BLEACH Fragments of Remnant   作:ヴァニタス

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力の胎動

 貴方のその()を血で穢す

 我が身が終ぞ錆び果てようとも

 

 二度と我が名を 呼ばれずとも

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――それに、何の意味がある?

 

 

 耐えきれず、剣が折れた。

 金属の折れる高い音が響き、暗黒の空に黒い影が舞い踊る。風に巻かれる木の葉のように錐揉み回転しながら吹き飛び、元居た場所から十数間離れた位置で地面にぶつかり、二度三度跳ね回ってから折れた刀を地面に突き立てる事で、その影はようやく止まった。

 仰向けで右手の刀を突き立てた姿勢に静止した瞬間、彼の背後に折れた切先が突き刺さる。無数の傷に覆われた鈍色の刀身は刃毀(はこぼ)れがひどく、突き立てた刀を支点に立ち上がる彼自身もまた無事とは言い難い状態だった。

 

「――ぜえっ、はあ――ぜえっ、はあ――ぜえっ、はあ――」

 

 空気を懸命に取り込もうとする荒い呼吸に、いくらかの血潮が混じる。喉からせり上がって来たものと、頭上から垂れてきたものだ。顔の右半分が真っ赤に染まる程の出血を強いられている彼は、左手を胸に当て全身に治癒の鬼道を駆け巡らせて回復すると、折れた刀を振りかざして突貫した。

 固い地面を踏み締めて駆ける先に、巨大な足が現れる。鈍重な動きで彼を蹴り殺そうとするそれを紙一重で避けると同時に、その足を踏み台に遥か頭上に存在する巨大な仮面へ向けて跳躍した。

 巨大な足を地面に縫い付ける勢いで蹴り飛ぶ影に、大虚(メノス)は悍ましく並ぶ歯をがばりと開けて、口腔に霊圧を収束させる。赤い光が大気に満ち、極限まで圧縮された霊圧が小蠅のように小さな彼を焼き尽くそうとしたその時――突如として空から降ってきた五つの五角柱が大虚の頭を打ち抜き、その衝撃で閉じた仮面が、収束した死の閃光を噛み砕いた。

 直後、閃光が走り大虚の頭が爆発する。彼を滅ぼそうとした霊圧はでたらめに散らばって大虚の身体を破壊していく。そして、深淵の洞穴が哭いているような断末魔を絞り出してぐらりと巨体を崩す大虚の罅割れた仮面を、彼は渾身の力で斬り飛ばした。

 

 特徴的な長い鼻が横一文字に別れ、仮面の上半分が脳髄ごと飛んでいくのを尻目に、振り抜いた姿勢のまま彼は地面へ着地する。その衝撃にすら、全身の神経が剥離するような激痛が身体を襲ったが、般若の面を被ったように無貌の彼は肉体の一切を無視し、霊子となって消えていく大虚に隠れて静かに詠唱を開始する。徐々に消えていく大虚が、完全に尸魂界の塵となった瞬間――亡者の宿り木の如くに(ひしめ)く、二十を超える大虚全てから、幾重にも折り重なった虚閃(セロ)が吐き出された。

 

「……縛道の八十一、『断空』」

 

 圧倒的な密度を持って迫り来る虚閃を眺めながら、左手を正面に捧げて言霊をしめる。見た目には何の変化もなかったが、赤い閃光が彼を掻き消そうとした瞬間、視えぬ壁が霊圧を防ぐ。

 断空――八十九番台以下の破道を完全に防ぐ縛道だ。だが、断空は本来鬼道を防ぐ防御術。虚閃相手に使っても多少勢いを削げるだけで完全には遮断しきれない。透明な壁が破壊される数秒の内に、彼は瞬歩を用いて虚閃を回避した。

 

 

 ――それに、何の意味があった?

 

 

 硝子の砕ける音と、大地を抉る轟音が大気を引き千切る。つい先程まで居た場所に爆発と巨大な火柱が上がるのを離れた場所で睨みながら、彼――御蔭丸は、折れた刀を構え直した。

 大虚の軍勢は、未だ二十を超えている。その全てが最下級大虚(ギリアン)とはいえ、隊長格ではない死神がたった一人で対抗しうる勢力ではない。それに――瞳孔を瞼で半月に切り取る彼の眼には、犇きあって軋みを上げる大虚達のその奥に――ギリアンとは一線を画す霊圧の大虚を捉えていた。

 それは蜘蛛の形をしていた。おどろおどろしい形状の八本の足を周囲の木々に突き刺し、壁に貼りつくように垂直に制止している。顔に当たる部分には無数の牙が乱立しており、そこから垂れる気味の悪い液体は地面を焼いていた。そして背に当たる箇所には、顔の側に額があり尻の方に顎がある、逆様の巨大な仮面がゲタゲタと(わら)っている。

 

 腐り果てた骸の眼窩(がんか)のような禍禍しい八つの眼が爛々と光り、それぞれの眼を複数の円が乱雑に重なり合った仮面紋(エスティグマ)が額から顎まで斬り裂いていた。

 その嗤い声が届く度、ギリアンのそれよりも重く異質な、ねっとりとへばりつくような気色の悪い霊圧が響く。肌をぬめる死の圧力に嫌な汗を一筋垂らし、彼は揺らめく眼の赤光を苦く絞った。

 中級大虚(アジューカス)。虚が幾重にも折り重なって生まれるとされるギリアンの、更に上位の存在。大虚は死神統学院においてはそもそも、王属特務の管轄とさえ謳われている存在だ。最下級ですらそうなのに、その上の存在に御蔭丸が勝てる道理など、在る筈もない。

 

 だが彼には、勝てるかどうかなど、どうでも良かった。

 この戦いの果てに失うであろう己の命すら、どうでも良かった。

 ただ、勝たなければならない理由がある。

 厭う戦いに、身を投げねばならない理由がある。

 己の後ろに倒れ伏す、百にも及ぶ仲間達を救う為に――御蔭丸は、幾重にも傷付いた肉体で、折れた刀でも戦おうとしていた。

 

 

 ――それに、意味など無い。

 

 

 事の発端は数カ月も前だ。

 尸魂界と現世の両界で突然、大虚が頻繁(ひんぱん)に出現するようになった。原因は不明、現れる大虚はギリアンだったがどれも極端に凶暴性が高く、一体現れる度に千にも及ぶ魂魄への被害が出てしまうため、現世に常に一人以上隊長格を派遣せねばならない事態に陥っていた。

 それだけでなく、尸魂界に現れるギリアンは始め郛外区のみに出現していたが、段々と出現箇所を内縁へと移し、まるで瀞霊廷に向かっているような痕跡を残していく。その事態を危惧した護廷十三隊は、この案件を調査するために百名近い人数で部隊が結成した。

 本来ならば隊長格が調査に乗り出すべきだったが、現世への派遣によって人数が少なくなっており、更に大虚が瀞霊廷に近づく事を恐れた中央四十六室によって、尸魂界に残る全隊長に瀞霊廷の守護を命じられていた。そのせいで隊長を調査に派遣出来なかったので、副隊長数名を筆頭に各隊の精鋭で混成部隊を緊急につくったのだ。

 その中には、御蔭丸も含まれていた。

 

 戦いを厭う彼だったが、今回の目的はあくまで調査。万が一大虚との戦闘になっても前線に出るのは副隊長各位と十一番隊の連中だろう。彼はあくまで治療と支援に徹していればいい。それに隊長無しで大虚に挑む危険性なんて皆百も承知だ。大虚の撃退が任務ではないし、そう狙ったように現れる事もあるまい――そう考えて出撃したその部隊を、五十近い大虚の軍勢が襲った。

 瞬く間に、仲間はやられていった。ギリアンが歩き、虚閃を放つ度十数人の仲間が宙に舞い、そのまま動かなくなる。かろうじて生きている者が多かったが……中には絶命した者もいた。

 いくら精鋭部隊でも、これだけの数の大虚には為す術がない。そうして仲間達が次々と倒れていく中。

 

 大神御蔭丸だけは、大虚の軍勢と互角に渡り合っていた。

 

 虚閃を回避すると同時に、ギリアンの背後に回り込む。幾多の虚の集合体とされるだけあって霊力は尋常ではないが、知性は獣並みだ。御蔭丸が背後をとったのは犇きあう中で一番端に居たギリアン。鈍重な事に、そのギリアンが虚閃を避けられたと気付いたのは後頭部に霊力の練られた腕が当てられた時で、振り向こうとした瞬間、巨大な頭は零距離の『雷吼炮(らいこうほう)』によって粉々に削り砕かれた。

 

 首を胸ごと失くした巨体はギリアンの集合体へ倒れ込む。重たい反響音が大地を伝わる最中、御蔭丸は『曲光(きょっこう)』で身を隠す事により、ギリアンの群れから脱出した。

 察しの悪いギリアンの軍勢は仲間の死骸に群がって踏み潰している。そこにまだ御蔭丸が居ると思っているのだろう……愚鈍な敵を尻目に、倒れる仲間達の元へ戻った彼は、応急処置で助かりそうな者だけを選別して治癒をかける。

 特に重傷を負っているのは、副隊長達と十一番隊の隊員だ。突然の来襲に彼らだけは即座に適応し、全力で大虚にぶつかっていった。その結果、十七体ものギリアンを屠る事に成功したが……代わりに五体満足な者が皆無な程に損耗している。

 

 いくら副隊長と護廷十三隊最強の十一番隊とはいえ、護廷十三隊は発足してまだ三〇〇年程の組織。成熟しているとは言い難く、人材もまだまだ発展途上だ。彼らの果たした戦果は、充分過ぎるものだと言っていい。

 だからこそそれを生かすためにも、御蔭丸は倒れるわけにはいかなかった。戦闘を開始してから既に二時間、敵も味方もなりふり構わず霊圧を響かせているというのに瀞霊廷は静かすぎる。あのアジューカスが何らかの方法でこの戦闘を隠しているのだろう。気付けば周りを囲んでいた蜘蛛の糸のような壁が、霊圧を遮断しているのかもしれない。

 つまり、増援は望めない。ギリアンの数が出現時の半分以下に減っているとはいえ、こちらの霊力も無限に続くわけではないのだ。御蔭丸一人ならなおさら早く、限界が訪れる。

 

 この戦いで、御蔭丸は死ぬ事になる。それは別に良かった。(はな)から意味の無い男の残響でしかないのだ。目的が無い彼は、いつ死んでもいいと常に考え続けている。

 だが……この場には彼の他に、多くの仲間達がいる。彼が死んでしまえば、なし崩しに助からなくなる者達がいる。彼らがそこにいる限り、御蔭丸は戦い続けるしかない。戦いを嫌っても、この生に意味がないと想っても――それが彼らを見捨てて死んでいい理由には、ならない。

 もとより、敬愛する己の隊長に命の限り足掻けと望まれている。だから御蔭丸は戦う――その果てに、後悔しか残らないと識っていても。

 

 

 ――そう、意味など無いのだ。

 

 

 疾走する。

 簡易治療を終えて、ようやく踏み潰している場所に敵はいないと察したギリアンへ向けて『闐嵐(てんらん)』を放つ。轟々と逆巻きギリアンを飲み込む竜巻を目眩ましに、蛇のように影を喰らう。霊圧の風に呻くギリアンの足首に到達した御蔭丸は、限界まで霊圧を籠めた『白雷』で横薙ぎに円を描いた。

 白い雷光が奔り、何体のギリアンの足が焼き断たれる。バランスを失って崩れるギリアンに向けて追撃しようとした瞬間、ギオオ(・・・)、と金属を()し潰す金切り声が御蔭丸の身体を叩きつけた。弱った肉体では、耐えられない。御蔭丸は叫びの霊圧によって吹き飛ばされる。

 

 更に空中で体勢を立て直せないまま、数条の虚閃が御蔭丸を襲った。咄嗟(とっさ)に『円閘扇(えんこうせん)』を張って防御するも、詠唱破棄した鬼道では防ぎ切れない。虚閃は呆気なく円の盾を破り、御蔭丸に直撃した。

 虚閃の中に飲み込まれた彼は、その勢いで大地に縫い付けられた。圧力で空気が熱され、死覇装が焼け焦げる。千切れ燃えた死覇装の間から、肉の露出した腕や腹が垣間見えた。

 見るも無残な肉体を無視して、彼は立ち上がろうとする。まだ敵は残っている、ならば倒れているわけにはいかない……腕を突いて上半身を持ち上げ、斬魄刀を杖代わりに膝立ちでギリアン共を見据える。虚閃の霊圧で死覇装が焼け焦げ、裂け目の間から肌のない肉と一部の骨が露出している状態だが、彼の顔には何も浮かんでいなかった。

 

 治癒は最低限しか施さず、彼は再び駆けだす。狙いは足首を千切って転倒したギリアン数体だ。運のいい事に、倒れたギリアンの頭が一箇所に集まっている――これを一網打尽にしない手はない。

 追撃の虚閃を瞬歩で掻い潜り、彼はギリアンの頭上へ跳躍する。その間に必要な詠唱を終え、放物線を描いてギリアンの頭上に到達すると同時に、真下へ鬼道を打ち込んだ。

 

「破道の七十三、『双蓮蒼(そうれんそう)()(つい)』!!」

 

 直後、御蔭丸の眼下に蒼い爆炎が渦巻き、大地に青白い太陽を顕現させる。爆発半径を縮小し、内圧熱度を極限まで高めた業火だ。さしものギリアンとて耐えられるものではない。

 今の一撃で倒したのは四体……ようやくギリアンの数が二十を切った。だからと言ってこの絶望的な状況が緩和されたわけではないが、一先ずの区切りはついたと、御蔭丸は距離を取りつつ判断する。あと数十体程度なら、残存霊力を全て使い自爆すれば倒し切れる。だからさして問題はない。

 

 問題があるとすれば――それはあの、アジューカスの存在だけだ。

 

 

 ――己すらをも救えぬ者が、一体誰を救えるという。

 

 

「――……ヒヒッ、ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒッ!! 随分と粘るのう、死神。そんなに(うつつ)が恋しいのか?」

 

 ゲタゲタと、上下の歯を何度もぶつけて嘲笑う不快な音が耳をざわつかせる。それまで静観を保っていた蜘蛛のアジューカスがついにギリアンを押しのけて御蔭丸の前に現れたのだ。出来れば最後に纏めて消し去りたかったと、御蔭丸は沈黙のまま内心で舌打ちする。

 そんな心情を読んだかのようにアジューカスの嗤い声が一層高まった。ゲタゲタと、ゲタゲタと、猿が手を叩いて馬鹿にしてくるかのように歯を打ち鳴らすアジューカスは、鋭い脚の一本を指差すように御蔭丸へ向ける。

 

「そのような死に体の癖によう動くわい。さっさと儂らに食われてしまえば楽なものを……このまま命を張っても犬死だと分からんのか? いや、そうか、そんな知恵すら絞れぬうつけ者か! ヒヒッ、ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒッ!」

 

 勝手な事を言って嗤うアジューカスを冷えた炯眼で斬る御蔭丸は、折れた斬魄刀を構え直した。もはや盾にも使えないが、どうしても手放す気にはなれない。そんな無表情のまま折れた刀で応戦しようとする彼が可笑しかったのか、アジューカスの不快な嗤い声は更に大きくなる。ゲタゲタと、仮面が歪む程に醜悪な顔を晒すアジューカスが言葉を重ねる前に――御蔭丸は、殲滅戦を再開した。

 

「……縛道の六十二、『百歩欄干(ひゃっぽらんかん)』」

 

 言霊と同時に発現する光の棒をアジューカス向けて投げつける。霊力が凝縮された光の棒は手元を離れた途端無数に枝分かれし、下品な笑みを刻むアジューカスを射止めるべく雨の様に降り注いだ。

 が、何の足止めもない一撃を食らう程敵も甘くない。横薙ぎの棒の群れを軽々と避けたアジューカスは、乱立する牙の口から一帯に糸を吐き散らす。御蔭丸を絡め捕らえんとする粘った糸に『伏火(ふしび)』をぶつけてみるが焼き切れず、やむをえず瞬歩で回避した。

 厄介な糸だ。火で焼けないのなら、出され続ければいずれ逃れる場所がなくなる。決着を急がなければならないな――着地と同時に折れた刀を地面に突き刺し、冷やかな眼で敵を見据える彼に対し、アジューカスは獲物を嬲る目付きでゲタゲタと歯を打ち鳴らした。

 

「ほれほれ、何時まで避けられるか試してやろう!」

 

 嘲嗤って、アジューカスは大量の糸を吐き散らす。斬魄刀を引き抜いて跳躍し回避するが、アジューカスは次々と糸を吐き出してくる。地面に降り立ち刀を刺し、引き抜いてまた跳躍する……その間も左手で牽制の鬼道を打ち込むが容易く避けられるか、当たっても大して傷を負わせられなかった。

 そうして決定打を与えられず避け続けた結果、ついに辺り一面を糸で覆われてしまう。何処を見ても蜘蛛の糸だらけで、もう逃げ場のない状況に陥った御蔭丸をアジューカスは嗤い……粘つく糸を大量に吐きかけた。

 

 為す術なく、飲み込まれたかに見えた。だが次の瞬間、黒い影が降りかかる糸をすり抜け、アジューカスに真っ直ぐ突っ込んでくる。捨て身とも取れる行動に、アジューカスは狂笑した。

 

「そうじゃろう! 逃げ場がなくなれば儂に斬りかかってくるしかないわなあ!!」

 

 ゲタゲタと嗤って、先端が鋭く光る脚を四つもたげて突撃してくる黒い影を四方から串刺しにする。脇腹、正面心臓、頭部、背中から串刺しにされた彼は、それで即死のはずだったが……肉を貫く音も、血が噴き出す事もない軽すぎる感触に、アジューカスは一瞬眉を跳ね上げる。

 その瞬間を狙ったかのように、大地に雷撃が奔った。のたうつ蛇のように地面を雷撃が駆け回り、白い糸の大地に一筋の黒を焦がしつける。そしてその蛇行する黒が破れ、黄色に光る鎖が数カ所から出現した。中空を縦横無尽に駆け回る鎖の群れは、有無を言わさずアジューカスを縛り上げる。

 

「な、なんじゃと!?」

 

 三重四重に縛り抜かれたアジューカスは驚愕で仮面を歪ませながら、貫いたはずの御蔭丸を見る。だが、交差する四つの爪に刺されていたのは鞘が括り付けられたズタズタの死覇装のみ。これは囮か! ――そうアジューカスがギチリと歯を食い縛った瞬間、その怒りを怨念と化す八つの眼を汚れた草履(ぞうり)が踏み潰す。

 そこには、黒く焼け焦げた白い身体で、宙を紅く揺らめく双眸で斬り裂かせる、上半身の死覇装が無い御蔭丸が立っていた。

 

「……気付かなかったか? 俺は闇雲に逃げていた訳じゃない。『曲光』で見えなくした『鎖条鎖縛(さじょうさばく)』を重唱し、いくつかを地面に埋め込んでいたんだ。埋め込んだ鬼道はこの斬魄刀に絡みついた『鎖条鎖縛』と繋がれている。故に斬魄刀に『綴雷電(つづりらいでん)』を流せば埋め込んだ鬼道を連鎖的に起爆・発動出来る――その鬼道を用い、貴様を捕縛したわけだ」

「ぐう……っ、死神、貴様ァ!!!」

 

 鎖が巻き付いた斬魄刀を(かざ)してそう語る彼に、アジューカスは呪詛の怨念を虚閃に変える。ガバリと開いた底の見えない仮面の奥に収束する重苦しい霊圧を、御蔭丸は詠唱破棄した『赤火砲(しゃっかほう)』を放り込んであっさりと自爆させる。口腔の霊圧が無差別に吹き飛んだせいでアジューカスの仮面の下半分が砕け、苦痛の絶叫を上げるアジューカス――その醜い姿を絶対零度の視線で見下ろし、詠唱完了した腕を、静かに眼下の仮面へ向けた。

 

「破道の八十八――『飛竜撃賊震天雷砲(ひりゅうげきぞくしんてんらいほう)』」

 

 地上に、光の柱が突き立てられた。

 アジューカスも、糸の大地も、何もかもが光に塗れる。ある種清浄にも感じる全てを破壊する稲妻の柱は、其処に居た全てのものの痕跡を跡形もなく消滅させた。焼け爛れた糸の大地の境目に降り立った御蔭丸は、アジューカスの脚だけが残る穴の淵に視線を投げる。

 大地に大穴を空けた破道、『飛竜撃賊震天雷砲』は御蔭丸が現状使える最大級の鬼道である。霊力の消費が激しく乱発出来るような鬼道ではないが、その威力は見ての通りだ。アジューカスを一撃で葬る程の力――それを確実に中てるために、わざわざ逃げ回るふりをして仕込みを行った。

 

 

 ――故に、意味などなく。そして、意味が無いからこそ。

 

 

 戦闘で熱された身体の奥から、熱い息を吐く。夜空に白い蒸気と化して消えていくそれの代わりに冷えた空気を取り込んで、無貌の瞳に、寂寥を混じらせる。

 ――これで、終わる。

 限限(ぎりぎり)だったが、何とか戦いには勝てそうだ。今の鬼道で霊力を五分の一程使ってしまったが、ギリアン共を巻き込んで自爆出来る位には残っている。戦いに勝ち、仲間を救い、そして己が死ぬ(・・・・)――どうしようもない最良の結末だ。

 ――さて、決着(ケリ)をつけるか。

 

 色の無い貌が、少しだけ掠れて。御蔭丸は斬魄刀を強く握った。そして神風になろうと、脚を踏み込んだ矢先……ふと、妙な違和感に襲われる。

 ――待て。

 ギリアンの数が、十を切っている。おかしい、そんな筈はない。何故ならアジューカスと戦っている間、ギリアンが巻き込まれて消滅したなんて事はありえないからだ。それは彼自身の高すぎる霊圧知覚能力がはっきりと示している。だが確実にギリアンの数は減っている……ならば、残りのギリアンはどこに消えた?

 思わず振り返る。背後に在るのはアジューカスの脚と深い穴だけだ。それはいい、だがどうして脚が剥がれ、その内にギリアンの仮面が詰まっている!?

 

「――――ヒヒヒッ」

 

 その答えは悍ましい嘲弄と共に、御蔭丸の腹を貫いた。ずぶり、と嫌な水音を感じ、視線を落とせば、巨大な鉤爪のような脚が下腹部から生えている。それを知覚した瞬間、喉を血液がうねり口腔から這い出てきた。同時に引き抜かれる脚が血の糸を引くのを感じ取った彼は、無意識に身体を反転させて斬りかかろうとするが……折れた斬撃は容易く避けられ、御蔭丸は左腰から逆袈裟に斬り裂かれた。

 

「ヒヒッ、ヒヒヒヒヒハハハハハハハハハハハハハッ!!!

 気付かなかったようじゃな、貴様が儂だと思っておった彼奴が雑兵であるという事に! 儂の能力は『偽造』――儂の糸で絡め取ったものを儂の好きなように偽造する! 貴様はただ、儂の形をした雑兵相手に踊っておったに過ぎなんだ!! ヒヒッ、ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒッ!!」

 

 身体に深紅を刻まれて倒れ伏す御蔭丸に、アジューカスは凶笑した。嬲るように、嘲笑うように、弱者を平然といたぶるように、その醜悪さを惜しげもなく露呈させている。

 その嗤い声を、どこか遠くのように感じながら――それでも御蔭丸は、()め果てた眼をしていた。

 ――そうか、あの糸は逃げ場を失くすためじゃない。俺に霊圧を誤認させるために吐き散らしていたのか。

 やたら乱発すると思った、とあまりにも冷静過ぎる思考を巡らす。逆転の機会を狙っている、というわけではない。もうどうしても助からないと悟っているから、戦いを既に放棄しているのだ。

 

 ギリアン共々自爆する事に使うつもりだった霊力は今付けられた傷を治すためにほぼ使ってしまった。しかも完治どころか応急処置すら満足にいかない状態で、動く事もままならない。そして、目の前にはアジューカスとギリアンが十体近く……もはや生存は絶望的だ。

 だからもう、戦おうとしなくていい。結局仲間も救えず、戦いにも勝てず、死ぬ。それが現実だ。

 ――ああ。やっぱり後悔しか残らなかったな。

 血反吐混じりに、嘆息する。戦いに勝てないのは別にいい。死ぬのも、どうでもいい事だ。だが……仲間を救えなかった事だけが、深く重い杭となって心に突き刺さる。

 

 はなから敗ける事は分かっていた。かつてならいざ知らず、今の御蔭丸は戦いを怠り、研磨を忘れた刃でしかない。磨かれぬ刃はすぐに錆びつく……錆の浮き出た脆い刃で、一体何を護れると云うのだ。

 だから、後悔すると識っていた。それでも戦ったのは――あの人が、彼の心の深淵にまで踏み込んだからだろう。あの人があんなにも真摯に、想ってくれているのだから――もしかしたら、もしかしたら今度こそ、護り抜けるかもしれない。そんな浅はかな夢を、見てしまった。

 

「ヒヒヒヒヒッ、そろそろこの世と別れを告げるのも良いじゃろう――喰ろうてやるぞ、死神」

 

 アジューカスが、動き出す。そろそろと緩慢な動きでやって来るのは、御蔭丸に絶望の表情を浮かばせようとしているからか。だが、今の彼がそんな顔をするわけがない。絶え間ない後悔に苛まれる彼には、もうアジューカスの事など頭から離れている。

 ただ無意識に、かろうじて身体に貼り付いている、死覇装に手を伸ばす。下半身の小物を入れる袋の中にある、髪留めを強く手に掴んだ。五片の血塗られた花びらであしらわれた、扁桃花の髪留め。御蔭丸の魂の象徴とも云えるそれを握りながら――静かに、眼を閉じる。

 そして、死を待った。もうこの世にいるべきでない己を()し去る断罪を、伏して望んだ。

 だが、その彼岸と此岸の境界で――

 

 

 ――――(わらわ)はお前様の剣になろうと、妾の魂に誓ったのだ――――

 

 

 聞き慣れぬ、聴き飽きた声が。

 確かに彼の、耳朶を揺らした。

 

 黄金が、魂を支配する。

 閉じた瞼の裏に、刹那の間に引きずり込まれる。記憶の渦を、己の想いを、生き抜いてきた憧憬を、一瞬の内に駆け抜ける。凝縮された己の全て――

 

 ――――その果てに彼は、黄金の支配する魂の舞台に存在していた。

 

「ここ、は……!?」

 

 そこは、金殿玉楼(きんでんぎょくろう)の宮殿だった。

 あらゆる場所が金に輝く其処は、黄金の夢の結晶だ。流麗に逆様の世界を写し出す床は薄い金を基調としていて、飾り気のない上品な赤の絨毯が彼の足許に敷かれている。左右には緻密な装飾が施された黄金の柱が煌びやかに並び、その奥にこれまた柱に負けない意匠を凝らした瀟洒な壁が広がっている。その壁に絶妙な配置で彩られた、澄み切った硝子に包まれた燭台に幽玄な光が宿っていた。

 天を仰げば、色とりどりの宝石を惜しげもなくあしらった、精巧な形のシャンデリアが黄金色の光を放っている。贅を尽くした大宮殿。神々が創った箱庭のようなこの世のものとは想えぬその場所で、御蔭丸はただただ驚愕の表情を浮かべる他なかった。

 

 だが、その驚愕の源はこの宮殿にはない。確かに並みの者なら魂まで奪われてしまいそうな、圧倒的な財と幻想を与えると錯覚してしまう程に、この宮殿は美しい。だが御蔭丸の眼はそのどれにも向けられず、紅い絨毯の先、彼の正面に陣取る他の全てが霞と消えてしまう程に絢爛豪華で圧倒的な玉座の上で――

 

 ――あまりにも尊大にふんぞり返る、雌豹の如き少女(・・)を写したまま、凍てついていた。

 

「――――カカカッ」

 

 傲岸不遜に、少女が嗤う。それは外見相応の幼く純粋な微笑ではない。例えるなら獲物を駆り立てる獅子、絶対的な捕食者が牙を剥き出しにして愉悦を物語る凄絶な笑みだ。その笑顔と、特徴的な猫目に力ずくで穿たれた御蔭丸は、凍てつく思考を正気に溶かす。深紅の瞳に活を取り戻した彼を愉快そうに見下す少女は、黄金の玉座に身を委ねる格好から脚を組み、頬杖をついて凄艶(せいえん)に頬を歪めた。

 

「全く……相変わらずであるな、お前様は。妾を前に心此処に在らずとは、つくづくもって無礼なものよ。そこらの雑多な犬畜生の方がまだ礼儀を弁えておるぞ」

 

 ほう、とあからさまなため息をつく姿は高慢なれど美しい。組んだ脚先の黒いハイヒールを愉快そうに揺らす少女は、薔薇のように情熱的な金襴緞子(きんらんどんす)の紅いドレスを纏っている。新雪のようにキメ細やかな白い肌と、黄金を糸にして編んだような三つ編み団子の気品ある金髪と相俟って、まるであらゆる芸術家の粋を極めた精巧な人形のようだ。しかし、生気溢るる金の瞳が、少女が紛れもない生きた存在であると知らしめていた。

 

「だがまあ、お前様のその聊爾(りょうじ)は今に始まった事でもない。約定も無しに妾の元に訪れた身勝手も合わせて、此度は水に流しておいてやろう。妾の寛大さに感涙し、その腑抜けた顔を地維に擦り付けて万謝するがよい」

 

 頬杖をついた手の逆の手を、凄味と艶やかさが混在した美貌の横で居丈高に広げて、少女は何処までも独善的な台詞を紡ぐ。明らかな侮蔑を隠しもしない少女は、罵倒を秘めた凶相にさえ見た目に合わぬ色香を漂わせていた。

 そんな、あまりにも似通った少女を、御蔭丸は冷徹に見据える……いや、実際は汗を一筋垂らして、痛みを堪えるように眉間を歪めて睨んでいた。その表情に感じ入るものがあったのだろう――少女は凶相を深くし、促すように手を差し伸べる。

 

「どうした? 言いたい事があるなら(こうべ)を垂れて上申するが良い。そこらを飛び回る羽虫の音よりは関心を払ってやる」

 

 少女は実に楽しそうに眼を細める。苦しそうな御蔭丸を眺めるのが愉しくて仕方ないといった風情だ。少女の金の双眸に晒されて耐えるように歯を軋らせる彼は、長い時間をかけて漸く、一言だけを絞り出した。

 

「……………………お前は、誰だ」

 

 その声は、決して大きな音ではない。せいぜい静寂な場所で僅かに相手に届くくらいの掠れた声だ。

 だが――御蔭丸がその言葉を口にした瞬間、大気がひしゃげた(・・・・・)。少女の放つ傲慢さと渾一しながらも壮麗さを失わなかった宮殿の情調が一瞬で、全てを灰に帰すが如き心火に撃滅される。

 

誰だ(・・)だと(・・)?」

 

 ギシリ、と歯の軋む音が響いた。心臓を圧殺する隠然たる霊力にどっと噴き出した汗が数本、苦悩に満ちる形相に流れるのを感じながら、御蔭丸は知らず身構える。黄金の宮殿が悲鳴を上げる程の霊圧を猛り狂わせる少女は、極限まで眉間の線を浮き彫りにして、豚の(はらわた)を噛み潰したように柳眉を逆立て、組んだ脚を勢い任せに降ろして踏み鳴らした。

 

「お前様がそれを問うのか。他ならぬお前様(・・・・・・・)が、妾が何者であるかを問いかけるのか。ハッ、柳に風もここまで来ると情緒纏綿(じょうちょてんめん)も褪せてしまうわ。どうしようもない愚図め、何時まで帰らぬ夢に浸っているつもりだ!

 ……まあ、良い。今一度だけ特別に、蒙昧(もうまい)なお前様に教えてやろう……

 

            ――妾の名は■■よ」

 

「…………?」

 

 聞こえない。少女が口にした名であろう音だけが、遮断されたように耳に届かない。じくじくと湧き上がる苦しみを堪えながら彼は怪訝そうに眉を跳ね上げて――その様を睥睨していた少女は憤懣(ふんまん)遣る方ないといった金の双眸に、僅かに失望と沈痛を孕ませた。

 

「……やはり、届かぬか。あと幾度喉を()らせば、お前様は妾に想いを巡らせるのだろうな」

 

 暫くの間、眼を鎖す。何かを思い煩う様にしている少女は、それだけ見れば王座に坐する眠り姫のようで、どこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。

 御蔭丸はその姿に、魂に落とされた烙印の影を重ねる。心に孔の空いた彼を人たらしめている、彼の笑顔を望んだ少女と。

 それはほんの一瞬だけで、目を開けると同時に獰猛に唇を吊り上げた少女に掻き消された。とうに意味を失ってしまったと思っていた感情に振り回される彼を愉快そうに眺めつつ、少女は玉座を降り、不遜な態度で御蔭丸と対峙する。そして精緻な芸術品の如き小さな手を伸ばし彼の顎を持ち上げて、小気味良さそうに謳いあげた。

 

「まあ良い、許す。刻限もそう残されておらぬでな、此度の不遜なる(おとな)いも、漸く妾を欲するようになった兆しとして受け取ってやるとしよう。褒美も下賜(かし)してやるから疾く、戦禍に帰参せよ」

「お前は、何を言って……」

「カカッ! なんだ、分からぬのか? 本当に仕様がない奴よの――」

 

 心の痛みに苛まれて力無い言葉を口にする彼に、少女はやはり横柄に嗤って――最後に彼の右手を握り、気高く、そして年相応の笑顔を咲かせた。

 

「――妾が特別に、力を貸してやろうというのだ。せいぜい死なぬよう、足掻くがよい」

 

 その意味を、問う間もなく。

 少女の発した言葉を切っ掛けに意識が再び走馬灯に吸い取られ、少女や宮殿が急激に遠く離れて立ち消えた。

 最後に掴んだ掌に、強く確かな力を託して。

 

 

 そしてアジューカスが、御蔭丸に止めを刺すべく脚を振り上げる。ゲタゲタと不快な嗤い声を出す仮面を、最高潮に打ち鳴らして。彼の命を奪わんと、脚が振り降ろされたその瞬間。

 折れて役に立たぬ筈の斬魄刀が、黄金の光を爆散させた。

 

「なっ……!?」

 

 不測の事態に、アジューカスが愕然と叫んだが――その断末魔すらも光で塗りつぶし。

 尸魂界の片隅が、黄金の光で滅し飛ばされた。

 

 爆発的に広がった土煙が、辺り一帯を渦巻いている。遍く闇の空を目指して膨れ上がり、体積を増した白の煙は、膨張が終わると共に辺りを煙に沈ませる。巨大な津波の如く大地を飲み込み、草木を白い迷宮に閉じ込めたその土煙が、暫くして薄くなって来る頃――御蔭丸は倒れた身体を起こして、相変わらずの無貌で目線だけを動かしていた。

 ――これは……

 大地を覆っていた筈の、糸がほとんど消滅していた。所々に海に漂う藻のように付着しているだけで、残りは一切が消えている。よくよく霊圧探査をしてみれば大虚共の霊圧も感じない。おそらくは――御蔭丸の眼の前に広がる、底も向こう岸も、左右の果ても見えない断崖絶壁を造り出したあの光に、破壊されてしまったのだ。

 ――やはり、こいつがやったのだろうな。

 

 とても人の業とは思えない、天変地異の爪痕のような崖の淵で、御蔭丸は静かに右手に抱く斬魄刀を()めつ(すが)めつ見分する。それは彼が持っていた筈の折れた『浅打』とは、全く異なる形状をしていた。

 とは言っても、基本的な形はただの日本刀と変わらない。刀身が曲がっているとか刃が複数あるわけでもなく、柄も何の拵えもない代物だ。鍔は正三角形を三つ、真ん中に逆三角形が出るように組み合わせたものを丸で囲っている『丸の内三つ鱗紋』と呼ばれる紋の形状をしていたが、それ以外に目に付くところはなかった。

 しかしその斬魄刀は誰が見ても異様に写っただろう。なぜならその斬魄刀は、明らかに普通のよりも巨大だったからだ。柄は通常の品よりぶ厚く長くなっており、刀身に至っては『浅打』の刀身の二倍以上の長刀と化している。こんな刀、御蔭丸のような大男でなければ使えない――そう思わせるのに充分な威容を放っていた。

 

 ――あの子は、俺の斬魄刀と見て間違いないだろう。

 月の光を反射して仄かに黄金の煌めきを散らすその斬魄刀を、御蔭丸は強く握りしめる。感情の無い眼に点在させるのは、悔恨か厭悪か、あるいは苦痛か。いずれにせよ良くない情を揺り動かす彼は、戦いの直後だというのに妙に感情的な己に苦笑いを浮かべた。

 ――今回「だけ」は救えたから、自分にも意味があったと思っているのか?

 ――どれ程今を重ねたところで、過去の過ちを(くつがえ)せなどしないというのに。

 自嘲の色を強める彼は、斬魄刀から目を離した。とかく危機は脱した。命もある。ならば倒れた仲間の命を救うが先決だろう。それから応援を要請して、事の次第を伝えればいい。左手にずっと握りしめていた髪留めをとりあえずしまって、彼は仲間の元に踵を返した。

 

「――――死神ィィイィイイイィイィィィィイイイッ!!!」

 

 煮え滾った怨嗟の怒号が、背後から彼を貫くまでは。

 

「ッ!?」

 

 間一髪で横に避ける。蜘蛛の甲殻が砕けえぐい血肉の断面がはみ出る脚は、傷だらけの背筋を掠めて彼の居た場所を破壊した。回避した自分の地にまで広がる大地の罅割れに、御蔭丸はまだ終わっていないと確信する。脚は目の前の断崖から伸びており、そこから更に数本の脚が大地を突き刺し――巨大な蜘蛛が、姿を現した。

 

「よくも――よくもよくもよくもこんなっ!!! 下等な死神風情がこの儂を……! 許さんぞォォオオォォォォオォオォオオォオォオオオォォオッ!!!」

 

 だがその姿は、もはや蜘蛛とすら呼べぬものとなっていた。下半身が消えている。後ろにあったはずの四つの脚が全てなくなっており、それどころか巨大な仮面の下顎すらも削り取られている。前の四脚で崖から這いずり出てきたアジューカスは、罅割れた八つの眼をギョロギョロと狂わせながら上顎しかない口で血反吐を吐きながら喚いていた。

 その哀れな様を冷たい赤眼で凍殺させつつ、御蔭丸は刀を構える。霊力は回復していないし、身体の傷もそのままだが、あそこまで消耗した相手ならば勝てぬ戦いではない。さっさと決着をつけてしまおう――彼がそう考えた矢先、憤怒と憎悪を叫んでいたアジューカスの背後が獣の口のようにがばりと割れ、光が一切存在しない暗黒の空間が舌先を伸ばした。

 

 黒腔(ガルガンタ)――虚達が身を潜める世界へ続く穴だ。

 ――逃げるつもりか。

 表情を変えずに彼は内心で安堵する。そもそも大虚を倒す必要はないので、このまま逃げてくれた方が有り難い。アジューカスの動きに神経を尖らせつつ、嵐が過ぎ去るのを待つ。やはり好んで争いたくないものだ――その戦いへの厭悪が、最悪の事態を招いてしまった。

 

「貴様だけは許さぬぞ、死神ィッ!! 貴様の腸を噛み千切り、その髄の一滴まで喰ろうてやる!!!」

 

 血と肉と骨の断片を撒き散らすアジューカスが咆哮する。憎悪を燃やし、ねめつく怨念を全身に滾らせながら、砕けた脚の一本を御蔭丸に向けた瞬間――その脚が何の前触れもなく解けた(・・・)

 ――何だ!?

 予想外の出来事に一瞬だけ身体が硬直する。攻撃するでも逃げるでもない、己の身体を分解するという不可解な行動に走ったアジューカスが理解出来なかったからだ。そしてその間もほつれた身体は糸となって蠢き出し――それは光もかくやという速度で、御蔭丸に襲いかかった。

 ――間に、合わない……っ!

 回避が不可能だと悟った御蔭丸は、右手を盾代わりに翳す形で防御姿勢を取った。そこにアジューカスの脚だった糸の集合体が殺到し――右腕に纏わりつき、浸食を開始した。

 

 ――なん……だと……!?

 侵入される。右腕のありとあらゆる箇所から体内に潜り込まれる。視界を汚す見るも悍ましい映像を理解すると同時にやってきたのは、蛆が内側から肉体を食い破るような身の毛がよだつ激痛だった。

 

「が、ああああああああっ!?」

「喰ろうてやる! 喰ろうてやる!! 喰ろうてやるぞ死神ィっ!!!」

 

 伸ばした脚から徐々に糸と化していくアジューカスの言葉通り、その糸は御蔭丸を食い荒らしていた。否、食い荒らしているだけではない――御蔭丸の肉体を喰らった先から、融合し始めている。皮膚を喰らって皮膚と成り、肉を噛み千切って肉と化し、骨の髄を啜って骨に代わる。自分の右腕が激痛と共に自分のものでは無くなっていく感触に、御蔭丸は痛覚を押し殺してアジューカスの狙いに勘付いた。

 ――奴め、俺の身体を乗っ取るつもりか!!

 多量の脂汗を噴き出させながら、その思惑を理解した御蔭丸は、瞬時に刀を右から左へ持ち帰る。そして右腕をアジューカスに浸食させたまま――あろう事か、全身全霊を籠めてアジューカスに向けて跳躍した。

 

「喰ろうて……っ!?」

 

 今度はアジューカスが驚きで眼を見開いた。ガクガクと痙攣していた充血し切った眼が一斉に飛び込んでくる死神を捉えるのを、彼は冷めた視線で硬直させる。

 ――糸の速度を考えれば、切って逃げる事は出来ない。

 ――ならば浸食され切る前に、奴を絶命に追い込んでやる!!

 己が突然喰われ、乗っ取られそうになっているという正気を失いかねない状況の中、御蔭丸は厳然と意識を保ってそう判断し――呆けた眼で止まったままのアジューカスの脳髄目掛け、斬魄刀を振り降ろした。

 

 白い仮面が割れて宙を舞い、それに赤く弾けた流血が追随したのち、絶望の叫喚が周囲を音の鉄槌で圧し砕く。

 その永遠とも思える断末魔を上顎だけの口腔から絞り出しながら、アジューカスは死に際の蟲のように暴れて御蔭丸を更に浸食していたが――やがてその断末魔も消えていき、大地に突き刺さっていたアジューカスの脚が力無く抜け――最後の浸食と断末魔で意識を飛ばされた御蔭丸ごと、背後の黒腔へ墜ちていった。

 

 

 

   φ

 

 

 

 曖昧に泡立つ白黒の世界が、五本の黒い線と四つの白い光で切り分けられる。揺れる揺れる、廻転する銀河のような光と闇の舞踏会に、茫洋としながら(まぶた)を開ける。

 うっすらと光が差す横筋の景色は、黒い雲の行軍と猛烈な太陽の戦場だった。妙に肌寒い湿った風が寝そべる身体を吹き抜けて、丁度へそから上を照らしている日光の熱を冷やしていく。

 霧が立ち込めたままの頭は何も考えられない。風の渦巻く音と肌にはりつく汗ばんだ着流しの感触だけがはっきりしていて、それ以外が夢か現か分からないまま、渺茫(びょうぼう)たる空を掴もうとしていた左腕で、黒い瞳を太陽から隠した。

 ――どうしてだ。

 

 額に置かれた左腕の隙間から、真横の庭を眺める。傍観する目線の先、寝転がっている縁側の正面にあるのは、赤と青が嬉々として踊る紫陽花の庭園だ。満面の花を瑞々しく咲かせる紫陽花は、不透明な表情で腹這う彼を見つめ返していた。

 ――どうして、こんな昔を思い出す。

 はあっ、と水気の無いからりとしたため息を吐いて、横に伸ばした視線を混濁させる。景色の輪郭がつかなくなり、大雑把な色合いとなって二つの闇でひっそりと閉じた。

 ――こんな、何のしがらみもなく幸せだった、あの頃を。

 そうして乾いた暑さに項垂れる。剣の修行も終わり、特に何をするでもない日常の隙間に身体を休めようと思って、結局満足に休めないという――そんな、他愛もない(まま)ならなさに振り回されていた日々。いつの間にか、何時しかに辿った刻をなぞる彼は、名付けようのない感情を瞳の中に閉じ込めた。

 ――どうして。

 

 それは最も(ふる)揺籃(ゆりかご)の記憶。こんな時間が永遠に続くと無邪気に信じ切っていた、愚かな幼少の頃の夢。失ったものなんて何もなかった、ありのままの己でいられた世界に沈んでいる彼は――何も分からないまま、解からなくてもいいと。ひどく心地の良い夢の続きを思い描く。

 ――懐かしい思い出だ。

 ――俺はこうして温い暑さに寝返りを打っていた。

 ――そうしているといつも、母上が来てくれたな。

 次第に形を失くしていく意識でそう考えていると、丁度記憶の中に母の足音が鳴った。軽く、人ではなく風が滑っているような聞き慣れた音に、記憶の御蔭丸は即座に身体を起こして音の先へ笑顔を見せる。

 

 当然、その記憶を追いかける現在の御蔭丸にも母の姿が目に入るのだが――それは、記憶の母とは違っていた。

 柳に佇む幽霊かと見違える存在感の無さは、まさしく母そのものだ。波立った幽玄な黒髪も切れ長の黒い瞳も、彼の知る母に違いない。だが、それがあまりにも旧い記憶のせいか――千切れ果てた漆黒の襤褸(らんる)が、母の姿を秘し隠している。陽炎を思わせる母の周りを妙な存在感を伴って纏わるそれに何か嫌な気分になりながら見つめていたら、記憶と同じように母が緩やかに口を開いた。

 

「――――そうしてまた、失うのですか?」

 

 だが、霧雨の音にも負ける(かそけ)しの唄は、追憶に残る影ではない。立ち上がって駆け寄ろうとした幼い御蔭丸も動きを止めて……束の間の最中に、現在の御蔭丸の姿へと変貌する。浅黒い肌と黒髪黒目の少年から、白過ぎる髪と姿に唯一の紅い眼を備えた男へと変わった彼へ――記憶の筈の母は、幽雅に微笑んで(たお)やかな指を彼に向ける。

 その瞬間、失ってしまった記憶が砕け――御蔭丸が死神として過ごしてきた時間が背後から前へと押し流されていく。

 アシドとの会話が、元柳斎との鍛練が、銀嶺との決闘が、雀部や千鉄の姿が、共に業務に徹した四番隊の皆が――そして、卯ノ花烈の忘れられぬ笑顔が。断片となって過ぎ去っていく。その光景に御蔭丸は驚きながらも、知らず拳を握りしめていた。

 

「――――失いたく、ないのでしょう?」

 

 前へ飛んで母の後ろで収束していく記憶の断片に姿を掻き消しながら、母は朧気に微笑んでいる。その母の薄い唇から呟かれた言葉に、甘い眠りの記憶に溶けてしまいそうだった意識がはっきりと(よみがえ)った。曖昧だった彼の表情が截然(せつぜん)と心を取り戻したのを見届けて、母もまた足許から崩れ去っていく。咄嗟に、断片となって背後の光に消えていく母へと手を伸ばし――

 

 

 ――苦悩に満ちた貌で失心していた御蔭丸は覚醒し、極限まで開眼した紅い双眸を右腕に向けた瞬間、左に持ち替えていた斬魄刀を死に物狂いで右腕に深々と突き立てた。

 肉を裂き、骨を削る灼熱の針が全身の神経の髄を刺し通っていくと同時に、じくじくと血肉の残骸から伸びる糸に繋がれている右腕が、意志に反して暴れ回る。関節を無視し、本来ならば在り得ない方向に捻じ曲がる右腕からの激痛に耐えながら、刀身の中程まで突き刺した斬魄刀を更に沈み込ませた。

 ――返せ(・・)

 跳ね回る右腕を貫く双眸は他のどんな時よりも輝いている。心を殺すでもなく、無と成り果てるでもなく、己の魂に従う光を強靭に放っていた。

 ――これは(・・・)俺の腕だ(・・・・)!!!

 

 餓狼の剣歯を剥き出しにする。白く赤く、燃え盛る神の如き憤怒を携えた彼は、ハバキまで右腕の肉に埋め込んで、血に塗れた左手で右の上腕に掌底を叩き込んだ。びちゃりと生温い血液が弾け、流れた血潮がひとりでに紋様を描き出す。

 

「縛道の五十八、『掴趾追雀(かくしついじゃく)』!」

 

 言霊を言い切って、光が奔った。『掴趾追雀』――本来ならば広範囲に渡る霊圧の捕捉に使用する鬼道だが、今回は体内の細部にまで浸食し続けているアジューカスの霊圧を完全に拿捕(だほ)せんと発動させた。そして一秒にも満たない時間で霊子の一片までも掌握し切った御蔭丸は――刺した斬魄刀から本命の鬼道を打ち込んだ。

 それは極小の線にまで圧縮した『鎖条鎖縛』に『(さい)』と『(せき)』の因子を混成した縛道だ。斬魄刀を経由して対象の体内に入り込み、任意の霊子を縛り、また一定の場所から先に潜り込めないよう防壁を形作る。これ以上アジューカスに融合されない為だけに即席で編み出した繊細な鬼道を、御蔭丸は事前の練習無しで発動させ――そして成功させた。

 

 斬魄刀の仄かな黄金色の刀身から剥がれるように枝別れした黄色の線の束が、支配権を奪われた右腕に次々と刺さり潜り込む。その無数の線の危険性に気付いたのか、右腕は斬魄刀に刺された傷が広がるのも構わず、千切れ飛んでしまいそうな程に荒れ狂った。だが、その抵抗は今や無意味。狂う右腕の内側に黄金色が広がっていき、それが肩と指先まで到達した直後、刀に残っていた線が右腕の周りを渦巻き――寸分の隙もなく呪縛した。

 

「はあっ…………――――」

 

 右腕が完全に沈黙したのを見届けて、御蔭丸は大の字に寝転がって苦しげな一息をつく。とりあえず融合したアジューカスを縛る事には成功したが、未だ右腕に残る己の神経から倒懸(とうけん)たる痛みが這い上がってくる。今の精神状況で、鬼道をいつまで維持出来るかも分からない。まだ油断ならない状況だ。だが、とかく奪われなかった(・・・・・・・)――その事実が、御蔭丸に安堵を与えた。

 ――どう、したんだろうな。

 ――自分の事で、こんなに必死になるなんて。

 苦痛が刻まれた表情の底で、どこか自嘲気味に思う。どうでも良かった筈だ。無意味であると、断じていたのに……どうしてこうも生にしがみつこうとするのだろう。

 

 ――――命尽きぬ限り、必ず生きて――――

 

 脳裏に、失くしたくない光が生まれる。後悔に苛まれるしかなかったあの頃、誰かを救う能力を与えてくれた崇拝する(ひと)の笑顔を思い出し――御蔭丸はボロボロの身体に力を取り戻す。

 ――そうだな。

 ――まだ、死ぬわけにはいかなんだ。

 はあっ、と大きく息を吸い込んで。御蔭丸は刺したままだった斬魄刀を一気に引き抜いて、それを杖代わりに立ち上がった。腹を軸に身体を起こし、膝を立てて大地を踏む。それだけの行為にさえ、身体の細部から血が噴き出た。特に応急処置止まりだった腹部の孔と、肉体の正面を斜めに奔る袈裟斬りの痕は、傷が開きかけている。そして血潮が地に墜ちる度、彼の意識は朦朧と揺らいだ。

 

 ――まずいな、一刻も早く治療をしなければ。

 あまり時間がない事を認識した彼は、まず己がどこにいるかを見定める。

 そこは枯れ果てた白が永続に続く大砂漠だった。砂塵が舞う、砂紋が刻まれる、遠い砂丘に枯れ木が生える。どこを見ても白ばかりの、乾ききった不毛の大地。遥か彼方の地平線で、大地の白を反転したかのような夜天の黒が、この地の無機質さを顕わしている。星ひとつ瞬かない暗黒の寄る辺に、不動の白い月だけが泰然と君臨していた。

 ――間違いない……ここは、虚圏(ウェコムンド)だ。

 虚圏――死神達の間に語り伝わる、虚達が潜むと云われる現世と尸魂界の狭間。未練を残す魂達が外道に墜ちた果てに逝き憑く世界だ。伝承でしか聞き及んでいない領域だが、ここは虚圏でまず間違いない。

 

 神経を澄まさずとも、至る所から虚の霊圧が沸き上がっている。それも十や二十と言った数えられる段階を完全に超えていた。これだけの虚が仮に現世か尸魂界に出没した場合、発見されない筈がない――故に此処は、虚達の世界だと断言出来る。

 ――まずは安全な場所を、探すとしよう。

 息の荒い御蔭丸は、事実を認識した上で隠れる場所を探索する事を決める。思考だけははっきりしているが、肉体の疲労は限界に近い。霊力もほとんど無く、意識の糸も切れそうだ。こんな状態で虚にでも襲われたら一溜りもない――だからまずは身を潜め、傷が癒えるのを待つと決めた。

 ――そうと決まれば、早くこの場を離れよう。

 ――ここに来る時暴れ過ぎた。虚共が寄って来るかもしれない。

 

 荒れる呼吸を整えて、足先に霊圧を集中する。まだ何歩かなら瞬歩を使える、それでまずは距離を取ろう――そう、大地を踏み締めたその刹那。

 

「――――…………何者だ、貴様は」

 

 あまりにも、あまりにも重く冷え切った霊圧が、滝のように叩きつけられる。脳天から足先まで塗り固められたが如く硬直した彼は、紅く揺らめく目線だけを背後に向けた。

 止まった月明かりが、白の砂漠に降り注ぐ。熱の無い代わりに光の頼もしさも感じさせない、例えるなら海の底から見る絶望的な世界の美しさの(はて)に。

 

 水面に揺蕩(たゆた)う金色の月明かりのような髪を風に靡かせ。

 岩礁に謡う禁じられた果実のような褐色の豊満な肢体を、相反する清廉たる白で纏い隠す。

 耽美な睫毛で飾った翠玉(エメラルド)の瞳を白の間から覗かせる、最上大虚(ヴァストローデ)がそこにいた。

 




原作より六八五年前の出来事。
時系列的には前話の過去話のすぐあとという事になります。出陣前に酒を呑み交わした、という感じですね。
斬魄刀の本体について。
高飛車で傲慢で自分勝手な女帝気取りの幼女をイメージして書いています。所謂ドS系のお嬢様ですね。本作の数少ないオリジナルキャラクターになると思います。それと主人公は名前を聞いておりませんのでまだ始解はしておりません。形の変容などについては次話で説明いたします。

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