規則的な振動が体全体を伝い、変化の少ない車窓からの景色との相乗効果によって、座席の背もたれに身を任せている俺自身の眠気を誘発させていた。
今は丁度正午位だろうか。一時間半ほど前に機関車に乗り込み、そのままずっと揺られ続けている。窓から遙か地平線の先を見つめるが、目的地は影も形も見えない。
「…ふぁ…あ…」
大きな欠伸が一つ出た。道中に読む本も持ち合わせていないので、ただただ寝るかボーっとする以外にやる事が無いのだ。
南部の片田舎の町に居たままで賢者の石を手に入れる事は不可能だ。より貴重で詳細な文献を読み、有力な錬金術師が多く居る所に移った方が良いのは、考えるまでも無かった。
本を売り、家を出たその足で最寄りの駅に向かい、セントラル―――緩やかな五角形を描くこのアメストリス国の中心地域の事だ―――方面へと向かう列車に乗り込み、今に至る。
時刻表によれば、途中のビレジクと言う街までしかこの列車は行かない。そこで乗り換える事になるはずだ。
もう一度車窓の外を見ると、流れる景色の一点から自然の緑では無い人工物のシルエットと色味が現れてきた。
凝り固まった肩を回し、小さな溜息を吐く。
俺の旅が始まって最初の街。もうすぐそこへ辿り着こうとしていた。
車掌のアナウンスが終わる頃には、俺は既にビレジク駅のホームへと降り立っていた。
乗り換え先の列車が来るまで三十分ほど時間がある。この辺りで昼食を食べてしまおうと、構内を見回す。
しかし、それほど大きくも無い街の駅だ。飲食店など在るはずも無く、俺は少し不満顔になりながら駅を出て店を探す事になった。
時間にして数分ほどだっただろうか。左手に持つ鞄の重さを鬱陶しく思い始めた頃、一軒の喫茶店が目に入った。
ベルの引っ掛かったドアを開け、軽やかな鈴の音と共に店内に踏み入る。昼時という事もあり、店内にはそれなりに客がたむろし、喧騒を生み出していた。
「いらっしゃい!注文は?」
「ああ、すぐに出してもらえる食事が良いんですが…。じゃあ、オムレツのプレートを一つ」
「はいよ!」
店主らしき恰幅の良い男に注文を伝えると、彼はすぐさま調理台へと赴き料理を作り始めた。
―――この分なら時間的余裕はたっぷりとれるな、と安堵した俺だったが、ふと、俺の方を向いて呆けた様な顔をしている店主と目が合った。
いや、正確に言えば店主は俺を見ていない様だ。俺のすぐ横の何かを目で追っているのか、大きな黒目が滑らかに動いている。
「…どうかしました?」
「いや、あんたの鞄が」
予想外の返答に驚く前に、俺は傍らに置いていたはずの旅行鞄を見下ろし、固まった。
―――無い。つい今さっきまでそこにあった鞄が跡形も無くなっている。
反射的に周りを見ると、店のドアをまさに今押し開けようとしている人間の背中が、そしてその右手に捧げ持たれた自分の鞄が目に入った。
何が起こったのか理解が追い付かない俺の頭を、ドアの開閉に連動して鳴ったベルの音色がリセットした。
「あっ、ど、泥棒!?待てコラ!!」
そのまま無我夢中で店内の客を押しのけ、ドアに体当たりする様な体勢で店の外へと転がり出る。
「お客さん!?オムレツは!?」
「出来たら置いとけ!!」
目の前で脱兎の如く逃げている泥棒は、軽やかな足取りで俺との距離を離していく。
一方の俺は荷物無しで走りやすいにも拘らず、ある一定速度までしか出ない自分の足のせいで悪態を撒きながら追わざるを得ない状況に陥っていた。
「待て、おい!!返せ!!」
ふいに泥棒が右に進路を変え、脇道へと入った。視界から消えられては逃げ切られてしまう。
焦った俺は切れ始めた息を何とか持たせ、全速力のまま細い脇道へと突入した。
「てっめえ、逃がさねえぞ!」
人が少なくなり俺の声が良く聞こえたのだろう。気付いた泥棒がさっと振り返った。
「お、あんちゃんよく付いて来たねえ!でもこの荷物は返さねえよー!」
見ると、まだ俺とそれほど年の離れていない少年の様に見える。ハンチングを被り、普通の少年の様な上着とズボンを穿いてはいるが、それらは全て継ぎが当てられた古いものだ。
一目で直感した。この少年は置き引き以外にも様々な悪事を働いて食っている。そういう類の人間だ。
相手にするのも面倒だ。そう思い、説得などはせずに両手を打ち合わせ、すぐ右横にあった民家の白い壁面に押し付ける。
「お?」
口を開けて驚く少年を尻目に、俺の手と壁の接触面から青色の錬成光が瞬く。
次の瞬間、少年の背後、右側の壁から十何本もの石の棒が生えて反対の民家の壁に届いた。
列車の枕木の様に現れた石の棒により、俺は脇道を塞いで逃走経路を絶ったのだ。
俺の錬金術を目の当たりにした少年は、しかし、また俺に背を向けて旅行鞄を抱え直した。
そのまま俺の創り出した石棒に足を掛け、片手が塞がっている状態にも拘らず器用によじ登り始める。
まるで猿の様にするすると登って行く少年を見て、俺は溜息を吐いた。確かに地面と平行に棒を渡せば梯子の要領で登って行かれるのは当たり前だ。
そこは想定していたが、ここまで躊躇なく高速で登られるとは思っていなかった。
だが、俺は慌てずにもう一度手を合わせて壁を叩く。
「うっ、うわわわわわわわわわわわわわっ!?」
横に渡されていた石の棒が構成を分解された事によって一挙に折れ、崩れ落ちる。無論それに掴まって登っていた少年も、数メートルの高さから転落する羽目になった。
「ごふっ…」
「ほら、荷物返せ」
少年は小さな砂山の上に投げ出され、衝撃で息も満足に出来ないのか浅い呼吸を繰り返している。
その傍に歩み寄った俺は、落ちていた鞄を拾い上げ手で砂を払った。
「あんちゃん、錬金術師…?」
「そうだと知ってりゃ盗まなかったか?」
ゆっくりと上体を起こし、少年が俺の目を見る。その瞳の光に、俺は何か不吉なものを覚えた。
やおら少年は砂山の横で直立不動の態勢を取り、俺に向かって頭を下げてきた。いきなりの事に呆然とする俺に対し、少年が放った言葉は俺をさらに困惑させた。
「錬金術師のあんちゃん!ちょっと俺と協力してくれねえか!?」
「は?」
「頼むからさあ…。あんちゃんの錬金術はかなりのもんだよ、その腕前を見込んで話があるんだよ」
「俺の荷物盗んだ奴に協力しろって言いたいのか?厚かましいにもほどがあるぞ。大体、協力って何だ」
「儲け話があるんだよ!勿論真っ当なやつさ、犯罪じゃない!でもそれには良い腕の錬金術師がどうしても必要なんだ!」
俺はなおも頭を下げ続ける少年に背を向け、足早に脇道を出た。
―――付き合ってられるか。話にならない。
乗り換えの列車はもう後二十分弱で出発してしまう。今からあの店に帰り、オムレツを食べ終われるかどうか、といった状況だ。一分たりとも無駄には出来ない。
そう考えて焦りながら歩いていた俺の背中に、いきなり人がぶつかって来た。
「あっ、すいませ…」
「ニヒヒ。あんちゃん田舎の出身だろ?警戒心が全然無いよ」
振り向くと、先ほどの少年がにやにやと笑いながら左手を顔の横で振っていた。薄汚れた人差し指と中指の間に挟まれていたのは、見覚えのある革の財布。
いや、見覚えがあるなんてものでは無い。
「お前それ、俺の財布じゃねえか!?何時の間に!!」
「俺が置き引きしか出来ない能無しだとでも思った?」
「お前…また痛い目に遭いたいのか。それとも単に記憶力が無いだけか?おい」
「そう思うんなら…やってみなよ」
散々煽られた俺は、腹立ち紛れに痛いほど手を打ち合わせて地面を叩いた。一瞬にして未舗装の地面が盛り上がり、巨大な長方形の柱が斜めに噴出する。
そのままの速度で柱は少年の元へと一直線に向かい、その足元の地面と衝突してもうもうと土煙を撒き散らした。
俺は白煙の向こうを見透かす様に目を凝らす。今の攻撃はあくまで脅しのつもりだったが、万が一直撃でもしていればこっちが殺人罪に問われかねない。それほどまでに今の柱は速度がついていた。
だが、幸いな事に煙の奥から激しく咳き込む声が俺の耳に入る。
「げほっ…ごっ、げほっ、えほっ…。あーやばい、何だ今の衝撃…」
「財布まで盗りやがって。もう憲兵に突き出すしかないな」
「あっ!財布返せよ!!」
「俺のだ馬鹿!」
縋り付く少年を足蹴にした後、時間的にかなり逼迫している事を思い出した俺は全身から冷や汗が噴き出すような気持ちで駅の方を見る。
気付けば、少年を追っている内に随分と駅から離れてしまっていた様だ。間に合うのだろうか。
「くそっ…。お前のせいでこっちは大迷惑だ!もう構うなよ頼むから!」
「ああっ、ちょっと待って…!」
今度こそ駅に戻ろうとした俺の肩に、大きな手が掛けられる。その感触で完全にキレた俺は、右手を握り締めながら殴り掛からんばかりの勢いで振り向き、怒鳴った。
「てめえいい加減にしろよこのクズ野郎!今度こそ立てなくなりてえか!!!」
「…君、ちょっと来てもらえるかな。そこの憲兵支部まで」
「……へっ?」
俺の肩を掴んだのは、紺色の制服を着て、これまた紺色の帽子を被った大柄な男だった。腰には拳銃と警棒が吊るされており、肩口には階級章の様なものが付いている。
男の出で立ちを見、俺は先だって少年の瞳を見た時に感じた不吉な予感を思い出した。
どうやら、もうオムレツは食べられそうにない。
石造り、四階建ての立派な憲兵支部の一室で、俺はうんざりしながら事情を説明し続けていた。
「何度言ったら分かるんですか。俺は財布やら鞄やらを盗られて、それを取り返そうと街中で錬金術を使ったんです!悪いのはあのガキの方ですよ!」
「と、言われてもねえ…。財布も鞄も君が持ってたじゃないか。走る君達を見たって人は居たが、それじゃあ何の証拠にもならないからねえ」
「ったく…。あのガキはこれまでにも散々前科があるはずです。調べて下さいよ…。それと、あのガキと話もしたい」
「それなんだが、あちらさんも君と話したがっててね。金網越しだが、面会を認めるよ」
何故か囚人の様な扱いを受けている事に苛つきながらも、面会室に通される。目の細かい金網を隔て、先ほどの泥棒少年が椅子に座って待っていた。
「あんちゃん、災難だったね…。捕まっちゃって犯罪者扱いか」
「…錬金術でこの金網を破れないとでも思ってるのか」
「っ!?や、やめてくれよ、ハハ…」
俺の静かな怒りの表情を目の当たりにし、少年はへらへらした笑いを引っ込めた。ごく真面目な顔になり、俺に話を持ち掛ける。
「なああんちゃん。憲兵は俺を被害者に設定してんだ。俺があんちゃんの容疑を否定すりゃ、ここから無実で出れるんだよ。それは分かるだろ?」
「…何が言いたい。証言してくれるってのか?」
「条件次第で、ね」
少年が口角を上げて微笑む。条件の内容は大体察しがついていた。さっき路上で言っていた「協力」―――それを俺にさせるつもりなのだろう。
―――気が乗らないが、やむなしか。
体の力を抜き、腕をだらんと落として首肯した。
「さっき言ってた『協力』とやらをさせたいんだろ。乗ってやるよ、仕方ない」
「やってくれるのか!助かるよあんちゃん!!」
色めき立つ少年を一睨みし、俺の方からも条件提示を始める。
「但し、内容をきっちり説明してもらうぞ。儲け話だと言ってたが、儲けが出たなら俺にも分け前をきっちりと寄越せ。それがこっちの条件だ」
俺の真剣な言葉を聞き、少年は微笑を作っていた口角を更に上へと引き上げた。その状態で右手を振って憲兵を呼び出す。
「憲兵さん!ちょっと話がある。さっきの証言についてなんだけどね…!」
呼び付けられた憲兵がいそいそとドアの鍵を開けている間に、少年は金網越しに右の拳を俺に向けてきた。
「カミルだ。名はカミル。よろしくな、錬金術師のあんちゃん」
「まったく…。とんだ災難だよ」
カミルのにこやかな笑顔を忌々しげに眺めた後、俺は出来る限り嫌そうに金網に拳を押し付けた。
「グラウズだ。……よろしく」
これからは自分の直感や予感をもっと大事にしよう。
小さな明り取りの窓から差す光を受けながら、そう思い直した。