ZMB48~少女たちは、ゾンビの徘徊する船上で戦い続ける~   作:ドラ麦茶

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Day 6 #06

 あたしは、クスクスと笑う愛子たちを放っておいて、部屋の奥のドアを開けた。

 

 そして。

 

「――――!」

 

 思わず、腕で鼻を覆う。

 

 瑞姫たちと話していて、なんとか悪臭には慣れていたつもりだったけれど、ドアを開けた瞬間、今までのものをはるかに凌駕する悪臭が流れ出してきた。

 

 長い廊下が続いていた。向かって右側に、鉄格子で仕切られた部屋がいくつも並んでいる。これの、一体どこが刺激的なのだろう? 悪臭以外は、映画やドラマなどで見る留置場とほとんど変わりは無い。

 

 ――が。

 

 部屋の中を見て。

 

「――――」

 

 思わず、目を背けたくなる。

 

 しかし、あまりに衝撃的過ぎて、逆に目が離せない。

 

 その部屋は。

 

 汚物と吐瀉物にまみれていた。強烈な悪臭の原因は、この部屋だったのだろうか? 恐らくは間違いのないところだろうけど、なぜこんな状態になったのだろう?

 

 鉄格子のすぐそばに、食事用のトレーが置かれている。その上に乗っているものを見て、言葉を失う。一瞬、作り物かと思った。なぜなら、トレーに乗っているそれは――人の腕の形をしていたから。

 

 二の腕の部分の部分から先だった。斧や鉈などの大型の刃物を叩きつけて一気に切断したのだろうか? 断面の中央に見える骨の白い切り口は滑らかだった。ただ、骨とは違う白いものが、無数にウネウネとうごめいている。あれは、ウジ虫のようだ。ハエも無数にたかっている。長時間放置されて腐ってしまったのか、それとも最初から腐っていたのか、分からない。それよりも、食事用のトレーに置いてあるということは、あれが食事だとでもいうのだろうか? 人の腕が食事? そう考えて気が付いた。ゾンビを閉じ込めているんだ。ゾンビの食事は人の腕というのは、別に不思議なことではない。ゾンビだって、食事をしなければやがて死んでしまうのかもしれない。

 

 だが。

 

 これは果たして、誰の腕だ?

 

 肌の色は灰色で、それはゾンビの肌の色だ。ゾンビから腕を切り離し、ゾンビに与えたのだろうか? ゾンビが、ゾンビの肉を食べるのだろうか? 船内を徘徊しているゾンビたちは、あたしたち生きている人間しか襲わない。ゾンビ同士で争ったり、ゾンビ同士で共食いしているところは見たことが無い。ゾンビがゾンビを食べるんだったら、そこらじゅうでゾンビの食事風景が見られたはずだ。しかし、あたしはアウトブレイクが発生してから、毎日外に出ているけど、そんな光景にはお目にかかったことが無い。理由は分からないけれど、ゾンビはゾンビを食べないのだ。じゃあ、あのトレーに乗った腕は、生きた人間の腕だというのか?

 

「……わか……ば……?」

 

 名を呼ばれた。目の前の部屋だった。この部屋にはゾンビがいるはず。ゾンビがあたしの名前を呼んだ? あり得ない。ゾンビにそんな知能があるはずはない。じゃあ、この部屋にいるのは何だ? 生きている人間だと言うのか? この、汚物と吐瀉物にまみれた汚らしい部屋の中に、生きた人間がいると言うのか? この腕は、その人間の食事として出されたものなのか? 今のは誰の声だ? 聞き覚えがある。つまり、ヴァルキリーズのメンバーだ。でも、あり得ない。ヴァルキリーズのメンバーを――かけがえのない仲間を、牢屋の中に閉じ込め、人の腕を食事用トレーに乗せて出すなんて、冗談でもあり得ない。でも、何故牢の中からあたしを呼ぶ声がする? 分からない。牢の中を見ればわかることだけど、それができない。見たら、全てが崩壊する。そんな気がする。見てはいけない。このまま警察署を出て行けば、それで終わりだ。そうした方がいいように思う。でも、できない。見てしまう。見ずにはいられない。

 

 部屋の奥には。

 

 やはり、ヴァルキリーズのメンバーがいた。

 

 でも、信じられない。

 

 瑞姫たちがヴァルキリーズのメンバーを閉じ込めているのも信じられないけれど、それ以上に、その娘がここにいることが信じられなかった。

 

 その娘は、二日前、ゾンビの群れに襲われ、逃げたはずだった。どこかに身を潜めているはずだった。なぜ、こんなところにいるんだ? 牢の中に閉じ込められているんだ?

 

「……麻……紀……?」

 

 部屋の中の娘の名を呼ぶ。栗原麻紀。あたしと同期の一期生。本郷亜夕美や水野七海たちと一緒にショッピングモール七階のレストランに立てこもっていたけれど、二日前、ゾンビにレストランを襲撃されたという七海からの無線を最後に、行方が分からなくなっていた。できれば返事をしてほしくなかった。あれが、麻紀であるはずがないのだ。ゾンビの襲撃から逃れて隠れている麻紀が、こんな所に閉じ込められているはずがないのだ。瑞姫たちが七海たちを襲い、閉じ込めたのでない限り、そんなことはありえないのだから。

 

 でも。

 

 これまで五年間も一緒に活動してきた仲間を、見間違えるはずがない。

 

 牢の中にいるその人は、間違いなく、麻紀だった。

 

 目が合い、手を伸ばす麻紀。けれど。

 

 その手が、力なく崩れ落ちた。

 

「麻紀!!」

 

 鉄格子を掴み、ゆする。が、そんなことではビクともしない。

 

 そして、気が付いた。

 

 部屋の中に、もう一人、誰かいる。

 

 部屋の隅で、膝を抱え、震えている。親指を咬んでいる。狂ったように咬み続けている。

 

 まだ子供と言っていいような幼い顔つき。四期生の黒川麻央だった。麻紀と同じく、七海たちと一緒にレストランに立てこもっていたはずだ。何故、ここにいるんだ? こんな、牢の中――しかも、汚物にまみれた、とても人がいるべき場所とは思えない所に。

 

「麻央!! 大丈夫!?」

 

 鉄格子をゆすり、呼びかけるが、反応は無い。ただ震え、親指を咬み続ける。どれだけの間そうしているのだろう。親指からは血が流れ、肉が削げ落ち、骨らしきものが見えている。それでも麻央は咬むのを止めない。

 

 ――何なんだ、これは。

 

 今、あたしは、何を見ているんだ。

 

 目の前にあるものが信じられない。理解できない。

 

「何なのよ!! これは!!」振り返り、叫んだ。

 

 ゆっくりとした足取りで、瑞姫が中に入ってくる。その後ろに、愛子とちはるが続く。相変わらず、クスクスと笑っている。

 

「だから、見ない方がいいって言ったのよ」やれやれ、と言わんばかりに、瑞姫は両手を腰に手を当てた。「実験よ、実験。ゾンビの肉が、食料として適してるかどうかの、ね」

 

 ――――。

 

 何を言ってるんだ、瑞姫は。

 

 実験、だと?

 

 ゾンビの肉が、食料として適しているか、だと?

 

「そう。画期的でしょ? ゾンビが人を食べるっていうのは当たり前だけど、人がゾンビを食べるっていうのは、なかなかないと思わない? でもさ、便宜上、ゾンビって呼んでるけど、映画やゲームと違って、死んだ人間が生き返ったわけじゃないんだよね。さっきも言った通り、ウィルスによって、脳の活動が極限まで下がった状態になってるのよ。脳死の一歩手前。だから、実際は生きてる人間と、ほとんど同じ。もし食べても害が無いんだったら、この先、世界が食糧危機に陥った時、助かるじゃない?」

 

 平然とした表情で言う。

 

 つまり瑞姫は。

 

 麻紀に。麻央に。

 

 ゾンビの肉を、食べさせたのか――?

 

 もちろん。

 

 まともな人間が、ゾンビの肉など食べるはずはない。

 

 しかし。

 

 トレーの上の腕は、いたるところの肉が削られ、無くなっている。

 

 まともな人間なら、ゾンビの肉を食べるはずがないのだ。

 

 ならば、無理矢理食べさせたのか。

 

 部屋の中の吐瀉物は、そのためか。

 

 部屋の中の汚物は、そのためか。

 

 麻紀が動けないのは、そのためか。

 

 麻央がおかしいのは、そのためか。

 

 あたしの中で。

 

 何かが、壊れた。

 

 あたしは、奇声を上げ、木刀を振り上げ、瑞姫に襲い掛かった。長年稽古してきた剣道の型なんて全く無視した、めちゃくちゃな振りだった。

 

 瑞姫は、笑ったまま動こうとしない。

 

 その前に、愛子が立った。

 

 左手に、何か棒のようなものを持っている。サイドに握りが付いた警棒、いわゆるトンファー型警棒だ。

 

 愛子は、警棒であたしの木刀を受け止めると、右手でつかみ、引っ張った。体勢が崩れる。その瞬間、足を払われた。無様に床に倒れ込む。木刀を奪われた。それでもあたしは向かっていく。拳を握り、起き上がろうとした。でも、できなかった。上体を起こし、膝を立てたところで、何かがあたしの顔に向かって飛んできた。ちはるの足だった。左の後ろ回し蹴りだ。パン、と、軽い音を立てて、頬をはたかれた。決して重い一撃ではなかった。そう思えた。でもその一撃で、もう、立てなかった。床が揺れている。踏ん張れない。そのまま後ろに倒れそうになったけど、顔をはたいたちはるの左足が、あたしの首の後ろを捕まえる。足の甲と脛の部分に挟み込むような恰好だ。そのまま引き戻され、床に叩きつけられた。口の中に血の味が広がる。足で床に押さえつけられ、身動きが取れなくなった。

 

「まあまあ、そう興奮しなさんなって。これからが本番なんだからさ」嘲るように笑うちはる。

 

 これからが本番――どういうことだ。これはまだ、本番ではないとでも言うのか。こんな、人とは思えない扱いを受け、動く気力さえなくなった麻紀と、心身を喪失した麻央よりも、もっと酷いことがあるとでも言うのか。

 

 腕を後ろに無理矢理ひねり上げられた。痛みは感じない。あまりの怒りと、その怒りをぶつけることができない悔しさで、痛みを感じている余裕なんてない。痛みは感じないけれど、だからと言って何かできるわけではない。ガチャガチャと音がした。両手が動かなくなった。どうやら、後ろ手に手錠をかけられたらしい。愛子によって無理矢理立たされる。

 

「これは、預からせてもらうよ」愛子が、あたしのポケットからトランシーバーを抜き取った。「あんたもバカだね。すぐに助けを呼べば、何とかなったかもしれないのにさ」

 

 その通りだった。まずは何よりも、このことを由香里たちに知らせるべきだった。そうすれば、あたしが捕まっても、由香里たちが何とかしてくれたのに……。

 

「さあさあ、奥へどうぞ」見世物小屋でも案内するかのような口調の愛子。

 

 本能が警告する。これ以上は見てはいけない。見てしまったら、あたしはもう、元のあたしには戻れない。嫌だ。見たくない。逆らう。足を踏ん張り、首を振り、必死で抵抗する。でも、力では愛子の方が上だ。逆らえない。無理やり奥に連れて行かれた。目を閉じたかったが、できなかった。見てしまった。

 

 二番目の部屋の中には。

 

 病院から運び込んだのだろうか。ストレッチャーが二台、置かれていた。一方のストレッチャーにはゾンビがいた。その胸が大きく斬り裂かれていた。内臓が見えている。まったく動く気配がない。死んでいるのだろうか?

 

 その隣のストレッチャーの上には、全裸の女性が横になっていた。顔を見た。四期生の村山千穂だった。瑞姫たちと同じグループにいた娘だ。名前を呼んだが、返事は無い。それどころか、胸が、全く動いていない。息をしていない。まさか、こちらも死んでいるのか? そうとしか考えられなかった。よく見ると、喉の下からお腹の上にかけて、赤く太い線が走っていた。縫合された傷跡だ。まるで手術でもしたかのようだった。

 

「その通りよ」瑞姫が言う。聞きたくないが、耳をふさぐ手段は無い。聞くしかない。「ちょっとね、心臓を移植してみたの。ゾンビのね」

 

 だから。

 

 こいつは。

 

 何を言っているんだ。

 

 気が遠くなる。意識がなくなれば、この地獄から解放されるのだろうか。そう思いたい。そうしたい。しかし、あまりにも過酷な現実が、あたしの意識をしっかりとこの世界につなぎとめる。

 

「さっき、ゾンビは脳死の一歩手前の状態、って、言ったよね? だから、ゾンビになった人がドナーカードを持っていたら、臓器移植が可能になるかもしれないんだよ? もちろん、それに合わせた法律の整備が必要だけどね。これ、実現したらすごいよ? 世界中のドナー不足が、一気に解消されるんだから。しかも、ゾンビの方は痛みを感じないし、心臓とか、よほど重要な臓器以外は、取っても死なないの。生体移植の幅がぐんと広がるのよ? スゴイと思わない?」

 

 興奮を抑えられない口調の瑞姫。何がすごいのか、あたしには理解できない。理解したくない。する必要もないだろう。

 

「でも、残念ながら、移植後すぐに拒否反応が出て、死んじゃった。ま、移植は正常な人間同士でも拒否反応が出て、死に至りやすいから、ゾンビの心臓がダメだった、って結論付けるわけではないけどね。これは、この先も症例を重ねていくしかないわね。……じゃあ、次、行こうか」

 

 あたしは、さらに奥の部屋に連れて行かれる。先ほどの部屋と同じように、二台のストレッチャーが並び、ゾンビと、メンバーの娘が横になっていた。ゾンビは、先ほどと同じくストレッチャー縛り付けられているけど、こちらは生きており、拘束から逃れようと、じたばたと暴れている。隣のメンバーの娘も服を着ていて、手術されたような様子は無い。ゾンビと同じように拘束されているのが気になるけれど、動いている。死んではいないようだ。少し安心したけど、それも、瑞姫が口を開くまでだった。

 

「これも、さっきと同じようなものね。ゾンビの血液を輸血できないか、試してみたの。血液の在庫不足も、深刻な問題だからね」

 

 ……イヤだ。

 

 もう、イヤだ。

 

 誰か、助けてくれ。

 

 あたしを、助けてくれ。

 

 お願いだから、この地獄から、解放してくれ。

 

 願いは、誰にも届かない。

 

 瑞姫はさも楽しそうに続ける。「これはイケると思ったんだけどね。400mlほど輸血して大丈夫そうだったから、調子に乗って、交換輸血をしてみたくなって。血液全部抜いて、ゾンビの血を入れ続けてみたの。そしたらなんと、輸血側もゾンビになっちゃったの!」

 

 ストレッチャーに縛られた娘が顔を上げ、こちらを見た。腐った土の色をした肌、血を流す目。歯をむき出しにし、こちらを威嚇する。あれは、二期生の大町ゆきだろうか? まあ、誰でもいい。もう、どうでもいい。怒る気力も、悲しむ気力も無い。ただ、この残酷な時間が、少しでも早く過ぎ去ってくれれば。そう思うだけ。

 

「ゆきはワクチン飲んでるから、ゾンビ菌には感染しないはずなのに、これは予想外だったわ。まあ、ゾンビからの輸血はムリそうだけど、ワクチン接種した人も、この方法を使えば強制的にゾンビにすることができるって分かったから、まあ、有意義な実験だったわね。じゃ、次ね」

 

 さらに奥へ進む。

 

 その部屋は、これまでの部屋が子供だましであったかのように、さらにひどい状態だった。

 

 部屋の中央に、三期生の藤沢菜央が、うつ伏せの状態で倒れていた。カッと目を見開き、恐ろしい形相で、こちらを見ている。しかし、その目に、力は宿っていなかった。死んだような目。いや、実際に菜央は死んでいるのだ。菜央を中心に、部屋中の床に、ねっとりとした赤黒い液体が広がっている。それは菜央の血だった。一体どんなケガをしたらあれだけの血が出るのだろうか。考えても想像もつかない。菜央のお腹の辺りに何かあるのに気が付いた。お肉屋さんとかで見かける、長い長いソーセージ――そんな印象。それが、菜央のお腹から引きずり出された内臓だと気付いたのは、瑞姫が口を開いてからだ。

 

「この娘は、男性のゾンビから取り出した精液を使って、人工授精をやってみたの。ゾンビが犯してくれれば話は早かったんだけど、残念ながらゾンビに性欲は無いからね。結構大変だったんだけど、受精が終わった後、コイツ、素手で自分のお腹引き裂いて、子宮引きずり出して、全部台無しにしやがった。まったく。こんなことなら、拘束しておくんだったよ」

 

 ガツン! と、瑞姫が鉄格子を蹴った。

 

 素手で、自分のお腹を引き裂いて、子宮を引きずり出した?

 

 そんなことが可能なのだろうか?

 

 菜央の手を見る。べっとりと付いている血はすでに固まっている。爪がすべて反り返っていた。お腹を引っ掻いた際に、全て剥がれてしまったのだろう。関節が逆に曲がっている指もある。 確かに、菜央は自分で自分のお腹を引き裂いたんだ。ゾンビの子供を孕んだ。その思いは、人をそこまでの行為に駆り立てるのだ。自ら腹を裂き、内臓を引きずり出すまでに。

 

「まあ、これはちょっとした興味本位の実験だから、別にいいんだけどね。食料や臓器や血液と違って、精子は別に不足してないし」瑞姫は、まるで夏休みの理科の実験に失敗したかのような口調で言う。「ただ、ゾンビと人間が性行為をしたら、何が生まれるのか? 見てみたかったけどね」

 

 ……コイツは。

 

 この女は。

 

 一体、なんなのだ。

 

 何が目的で、こんなことをしている。

 

 ヴァルキリーズのメンバーを、仲間を。

 

 こんな目に遭わせて。

 

 一体、何が目的なんだ。

 

「――だから、実験だって、言ってるでしょ?」

 

 瑞姫が応える。表情を読まれたのか、それともあたしが無意識のうちに思ったことを口にしていたのか、どちらかは分からないし、別にどちらでもいい。

 

「ゾンビになった人をただ殺すなんて、もったいないでしょ? せっかくだから、何かの役に立てなきゃ。ゾンビの食糧化、ゾンビからの臓器移植、ゾンビからの輸血。成功すれば、世界中のどれだけの命が救えると思ってるの? あんたみたいなバカなアイドルには関係ないかもしれないけど、食料も、移植するための臓器も、輸血するための血液も、世界中で慢性的に不足してるのよ? ゾンビたちは、それらの問題を一気に解決するかもしれないの! その効果を証明するためは、実験が必要でしょうが?」

 

 瑞姫の言うことは、やはり理解できない。

 

 瑞姫は誰もが認める天才だし、あたしは瑞姫が言う通り、バカなアイドルだ。言ってることが理解できないのは当然だろう。

 

「じゃあ、次の部屋行くわね」瑞姫が言い、さらに奥の部屋へ進む。

 

 その部屋には、二体のゾンビがいた。あたしたちの姿を確認すると、すぐに襲いかかってきた。しかし、そこは牢の中だ。当然あたしたちを襲うことなどできない。鉄格子が二体のゾンビを跳ね返した。ゾンビが不思議そうな顔をする。目の前に餌があるのに、なぜか手が届かない――そんな表情。一体が、もう一度挑戦する。やはり鉄格子が邪魔をする。格子の間から手を伸ばす。もちろん届かないが、ゾンビにはそのことが分からないのか、ただ、手を伸ばし続ける。もう一体のゾンビは、食事を阻むものの存在に気が付いたのか、両手を振り上げ、鉄格子に向かって打ち下ろした。がしゃん、と音を立て、鉄格子が揺れた。もちろん、そんなことではビクともしない。ここは牢屋。人を閉じ込めておくための場所だ。ちょっとやそっとで壊れるようなものではない。

 

「何? あんたらもしかして、もうお腹が空いたの? さっきご飯を食べたところでしょうが?」呆れたような口調の愛子。ゾンビに捕まれないように鉄格子に近づき、中を確認する。「もう。まだ残ってるじゃない。ちゃんと全部食べなさい。残さず食べないと、次のご飯はあげないわよ」

 

 それはまるで、ホームドラマの一場面のような、ほのぼのとしたセリフだった。ご飯を残した子供を優しく叱る母親のようなセリフだった。

 

 でも。

 

 相手は、ゾンビなのだ。

 

 ゾンビに食事を与え、それが、まだ残っていると言うのだ。

 

 ゾンビの食事とは何だ? 考えたくない。考えるまでも無い。ゾンビがご飯やみそ汁やおにぎりやサンドイッチなんて食べないだろう。牢の奥に、その、食事の残りがあった。見たくない。でも、見えてしまう。納豆や焼き魚やベーコンエッグであってほしい。そう願う。でも、違った。

 

 そこには。

 

 人が、半分だけ、転がっていた。

 

 そう、半分だけだ。

 

 もちろん。

 

 右半身だけとか、上半身だけとか、そんな、きっちりと分けられたわけではない。食べられる部分だけ食べ、食べられない部分は残した。そんな状態だ。

 

 足は、特に太ももの部分の損傷が激しかった。ほとんどの部位が食べられており、ところどころにピンク色の部位が残っているものの、ほぼ、骨がむき出しの状態だ。

 

 ふくらはぎは、大部分が残っている。三つほど、肉が削られた跡が残っているだけだ。ちょっとだけ味見して、おいしくないからやめた。そんな跡だ。

 

 お腹は、大きく引き裂かれ、内臓が、その周りに散乱していた。食べられたような形跡もあるが、ほとんど手付かずだった。やはりおいしくなかったのだろうか。ゾンビに味覚があるとは思えないが、そう考えるしかない。

 

 胸の部分は、奇麗に食べられていた。骨までしゃぶったようで、剥き出しの胸骨には、肉片すら残っていない。肋骨の内側には手が付けられていなかった。柔らかい部分を好んで食べるのだろうか? ということは、この無残な死体は女性だったのだろうか。

 

 腕も、足と同じく、二の腕の損傷が激しく、先端に向かうにつれ、かじられた跡が少なくなっていた。やはりゾンビは柔らかい部位を好んで食べているようだ。肉付きの少ない、細く綺麗な手は全くの無傷だ。爪には、ピンクのマニキュアを下地に、星やリボンなどの可愛いネイルアートが施されている。やはり女性のようだ。

 

 顔は、ほとんど手を付けられていないが、それでも思わず目を逸らしてしまう。眼球がえぐり取られていたからだ。その跡は、深い穴が開いたかのように真っ黒である。恨めしそうな表情をこちらに向けている。決して視線を感じるはずがないのに、じっと、こちらを見ているような気がする。闇のような視線を、こちらに向けているような気がする。

 

 その顔には見覚えがあった。

 

 眼球が無い顔は判別が難しい。よほど親しい間柄でない限り、目の部分を隠されては、気が付きにくいものだ。それでも、それが誰か、あたしには分かってしまった。五年間一緒にヴァルキリーズの仲間として活動してきた娘の顔を、見間違えるはずも無かった。小橋真穂だ。あたしと同じ一期生。船内では、瑞姫と一緒に行動していたはずだ。

 

 大切な仲間を食い散らかしたゾンビを睨んだ。憎むべきはゾンビではない。それは分かっている。それでも睨んでしまう。殺意を込めた視線を向けてしまう。ゾンビは相変わらず、鉄格子の隙間からこちらに手を伸ばし、あるいはバンバンと鉄格子を叩いている。新たな獲物にありつくために、空腹を満たすために、無意味としか思えない行動を繰り返す。

 

 その、二体のゾンビの顔を見て。

 

 湧き上がった殺意が、急激に失われた。

 

 そのゾンビにも、見覚えがあったから。

 

 肌の色が土色に変わり、血の涙を流していようとも、その姿は変わらない。白石さゆりと高倉直子。ともに三期生。真穂と同じく、船内では瑞姫たちと行動していた娘だ。愛子から、ゾンビ化したと聞かされていた娘だ。

 

 何てことだ……。

 

 ヴァルキリーズのメンバーの娘が。

 

 ヴァルキリーズのメンバーの娘を。

 

 食べたというのか……。

 

「見ごたえあったわよぅ」愛子が、大作映画を見終えた後の感想をでも語るかのように言う。「スマホでムービー撮っておいたから、後で見せてあげるね」

 

 ムービー? ムービーだと?

 

 ゾンビが人を襲い、食べる所を、撮影したと言うのか?

 

「だって、これを逃さないテは無いでしょ?」笑う愛子。「日本のトップアイドルグループのメンバーが、ゾンビになって、メンバーを食べてるんだよ? きっと、ファンの間じゃ、伝説のビデオになるよ」

 

 愛子の、狂気じみた言葉に。

 

 ちはるが笑い。

 

 そして、瑞姫も笑った。

 

 何がおかしいのか、何故こんなことをするのか、分からないことだらけだけど。

 

 ひとつだけ分かったことがある。

 

 ――こいつは……こいつらは、狂っている。

 

 さっき瑞姫が言った、食糧不足や臓器不足、血液不足を解消させるための実験なんて、ウソだ。

 

 こいつらは、ただ楽しんでいるだけだ。

 

 知的好奇心が満たされるのを。

 

 人が無残に死んでいくのを。

 

 死を前にして、恐怖に怯えるのを。

 

 理科の実験をするかのように、格闘技の試合を見るかのように、ホラー映画を見るかのように。

 

 ただ、楽しんでいるだけなのだ。

 

 狂ってる。

 

「ま、否定はできないかな」瑞姫が言った。「実際楽しいもの、実験って。天才って、そういう生き物なのよ。ただ己の知的好奇心を満たしたいだけ。知的好奇心を満たすことしか、楽しみが無いの。もちろん、この二人は違うけどね」

 

 指さされた愛子とちはるは、「ひどーい」、と、頬を膨らませた。

 

 この、地獄のような惨状を前にして、普段と変わらぬ、アイドルらしい口調で会話している。狂っている。狂ってなきゃ、こんなこと、できるわけがない。こいつらは、狂ってる。

 

「はいはい、分かったから。じゃ、次ね」どん、と、愛子に背中を押され、次の牢の前に進んだ。

 

 これ以上あたしに、何を見せる気だ。

 

 もう、何も見たくない。

 

 目を閉じた。これで、何も見えない。こんな簡単なことで、この地獄から逃れることができる。そんな気がした。

 

「この牢はこれまでのとは違って、別に面白くは無いけどね」愛子の声。手錠をかけられ、両手は使えないから、耳をふさぐことはできない。愛子たちの言うことはどうしても聞こえてしまう。それでも目を閉じてさえいれば、この地獄の苦しみは半分になるだろう。そう信じて、目を閉じ続ける。

 

 でも。

 

「わか……ば……?」

 

 あたしの耳に入ってきたのが、瑞姫でも、愛子でも、ちはるでもない声だったので。

 

 すぐに目を開けてしまう。

 

 そして。

 

「七海!!」

 

 名を叫ぶ。

 

 牢の中にいたのは、水野七海。あたしと同じ一期生で、亜夕美の幼馴染だ。

 

「若葉!!」

 

 七海が駆け寄ってくる。生きている。ケガもしていない。もちろん、ひと目見ただけでそう判断することはできないが、少なくとも、元気そうには見えた。これまでの変わり果てた仲間の姿とは、明らかに違う。

 

 あたしも七海の下に駆けよる。もちろん、鉄格子が行く手を阻む。あたしは両手が使えないから、顔から鉄格子に突っ込んでいく格好になった。

 

「七海、無事なの!?」何よりも先に訊く。

 

「ええ。一応、大丈夫」七海は、鉄格子越しに、あたしの頬に手を当てた。「あの二人も、とりあえず怪我はしてないわ」

 

 うん? あの二人?

 

 七海の視線は、牢の奥へ向いていた。七海の姿に気を取られて気付かなかったけど、そこには、朝比奈真理と雨宮朱実がいた。ともに四期生で、七海たちのグループで行動していた娘だ。確かに怪我はしていないようだ。しかし、こちらに来ようとはしない。二人で抱き合い、恐怖の眼差しを向け、震えている。あたしの背後でにやにやと笑っている三人の悪魔の姿に怯えているのだ。二人ともまだ十五歳だ。無理もない。

 

「二人とも、しっかりして! 大丈夫! すぐに助けるからね!」二人に向けて叫んだ。

 

 あたしは、この地獄のような惨状を目の当たりにし、心が萎え、逃避しようとしていたけれど。

 

 再び、気力を奮い立たせる。

 

 無事な娘がいる。逃避している場合ではない。三人を救わなければいけない。いや、この三人だけではない。最初の牢の麻紀と麻央だって、まだ生きてるんだ。このままこの三人の悪魔の餌食にさせるわけにはいかない。なんとかしなければ。

 

「はん。助けるだってさ」愛子がバカにしたように笑う。「弱っちいくせに、何言ってんだ。できもしないこと言って、変に期待させない方がいいんじゃないの? ダメだった時のショックは大きいぞ? まあ、あたし的にはその方が楽しいけどね」

 

 湧き上がる怒りを、何とか落ち着かせるあたし。ここで暴れたところで、何にもならない。みんなを救うために、冷静に行動しなければ。しばらく様子を見よう。

 

「最後の牢はどうする?」ちはるが言った。

 

 最後の牢? まだあるのか? でも、行方不明のメンバーはこれで全員のはずだ。これ以上、何があるというのか。

 

「ああ、あれはまだ未完成だから、見せられるもんじゃないよ」瑞姫が答えた。

 

 未完成? 一体、何だ?

 

 最後の牢の方を見る。ここからでは中の様子は全く見えないけれど。

 

 何者かの気配がある。

 

 獣の息づかい。雷鳴のような唸り声。何かいる。ゾンビも獣のように唸り声を上げて襲い掛かって来るけれど、その牢にいるそれは、今まで見てきたどのゾンビとも違う。そんな恐ろしい気配。

 

 直感的に悟る。

 

 あの牢の中にいるものは、危険だ。

 

 これまで見てきた、どんなゾンビよりも、はるかに危険なものが、あの中にいる。

 

「さてと――」瑞姫が腰に手を当て、愛子とちはるを見た。「若葉にこの場所がバレたのは失態だけど、でも、いいところで戻って来てくれたわ。ちょうど、次の実験の準備ができたところだったの。手伝ってくれない?」

 

 愛子とちはるは顔を見合わせ、そして、にんまりと笑った。「OK、OK。楽しみにしてたんだよ、その実験。何すればいい?」

 

「とりあえず、被験者とゾンビを、一体ずつ部屋に運んで」

 

「了解でーす」愛子は、右手で拳を握り左胸に当てた。こんな女にヴァルキリーズの忠誠のポーズをされたことに殺意すら抱いたけれど、何とか心を落ち着かせる。

 

 愛子が牢の中を見る。「誰がいいかな?」

 

「そうだね――」ちはるが、舐めまわすように、牢の中の三人を見る。真理と朱実が「いやぁ!!」と、悲鳴を上げた。がたがたと恐怖に震える体を抱きしめあう。二人をかばうように七海が前に立ち、鋭い視線を向ける。

 

「――ファンへのウケがいいのは七海だけど」ちはるが腕組みをした。「でも、七海は、亜夕美をおびき出すとか、もっと他に使い道がありそうだし……てか、後ろの二人って、誰だっけ?」

 

「うーんと……そっちの娘は、真理じゃなかったかな?」愛子が答える。「ほら。いつだったか、コンサートで紗代にケガさせて、キックボクシングのスパーリングのイベント、台無しにした娘だよ」

 

「ああ、そっかそっか。思い出したよ。あの時亜夕美にかばわれて、それ以来、パシリに使われてるんだっけ? 可哀そうだね、せっかくアイドルになったのに、先輩のパシリなんて。亜夕美もヒドイことするねぇ」ちはるは、憐れむような視線を真理へ向けた。自分のことを棚に上げる、とは、まさにこのことである。

 

「でも、亜夕美に気に入られてるからか、テレビとかにもちょくちょく出てて、四期生のメンバーじゃ、結構人気だよ。確か、ランキングもされてるはず」愛子が付け加えた。

 

「へぇ。新入りのくせに、生意気だね」ちはるの目が、獲物を狙うハイエナのようになった。

 

 愛子とちはるの二人は、ヴァルキリーズのランキングのことをかなり気にしていて、後輩が上位へランクインするのがとにかく気に入らないらしい。後輩メンバー最高位のエリにケンカを売ることが多いのはそれが理由だ。四期生の中でランクインしている真理に、二人が目をつけないはずがない。

 

「もう一人の方は……」愛子が顎に手を当てた。「誰だっけ? あたしも分かんないや」

 

「あらら。もっと頑張らないと、ファンに顔覚えてもらえないよ?」笑うちはる。

 

「じゃあ、どうする? 真理でいい?」

 

「うーん。でも、亜夕美のお気に入りなら、他に使い道があるかもよ?」

 

「でもさ、ある程度知名度が無いと、ファンも喜ばないでしょ。せっかくの衝撃映像なんだし」

 

 これから瑞姫が何をするのかは分からないけれど、愛子たちは、それをまたビデオに撮ろうと言うのだろうか? そんなものをどうするつもりだ? まさか、ネットの動画投稿サイトにでもアップするのか? 狂ってる。

 

「じゃ、真理でいいか」ちはるが言い、鍵束を取り出した。その中の一本を使い、牢を開け、中に入った。愛子もその後に続く。あたしと瑞姫は牢の外だ。

 

 ……これは、チャンスだぞ。

 

 愛子とちはるは牢の中。瑞姫も牢の中を見ている。あたしは後ろ手に手錠をかけられているけど、特にどこかに縛り付けられているとかではない。逃げ出そうと思えば逃げ出せる。もちろん、七海たちを見捨てて逃げるようなマネはしない。愛子たちもそれが分かっているから、あえてあたしを放置しているのかもしれない。あるいは、あたしなんて逃げてもどうってことないと言うことか。フン。バカにしやがって。今に見てろ。

 

 後ろ手にかけられた手錠。まずはこれを、何とかしないといけない。軽く引っ張ってみる。ガチャリ、と、チェーンの擦れる音。ズシリとした重みがある。どうやら、オモチャとかではなく本物のようだ。まあ、ここは警察署だから当然だろう。はずしたり壊したりするのはムリだな。せめて、何とかして前に持って行きたい。方法としては、上から回すか、下から回すかだ。上から回すのは想像するだけで痛い。ヘタすりゃ脱臼してしまう。軟体人間でない限りムリだろう。よし。下からにしよう。

 

 あたしは、瑞姫に気づかれないようにそっとしゃがみこむ。可能な限り両手を広げ、腰を丸め、お尻の下を通そうと試みる。

 

 …………。

 

 ダメだ。通らない。くそ。もっとダイエットしておくんだった。

 

 ……いや、自慢じゃないが、あたしは十分に痩せているはず。あたしならできるはずだ。今は仲間の危機なんだぞ。あたしの腕が前に行くかどうかに、全てが掛かってるんだぞ。それが「お尻が大きくてムリでした」じゃあ、アイドルとして恥ずかしいだろ。絶対に成功させるんだ。

 

 あたしは、三人に気づかれないように、もぞもぞとお尻と腕を動かし、なんとか手を前に持って来ようと試みる。

 

 その間、牢の中では。

 

「いや! いやぁ!!」

 

 愛子とちはるが近づき、真理が泣き叫んでいた。これから何が行われるのか分からないけれど、それは間違いなく、あたしたちには想像もつかないような残酷なことだ。それが分かっているから、真理は泣き叫ぶ。朱実にしがみつく。だが朱実は、真理を拒絶するかのように突き飛ばした。

 

 ――あたしは知らない。連れて行かれるのはあなた。あたしを巻き込まないで。

 

 そんな冷たい視線。

 

 無理もない。まだ十五歳の少女に、この状況下で、他人のことを考える余裕なんてないだろう。自分の身を護ることで精いっぱいだ。誰だってそうする。仲間にも見捨てられた真理は、少しでも愛子たちから遠ざかろうと、後ずさりをする。狭い牢だ。すぐに壁に背中をぶつける。それでも後ずさりし続ける。床を蹴る。泣き叫ぶ。

 

 その前に。

 

 七海が立った。

 

「……真理には、指一本触れさせないよ」

 

 鋭い目で、愛子とちはるを睨む。

 

 二人は顔を見合わせ、肩をすくめた。

 

 七海は、両手の拳を握り、構えると、二人に向かって殴りかかった。大振りで、決して早くない右パンチは、あっさりとちはるにかわされた。その後も左、右、と、七海はパンチを繰り出すけれど、虚しく空を切る。無理もない。七海は称号ジークルーネを持っているけれど、武術はヴァルキリーズに入ってから始めた剣道だけだ。深雪や由香里と同じく初段を取得しているけれど、武器を持っていない状態で、ちはるたちとまともに戦えるはずもない。

 

 六発目のパンチがかわされた。それと同時に、七海のお腹にちはるの右ひざが食い込んだ。お腹を押さえてうずくまる七海。ちはるはそのままくるっと回転しつつ、左足を振り上げ、七海の後頭部に踵を落とした。七海は、床に叩きつけられた。

 

「はは。若葉といいコイツといい、なんでこんな弱い奴らが称号持ってるんだよ。ヴァルキリーズのランキングって、おかしいよね」七海の顔を踏みつけるちはる。

 

「そうだね。日本に帰ったらランキングのシステム変えてもらうよう、プロデューサーに直談判しなきゃ」愛子は笑い、そして、真理の方を向いた。「じゃ、真理ちゃん。行こうか」

 

 真理に近づく愛子。真理は手足をバタバタと振り、必死に抵抗する。泣き叫ぶ。

 

「やめろ……その娘に手を出すな……」七海が愛子に手を伸ばす。だが、伸ばした手は、ちはるに踏みつけられた。愛子に声が届くはずも無かった。

 

 狂ったように両手を振り回す真理。その手を、愛子に掴まれた。

 

「おとなしくしろ!」

 

 愛子は、真理の頬を平手で打った。二回、三回と、続けて。それでも真理は暴れるのをやめない。泣き叫ぶのをやめない。それが、真理にできる唯一の抵抗なのだから。それが、真理の唯一の武器なのだから。泣き叫ぶ。

 

 と、その時――。

 

 ズン! と、重い音が響き渡り、留置場全体が、小さく揺れた。バランスを崩し、倒れそうになる。地震か? いや、ここは海の上だ。じゃあ、高波とか、暗礁に乗り上げたとか。いや――。

 

 牢の中の壁に、大きなひびが入り、円形に、わずかに盛り上がっていた。それはまるで、壁の向こう側から、何か大きな衝撃が加わったかのようだった。

 

 壁の向こう側は、最後の牢――瑞姫が、「未完成」と言った牢。恐ろしい気配を感じる牢。

 

「……なんか、機嫌悪いみたいだね」ちはるが壁のひびを見ながら言った。

 

「だね。ちょっと、うるさくしすぎたかな?」愛子は苦笑いをする。「ゴメンゴメン! すぐに終わらせるから、怒らないで!」壁の向こうの何者かに向かって言う。

 

 あの牢には、一体、何がいるんだ。

 

 牢屋の壁だ。そう簡単にひびが入るはずがない。建物解体用の鉄球クレーン車でも使わない限り、あんな風にはならないだろう。

 

「もう、そっちのヤツでいいよ。めんどくさいし」愛子が真理の手を放した。

 

「そう? じゃ、そうしようか」

 

 ちはるは七海の顔から足をどけると、朱実の方へ近づいた。

 

 何が起こっているのか理解していない表情の朱実。近づいてくるちはると、真理の手を放した愛子を交互に見る。ちはるに腕を掴まれ、無理矢理立たされた。それで気づいた。これから行われるであろう悪魔の実験の材料に、自分が選ばれたのだ、と。

 

「いやあぁ!!」

 

 絶叫が、真理から朱実に変わった。助けを求めるように、真理の方に手を伸ばす。真理は応えない。自分の身を護るためには、他人を犠牲にするしかないと、分かっているから。目を閉じ、耳を押さえ、声を殺し、小さくうずくまる。また愛子が自分に手を伸ばさないように、できるだけ目立たないようにしている。

 

「やめろ……連れて行くなら……あたしにしろ……」

 

 床を這うようにちはるに近づく七海。しかし、愛子に腹を蹴られ、這うことすらできなくなった。誰も助けられない。最後の抵抗を試みる朱実。真理と同じように、手足を振り回し、泣き叫ぶ。

 

「おとなしくしろ!」

 

 朱実のみぞおちに、ちはるの拳が食い込んだ。それで、朱実は静かになった。気を失ったようだ。

 

 もう一刻の猶予も無い。早くしなければ。

 

 手錠は、まだお尻の三分の一くらいの位置にしか来ていない。二人が牢から出てくる。もっと気合を入れろ! たとえ手がちぎれても、前に持ってくるんだ! 行くぞ!! せーのっ!!

 

 あたしは思いっきり腕を動かした。

 

 ――――!!

 

 よし!

 

 手錠で繋がったあたしの両手は、ご主人様の意志に反して抵抗を続ける憎らしいお尻の肉の妨害をを見事にくぐり抜け、無事、前に出てきた。ふう。アイドルやってて良かった。もう少し胴が長かったり、お尻が大きかったり、腕が短かったり、身体が硬かったりしたら、絶対ムリだったな。

 

 後は――。

 

 木刀の場所を確認する。この留置場入ってすぐの所に転がっていた。あたしの武術は剣道だ。両手に手錠をかけられていても、あまり関係ない。木刀さえあれば十分に戦える。瑞姫たちの方を見た。だれもこちらを見ていない。今なら取りに行ける。よし。あたしは駆け出した。

 

「――あ! 若葉が逃げたよ!」愛子が叫んだ。気付かれたけど、もう遅い。すでに五メートルは離れた。追いかけてきても、あたしが木刀を拾う方が早い。

 

 だけど瑞姫は、あたしが走り出したことになんてまるで興味が無いかのような口調で言う。「大丈夫だよ。あの娘のことだもん。七海たちを置いて、逃げたりしないさ」

 

 その通りだよ! あたしは木刀を拾うと、牢から出てきた愛子とちはるに向けて構えた。

 

「あんたって、ホント、バカなんだね」愛子、呆れた口調。「さっき戦って、全然敵わなかったでしょ? 学習能力無いの?」

 

「大丈夫? 助けを呼びに行った方がいいんじゃない?」ちはるもバカにしたように笑う。

 

 ふん。なんとでも言え。確かにまともに戦ったら、絶対敵わないよ。あんたたちの言う通り、あたしは弱い。そんなことは分かってるさ。でもね。勝ち目がないわけじゃない。あんたたちのことだ。あたしが弱いとバカにして、油断するはずだ。

 

「――ま、その勇気に免じて、せめて、一対一で相手してあげるよ」愛子がゆっくりと前に出た。「ちはる。あんたはそこで見てな」

 

 ほーらね。思った通りだ。しかも愛子は、さっきのトンファー型警棒を持っていない。完全に素手の状態だ。あれでは、あたしの攻撃を受け止めることはできないだろう。しかも相手は柔道。リーチはこっちの方がはるかに長い。攻撃の手を止めなければ、懐に入られることはないだろう。組まれさえしなければ大丈夫。それに、さっきは怒りに我を忘れて無茶苦茶な攻撃だったからかわされたんだ。冷静に対処すれば、絶対に倒せるはず。

 

 あたしは木刀を構え、相手の隙をうかがう。愛子は、相変わらずニヤニヤと不快な笑みを浮かべて、こちらの様子をうかがっている。腰を落とした低い姿勢。柔道というより、レスリングのような構えだ。

 

 ――え? レスリング?

 

 そう思った瞬間。

 

 愛子は、その低い姿勢のまま、一気に踏み込んできた。ものすごいスピードだった。慌てて木刀を振るうけど、遅すぎた。虚しく空を斬る。両足を取られた。肩で押され、そのまま後ろに倒された。レスリングの両足タックルのような技――双手刈だ。両手を手錠で繋がれているあたしは、受け身を取ることができない。とっさに首を上げ、何とか後頭部をコンクリートの地面に打ち付けることはなかったけれど、背中を強打する。一瞬息が止まった。その隙に、愛子があたしの上に乗った。マウントポジションというやつだ。両手を手錠で繋がれているあたしは、もう、どうすることもできない。愛子は両腕をクロスさせ、あたしの首の後ろの襟を掴んだ。そのまま絞め上げる。十字絞めだ。

 

「あんたさぁ、もしかして、『リーチはこっちの方が長いから、攻撃の手を緩めなければ、組まれず、投げられることはない』とか、考えてなかった?」

 

 その通りだった。

 

 あたしは、自分から攻めることだけを考えて、相手から攻められることを、全く考えていなかった。

 

「……あんた、どこまでバカなのよ。よくそんな甘い考えで、武術なんてやってるわね」

 

 本当に。

 

 その通りだ。自分でも呆れる。こんなザマで、「すぐに助ける」なんて、よく言えたもんだ。自分の弱さがイヤになる。仲間を護れない自分が、イヤになる。

 

 意識が遠くなる。目の前が、徐々に暗くなっていく。

 

「……おやすみ」

 

 愛子の声も、遠くなる。

 

 あたしは、底の無い泥沼に沈んでいくかのように、ゆっくりと、意識を失っていった――。

 

 

 

 

 

 


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