「田中、起きろ。おい、聞いてるのか。 田中周五郎!」
誰だ、この俺を呼ぶのは、と周五郎はぼんやりと考える。
「起きろと言ってるんだ」
ガクっと急に頭の支えがなくなる。バランスを崩した周五郎はそのまま床に頭からぶつかる。
「うぎゃあ?」
突然の激痛のせいで、周五郎の口から意味不明な言葉が出る。目の前をみると、物理の先生であり、周五郎のクラスの担任でもある藤下が、周五郎を睨めつけていた。
何回呼んでも起きない周五郎を起こすために、彼の頭を支えている机を動かしたのだ。
「うーん、おはようございます、先生」 周五郎は頭をさすりながら、挨拶をする。
(ところで、俺ってなんで家の、ベットで寝てないんだっけ)
「おはようございます、じゃない。 聞けばお前、一時間目の授業から、昼飯も食わずにずっと寝てるらしいじゃないか。どこか体調でも悪いのか?」
藤下はショートカットの髪型で、知的なメガネをかけている男の先生である。年齢は、だいたい30代前半。なんでも、学生時代は物理学の教授を目指していたらしい。名古屋大学から、そのまま大学院まで進み、その後諦めたそうだ。
怒ると怖い教員で、生徒指導部もやっているが、普段は生徒想いのいい先生である。音楽部の顧問もやっている。
そんな彼が周五郎の方を心配そうに見つめている。それはそうだろう。体力に自信のあるはずの高校生が、飯も食わずにずっと寝ている。かなり異常な事態だ。
「今何時間目の授業です?」
藤下の質問には答えず、逆に質問で返す周五郎。
そんな失礼な態度の周五郎に、藤下は特に気にした様子もなく、
「七時間目だよ」 と答えた。
「ふぇ?」
周五郎はこれまた、すっとんきょうな声をあげる。
ここでやっと周五郎の意識が、覚醒してきた。
(ああ、そうだ。確か朝に詩織にぼこぼこにされて寝ちまったんだ。てことは……七時間も寝てたのか)
時計を見ると午後三時三十分である。
これは寝てたというよりは気絶じゃね、と思いながらもどうやって誤魔化そうか考える周五郎。
「すいません、先生。昨日、とても難しい物理の問題を考えてまして。それで、あまり寝てなかったんです」
それを聞いた藤下は感心したようで、
「そういうことか。私も学生の頃はそういうこともよくあった。しかし、あまりやり過ぎはよくないぞ」
よくあったのかよと内心でツッコミをしながら、爽やかな笑みで、
「はい、ご心配かけてすいません」と周五郎は答える。
藤下は安心したのか、また前に戻って授業を始めた。
クラスを見渡すと、ほとんどの人が呆れた顔でこちらを見ていたが、詩織はごめんねと手をあわせている。
周五郎は、詩織に今度なんか奢れと口パクで、詩織に伝えるのであった。
「悪かったてば。ちょっと強く叩きすぎたわよ」
物理の授業後、周五郎の元に詩織が謝りに来た。
「今度ケーキ三個奢れよ?」 周五郎は頬を膨らませて、小さな子供のように言う。
「あ、あの周五郎、来月じゃだめ?」 詩織がぺろりと舌を出す。
「はあ? どーゆーことだよ」
「いやー、今月お小遣い使っちゃってさぁ」
「ミッツー、どう思うよ?」
「これはさすがに酷いね」 あはは、とミッツーは呆れた笑みを見せる。
「だから、ごめんって言ってるじゃない!」 詩織は周五郎を睨み付けながら、大声で謝る。
「はあ、しゃーねーな。じゃあ来月まで待ってやるから、その代わり3個じゃなくて6個な?」
「あんた、そんなに食べるわけー? 太るわよー」
「ほっとけ。他に文句でも?」
「いいえ、まったくー」 と詩織手をぶらぶらさせる。
(まあ、そんなこんなで、そろそろST が始まってそれが終れば帰れるわけだが……。まだ、俺はもうちっと頑張りますかー)
そんなことを考えていると、担任である藤下が教室に入ってきて、
「よーし、お前ら席に座れー。ST 始めるぞー」
藤下が色々なことを話している間、周五郎はなんでST なんて言うんだろう、と関係ないことを考えていた。
ST 、short time のことである。しかし、なぜ朝と帰りに担任が色々喋るこの時間がそんな風に呼ばれるのか、と周五郎はぼんやりと考える。
「……委員は視聴覚室まで行くように。えーと……、あとは言うことないな。よし、じゃあ帰りの挨拶」
「起立、礼、さようなら」
いつの間にかST が終わり、室長の小杉が帰りの挨拶をすると、すぐに周五郎は荷物を持ってとある場所に向かう。
その場所とはトイレである。
別に周五郎が尿意をもよおしたわけではなく、勿論便意でもない。ではなぜトイレに向かったかというと……。
小杉の靴箱にいつラブレターを入れたのか、これを考えたときに大きく分けて二つ可能性がある、と周五郎は考えていた。
一つ目の可能性は朝に、小杉より早く学校に来て入れる場合。
この場合、小杉が学校に来る朝7時より前にラブレターを入れたことになる。
二つ目の可能性はST が終わった後に入れた場合。
というのも、音楽部は最終下校時刻を過ぎても、部活の練習をすることがあるので、音楽部の人間はST が終わるとすぐにスリッパを靴箱に入れ、靴を持って音楽室にいくのだ。
ちなみに、音楽室の前に段ボールが敷いてあり、その上に靴をのせている。
この場合、ラブレターを入れた人間はおそらくこうしたのだろう。
仮にこいつをAとすると、まずAはST が終わるとすぐに人目の付かないところ、そう、例えばトイレに隠れる。
20分程待てばおそらく、みんな部活なり、帰宅なりで、校舎にいるひとは極端に減る。勿論音楽部の連中は既にスリッパを靴に交換した後だろう。後は隠れている場所から靴箱に向かい、ラブレターを入れて、自分もスリッパから靴に変えてそのまま、帰るなり、部活に向かえばいい。部活なら、「腹が痛くなっちゃって~。遅れてすいません」等と言えば怪しまれることはないだろう。
こうすれば、ラブレターを靴箱の中に入れる姿を誰にも見られずに、入れれるのだが……。
あくまでもこれは周五郎の想像でしかない。何らかのアクシデントが起きるかもしれないし、気づいていない重大なミスがあるかもしれない。
だからここで登場するのが、ロールプレイングなのである。
実際にこの推理どおりに出来るのか、試してみようということだ。
というわけで、周五郎はトイレで、人が少なくなるのを待っているのだが……。
(このトイレくっさい。別の場所に隠れればよかったぜ……)
ロールプレイングも楽じゃないのであった。