衛士たちが駆けつけてきたのを見届けてから、キュルケが屋根から降りてくると、タバサが下で待ちうけていた。
「無茶が過ぎる」
と小柄な彼女が言った。
「そう?」
「衛士を呼べばそれで済んだこと」
「それじゃあつまらないもの。彼にいいとこ見せたかったし」
「それが無茶」
唇を尖らせたキュルケを、タバサは言葉少なにやり込めた。
「助けにいくのは、別に構わない。でも屋根に登る必要性は皆無」
通りには日暮れの日差しがまぶしいほど照り、その光は二人の正面から差し込んでいる。この道をまっすぐ行った先の三叉路は、商家が多く集まるところで、品物を買い求める人で道は混んでいた。二人は人をかき分けるようにして歩いている。
キュルケが尾行していたルイズとホッパーが、風体の悪い五人組に路地裏に連れ込まれたのがつい先ほどのこと。危機に陥った意中の殿方のもとへ颯爽と駆けようと画策したものの、手早くホッパーが片をつけてしまったので、飛び出すタイミングを完全に失ってしまったのだった。
「上手くいくと思ったんだけどなあ」
と言ったが、キュルケはすぐに、でも無事だったからいいかなとひとりごちた。
「…………」
「…………」
「通報したの、貴女でしょう? でなきゃあんなに早く来るはずない」
「…………」
「ありがとね。心配してくれて」
「……別に」
前を向いたままタバサが応じた。無愛想ともいえる友人の態度にもキュルケは慣れたものである。言葉が少ないにしろ、無駄なことは言わないので、真意は十分に伝わるのだ。
「ちょっと早いけど、食事にしない? この先に美味しいリストランテがあるの」
「行く」
「そうこなくっちゃ。デザートの砂糖菓子が有名なお店で……」
連れだって目当てのリストランテ、『月の女神亭』の前まで来ると、そこには黒山の人だかりができていた。行列とも違うようである。子供の泣き声が異様だって響いていた。
何事かと、キュルケが様子を見ていると、なんと店の前にむさいなりの男が陣取っていて、胴間声を張り上げていた。
驚くべきはその男が、五つか六つと思われる女の子を捕まえ、『ブレイド』をまとった杖を振り回し、店の者に脅しをかけているのだった。店の者は地面に手をついて謝っているが、男は勘弁ならん詫料は金貨百、二百ではすまさぬと滅茶苦茶なことをわめきたてている。おそらく女の子は店の者の子で、何か男に対して粗相を働いたと思われた。
隣国アルビオンの情勢が悪化するにつれ、戦火を逃れてきた者や、一稼ぎする目的の傭兵などがトリステイン王都に流れ込むようになっている。そういう時勢のためか、王都のような大きな町にも殺伐とした空気が持ち込まれていた。都に集まってくるのは職を求めてであるが、運悪く職を得られなかった場合は、胸中の不満が殺伐とした気配となってその身から漂う。そういう輩の行きつく先はだいたいが物乞いで、次第によっては殺人や強盗を犯す兇徒となり果てるのだった。
キュルケの形のいい唇から舌打ちが漏れた。自分たちは楽しく食事をしに来たのであって、ならず者の無体を見物しに来たのではない。さてどう手を打とうかと思案したとき、ふと隣を見やると、そこにいたはずのタバサがいなくなっている。あちこち目を配ると、いつの間に移動したのか、見物人の一番前に立っているのが見えた。
タバサはその間、黙って女の子の方をじっと見つめていた。
人質にされた女の子は、小さな人形をまるでお守りであるかのように抱きしめている。男につかまっても手放さなかったようだ。あちこち傷んでいるのは、よほど気に入って遊び相手にしているためと思われた。
女の子も、いつの間にか泣くのをやめてタバサを見つめていた。しげしげと眺められたので、人質にされていることよりも、つい気がそちらに向いた様子である。利発そうな、可愛らしい女の子だった。
「いい子」
タバサは小さくつぶやいた。
「泣くのは、終わったあとでいい」
この時、女の子の母親と思われる女性が、私が身代わりになりますからというようなことを言って、男の衣服の裾に縋りついた。すると男は、俺に触れるな平民と怒鳴り、女性を蹴転がした。あまりに惨い振る舞いに、見物人から悲鳴が上がった。
お母さん、と女の子が叫ぶ。その手から人形が落ちた。
すっとタバサが前に出た。
「ラナ・デル・ウィンデ」
唱えられたルーンに従い、力場としての方向性を持った魔力が、杖先に不可視の風槌を形成する。
ようやく男がこちらに気づき、タバサの方を見た。節くれた大杖と小柄な少女の組み合わせを目の当たりにして、男はあっけにとられた顔をしたが、タバサは委細構わず杖を指し向けた。決して人質を傷つけぬよう出力を絞った――接触面を減じ、且つ威力は保持した状態の――『エア・ハンマー』を無警告で繰り出したのである。
脳天を一撃された男はうめき声を発して、女の子の手を放した。だが次の瞬間、悪魔の形相でタバサに斬りかかっていった。
タバサは身を転じながら、つむじ風のような身のこなしで相手の刃をかい潜ると、大杖で男の脛をがつんと打ち払った。男の体が宙で一回転し、地面に落ちた。ぎゃっと悲鳴を上げて動かなくなった。石畳に頭をいやというほどぶつけて、気絶したらしい。
「なかなかいいお店じゃない?」
キュルケはそう言って、タバサの空いたグラスに酒瓶を傾けた。
タバサがならず者を懲らしめたことで、すっかり感激した月の女神亭の主人は是非とも礼がしたいと申し出た。要は店へ招いてもてなしたいとのことだった。タバサの目が、きゅぴんと輝いたのは言うまでもない。
通された個室では、明りに蜜蝋を燃しているらしく、ほのかに甘い香りがした。お忍びの貴族が利用することもあるとかで、調度品の類もなかなか品の良いしつらえである。
「美味しかった」
と、サシバミ草のサラダを嚥下したタバサは言った。
「でも量が少ない」
それを聞いて、キュルケは思わず苦笑した。
小柄な見た目に反して、タバサは健啖家である。テーブルの端に空いた皿を山のように積み上げておいて、量が少ないなど平然とのたまうのだ。彼女の矮躯に、一体どれほどの圧縮率で食物が収まっているのかは、全くの謎である。
「お酒も悪くなかったわね」
キュルケは適当に飲み、酔いも顔に表れているが、タバサは酒はそんなには飲んでいないようである。酒瓶もほとんど自分が空けたようなものだ。……さすがに飲みすぎたろうか?
グラスを呷って、そしてふと、ならず者を伸したときのことを思い出した。
「そういえば、さ」
「…………」
「さっきのこと、貴女らしくないじゃない?」
学園内にいてさえ、無口無表情無愛想の三無主義を貫くタバサは、その非社交性ゆえに浮いいた存在だった。近辺で騒ぎが起こったとしても、その場を離れるだけで一切干渉しない。そのタバサが体を張って女の子を救出したのだから、何か思惑あってのことに違いなかった。
「無茶はしないんじゃなかったかしら」
なにより、風槌を繰り出したあの瞬間、ほんの一瞬であるが、彼女の魔力が膨れ上がったのをキュルケは感じている。魔力と、メイジの強い感情は連動するのだ。タバサらしくないことこの上ない。
「別に。ただの気まぐれ」
タバサはそっけなく言った。言葉の裏に、拒絶の意を感じたキュルケは、
「そう」
とだけ答えた。これ以上問いただすのは野暮というものだ。この話題はもう終わりである。
そろそろデザートにして仕舞にしよう、とキュルケは思った。
小さな呼び鈴を鳴らすと、すぐに給仕が出てきた。デザートとドリンクを注文すると、かしこまりました、と返事をして給仕は引っ込んだが、その顔にどことなくほっとした表情が浮かんでいたのをキュルケは目撃している。並以上の大食らいを招いたと知って肝を冷やしたのだろう。
注文したものはすぐに出てきた。が、テーブルに並べられたものを見て、キュルケは眉を上げた。
カップが置かれ、コーヒーが湯気と香りを漂わせている。
それはいい。
問題はデザートだ。
てっきり砂糖菓子が出てくると思っていたのに、クリームを添えたこのこげ茶色の物体は何だろうか。
キュルケの困惑を察してか、タバサが言った。
「チョコレート」
「チョコ、レ……ショコラ?」
「ショコラ」
「…………」
「…………」
「なにこれ」
「多分、フォン・ヴァーデンのショコラ・オ・レ」
「食べ物、なの?」
「新大陸由来の、カカオから作った、新しいお菓子。とても苦いから、ミルクと砂糖をたくさん入れる」
「…………」
「きっと、すごく、甘い」
この会話の間、タバサの視線はデザートに向けられている。それはもう、瞬きせず凝視している。
「……これ貴女にあげるわ。あたしコーヒーだけでいい」
コーヒーなら、飲み慣れたものだ。東方交易でしか手に入らない、希少な『エルフの黒い妙薬』。故国ゲルマニアだけでなく、ハルケギニアの上流階級で流行りの飲み物だ。
だがしかし、この茶色い物体は頂けない。
どうしても食べ物とは思えないのだ。
押しやった皿の上のものを、タバサは躊躇なく口に運ぶ。栗鼠よろしく、もっもっもっ、と咀嚼して飲み込んでみせた。
「甘い」
「はいはい、良うございましたわねー。ちなみにクリームが口の端についてるから……こらっ! 舐めないの! 拭いたげるから動かないで」
クリームをめぐる攻防を経て後、二人は店を出た。残さずきれいに完食する主義のタバサと、食事のマナーと意地汚さの境界を区別するキュルケの戦いである。軍配はキュルケに上がったのだった。
料金について店の主人は固辞したが、押し問答の末チップということにして、キュルケが小切手を書いて渡した。流石にあれだけ飲み食いしてタダというのは、他人の親切に付け込むようで心持が悪くなる。デザートのアレはともかく、店自体は気に入ったので、また来ようとも思ったのだ。
夜、である。
学院の門限はとうに過ぎている。外出許可証は未申請だが、それをチェックする立場の教師が詰所にいるのは稀なことだ。詰所にいるのはおそらく衛士だけのはずなので、言いくるめるのは簡単である。
もっとも、二人が出入りするのは学院の門ではなく、自室の窓なので、詰所云々は関係ないのだが。
「すっかり遅くなっちゃったわねぇ」
昼に都へ来た時と同じように、キュルケは風竜の背びれに身をあずけて、ほうと息を漏らした。酒精で火照った頬に、夜気が心地よい。
自分は、今、酔っている。
空の上で、友人と二人きり。
だから、ちょっとだけ口が軽くなるのは、仕方のないことだ。
「リストランテのご主人ってば大喜びしてたわ。一人娘って言ってたっけ。うんと可愛がってるんでしょうねー」
「…………」
「美味しい料理に美味しいお酒。でもまさかデザートが新大陸産とわね。あんなところで新大陸の名前を耳にするなんて思わなかった」
「……不快に思ったのなら、謝る」
「違うわ。そうじゃない」
「…………」
「『トリステイン西海商館』……あれにフォン・ツェルプストーも出資してるのよ。専売権欲しさにね。ポテト。コーン。トウガラシ。トマト。何種類かのナッツに、さっきのココアに、タバコ。知ってる? すっごい値段で売れるんだから。
ほら、ド・モンモランシとラ・ヴァリエールが王家と共同で造ってる運河、あるでしょ? あれの関連事業に入り込もうとして失敗したものだから、必死になって新大陸の交易に投資してるってわけ」
「…………」
「前に一度お父様に、事業に拘る理由を訊ねたことがあった。そしたら何て言ったと思う?
『杖の時代は終わった。
これからは金を稼ぎ力をつける。
一族が栄えるために』
杖の代わりにカネ、カネ、カネ……でもまさか、実の父が金の亡者に変貌するなんてね」
「派閥闘争」
「御名答。帝政に移行してからそれが激化した。
でね、ヴィンドボナを退学になったとき、お父様から結婚しろって言われたの。一族を強くするためだって……イケメン侯爵だったら諦めもついたのかな? でも確かめたら明日死ぬようなジジイよジジイ。政略結婚以前に、こっちが金目当てだってバレバレだし……って言うか、足元見られて身売りするくらいなら死んだほうがましだっつーの!!」
吐き捨てるように、キュルケは言った。
「後のことは、貴女も知っての通り。適当に理由付けて、留学して、こっちに来たってわけ。まあ、隣部屋の住人がルイズ・フランソワーズだったってオチがついてるけど。
どう、笑える?」
「……笑わない」
笑わない? 笑えないではなく?
と聞き返そうとしたところで、タバサがまた何か言った。
シルフィードが高く啼く。
いきなり、背中への圧力を感じた。血が足先に集まる感覚と同時に、双月が垂直に起き上がってきて、大地と激しく入れ替わる。
――落ちる。
突然の浮遊感に悲鳴をあげた次の瞬間には、キュルケは再びシルフィードの背に戻っていた。
「……酔い覚まし」
首を回し、僅かな声量でタバサが言う。先程は、とんぼ返りの、円の頂点から後半に捻りこみを加えた曲芸飛行をわずか二,三の言葉でシルフィードに指示したのだ。
なにするのよ! と喉元までこみ上げた怒声をキュルケは飲み込んだ。
澄んだ青い目が自分を見つめている。そのまなざしの強さに一瞬気圧されたのだ。
「らしくないのは、貴女のほう」
また僅かな声量でタバサが言う。
乱れた髪を手櫛で整えつつ、キュルケは答えた。
「……そう、かな」
「…………」
「ん、そうね。確かにあたしらしくなかったわ」
リストランテの主人とその娘御。
暴漢から解放されて、泣きじゃくる我が子を抱きしめるあの姿は、人としてあるべき父親の姿だった。その光景を、見せつけられた。つい自分の境遇と重ね合わせてしまったのだ。
結果、自棄酒を呷り、酔いに任せて不満を垂れるなんて、まして終わったことをグチグチ言っている自分は、自分らしくない。
キュルケは一人で苦笑いした。陰鬱な気分になっていたのを、タバサに見抜かれていたと、ふと思ったからだ。差し向かいで酒を呷っていた間に、それが外に現れていたのだろう。
しかしそのことをあけすけに口に出すようなことはせず、かといってこちらの気持ちに入り込むような言い方もしないで、ただ気を使っているようなことを不器用に告げたのだ。
彼女の言う通りだ。
だから。
この場のことは全て、お酒のせいにしてしまおう。
「ねえタバサ、あたし達友達よね?」
にっと笑顔を作ってキュルケはタバサに言った。
胡散臭いものを見る目をしてタバサはキュルケを見返した。
「お、と、も、だ、ちよね?」
言いながら、くなくなと目の前にいるタバサにしなだれかかる。ついでに彼女の陶器のように白い頬を、両手でムニムニと引っ張る。
「今の話内緒にしててくれる? 特にヴァリエールには。あたしからの一生のお願い」
「顔が近い。お酒臭い。それと一生のお願いは四回聞いた」
「大した事じゃでしょお。ねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえってばぁ」
「…………」
「ダメ?」
相手がなかなか承知しないので、キュルケは殺し文句を囁くことにした。
「内緒にしてくれたら今度御馳走してあげる」
「約束する」
即答だった。「…」の間を置かない即断である。
「ただし、学院の食事は該当しない」
今度はキュルケが沈黙した。学院の食事をいかばかりか多めに取り寄せて「御馳走」する目論見を彼女は看破したのだ。流石は学年主席、二度同じ手は通用しないか、とキュルケは内心舌を巻く。
「どこのお店?」
更なる言質を取ろうと迫るタバサ。
逃げ道を探そうと目を逸らすキュルケ。
たっぷり十数秒の沈黙の後。
白旗を上げたのはキュルケだった。
「……適当に探しておくわ」
「わかった。楽しみにしておく」
そう言ってタバサが前を向く。
タバサはいい子だ。彼女に友人として選ばれ、また選びもした自分の目に間違いはなかったとキュルケは思った。初対面ではお互い最悪な印象を持ち、決闘騒ぎまで起こしたあのころを思い出していると、シルフィードが鋭い鳴き声を発した。
下に何かいる、とタバサは言った。ちょうどその直下で、歩みを止めた不格好なゴーレムが、形をなくして小山となったところだった。
明朝。
トリステイン魔法学院では、大騒ぎが続いていた。
盗賊が侵入した宝物庫には、野次馬が集まっている。
ある者は壁の大穴(応急修理が施されたとはいえ)を見て呆然としている。
「衛士が殺された」
「学院に放火された」
「すでに盗賊は捕縛されている」
推測を話す者。
推測に私見を加える者。
嬉々としてゴシップネタに変えて話す者。
にもかかわらず、皆、壁に残された犯行声明を根拠に、「義賊フーケが単身侵入し、宝物を強奪した」という点においては、見解の一致を得ていた。そして、その見解の根拠を疑う意見は、悉く攻撃され、袋叩きにあったのだった。もっとも、この事件が解決した後には、巷間に上ることなく忘れ去られる程度の『事実』でもあった。
一方、そのころの学院長室――――
「衛士は何をしていたのだ」
「所詮は平民。あてにならん」
教師たちが集められた学院長室で、銘々が勝手に騒いでいる。偏狭で不寛容な雰囲気で満たされていた。
そして、決定的な一言が出た。
「そもそも、当直は誰だったんだ?」
この一言で、盗難事件の解決策を講じるはずの会議が、責任を押し付ける弾劾裁判へと変質したのである。
ミセス・シュヴルーズの肩がビクリと跳ねた。昨晩の当直は自分であった。が、いつも通り当直をサボり、自室でぐっすり寝ていたのだ。
ねちっこい口調で、教員の一人、ミスタ・ギトーが言った。
「ミセス・シュヴルーズ? 吾輩の記憶が正しければ……昨日の当直は貴女では?」
ミセス・シュヴルーズは泣き始めてしまった。
「も、申し訳ありません……」
「泣いても、宝物は戻ってこないのですぞ。それとも貴女が全てを弁済するのですかな?」
馬鹿馬鹿しい、とホッパーはいつぞやと同じ感想を持った。職務怠慢な(恩を感じたこともあるが)教師と、その一方で非難する大人たち。義務だ、責任だと責め立てているが、そういう四角ばった物言いの根拠は一体どこから湧いて出てくるのかをホッパーは理解できない。会議の空気がなせる業とすればそれまでだが、没意義に終始するのがせいぜいであろう。
右にそれとなく目をやると、ルイズもまた大人たちのやり取りを不快な表情で見ていた。
そのまた右に、眠そうな目をしたキュルケが立っている。呼気に酒精が混じっているのは昨晩深酒したためだろうか。
さらに隣には、青髪のちっこいのが並んでいた。いつもキュルケと一緒にいる、確か名前は……タなんとか。こちらはただぼんやりと目の前の光景を眺めている。
視線を前に戻すと、謗言に耐えかねたミセス・シュヴルーズがよよよと床に崩れ落ちるところだった。
そこに、オスマン氏が現れた。
「これこれ、女性をそういじめるのはよしなさい。あー、えー、ミスタ・ピトー?」
「ギトーです! いや、しかしですな! ミセス・シュヴルーズは当直をサボって自室で寝ていたのですよ! 責任は彼女にある!」
「馬鹿者!!」
オスマン氏は一喝した。
「皆を招集したのは一刻も早く対策を講じるためじゃ! ここは責任追及の場ではないわ!」
普段の様子からは信じられない、するどい覇気にみちた声に圧されて、ミスタ・ギトーはたじろいだ。好き勝手騒いでいた他の教師たちも、ぴたりと口を噤んだのだった。
そこでようやく、普段の飄々とした感じに戻ると、辺りを見回し、言葉を続ける。
「そもそも、ミスタ・コルベール以外でまともに当直を務めた教師は、何人おるのかな? ん?」
教師たちは互いに顔を見合わせると、気まずそうに下を向く。誰も発言しない。
オスマン氏は溜め息をつきながら言った。
「これが現実じゃ。メイジが大勢詰めとるこの学院に、わざわざ侵入する泥棒がおるとは普通思わんからの。故に、儂も含めた全員が、油断しとった。責任は、この儂を含め全員にある」
ミセス・シュヴルーズはすっかり感激した様子で言った。
「感謝いたしますオールド・オスマン! わたくしはあなたをこれから父と呼ぶことにいたします!」
オスマン氏はそんなシュヴルーズの尻を撫でた。
「よいよい、よいのじゃ、ミセス」
「わたくしのお尻でよかったら!そりゃもう!いくらでも!はい!」
…………。
……。
…。
「…ルイズ。あのスケベな老人が、この学院で、一番偉い、学院長の、オールド・オスマンなのか?」
「…………」
ホッパーの耳打ちに、ルイズは応じなかった。代わりに、右のつま先に圧力を感じたので足下を見ると、ルイズの左足の踵(ローファー)が、ホッパーの右足の小指を、靴の上から正確に踏んづけている。
ムウ、成程。学院長をフォローしてやりたいが、言葉が見つからないということか。それとも、もっと直接的に、余計なことを言うなという意味でのストンピングだろうか。
スケベなオスマン氏はこほんと咳をした。突っ込みを期待し、場を和ませるつもりで尻を撫でたのである。
「で、目撃者というのは?」
「こちらの三人です」
コルベールが壁際に控えさせていた三人を示した。ルイズ、キュルケ、タなんとかの三人が前に出る。
ルイズはゴーレムが草原を横切るところを見た、と証言した。
キュルケはゴーレムが崩れるところを見たが、付近に人影はなかった、と証言した。
タなんとかは黙ったままだった。
「ふむ。犯人を見たものはおらんのか」
オスマン氏は髭を扱いた。
「手掛かりナシじゃの」
ミスタ・コルベールが控えめな口調で言う。
「王室に協力を願ってはいかがですか。王都の警吏と騎士隊を差し向けてもらうのです」
「その間に逃げられてしまうわい。賊の侵入を許した挙句取り逃がしたとあれば、恥の上塗り。じゃが、厄介なのはそれよりも……」
苦々しげにオスマン氏は言った。
「週末の使い魔品評会じゃ。王女殿下直々の御所望により、ゲルマニアより帰国途上の御一行がお立ち寄りになる。これは決定事項、変更はない。
この件、早々に片をつけねば身の破滅につながるぞい。なにせ、我々は『貴族』じゃからの。職を辞するだけでは済まぬ」
オスマン氏の言葉で室内に重苦しい空気が充満する。
――面倒だ。
と、すぐにホッパーは思った。単なる泥棒騒ぎのはずが、にわかに緊迫したものに変わったのを感じたのである。オスマン氏は単刀直入に破滅という言葉を使ったが、ただ騒々しいだけの雰囲気を一変させるには十分な効果を発揮した。コルベールはみるからにうろたえている。ミスタ・ギトーに至っては顔を土気色にしていた。
しかし、ホッパーにとって教師陣の反応は認識外である。面倒だと思ったのは、『貴族』という単語に過敏な反応を示すルイズだ。会議の行方によっては無茶なことを言い出しかねないと危惧している。
「では、情報を整理しようかの。ミス・ロングビル、報告を」
とオスマン氏は言った。
「賊は『土くれのフーケ』。壁にサインが残されていました。
盗まれた品は『破壊の杖』、『魔笛』、『聖血』。ミスタ・コルベールと共同で目録を確認しましたので間違いありません」
キビキビとした口調でミス・ロングビルが言う。
「フーケはゴーレムを囮に反対の方向へ逃走したようです。先生方の御助力を得て使い魔に追跡させたところ、足跡は森まで続いていましたが、途中で見失いました。……それから、足跡は複数確認されました。単独で行動すると思われていたフーケですが、此度は仲間を使ったようです」
「ありがとう。ミス・ロングビル」
とオスマン氏は言った。
「さて諸君。この問題は我らで解決すべきことじゃ。その上、身に降りかかる火の粉を己で払えんで何が貴族か」
オスマン氏は再び空咳すると、有志を募った。
「では、フーケ捜索隊を編成する。意志ある者は杖を掲げよ」
沈黙。
誰も杖を掲げない。困ったように互いの顔を見合わすだけだ。
「おやおや。誰もおらんのか、盗賊を捕まえて名を上げようと思う『貴族』は?」
「志願します」
案の定というべきか、簡潔に宣言して後、ルイズは杖を掲げたのである。
まずい、とホッパーは思った。
つい昨日、白昼堂々強盗に遭ったのを忘れたのかこの逆噴射娘は。しかし、逆噴射娘……ではなく、ルイズを制止できなかったのはホッパーの失策である。
聞き及ぶ限りホッパーが思ったのは、フーケは無計画な強盗とは違うということである。派手な方法で宝物庫を破りこそしたが、追跡を撒くために囮を使い、さらには森に入ってからは足跡まで消す周到さを見せている。
次に考えたのは、追手がかかることをフーケが予想していたかどうかだ。時間稼ぎの仕掛けは施している。追手の進行を遅らせるために罠を張っているかをも知れない。いよいよ追い詰められたとなれば、死に物狂いで反撃してくるだろう。
そこまで考えたとき、ホッパーの頭に浮かんできたのは、ゴーレムとは反対の方向に残っていたという足跡である。囮を用意しておきながら、痕跡を残すというのはどうも片手落ちのような気がする。フーケのブラフだろうか。ホッパーの考えはここで行き詰った。
ミセス・シュヴルーズが、驚いた声を上げた。
「ミス・ヴァリエール! あなたは生徒ではありませんか。ここは我々教師に任せて……」
「誰も掲げないじゃないですか!」
真剣な目をしてルイズは言う。
それを見て、キュルケも渋々杖を掲げる。
「ツェルプストー! 君も生徒だろう!」
「ふん。ヴァリエールに負けられませんわ」
そしてキュルケが杖を掲げたのを見て、タなんとかまでもが杖を掲げた。
「タバサ、貴女は関係ないのよ。あたしがやりたいだけなんだから」
「心配」
タバサはちらりとキュルケを見上げて、短く答えた。
「……ありがとう。タバサ」
ルイズもお礼を言った。
「オールド・オスマン! 生徒に盗賊退治をやらせるなんて私は反対です! そんな危険なことを彼女らにさせるわけにいきません!」
「如何にも。その通り」
ミセス・シュヴルーズが言うと、オスマン氏は大きく頷いた。
「儂のつたない言い方で誤解させたが、生徒を巻き込むわけにはいかん。
ありがとう。ミス・ヴァリエール、ミス・ツェルプストー、ミス・タバサ。
気持ちだけ頂いておくよ」
ルイズは語気を強めて言った。
「気持ちだけだなんてそんな……私だって貴族です! 捜索隊に入れてください!」
「二度同じことは言わぬよ。ミス・ヴァリエール」
さらに食い下がろうとしたルイズの細い肩を、ホッパーが抑えた。何か言いかけたが、ホッパーが首を横に振ると、下を向いてしまった。捜索隊から外されたことがよほど悔しかったのだろう。肩が震えている。ホッパーは如何にして捜索隊からルイズを離脱させるべきか思案していたが、オスマン氏の素っ気ない一言によって難なく解決したのである。
「され、諸君。事の重大さが、まーだ伝わっておらんようじゃの。『破壊の杖』並びに『魔笛』…この二つははっきり言ってガラクタじゃ。懸念には及ばぬ。じゃが……」
と言って、オスマン氏は一瞬鋭い目を室内に向けた。
「『聖血』となれば話は別。『聖血』は宗教庁の奇跡認定こそ受けておらぬが、これは聖人の血という逸話がついておる。盗難の事実が明るみに出れば、我々は厳しい追及を受けるじゃろう。辞職で済まぬと言ったのはこのためじゃ。
先程は誰ぞが責任云々と連呼しとったが、生徒に責任を取らせるつもりかの? 君ら、それでも『貴族』かね?
ではもう一度、有志を募ろう。意志ある者は杖を掲げよ」
今度は教師全員が杖を上げた。
オスマン氏は鷹揚に頷いた。今度こそ、不毛な議論に及ぶ者はいなくなったのだ。
ホッパーは感心した。損得だけでない、相手の自尊心をも駆け引きに乗せて、会議を取りまとめた手腕は見事なものだ。一見して好々爺だが、実はかなりのやり手なのかもしれない。ともあれ、ルイズの暴走にお墨付きを与えることは防止できたので、ホッパーとしては充分な結果である。
「よし、よし。既に街道筋や近隣の村には人を遣って情報を集めておる。主に先生方には森の探索に当たってもらいたい。空を飛べる使い魔には連絡役をしてもらおうかの。危険が生じた場合はファイア・ボールを空に三度打ち上げること。
おおう、ミスタ・コルベールとミス・ロングビルは残るように。儂の補佐をしておくれ。
さて、具体的な編成についてじゃが――」
淡々と、オスマン氏は指示を出した。誰にどの役を負わせるか、またペアを組ませるかをすでに頭の中で算段をつけていたのだろう。よどみなくすらすらと方策を話していく。
「――説明は以上じゃ。出発は一時間後。質問はあるかね? ……では一度解散とする」
オスマン氏の言葉で、会議はお開きとなった。三々五々、深刻な顔をした教師たちが退出していく。
キュルケは不服そうな顔をしていたが、小さくため息をつくと部屋を出て行った。タバサもそれに続いた。
これ以上、居残っても仕方あるまい。ホッパーは改めてルイズを見た。
「…ルイズ」
「…………」
「…行こう」
「私だって」
小さな声でルイズは言った。
「私だって、『貴族』だもん」
「…この件は、ルイズ、俺たちの手を離れた。先生方に、まかせるのが……最善だ」
「いいえ。出来ることがまだあるはず」
「…引き際を、間違えてはいけない」
「引き際ですって? 馬鹿言わないで」
低く、抑えた声でルイズは言った。
「敵に背中を見せるのは『貴族』のすることじゃないわ」
ルイズはそう言い残すと、すばやく踵を返して部屋を出て行った。目に剣呑な光を宿していたのをホッパーは認めている。
――いよいよ、面倒だ。
なだめるつもりが、かえって意固地させてしまったようである。やはり自分は口下手だ。
――しかし……。
ルイズは冷静さを失ってはいない。本気でキレていたら声が震えるからだ。いましばらく軽率な行動は控えるとみてよい。差し当たってはフォローに回るとしよう。ホッパーもルイズのあとから歩き出した。
廊下に出て階段を下ろうとしたとき、ホッパーは妙な動きをする男を見た。階下にいたのは、恰好からして学院の生徒である。その妙な動きというのが、見ようによってはホッパーを見かけて、鉢合わすのを避けたように見えたからである。
というか、その背格好に見覚えがあった。先だって決闘で白黒つけた仲である。ギーシュだ。
ホッパーはルイズから離れ、足音を忍ばせて追いつくと、後ろから肩をたたいた。
「…久しいな。色男」
「な、な」
「…逃げただろう、ルイズを見て……それとも、俺か?」
「に、逃げたわけじゃないよ」
ギーシュは気の毒なほどうろたえていた。ホッパーは鎌をかけた。
「…モンなんとかの次は、ルイズがお目当てか」
「違うよ!」
「…そうか。……会議を、盗み聞きしたな」
「い、いやあ、偶然にだね」
「…聞いていたんだな」
「っ! 人聞きが悪いことを言わないでくれ。誤解されるじゃないか」
ギーシュはホッパーを、廊下の隅までに引っ張った。ギーシュはまだうろたえていた。
ミスター・チュートリアルは済ませたのでどうにかフーケイベントを消化したい今日この頃。