BLEACH Fragments of Remnant   作:ヴァニタス

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戦わない者

 人が人を好きになる理由を聞かれて、すぐさま答えられる人は少ない。大抵の人は理由を問われても、少しは迷い考える。見た目が好きなのか、お金が好きなのか、性格が好きなのか、身体が好きなのか――それは人によって違うもので、多くの人は多少悩んだ挙句、無難な回答を選ぶだろう。なぜなら好きという感情はとても曖昧で、多くの要素が多様に絡み合っているからだ。だから人は好きという感情に明確な言葉を与えず、ただそうあるものと位置付けている。

 

 もちろん、全ての人間がそうであるわけじゃない。中には好きになる明確な理由を持つ人もいるだろうし、そもそも好きという感情を持たない人だっているだろう。人の心は複雑怪奇、千差万別の顔がある。そこに一定の理論を見出そうとする行為自体、無意味なものかもしれない。

 だが、そんな人が人を好きになる理由とは裏腹に、人が人を嫌いになる理由は驚くほど鮮明だ。それこそ「物を離せば落ちていく」自明の理ほどに、簡単に口にできる。

 

 容姿が嫌い、臭いが嫌い、手触りが嫌い、性格が嫌い、存在そのものが嫌い――叩けばいくらでも出る(ほこり)と同じだ。一度人を嫌いになってしまえば、いずれ全てを嫌うようになる。そして嫌いな物に対する関心が高いほど、嫌悪は時に憎悪にすら変わるのだ。

 その顕著な例が嫉妬だろう。生まれながらの容姿の差、立ちはだかる才能の溝、決して届き得ない力の壁。存在が始まったその瞬間から定められた、天に立つ者と地を這いずる者の差は、強者への羨望と嫉妬に変わる。

 

 もちろん、多くの弱者は影でそれを吐き出し、心の調律を計っている。他人に迷惑をかけないよう、ひっそりと静かに愚痴をはく。そして――どこにでもいる一部の愚か者共は、自らを正義と錯覚して天に立つ者を攻撃するのだ。

 だから彼もその対象になった。先人から称賛され、周囲から羨望の眼差しを受け、周りに女性をはべらせる男――大神御蔭丸も、嫉妬に狂う者達に攻撃を受ける。天に立つ者を引きずり落とし、醜い勝利に酔う為の生贄として。

 

 そこに誤算があるとすれば一つ――大神御蔭丸という男は、攻撃を受けてもなお笑い続けるような、ひどく捩じれた歪みを持っていた事だろう。

 

 

 

 季節は三巡し、四年目の夏。御蔭丸が死神統学院に入学して丁度三年が経った六月の話だ。

 梅雨が続いていたその時期は、尸魂界の至る所で鮮やかな紫陽花(あじさい)を見る事が出来た。花びらの色が薄い葉っぱのような白っぽい緑色から、深い水面を連想させる青と、綺麗に色付いた赤に変わる頃で、連日の雨に疲れた人々の目を楽しませてくれる。雨に濡れて瑞々しい紫陽花は御蔭丸が好きな物の一つで、雨も加えて六月は一年で一番好きな時期だった。

 

 しかし――御蔭丸は好きな紫陽花を、自分の身体で潰す事を余儀なくされる。雨の匂う細い道、黒く閉ざされた景色を楽しみながら歩いていたら、突然草陰から踊り出た男達に殴り倒されたからだ。

 予想もしない襲撃に御蔭丸は反応できない。圧迫、暗転、鈍い痛み。二人がかりで紫陽花の上に引き倒された御蔭丸は、そのまま手足を拘束されて暴行された。腹を殴られ、足蹴にされ、鞘が全身に叩き付けられる。汚れた視界に写るのは、自分と同じ死神統学院の制服を身に付けた男達。

 

 ――なぜ、こいつらは俺を攻撃する?

 顔を蹴られ、腕に鞘が振り降ろされる痛みに耐えながら思う事は純粋な疑問だ。抵抗できず暴行される状況下にあるにも関わらず、一粒の波紋も起きない霊圧の底で、御蔭丸は自身の異常性を知ってか知らずか、瞳を細めて男達の意図を探る。

 ――チッ。昂り過ぎて何を考えているのか分からんな。

 しかし理性の切れた形相の男達は異様に興奮していて、なかなか考えが読み取れない。これはしばらく待った方が良さそうだと、御蔭丸は抵抗せずに(・・・・・)暴行され続ける。

 

 ……そう、抵抗はできるのだ。それどころか四肢を押さえつけられた状況から、男達の制圧さえできる。それをやらないのは――彼が、戦いを嫌っているからだ。それこそ命の危機に瀕してさえ、柄を握ろうともしない程に。

 空から冷たい雨が降る。自然の汚れを洗い流す洗浄の雨でも、傷から溢れ出る血潮は止められない。雨粒で滲んだ赤黒い裂け目を、男達の一人が怒りに任せるまま踏み(にじ)った。粘ついた泥が傷をなぶり、内側から食い破られるような激痛が走る。苦痛に歪んだ御蔭丸の顔を、毛深い腕が殴り抜いた。

 

 ――ああ、痛いな、畜生。

 薄い唇から血が流れる。今ので口の中を切ったみたいだ――泥と血で崩れた視界でそう思うと、男の一人がようやく口を開いてくれた。

 

「■■■■!! ■■、■■■■■■■!!!」

 

 ……だが、その口から放たれたのは聞くに堪えない罵詈雑言。もはや言葉とすら呼べない感情の塊だ。鬱憤を晴らすように一層激しくなる暴力の嵐の中、御蔭丸はかろうじて、彼らの意志を理解する。

 ――そうか。ようは、俺が憎いのか。

 ――なら、どうでもいい。

 ――もう、こいつらに構ってやる必要はない。

 

 男達が嫉妬に駆られて自分を襲っているのだと理解した御蔭丸は、ほう、と息をついて全身から力を抜いた。急に柔らかくなった彼の手足に不審がった男達は、僅かに理性を取り戻し、汚泥渦巻くギラついた目を御蔭丸に突き立てる。男達の視線が自分に向けられているのを確認した御蔭丸は――腐り落ちた臓腑のような、慈愛に満ちた(おぞ)ましい笑顔を毒々しく裂き開いた。

 

「――どうぞ、お好きになさってください」

 

 その気味の悪さに行動を止めた男達の耳に、身体を這いずり回る蟲蟲(むしむし)のような、本能的嫌悪を掠り取る羽虫の声が届く。ごぼり、と口から赤を吐く彼は、熱く粘つく血液と一緒に、棘のない清涼な音をドロリと溶かし(こぼ)していく。

 

「僕が憎いのでしょう? 僕が嫌いなのでしょう? なら、遠慮する事はございません。貴方達の持つ鬱憤を、僕で晴らしてください。いくら殴ってもよろしいです、犯されたって文句は言いません。何をしても良いんです――だから構わず、お好きにしてください。何故なら、僕は――」

 

 言葉の続きは、振り抜かれた鞘でかき消された。それを合図として、御蔭丸への絶え間ない狼藉が再開される。男達の形相にもはや理性はなく、ただ感情に任せるまま無慈悲な暴力が振るわれていった。

 彼への、身の毛もよだつような嫉妬に駆られて。

 彼の、地獄の底を覗いているような、鮮血の双眸(そうぼう)に絡み取られて。

 その意志が恐怖に縁取られている事も知らず、男達は暴行し続けた。

 

 ――そして、半刻も過ぎた頃。

 死神統学院の制服がもはや衣服の意味もなさないほど、見るも無残な姿になってしまった御蔭丸は、まだ笑みを浮かべ続けていた。

 全身に刻まれた傷から来る痛みは既に飽和していて、奇妙な火照りが残っているだけだ。その熱も降り注ぐ雨が少しづつ冷やしていき、紫陽花の匂いが心を包む。雨と共に景色を覆う、赤と青の花片の螺旋が、黄泉路に満ちる散華のようで。

 

 ――ああ、俺は死ぬのかもな。

 頬の傷を唇で歪ませる彼は、死の手にゆっくりと引っ張られていくのを自覚した。このまま何もしなければ、自分は確実に死んでしまうだろう。それが分かっているから、せめて笑って息絶えてやろうと笑みを濃くする。

 それはとても穏やかで、苦しみの色などどこにもない。これだけ嬲られてまだそんな風に笑えるのが、御蔭丸の歪みを如実に表している。

 

 しかしその歪みを見出せない男達にしてみれば、それは強者の余裕でしかない。どこまでやろうと所詮は弱者、一生かけようと高みには届かぬのだと、蔑まれているように見えて勘違いを引き起こす。

 ついに、男達の一人が血に塗れた鞘から刃を引き抜いた。ただ殺す為だけに磨き上げられた一振りの凶刃が雨粒を払い、御蔭丸の頭上に掲げられる。

 ――なんだ、もう楽にしてくれるのか。

 ――ありがたいことだ。

 

 その悪辣な私怨による凶行にさえ、御蔭丸は感謝の笑顔しか浮かべない。霞む景色に一際輝く、鈍色の光に目を細めて――彼は、死を受け入れる事にした。

 情のない雨が降り注ぐ。ぬるい夏風が纏わりつき、紫陽花の花びらが舞い上がる。命絶つ死の刀が、強く強く振り降ろされて。

 

「御蔭丸――――――!!!」

 

 赤錆(あかさび)色の咆哮が響き、刃が腕ごと絶ち飛ばされた。

 

「■■■■■■■■■!?」

 

 腕を斬り捨てられた男は猿のような汚い叫びをあげた。肘から先がなくなった腕を抱え上げて泣き叫ぶ男が、赤錆の残像を引いて疾走する影に右肩から袈裟斬りにされる。血飛沫を吹き上げて倒れる男を切れかけた意識で見ていた御蔭丸は、自分を守るように背を向ける赤錆の髪を濡らす彼を見て、吐息のように呟いた。

 

「――――……アシド、さん……?」

「喋るな、傷にさわる」

 

 こちらを見ずに短く言うと、アシドは正眼に刀を構える。屈強な肉体から放たれる霊圧は熱く鋭い。はちきれそうなほど五体につまっているそれは、紅蓮の怒りだ。アシドは今にも発火しそうなくらい、激怒していた。

 ――……怒って、いる……?

 ――……誰の……ために……

 ――……俺の、ために……か……?

 

 どうしてアシドが怒っているのか。その理由が自らにあると悟った御蔭丸は、アシドの裾を掴んで止めようと(・・・・・)した。アシドが男達に敵わないと思ったからじゃない。男達を斬るよりも自分の治療をして欲しかったからでもない。自分の生き死になどどうでもいい(・・・・・・)。ただ男達は同じ統学院の同期であり、理由はどうあれアシドが男達を斬ってしまえば、必ず罰を受けてしまう。自分などを助けてしまったばかりに、アシドに迷惑をかけてしまう――それだけは絶対に避けねばならなかった。

 

 だから、震える腕をアシドに伸ばす。御蔭丸を守るために人斬りの罪を犯そうとするアシドを、何とか止めようと言葉を紡ぐ。

 ――お願いだ……

 ――俺なんかのために、刃を振るわないでくれ――

 だが、喉が潰れて声が出ない。言葉の代わりに出てくるのは、半ば固まった黒い血の塊だけだ。伸ばした手も、少し持ち上がって地に落ちた。それでも何とか、アシドを止めようとして――

 

 かろうじて繋がっていた糸が切れ、御蔭丸の意識は闇に呑まれた。

 

 

 

   φ

 

 

 

 ――黄金の塔が滅びていく。

 落雷に打たれ、地に飲み込まれながら、絢爛たる天の(その)がその威容をかき消していく。

 誰もいない。誰もいない。

 ここには俺自身さえもいない。

 あるのはこの虚栄の地獄に捨ててきた、取り戻せない後悔だけだ。

 何もない。何もない。

 ここに何かがあってはならない。

 だから当然のように軋みは広がり、貴き権威は崩れていく。

 その、誰もいない筈の世界で。

 

 俺の名を呼ぶ誰かの声が、ひどく寂しく響いていた。

 

 

 

   φ

 

 

 

「……――――止めてくれっ!」

 

 そう、何かに縋るように手を伸ばして、御蔭丸は寝台の上で目を覚ました。目に写るのは白い天井、先ほどまで居た筈の雨と紫陽花の記憶からかけ離れている。その認識の齟齬(そご)にはっとした途端、ついで波打ってきた痛みに身体を張りつめさせた。

 神経が過剰に反応しているような感覚に苦悶の声がもれる。空気がぬるい、身体が熱っぽい、汗が多くて気持ち悪い。額に貼りつく髪を手で拭って、御蔭丸はとりあえず、ここがどこなのか朦朧(もうろう)としながら確認する。

 

 目に見える範囲はとても白い。清潔感溢れる、悪く言えば味気ない部屋だ。頭のすぐ横には牡丹(ぼたん)が二輪飾られている。深く甘い牡丹の香りにつられて空気を吸い込むと、覚えのある薬の匂いが鼻をついた。

 ――そういえば、ここにはかなり見覚えがある。

 さっと周囲を見回すと、確かに見た事のある風景だ。特に黒く縁取られた四角い窓は、そこからよく雨空を眺めていた記憶がある。今も雨が降っているのか――そう窓辺に目を向けたら、雲の切れ間から差し込んだ光が紅い瞳を焼きつかせた。

 

「ッ――……」

 

 橙色の陽光に眉を曲げて、御蔭丸は不快気に目をそらす。

 ――明るすぎる光は嫌いだ。

 寝起きで闇に慣れた眼には太陽は眩しすぎる。ズキリとする眼の奥の痛みを、眉間を揉み込んで追い払おうとしたら、ふとある違和感に襲われた。

 ――橙色の、光?

 ――そんな馬鹿な、まだ昼前のはずなのに――

 

 もう一度外を見れば、雲の切れ間から地平線に沈んでいく日輪の姿が確かに見えた。自分の目が間違っていなければ、とっくに夕方も過ぎようとしている。

 ――一体、何があったんだ?

 日光のせいで少しだけ意識がはっきりしたので、自分が何をしていたか思い出そうとする。雨の細道、紫陽花の色、刀を持った男達、赤い痛みと泥の光景、そして吹き荒んだ赤錆の風――雑音の混じる記憶の断片が現れては消えていく。どれも今一つ不明瞭で、集まってきた意識が溶けていくばかりだった。

 

 ――くそ、身体がだるいな。

 緩慢な動きで白い髪を掻き上げると、手から伝わる体温がいつもより高く感じる。延々と痛む身体に朦朧とする熱さ、身体が弱っている証拠だ。本当なら今すぐにも寝てしまいたいが、なぜかそうしてはならない気がする。何か重大な事を、忘れている気がするのだ。

 そう、それは、天に(そび)える黄金の宮殿のように気高く美しい――

 御蔭丸が何かを思い出そうとしたその時、部屋に一つしかない引き戸が静かに開く。何となしに目を向ければ、卯ノ花がほっとした様子で胸を撫で下ろしていた。

 

「――ああ、良かった。御目覚めになられたのですね」

「……卯ノ花、先生……?」

 

 御蔭丸の苦しそうな呟きに、卯ノ花は慈母のように美しく微笑む。思わず挨拶しようと立ち上がろうとした御蔭丸は、全身を這いずる痛みに悶絶した。卯ノ花はすぐさま彼の元にかけより、優しく肩を押してゆっくり寝かせる。

 

「まだ動かないで下さい。傷は完治させましたが、失った体力が戻っていないのです。今は無理をせず、ゆっくり休んでください」

「卯ノ花先生……()はどうして、ここに……?」

 

 痛みで噴き出す汗を丁寧に拭いてくれる卯ノ花にそう尋ねると、彼女は驚いて顔を上げた。

 

「……何があったのか、憶えていないのですか?」

「……そうではありませんが、明確に思い浮かべられないのです。まるで記憶に(もや)がかかっているようで……」

「そうですか……きっと、一時的に記憶が混濁しているのでしょう。大丈夫、きちんと休めばすぐに思い出せますよ」

「いえ、今すぐにでも思い出したいんです。何か、とても大切な事を忘れているような気がして……」

 

 安心させるように微笑む卯ノ花に、御蔭丸はやたら真剣な眼差しを送る。それは一刻も早く思い出したいと願っているようにも、笑う余裕がないようにも見えた。卯ノ花は少しだけ逡巡した様子を見せるが、彼が望むならと、悲しげに眉をひそめて辛く目を閉じる。

 

「分かりました、そこまで言うのならお教えしましょう。貴方は御学友に――いえ、もう学友などと言うべきではありませんね。貴方は暴漢に襲われたのです。人の通らない小道で襲われた貴方は暴虐の限りを尽くされ気を失い、総合救護詰所に運ばれてきました」

「そうだ……確かにそうでした……俺はあの男達に襲われて、それから……そう、アシドに助けられて……――ッ!!」

 

 そこで御蔭丸はやっと、自分を助ける為に男達を斬ってしまったアシドの事を思い起こした。

『――違う、それではない』

 そしてどうして今まで想起出来なかったのかと自分を罵る。アシドは自分のせいで罪を犯したというのに、のうのうと忘れていたなんて恥知らずにも程があるだろうと。

『――……何故だ』

 とにかく、彼の潔白を証明しなければならない。こんなところで、寝ているわけにはいかない――

『――どうして、応えてくれない……!』

 

 頭の中に響く声を意図的に無視して、御蔭丸は今一度起き上がった。激痛が全身を駆け巡るが、それに構っている暇はない。無理に立ち上がろうとする御蔭丸を卯ノ花は叫びそうな勢いで押しとどめる。

 

「なんて事をするのです! 貴方はまだ、動けるような状態では……!」

「どいてください……! アシドは何もしていない……俺が全ての責任を負わなければ、申し訳が立たない!」

「彼の事なら心配いりません! ですから落ち着いてください!」

 

 卯ノ花の張りつめた叫びに御蔭丸はハッと我に返った。

 ――俺は今、何をしていた?

 尊敬する恩師を押しのけた自分に愕然として、火が消えたように力が抜ける。やっと止まってくれた御蔭丸に卯ノ花は内心、自らを省みない彼に怒りをにじませながら、傷が開かないようにきちんと横にさせた。

 

「ごめんなさい、卯ノ花先生……」

「全く……狩能さんなら心配いりません。確かに彼は人を斬りましたが、現場の状況からどちらに非があったかは明白。咎めもそう重くはないでしょう。ですから今は体力を回復させる事に専念してください。いいですね?」

「はい……本当に、ごめんなさい……」

 

 少々きつい口調で卯ノ花はそう諭すが、見た事もないほど意気消沈している御蔭丸の様子に気勢が削がれる。彼の大きな身体が小さく見えてしまうくらいの落ち込み様――そんな彼の姿に、卯ノ花はひどく胸が痛んだ。それにこのままでは回復にも支障がでると判断した彼女は、(こら)えるように胸元の(えり)をぎゅっと掴んで、心とは裏腹の笑顔を浮かべる。

 

「どうしても心配なら、私から総隊長に嘆願しておきますから。そう気を落とさないでください」

「そこまでしてもらう訳には……いえ、すみません。どうかよろしくお願いします」

 

 御蔭丸は最初断ろうとしたが、せっかくの申し出なのだから受けておこうと考え直した。そしてこれ以上卯ノ花に心配をかけないよう軽く頭を下げて、いつもの柔らかな笑みで礼を言う。

 

「そういえばまだ、治療のお礼を言っていませんでしたね。ありがとうございます、卯ノ花先生」

「いいのですよ。貴方もいずれ死神となるのですから――仲間の命を救うのに、お礼などいりません」

「……ありがとうございます。卯ノ花先生」

 

 慈愛に満ちた言葉に、御蔭丸はもう一度、今度は深く礼を述べた。それからしばらく、何となしにお互いを見つめ合う。言葉では表せない不思議な空気が、彼らの間に漂っていた。

 ……漂っていたのだが、じっと視線を合わせ続けると流石に羞恥心がわいてくる。最初は慈しむように微笑んでいた卯ノ花も、だんだん頬のあたりがほんのり赤くなっていって、逃げるように視線をそらした。それでも両指をいじいじしながらちらちら見てくる彼女はつい抱きしめたくなるある種の誘惑を放っていた。

 

 ――でも、そうするわけにはいかないよなあ。

 ある程度調子を取り戻した御蔭丸は、口元を隠して欠伸をする。さっきまで寝ていたはずだが、身体はまだまだ寝足りないようだ。彼女の言った通り、体力がまだ戻っていないのだろう。そんな彼の様子を見て、卯ノ花はそっと言ってくれる。

 

「もう横になった方がよろしいですね。貴方は休息を取るべきです」

「そうみたいですね……では、眠りにつかせて貰います――おやすみなさい、卯ノ花先生」

「ええ、おやすみなさい」

 

 寝台に身体を倒して、彼はゆっくりと目を閉じる。見慣れた暗闇の中で、小さな手が頭を撫でているのを感じた。

 母親のような優しい手。懐かしい感触に、少しだけ頬を緩める。

 ――よく、眠れそうだ。

 声は、もう聞こえない。

 心地よい熱を感じながら、彼は深い眠りへと落ちていった。

 

 

 

 ――聞けなかった。私は、聞く事が出来なかった。

 ――どうして貴方は抗わなかったのかと、聞くべきだったのに。

 日が沈み、満月が昇り始めた病室の中。

 見た目に似合わず、幼い少年のように眠る御蔭丸から手を離して、卯ノ花は表情を翳らせる。自らの務めを果たせない、己の弱さを恥じるように。

 御蔭丸の治療をした彼女には、彼が一切の抵抗をしなかったのが手に取るように分かっていた。普通誰かに襲われたのなら、急所を守って抵抗する。だから急所とそれ以外の部位では、それ以外の部位の方が圧倒的に傷が多い。

 

 でも彼の身体は急所もそれ以外も同じように深い傷を負っていた。両手を押さえつけられて抵抗できなかったとしても、傷口を見れば筋肉を少しも固めてなかった事が一目瞭然だ。だから卯ノ花は聞かなければならなかったのだ――どうして、抵抗しなかったのかと。

 ――でも、聞けない事も分かっていた。

 ――何故だか彼にだけは、私は臆病になってしまう。

 

 卯ノ花烈四番隊隊長。彼女が四番隊隊長になったのはほんの数年前の事であり、四番隊の隊長として見れば経験の浅い新米だ。

 もちろん、それは彼女が隊長として劣っているという事ではない。その能力・人格に些かの申し分もなしと判断されたからこそ、彼女は隊長という大役を務めているのだ。現に卯ノ花が治める四番隊は、これまでの歴史で一番纏まっているとそこかしこから囁かれている。

 しかし――隊長としての人格が、必ずしも内面と一致するとは限らない。

 

 卯ノ花烈は立派に隊長を務めあげる反面、その心の裡では人には決して打ち明けられない闇を抱えている。その闇を知る者は多くいるが、闇の行く末を識る者は彼女の他に一人しかいない。その一人を待つ為に、彼女は四番隊の隊長となった。だからそれまでは、四番隊の隊長として振る舞おうと決めたのだ。

 しかし――こと大神御蔭丸という男が絡むと、途端にそれが出来なくなってしまう。その理由を、卯ノ花は見つけ出すことが出来なかった。とうの昔に己には不要と捨てた筈の物だったから、なぜ彼にだけ臆病になるのか分からなかったのだ。

 

 卯ノ花はこれに関して散々悩んだが、自らに抱える闇から自身の臆病を弱さと誤解した。ある意味では弱味と言ってもいいものだが――真実を捉えているとは言い難い。

 いずれ、その誤解に気付くだろう。今はどうあれ、彼女が隊長で在り続ける限り、必ず自分を振り返り気付く事柄なのだ。一年か、十年か、それとも百年か――どれ程の時が必要なのかは、誰にも分からないけれど。

 

 しかし、所詮それは未来の話。今の卯ノ花は彼に対してとても臆病で、だから彼の心に手を入れられない。自らに刃を向けられ、それでも戦わなかった御蔭丸という男の本質に、傷付けず触れられる自信がなかった。特にさっきのように、今まで影すらちらつかなかった彼の取り乱した態度は、いつぞやの修練の時のように、御蔭丸がとても遠い存在に思えてしまって。彼女のなけなしの勇気さえ、奪い去ってしまう。

 

 ――少しの間、そうやって御蔭丸の傍で自身の不甲斐なさを悔いていた卯ノ花は、ふと手の平についていた白い髪に気付く。きちんと見ればとても綺麗なのに、月光に照らされるそれは不気味な白さが息衝いていた。流れるような見た目に反して硬質なその髪を、彼女は無意識に、大事そうに両手で閉じ込める。

 

 月は青白く、御蔭丸を濡らす光は異様な程に冷たい。安らかに眠る彼の表情はともすれば死人のそれで、今にも月光に溶けて消えてしまいそうだった。

 仮にそうなったとしても、卯ノ花は止める事さえ出来ないだろう。踏み出す勇気のない者に、誰かを留める事など出来ない。窓に縁取られた月光はまるで光の壁のように彼を包み、彼女を拒んでいた。

 いずれ、卯ノ花も自らの想いに気付く。しかし、それが何時になるのか――

 

 ――それが分かるとすれば、永久不変に変わらない、神と呼ばれるモノだけだろう。

 

 

 

   φ

 

 

 

 御蔭丸が襲撃された日から三日が経過した。この間、御蔭丸がした事と言えば良い生活を送るだけだった。アシドに迷惑をかけ、卯ノ花にみっともない醜態を晒してしまった彼にとっては、とにかく卯ノ花の言いつけを守る事が最優先だったからだ。アシドへの謝罪をするにしても、体力を取り戻してからの方が結果的に早くなる。そう思った御蔭丸は文句も言わず看護婦の言いつけ通りにし、他愛無い話に花を咲かせて心の安寧を招く、良い患者である事を心掛けていた。

 

 そして四日目の今日。この調子ならあと一日もあれば回復すると太鼓判を押された御蔭丸は、浮かれて無茶をしないよう、今日も今日とて寝台に齧り付いていた。何もせずに寝続けるのは少々暇を持て余すが、退屈はしていない。幸いにも面会謝絶になる程ではなかったので、お見舞いの客がひっきりなしにやってくる。主に同期の女性で、合間にちらほらと男の級友が来る感じだ。話のネタがなくなって困ったりもするが、おおむね楽しい時間が過ぎていった。

 

 予想もしなかった見舞い客が来たのは、そんな折である。二年前にアシドに紹介されてから週に一度は通っている「射場ちゃん屋」の店主から手荒い応援を受けた後、彼女と擦れ違うように入って来た男に、御蔭丸は思わず飛び起きてしまう程仰天した。

 

「アッ……アシドさんっ!?」

「よお、御蔭丸。元気そうで何よりだ」

 

 「射場ちゃん屋」の店主にどつかれながら入って来たのは、人を斬った罪で審議にかけられているはずの狩能雅忘人その人だった。罪を問われて憔悴した様子もなく、生き生きと唇の端を上げて笑うアシドに、御蔭丸は何事かを言おうとする。しかしびっくりしすぎて言葉にならず、口をパクパクとさせるしかない。そのバカみたいな反応が気に入ったのか、アシドは笑い声まであげて、楽しそうに寝台横の椅子に座る。

 

「なんだ、そんなに驚く事はないだろう。俺も自分が堅物だって自覚はあるが、友人の見舞いにも来ないほど冷たいつもりはないんだがな」

「いえ、そういう事ではなくて……! で、出歩いても大丈夫なのですか!? 僕はてっきり、僕を守ったせいで牢に入れられているものとばかり……」

「ハハハッ、そんな心配をしていたのか、お前は? 確かにこっぴどく叱られはしたが、情状酌量の余地はあるとかで三日の謹慎で済んだよ。今日は謹慎も明けたから、お前の見舞いに来たのさ」

 

 尻すぼみに言葉を濁す御蔭丸に対して、アシドはあっけらかんとした態度だった。罪に問われた事なんて、まるで気にしていない感じだ。しかし表面がそう見えるからと言って、簡単に罪悪感を消すわけにはいかない。例えアシドが本当に気に掛けてなかったとしても、彼に迷惑をかけた事実は変わらないのだ。だからけじめはきちんとつけなければならない。御蔭丸はそう断じて、軽い笑顔のアシドへ神妙に頭を下げた。

 

「アシドさん――申し訳ございませんでした。僕のせいで、貴方に迷惑をかけてしまって、本当に申し訳なく思っています。ですから僕は、貴方からのどんな要求も受け入れる所存で――あいたっ!?」

 

 謝罪の言葉を連ねていると、拳骨が振り降ろされて強制的に中断させられた。結構な強さでやられたのでかなり痛い。衝撃で舌も噛んでしまい、少し涙目になって頭を上げると、アシドがむかっ腹で鼻を鳴らした。

 

「なに馬鹿な事を言っている。俺はな、お前に何かして欲しくて助けたわけじゃない。お前が大事な友人だから俺の意志で助けたんだ。それで牢にぶち込まれようが統学院を追放されようが、後悔はない。分かったか? 分かったならその目覚めの悪い顔を今すぐ止めろ」

「は、はい……」

 

 鼻先に指を突きつけてそう肩をいからせるアシドに気圧されて、御蔭丸は思わずこくこくと頭を縦に振ってしまう。「分かればいいんだ」とアシドは大きく頷いた後、御蔭丸と目を合わせないように窓辺を見て、バツが悪い感じで口を開いた。

 

「……だいたい、俺がお前を助けるのにいちいち礼なんて言わなくていいんだ。お前は俺の友人で、俺の仲間だ。だからお前を助けるのは当然で、その度に礼を言われたんじゃ背中が痒くなる」

「――――……そう、ですか」

 

 アシドは気恥ずかしそうに頬を掻く。それを素っ頓狂な顔で眺める御蔭丸の中では、彼が卯ノ花と重なっていた。

 ――同じだ。

 ――アシドも卯ノ花先生も、同じように仲間を大切に想っている。

 ――ああ、やっぱり。素晴らしい人達だ。

 眩しい物を見るかのように目を細める御蔭丸は、やがて気持ちの良い微笑みを浮かべる。すると自分が笑われてると思ったのか、アシドは羞恥心が怒りに反転した面持ちで言葉を吐いた。

 

「な、なんだその顔は! 俺の言った事がそんなにおかしいのか!」

「いえ、そうではないのです……――ただ、貴方は素晴らしい人だと、今更ながら実感した次第でして」

「なっ……」

 

 心の底から言っていると直観できる御蔭丸の微笑みにアシドは絶句して、俯いて髪をグシャグシャにした。そして頭を抱えたまま、ぶつぶつと何かを呟き続ける。しばらくそうしていたが、聞こえない呟きが治まったあと、アシドは顔を上げずにため息をついた。

 

「…………よくもまあ、臆面もなくそんな事が言えるな、お前は……」

「良い事実を言うのに遠慮などいらないでしょう? 僕なんかに言われても仕方ないかもしれませんが、貴方は本当に素晴らしい人ですよ、アシドさん」

「……お前という奴は……はあ……」

 

 いつも通りの人の良い笑顔で御蔭丸はそう語る。そこに一切の裏がないと分かる分、アシドの照れくささは波濤(はとう)の勢いで天に昇っていた。というか、こちらだけが恥ずかしい思いをするのも不公平だろうと沸々と思う。だからひねくれた言葉の一つでも返してやろうと口を開いた瞬間、経過を見るために訪れた卯ノ花が病室の扉を開いた。

 

 

「調子はどうですか、大神さん――あら、貴方は確か、御学友の……」

「…………!」

 

 突然現れた女性に、アシドは心臓が飛び出しそうになる。子供の頃から男所帯で育ったアシドは女性が苦手だ。一応女の人もいたが、それは男よりも男らしい「射場ちゃん屋」の店主である。だから卯ノ花のようないかにも女性といった人は接し方が分からない。そんな、見た目は冷静だが思考が完全に吹き飛んでいるアシドの様子を見て、御蔭丸は悪い笑顔を光らせた。

 

「どうも、卯ノ花先生。そういえば先生にはまだきちんと紹介していませんでしたね。こいつが友人のアシドです」

 

 御蔭丸はそう言って、自然な動作でアシドの方を掴む。アシドがぎょっとして動こうとすると、怪我人とは思えない力が肩を掴んで離さない。大汗を流しながら、それでも堅物の顔を崩さないアシドは、大慌てで御蔭丸に詰め寄った。

 

「お、おい! お前、俺が女苦手なのを知っているだろう! 何のつもりだ!」

 

 卯ノ花に聞こえない小声でアシドは怒鳴る。

 少し前までは御蔭丸が一方的に知っていたアシドの苦手意識だが、実はついこの間、「射場ちゃん屋」で一緒に食事をしていたら店主が楽しそうに暴露してしまっていた。だからアシドの苦手意識は白日の元にさらされていた。一応、アシドから口止めされている御蔭丸だが、ついでに苦手意識の克服も相談されている。手を出すべきでないと思っていたが、本人から相談されたなら積極的に付き合ってやろうと常々考えていた。しかし――

 

「ええ、知っておりますよ。僕にも相談してくださいましたしね。ですが貴方は口では(いさぎよ)い事を言いながら、いつも逃げてばかりではありませんか。だからこの機会を以て、貴方の女性に対する苦手意識も克服すべきかと愚考いたしましてね――ですから、逃がしませんよ?」

「い、いや、それなんだがな! 俺はまだ、女と話すなんて早いと――――!」

「そんな事を言って、僕が呼んだ女性と会う事すら出来ていないでしょう! この調子では千年経っても克服できません! さあ、覚悟を決めてください。大丈夫です、卯ノ花先生はとても人が良いですから――――!」

 

 強引な笑顔で女性と対峙させようとする御蔭丸に、アシドはなおも逃げ出そうとする。両者ともかなり必死だったが、それでも扉の前できょとんとしている卯ノ花には聞こえないようにギャアギャア言い争っていた。

 

「なんだかよく分かりませんが……本当に仲がよろしいのですね。ふふふ、仲良き事は良い事です」

 

 二人の様子に卯ノ花はにっこりと微笑む。最終的には、掴み合いに発展した彼らに笑顔で雷を落とす事になるのだが――

 ――それでも、淡く穏やかに。その日は、とても安らいだ時間が流れていた。

 

 

 

   φ

 

 

 

 初撃は下段。万象を裂く烈火の如き斬り上げが音を置き去りにする。重すぎるその一閃は受け切れない。刃を引き、滑らすように受け流す。

 二撃目は上段。振り上がった刀は既に返され、間髪入れずに袈裟斬りがくる。体勢は戻っていない、地を蹴り、紙一重で避ける。

 三撃目は中段。地に降ろした勢いのまま回転し、天地を両断せんとする水平の刃が迫る。反応はすんでのところで間に合うが、当然、耐えられはしない。強引に受け止めた自身の刃ごと、道場の壁まで弾き飛ばされた。

 

「ぐうっ!」

 

 強い衝撃に呻きが漏れるが、相手から目を離すような愚行は犯さない。すぐさま体勢を立て直し、次撃に備える。

 ……だが、いくら待っても四撃目は来なかった。極限の集中をしていた彼はそれを訝しむが、すぐに理解する。

 自らの手におさまる刃は、刀身の中ほどから先が無い。それを認識すると同時に、折れた切先が足元に突き刺さる。

 それは、御蔭丸の敗北をどうしようもなく示していた。

 ――これまで、か。

 

「……参りました」

 

 敗北を悟った彼は折れた刀を置き、床に正座して頭を垂れる。敗けるのなら、せめて潔く在れ。そう思ったからだ。

 

「何をやっておる。儂が何時、敗北を認めよなどと口にした?」

 

 しかし彼の思惑とは別に、元柳斎は厳然と叱責した。決して大きくはないしゃがれ声はとても重く、頭を下げたままではとても耐えられない。御蔭丸がとっさに背筋を伸ばすと、燃え果てた黒色の三白眼が彼を鋭く射貫いた。

 

「お主はまだその五体があるじゃろう。刀がなくば拳でかかれ。指千切れ手折れようと、自らを犠牲にし相討つ覚悟で敵を屠れ。死神の務めとは、手立てがなくとも尸魂界を護る事にある。それがなんじゃ、たかだが刃を折られた程度で頭を下げおって……よいか、御蔭丸よ――

 ――伏して生きるな、立ちて死すべし。

 死神たらんとする者が、易々と大地に屈服してはならぬ。命在る限り、決して諦念に身を委ねるな」

「――……分かりました、元柳斎様」

 

 言葉を聞き終えた御蔭丸は立ち上がり、拳闘の構えをみせる。訓導の始まりから変わらない、心が凪いだ紅い眼は元流斎を静かに見据えていた。その眼光を一身に受け止め、元流斎も刃を納めて拳を握る。その肉体は老いさらばえ、御蔭丸より二回りも小さくとも、身に纏う威容は隔絶(かくぜつ)していた。

 

「その心意気、努々(ゆめゆめ)忘るるでないぞ――――来い、小童(こわっぱ)

「はい――――()きます」

 

 御蔭丸は元流斎へ一直線に迫る。動きは直情、至極読みやすい。軽くいなしてやろうと元流斎が動いた瞬間、御蔭丸は脚の膂力のみで足場を崩した。床が蜘蛛の巣状に裂け、元流斎が一瞬ぐらつく。その瞬間目がけて、握り拳の内に秘めた鬼道を零距離で爆散させる――

 ――はずだったが、鬼道の拳はいとも容易く元流斎に受け止められ。

 それを理解する間もなく、御蔭丸は崩れた床に叩きつけられた。

 

 

 

 

「ふむ――そろそろ、一段落とするかの」

「はあっ……はあっ……はあっ……分かり、ました……」

 

 元流斎はそう一息ついて構えを解いた。元流斎はしわの寄る額に少し汗をかいている程度で、疲弊していない。その足元で大の字になっている御蔭丸は大量に発汗しながら、息切れしつつ返事をする。

 ――前にも思ったが……本当に凄い人だ……

 これでも全盛期に比べれば衰えた方だというのだから驚きだ。流石は護廷十三隊の頂点に立つ武人なだけはある。

 ――それに比べて、俺はまだまだ若輩か。

 ――まいったな。この調子じゃ、いつまでたっても元流斎様の期待には応えられんな。

 

 もっと鍛練を積まなければと、倒れたまま御蔭丸は意気込んだ。それをいつの間にか居た長次郎から貰った茶をすすりながら眺めていた元流斎は、鋭い視線のまま思案していた。

 御蔭丸はほんの一週間前、同じ死神を志していた筈の者達に襲われた。傷自体は四番隊隊長卯ノ花烈の尽力もあってその日限りで完治したが、失った体力を取り戻すのに四日を要す程の暴行を受けていた。

 

 当然ながらこの事態に元流斎は激怒し、御蔭丸を襲った者達を即刻死神統学院から追放した。死神を志す者が仲間を襲うなど言語道断、本来ならばその場で叩っ斬ってやりたかったほどだ。しかし御蔭丸の友人であるアシドが例外なく暴漢共を斬り捨てていたため、あくまで書類上(・・・)の追放に留まっている。もはや暴漢共は何処にもいないのだ、ことさら裁く必要もあるまい。

 

 まあ、それはもういい。既に過ぎた事であって、元流斎はもう割り切っている。問題なのは、暴行されて一切の抵抗をしなかった御蔭丸だ。元流斎は死神統学院の創設者であるという経歴上、院生への授業も積極的に行っている。だから御蔭丸を襲った者達も多少ながら師事しており、力の度合いも良く知っていた。だからこそ御蔭丸に問題があるのだ――抵抗出来るのに抵抗しなかった。力があるにも関わらず力を行使しない選択を、彼はしてしまったのだ。

 

 これはかなり重大だ。なぜなら力を振るうべき時に振るわなかった事実は、後々の彼の運用にも響いてくる。例えば重要な場所の守護を任せた時、今回のように敵へ攻撃しないなんて事になれば、そこから一気に瓦解してしまう可能性が生じてしまう。あくまで可能性の話で、一か所を潰された程度で崩壊するほど尸魂界も護廷十三隊も甘くないが、それでも働かないかもしれない部下など積極的には使えない。

 

 彼が下位の死神なら注意だけで済ませるが、御蔭丸は元から強く、これからの成長にも大いに期待できる。だから元流斎はこうして一対一の稽古に呼び出し、その真意を問い質そうとしていた。

 

「御蔭丸よ。一つお主に、尋ねる事がある」

「尋ねる事、ですか……? 何でしょうか?」

 

 元流斎との稽古を反芻していた御蔭丸は、厳かな声に鈍い動作で正座する。しかし元流斎は中々話を切り出そうとせず、据わった眼で視線を送り続けた。

 ――俺、何かしたか?

 その状況に少し戸惑いつつ、御蔭丸はとりあえずにっこりと笑って見せる。すると元流斎の視線はますます鋭くなった。御蔭丸からしてみれば、何が何だかさっぱり分からない。だが――元流斎の口から出た言葉に、彼は柔らかな笑顔を凍りつかせた。

 

「お主、悪漢共と抗戦しなかったそうじゃな」

「……どうして、それを知っているのですか?」

「戯け、その傷は誰が治したと思っておる。四番隊隊長卯ノ花烈から報告が上がっておったわ――お主の傷は、抗ったとは判断できぬほど深かったとな」

「成程……卯ノ花先生にかかってしまっては形無しですね。その通りでございますよ、僕は全く一切抵抗しませんでした」

 

 理由を聞いた御蔭丸はすぐさま笑顔を取り戻し、微笑みのまま問い掛けを認める。相変わらず妙に笑う男だ。黒い眼光を更に尖らせて、元流斎は話を続ける。

 

「して、儂が問いたいのはそこじゃ。お主は何故抗わなかった? 今の拳闘を鑑みれば、お主を襲った輩なぞ素手で制圧できよう」

「それは……」

 

 御蔭丸は苦笑いしながら黙り込む。言うべきか言うまいか、迷っているような気配だ。元流斎が御蔭丸の返答をじっと待っていると、彼は何か確かめるように頭を触って、躊躇いがちに答えた。

 

「……前にも言いましたが、僕は戦いが好きではないのです。誰かを守る為ならまだしも、自分の仲間と戦うなんて考えられません。だから襲われた時、このまま死んでもいいかと思ってしまいました。僕が彼らの邪魔になり、足枷となって歩みを阻害しているのなら、消えてしまった方がいいだろうと」

「……お主は大馬鹿者じゃな。自らの怠慢を他者のせいにし、(あまつさ)え襲い殺すような者共に改心の余地などない。そんな救えぬ者共に手を伸ばし自らが死す、それは美しかれど悪と断ずるに十分じゃ。お主の行いは、お主を襲った悪漢以上の悪辣と知れ」

「……分かりました」

 

 元流斎は静かなれど厳しい言葉を吐く。それもそうだ、戦いが嫌いだから戦わないなど、そんなもの理由にすらなっていない。死神と云う戦いを旨とする者を目指すならなおさらだ。

 だが――そう怒る一方で、元流斎は納得した事がある。こんな風に物事を考えているから、この男には出来ないのだ。それを念頭に入れた上で、元流斎は御蔭丸を鋭く睨む。

 

「やれやれ……お主がそうも頑ななのは相分かった。されど、何時までもそうである事は決して赦さぬ。戦う意志を持て、御蔭丸よ。刃を抜かれたなら、相手を斬る覚悟を決めよ。そうでなくば、お主には――斬魄刀の解放など出来はせん」

「…………」

 

 御蔭丸は明確な返事をせず、黙り込んだ。その様を見て元流斎は小さく首を振り、ため息をついた。

 斬魄刀。それは死神の心の(カタチ)とも言うべき、唯一にして無二の刀剣。全ての死神が魂の奥底に眠らせる力の名だ。本来それは(ホロウ)の罪を洗い流し、尸魂界への門を開くために在るものだが、時に並外れた霊力を持つ虚も現れる。そう言った強大な力を持つ存在に立ち向かう為には、斬魄刀の解放が必要不可欠なのだ。

 

 ただし、斬魄刀は誰でも解放できるわけではない。斬魄刀を解放するためには、いくつかの手順を踏む必要がある。

 最初にやるべき事は、斬魄刀との「対話」と「同調」。自らの心に沈み、己だけが持ちうる精神世界へ赴く必要がある。そこで斬魄刀と対話し理解する事で、斬魄刀の名を聞き出せれば解放できるのだ。しかし残念な事に、「対話」と「同調」は誰にでもできる事じゃない。担い手の力量が足りない場合、斬魄刀が解放できない事なんてざらにある。だから下級死神の多くは己の斬魄刀ではなく、「浅打」と呼ばれる名のない刀を所持している。

 

 逆に上位死神はほぼ例外なく己の斬魄刀を持っており、席官級ともなれば持つ事が必須とすら言えるだろう。入学当初から上位席官級の実力を有していた御蔭丸ならば、とっくに「対話」くらいできておかしくないのだ。しかし、死神統学院に入学して四年目、御蔭丸は未だに斬魄刀の声すら聞けていなかった。

 精神世界へ潜る事はできるのだ。刃禅(じんぜん)と呼ばれる斬魄刀との対話に最も適した形をとって心の奥底へ往ける事は、元流斎も確認している。しかしそこで斬魄刀の声も聞けず、姿も見えないと御蔭丸は話していた。

 

「……明言できんか。お主の戦いへの嫌煙は相当じゃな。まあ良い、まだ時間はある。砂を掻くような不毛であったとしても、精進を続けよ。いずれ解放に到達するやもしれぬでな」

「……念頭に入れておきます、元流斎様」

 

 それもまた明確にせず、御蔭丸はひっそりと頭を下げる。強固なものだ――その苛烈なまでの戦わない覚悟は、もはや感心に値する。捕らえられても死にかけても笑い続けられるこの男にとって、戦いだけは己を殺さねば出来ない。笑みを消し、心を凪がせ、人から鬼へと成り果てなければ、御蔭丸は戦う事が出来ないのだ。

 全く、こんな問題児は流石の元流斎も初めてである。であるからこそ、教育のしがいもあるというものだ――そう思っていると、長次郎が困惑した面持ちで耳打ちしてきた。

 

「……何じゃと? あ奴がここに来ておる? ……ふむ、よかろう。通せ」

 

 短いやり取りをして、長次郎に了解の意を伝える。大袈裟に頭を下げて道場の出入り口へ行く長次郎を見送り、元流斎は御蔭丸と向き直った。

 

「さて、御蔭丸よ。そろそろ稽古を再開したいところじゃが、どうやらお主に客が来たようじゃ」

「客……僕にですか?」

「然様。しかし稽古を蔑ろにするわけにはいかん。よってお主はこれから、その客と修練に励んでもらおう」

「はあ……」

 

 御蔭丸は言葉の意味を測りかねて気のない返事をする。前向きな態度ではないが、どうせどんな心意気でも元流斎なら稽古を続行させるはずだ。理解する必要もないかと少し疲れた吐息をつくと、見覚えのある男が入って来た。しかしその男がここに来るなんて完全に予想の外にあった御蔭丸はとても驚き――そして、困ったようににっこり笑う。

 

「なんだ――貴方でございましたか。どうしてこんな所に……いえ、今は聞く必要もありませんね」

 

 話している途中で、男は言葉を叩き切るように鞘から刀を抜いて構えた。会話は不要、剣で押し通せと言わんばかりだ。後ろに撫でつけた黒髪の下で、冷たい銀光が御蔭丸を見据えている。白い羽織を纏うに相応しい威風を感じながら、それでもまずは礼儀からと、御蔭丸は礼をした。そして立ち上がり、長次郎が用意してくれた新しい刀を抜いて正眼に構える。

 

「それでは、宜しく御願い致します――朽木(くちき)銀嶺(ぎんれい)、六番隊隊長」

 

 返答はない。代わりに、鋼を打ち付ける甲高い残響が、刃を交えた間に散った。

 

 

 

   φ

 

 

 

 一目見たその瞬間から、この男は危険だと瞬時に理解した。

 怖気の走る(わら)い顔を見るまでもない。その鬼のような異貌(いぼう)から、数多の地獄を歩んだであろう深紅の炯眼から、鍛え上げられた(おお)きな身体から、普遍の者ではないとありありと伝わってくる。

 人の善い笑みなど稚拙な贋造に過ぎない。この男の本質はもっと昏く、深く、底の見えない深淵の如き無の果てに在る。

 

 それが本能で理解出来たから、牢獄の前に集結した隊長の内、「六」の男であった朽木銀嶺は、御蔭丸が霊圧を操作した瞬間斬り捨てようとした。躊躇いなどない。白と赤しかないその姿を脳裏に焼き付けたその時から、銀嶺にとって御蔭丸は虚と同列の「敵」となっていたからだ。

 あいにくその場では止められてしまったが、その日から銀嶺は常に御蔭丸の動向を見張っていた。何か不祥事や大逆を犯す素振りを見せれば、必ず斬るつもりだった。

 

 ――この男は獅子身中の蟲。放っておけば、いずれ尸魂界を仇する害悪となる。

 ――そうなる前に、私の手で斬らねばならぬ。

 銀嶺の決意は固かった。瀞霊廷の五大貴族の一、「朽木」家の当主でもある彼は、そもそも素性も知れぬ流魂街から死神を見出す事にさえ反対している。銀嶺は生まれついての死神として、幼少から厳しい教育を受けてきた者にこそ、死神としての使命を全うする意志が宿ると考えていた。

 

 それを浅慮と蔑む者もいるだろう。能力や人格に生まれは関係ないと言う反論も受けてきた。貴族の傲慢だと、面と向かって言われた事もある。

 だが銀嶺にとって、それは聞くに値しない事だった。己のような貴族は流魂街の平民とは違う。彼らのように気安く在ってはならない。彼らのように弱く在ってはならない。貴族は誇り高く、厳正に、己が本分を成し遂げなければならないのだ。その為に銀嶺は、その生涯のほとんどを修練で埋め尽くしてきた。

 

 銀嶺の考えは自らを極限まで鍛え続けてきた経験に裏打ちされている。その肩に尸魂界と現世を護る大儀を乗せる、護廷十三隊の隊長としての責務を果たせるほど、銀嶺の意志は強いのだ。並々ならぬその気概は、御蔭丸のような得体の知れない輩をすぐさま敵と認識する冷酷さを持ち合わせていた。

 しかし御蔭丸は一向に馬脚を(あら)わさなかった。死神統学院に通い、徐々に力をつけている御蔭丸を危惧した銀嶺は、ついに鍛練の場を借りて稽古という名の決闘に挑んだのだった。

 

 道場の中で刃が踊る。鋭い銀閃、強い光閃。二つの刀が火花を散らし、互いの持ち手を斬り裂こうと咆えている。傍から見ればどちらが優勢かは一目瞭然だ。死神の隊長である銀嶺と死神ですらない御蔭丸――どちらが上かは、考えずとも分かる。だが御蔭丸は、剣の技量だけを見れば銀嶺に追い縋っていた。

 鋭い剣影が銀嶺の頬を掠める。容赦のない目を抉る一撃、それを薄皮一枚で回避し、がら空きになった腹を蹴り捨てる。

 

 だが硬い。筋繊維(きんせんい)の詰まった胴体は避け様の蹴り程度ではびくともしない。跳ね返された衝撃を受け流すべく、銀嶺は御蔭丸を踏み台に跳び、間合いを取った。蹴飛ばした腹には(あざ)すらなく、紅い幽鬼の眼には殺人の意思しかない。

 ――これ程甘さを排した殺意を、たかだか学び舎に三年居ただけの若輩が出来るものか!

 大虚(メノス)と相対してさえこんな重圧は感じない。九天の空が圧し掛かってくるような強い威圧を発する御蔭丸は、静かに刀を正眼に戻す。硝子の如き虚無を湛える紅の瞳には、砂粒程の淀みもなかった。

 

「……どうした、次は(うぬ)からかかってこい」

 銀嶺も刀を構え直して挑発する。それは朽木家当主としての余裕の表れだ。同時に、表情から次の一手が読めない御蔭丸への警戒でもある。先ずは出方を見極める――そう身構えた途端、縮地と疑える速さで御蔭丸は肉薄した。

 ――瞬歩も覚束(おぼつか)ん割には迅いな……だが(のろ)い!

 この程度は想定の範囲内、突き出された切先を上から叩き落とし、飛燕の刃でひるがえして胴を薙ぎ払う。蹴りではびくともしなかった胴体も、流石に研ぎ澄まされた剣閃には耐えられない。二つの影が交差した直後、御蔭丸の腹から血が噴き出した。

 

 ――このまま(くび)を叩き落とす!

 肉を斬り裂く慣れた感触を確かめた銀嶺は、これが修練である事を理解してなお御蔭丸を殺そうとしていた。もとより生真面目に鍛えるつもりなどない。銀嶺は元流斎の狙いも分かっているが、それでも得体の知れない者をむやみやたらに高めるのは我慢ならなかった。元流斎も銀嶺は初めから御蔭丸を殺す気であると知った上で、銀嶺に稽古という名の決闘を許可したのだ。だから少しも力を緩めず、凶刃を振りかぶって腹の傷で動けなくなっているはずの御蔭丸を斬ろうとした。

 

 ――なっ……

 しかし、弾かれる。時間にすれば腹を斬ってから十分の一秒にも満たない次撃だったのに、御蔭丸は反応してきた。ならばもう一度と、刃を振り上げた矢先――御蔭丸の図体に隠れて、二本の指が銀嶺を指していた。

 

「破道の四――白雷(びゃくらい)

 

 短い呼気と共に、白い閃光が一直線に放たれる。狙いは眉間、脳髄を射抜かんと迫る雷撃に銀嶺は間一髪で後転して(かわ)した。そのまま二転三転して距離を取ると、御蔭丸は腹を斬られているにも関わらず立ち上がり、再び刃を構えた。

 ――ッ……この男!

 回避は楽だったが、すぐさま体勢を戻す銀嶺の顔は晴れない。不快感が(にじ)む双眸は、御蔭丸の血溜まりに濡れる腹に突き刺さる。

 

 統学院の制服が切れ、赤い染みがついているそこからは、たった今付けられた傷が良く見える。白雷が通り抜けたせいで(・・・・・・・・・・・)焼け焦げている(・・・・・・・)斬り傷が。

 ――この男、よもや私に攻撃するだけではなく、鬼道で強引に傷を塞いでくるとはな……

 頭では理解出来る。追撃がいつ来るか分からない状態で、敵を牽制しつつ出血を止めるには、在り得ない手段ではない。分からないのは、それを一秒にも満たぬ時間で即決できる御蔭丸だ。

 

 例えばこれが元流斎のような百戦錬磨の鬼神であればまだ分かる。傷口に塩を塗るでは済まない激痛にも十分耐えうる精神を持っているからだ。だが今戦っているのは死神ですらない男。戦場(いくさば)など経験している筈もないのに、どうしてそんな決断が容易く出来る?

 現にこうして相対している今でさえ、御蔭丸は腹の傷を苦にしていない。苦痛に耐えているのではない、苦痛をまるで意に介していない(・・・・・・・・)無表情だ。傷を負っている事を感じさせない動きは、ともすれば人形にも見えた。

 ――一体何だというのだ、この男は。

 

 銀嶺の頬に知らず、汗が一筋流れる。不気味な事に御蔭丸からは、人形のような印象を与える癖に、刀を構える動作から人間臭さがありありと浮かんでいた。見ている物と感じている事がちぐはぐで、感性が歪曲した気分だ。思考している意図が理解出来ぬ敵ほど、悍ましく厄介なものはない。だが――

 ――今になってようやく、身に()みた。

 ――この男は、私の全力で討ち(たお)さねばならぬ。

 

 冷酷さで凍てついた銀眼が冬枯(ふゆがれ)の如く削れていく。対峙する御蔭丸は肌を伝う汗が一瞬で冷えていく感触に僅かに目を見開いた。心なしか、道場の温度が下がったようにも感じる。今この場を支配しているのは、間違いなく銀嶺の霊圧だ。そんな周囲の変化を全て置き去りにして、銀嶺は自身の眼前に刃を水平に構える。冬の月の寂寥(せきりょう)を宿す銀の眼を刃に重ね、遠くに吹雪く(こがらし)のような荒れ果てた声で大気を(とざ)した。

 

(ほろ)ぼせ――」

「止めいっ、朽木銀嶺六番隊隊長!!!」

 

 銀嶺が自らの斬魄刀の名を口にしようとしたその瞬間、道場に満ちた凍てつく霊圧を元流斎の大喝(だいかつ)が圧し飛ばた。

 

「己が立場を見(たが)うなっ!! お主の使命は死神を志す者を導く先達となりて、流れに(さお)さす事にある!! 専断に(とら)われ後進を屠るなぞ、言語道断じゃ!!!」

 

 鼓膜を(つんざ)く轟雷の咆吼(ほうこう)に銀嶺も御蔭丸も固まった。しかしそれでも、互いを視線で刺しあい続ける。十数秒程続いたそれは、銀嶺が刃を納める形で終結した。すると御蔭丸も納刀し、さっきまでの無表情が嘘のような柔らかい微笑みを湛え、当たり前のようにお辞儀をする。

 

ありがとうございました(・・・・・・・・・・)、朽木隊長」

「……………………」

 

 腹を斬られた事への非難もせず、苦痛に対し音も上げない、ただただ純粋な謝辞の言葉。腐り落ちた花のような(むご)たらしささえも湛える笑顔に眉間を険しくして、銀嶺は何も言わずに背を向けた。

 ……道場を出る最後に、背中越しに視線を送る。御蔭丸は懐から黒い漆器を取り出し、中から出した髪留めを使っていた。

 大きな五つの花びらが美しい、深紅の扁桃花が白い男に色味を与えている。血を思わせる(あか)過ぎる色が、妙に毒々しく銀嶺の眼に焼きついた。

 




 原作より七四六年前の出来事。
 作中の捕捉説明。
 朽木銀嶺は朽木白哉の祖父で、一〇〇前は隊長をされていた方です。ですが京楽春水の発言では「ここ一〇〇年隊長をしているのは京楽・浮竹・卯ノ花・元流斎しかいない」というものでした。しかし老齢の朽木銀嶺が過去に隊長をやっていないという事に違和感があったので、本作では数百年前は隊長→何らかの理由で隊長を止める→何らかの理由で再び隊長になった、という解釈をしています。狩能雅忘人の事もありますし、これを機にタグに独自解釈・独自設定を追加します。
 もしかしたら改稿するかもしれません。

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