プロローグ
「どういうことですか!小野田さん!」
日本警察の象徴たる警視庁。その一室で一人の男が声を荒げ、目の前に立つ壮年の男に詰め寄っている。
声を上げた男は上背があり、体格もガッチリとしていてこともあってなかなかの迫力がある。気の弱い人間ならすくみ上って思わず許しを乞うてしまうような権幕だ。
だというのに、詰め寄られているもはや老人と言ってもおかしくない年齢の男は、まるで子犬にでも吠えられているかのように一切表情を変えず目の前の男の怒声を聞き流し、やや気だるそうに彼に告げた。
「だから言ったじゃない。本日付けで特命係は解散だって。」
「どうして!急にそんなこと言われたって納得できないっすよ。」
「別に珍しいことじゃないでしょ。普段からあまり仕事のない窓際部署をつぶすなんて。組織としては至極健全なことだよ。」
「…っ!そ、それは!」
亀山は反論の手段が思いつか唇をかんだ。
もともと、考えて動くより直感で動く方が性分の男だ。口喧嘩はどうしても分が悪く、更に相手は警察庁の妖怪ともいわれる切れ者。自分ではこの人を説得しきれないことは亀山が一番分かっている。
「右京さんも何か言ったらどうなんですか!特命がつぶされるんですよ!」
亀山はここまで無言の隣に立つ上司に向かって叫んだ。そこには理不尽に対し一切反論しない相棒への憤りだけでなく、この人なら何とかしてくれるんじゃないか、という願望が含まれている。
右京と呼ばれた男は自分と亀山しかいない部署が解散させられることを告げられてから目を閉じ、まるで考えを巡らせるかのように無言を貫いていた。そして、亀山の声に反応しゆっくりと目を開けると警察庁の妖怪に向けて口を開いた。
「官房長、あなたのおっしゃることは確かに理にかなっています。しかし、なぜ今更になってこのようなことをするのか?理由があればお聞かせください。」
「うん?理由は確かに言ったはずだけど、納得できなかったかしら?」
「僕はなぜこのタイミングかとお聞きしたんです。あなたが特命係を潰すおつもりなら、もっと早くできていたはずです。なぜ今なのか?こうしてぼくたちをわざわざ呼び出したからにはその理由を教えていただけるものだと思っていたのですが。」
右京がそういうと小野田は感情の読めないまなざしで右京を見た。
「お前はいつもめんどくさい言い方をするね。もっと素直になったほうがいいんじゃないかしら?」
「それこそ、今更というものでしょう。特に、あなたの口からとなると。」
そうしてしばらくの間、お互いに相手のことを探るかのように二人はにらみ合った。亀山には、口の中でつばを飲み込みその様子を見守ることしかできない。
先に口を開いたのは小野田の方だった。
「やれやれ、生意気な部下を持つと苦労するよ。解散の理由についてはまだ詳しいことは言えないけれど、次の配属先が分かれば自然とたどりつくんじゃないかしら?お前たちならね。」
「あくまでもお教えしていただくことはできないと?」
「僕にも立場というものがあるから。ま、お前たちならうまくやるでしょ。」
小野田はそういうと話は終わりとばかりに二人を部屋から追い出した。
「やっぱり納得できないっすよ!一方的に解散だなんて。おまけにまともに理由さえ教えてもらえないんすよ。」
特命係…いや、今や元特命係となった自分たちの部屋に戻ってきても亀山は荒れていた。
小野田の口ぶりから何かしらの理由があっての解散であることは理解できる。それでも、決して短くない年月を過ごしてきた部署だ。愛着だってあるし、理想のとまではいかなくとも尊敬できる上司との思い出も存在する。
亀山には小野田の決定が理不尽なものに思えてならなかった。だというのに彼にとっての相棒は部屋に戻ってきてから呑気に自分で入れた紅茶を飲んでいる。それが余計に亀山の神経を逆なでした。
「右京さん、紅茶なんか飲んでいる場合ですか。特命係がなくなっちゃうんですよ。」
「特命係がなくなるのはこれが初めてではないですからねえ。それに官房長も言っていたではありませんか。今は理由は言えない、次の配属先を知ればおのずと解ると。官房長のことですからそう遅くないうちに辞令が来るでしょう。それまでは気分を落ち着け、配属先が分かってから考えをまとめるのが得策だと僕は思いますよ。」
杉下右京の言うことは最もだ。亀山はそうわかっていながらも胸のうちのもやもやは簡単には消えない。それでも、自分の席に腰を下ろし自分用のコーヒーを入れて何とか心を落ち着かせようと努めることができた。亀山も決して子供ではないのだ。
そうしていると、部屋の入り口の前に見慣れた黒縁眼鏡とベストが見えた。組織犯罪対策部組織犯罪対策第5課長の角田だ。
「よっ、暇か。」
いつもと同じセリフを吐いて入ってきた角田を亀山は恨めし気に見やる。
「ええ、大変喜ばしいことに今さっき暇にされてきたばかりですよ。」
「あら、だいぶ荒れてんね。これは噂は本当だったかな。」
「…噂というのは特命係が解散されるというものでしょうか?」
手に持っていたカップをデスクに置き右京がそう聞いた。
「そう、それだよ。もう本庁内はその噂で持ち切りだよ。ついに警部殿たちがやらかしたとか、知ってはいけないことを知ってしまったとか。」
「チッ、勝手なことばかり言いやがって。」
亀山は手元にも凝っていたコーヒーを一気飲みした。本人の努力の甲斐もなく彼の荒れた心は癒えることはなかったようだ。
「ところで角田課長、手に持っている封筒はいったい何ですか。見たところ僕たちに宛てたもののようですが。」
右京が指摘すると角田は、そうだったそうだった、と言って二つの茶封筒を杉下と亀山にそれぞれ渡した。
「これ、辞令書。なんかあんたらに渡してくれって頼まれちゃって。」
「頼まれたって…。なんで課長がそんなこと頼まれてんですか。」
「うーん、まああれだよ。あんたたち署内で浮いてんじゃん。あんま関わりたがる人はいないんだよ。」
亀山はそれを聞いて特命係が陸の孤島や人材の墓場と言われていた事を思い出した。今でこそ亀山が杉下の相棒を務めているが、それ以前は何人もの人間がこの部署に配属してみな短期間のうちに警察を辞している。
おまけに杉下という男は持ち前の正義感から、時として警察組織の枠は外れた動きを行うので捜査一課の捜査員や一部の幹部からひどく疎まれている。
そうしたことが合わさって特命係に関わろうとする人間は署内には一握りしかいない。
それでも俺たちは己の正義を信じて頑張ってきた。亀山はそう思うと悔しくて仕方がなかった。自分たちは確かに警察官としてははみ出し者かもしれない。しかしそれは、犯罪被害者、そして、犯罪者たちの更生を思い、あくなき真相の追及を貫いたゆえの行動だった。特命係に来なければ一生気づかされなかったかもしれない真理も触れた。しかし、特命係は今日を持って解散される。その事実が亀山の目頭を熱くさせた。
「亀山君、君の封筒の中身を確認していただいてもいいですか。たぶん、ぼくのに書かれているのと同じようなことが書いてあるはずです。」
亀山がセンチメンタルになっている間、右京はさっさと自分の分の封筒を開けるとしばし無言でその内容を確認していたが、やがて顔を上げて亀山にそう声をかけた。
亀山は、どういうことですか、と聞こうとしたが杉下に促されて封筒の中身を取り出し眼を通した。そして、驚愕で目を見開いた。
「右京さん!これって!」
「その様子からするとどうやら僕たちの配属先は同じところのようですねえ。」
右京は再び手元の令状に目を落とした。
そこには国立特殊専門学校IS学園に出向する旨が書いてあった。