Angel Beats! AFTER BAD END STORY   作:純鶏

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“Next Beat”というvol.3に向けたお話です。
今回のお話は柔沢視点になっています。


Vol.3 生徒会選挙編
Next Beat ― part1


 『嘘つきは泥棒の始まり』という格言染みた言葉を聞いたのは、俺がまだ4歳の頃だろうか。

 当時の俺がその言葉が好きだったのだけは覚えている。

 

 実際、4歳の頃の自分がどうだったかなんて覚えていない。他のヤツはどうなのかは知らないが、俺には小さい時の記憶なんてあまり記憶にない。当時の自分が何を思って行動し、何を考えていたのかなんて全然覚えていない。

 

 強いて覚えているとすれば、あまり母親に構ってもらえなかったこと、よく誰かとケンカをしていたこと。それと、俺がかつていた幼稚園のクラスの担任の先生。幼稚園の白石かおり先生のことがとても好きだったことくらいか。それだけは今も忘れない。

 白石先生は優しく綺麗な女性の先生。長く綺麗な黒髪で、年齢が若かったのだけは覚えている。嫌なことがあったり、上手くいかなかったりした時はよく甘えていた。

 

 そんなお世話になったかおり先生に、怒られた思い出もある。今でも思い出すのが、俺が4歳の頃の話だ。

 

 

「けんくん、ちょっと来てちょうだい」

 

 

 ある時、大好きなかおり先生が俺の名前を呼んでいた。

 振り向くと、その時のかおり先生はとても悲しい表情をして、俺の目を見つめていた。その表情は今でも忘れられない。

 

 

「けんくん、あやのちゃんから聞いたんだけど、けんくんがれんくんを叩いていたって言っていたけど、そうなの?」

 

「…………うん」

 

「さっき先生、れんくんが何で泣いているのか聞いたら、けんくん知らないって言わなかったっけ?」

 

「え、だってぇ……」

 

「だって……何?」

 

「れんくん、けんくんが使ってたねんど取ってぐしゃぐしゃにしたもん! クルマ作ってたのにれんくんがジャマしてこわしたから、同じなのもう作れなくなったんだもん!」

 

「じゃあ、なんでそれを先生に言わなかったの? 先生聞いた時に、なんで言わなかったの?」

 

「えっと……えっと……だって……だってねぇ」

 

 

 言えるわけがなかった。その時の俺は、大好きなかおり先生に怒られるのは嫌だったからだ。

 悪いことをした自覚はあった。お友だちを叩いてはいけないことは、言われるまでもなく知っていた。

 

 それでも、その時は気持ちを抑えられなかった。湧き上がった感情の行き場は暴力という手段でしか消せなかった。怒りという感情を抑えることも、溜めこむことも、その頃の俺はできないでいた。

 

 

「けんくん!」

 

「…………」

 

「れんくんに嫌なことされて嫌だったのは分かるけど、じゃあそれでれんくん叩いても良いの?」

 

「……良くない」

 

「それにね、けんくんがウソをついたのは先生とっても悲しいな。先生もけんくんにウソついてもいい?」

 

「……ダメっ」

 

「そうでしょう? けんくんがウソついたら、先生はけんくんのこと信じられなくなっちゃう。けんくんも先生がウソついたら嫌でしょう?」

 

「……うん」

 

「それにウソつくような4歳さんの子、先生は嫌いだな。そんな子と一緒にいたくない」

 

「ご、めんなさいっ……」

 

 

 かおり先生の言葉に、自分はとんでもないことをしたという気持ちでいっぱいになった。

 かおり先生に嫌そうな表情をしてしまった自分が嫌だった。自分がかおり先生に嫌われるのが嫌だった。ついには、もう耐えきれず泣いてしまう。

 

 

「だからね、もうウソはついたらいけないよ?」

 

「ゔん、わがっだ……もうじないっ!」

 

 

 そう約束した。大好きなかおり先生の言うことを守ると誓った。

 嘘をついてはいけない。嘘をついては、誰も信じてもらえなくなる。嘘をつくことは悪いことなのだ。正直に言うことが良いことだ。

 

 そう、嘘は自分を苦しめる。嘘は悪だ。嘘つきは、泥棒のような悪者がやるようなこと。真っ当な人間はしない。大きくなっても嘘をつくことは、人間の底辺なのだ。嘘は絶対にしてはいけない悪いこと。

 

 

 だから……俺は傷つけた。

 他人を。自分を。大切な母親でさえも……全て。

 正義という言葉の嘘偽りの無い言葉や信念で、守ろうとした人間を傷つけた。

 

 そう、俺はまだ“子ども”だった。嘘に気付けない“子ども”だったんだ。

 

 嘘をついてはいけないという嘘を信じて生きてきた。

 ……それで誰かを傷つけた。

 

 嘘をつく人間は悪い人間であると信じて生きてきた。

 ……それで誰かを失った。

 

 嘘をついたら、自分を苦しめると信じて生きてきた。

 ……それで自分を苦しめた。

 

 

 嘘は心を奪う。嘘は心を癒す。嘘は心を打つ。嘘は心を惑う。

 嘘や偽りの想いは、いつだって現実的だ。

 本当の想いは、いつだって真実的で強い。

 嘘に塗りたくられた現実の言葉は、真実の言葉よりも優しく、人の想いを殺さない。

 

 

 嘘を知らない子どもは、決して泥棒にはなれない。泥棒になれるのは、大人だけ。

 泥棒は大人。大人は心の泥棒になる。大人はいつだって、奪ったり、盗んだりする。

 

 ――“嘘つきは大人の始まり”

 

 誰かに嘘つきはじめたら、それは大人になるってことなんだ。

 

 それを知ったのは、中学生の頃。

 嘘をつけなかった俺は、唯一無二の家族の母を失ったんだ。

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 《2011年5月25日17時50分頃:第2学習棟屋上》

 

 

 俺はホームルームが終わった後、本来ならいつものように戦史部の部室に向かうつもりだった。

 だが、ホームルームを終えた後に向かった場所は学校の屋上。去年の冬までは、限られた部活動の部員にだけ使用を許されていた場所の1つだ。

 そんな場所に、俺はなぜか来てしまっていた。

 

 現在は使用禁止となっているため、本当ならこの屋上には誰も入れない。

 しかし、屋上に入れるスペアの鍵が自分の手元に存在していた。そこらへん、俺の所属する戦史部には用意周到な先輩がいたためだ。今回はそれを使って、放課後になってからずっとこの屋上にいる。

 

 壁に自分の背中を預けるように寄りかかっては、顔を上げて空を見る。ずっと空を見つめるが、べつに空を見るためにここに来たわけじゃない。

 それでも風に当たりながら、空を見上げた。ただ、空ばかりを見ていた。

 

 

「夕焼け空でも見ていたら、少しは気分も晴れるかなと思ったんだがな……」

 

 

 屋上に来た時、空でも見れば少しは心が晴れるかなと思った。

 だけど、思っていたより心は晴れない。晴れていない空を見ていても、心は晴れることはなかった。

 

 空は一面薄暗い曇で覆われている。あとしばらくしたら雨が降りそうな天気だ。

 それなら、雨が降る前に早く学校の中へと入った方が良い。このまま屋上にいなければならない理由はない。

 

 

「なんで俺、こんなとこにいるんだろ……?」

 

 

 自分に対して問いかける。

 ここに来る必要はないのに、よりにもよってこの場所に足を運んで来たのは何故なのだろう。今もなお、ここにいるのは何でなんだろうと。

 

 学校の中にいたくない理由はあった。人がいるような場所にいたくはなかったという理由はあった。

 そこで学校の中で一人落ち着ける場所がどこかないかと思考を巡らせてはみたが、結局は思案に余る結果となった。

 だから、結局ここにきた。この場所が、今は一番適しているような気がした。

 

 

(でも、本当にそんな理由なのか?)

 

 

 またしても、自分に対して問いかける。

 だけど、その問いかけは答えるまでもなく、顔を横に向ければ気付けた。空ではなく、屋上の風景を見れば分かった。

 本当は分かっているからこそ、この場所に来てしまったんだ。本当は自分に問いかける必要なんてなかったのだろう。

 

 ここは、かつて女子生徒が自殺した場所。17歳の女子がこの屋上から飛び降りて死んだ場所だ。命を捨ててまで、譲れない何かを成し遂げた少女の死に場所に、自分はいる。

 

 ここにいると、朝霧に出会うキッカケとなったあの出来事を思い出す。

 きっとこの場所であの出来事があったからこそ、今日はこの場所に赴いたのかもしれない。

 

 自分の抱える気持ち。自分の抱える感覚。自分が今も抱えている、この消えない違和感。

 何かを忘れているような、そんな違和感。思い出そうにも思い出せない。

 忘れているものがあるように感じられるのに、それを思い出せない感覚が自分を苦しめてくる。

 

 ああ、この何かを忘れているような感覚を忘れられたらいいのに。

 そう思って、俺はこの場所に来たんだ。

 

 

「なんで? 何なんだ? これが何なのか、分からない……」

 

 

 今日学校に来てから、ずっと何かを思い出せないような違和感を抱いている。

 どうして違和感を抱いてしまうのか、考えないようにしても心がザワつく。

 わけの分からない違和感が何なのか分からないままでいる。

 

 この場所に来れば何か忘れられそうな気がしたけど、結局何も変わらない。

 一人になってこの場所にいれば、少しでも自分の抱えている気持ちが晴れるかと思ったが、結局何も晴れない。

 真上の曇り空と同様、自分もまた曇り空のままだ。

 

 

「ここにいたのですね、義兄さま」

 

 

 声が聞こえた方へ振り向くと、そこには髪の長い黒髪の女子生徒が立っていた。

 前髪はやや長いせいでいつも目の色をうかがうことの出来ない彼女。俺にとって一番の友人で幼馴染である落花水子(おちばな みずね)が、俺と同じくこの屋上にいた。

 

 

「……水子か。よく分かったな、俺がここにいるって」

 

「はい。前世の絆で結ばれていますから」

 

「…………」

 

 

 いつもと変わらない返し言葉。いつもと変わらないやりとり。

 落花水子はいつもと変わらない。いつも通り変な女の子だ。

 どこか変で、どこかおかしくて、どこか頭のネジが取れている、そんな彼女。

 彼女だからこそ、ここにやって来た。俺のいるところへ、前触れもなく来たのだろう。

 

 水子はいつも俺に対しては妄想染みている。

 俺と小雨の関係が、前世では絆を結んだ義兄弟であるものだと信じている。

 確認することも出来ないような、そんなデタラメな虚言ばかりを吐く。そんな感じの変わった女の子だ。

 

 そんな水子は、変わらない。変であるのに、変わらない。

 中二病なんていう言葉があるが、きっと彼女には相応しくないのだろう。

 いつだって彼女は現実を見ていないようで、見えていない現実を見透かしている。

 病でもなく、腐っているわけでもなく、異変である彼女は、いつだって不変だ。

 

 そんな異変的である女の子の水子が、俺がいるこの場所に来たのは、俺の異変に気付いたからなのかもしれない。

 

 

「前世の絆……か。絆があれば、死んでも忘れないのかな」

 

「さて、どうでしょうか。どういった絆かにもよりますが、私と義兄さまとの絆は前世で固く結ばれたものでしたので、私だけは思い出すことが出来ました。いつか義兄さまも前世の絆によって全てを思い出せるはすです」

 

「そうか。じゃあ、絆の無い人間はこの世界にいない人間のことをすぐに忘れてしまうもんなのかな」

 

「…………?」

 

 

 立ち上がって、屋上からの景色を見る。やや生ぬるい風に当たりながら、屋上のフェンスに手を置いてそう言った。

 振り向くと、そんな俺を水子は不思議そうに見ている。やや頭を傾げては、前髪で隠れた目で俺を見つめながらその場で立ち尽くしていた。

 

 

「もしかして、あの出来事を思い悩んでいらっしゃるのでしょうか?」

 

「いいや、そうじゃない。ただ、今日はなんだか……自分が自分でないような、自分の中の何かが変わってしまったような、そんな気がしてならないんだ。気のせいだと思いたいけど……」

 

「大丈夫だと思いますよ。私には義兄さまは何も変わっていないように見えます。何も変わることなく、あなたは純潔なままのお方です」

 

「そう、だろうか……」

 

 

 水子に純潔なままと言われたが、自分が純潔な人間であるとは思えない。

 ただ真っ当に生きたいだけ。自分の抱えている想いや意志を曲げたくないだけだ。自分の生き方に嘘をつきたくない、ただそれだけだ。純潔とは違う気がする。

 

 でも、水子の言葉を聞いて少し安心した。水子がここにいるだけで、何故か心が落ち着く。

 彼女が変わっていないと言うのなら、きっと俺は変わっていない。どこか変になってしまったわけじゃない。

 

 

「でも、そうだな。ちょっと気が楽になった。きっと俺の気のせいだ」

 

「……もし、ここで自殺した女子生徒のことをまだ気にしているのでしたら、もう忘れた方がいいと思います。この世界にいない人間のことなど、忘れればいいのですから」

 

「それは、そうかもしれないけど……だけど」

 

 

 いつもならここで会話を終えたはず。

 でも、水子の発言に引っかかる部分があった。今の俺だからこそ、会話を続けてまで水子の言葉に対して反論したい感情を抱いてしまった。

 

 

「死んだ人間のことを忘れるなんて、そんなの悲しいだろ。誰からも忘れさられて、俺達でさえも忘れられてしまうなんて。それじゃあ、彼女はいったい……」

 

「失礼しました。言葉が足らなかったようですね。たしかにここで自殺した彼女は、この学校の生徒の記憶から忘れ去られました。それはきっと悲しいことだとは思います。でも、義兄さまにとって彼女は赤の他人です。生きている時に何も出来なかった私達が、彼女のことに対して労わったり、悲しんだりする必要はないと思います」

 

「それでも、俺は…………」

 

 

 自分は何を言っているのだろうか。水子の言っていることが分からないわけじゃない。

 朝霧ならまだしも、他人の俺が死んだ女子生徒のことを想って苦しむ必要はない。特にどんな理由であれ、自殺した人間に対して生きている俺達が同情をするべきではないということだ。

 

 でも、誰かを忘れることを、この世界に存在していた人間を忘れてしまうということが、今はとてつもなく悲しい行為に感じてしまう。

 さっきまで忘れようとしていた違和感が、またしても自分の心を埋め尽くしていく。

 

 

「死んだ人間に対して、生きている私達が心悩ませる必要はありません。死んでしまったら、そこで人生を終えてしまいます。その人間に対して学ぶことはあったとしても、悔やむことはあったとしても、いつまでも気に病む必要はないと思います。それで心に亀裂が生じたのなら、その死で抱いたものを心の楔として生きていけばいいのですから」

 

「……くさび?」

 

「分かりやすく言いますと、刺さった釘を抜いてできた穴は、別の似たような釘で埋めればいいということです。もしくは、何かで埋めるか補っていくしかありません。つまり、死んだ人間のことは忘れて、今を生きている自分や周りの人間のことを想って生きていけばいいというわけです」

 

「死んだ人間のことを想うくらいなら、生きている人間のことを想えってことか?」

 

「なにせ人間は弱い生き物ですから。この世にいもしない存在を忘れることで、今を生きていけるのです。特に深い関係を築いたわけでも、共に絆を結んだわけでもない、そんな希薄な間柄の人間なら尚更だと思います」

 

「じゃあ、みんなから忘れられるのは仕方ないってことか? この世にいない人間のことは忘れるべきだって言うのかよ!?」

 

「ええ、そうです。忘れるべきとまでは言いませんが、死んだ人間を忘れることは悪いことでも悲しいことでもありません。至極当然で、当たり前の現実なのです。むしろ、下手に同情してしまえば、それは自分のために抱く偽善に満ちた感情にもなります。それこそ、死んだ人間に対しては悲しいことなのかもしれませんし、義兄さまの望んでいる行為ではないはずです」

 

 

 水子の言っていることは、きっと間違いじゃない。

 死んだ人間を忘れてしまうことに罪はない。誰しも悲しみを抱えたまま生きていくことなんて出来ない。

 いや、忘れて生きることこそ合理的な生き方であるから、人は誰しもわざわざ悲しみをずっと抱こうとはしないのだ。

 

 何も知らない、何も関わっていない、無関係の人間が死んだ人間に対して思い悩むのは不毛だと。

 関係の無い人間が死んだ人間に対して同情や悲しみの感情をあえて抱こうとする行為は、偽善に満ちた行為なのだと。

 死んだ人を労わること、死んだ人に悲しみを抱くことはあっても、それ以上に同情や哀れみを抱こうとする行為こそ悲しいことなのだと。

 

 

「それでも、俺は悲しい。忘れられるなんてやっぱり悲しいだろ。俺にとってここで起きたことは関係のないことかもしれないが、それでも自殺した彼女のことも、悲しいと思ったことも忘れちゃいけない気がするんだ。だから、忘れないでいたい……たとえ俺だけでも、死んだ彼女のことは覚えていたいんだ」

 

「……そうですか。やはり、あなたはお人好しと言いますか、相変わらず不器用なお方です」

 

「え? 不器用?」

 

「そうです。そこだけは前世も昔も今も変わらないですね」

 

「そうかよ……悪かったな、不器用で」

 

「いいえ、そこがあなたの良いところだと思いますよ」

 

 

 長い髪を風でなびかせながら、水子は微笑んでそう言った。

 褒めているのか褒めていないのか分からないが、きっと彼女が良いと言うのなら、それで良いのだろう。

 

 

「じゃあ、おまえはどうなんだ? 彼女のこと、やっぱり忘れるのか?」

 

「私、ですか? 私なら関係の無い人間なんて忘れます。記憶の片隅には残っているでしょうが、自分からわざわざ思い出すことはないでしょう。たとえ知っている有名人であろうと、同じ学校の人であろうと、同じクラスメートであろうと、私の目の前で死んだ人であってでもそれは変わりません。ただ……」

 

「ん? ただ?」

 

「“柔沢 謙”という人間だけは、死んでも忘れません。私達は前世の絆で結ばれていますからね。たとえ、私より先に死んだとしても、永遠に忘れることはありません」

 

 

 前髪で隠れた瞳を覗かせながら、不敵な笑みで言う水子。

 彼女にとっては、無関係の人のことよりも関係の深い人のことを忘れないようにしたい。自分にとって大切な人間こそ忘れないことが大事なのだと、そう思っているのだろう。

 

 それもまた、捉え方によっては不器用な生き方なのかもしれない。

 つまり、大切な人間を失ったとしても、その喪失感を決して忘れることはなく、その存在を永遠に覚えているということ。忘れれば楽なのに、辛くないのに、器用に生きていけるのに、忘れずに抱えたまま生きるということだ。それは決して合理的ではなく、器用な生き方とは言えない。

 だけど、それが水子なりの生き方というやつなんだろう。譲ることも、曲げることもできない、彼女らしい生き方なんだ。

 

 

「へっ、おまえらしいな」

 

 

 自分の顔に自然と笑みが浮かんでいく。

 それはきっと、自分が変わることはないと思えたからだ。

 

 変わらないままでいれば、きっと忘れることはない。

 たとえ忘れたものがあっても、変わらなければ思い出すことは出来るはずだと。

 

 

「……ん?」

 

 

 屋上から見える景色を眺めていたら、向こうの建物の3階。学習棟である第1棟の3階の廊下に、見覚えのある人間が見えた。

 そこの廊下を歩いている人間は、1人だけだった。人気が無いのは、用が無い限りは誰もその場所には行こうとしないからだ。

 

 だけど、朝霧はそこにいた。生徒会室の前で立ち尽くしていた。

 

 

(朝霧? なんで、生徒会室に?)

 

 

 生徒会に用があるというのは分からないでもないが、こんな時間に行くなんて何の用なんだろうか。なんだか少し気になる。

 

 

「それで、今日はどうしますか?」

 

「えっ?」

 

 

 水子の問いかけを、朝霧のことを考えていたせいであまり聞いていなかった。

 “今日は”というワードは聞こえたので、察するに今日は勉強をどうするのかを聞いているのだろう。

 

 

「ああ、勉強か。今日はそうだな……」

 

 

 本来なら今はテスト前だから部活は出来ないが、部室を使うことは出来る。なので、今週は水子と一緒にテストに向けて勉強している。

 だが、今日に限ってはあまり気乗りしない。まぁ、勉強することにいつも気乗りしてやっているわけではないけど、今日はよりいっそう勉強することに気乗りしない。このまま勉強をしても何も頭に入らない気がする。

 

 

「今日はやめておくか。なんだか疲れたし、たまには自分の部屋で勉強するとするよ」

 

「ん? ……はい、そうですね。義兄さまがそう言うのでしたら、そうしましょう」

 

 

 そう言って、俺と水子は屋上の扉へと歩いて行く。

 振り返って、第1棟の生徒会室の前を見てみるが、そこにはもう朝霧は見えない。

 どこを見渡しても、朝霧はいなかった。

 




次回に続く……


vol.3に向けたお話でした。どうだったでしょうか?

前半は柔沢の過去回想ではありましたが、
みなさんも大人に嘘をつくなと言われた経験ってありませんか?

嘘をついてはいけないと言う大人が嘘をついて生きている。
嘘をついている大人が嘘を言うなと子どもに叱って教育する。

……おかしな話ですね。
でも実際に子どもは、大人の都合の良いように教育させられているわけです。

そんな中で、柔沢は葛藤するわけです。

嘘で塗り固められた言葉。
本当の想いの詰まった言葉。

誰かのためにと自分を犠牲にした嘘か。
自分のためにと自分の想いを貫く本当の意志か。

その話は、また追々語られる予定です。

後半は現在の柔沢についてのお話でしたが、
何故柔沢が屋上にいたのかという内容です。
ただ、物語としては話が進んでいませんね……

でも、次回からはvol.2以降の時間系列のお話になります。
柔沢視点のお話ではありますが、どのような話になっていくのか。お楽しみに。


時間系列が分からなくなりそうなので↓
今回のお話の前半が、柔沢中学時代の回想。
今回のお話の後半が、朝霧が死んだ日である25日の放課後の出来事。
次回のお話の内容が、音無と紫野が対決した26日のその後の出来事。

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