紅の剣士と水の巫女   作:ドラ麦茶

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1・迷走

 生ぬるい大気が吹き抜け、密生した樹々がざわめいた。あまりにも不快な風だ。腐った落ち葉、あるいは、生物の血の臭いを含む空気。大きく吸い込むと、身体がそれを拒絶し、吐き気をもよおす。なるべく息をしないようにするが、そうすればするほど、身体は空気を求める。耐え切れず、大きく息を吸い込み、再び吐き気。

 

 そんなことを、もう何度も繰り返しながら、ジュリアはこの不気味な森の中をさまよっていた。いや、実際には「さまよう」と言うほど、時間は経過していない。彼女がこの森に入って、まだ半日も経っていないのだ。しかし、環境が時間の感覚を麻痺させる。目の前に広がるのは、密生する樹。後ろを見ても、横を見ても、その光景は変わらない。今見ている景色は、10分前と同じ景色であり、30分前も、1時間前も、3時間前も、同じ景色だった。まるで、足踏みしているかのよう。一生この森から出られないのではないか、そんな不安に駆られる。それを振り払うように、彼女は歩く。しかし森の緑は、行く手を遮るかのように彼女の前に立ちはだかる。密生した樹々をかき分けて進むのは、容易なことではなかった。樹々だけでなく、大地も彼女の進行を妨げる。陽の光の届かぬ森の大地は腐っていた。歩を進める度に、靴の回りに水が滲み出し、足が沈む。沼地を歩いているかのようだ。

 

 自分はなぜ、このような森の中を。たった1人でさまよっているのだろう?

 

 ふと沸き上がる疑問。数ヶ月前までは、こんな暗い森とは無縁な、人工の建物が立ち並ぶ街で、父と、兄と、街の人々と、平和に暮らしていたはずだ。それが何故、こんな人の手の入らぬ森の中をさまよう羽目になったのだろう?

 

 考えるまでもないことだった。数ヶ月前の「ある事件」がきっかけで、彼女は街を追われたのだ。

 

 ある事件――。

 

 思い出したくもなかった。あまりにもばかばかしい出来事だ。あんなくだらないことが理由で、それまでの平和な生活を失ってしまうなんて……。

 

 彼女は革製の鎧に身を包み、背中には立派な剣を背負っていた。華奢な身体には到底不釣り合いな代物だ。そんなもの捨ててしまえば、この森を歩くのが格段に楽になるだろう。それは彼女にも判っていた。しかし、捨てるわけにはいかなかった。何故なら、彼女は傭兵なのだから――。

 

 傭兵――金で雇われ、要人や旅の商人の護衛、時には戦争に参加し、敵を倒す。戦うことで金を得る、危険な商売だ。それまでの平和な生活からは縁遠い仕事だったが、彼女はその道を歩まずにはいられなかった。

 

 彼女の父は、世界中で知らぬ者は無いというほどの高名な剣士だった。そんな父に幼いころから剣を教えられたジュリアは、剣の腕にはかなりの自信があった。しかしそれは逆に、剣以外のことには自信がなかったとも言える。だから街を追われた後は、その剣の腕で生きていくしかなかった。それで傭兵にならざるを得なかったのだ。

 

 いまいましいことだった。なぜこのあたしが、傭兵などしなければならない! この数ヶ月間、何度も心の中で叫んできたことだった。何故だ? 考えても無駄だった。答えは出るはずもない。だから、考えるのをやめた。今は、この森を抜けることだけを考えよう。

 

 空を見上げた。しかし、眼に入るのは緑の天井。生命の息吹を感じさせる緑ではない。死を思わせる緑だ。そのわずかな透き間を通り抜けてくる陽の光は、すでに西へ大きく傾いていた。もう間もなく、西の空は赤く燃えるだろう。それを過ぎれば、世界は闇に包まれる。昼でも薄暗いこの森は、夜ともなれば完全なる漆黒と化すだろう。そうなれば、この森から出るのはさらに困難なものとなる。いや、光が失われるのはまだいい。歩かなければいいことだ。このような森で眠るのには抵抗があるが、我慢できなくはない。問題なのは、闇にまぎれて徘徊する獰猛な獣だった。この森の中ならば、狼や熊、あるいは、それ以上に危険な魔物も、多く生息しているに違いない。そんな獣に、運悪く出会ってしまったらどうなるだろう? 想像し、ジュリアは思わず身を震わせた。闇は人を無力にさせる。反面、奴らは闇の世界に生きる生命だ。そんな奴らと遭遇して、生き残る自信は、今のジュリアには無かった。剣の腕にはそれなりの自信があったが、傭兵になってまだ数ヶ月。彼女は、まだ人間以外のものと戦ったことが無かったのである。父に教わった剣は、あくまで人との戦いを想定したもので、それ以前に、平和な街の中では、人以外のものとの戦いを経験することなど皆無だった。そんな彼女だから、陽が暮れるのを恐れるのも無理はなかった。

 

 ――こんなことなら、街道を行けばよかった。

 

 そう思った。しかし、今更後悔しても遅い。

 

 この森――正確には、山だ。トーラス山――ウエルト半島の東にそびえ立つ山だ。

 

 故郷を追われたジュリアは、海を渡り、このウエルト王国へやってきた。港街で聞いた話によると、王国東のヴェルジェで、大規模な兵力集めをしているらしい。丁度旅の路銀も少なくなっていたため、彼女はヴェルジェに向かうことにした。港街からヴェルジェに行くには街道を3日ほど歩かなければならないが、南のトーラス山を抜ければ、1日でつくと言う。一刻も早く仕事に就きたかったジュリアは、ためらう事無く山道を進むことにした。

 

 しかし、山の道は彼女の予想以上に険しかった。傾斜の激しい岩場や、何年も使われていないような古い吊橋など、危険な場所が至る所にある。そういった道をなるべく避けて歩いているうちに、この森に迷い込んでしまったのだ。

 

 ジュリアは、己の考えがいかに浅はかだったかを、身をもって知った。山を越えれば早く着く。そんな甘い考えに従った結果がこれだ。これから傭兵として生きて行くジュリアにとって、いい勉強になったのかもしれない。しかし、それはあくまで、生きてこの森を抜けられたらの話だ。

 

 ――生きてこの森を抜ける?

 

 ふと立ち止まるジュリア。本当に生きて抜けることができるのだろうか?そう思った。馬鹿げた考えだが、否定することができない。この森は世界の果てまで続いる。そんな気がしてならない。一度足を踏み入れたが最期、一生さまよい続けるのではないのか? 背筋が寒くなる。再び歩きだした。密生する葉、大地にとぐろを巻く樹の根、森は、まるで彼女にまとわりついているかのようだ。それを振り払い、歩く。生温い風は、依然死の香りを含んでいる。その風に愛撫されざわめく樹々の葉は、まるで死神の笑い声のようだ。駄目だ。弱気になってはいけない。歩く。遠くで鳥の鳴き声がした。断末魔の悲鳴を思わせる、不気味な響き。森の中のあらゆるものが、彼女を死へと誘っているかのよう。駄目だ。馬鹿なことを考えるな。歩く。歩き続ける。走っていると言えるほどに。しかし、森は変わらない。

 

 ジュリアは気が狂いそうになった。あと30分も同じ景色が続いたら、本当に狂っていたかもしれない。

 

 だが、奇跡が起きた。

 

 ジュリアは思わず立ち止まる。

 

 生い茂る植物を、かき分けてもかき分けても、存在するのは緑の闇ばかりだった。今までは――。しかし、今、目の前に見えるのは、明らかに光だった。知らぬ間に走り出していた。樹がまばらになっていくのがわかる。やがて、草の生えていない地面を見つけた。細長く、踏み固められた地面。ジュリアはそれを見て、涙を流さんばかりに喜んだ。それは、明らかに道だった。道があるということは、人の往来があるということである。つまり、この道を辿っていけば、人の集まる場所にたどり着くはずだ。

 

 大きく安堵の息をつく。だがすぐに気を引き締め、再び歩きだした。この道がヴェルジェに通じている保証はなかったが、それでも気分はずいぶん楽だった。仮に元の港街に戻ってしまったとしても、それはそれで構わないだろう。あんな森の中をさ迷っているよりは、遥かにましだ。

 

 ――そうよ! あの森を抜け出したんだから、あたしは助かったのよ。

 

 そう思っていた。

 

 だが、甘かった。

 

 このトーラス山に潜む危険は、暗い森、あるいは、血に餓えた獣 そういった自然によるものだけではないのだから。

 

 

 

 

 


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