ユーノとイオリアの別れ。
ボクは最年少として大学に入学し、物理学専攻の研究室に入った。
そこで独学では学びきれない多くのものを学んだ。
あれから数年後。割と広いはずの研究室は大きな機械で埋まり、狭く感じる部屋となっていた。
「……イオリア……いるか?」
前もよく見えない部屋に、幼さが残る少年の声が聞こえた。
「ユーノ。いらっしゃい」
ボクはその声に、覗いていた顕微鏡から顔を上げた。
「めずらしい。お前が一発で気づくなんて」
ユーノは目を丸くして中に入ってきた。
「人聞き悪いな。集中力が切れると、元のコンディションに戻るのに数分かかってしまうから、ほんの少し返事が遅れるだけだよ」
「わかってるよ」
悪気があって、無視をしているわけではないということはお互いに理解していた。
「それ、前も聞いた。……今日はめずらしいって思っただけさ」
「そう」
ボクは対して気にも留めず返事を返す。
研究所の扉を一つ隔てた部屋は先ほどの機械が密集した部屋と違って、プライベートルームになっていた。研究に使う本やいくつも並ぶパソコン画面。
「紅茶にする?コーヒーにする?」
その部屋の奥にあるティーセットを広げて、ボクとユーノの分のカップを取り出す。
「コーヒー」
「え?」
いつものは「紅茶」と答えるのに、めずらしく「コーヒー」と返事が返ってきてボクは後ろを振り返り目を丸くした。
「んだよ」
口をへの字に曲げて照れくささを隠しているユーノ。
「別に、いいじゃん。こんなに良い匂い漂わせてんのに、飲まないわけないだろ」
ツンデレを思わせるその言い訳に、ボクは頬を
ゆっくり、ゆっくりと。
「本格的だな」
ゆっくりと豆を挽くイオリアの手元をユーノは背伸びをして覗き込む。数年前まで彼の方が高かった身長は、既に追い越し、頭一つ分の差が出来上がっていた。
コーヒーのいい香りが鼻をくすぐり、部屋を満たした。
「君は、味よりも香りにこだわるからね。香りがいいものをベースに味を
胸を張って話す。よく俺の好みを知っているなぁとユーノは感心した。
まぁ、出会ってから数年付き合いがあれば、分かってくるか。
「ブレンドか! それは楽しみだな」
そう笑って、ユーノは手が離せないイオリアの代わりに棚の中にあるマグカップを二つ取り出した。
何度も通っている研究室は、勝手知ったる他人の家だ。
イオリアがこの研究室に配属されてから、2,3度通ったあと、俺用のマグカップをイオリアが用意した。その時は「通うつもりなんてないぞ」と言っておきながら、今でも定期的に通うのが日課になってしまった。
しかし、それも今日で終わる。
イオリアからコーヒーをもらい、一口飲む。
部屋に充満する香りもよいと思っていたが。その期待にそぐわない口さわりが良い。
「どうだ?」
期待の込めた瞳が感想を聞いてくる。
「うん。おいしいよ」
手から伝わるコーヒーの温かさが、とても心地よい。
自分はちゃんと、笑っているだろうか。
もう一度飲む。
「おいしい」としか言わない俺に、イオリアは少し落胆した表情が見てとれた。どこがどうおいしいかを聞いたのだろう。
けれど、おいしいと言われて嬉しそうでもある。
ちゃんと、言わないと。
「……あのさ、イオリア」
「ん? どうした」
その幸せそうな表情を曇らせる声が部屋に響く。
コーヒーからユーノに目を移したイオリアは、思いつめたような顔をしたユーノを見て、何かあると予感した。
「…………」
話を切り出しておいて、無言のまま目を閉じるユーノ。イオリアは待つ。
やがて覚悟を決め、目を開いたユーノはイオリアに向き合う。
「イオリア、俺……引っ越すことにしたんだ」
イオリアは驚いて目を見開く。
「どこに?」
「どこか……遠く」
はっきりとしない曖昧な答え。ユーノには不釣り合いな答えだ。
「いつだ?」
「明日。朝一番の飛行機でアジアまで」
アジアだと?
「引っ越しっていっても、旅をするつもりだから、連絡は一方通行かな」
仕方のないことだとユーノは肩を下ろした。
「会えなくなるのは間違いない。たとえ、会えたとしても……それは赤の他人だ」
そう言ってからコーヒーに口を付ける。
「…………」
イオリアは突然過ぎて開いた口がふさがらない。
しかし、マグカップに力を込めるユーノを見て、彼の覚悟が伝わった。
「見送るよ」
行って欲しくない。そう思うのに、口では背中を押す言葉を発していた。
「イオリア……いいのか?」
今度はユーノが驚いた。
「うん……旅、してみたいんだろう?……だったら、行くべきだ。それに、ボクは止める理由なんてないからね」
そう言ってイオリアは憂い笑いを浮かべて、コーヒーを机の上に置いた。
「イオリア」
心と違う思いがあっても、彼には彼しかできないことがある。ボクにはボクにしかできないことが。
この旅立ちがその一歩だというのなら、ボクは立ち止まる彼の背中を押そう。
昔、君がしてくれたように……
空港で彼を見送った後、手紙だけがボクの所に届いた。
彼から送られる手紙には“世界”について書かれていた。
紛争、人種差別、貧富の差、企業の競争、国境問題、エネルギーの獲得争い……などの
経済的余力がない国の事から経済的余力のある国の問題。
他にも、音楽や民族伝統の踊りや料理。その土地に生きる人々の考え方や知恵や勇気。
彼は手紙を通して、研究所に
自分の見てきたものを少しでもボクに伝えてきた。
そして、私はある結論にたどり着く。
――西暦2091年――
「……私が
「それがきみの求める世界か……」
「……人類は知性を正しく用い、進化しなければならない……」
そうとも、それが私の夢であり、彼の夢なのだから。
青年は、彼に共感したように薄い寂しげな笑みを浮かべて、科学者の名を呼んだ。
「……イオリア……」
これがソレスタルビーイングを組織した天才科学者イオリア・シュヘンベルグの四十歳当時の姿であり、のちにリボンズ・アルマークを名乗るイノベイドのモデルとなった浅緑色の髪をした青年の姿であった。