BLEACH Fragments of Remnant   作:ヴァニタス

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世界に価値が無いのなら

 真実など、何処にもない

 世にも、星にも、地獄にも

 

 神の心の 底にさえ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――そして、四十年の歳月が流れた。

 

 

 

 天を(いただ)く月の鏡を、不変の夜が覗いている。空を飲み干す闇色の身体をはためかせ、ぽっかりと空いた光の孔を取り囲む。内包された底知れぬ闇の中、幾重にも連なった星の光が、満ち満ちた月を飾っていた。

 だが、その威容を大地から直に望むのは叶わない。(てのひら)で天を衝けば届きそうな黄金の夜を、(くら)い暗黒の雲が絹のように包み隠しているからだ。透けて見える薄い身体に涙を溜めこんで、これ以上空を手に入れようとするならば、滂沱(ぼうだ)の雨で空を閉ざそうと言わんばかりの空模様。少し湿った風が瀞霊廷(せいれいてい)を席巻する夜、物静かな眼で星を眺める男が居た。

 

 色褪せた藍色の着流しに身を包む、生気のない白い肌を晒す男だ。十五夜の闇を堪能するにはおあつらえ向きの場所で胡坐(あぐら)をかく彼の髪は肌と同じに白く、長く切れた眼だけが紅く輝いている。

 夜はあまり好きではない、と御蔭丸は思う。陽光のように嫌っているわけではないが、あまり出歩きたくはない。特に満月の昇る夜は、土塊に沈めた胸の内まで見透かされてしまいそうだから、好ましくない。

 満月は全てを暴きたてる。あるいは太陽よりも強く、あらゆる者共を集わせる。心に(やま)しさを持つ者は日の光を避けるが、蒼い月光までは嫌わない。どちらも光に、変わりはないと云うのに。

 

 ――雨の気配がなければ、この日を持つ事もなかっただろう。

 薄い唇に弧を描く彼は、一見して優しく微笑んでいるように見えよう。だがその眼は昏く、(かす)かな(さざなみ)さえ浮かばない不毛の海が宿っていた。

 ――本意ではなかった。しかし、もう戻れない所まで来ている。

 彼が確かに自覚しているのは、その程度だ。黒い薄絹を纏う満月を一望出来る、この四番隊の隊首室に呼ばれた意味を、薄々は気付いている。そしてその感受が、もはや無意味である事も。

 

「――――良い、月夜ですね」

 

 振り向けば、そこには寝巻に身を包む卯ノ花が居た。就寝前にも関わらず、野に咲く花の麗しさを湛える微笑みは普段と変わらない。烏の濡れ羽色の艶やかな黒髪は、ここ数十年で更に雅やかに成長した。肩甲骨を覆い隠すくらいの髪を、今は後ろで軽くまとめている。寝巻は死覇装よりも緩やかに着こなしていたが、胸元だけやたらと厳重に閉じていた。

 

「ええ、そうですね。中々(おもむき)のある宵闇です」

 

 透明な彼の声に耳を傾けながら、しずしずと隣まで来て腰を降ろす。二人の距離は、少しばかり離れている。意図的にあけられた空間に、御蔭丸は胡坐(あぐら)に落としていた酒盛りの道具一式をそっと置いた。そして二つの白い(さかずき)に、透き通った酒を注ぐ。

 「ありがとう」と言って卯ノ花が杯を取るのを確認して、御蔭丸も自分のを手に持った。卯ノ花は両手で上品に、御蔭丸は片手でやや乱雑に持ち、乾杯もそこそこに口にした。独特の甘い香りが鼻腔をくすぐり、味わい深い液体が熱を残して喉を通り抜けていく。少量を呑んだ二人は杯を下ろして、ほうっと息をついた。

 

「……そういえば、貴方と二人だけで酒の席を持つのは初めてでしたね」

「はい。四番隊の皆さんとはよくありましたが、二人っきりというのはありませんでした」

 

 お互い満月を眺めながらぽつりと漏らすが、それ以上の会話はない。分かっているのだ――誰の邪魔も入らない場所で、こうして二人で居る事の、その意味を。

 卯ノ花はあの日から、この場を持つためだけに苦労を費やしてきた。時には十年単位で時間をかけ、時には強引に割り込んでいく。慎重に慎重に時間を重ねつつ、今日という日を迎えることが出来たのだ。

 全ては、御蔭丸という男を知る為だけに。

 あの日――御蔭丸に心から拒絶されたあの夜に比べれば、卯ノ花の裡にある大神御蔭丸の情報は比較にならないくらい増えたと言えよう。好きな物や嫌いな物は勿論、無意識の癖から女性の嗜好まで、ほとんどの事を知っている。それでもまだ知らない事があるから、こうして二人だけの状況を作った。

 

 知らない事。

 それは彼が、彼である証左。

 彼が手に入れ、保持し、失ってきた道。

 大神御蔭丸が、大神御蔭丸たりうるまでに歩んで来た――過去(ルーツ)

 ただそれだけを知る為に、卯ノ花は六十年近い時間をかけたのだ。

 

「……畏れながら申し上げますが、貴女も物好きな人ですね。僕の過去など、知った所でどうにもならないでしょうに」

「それを決めるのは貴方ではありませんよ。大神三席(・・)

 

 にこやかに笑う御蔭丸に、卯ノ花は泰然として微笑む。その笑みは同種のようで、隔絶された差があった。眼に写っている物――同じ場所で、同じ月を眺めている筈なのに、彼の眼は昏く、卯ノ花の瞳は静謐だった。

 大神御蔭丸は四番隊第三席まで昇進しても、変わってはいない。いまだに戦いを嫌い、そして努力をしていない。四十年の歳月がもたらした成長によって、能力が上位席官から副隊長相当まで上がったが――斬魄刀の解放も出来ぬ男に、そこまでの責任は乗せられない。

 故に三席。上位席官でありながら斬魄刀の始解すら習得していない、異例中の異例。本来ならば見限られてもおかしくないが、彼が時折見せる才能の片鱗がそれを許さないのだ。

 

 隊長格に匹敵する斬術。隠密機動に引けを取らない白打と歩法。鬼道衆であってもおかしくない技術。

 御蔭丸は斬魄刀解放すらままならぬのに、斬魄刀を持つ他の副隊長と比較しても最上位に位置する力がある。斬魄刀無しでこれならば、斬魄刀を解放すれば何処まで伸びるのか――そこにかける期待は並々ならぬ物ではなく、他の隊が彼を引き抜こうとした事も一度や二度ではなかった。

 四番隊にいるから駄目なのだ――という意見もあった。戦いを専門としない隊に所属していれば医療や後方支援ばかりをさせられ、戦いの才能を伸ばす事など到底出来ない。ならば戦える環境を与え、その力を引き出すべきだと強談する者もいたし、無言で追従する者も多かった。

 

 それらを全て押さえつけたのは、他ならぬ卯ノ花烈である。大神御蔭丸は自らの部下であり、部下の教育方針は私が決める事だと言って、他の意見を全て切り捨てたのだ。反発は必至だったが、卯ノ花に面と向かって意見できる者など元柳斎以外に存在せず、その元柳斎が卯ノ花の言い分を認めてしまったため、誰も声を上げられなくなった。

 まあ、例え引き抜きの話が現実味を帯びたとしても、御蔭丸が了承する事はなかっただろう。ある意味では戦わない為に四番隊に入った彼が、他の隊に移る事など在り得なかったのだ。それに一般隊士であった頃ならいざ知らず、席官ともなればそれなりの権限がある。それに隊長の意向が合わされば余程の事が無い限りは覆せない。

 

 だから彼は修行をしない怠慢を咎められる事なく、戦わない四番隊で過ごしてこられたのだ。入隊して六十余年も経った今では、引き抜きの話もなりを潜めている。あの男が戦いを厭いさえしなければ、と惜しむ声はまだ聞こえてくるが、そもそも四番隊には卯ノ花烈という前例(・・)がいる。今後引き抜きの話が再燃するとすれば、御蔭丸が斬魄刀の解放に至った時くらいだと、誰もが諦めていた。

 

「――一つ、聞いてもいいですか?」

「なんでしょうか」

「どうして、僕の過去に興味をお持ちになったのですか?」

 

 杯を揺らし、雨が近い星月を遠望していた彼は、何気ない口調から核心を突く一言を放つ。居心地良さそうに微笑んでいた卯ノ花は、薄れていく雲のように笑みを消した。そして杯に写った満月に目を落としながら、細々と口を開く。

 

「最初に違和感を覚えたのは、貴方が潤林安(じゅんりんあん)で過ごしていた頃の報告に目を通した時です。潤林安の住民は皆一様に、貴方が二十年前に現れたという証言をしていました。ですが誰も、貴方から何かを尋ねられた事はないと口を揃えたのです。死して尸魂界に流された魂魄なら、一にも二にも尸魂界の実情を他人に聞いて回るもの。なのに何一つ尋ねず当たり前のように過ごしていたのであれば、貴方は少なくとも潤林安に身を置いた二十年以上前から、尸魂界に存在したと私は考えました」

 

 ――確かに、潤林安(あそこ)に溶け込む努力はしたが、どう生きていけばいいかは聞かなかったな。

 御蔭丸は口を挟まず、脳内で思案する。思い返してみれば、それまで居た場所に比べれば潤林安の生活は恵まれていた。生きる事は容易だったので、わざわざ周りに聞いた覚えはない。

 ――だが、そんな所から興味を抱くとはな。

 御蔭丸はこの期に及んで、やはり卯ノ花隊長は素晴らしい方だと、もう何百も繰り返した称賛を心に描く。自分の過去について言及される為にこの場にいるというのに、彼は自らを蚊帳(カヤ)の外に置くどころか、存在さえ認識していないような態度だった。

 

「次に引っかかったのは、貴方の戦い方です。貴方は己を殺し、心を殺し、表情を殺して敵を殺す。躊躇いなく、恐怖もなく、無表情で刃を振るう貴方は、はっきり言って素人とはとても思えませんでした。むしろその逆、幾重もの戦線を斬り抜けた悪鬼のようだと、感じられたのです」

 

 卯ノ花は淡々と語る。彼女にとっては、戦う御蔭丸を初めに見た死神統学院での修練こそが、初めて彼の過去に興味を持った瞬間だった。

 こと『戦い(・・)』という分野において、彼女の右に出る者はいない。それが鬼道もない、能力もない、純然たる剣の死闘であればなおさらだ。初めて彼の戦いを目にした時の彼女の震えは――決して、恐怖だけのものではなかった。

 一瞬だけ、蒼い月光が雲に隠れる。夜の大地に訪れた刹那の暗黒で、真摯な卯ノ花の表情が闇色の恐ろしい何かに変わった。それは雲が流れ過ぎると同時に戻り、真摯な雰囲気のまま言葉を続ける。

 

「決定的だったのは、死に直面してなお戦いを放棄する貴方の意志。そして相手の望み通りの生き方をする、貴方という人の在り方です。

 自身を顧みず、己というものを誰にも明かす事無く、他人の為だけに生き続ける――それは常人の生き方ではありません。どのような魂魄であれ、(はじ)めから己の心を()てた者などいないのです。

 だから、教えてください――貴方を貴方たらしめた、貴方の過去を」

「…………」

 

 最後に、彼の眼を真っ直ぐ見つめて言い放たれた言葉に、御蔭丸は笑みを保ったまま答えなかった。血を垂らしたような紅い瞳は、今も卯ノ花を拒絶し続けている。あまりにも頑なに心を閉ざす一方、これ以上踏み込んで欲しくない――そんな想いが透けて見える、拒絶の意志だった。

 だが、卯ノ花は目を逸らさなかった。

 もう、己の弱さに身を任せるわけにはいかない。

 もう、彼から逃げ出したくない。

 だって、私は――――

 

 二人の視線が絡み合う。紅く微笑む拒絶の瞳と、不屈を湛える黒真珠の眼。月が見降ろす淡い光の海で、二人は互いの胸を貫くように心を彼方へ突き立てていた。

 ――これ以上は、無理か。

 強い眼だった。何があろうと絶対に倒れない――そんな意志を宿した、眼だった。

 

「――――…………はあ」

 

 先に音を上げたのは御蔭丸だ。(あざな)う視線を地に投げ捨てた彼は、乱雑なため息を吐いて髪を掻き上げる。右分けに整えた白髪が裂かれ、掻き上げた手が扁桃花の髪留めを奪っていくと、垂れ下がった髪の下に荒んだ顔が浮き彫りになる。

 

「さて、どこから話したものかな」

 

 陰影の濃い喉から流れる声も、いつものような優しい響きを含んだものじゃない。険しく、そして荒れ果てている。眼を鋭く絞る御蔭丸にはもう笑みすらなく、ただ荒涼だけが張りつめていた。

 思わず、息を呑む。卯ノ花は六十余年あまり彼と過ごしてきたが、こんな顔を見るのは初めてだった。柔らかい抱擁(ほうよう)の笑みでもなく、無慈悲な羅刹の無貌(むぼう)でもない。例えるなら、全てを失い望まぬままに生き続ける少年のような――そんな、悲しい表情。

 手を差し伸べたい、衝動に駆られた。彼の頭を抱き寄せて、慰めてやりたい情動が生まれた。けれど、今はそうすべきではない。やってしまえば、彼をここへ呼んだ意味がなくなってしまう。卯ノ花は胸の内の想いを堪え、物静かに言葉を紡いだ。

 

「北流魂街に居た頃からの話でも、いいのですよ」

「……そこまで気付いていたのか」

「ええ。以前仕事の為に貴方と北流魂街へ参った時、貴方はこの場所が懐かしいと言っておりましたから。西流魂街の出身なら、北流魂街でそんな事を言うのはおかしいでしょう?」

「成程……それは失言だったな」

 

 眼を地面に投げ捨てたままの彼の言葉遣いも、今までとは違う。尊重の意志もなく、取り(つくろ)う気配もない。これが彼の素のままの声と言葉遣いなのだ。優しさからかけ離れた彼の瞳と、浮き出た心。普段とは全く違う彼の姿は、不思議と違和感がなかった。

 

「……話をする前に二つ、確認したい事がある」

「確認……?」

 

 彼方を見つめたまま呟く一言に卯ノ花は怪訝そうに眉をひそめるが、御蔭丸は気にせず言葉を続ける。

 

「一つは俺の口調だ。無礼を承知で言うが、俺は俺の過去を誰にも話したくないんだ。貴女の事は誰よりも信頼しているが、だからこそ語りたくない」

「どうして、ですか?」

凄惨(せいさん)だからだ」

 

 断言する彼の眼は昏い。死んでいるわけではなく、かといって生きた気配のしない、生気のない眼。その眼に捕らえられた卯ノ花は、少しばかりの恐れと、ある種の昂り(・・)を覚える。それを身に封じ込めて、彼の台詞を繰り返した。

 

「凄惨……?」

「ああ。俺の過去は、聞いていて気分の良いものではない。大なり小なり、心に傷をつける内容だ。それはあの地獄を潜り抜けてきた俺が、一番よく理解している。

 ……俺の歴史を語るという事は、貴女に刃を向けるに等しい。だから、言葉や表情は取り繕えない。他人を傷付けない為の振る舞いが、出来ないんだ。その不敬をどうか許して欲しい」

 

 胡坐をかいた膝に手をついて頭を下げる。普段なら土下座をやりかねないが、こうした態度を見ると本当に素の状態のようだ。それを嬉しく思ったのか、卯ノ花は表情を和らげて、彼に顔を上げるようにうながす。

 

「許すもなにも、嫌がる貴方に無理やり聞いているのは私の方です。むしろこちらが頭を下げねばならないのですから、そんな態度をとらないでください」

「……ありがとう、卯ノ花隊長」

「お礼はいりませんよ。それで、もう一つの確認したい事とはなんですか?」

 

 白髪の頭を起こした後、卯ノ花は微笑みながら尋ねる。御蔭丸は礼こそ口にするものの、表情は依然として荒れていた。底の無い空虚さが漂う眼で卯ノ花を閉じ込めて、乾いた唇を動かす。

 

「もう一つは単なる確認事項だよ。俺がこうなったのは、北流魂街に居た時よりも前(・・・・・・・・・・・・)だからな。混乱を避けるためにも、先に言っておいた方がいい」

「北流魂街に居た頃よりも、前……?」

 

 放たれた言葉に、再び怪訝そうな顔をする。

 御蔭丸の出身が西流魂街ではなく北流魂街であった事は、彼の認めるところだ。だがそれよりももっと前に、彼が過ごしていた場所があるのだろうか。単に卯ノ花が彼の言葉を早計に受け取っただけで、東か南の出身だったのか、あるいは実は瀞霊廷に存在する貴族の末裔だった可能性もなくはない。むしろ彼が身に付けている貴族の所作からすれば、後者の線が濃厚だ。

 けれど卯ノ花の知る限り、大神という姓の貴族はいない。だからその線はありえないと思うが……無策に思考を巡らせていると、卯ノ花はハッとして表情を驚愕のそれに変えた。

 

「――――まさ、か」

「……ああ、その通りだ」

 

 彼は荒れ果てた声で、重々しく口を開く。身に刻まれた古傷を、深々と抉り返すように。

 

「俺は死神の霊力(ちから)があるにも関わらず――生前の記憶を保持した魂魄だ」

 

 大地を濡らす雨が、(なみだ)の河を溢れさせる様に。

 

 

 

   φ

 

 

 

 雨の日が好きだった。

 雨が降る時はいつも、あの場所であの人が待っていてくれたから。

 

 紫陽花の匂いが好きだった。

 あの場所にはいつも、紫陽花の匂いで溢れていたから。

 

 六月の雨が、好きだった。

 独特の匂いが立ち昇るその時季は、毎日のようにあの人と過ごす事が出来たから。

 

「――――母上ー! 母上ー!」

 

 雨の匂いが立ち込める屋敷の一角で、幼い子供の声が響く。

 ざあざあと降りしきる雨にも負けない、子供らしい大きくて高い声だ。木造りの廊下を走りながら叫んでいるのを見る辺り、なにやら怒り心頭と言った風情だ。

 大きな音を立てて走っていた子供は、やがて縁側へ飛び出し雨戸の閉まっていない障子の前で止まった。そして障子の取っ手に手を掛け、勢いよく開くと同時に、喉奥まで外気に晒して腹の底から声を発する。

 

「母上! 聞いてくれ! またあいつらが俺を馬鹿にしやがった!」

 

 しかし左右に暴かれた障子の中央に立っていたのは、まだ変声期も迎えていないだろうその声に似つかわしくない男だった。

 身長は五尺六寸(170センチ)ほどもあり、筋肉質な肉体は浅黒く、肩まで伸びた髪も切れ長の眼も真っ黒な男だ。見た目は完全に大人の領域に達しているというのに、声は幼さを示している。彫の深い顔に刻まれている表情も、子供のような感情の爆発だった。

 

「――また喧嘩をしたのでございますか?」

 

 そんな彼に、優しく問い掛ける言葉があった。彼が開いた座敷の奥、紫陽花があしらわれた着物に身を包む、儚さを漂わせる女性の声だ。

 粉雪のように、(かす)かな人だった。色白の肌はキメが細やかで降り積もった新雪のように美しい。腰まで届く滑りの良い黒髪はなだらかな曲線を描いていて、室内だからか纏めずにあるがままにしている。

 顔立ちもまた陽炎のような印象を与えている。美形で切れの長い漆黒の瞳が特徴的なのだが、霞がかった月のように見えているのに見えていない、そんな気分にさせられるのだ。人によっては恐怖の伴わない幽霊のように写るだろう女性の中で唯一、髪を右に分けている扁桃の花を模した白い(・・)髪留めが存在感を放っていた。

 

「そうだよ! あいつら俺より弱いくせに喧嘩しかけてきやがってさ! 負けたら負けたで兄貴の事、臆病者だって馬鹿にしやがったんだ!」

「そうですか……とりあえず、こちらに座りなさい」

 

 憤怒をたぎらせて地団太を踏む大人のような姿をした子供に、女性は優しい声色で自分の正面を指差す。乱雑な髪をガリガリと掻いて、子供は口を尖らせながら女性の前に正座した。

 

「母上、俺は間違ってないよな? 俺だけならともかく、兄貴まで馬鹿にされたんだ! あんな奴ら、ボコボコにされて当然だ!」

 

 子供は落ち着かず、身を乗り出して訴える。拳を握って熱弁する様は、子供にしては大きすぎる身体のせいでちぐはぐな印象だ。そんな大きな子供に、(かそけ)しに消えてしまいそうな女性が柔らかく微笑みながら首肯する。

 

「貴方の怒りは当然ですよ。自分だけでなく、自分の家族や大切なもの――誇りに傷を付けられて怒ったのなら、それは正しい感情です」

「そうだよな!」

「けれど、そもそもの発端として、どうして喧嘩をしたのかを聞かなければ、貴方が正しいかどうかは分かりませんね。なぜ貴方は、喧嘩などしたのですか?」

「それは……」

 

 さっきまで怒りを露わにしていた大きな子供は途端にバツが悪そうな顔になる。俯いて地面に目を落とす子供に女性はくすりと笑って、僅かに空気を震わせる吐息のような声を奏でた。

 

「その様子だと、貴方から先に喧嘩を仕掛けたのでしょう?」

「ち、違う! あいつらから先に手を出したんだ!」

「口を先に出したのは貴方、ではありませんか?」

「な、なんでそれを! ……あ」

 

 素直な驚きを表面に浮かべた子供は、はっとして口をおさえる。その様子を見て、女性は一旦笑みを解いて肩を落とした。幽玄に、まるで風に舞う絹のように座る女性は、正座した膝をぎゅうっと掴んで俯く子供に淡々と質問する。

 

「喧嘩したのは、麓の村の子供達ですね?」

「……はい」

「貴方は子供達に『俺は強いけどお前らは弱いよな』、などという悪口を言ったのではありませんか?」

「…………はい」

「それで力に任せて倒した挙句、追い打ちの暴言を吐いたのでしょうね」

「………………は、い」

 

 最後は断定する口調で言葉を落とされ、大きな子供は唇を噛んで泣きそうになっていた。正面に座る女性から見れば、座高の差で子供が涙を堪えているのは一目瞭然だ。

 女性は一度、ゆっくりとまぶたを閉じて厳かな表情をする。雨音を強くする外の黒雲に、青白い雷鳴が一筋流れた。轟く遠雷に子供がびくりと身体を震わせた後、女性は切れ長の瞳を優しく開いて、まさに慈母のように微笑んで子供の頭に手を置いた。

 

「貴方には、大事な物がありますか?」

「え……う、うん」

 

 ざらざらと硬質な髪を撫でる女性に、子供は驚きながら縮こまって受け入れる。(たお)やかな手が頭の上を滑るたび、紫陽花の甘い香りが宙を舞った。

 

「例えばどんなものが大事なのでしょうか?」

「え、えっと……父上の教えとか、兄貴の事とか、母上の事とか……たくさんあるよ」

「そうですか。私にも、大切なものがたくさんありますよ。それは、貴方と喧嘩した子供達とも同じなのです」

「……同じ?」

 

 大きな子供は頭を撫でられながらぐずるように首を傾げる。シュンと沈んだその眼には居た堪れなさと、女性の言葉がよく分からないといった曖昧な知性が尻尾を振っていた。そんな不満顔の子供に淡く微笑みつつ、女性は続ける。

 

「人は誰にだって、誰にも譲れない大切なものがあります。それはかけがえのない人であったり、世に二つとない物であったり、何にも代え難い心の拠り所であったり、様々な大切なものを――誇りを抱いて、生きています」

「誇りを、抱いて……」

「そうです。そして誇りを持つ者にとって、自らの誇りを侮辱される事ほど、心を掻き乱すものはないのですよ。貴方が兄様を馬鹿にされて腹を立てたように、彼らにもまた守るべき誇りがあるのです」

「…………」

 

 ざらり、と最後に一撫でして女性は手を離すが、子供は不満顔のままだった。雨音が一瞬だけ強くなり、吹き荒れる風の声が座敷へ侵入する。荒れた黒髪を風に揺らさせた子供は、女性と目を合わせずに唇を尖らせた。

 

「……でも、父上はそんな事言ってなかった。一度敵と思ったら、相手の事なんて考える必要はない、ただ倒す事だけを頭に刻めって教えてくれたよ」

「それが敵であれば、の話ですよ。……麓の村の人々は、戦になれば兵となります。今はお館様が兵を率いておられますが、そう遠くないうちに貴方も指揮を任されるでしょう。そうなった時、今のままでは駄目なのです」

「今のままじゃ、駄目?」

「ええ」

 

 子供は不満そうだった顔をきょとんとさせる。コロコロと感情が切り替わる様は、身体は大きくても子供のそれと同じだ。女性は首を傾ける子供の言葉にゆらりと頷いた。

 

「繰り返し言いますが、兄様を侮辱された時の貴方の怒りは正しいものです。それは貴方が、貴方の誇りを何よりも大事にしている証なのですから。でも、それをただ貫くだけでは駄目なのです。貴方だけの誇りを通してしまえば、貴方以外の誰かの誇りを傷付けてしまいます。特に今日の喧嘩のように、味方となる人々の誇りを壊すような真似は絶対にしてはなりません。

 人は、一人では生きられません。誰かの意志を継ぎ、誰かの心に触れ合って自らを形作るものなのです。その(ことわり)から目を背け、(あまつさ)え己の誇りを振り回せば――貴方は誰からも好かれる事無く、世界の全てを敵に回してしまうでしょう。或いはそう――護りたかった誇りにさえも、刃を向けられるかもしれません。

 だから貴方は、他人の誇りに気をかけなさい。自分の誇りと同等に想う必要はありません。ただ、他人には他人の誇りがあり、それを潰してはならないという事を、覚えておいてください」

「……うん、分かった」

 

 子供はいまいち納得してない表情をしていたが、素直に頷く。幼さ故の未発達な知性と、相応の純朴さを覗かせる子供に女性は満面の笑みを浮かべて、ぽんぽんと子供の頭を優しく撫でた。

 

「うんうん、貴方はとてもいい子ですね。その調子で、自分のお役目を果たせるよう頑張りなさい。貴方ならきっと、出来ますから――――ねえ、御蔭丸」

「……うん! 分かったよ、母上!」

 

 浅黒い肌と、荒れ果てた黒髪と黒目を持つ、大きな子供――大神御蔭丸は嬉しそうに女性に抱きついた。身体は並みの子供より大きかれど、母親にあやされる様は本当に子どもそのもので――御蔭丸が女性を抱きしめて身体を揺する度、紫陽花の匂いが部屋に溢れる。

 

 雨の日が好きだった。

 雨が降る時はいつも、あの場所であの人が待っていてくれたから。

 

 紫陽花の匂いが好きだった。

 あの場所にはいつも、紫陽花の匂いで溢れていたから。

 

 六月の雨が、好きだった。

 独特の匂いが立ち昇るその時期は、毎日のようにあの場所で過ごす事が出来たから。

 

 それは、鳴り止まぬ雨に隠された真実。

 死して神となった男の、魂の在り処の物語。

 

 

 

    φ

 

 

 

 大神(おおがみの)御蔭丸(みかげまる)は、日本の西に領地を構える大神という武家の次男として生まれた。

 兄弟は兄が一人だけで、血の繋がった母以外の女を娶らなかった父には兄弟がいなかった。つまり御蔭丸から見た叔父や伯父は存在せず、祖先もあらかた戦死していたため、直系の子孫は御蔭丸とその兄しかいなかったのだ。だから御蔭丸と彼の兄は、幼少の頃から厳しく育てられた。

 あいにくと兄は生まれついて病弱であったが、御蔭丸は赤子の頃から丈夫で大きな男だった。二歳になるまでには既に三尺三寸(1メートル)を超え、五歳で約四尺(120センチ)あり、八歳で約五尺(150センチ)にも達したのだ。

 年が十を数える頃には父親を見下ろしていた御蔭丸は、強く成長する肉体に呼応するように、剣の才能を開眼させていった。それと同時に、御蔭丸にある異変が起きていた。

 

 その異変に誰よりも早く気付いたのは、御蔭丸の母だった。五歳になり、言葉を覚えた御蔭丸は暇を見つけては空中に何事かを話しかけ、手に持った棒切れを振りましていた。それだけなら子供の一人遊びで済むが――剣の如くに振るう軌跡が、父親のそれと同じだったのだ。

 その様子を母は驚き、ある雨の日にそれとなく聞いてみた。雨の日はいつも母の部屋に入り浸る御蔭丸は、膝枕をして貰ったまま「お爺様が教えてくれたよ!」と笑顔で答えた。祖父はもう、死亡しているというのに。

 大神御蔭丸には、霊感があったのだ。それも「視える・聴こえる・触れる・喋れる・憑かれる」の、世が世なら超A級霊媒体質と呼ばれる程の霊能力を有していた。

 御蔭丸は物心ついた時から、家の至る所に潜む先祖の霊が視えていた。浮遊霊となっていた彼らは、御蔭丸が視える体質だと知るや否や話しかけ、身体の成長が異様に早かった御蔭丸に色々と教え込んだらしい。

 

 この事から霊能力者だと家族にばれたのだが、迫害はなかった。むしろ先祖直々に戦の業を教え込まれていると聞いて、父親はたいそう喜んだそうだ。それから御蔭丸の教育が一層厳しくなった事も、結果的に剣の才能の開花を早める要因になる。

 

「いいか、御蔭丸よ。我々はこの地を先祖代々受け継ぎ、守り抜いてきた。お前に家督は譲れんが、もし戦になった時、兵を率いて敵を打破できるのはお前しかいないと思っている。

 故に御蔭丸よ。お前は強く在らねばならん。躊躇いを棄てろ、恐怖に呑まれるな。お前が守るべきものの為に、誇りを刃に変えて戦うのだ。例え手足を捥がれようと、(はらわた)を斬られ死の淵に落ちようと、誇りが死なぬ限り、我らは戦える。

 だから何があっても、誇りだけは失うな。よいな、御蔭丸よ――」

 

 父は厳しい人で、御蔭丸の頭に手を置いては、無愛想にこんな事を言い聞かせていた。その時はまだ八歳にもなっていなかった御蔭丸は父に構って貰えるのが嬉しくて、素直にいう事を聞いていた。けれど段々そういうのが嫌になって、修行をさぼって母の部屋に逃げ込んだ時期がある。そんな時、嫌がる御蔭丸を諭したのは病弱な兄だった。

 

「ねえ御蔭丸。僕はね、こんな身体だから戦う事なんて出来ない。もしこの家が攻め込まれたら、真っ先に殺されるのはきっと僕だろう。僕はそれが悔しいんだ。守りたいものがあるのに、戦う力が無い自分の弱さがね。

 でも君には、戦う力がある。僕にはそれが羨ましいよ。だから君には、僕の代わりに頑張ってほしい。

 ……何もさ、父上の言う誇りとか何とかよく分からない壮大な物に命を賭けなくてもいいんだよ。君が守りたいものを守る為に、力をつければいいんだから」

 

 当時十を数えたばかりの兄は病弱なかわりに頭の回りが良く、人にものを教えるのが上手だった。だから御蔭丸がどうすればやる気を出すか分かっていたし、御蔭丸はそんな兄を尊敬していた。その病弱さ故、あまりかかわる事はなかったが――それから数年経ち、母に「誇りを守る事の大切さ」を教わった彼は、次第に兄の真似をするようになる。他人を大切にし、誰かの心を尊重する。そんな思慮深さや他人を大事に想う気持ちを持っても、口の悪さだけは変わらなかったけれど。

 

 ――そして、生まれた年月が十六年を超えた頃、御蔭丸は戦場へと身を投じる。父の教えと、兄の面影と、母の想いを携えて。

 

「き、来たぞっ! 奴だっ!!」

「くそっ! 誰か、誰か奴を止めろ!!」

「駄目だ、速過ぎる……!」

(けだもの)め……真神(まがみ)の化身めが!!!」

 

 戦禍を駆ける

 削れぬ刀を残影に隠し

 誰よりも(はや)く、

 ただ前へ

 

 恐れを知らぬ (けだもの)の如く

 誇りを忘れぬ (おおかみ)の如く

 

「ハァーハハハハハハハハハハハハハハッ!!!」

 

 遠吠えにも似た悦びの絶叫が空に消えるたび、幾人かの命が散っていった。あるいは刃で、あるいは拳で、視界を埋める軍勢を力尽くで叩き潰す。

 土を踏む脚はしなやかに、剛力の腕が血飛沫を引く。漆黒の残像を背後に従わせ、狂喜の双眼はどこまでも黒く、口元に白い牙を尖らせる。

 それは正に、獣の戦い方だった。荒々しく、戦法も常道もない、ただ刃を振り回しながら駆け抜ける。一度振るえば大木が折れ、二度振るえば岩が砕ける。三度振るえば空気が裂け、死閃ともなれば生きている者はいない――戦場を駆ける御蔭丸は、大神の姓と同じ音を持つ狼の伝説になぞらえ、『真神の化身』と恐れられていた。

 

 彼が築いた戦果は華々しいもので、成人と共に迎えた初陣から現在まで、黒星をつけた事がない。常勝無敗、御蔭丸はその地における無双の名をほしいままにしていた。

 その強さに惹かれ、御蔭丸の元には多くの部下が集まった。多くは彼の家元が治める領地の住人達だ。中には全国武者修行の旅に出ていた荒くれ者達もおり、それが彼の強さを物語っていたと言えよう。

 それ故に、増長もあった。人を斬り、人を殺し続ける日常に身を置けば、自ずと人は血に塗れる。朱に混濁した(まなこ)には戦場しか写らず、心が濁ってしまえば誇りも穢れていく。誇りを守る武人から、誇りを斬る外道に堕ちてしまうのだ。

 そんな剣の快楽に呑まれかけた御蔭丸の眼を覚まさせたのは、共に戦禍を駆けた父だ。

 

「我は言ったな、人は戦う為に、一度人から獣へならねばならぬと。だが、獣から鬼と成り果てろよと言った覚えはない。

 『誇りを一つ捨てるたび、我等は獣へ一歩近づく』。戦いに雑念は不要だ。敵と剣戟を交える最中、己の誇りに気を取られた一瞬で勝敗が分かれる事もある。故に我等は誇りを守る為に、誇りを捨てねばならんのだ。

 だが、誇りを捨てる為に心を殺してはならん。心を潰せば獣からも離れ、心無き鬼と化してしまう。鬼は全てを喰らうのみ――何も護れはしないのだ」

 

 血の快楽に浸っていた御蔭丸を殴り飛ばして父はそう言い放つ。十五の時に成人の儀を迎えていた彼は、大人になってから初めて父に殴られて衝撃を受けていた。同時に、戦場から家族の元に帰る己が、人の血肉と鬼の狂気に憑かれている事に気付く。それから彼は父の期待に報いるために自制し、獣として戦い続けたが……外道に堕ち掛けた反動からか、心の何処かに戦いを厭悪する気持ちが生まれていた。

 そして、御蔭丸が戦場に出て二年後――十八を迎える少し前に、彼の運命を縛った決定的な出来事が起こる。

 

 

 

 雨が、止んでいた。

 ぬかるんだ山道を、ただ只管(ひたすら)に走る。先頭を往く御蔭丸に続き、数十人の兵が鎧を鳴らして駆けていく。

 皆、一様に表情が暗い。頬のこけた顔に浮かぶのはどれも荒れた焦燥だけで、全身からは疲労が立ち昇っている。身に纏う鎧もほとんどの者が壊れかけで、中には折れた刀や矢が突き刺さっているのもあった。御蔭丸も同様に左半身の鎧が破損していて、表情も荒れ果てている。手に抱く刃だけが唯一、曇りなき光を放っていた。

 その姿は、逃げ延びる落ち武者のそれだった。

 

「くそっ……くそっ……くそっ! 畜生っ!!」

 

 泥だらけの血が滴る口腔から呪詛を吐き出す。奥歯を噛み砕かんばかりに食い縛られた歯が、呪いの深さを端的に示している。それらは全て、自らの主君に向けられていた。

 ――何故だ!? どうして皆が死ななければならなかった!?

 力の限り走る御蔭丸の脳裏に直前の記憶が再生される。地の果てまでを埋める軍勢、迫り来る槍の雨、反応し切れなかった己を守る影と、次の瞬間に無数の刃を浴びて弾け飛んだ、首。

 多くの死体が転がる地面に飛んだ首が浮かべていたのは、死への恐れ。恐怖に歪んだその顔を、御蔭丸はよく知っていた。

 忘れるはずもない――彼は戦場を共にかけた部下であり、己が守るべき領民だった。

 

 国を揺るがす戦乱が始まった。

 きっかけは、この国に二つ存在する政府のうち、貴族の政府が武士の政府を討とうとしたからだ。

 その理由を、御蔭丸は知らない。彼らの言う世をあるべき姿に戻すという大義も、真の支配者が己たちであるという自惚れも、そもそも彼には関係なかった。ただ大神家は元々貴族に名を連ねた家であり、貴族側からの勅命は何があっても受けなければならなかった。

 貴族が武士討伐の勅命を下したのは五月の中旬で、六月を迎えた頃に武士と貴族の軍が矛を交えた。その戦いの最中、御蔭丸はさながら鬼神の如き強さを見せ、彼の率いる軍は順当に敵を一掃していった。

 ……しかし、勝っていたのは御蔭丸の軍だけだった。

 

 決戦は一日で終わった。結果は貴族側の惨敗、獅子奮迅の働きをしていた御蔭丸も士気高き敵の軍勢には苦戦を強いられた。多くの味方が敗走していく中、御蔭丸の軍だけは戦いが決してなお一週間以上粘り続けたが、その間に貴族側の本拠地が占領されてしまう。それでも命尽き果てるまで戦おうとした御蔭丸の元に、父と兄の訃報がもたらされたのだ。

 そして彼は今、自らの故郷へ向かって急いでいる。父も死に、兄も息絶えたとなれば故郷に残された領民や家族を守れるのはもはや御蔭丸しかいない。敗残の兵に身を窶そうと、彼には民草を守る義務があり、家族を護る誇りがある。せめて民が少しでも傷付かぬよう、出来る事をやっておかなければ――憎しみと誇りを胸に駆ける御蔭丸の前に、突如として見慣れぬ兵が立ち塞がった。

 

「手前が大将首だな!? 手前を討ち取りゃ、褒美がたっぷり貰えるみてえなんでな、怨みはねえが死んでもら――」

「邪魔だ、どけぇっ!!!」

 

 下卑た笑い声で刀を抜いたその兵を一喝し、一薙ぎで胴を横一文字に分断する。現れた兵は十人を超えていたが、駆けながら七も剣を振り終えた時、命を保っていた者はいなかった。刃に絡みつく血潮の糸を雲一つない空へ投げ捨て、御蔭丸は獣の如く疾走する。

 目指すは故郷。目的は、己の誇りを護る為に。

 

「……………………」

 

 そんな、憎しみを抱きながらも意志を鈍らせない御蔭丸を、随伴する兵は暗い眼で睨んでいた。彼らもまた、御蔭丸と同じように守るべき誇りがある。だが、彼らは御蔭丸のように強い意志を持たなかった。

 

「――――ッ!?」

 

 背後から、刃のこぼれた鎗が迫る。戦乱の勘から飛んでくる死を知覚した彼は、身体を翻してそれを両断した。

 

「貴様等……! 一体どういうつもりだっ!!」

 

 御蔭丸は怒気を募らせて咆える。槍を投げたのは、共に戦場を駆け抜けた仲間だった。

 

「……も、もううんざりなんでさあっ! あの地獄から命からがら逃げだしたってのに、なんで雲隠れもせずこんな山道を引きずりまわされなけりゃならないんだ!!」

「我等の故郷を護るために決まっているだろう!!」

「貴族様が俺達を裏切ってからもう十日は経っちまってる!!! 今更戻ったって殺されるだけに決まってらあっ!!! そんな犬死に、つ、付き合ってられるか!!!」

 

 炯眼で心臓を刺してくる御蔭丸に、次々に刀を抜いて彼らはそう叫んだ。疲労と焦燥で狂気を孕んだ眼を向けられ、同じく憎しみに駆られていた御蔭丸は応戦しようとする。しかしそんな事をする暇はないし、何より仲間を斬るなど出来なかったのですぐさま踵を返した。

 

「ならばいい、俺一人で行く。貴様等は何処となりとも逃げ失せよ」

 

 言って、再び走り出そうとしたその時。砕けた鎧を引っかけるようにつける彼の背に、複数の刃が突きつけられる。

 

「……何の、つもりだ」

「へ、へへ……さっきの奴らが言ってたよな。あんたの首をとりゃあ、褒美を貰えるんだってよ。俺達ゃもう逃げ延びたって見つかったら打ち首だ。いつ来るかも分からねえ追手に怯えて逃げ回るくらいなら、あんたの首を持ってって褒美を貰った方がよっぽどいいってもんだろ!?」

「……己の安寧と引き換えに、俺の首を売るつもりか」

 

 先程とはうって変わって、御蔭丸は静かに問う。刃を突きつける兵は、狂っておかしくなった表情の(たが)の外れた笑い声をあげた。

 

「あんたが守るって言ってんのは俺らの事だろ!? 俺らが生きる為なら、首だって喜んで差し出すべきじゃねえか!!」

「……ああ、その通りだ。お前達も俺の護るべき者達。その為なら何だってするさ。だけどな――」

 

 瞬間、鈍い光が横一文字に閃く。真っ二つになった自分の刀を見て動揺する兵達に、振り向きざまの一閃で叩き折った御蔭丸は、極限まで眼を見開いて咆哮を上げた。

 

「貴様等のような身内を売る誇りの無い者共に差し出す首などない!!! 今すぐ俺の前から消えろ、でなくば斬る!!!」

「へ、誇りで飯が食えるかよ!! 往生せえやああああああっ!!!」

 

 振りかぶられる、狂気の刃。迫りくるそれに、御蔭丸は――――

 

 

 

 

「っは、っは、っは、っは――――…………」

 

 走った。走って走って、ただ只管故郷を目指して走った。数日の間眠らず、休みもとらずに走っていた彼は、ようやく自分の故郷が見えてくるところまで辿り着いた。けれど、彼の表情は一向に晴れず、むしろ焦燥の色を濃くする。

 遠く晴れた故郷の空は、不自然な赤に染まっていた。

 

「母上……!」

 

 故郷に足を踏み入れた時、最初に目に入って来たのは荒らされた田畑と燃えていく大地。その先で炎にまかれる屋敷へ、彼は一心不乱に駆け出した。到着する頃には消化も間に合わないくらい火が回っていたが、彼は躊躇わず屋敷の中へ突入する。

 中には、誰もいなかった。よく働いてくれていた女中も、一日中遊んでいた女中の子供も、その辺りに居るはずの祖先の霊さえいなかった。死体のない屋敷には、(おびただ)しい血液だけが残されていた。

 庭に咲いた紫陽花が赤色に飲み込まれているのを横目に、彼は母の部屋へと急ぐ。縁側を走って母の部屋まで着いた時、彼の眼に障子が破壊された母の部屋が飛び込んできた。

 

「母上!!!」

 

 脳内をよぎる最悪の事態を振り払うように叫んで、部屋に飛び込む。無事でいてくれ――焦燥に焼かれながら祈る御蔭丸の眼に入ったのは――

 

 ――朧気な表情のまま絶命した、母の最期の姿だった。

 

「――――あ」

 

 力無く、膝を突く。

 護りたいものがあった。己の命に換えても、絶対に失いたくないものがあった。

 その為に力をつけ、その為に技を学び、その為だけに御蔭丸は、敵を殺し続けた。

 だが結果的に、何を護れたというのだろう。御蔭丸だけは戦いに勝ち続けた。けれど大局は敗北に決し、父と兄は命を落とした。それでもまだ母がいると、裏切った仲間を殺してまで駆けつけて――死に目にすら、逢えなかった。

 呆然と、現実を見つめていた御蔭丸の顔が歪んでいく。焦燥と疲労の果てに無となった能面がゆっくりと崩れ、両腕を壊れた畳に叩きつけて、声にならない叫びをあげた。

 護りたいものがあった。だが、何も護れはしなかった。ならば己は一体、何の為に戦っていたのだ――――

 

「……お、おい! まだ生きてる奴がいるぞ!」

 

 うずくまった御蔭丸へ、驚いた声が向けられる。いつの間にか焼け落ちていく屋敷の外に、百人近い人間が集まっていたようだ。足軽の装備をして警戒しながら槍を構えているのを見れば、この辺りに火を放った追手と見るのが正しいだろう。

 だが、御蔭丸はもうそんな事はどうでも良かった。

 父は死に、兄は死に、母は死んだ。守りたいものは何一つ護れなかった。彼は己の誇りを、護り通すことが出来なかったのだ。

 

「貴様等か……」

「なっ……」

 

 そして、誇り無き刃は向く先の定まらない暴力となる。その剣の担い手が誇りを失った獣ならば、尚更に。

 ゆらり、と御蔭丸は立ち上がった。泥と血で汚れた背中はまさしく落ち武者、だがそこから立ち昇る空気は尋常じゃない。たじろぐ足軽達へ、御蔭丸は肩越しに双眸を覗かせる。

 汚泥に満ちた井戸の底よりも、(なお)昏く。

 命僅かな餓狼よりも鋭い、悪鬼の眼を。

 

「貴様等が――――母上を殺したのかッ!!!」

 

 虐殺が、始まった。

 

 

 

   φ

 

 

 

 古びた鍬を、地面に沈める。

 引いて、振り上げて、また刺して。その繰り返しで土を耕していく。一定時間それを続けて一区切りがついた頃、軽い汗をかいた御蔭丸は鍬を杖代わりにして一息ついた。

 その表情は荒んでいるが、人間味は残っている。鍬を握る腕や着流しから覗ける首元には浅い傷痕がいくつか残っているが、言われてみなければ気にならないくらいだ。

 身体を休め、少し冷たい風を感じている御蔭丸の元へ、一人の少女が駆け寄っていった。短めの黒髪に快活な笑顔で、つり上がった猫目が特徴的な子供だ。

 身長の半分ほどしかないその子の頭を、御蔭丸は撫でる。くすぐったそうに笑う少女に荒んだ顔が、少しだけ和らいでいた。

 

 貴族と武士の戦乱から、二年が経過した。

 焼けていく故郷から命からがら脱出した御蔭丸は、西の果てにある霊山へ落ちのびた。母の骸から奪い取った、母の首を抱えて。

 彼が逃げたのは命が惜しかったからじゃない。焼け落ちる屋敷を母の墓標にしたくなかっただけだ。死に体の身体に鞭をうって走り、霊山の片隅に母の首を埋めた所で、御蔭丸は力尽きた。

 そして目が覚めた時、彼は質素な小屋の中で治療を受けていたのだ。齢十にも満たないであろう、あどけない少女に。

 

 己が生きている事を自覚した瞬間、御蔭丸は少女を怒鳴った。何故俺を生かした、何故俺を放っておいてくれなかった。どうしてあのまま、死なせてくれなかったのか――と。

 少女はそんな彼に怯え、理由を話さなかった。それでも治療を続けたのは、彼を死なせたくなかったからだろう。傷と疲労のせいで動けなかった御蔭丸は、怒りつつも少女に身を委ねるしかなかった。

 少女は一見して気が弱く見えたが、その実強情な所がある子だった。御蔭丸が治療を拒んでも強引に押し通す。怪我人とはいえ身長が倍ほども男を押さえて治療できる力強さを持った子供だった。

 

 これは傷が癒えてから知った事だが、少女は今まで一人で生きていたらしい。それも住んでいたのは御蔭丸が落ちのびた霊山だった。少女が山奥で独り身の暮らしをしていたのなら、自然と力強くなるのも頷ける。

 だが、一人で生きていける少女がどうして御蔭丸を助けたのかは分からなかった。彼を恐れてか、生来からなのか少女はほとんど喋らなかったからだ。

 ……最も。彼自身が、そんな事に興味を抱かなかったのも、理由の一つである。

 

 生かされた。それが御蔭丸の持つ事実の全てだ。

 誇りを失い、故郷を失い、大切な人達を失った――せめても、母だけはきちんと供養したいと願い、恥を晒して落ち延びたというのに。結果として彼は今もこうして生きている。

 その生に、彼は活路を見いだせなかったのだ。生きたところで、為せる事など何もない。御蔭丸は一度、誇りに敗れて命を落としかけた。残されたのは振るう先の無い力と、母の形見が一つだけ。今更故郷に戻る事も出来ず、かといって何をするでもない――当時の御蔭丸は、さながら歩く死人のようだった。

 

 それでも命ある限り、人は生きなければならない。生きる目的もなく、死ぬ活力もなかった彼は、少女に依存する形で生きる事にした。

 最初の数週間は怪我のせいで動けなかったが、一月も経てば身の回りの事くらいは自分で出来るようになった。数カ月でほぼ全快した彼は、少女と共に暮らすようになる。

 田畑を耕し、獲物を狩り、雨の日は小屋で身を寄せ合う。まるで初めから血の繋がった兄妹であるかように振る舞うも、御蔭丸も少女もほとんど言葉を交わさない、そんな奇妙な生活を続けていた。

 そうしているうちに、情も芽生えるというものだ。落ち延びてからずっと荒れ果てた荒野ばかりが映っていた双眸も、ほんの少しずつ安らぎを取り戻していく。ゆっくりと、しかし確実に、少女は御蔭丸の心を癒していった。

 

 そうして二年。相変わらず御蔭丸の心は荒んだままだったけれど、少女に対してだけは安寧を共に共有できると信じられるようになった。この少女を護る事を誇りに、今度こそどんな困難からも護り通そうと――思えるようになった。

 

 ――――それが叶わぬ夢だとは、露ほどにも想わずに。

 

 

 

 そして、その日はやって来た。

 深夜。山に住まう獣の息も細く静まる、月光だけが支配する世界。

 眠れなかった御蔭丸は一人、小屋の外で雲の無い空を見上げていた。

 雨の多い六月になると、決まって身体の傷が(うず)く。六月は彼の好む月であり、彼の愛した人達との思い出が詰まった季節であり――彼が誇りに敗れた頃でもあるからだ。

 この時期になると時折、眼の奥が()き切れるような感覚に陥る。視界が削られ、仲間の死体や、母の最期の姿や、裏切り者を斬った光景が脳を貫く様に明滅してしまう。その晴れ渡る強烈な光の記憶が過ぎるたび、彼の心は暗く沈んでいく。

 

 脳裏を掠める記憶の痛みを振り払う為に、こんな日はいつも少女に縋って眠っていた。二年過ごしてまだ名前すらも知らない子だが、少女と一緒に眠る時だけは心が安らぐ。だから今日も、縋らせてもらおう――そう、踵を返そうとしたその時。夜空に異様な違和感が生まれる。

 満月に、横一文字の(ひび)がはいっていた。黒く、昏く、砕かれた水晶のように黄金の月を剥がし、白い何かが現れる。血の気の失せた死者のような――白い仮面の怪物が。

 

「何だ、あれ、は……!?」

 

 ぎしり(・・・)、と感じた事の無い圧迫が御蔭丸を襲った。暗闇に身体を擦り潰されるような重苦しい感覚に身を竦ませる彼は、忘れかけていた第六の本能でそれが何なのか理解する。

 ――あれは、悪霊の類なのか!?

 得体の知れない物への恐怖で一気に発汗するも、御蔭丸は無意識に小屋に立てかけてあった刀をとって構える。落ち延びた際の名残で、ここで暮らすようになってから一度も使った事はない。それでも手入れだけは欠かさなかった。

 ――あれが何かは分からんが、確実に俺を狙っている。

 ――なら、あの子に被害を出す前に殺さなければ……!

 恐怖はあったが、迷いはなかった。名さえも知らぬ少女は、御蔭丸にとって最後の(よすが)――何が起ころうと、絶対に失うわけにはいかない。

 

「――――来い」

 

 呟く眼光に影を落とし、御蔭丸は突貫した。

 

 

 

 振り降ろされる凶爪を刀でいなす。金属音と低い轟音、爪と接触した部分から飛び散る火花が冷徹に立ち尽くす顔を照らし、次の一瞬で同じ冷たさを宿した刃が怪物の角を斬り飛ばす。

 低いうなり声を上げて、怪物は地面を破砕した爪を御蔭丸目掛けて横薙ぎに振るった。刀を上段に振り抜いた姿勢のままそれを横目で視認した彼は、すぐさま刃を怪物に浅く突き刺して、刀を支点に怪物の真上へ飛び上がって間一髪で回避する。地面の抉れる音を耳で捉えながら、御蔭丸はそのまま怪物の頭上を飛び越して距離を取った。

 

「はあっ……はあっ……はあっ……」

 

 着地して素早く体勢を整えて、乱れた呼吸を落ち着かせる。怪物と交戦して早一時間が経過したが、全身傷だらけにも関わらず怪物は一向に倒れる様子が無い。御蔭丸は怪我こそないものの、一撃で大地を抉り複数の木を薙ぎ倒す怪物の攻撃は致命とほぼ同義なので、油断は出来ない。

 ――俺も衰えたな。

 以前ならば、という言葉が頭を過ぎる。戦いから離れ二年もの歳月を経た今、御蔭丸の力は確実に凋落していた。体力も技術も、戦いに明け暮れていたあの頃より大分落ち込んでいる。

 

 そうでなくとも、あの怪物には攻撃が通りにくかった。当たり前と言えば当たり前なのだが、目の前の怪物は悪霊の類なのだ。悪霊に何の変哲もない刀など、本来なら通用しない。

 それが通用しているのは、悪霊たる怪物が空中の霊的な何か(・・・・・)を爪に纏わせて攻撃してくるのを、御蔭丸が見様見真似でなぞっているからだ。怪物がするのと同じように、刀に霊的な何か(・・・・・)を集めて斬り裂いている。だが所詮は付け焼き刃、致命傷を与える程にはならない。御蔭丸は怪物を殺せず、また怪物も御蔭丸を殺す事無く、ただ時間だけが過ぎていった。

 

 その膠着の最中、御蔭丸の真中に宿っていたのは、少女を護るという意志と、少女を大義名分にここで死ねるのではないか、という迷いだった。

 所詮、今ここで生きている男は戦場に焼き付いた獣の残照でしかない。何の意味もなく命を繋がれて、生きる意味を見出せぬまま年端もいかぬ少女に依存している愚図な男だ。

 だから彼は、ここで怪物と相打って死ぬのも悪くない、と思ってしまった。生きる意味などないのだから、死ねる時に死んでしまおうと、生死を賭けた戦いで気を緩ませてしまった。

 

 それ故に御蔭丸は、怪物との戦いで致命的な隙を晒してしまう。怪物の爪を避け、霊の力を集めた刀で怪物の仮面を斬り裂いた時――――彼はただ、呆けてしまった。

 

「――――…………父上?」

 

 返答は、自分の身体が潰れる音だった。

 その瞬間、意識が白濁した。バキバキと肉と骨が壊れていく衝撃を感じ、気が付いたら怪物から遠く離れた場所で倒れていた。倒れ伏した眼球の先で、一撃で折れた刀身の切先が、縦になった地面に突き刺さっている。

 痛みは、ない。苦痛の許容量を超えているのか、心がぼやけているからか。ピクリとも動かない身体に、燃えているような熱さだけがじんわりと残っている。

 呆けたままの御蔭丸は仰向けに倒れたまま、自分の身体と仮面の割れた怪物の姿を交互に見る。虚ろな硝子玉のような眼が、形容し難い凄惨たる形相の父の顔をはっきりと捉えた時――拳大の血液の塊を吐いて、彼はようやく現状を認識した。

 

「……父、上……なぜ、貴方が悪霊、などに…………」

 

 ゆっくりと近づいてこちらを見下す父に、血を吐き出しながら問うた。少女を護るという使命も、死に誘われた己の迷いもない、純粋な疑問。尊敬し、平伏し、護りたかった父の変わり果てた姿に、御蔭丸はそう聞かざるを得なかったのだ。

 

「――――復讐の、為だ」

 

 倒れた彼の傍に立った父は、憤怒の蒸気を吐き出しながら呪詛に塗れた言葉を吐いた。昏く(しず)かな、真夜中の鏡に写る怨霊のような、心無き死者の声を。

 

「――――我等は、敗ける筈がなかったのだ。我等が主君は神に等しき存在。その神が戦を始めたのであれば、付き従う我等に引き分けはあれど、敗北などある筈も無し。だが――我等が主君は敗北が濃厚となった途端、此度の戦を我等の謀反とし、全ての責務を我等に押し付けた。

 神は――――敗北に惑った臆病者だったのだ」

 

 夜天に掻き消えていく音は、檻の如くに果てしなく冷たい。まさしく死人の肌のような時の止まった囁きは、御蔭丸から命の熱を流れる血潮と共に奪い去っていく。

 

「――――戦禍で死したのが我のみであったならば、その臆病も赦しただろう。だが主君は我の民を、我の領地を生贄に捧げ、我等の血脈を啜る事で己が安寧を保った。

 それを――――赦せるわけがあるまい。

 故に我は、魂を喰らった。領の、民の、我が血脈の魂を喰らい――――神を殺す力を手に入れた」

「魂を、喰らった……――?」

 

 冷えた夜空と自分の境界が曖昧になっていく御蔭丸は、誰に問い掛けるわけでもなく血と言葉を零す。それと同時に、濃霧に包まれた思考に焼け落ちた屋敷と血に染まった母の姿、そして何処にもいなかった祖先の霊が走馬灯となって駆けた。

 そして、理解した。燃え逝く屋敷の中が、死体もないのにやけに血に塗れていたのは――父が、魂を喰らい尽くしていたからだと。

 満月の光が、遮られる。虚ろな表情をした御蔭丸を影に落とし、怪物と成り果てた父は、息子の血に濡れた爪を構えた。

 

「――――貴様が、最後だ。我の血脈の中で誰よりも霊力の高い貴様を喰らえば、神たる主君を容易く殺せる力を手に入れられよう。貴様にも、復讐を願う意志が、誇りがある筈だ――――我が血肉となれ。そして我と共に、復讐を遂げようぞ――――」

 

 高く掲げられた鮮血色の死を、彼は虚ろなまま見つめた。熱を失った身体が心まで凍えさせてしまったように、彼は判然としないまま命を亡くそうとしていた。

 ――ただ、雲一つない、満天の星が輝く夜空を見上げて。

 ――ただ、雨のない世界が、どうしようもなく無意味に思えた。

 

 そして、死へ誘う断命の爪が振り降ろされる。

 瞳で見ながら、その爪の行く先を視ず。

 御蔭丸は茫洋としたまま意識を溶かして――

 

 ――――立ち塞がった、最後の縁と。

     頬に降りかかる熱い血潮だけが、烙印の様に心を灼いた。

 

「……………………あ?」

 

 熱を失った、身体に倒れてくる。

 軽い――あまりにも軽すぎるその感触が、消えかけていた心を醒ます。

 無意識に、倒れてきた小さな身体を抱きとめた。途端に失っていた温もりを感じて、いかに自分の身体が冷えていたかを知る。ぬるり、と掌を滑る赤色の雫で、少女が何をしたのかも。

 

「……………………あ、あ――」

 

 どくん、と心臓が高鳴った。今までその動きを忘れていたかのように、早鐘を打って回転を始める。夜の大気に溶けた熱が、傷だらけの身体に戻ってくる。それと同時に……抱きかかえた小さな身体が、ゆっくりと冷たくなっていった。

 その現実を、漸く心に引き留めて。虚ろな瞳に光を取り戻した御蔭丸は――張り裂けた喉で、力の限り絶叫した。

 

「――――あああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」

 

 認識に理解が追い付いていく。

 父が、祖先の霊を喰らった事。

 父が、兄を貪ったであろう事。

 父が、母の魂さえ奪い去った事。

 生き永らえた己をも、喰らおうとした事。

 生きようとしなかった己を守ろうとして、少女が身代わりになった事。

 己が少女を――護れなかった事。

 

「父上ええええええええっ!!」

 

 怪物と成り果てた父を視線で突き殺す。悪鬼ではない――死況に身を伏せる餓狼の形相で、命の暖かさを失っていく少女を懸命に抱きとめながら、御蔭丸は咆哮する。

 

「『心を一つ殺すたび、我等は獣から一歩遠のく』――そう俺に伝えてくれたのは、他ならぬ父上ではなかったのか!? 獣から鬼と成り果てるなと教えを託してくれたのは、父上ではなかったのか!!

 我等の誇りは、復讐を遂げる為にあるのではない!!! まして、こんなにも幼い子を犠牲にしてまで果たすべきものではないだろう!!!

 貴方は――そんな誇りさえも、失ってしまったというのか!?」

 

 あらん限りの力で、御蔭丸は問う。

 自らに誇りを授けた父に、その誇りの在るべき姿を。

 血を分けた肉親を喰らい、悪霊となってまで復讐に滾る父に。

 己の心の根底を為す、『誇り』と云う名の魂の在り処を――――

 

「――――誇りなど、何処にもない」

 

 だが、割れた仮面から生まれた言葉は、死者の嘆きのように冷たく。

 

「――――そも。我には最早、心など在りはしないのだ――――」

 

 胸に空いた風穴を吹き抜ける声は虚しく、御蔭丸を突き放した。

 

 その後の事を、彼は朧気にしか覚えていない。

 気付けば彼は、怪物と成り果てた父の血で真っ赤に染まっていた。父と母から受け継いだ黒髪は赤黒くなり、戦いで見る影もなくなった着流しも元の色は微塵も無い。屈強な身体も二年前と同じか、それ以上に傷付いていて。

 それでも彼は、戦いに勝った。

 父の残骸が広がる地面の前で、空を見上げる。欠けようのない満月が、雲の無い世界から御蔭丸を眺めていた。生気のない、魂も感じられない男を。

 

 ――何の為に、俺は生きていたのだろう。

 

 月明かりに立ち竦む御蔭丸の胸の内にあったのは、その疑問だけだった。

 護りたい人達がいた。護りたい場所があった。命に代えても通したい、誇りがあった。

 けれど、それは叶わない夢でしかなくて。現実は、全てを失っておめおめと落ち延びただけだ。

 それでも生きているならと、生きる理由を必死に探した。それこそ年端のいかぬ少女に寄り掛かってでも探して、やっとその少女の為に生きてみようと思い始める事が出来た。

 その結果が、この様だ。

 自分の勝手を押し通して、結局――何も護れなどしなかった。

 

「…………ァ……」

 

 立ち暮れていたその時、か細い声が耳に届く。瞬間、彼は振り返り、身体が悲鳴を上げるのも構わず倒れた少女の傍で膝を突いた。

 ――そうだ。まだ、彼女は生きている。

 ――彼女さえ生きていてくれれば、俺はそれで――

 そこで初めて少女の具合を確かめて、絶望しかないと悟る。

 肩から腰にかけて広がる、裂けた柘榴(ざくろ)のような傷。誰が診ようと致命傷以外に在り得ない、助けられないと分かる痕。

 

 無駄と知りつつ、戦場で培った医療の心得を総動員して傷を塞ごうとするも、応急処置が通用する段階じゃない。もとより、人が如何(どう)にか出来る傷ではないのだ。

 どうして――俺には力だけしかないんだ……!

 戦う事しか出来ない己を焼き殺したい程悔やむ。戦って敵に勝てても、こんな少女一人救う事さえ出来ない。

 仮に命と引き換えに少女を助けられるなら、彼は躊躇わずにそうしただろう。もう失いたくはない。もう、護りたい人を失くすのは御免なんだ――御蔭丸は切に、神に願った。

 届かないと、知りながら。

 

「…………どう、して……泣いて、いるんですか……?」

 

 悔しさだけを血みどろの双眸に抱える彼の耳に、輪廻に消える鈴の音のような、ひどく遠い声が聞こえる。御蔭丸ははっとして、今にも息絶えそうな少女を凝視した。口元から血を一筋流す少女は、苦しいだろうに儚く笑って、握られた手を泪の流れる頬へ寄せる。

 

「そんなに……泣かないで、ください……貴方が泣いて、いると、私まで、悲しくなって、しまいますから……」

 

 少女はそう呟いて、彼の涙を拭おうとする。けれど少女が拭えば拭う程、手を握り続ける彼の眼からは大量の涙が溢れてきた。それが頬を滑り、顎の先から少女へ落ちた時。少女は漸く、自分の身体の状態を知る。

 痛みは、ないのだろう。きっと少女はもう、感覚のほとんどが失われているのだ。だから死に際でも、何の辛さもない笑みを浮かべられる。

 でもその笑顔が、少し曇った。少女にも分かったのだろう――御蔭丸が涙を流す、その意味を。

 だから少女は、精一杯に笑った。御蔭丸に泣いて欲しくなかったから。彼には、暗い顔じゃなくて――――

 

「……もし、も……もしも、私の為に、泣いてくれているのなら……――

 

 ――どうか、笑ってください。貴方の笑顔が、何よりも好きだから――――」

 

 それは少女が何よりも欲した、叶えたい願いの言葉だった。少女がずっと彼と居続けたのは、ただ御蔭丸の笑顔が見たかったから――死に相対して、そう願う少女を、彼が拒絶出来る筈もない。

 だから御蔭丸は、心を殺した。失って失って失って、壊れそうになっていた心を殺して、少女の為に、無理やり顔に微笑みを刻んだ。涙を流すその笑みに、切なる願いを言葉に変えて。

 

「……ああ、笑おう。お前がそう望むなら、俺はずっと、笑っていよう。だから頼む、お願いだ……俺をもう、一人にしないでくれ――――」

 

 笑みの形を崩さぬよう、彼は顔を伏せて、祈るように少女の手を強く握る。柔らかく小さなその手が、硬く冷たくなっていくのに――そう、時間はかからなかった。

 

 夜天の月は地を見下ろす。雲の映えぬ星の海を越えて、無銘の世界へあらん限りの月光を与える。

 その一角の、名も無き霊山の片隅で。

 血に塗れた鬼が、笑っていた。

 赤く濡れた、白の混じる造花を地に落とし。

 黒いその眼を、赤く、紅く――中心(こころ)に空いた孔のように、虚ろに染めて。

 ただ何よりも、白く赤く。

 

 

 

   φ

 

 

 

「――――…………その後俺は死に至り、尸魂界へ流れ着いた。北流魂街に身を窶し、潤林安へ居を移し、死神に捕らえられ――そして、貴女と出逢った」

 

 掠れた赤眼に美貌が写る。優しい眼差しを痛みに変えて、見目麗しい柔らかな雰囲気を悲しみに暮れさせる、卯ノ花烈を彼は荒涼と見つめていた。

 月光の影に隠れ仄かに光を反射するその眼に意志はなく、心もない。目の前のものを反射する鏡のように、あるのは彼女の虚像だけだ。

 その眼の中で、卯ノ花の顔が悲痛に歪む。己の意志ではどうにもならない、運命と云う名の絶望を知ったかのように――彼女は、御蔭丸の魂の在り方を識ってしまったのだ。

 

 凄惨。

 大神御蔭丸の過去は、正に凄惨そのものだった。

 護る為に強くなった。誇りの為に強くなった。大神御蔭丸にとって、力とはあくまで手段だった。戦いが目的ではなく、戦場は彼の居場所ではない――彼はただ、戦う事で己の意志を通したかっただけなのだ。

 だが、彼はそれを果たせなかった。確かに戦いには勝った。初陣から惨劇の幕開けとなった戦乱まで、彼は常勝無敗をほこり、戦乱の中においても彼だけは常に勝ち続けていた。落ち延びて、怪物と成り果てた実の父と相対した時にさえ――結果として、彼は勝利を収めている。

 

 しかし、その結果はどうだろう。戦いには勝った。どんな困難に直面しても、彼は常に勝ち続けた。だが――本当に護りたかったものを、彼は一度として護ることが出来なかった。

 

「聡明な貴女なら、もう気付いているだろう。俺が己の意志を持たない理由と、戦いを厭うその意味を」

 

 卯ノ花と顔を合わせながら彼は話すが、その口調は対話と云うより独白に近い。心此処に在らぬ状態で、虚空に語りかけるように言葉を紡いでいる。まるで一定の言葉だけを繰り返す人形のような姿は、彼がどれ程自身の事を蔑ろにしているかの表れだ。

 

「俺は戦う事で何かを護れると思っていた。戦いに勝つ事で、誇りを貫けると思っていた。

 だが勝ったところで、それが叶う事はなかった。むしろ敵を倒せば倒すほど、勝利を重ねれば重ねるほど――俺は大切なものを、失っていった。

 あるいは俺が『剣八』のような性質を持っていれば、そんな事で悩みはしなかっただろう。だが俺は戦いが好きなわけじゃない。勝っても、護れなければ意味がなかった。

 戦う度に、俺は大事なものを失った。だからもう、戦いに身を置きたくはない。これ以上、何かを失いたくはない――それ故に俺は、誰かと深く関わり合う事を恐れている」

 

 彼がそう言葉を投げかけた時、卯ノ花の表情が一瞬だけ明確に変わる。しかし彼女の前に居ながら無情の僻地に身を投げ出す彼が気付く事は無く、そもそも卯ノ花が話を聞いているかどうかさえ、どうでもいいと言う体で喉を動かしていた。

 

「俺がどれほど戦おうと報いを与えてくれぬ世界を憎んだ事もある。だがそれに意味などないと気付くのにも、そう時間はかからなかった。結局の所、俺が選択を間違えてしまって失くしたものも少なくないのだから。代わりに、こんな世界に意味はないと思ってしまったがな。

 ……貴女はかつて、俺が俺自身をどうでもいいと考えている、と話してくれたな。あの時は貴方がそう望んでいるからと返答したが、実際に貴女の指摘は紛れもない事実だ。貴女が俺をどのように望むか以前に、俺は世界にも俺自身にも価値を見出していない。

 護りたいものがあった。だが護れなかった。それが俺の中に在る全てだ。俺にとって誇りは、護りたい人達は俺の全てだった。それを失った今、残っているのは中身の無い抜け殻だけだ。貴女と話している時も、アシドと研鑽を積んでいる時も、元柳斎様に稽古をつけてもらっている時も――心の奥底では、何も想っちゃいなかった」

 

 虚ろに光る赤の瞳で、(から)の歯車が回っている。それは一見して他者の心と噛み合い、様々な感情を宿して回転しているようにも見える。だが実際には、噛み合った歯車の間で砂を轢き砕くように無情で冷たい。

 皆がそれに気付かないのは、彼の歯車を巧妙に覆い隠しているものがあるからだ。目の前の人に、そうあって欲しいという望み――かつての夜、卯ノ花烈が彼に死んで欲しくないと渇望したような、他者の魂の願いが。

 

「俺にはもう、自分一人で立ち上がる事なんて出来ない。自分も、世界すらも無意味に思える魂の監獄で、俺に出来るのは誰かの願いの面影になる事だけだった。

 だから俺は、貴女の望みの欠片となろう。アシドや元柳斎様の、望む姿と成り果てよう。

 俺の誇りと愛した人を奪ったこの世界が――――何時の日か、俺の命を奪い去るまで」

 

 そう言い切った後、沈黙が夜を支配する。御蔭丸は彼女から視線を外し、薄絹の雲のかかった夜空を虚ろに見定めていた。掌の中で、母と少女の血に濡れた紅い扁桃花の髪留めを握りしめながら。

 同じく卯ノ花も、そこにある何かを確かめるように、閉じられた胸元を両の掌で押さえていた。眉間にいくつかの線を寄せて僅かに潤む瞳に沈痛を隠す彼女の顔には、諦めにも似た思いが内在している。

 

 これはもう、言葉でどうにかなるものじゃない。所詮は他人でしかない卯ノ花がどれだけ尽力しても、変えられるものじゃない。

 彼は戦いと共に生きた人生の果てに、己の死を望んでいるのだ。失う度に軋みを上げて壊れていった彼の心は、最後には彼自身の手によって潰されてしまった。ただ少女を救いたい、その想いから心を殺してしまった彼は――その日、確かに死んでしまったのだろう。

 

 かつて御蔭丸が潤林安へ流れた際、住人は口々に彼を鬼の様だと形容した。卯ノ花も、戦う彼を悪鬼に重ねて感じている。

 その肌は白く、流れる髪は更に白い。大理石の彫刻のような生気のない真白の中で、絢爛に輝く紅い瞳だけが、垂れた血痕の様に穿たれている。

 そう――その白さは正に、鬼の如き(ホロウ)そのものなのだ。虚が無くした中心(こころ)から形作られる白い仮面と、そこから覗く血肉の眼光に――彼の姿は、あまりにも似通っている。

 

 大神御蔭丸は、その魂こそ死神の(かたち)を為している。しかしその心の本質は、死神よりも、人間よりも、虚に等しい。死神の魂を持ちながら、虚のように心が欠落してしまった存在――それが、大神御蔭丸なのだ。

 

「……やはり、話すべきではありませんでしたね」

 

 気付けば彼は、荒れて絡まっていた髪を梳き、右分けにした先に紅い扁桃花の髪留めを留めていた。砂漠のように乾いた顔も、いつも通りの優しい笑みが浮かんでいる。血を思わせる紅すぎる瞳は、真っ直ぐに卯ノ花へ向けられていた。彼の過去を聞き届けて悲しみに暮れる彼女に対する、どこまでも気遣う心を秘めて。

 その柔らかくも虚しい眼差しに射止められた卯ノ花の胸に、感じた事の無い痛みが去来した。ズキリと、刃に斬られたのでも、拳で殴られたのでも、槍で刺されたのでもない、ただ苦しいだけではない切ない痛みに、彼女は俯いて胸元の手の力を強くする。

 

「僕は貴女に感謝しています。僕が欲しかったのは誰かを倒す力ではなく、誰かを護り救う力でしたから。あの時僕は少女を助けられませんでしたが、今はこうして誰かを救える力があります。それは貴方が訓導してくださった事であり、貴女に出逢わなければ手にする事はなかったでしょう。

 だから僕はそれ故に、こんなひどい話だけはしたくありませんでした。貴女を傷付けたくは、なかったんですから……卯ノ花隊長?」

 

 場を和ませようと軽い調子で話していた彼は、首を傾げて彼女の名を呼ぶ。俯いた彼女の小さな肩が、ふるりと震えていたからだ。疑問に思って声をかけようと思った矢先、彼女は突然顔を上げて――今にも泣きそうな表情を、御蔭丸に晒す。

 

「――……おや、酒が切れてしまいましたね。新しいのを取ってきます」

 

 潤む彼女の瞳を見て、御蔭丸は何かを察したのだろう。まだ水音のする酒瓶を手元に寄せて立ち上がり、後ろの扉へ去っていく。仮面のように白い髪を風に靡かせて闇に消える彼を半ば悄然と見送って――閉じられた胸元を、掻き毟る。

 

 御蔭丸はもう、誰かを愛する事はないだろう。戦う度に失っていった結果、戦いを厭うようになったように――何も失いたくないから、何も愛さなくなっている。

 いや、それ以前に御蔭丸は世界にも己にも価値を見出していない。彼にとって今は、死人が歩む生の残滓でしかないのだ。

 …………けれど。その価値がない筈の世界を、彼は大事に想っている。失いたくないし、傷付けたくないと考えている。

 それは彼の母の教えが、まだ心に息衝いているからだ。他者の誇りを傷付けないという、母の面影が彼に残っているからだ。

 

 今の御蔭丸は母の教えを胸に秘め、彼の兄のように聡く優しい人を演じ、少女の願いを体現し続けている。彼の心はもう死んでしまっているが……彼の誇りは死して猶、彼の魂となって受け継がれている。

 彼が失い続けたのが魂に代わる者達ならば、彼を留まらせ続けているのもまた人の想いだ。だから世界を無意味に想い、己の心を棄てた彼に再び意味を(もたら)すのもまた――魂の想い。

 ――その日が来るよう、祈りましょう。

 ――彼が再び、心の底から生きたいと願えるその(とき)を――

 

 物憂げに、そして祈りを捧げるように、胸元の手を強く握る。その掌の下に、耐えがたくも手放せない、誰かの想いを募らせて。かつての名に倦んでいた彼女が、魂の想いによって生きる意味を見出したように――彼の未来に幸ある事を願った。

 

 …………そして、同時に。

 儚い願望が輝く裏で、歪んだ情が蠢く事を、此処に居ぬ彼に懺悔する。

 

「――……貴方は私を、ひどい女だと、思うでしょうね……――」

 

 悲愴漂う聖女の絶望にも、嘆きさえも美しい魔の甘さにも似た、その呟きが黒く染まった天に広がり――雨が、尸魂界に降り始めた。

 湿った冷たさと、雨が産み出す独特の匂いが立ち込める中卯ノ花は、古傷を抉って語る彼の表情を思い出す。

 荒れ果てながらも、泣き出しそうな顔。絶え間ない絶望に摩れてしまった戦士のようで――全てを失って泣き喚く、少年のような狂おしい姿。

 懺悔に俯く彼女の帯にある帯留めが、雨の切れ間に僅かに降り注いだ月明かりに青く光る。

 透き通った水晶であしらわれた、その花の名は、『竜胆』。

 

 慎ましくも美しいその花が、冠する言葉は――――




原作より六八五年前の出来事。
数カ月単位で投稿が遅れましまい申し訳ありません。少し忙しい時期が重なって正直な話スランプでした。今は安定して書けていますので、来月は二話くらい更新できそうです。
御蔭丸の過去について。
筆者は歴史のRの字も知らぬような無知蒙昧の者ですが、一応承久の乱あたりを参考に書かせて頂きました。大神の姓も西日本の武士の中で適当によさげなものを使わせて頂きました。特に意味の無い情報ですのでここに書いておきます。

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