魔法少女まどか☆マギカ [新編]救済の物語(完結) 作:曇天紫苑
もう、何分ほど歩いただろうか。少なくとも、私の家から中学へ行くまでの距離よりは遙かに遠いだろう。
「遠いな……」
杏子の独り言が示す通り、此処は見滝原の端だ。通り過ぎた案内板には、風見野が矢印で示されていて、見滝原と風見野の境界線が限りなく近づいている事を現していた。
ケンナへの尾行は続いているが、この人気の無さから、距離は相応に取らざるを得なくなっていた。最低でも、唐突に振り向かれても気づかれない程度の距離だ。
魔法少女の目でなければ、その背中は遠く、小さく見える。必然的に追跡の難易度は上がっていたが、幸い、彼女は道を直進している。
こちらはまだ気づかれていないのか、ケンナはずっと同じペースで歩き続けている。私達も、尾行を始めた頃よりは安定して動く事が出来ていた。
「なあ、遠過ぎないか……?」
「それに、人通りも相当に少ないわ。こんな危なそうな所に住んでいるなんて……」
周りを見回して、つくづくケンナには似合わない場所だと思う。余り目立つ建物も無く、人気も殆ど無い。こんな所に住んでいるのだろうか。
照明も少ないので、この辺りで暮らしているのであれば、夕方であっても危険に思える。彼女は優れた魔法少女なので、大抵の事は完全に防ぐだろうが、それでも怖い思いをして欲しくはない。
これは、本当に私の家へ住んで貰った方が良いんじゃないだろうか。私の願望を抜きにしても、そう思う。
「杏子、どう思う?」
「どう、って何だよ?」
「だから、彼女がこの辺りに住んでいるのか、どうかよ」
少し考え込んだかと思うと、杏子は首を捻った。
「微妙だな。確かに距離的には遠いのは遠いけど、だからって誰にも家の場所を教えない、ってのは変だ」
「私も、そう思うわ」
「何かしら、家庭に事情が有るのかもしれないぞ……あたしみたいにな」
言葉尻は微かな音にしかならなかったが、聞き取れた。昔を懐かしむ様な態度を見る限り、杏子にとって昔の出来事は殆ど吹っ切れた物であるらしい。
さやかというパートナーが居る為か、それとも別の何かが有ったのか。それは分からないけれど、力強さは昔の比ではなかった。
「貴女、よく立ち直ったわね」杏子の過去は聞いていたので、賞賛も素直に口にする。
「過去を捨てても、過去は追いかけてくるのさ。だったら、それを飲み込んで進むしか無いだろ」
「……私には、到底届けない考え方よ」
彼女の事を羨ましく感じている自分が居る。今も、私はまどかの存在に縛られているという自覚が有るし、それを解こうとも思わない。
けど、そんな風に過去と折り合いを付けて生きていける杏子の姿は、私には眩しい物だった。
「貴女は素敵な人だと思うわ、本当に」
「な、何だよ急に」
「気にしないで」
戸惑う姿を人間的で好ましいと思いつつも、そういえば、まどかが杏子と知り合った世界では、大抵二人は仲良くなっていたわね、と記憶を探り出して懐かしい気分になった。
ところで……
「ところで、気づいてる?」
「ああ……」
尋ねてみると、杏子は今までの表情を捨てて、真剣な面持ちで頷いた。
何時の間にか、その手にはソウルジェムが握られていて、何が有っても良い様に準備されている。単に追跡を続けるだけなら、そんな警戒は必要無い。けど、私達には、それをする理由が有った。
「あたしらを、尾行してる奴が居やがる」
そう、先程から、私達に対して視線を向けてくる存在が居た。私達の居る場所から背後へ十数メートルの距離を常に保ち、隠れながらも近づいてきているのだ。
明らかに、こちらを追跡している。こちらが気づいている事には気づいていないのか、その気配は割に大胆な物だった。
最初は気のせいかとも思ったが、こうもピッタリ距離を取った状態を維持しているのだから、間違い無く私達を追っているんだろう。ケンナを追うという目的を優先したので今まで無視していたが、その視線の強さは、いい加減に放置しておけない程度の物となっている。
相手は、恐らく魔法少女だろう。ほんの微かだが、魔力の反応を感じる。どうして私達の背後に付いて回るのかは分からないけど、少なくとも視線は友好的な物ではなかったし、漏れ出す気配からは敵意に近い物を感じた。
何か有る。杏子もそう思ったのか、警戒を深めている。それでいてケンナを尾行する事から意識を逸らしている訳ではない。
どう対応するべきだろうか。私にあの魔法が有れば、即座に対処出来る所なんだけれど、今は持っていないから不便で仕方が無い。
「おい、ほむら」
ケンナと、こちらを追っている者。その両方に意識を裂いていると、杏子がこちらの肩を叩いた。
「何」
「あんた、不意打ちには自信有るか?」
「……そこそこに」
言わんとする所を理解して、少し迷う。
背後の者がケンナを追っている、という線も有ったが、それならそれで好都合だと気づいた。彼女の事情を知っている可能性が有るのだから。
とはいえ、何の関係の無い一般人という可能性もゼロとは言えない。ケンナに気づかれない様に、ひっそりと動かなければ。
杏子に向かって頷くと、彼女もまた頷き返す。
目配せをして、タイミングを計る。片手にソウルジェムを持ち、口の動きだけで秒数をカウントする。
3……2……1、と音に鳴らな口にした瞬間、私達は素早く振り返り、全力で気配を殺しながら、最小限の魔力で背後へと攻撃を仕掛けた。
魔力を絞ったと言っても、杏子と私の攻撃だ。気絶させる程度の威力は有る。それに、私は固有魔法を失った分、その力を他の部分へ割り振っているので、速度もかなりの物が有ると自負している。
だが、キィン……という音が鳴り、私の矢と、杏子の槍、その両方が簡単に弾き飛ばされた。
それと同時に、一本の剣を持った人物がこちらへ向かって怒りの声をあげた。
「っ……っ! あっっぶなぁ! ちょ、何すんのもう!」
微妙に冷や汗を浮かべつつ、こちらへ大声で抗議しながら近づいてくる青い髪の持ち主。それはどう見たって。
「さ、さやか?」
杏子の声を耳にしながら、私は美樹さやかの顔を凝視していた。
何故、彼女が此処に。それに、さっきの一撃は威力こそ低かったけれど、美樹さやかの技量なら十分に当てられる物だった筈なのに。
彼女は、魔法少女には変身していなかった。片手で剣を握っているだけで、格好はあくまで見滝原中学の学生服だ。こちらの攻撃に反応して、剣だけを素早く実体化させたんだろう。
「何やってたんだか、普通攻撃してくる?」
「そりゃ、お前……後を付けられたら気になるだろうが」
「ケンナの後を付けてた奴に言われたくないないね」
「ぐっ……まあ、そうだけどよ……」
杏子が会話をしている間に、私はケンナの追跡を再開しようと身体を回す。さやかの事は気になったが、後回しだ。
だが、ケンナは姿を消していた。私が彼女から意識を逸らしていた時間は十秒にも満たないというのに、彼女はすっかり居なくなっていた。
逃げられてしまった。それを認識すると同時に、美樹さやかへの理不尽とも言える怒りが沸いてくる。貴女は、何時だって私の邪魔を……
「貴女、どうして此処……」
不満混じりの言葉が、口を突いて出る。
「まったく。ケンナを尾行するなんて、何を考えてるんだか。あいつが『まどかっぽい』のは分かるけどさぁ。だからって追いかけて探ろうなんて、流石にどうかと思うよ、割とマジに」
「聞いてたなら何で止めなかったんだよ。危うくお前に怪我させる所だったじゃねえか」
「いやぁ、適当な所で切り上げさせようと思って」
「に……!?」
けど、文句を言い終わる前に、横から聞こえた会話の中に含まれた単語を聞いて、頭の中が真っ白になった。
一瞬で爆発した思考の波が一気に熱を帯び、マグマよりも遙かに強い熱さとなる。感情が高ぶり、意識は燃えて、自分という存在すらやけ焦げてしまいそうな程に、興奮する。
頭がスパークし、雷よりも遙かに大きな衝撃と光が、私の感情を激昂したかの様な状態にした。
「あなた……『まどか』と言った?」
空耳かと、私の妄想が生んだ気のせいかとも思った。でも、その単語を私が聞き逃す筈がない。ただその名を聞いただけで、魂が燃え尽きる寸前にまで到達してしまったのだから。
「確かに、『まどか』と言ったわね……あの子の名前を、呼んだわね!?」
気づけば、私の声は相当に大きな物となっていた。自分でも止めきれない波が、勝手に私を喋らせる。
突然大声をあげたからか、杏子が驚いて目を見開いた。美樹さやかは……一瞬だけ「しまった」と言いたげな顔をしたかと思うと、目を逸らした。
「え、何の」
「とぼけないでっ!!」
喉がおかしくなる様な声が出た。裏返った声音は相当に切羽詰まった物で、むせ込みそうになる。
でも、そんな事はどうでも良い。何よりも重要なのは、美樹さやかが何かを知っているという可能性だった。
「まさか、美樹さやか、貴女は……!!」
まどかの事を……覚えているの?
そう言いたかったのに、途中で声が止まる。何故か、それを言うのは酷く躊躇われた。その決定的な言葉を口にする事が出来ない。
「……ああー、そういう」
私を見ていた美樹さやかは、何かを理解した様子となった。その態度に何らかの感情を覚える事すら、今は無い。ただ、沸騰した湯の様にまどかを思い浮かべている。
「な、なんだよ。どうしたんだよ、『まどか』って」
私が変貌した為に、杏子が戸惑っている。
でも、彼女が首を傾げながら口に出した言葉は、私の心を抉り蹂躙した。
心臓が止まるかと思うくらいに心の苦痛が走り、泣きたくなる。その姿を目にしたさやかは目を細めて、何かを見極めようとでも言うかの様な顔をする。
一体、私の何を知ろうとしているのか。そんな疑問の中で、さやかは淡く微笑んだ。
「あたしが先に気づかれるなんて思わなかったけど……そうだね、あたしは確かに、まどかを知ってる」
「あなたはっ……!」
大きく頷きながらの言葉は、私に命中した。私以外の誰かが『鹿目まどか』の名を口にしただけで、それが彼女の親友だった美樹さやかだというだけで、頬が熱くなるくらいの喜びが沸き上がる。
それと同時に、不審感を覚えた。彼女がどうしてまどかを覚えているのだろう。覚えている筈が無いのだ、この世界に、彼女は居ないのだから。
でも、美樹さやかなら覚えていても不思議ではないかもしれない。まどかと彼女は、羨ましい事に絆で結ばれている。
私の視線を受けて、美樹さやかは不敵にすら見える表情となる。それは私の知る美樹さやかとは異なる、底の読めない複雑さを感じさせた。
「覚えてるんだね。まどかの事」
「ええ、覚えているわ。この世界で、覚えているのはただ一人……ただ一人だと思っていた」
私達は、杏子を挟んで対峙する。何の説明もされないまま、杏子が珍しくオロオロと行動を迷っている間で。
「だけどっ……」
「だけど?」
「美樹さやか。貴女は、どうして彼女の事を覚えているの? いいえ……あの、環之小鳥ケンナは、誰?」
私は、全力の意志を込めて問いかけた。
まどかを覚えている彼女なら、間違いなく、あの環之小鳥ケンナが何者なのかを知っているかもしれない。現に、彼女はケンナを追う私達を監視していた。
知らなければ。私は知らなければならない。どうしてそこまで知ろうと必死になるのかは分からなくても、私は全てを賭けてでも彼女の……『この世界の正体』を知らなければならない。
「それは、本人に聞きなよ」
答えを渇望する私に対して、美樹さやかの返事は酷く素っ気ない物だった。
言葉を失う私に向かって、美樹さやかは口元に残酷な物を浮かべる。
「ケンナの事、気になってるんでしょ? じゃあ、どうしてケンナに聞かないの? 尾行なんてしなくても、『鹿目まどかを知らない?』と言えば良いだけなのに。どうして、そうしないの?」
「それはっ……」
「代わりに、答えを言ってあげようか」
思わず言葉に詰まった私に向かい、見透かした様に瞳を合わせてくる。そこに含まれた意志が、私を一歩引かせる。
「あんた、『鹿目まどかなんて知らない』って他人から言われるのが、怖いんでしょ」
「……っっ!?」
自分でも言葉に出来なかった、いや、目を逸らしていた感情を叩き付けられて、一瞬だけ意識が真っ白になる。
さやかの、言う通りだった。
それを見て取ったんだろう。美樹さやかは何処か呆れと哀れみの籠もった様子で、息を吐いた。
「格好付けてるけど、見た目より臆病だよね。あんたってさ」
「あなたにっ、言われたくはないわ……!!」
「はは、あたしの知ってる暁美ほむらは、美樹さやかに図星を突かれたくらいで、そこまで怒る奴じゃ無かったと思ったけど」
私の怒気を受けても、彼女は欠片も動揺しなかった。むしろ軽く受け流し、反撃の言葉まで向けてくる。
余裕を失った私に対して、美樹さやかの方は全く動じない。何度も彼女の姿を見てきた私にとって、それは不気味にすら思える程の違和感だった。
「貴女、本物の美樹さやか……?」
「失礼な。あたしはあんたも知っての通りの美樹さやかだよ。他の誰に見えるっての?」
見せびらかす様に、頬を膨らませてくる。
子供っぽく怒る所は、記憶の中の美樹さやかと確かに一致していた。しているが……彼女は、こんなにも異質だっただろうか?
絶対に、違う。私には、目の前に居る美樹さやかが、本当に美樹さやかなのかが分からなくなっていた。
警戒心で身を固めた私を見つめつつも、美樹さやかは自然体だった。その奥に、何かが隠れている気配を漂わせていたとしても。
「……まあ、臆病だって言うのは失礼だったかな。あんたのまどかへの気持ちは、それくらい深いんだろうし。辛くて痛い気持ちは、分からないでもないけど。でも……」
でも、と、そこで言葉を止めて、美樹さやかは私をじっと見つめる。
負の感情が混じった視線だったけど、私にとっては慣れた物だった。そう、不審感や、疑念。そう呼ぶべき感情を美樹さやかから浴びせられるのは、慣れていた。
「あんた、どうして……いや、これはあたしの聞いて良い事じゃないかな」
何かを聞こうとした様だが、美樹さやかはすぐに首を振る。何を言おうとして、何を止めたのか。
『聞いて良い事ではない』とは、どういう意味だろう。私には、一つたりとも伝わって来ない。
そして、美樹さやかも私へ何かを伝える気は無いのだろう。
「あたしを頼らずにさ。自分で聞きなよ、その方がずっと良い。そうでしょ、『転校生』?」
この世界では聞かなかった、あの敵意や隔意の有る呼び方。
それを久しぶりに聞いて、私は安堵を覚えていた。
まどかを助けようとしていた時の、あの悲しみも痛みも、他者から遠ざけられる苦しみも、今となってはまどかの居た証拠として胸に刻まれている物なのだから。
(ああ……)
私の動きが完全に止まった事を見て取ると、美樹さやかは笑みを浮かべ、杏子の手を取った。多少強引だったが、そこには深い信頼関係が見えた。
「さあ、杏子。帰ろうよ」
引っ張り込む様に、杏子を連れて私から背を向ける。
それまでの不気味さを完全に四散させて動く姿は、私の存在を忘れてしまったかの様な、酷く軽い物だった。
「おいさやかっ、まどかって……」
「いーからいーから、さーさー」
状況が全く理解出来ていない杏子を連れていく。杏子の方も強く抵抗している訳ではないので、それは杏子にとって不快ではない様だ。
呼び止める気も起きずに、私は彼女達を見送った。ケンナの尾行に失敗した事も、今は気にならない。
美樹さやか、まどかを覚えている存在。彼女は何を隠しているのか、この世界の何を知っているのか。私には知らない何かを、彼女は知っている。
そこに思いを馳せようとした時、頭に酷い痛みが走った。
「っ、っう……!?」
思わず頭を押さえ、身体を黙らせようとする。魂が直接痛みを覚えている様な感触だった。
正体不明の痛みと戦っている内に、私はその奥から何かのよく分からない物を引き出していた。
美樹さやかの声に聞こえる。いや、まどかの声だろうか。自分の頭の中で砂嵐が起きた様に、理解不能の何かが蠢いている。
「何、だって言うの……!!」
まどかを覚えている美樹さやか、それだけでも十分に謎だというのに、まどかに似ている環之小鳥ケンナに加えて、謎の頭痛を持つ私。
「私は……まどかの居ない世界で……戦いを……」
前にも、こんな場所に居た気がする。まどかの居ない世界に居た気がする。しかし、それが何だったのかは分からない。
何がどうなっているのかすら分からず、気づけば、私は頭を押さえたまま自宅へ向かって歩いていた。
+----
「~♪」
巴マミは新しく買った紅茶の銘柄を腕に抱えて、鼻歌混じりに歩いていた。
同年代からは大人に見られる彼女も、人通りを行く時は年齢相応の少女である。肩の力を抜いて歩く姿を注視する者も居らず、また、誰かが特に彼女へ視線を注ぐという事も無い。
彼女が魔法少女で、この町を魔獣から守っているなんて、誰も知りはしないのだ。
「……あら?」
そんな彼女の足が、ある一点で止まる。家と家の間、そこにある、人が二人くらいしか通れないであろう小さな路地に。
「ケンナさん……?」
巴マミは視線を路地の奥へ向け、そこに居る人物の名前を口にした。
作り物めいた容姿と、強い素質を持つ魔法少女。そんな可愛い後輩に声をかけようとした彼女だったが、そこに他の誰かが居る事に気づいて口を噤む。
彼女の魔法少女としての目は、その先に黒い服を着た少女の姿を捉えていた。喪服にも似た服を着込んだ少女だ。可愛らしい姿と言えるが、不気味さも感じさせる。
どうも気になったらしく、巴マミは物音を立てない様に近づいて、二人の姿をより近くで見つめた。
その少女はケンナに怯える様に後ずさりをしていた。
ケンナが、一歩近づく。すると、少女は二歩逃げた。
ケンナが、手を伸ばす。すると、少女は身体を引いた。
ケンナが、頷く。すると、少女は首を振る。
ケンナが、また一歩近づく。すると、少女は逃げようとして、自分の背中が壁に当たった事に気づいて、震えた。
それを見ていた巴マミの脳裏に浮かんだのは、「子供を虐めて楽しむ後輩」などではなく、「化け物が哀れな人間を貪り食う姿」だった。
少女を助けなければ。巴マミはそんな使命感を覚え、助けようと足を踏み出したが……一歩目で、動かなくなった。
ぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっ
そんな、不気味な音にも似た何かが広がる。
それが環之小鳥ケンナという背の高い少女の身体から漏れた音だという事に気づいた巴マミは、息を呑んで声を必死で止める。
存在が知られれば、大変な事になる。歴戦の魔法少女ですら、恐怖を止め切れる物ではない。
彼女に気づいているのか、気づいた上で放置しているのか、環之小鳥ケンナの身体から、黒い何かが沸き出す。
ぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっ
戦闘時には、必ずと言って良い程に見せる固有魔法。勿論、一緒に戦っている巴マミは見た事が有った。だが、彼女のあらゆる全てがその魔法から意識を逸らさせる。
それは最早、人という形を持つ存在が見せて良い力ではなかった。黒はケンナの身体の大半を覆い尽くしていて、まるでそれ自体が何らかの生物であるかの様に蠢いている。おぞましくも混沌とした影は、色という意味では単色であっても、そこに含まれた意味は無限に存在している。それほどまでの異形だというのに、不思議に恐怖よりも畏敬の念を与える所が、何よりの恐怖の対象だった。
あれは、獣だ。人を喰らう獣だ。魔獣を食する時は頼もしい力だろうが、ゆっくりと少女に迫る姿は、ひたすらに恐ろしい物だ。
環之小鳥ケンナの固有魔法であり、日常生活でも物の収納に使える便利な魔法。今のこの瞬間までそう考えていた巴マミは、それがどれほどに浅く温い考えだったかを理解した。
環之小鳥ケンナの身から伸びた影が、手にも似た物を作り出し、その両手と思わしき場所から黒い球体が作り出される。
「Got i……!」
その黒い球体は、黒い服を着た少女を飲み込んだ。外国の言葉を漏らした少女の声は、その意味など全く分からなくとも、また、発せられた物がそんな意味の言葉では無くとも、助けを求める絶叫に等しかった。
為す術などは一つも無く、少女の姿は瞬く間に消える。野生の獣であれば、貪った後の肉や骨が残るだろう。だが、飲み込まれてしまった少女はその存在の痕跡を一つたりとも残さない。
ぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっ
「この子はオクビョウ、だね……ふふ、また一つ。ほむらちゃんを知っちゃった」
そう言いつつ、ケンナはちろり、と舌を出す。その仕草はまるで、補食を終えた獣の様だ。仕草自体は愛らしい筈なのに、それは尋常ならざる恐怖を演出する。
この場から逃げねば、それは死よりも恐ろしい目に遭う。巴マミの第六感は、必死で逃亡を進めていた。だが、彼女の身体は恐怖の余り竦み、一つも動かなかった。
「あれ、マミさん」
振り返り、今気づいたとばかりにケンナは目を丸くした。その身体からは今も呪いに似た気配が充満しており、影は蠢きを止めない。
「そ、その、ケンナ……さん?」
「良い所に来たね、マミさん」
ケンナの顔に笑みが浮かぶ。しかし、それは周囲の者達が見慣れた物では決して無く、むしろ、余りにも忌まわしき悦楽で見た者を狂わせる笑顔であった。
ぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっ
「ひっ」
巴マミの喉からひきつった声が漏れた。その声にケンナは少し眉を顰め、ほんの僅かだが、自虐的な物をそこに含めた。
だが、そんな彼女の変化に巴マミは気づかない。あるいは、暁美ほむらなら気づいたかもしれない。その表情に、悲しみが隠されている事に。
「マミさん、貴女に、会って欲しい人が居るんです。だから……」
ちょっと、ごめんなさい。そんな言葉を口にした彼女の行動は、素早かった。
瞬くより早く溢れた黒がその路地全てを覆い尽くしたかと思うと、路地全体に球体が現れ、一気に巴マミへ迫る。最早、速さでは表現の出来ない極地とでも言うべきだろう。
そんな物に抵抗する事など、出来る筈も無い。悲鳴を漏らす暇すら与えられず、巴マミはその影に飲み込まれた。
「……結構、傷つくよね。憧れの先輩に怖がられるの、って」
その場にたった一人残ったケンナは、巴マミが居た場所を見て、ポツリと呟いた。
何処か切なげな声の使い方は、聞く者が聞けば、別人だとすら思えるだろう。
「あ、あら……私、何を……?」
目を覚ました巴マミは、自分が路地の壁に寄りかかっている事に気づいて、首を傾げた。
腕の中には紅茶の葉が有り、買い物帰りだという事を窺わせる。汚れ一つ無い服は、彼女の性格を表現している様にも見える。
路地には、彼女以外は誰も居なかった。黒も、少女も、ケンナも。影も形も無い。
記憶が途切れているのか、巴マミは軽く頭を押さえて、思い出そうとした。
「えっと、そう。確か私……そうだわ。『ワルプルギスの夜』が見滝原に……」
何かに思い至ったらしく、彼女は目を見開いた。
それまでに起こった事実とは、全く異なる物だ。だが、彼女は確信を得た様子で、自分の記憶をまるで疑っていない。
ワルプルギスの夜、この世界には存在しない筈の単語を口にした事に対しても、彼女は全く動揺を起こさなかった。
「……作戦会議をしないといけないわね」
魔法少女としての冷静さを胸に宿して、彼女は戦士らしく凛々しい表情を見せた。だが、そこから人通りの多い道へと出た時には、相応の柔らかさを帯びていた。
「~♪」
路地から出た彼女は、また紅茶の葉が入った箱を抱き、鼻歌混じりに道を歩く。
その顔には、つい先程の出来事など一つも残されていなかった。
-解説-
黒とか影とか言ってますけど、一応これはイヌカレー空間です。あはは、文章上じゃ表現する事が不可能だと思ったので、諦めちゃいました。
執筆完了したので、此処からは一日一投稿です。