら思い出せるのかもしれないが、今は思い出せないのだ。
自分の中の心を探るように、今の自分に当てはまる言葉を捜す。
「オレは……、思い出した時に動けるぐらいには生きたいです。今は、何がしたかったのか思い出せませんが……。何かしたかったことがあるような気もするので、そのためにも……その、生きたいです」
「ふむ、具体的にはないのか?」
「具体、的に……?」
「なんでもいい。旅に出たいとか、ここに住みたいとか、そういうのだ」
ただ漠然と生きたい、としか考えてなかったオレは具体的という言葉に面食らった。
旅に出たい? 出たところでどうなる。
あてのない旅も面白いかもしれないが、知識もなにもないのに旅に出たところで死ぬのがオチじゃないか。
だいたいここはどこなんだ。
そこまで考えてから、目の前の恩人へと視線を向ける。
いつの間にか思考に溺れ俯いていたらしい。
「あの、ここに住みたいと言った場合は、住ませてもらえるんですか?」
「ぬ? まあ、ワシの邪魔さえしなけりゃ住んでもいいだろう。ここに住みたいのか?」
打てば響くというような返答にオレは思わず頷くも、すぐさま首を振って言葉を添える。
「その! 旅には出たいです! ……まだ、気持ちの整理がついてませんが、自分を知りたいので旅には出たいんです。ですが、まだ考えがまとまらなくって……。出来れば、しばらくの間でも、こちらで住まわせていただけたらと思ってます」
最後のほう、なんだかごにょごにょとした感じになってしまったが、自分の気持ちを伝えると彼女はうんうんと頷いてから「さもありなん」と言った。
この言葉、この人の口癖なのだろうか?
「さて、名前が無いのは不便だな。名乗りたい名はあるか?」
彼女の言葉に首を大きく横に振る。
そんな直ぐに思いつくのあったら、まずそれを名乗ってると思うわけだが。
名前か……。腕を組んで首をかしげる。
自分の名前について色々考えたがまったくもって思い出さないんだもんな。
「ふむ、山民はどうだ? 山で拾った民だから山民。いい名前じゃないか!」
閃いたとばかりに、目を輝かせこちらへと身体を乗り出して言うと、彼女は椅子に座りなおして「うんうん、いい名前じゃないか!」と一人頷いている。
やばい、このままじゃ本当に山民って名前になっちまう!
「あの……」
「よし、姓はワシの名前から鳳。名は山民としよう!」
「えっ? ちょっ」
「字もやろう。子魚なんてどうじゃ? ワシの字、この名にするか迷ったらしいしオマエにつけるのもまた一興」
「や! 子魚はちょっと……ってか、えっ」
「ぬ? 我侭なヤツだの。それじゃ李姓にするか。ふむ、李姓。良い字じゃないか」
オレの意見はそっちのけで、彼女の中で次々とオレの名前が決まっていく。
気づけばどうにか子魚は逃れたものの、鳳山民、字は李姓という新しい名前を授かっていた。
オレが自分の名前を無くして、約二十刻後の出来事だった。
「山民!」
「……なんでしょう」
言いたいことは沢山あったのだが、返事をすると嬉しそうに笑う彼女に新しい名前を受け入れる。
山民なんてちょっと安直のようなダサいような気もするが、恩人が喜んでいるのならそれもいいだろう。
「改めて名乗るとしよう。姓は鳳、名は徳公。字は尚長。この家の主で、今からオマエの母になろう」
……なんて、気軽に考えていたオレはもしかしたら馬鹿だったのかもしれない。
彼女は楽しそうに、そして慈愛に満ちた笑みをむけ言葉を続ける。
「ワシはオマエを実の娘のように接し、旅に出れるよう育てよう。まァ、教育とかいうのはワシには向かん。だが、今までも子供を育てた実績はある。折角拾ったオマエが外に出て何もせんうちに死なんようにはしたいからの」
そこで彼女は一旦言葉を切ると、小さく困ったような笑みをみせてから、卓の上に置かれていた茶器を一気に煽った。
ごくごくと喉の鳴る音がする。 そしてぷはァという言葉と一緒に卓へ茶器が叩き置かれた。
彼女はオレを見て、今度はしっかりと笑いかける。
オレはその笑みに、涙がこぼれそうになるのを必死で堪えていた。
「真名はつけん、自分で考えろ。真名は自分にとって心を許した相手に呼んで欲しい名前のようなもんだ。許可無く呼ぶと殺されても文句の一つも言えん。今のオマエには旅に出る覚悟が足りん。正直なところ、ここから出ていくと言っていたらワシはきっと反対しただろう。もしオマエにその覚悟が出来たとき、オマエの中の何かが生まれたその時、ワシに真名を教えろ。ワシはオマエの旅立ちを心から喜ぼう」
言葉にならなかった。少しでも口を開けば嗚咽を漏らしそうで、ただじっと唇をかみ締めて滲む彼女の顔を必死で見つめていた。
長い、長い時間そうやって歯を食いしばって泣くのを耐えていたが、その間彼女もその場所から動くこと無く、オレに付き合ってくれた。
卓へと俯いたオレに、そろそろ寝るぞという言葉をかけて立ちあがると、引きずるように寝台へとつれていってくれる姿は、彼女が宣言したようにまるで母親のようだった。
それぞれの寝台に寝転がる。寝台は硬く寝心地が良いとはいえないものだったが、目覚めたときに比べると雲泥の差があった。
色んなものを無くしたが、それに代わって色んなものを手に入れた。
なんというか、あれよあれよという間に決まったことだが、自分がわからないという事実はオレにとって思ってたよりもどうやら堪えてたらしい。
それが、あの言葉で曝け出されたのだろう。
掛け布を頭から被りながらも隣の寝台で眠るかの人にそっと感謝の気持ちを込めて呟いた。
「……母さん、ありがとう」
<修正>
2018/05/09 スペースなど文字調整
2018/05/19 サブタイトル及び「1.」表記の修正