その日の夜、亀山が自宅に帰ってくると、リビングのドアのガラス越しに部屋の電気がついているのが見える。ドアを開けて部屋に入るとエプロンをつけた少年が笑みを浮かべながらキッチンから出てきた。
「あ、お帰りなさい薫さん。」
「おう、ただいま。なんだ、飯を作ってたのか?」
「はい。もうすぐで出来ますから、その前に風呂にでも入ってきてください。沸かしてありますから。」
少年の名は織斑一夏。彼と亀山は数か月前、とある事件で面識を持ち、それ以来一夏はこうしてたびたび亀山家を訪れるようになったのだ。
幼いころに親から捨てられ、ずっと姉と二人で暮らしてきた一夏にとって亀山夫妻の存在は幼少のころから知らず知らずのうちに胸の奥で望んできた両親の姿と重なっているのかもしれない。いずれにせよ、彼が亀山の事を慕っているのは事実だ。
亀山にとっても、この人懐っこく気配りのできる少年のことを気に入っている。お互いの相性も良かったのだろうが根の部分が似ている二人が信頼し合うのはある意味当然であろう。あるいは、子供好きでありながらも自身の子がいない亀山もまた、一夏に存在しない自分の息子を重ね合わせていたのかもしれない…
「ただいま~。あ~、疲れた。」
亀山が風呂から上がると、玄関先から声が聞こえてくる。亀山の妻である美和子だ。疲労困憊といった具合の美和子を一夏が笑顔で出迎える。
「おかえりなさい、美和子さん。どうもお疲れ様です。」
「あ、一夏君来てたんだ。薫ちゃんは?」
「今風呂から上がったところです。夕飯がちょうどできたところですけど、どうします?」
「うーん、ご飯からにしようかな。もうお腹ぺこぺこ。」
このやり取りからも分かる通り、美和子もまた一夏のことを気に入っている。たった数か月の付き合いではあるが、一夏は随分と亀山家になじんだものである。
「はいお待ちどう様です。今日はスズキが安かったからムニエルを作ってみました。」
そう言って一夏は席に座った亀山と美和子の前に皿を並べていく。黄金色に焼かれた魚の白味からは香ばしい香りが漂ってくる。
「お、うまそうだな。」
「ほんと、いい匂い。ねえ。一夏君、これってカレー粉を使ってるの?」
「はい。こうしたらおいしくなるって前にテレビでやってたんで。」
一夏の高校生離れした調理スキルに亀山夫妻は改めて感心する。亀山家を一夏が訪れるようになった当初は美和子が食事を作る機会が多かった。しかし、毎回のように張り切って美和子スペシャルを作ろうとするのでそのうち一夏が自ら料理を作ろうと志願した。当然亀山達はお客さんにそんなことをさせるわけには、と固辞したが、一夏は家族なら家事の手伝いをするのは当たり前と主張し夕飯を作ることを二人に認めさせた。
あとは推して測るべし。一夏が自分たちよりおいしい料理を作れることが分かった亀山夫妻は相談の末、一夏が家に来る時は夕飯の準備を一夏に任せてもよいという結論にたどり着いた。一夏も目の前でおいしそうに自分の料理を食べてもらえるのがうれしいらしい。
こうして温かい食事を囲む家庭ができたわけだが、黙っていれば三人の姿は本当の家族のように映るだろう。
「あっ!そういえば、この前美和子さんが書いた記事、見ました。」
食事中、ふと一夏が思い出したように声を上げた。それを聞いて亀山は目を丸くする。
「えっ、何か書いてたのか?」
「書いてたわよ。まったくこの亭主は…女房の働きをまともに見ないんだから。」
「薫さん、美和子さんはこの前社会面で大きな記事を書いていたんです。ちょっと待っててください。」
そういって一夏は席を立つと古新聞を積んであるところまで行き、そこから三日前の新聞を取り出すと亀山に差し出した。新聞の社会面を開くと、確かに亀山美和子が書いたとされる記事が載っていた。
「『学校社会における男女差別』か…」
その記事はとある高校で起きたいじめについてのものだった。それによると、その学校である女生徒グループが同じクラスの男子生徒を標的としたいじめを行い、男子生徒は自殺未遂を起こしたそうだ。幸い命に別条はなかったが、男子生徒は女性恐怖症となり、今も家の外に出られないという。学校側はいじめの存在を否定し、いじめを主張する男子生徒の家族に取り合わなかったという。この対応に怒った男子生徒の家族は警察に被害届を提出し、いじめを行っていた女生徒グループは補導され、学校は正式に男子生徒とその家族に謝罪したそうだ。
「最近は多いみたいよ。学校で女子生徒が男子生徒を苛めることが。学校も近年の風潮に影響を受けてまともに取り合わないこともあるとか。」
「なんつーか、ひどい話だな。」
亀山は4月に起きた事件のことを思い出し、顔をしかめる。記事の最後は男子生徒の父親へのインタビューで締められていた。
「『あの子たちのせいで息子は心に大きな傷を負ってしまいました。けど、なにより許せないのは息子が苛められることに気付けなかった自分自身なんです。私たちがもっと早く気づいていれば、息子は今でも元気に学校へ通えてたかもしれないのに…』か…。まったく、救われないな…」
「本当にそう…いじめを受ける方にも理由があるとかいうけど、被害者とその家族にとってはどんな理由があろうとも納得できないわよね。今回の場合は発覚したからまだよかったかもしれないけど、こんなのは氷山の一角なのよね。」
「なあ、一夏、お前の学校は大丈夫か?なんか嫌な女子に絡まれたりとかは…」
心配そうに亀山が聞くと、少し考え込むようなそぶりを見せた。
「そうですね…確かに男子をパシリに使おうとしたり、やたら男子を見下す女子はいましたね。」
「なっ!本当か!」
「ああ、でも今はそんなことはありません。最初のころは確かに気に入らないやつだったけど、同じクラスになってしばらく関わっていたらそんな事しなくなりましたから。今では仲のいいクラスメイトですよ。」
「そうなのか。まあ、根がいい子だったのかもな…」
実のところ、そのクラスメイトというのが更生した理由は一夏にある。彼女は一夏と関わっていくうちに、クラスメイト以上の感情を一夏に寄せるようになり、男子を見下すような真似を辞めたのだ。そのことを一夏自身は気づいていない。
というよりも、彼の周りでは男を自分たちより下だとみる女子は殆どいないのだが、察しのいい読者であればその理由はおのずと解ってくるだろう。ちなみに、亀山達が一夏のある特殊な体質に気づくのはもう少し後のことである。
それは、底冷えのする早朝の出来事だった。
IS学園の敷地内を山田真耶は冬の明け方の寒さに身を震わせながら歩いていた。来年度からこの学園で教鞭をとることになっている彼女は現在研修中の身である。しかし、今IS学園は入学試験を目の前に控えており、研修中の真耶も試験官として実技試験を行うことになっている。かつては代表候補生として名をはせたとはいえ、今の真耶にはブランクがあり、それは彼女の不安の種になっていた。そのことを候補生時代の先輩で現在はIS学園の教師を務めて居る織斑千冬に相談したところ、SHRが始まる前、早朝の早い時間ならアリーナでISを利用してもよいと許可を得られた。それ以来、真耶はまだ生徒どころかほかの教師の姿も見えない時間に校舎を訪れ、アリーナの鍵を拝借しISの機動訓練を行っている。
「あれ?」
職員室のある校舎の入り口が見えてきたところで真耶は前方を歩く人影に気が付いた。駆け寄ってみると、人影はこの学園で二人しかいない男性教師の片割れであることが分かる。
「おはようございます、杉下先生。」
「おや、山田先生おはようございます。ずいぶんとお早いようですが…」
「ええと、今度入学試験がありますよね。それの実技試験の試験官になったんでその練習をとおもって。」
「なるほど、そういう事でしたか。」
「杉下先生はどうしてこんな朝早くから学校へ?」
少なくとも男性である杉下は試験において大した仕事はなかったはずだ、と思い真耶は聞いた。すると杉下は自虐気味にほほ笑みながら答える。
「実を言いますと、家に買い置きしておいた紅茶のストックが切れてしまいまして。教官室にはまだあったはずなのでそれを取りに行こうと。」
「はあ…そうなんですか。」
こんな朝早くからわざわざ…、とは真耶の性格からいって年上の人間には言えない。
(杉下先生…少し変わった人なんですよね…)
真耶は前を歩く中年男性の後姿を眺める。
初めて杉下と亀山に出会った時、真耶はIS学園に男性教師がいたことに随分と驚いたものだ。そのうちの一人である亀山が初見では教師と思えないフライトジャケット姿だったのでなおさらである。
更に杉下には亀山とはまた別の意味で驚かされた。この数学者にも似た雰囲気を醸し出す男が体育教師であったこともそうだが、杉下は体育の授業をスーツ姿で行っていたのだ。しかもそのままの格好でかなりのスピードで走れるという。アラフィフの小柄な男性がスーツ姿で10代の女子高生を追い抜く速さで走る姿を想像し、真耶は何とも言えない気持ちになった。あまりにもシュールすぎる。
とはいえ決して怪しいだけの人物というわけではなく、授業は丁寧で生徒たちへの接し方も実にやわらかいとの評判である。
昨今は女性の顔色を窺い下手に出る男性も多いというが、杉下の女性への接し方はそれと違い相手のことを尊重しつつ決して自分を無闇に卑下しないものだ。いうなれば、杉下の女性への対応は紳士然としているのだ。
そういうわけで、生徒や教師からの杉下の評価はなかなかに良い。一部、男がIS学園で教鞭をとっていることに反感を抱いている者もいるそうだが、多くの者からは真面目で品行方正とした紳士とみられている。
中には杉下が独身であることを知り、密かに彼の隣を狙っている枯れ専の生徒や教師もいるとの噂である。
そうしたことを思い出しながら真耶が杉下の後を追う形で職員室まで向かっていると、突然前を歩いていた杉下が立ち止った。
「?どうしたんですか、杉下先生?」
「…山田先生、あれを…」
杉下は廊下の先にある階段の昇降口の部分をゆっくりと指差す。真耶が杉下の指さした先を見ると、そこには何かが横たわっている。
「ん?杉下先生…」
あれは…、と真耶が続けようとしたその時、杉下は猛然と倒れている物体に向かって走り出した。
慌てて真耶がその後を追うと、倒れている物体の輪郭が徐々に明らかになってくる。それがIS学園の制服を着た少女で、頭から血を流していることが分かるのに大した時間はかからなかった。
「っっっ!!」
言葉にならない悲鳴を真耶が上げる。その間、杉下は少女の口に手を近づけ呼吸を確認しつつ、手首を取って脈を確認していた。
「……まだ呼吸と脈はあります。山田先生、すぐに織斑先生に連絡して人をよこすようにしてください。」
「えっ!?そ、それよりも119番した方が…」
「一般の救急車では学園の敷地内に入れません。まずは医務室にこの子を移送するのが先決です。落ち着いて、教員寮に連絡し医療の心得がある人を呼んでください。」
「わ、わかりました!」
そういうと真耶は携帯の端末を取り出しあわただしく電話をかけ始めた。
杉下は少女に回復姿勢を取らせると素早くその身なりを観察する。すると急に立ち上がり、周りを見渡しながら何かを探し始めた。やがて階段の踊り場に目を向けると、そこに布状のものが落ちているのを見つける。
杉下は手袋をはめながら階段を上っていくと、その布を拾い上げた。
それは、IS学園の1年生の制服に付属している、青いリボンだった。