BLEACH Fragments of Remnant   作:ヴァニタス

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名前

 ある一人の、滅却師(クインシー)の話をしよう。

 

 その滅却師は老いていた。全盛はとうに過ぎ、長年蓄えた経験と研ぎ澄ました技によって虚を狩り、人々を助けていた。

 その滅却師はかつて旅をしていた。自分の祖国から東へ東へと流浪し、ついには極東の島国に辿り着いた。そこで同じく流浪の末やって来た女性滅却師を妻に(めと)り、子をもうけ、貴い滅却師の純血を紡いだ。

 やがて子が独り立ちし、妻を早く亡くした滅却師は、死を待つ余生の穴埋めとして旅を再開した。当て所なくふらりふらりと、滅却の旅を続けるうち。滅却師はある青年を、別の滅却師から押し付けられる形で育てる事となる。

 笑みを絶やさぬその青年は、大神御蔭丸と名乗った。

 

 

 

 老いた滅却師の元へ身を寄せてから半年、大神御蔭丸は滅却師になるべく苛烈な修行に打ちこんでいた。

 元からあった滅却師の資質。それは混血(ゲミシュト)と呼ぶ事すら躊躇(ためら)われる光の糸のように希薄な血統だった。生来より高い霊圧を有してはいたが、霊子を収束し力とする滅却師には元来不要なもの。

 御蔭丸は霊圧の使用を禁じられ、老いた滅却師の指導の下、滅却師としての下地を整えていった。

 その道のりは順調ではなかったが、御蔭丸は早々と成長していった。霊子の収束能力はもちろん、霊子兵装、滅却師の道具、飛廉脚などの技術等、半年の間に滅却師の基本能力を一通り使えるようになっていた。

 

 いつからだろうか。その下地を、滅却のみに特化させるようになったのは。

 

 老いた滅却師が覚えている限りでは、御蔭丸の色が抜け落ちた頃からだ。

 高い霊力はそれに応じて肉体に変化を求める。最初は常人と変わらない見た目でも、霊力の上昇によって姿を変えるのは珍しくない。変わるのみならず、耐えきれなかった肉体の一部を喪うことだってありうる。

 御蔭丸が喪ったのは、その肌の色と髪の色。変化したのは眼の色だ。

 

 生来浅黒かった肌は、死人のように白くなった。島国ではごく一般的な黒い髪も、まるで虚の仮面のような無機質な白へ変貌した。

 特にその眼は、まるで血溜まりだった。黒味が完全に失われ、体内に流れる赤色だけが浮かび上がる。引き取った頃とは似ても似つかぬ姿に変わり、ある意味その様相は非常に滅却師らしかった。

 老いた滅却師はそれが何故、滅却のみに固執する理由になるのかは分からない。(たず)ねた事はある。しかし御蔭丸は悲しむような素振りもなく平然と答えた。

 

「何でもないです。ただ、僕が受け継いだ最後の証を、喪ってしまっただけですから」

 

 あっけらかんと言う御蔭丸には、優しい笑顔が貼りついていた。押し付けられた青年の経歴を知らない滅却師は、それ以上の追及をしなかった。

 

 

 

 ある滅却師の、最後の話をしよう。

 

 その滅却師が放浪する余生の中で、何の因果か弟子をとる事になって三年経った頃の話だ。

 その日、まだ空に白みもなく暁が遠い夜明け前。

 急に飛び起きた滅却師は、筆舌に尽くしがたい悪寒にさらされていた。

 それが何なのかはすぐに分かった。滅却師が修行の場としていた霊山からほど近い村落から発せられる、狂気じみた霊圧だ。

 老いたとはいえ高い霊圧知覚を持つ滅却師は、あまりの霊圧に身体を震わせ、恐怖で心臓が止まりそうになり、そして誇りをもって覚悟を決めた。

 老いた滅却師はすぐに準備を整える。白い装束、滅却師専用の装備、そして誇りの象徴である滅却十字(クインシー・クロス)。全ての用意を整えた滅却師は、すぐさま霊圧の源へ走った。

 

 それが最後の戦いになるだろうとは分かっていた。老いさらばえた肉体では、最下級(ギリアン)どころか巨大虚(ヒュージ・ホロウ)さえ滅却できない。

 だが滅却師は、行かねばならなかった。おおよそ生存が絶望的でも、村落の住人を助けるために。滅却十字に誓った誇りにかけて、滅却師は戦いへ走る。

 初めから、余生を埋める旅だった。だから滅却師はここで死んでも悔いはない。けれど一つだけ、気がかりが残っていた。修行のため洞窟に閉じ込めた御蔭丸の事だ。

 零に近い適正を覆す程の修行と滅却のみへの特化により、既に滅却師として一つの高みに達していた御蔭丸に、滅却師は最後の試練を課した。それが終わるまで洞窟から出る事は叶わない。そして修行が終わる前に、老いた滅却師の命は尽きるだろう。

 霊圧の中心まであと数十秒もかからない。老いた滅却師はその僅かな時間に、御蔭丸との修行の日々を思い出す。

 

 思えば御蔭丸は、逆らうと言う事をしなかった。全てにおいて笑みを絶やさず、何も攻撃せず、弱音を吐かず、人形のように修行していた。

 たかが三年の間柄でも情が芽生えていた滅却師は、その在り様が悲しかった。何があったかは分からないが、御蔭丸は人間としての幸福をもはや望んでいないようだったからだ。

 だから修行の合間は家族のように接していた。三年もすればほんの少しだが、消え入りそうに微笑む時があった。きっとそれが本当の笑顔だろうと滅却師もしわを深くし、だから気がかりでもあった。

 御蔭丸はまた、一人になる。老いた滅却師が村落を見捨てればそうならないのに、その選択肢はないからだ。

 ――滅却師の誇りにかけて。老いた滅却師は霊圧の中心へ辿り着き、そして死んだ。

 

 そして、修行を終えて洞窟から出られた御蔭丸は、霊圧知覚だけで全てを察した。否定するように歩いてそこへ行き、破壊され尽くした師の死体を見つける事となった。

 御蔭丸は師の残骸から滅却十字を拾い上げ、教えられてきた事を実行する。滅却師の誇りにかけて、何としても師の仇を討つ。それが自分に望まれた、滅却師の在り方と信じて。

 そこには心を亡くした鬼がおり、だが願いの面影を影としていた。

 

 老いた滅却師は最後に、一人の滅却師を育て上げた。のちに百万の虚を殺し尽くし、その白い容貌をさして、その紅い眼孔をさして、(ホロウ)の如き滅却師と恐れられた一人の男を。

 老いた滅却師の名は彼の子孫と、御蔭丸にしか分からない。ただ御蔭丸が今も持つ滅却十字には、掠れた文字で東国の姓が刻まれている。

 その滅却師は、『石田』といった。

 

 

 

「――それが俺とアルヴァの確執の始まりだ。

 最初は勝敗がつかなかった。血と死の底で嗤い狂っていた奴と戦い、決定打を与えられなかった。最初の戦いののち、奴は機が熟すのを待つといい、俺の前から消え去った。

 それから六年間、俺は奴の足跡を追い、道中虚を滅却(ころ)して廻った。最後には滅却師の最終奥義を使って奴を滅ぼし、その反動で俺は死に、滅却師の力を喪った。

 それで終わっていた、筈だったんだがな。アルヴァニクスは生きていた。その限り、俺には奴を滅却する義務がある。

 ――――滅却師の、誇りにかけて」

 

 焚き木のように揺らめく鬼道の光に濡れて、男はそう断言する。生前死したその瞬間から変わらない姿の御蔭丸は、死覇装を身に纏っている。

 この日のために直しておいたものだ。正式な死覇装とは違うが、御蔭丸は戦いに赴くならこれを着るべきだと判断していた。

 そんな白い男の初めて見る姿を写して、ハリベルは瞳を瞬かせる。今日が最後に過ごす夜。本来なら一秒でも長く、彼の腕に抱かれていたい。けれどそれ以上に、彼女は知っておきたかった。

 御蔭丸を御蔭丸たらしめた、彼の過去(ルーツ)を。

 

「……お前にとって、師はどういう存在だったんだ?」

 

 椅子の上で膝を抱えるハリベルは、腕に顔をもたれて問う。聞かされたのは粗筋だけで心情を挟まない物言いだった。だから知りたい、御蔭丸にとってそれがどういう意味を持っていたのか。

 察する男は髪を掻く。乱れた白髪を掻き分けて、紅い扁桃の髪留めを掬い取る。血塗られた五片の花びらを醒めた眼で見下ろして、御蔭丸は唇を動かす。

 

「師父は、今の俺を形作った一人だ。俺の心は、三本の大きな柱に支えられている。

 一人は母上、一人は名も知らぬ少女、そして最後に我が師父だ。彼らから教えてもらった事が支えになって、面影の俺はここにいる。

 だから師父は、大事な人だ。もう心が壊れた後に出会った関係でも、かけがえのない優しい人だった。血は繋がっていなくとも、師父とは確かな絆があった。

 ――故に俺は、アルヴァニクスを殺さなければならない。滅却師の誇りにかけても、俺の生き様にかけてもな。分かるだろう、ハリベル。俺は仇を、ただの一度として殺し損ねた事はない。

 奴を除いて、それ故に。必ず殺さなければならないんだ」

 

 髪留めを戻して、荒れ果てた眼で御蔭丸は言う。白い大男に広がる薄暗い様相に、ハリベルは頷くしかない。そうだ、御蔭丸は仇を全て殺している。実の父でさえ、自らの手で殺したのだ。

 だから同じように、アルヴァニクスも殺すのだろう。その結末がどうであれ、御蔭丸は必ず成し遂げる。

 そのようにしか、もう生きられないのだから。

 

「……お前が行く理由は、よく分かった」

 

 蒼い(ほむら)の向こうを見据えて、美しい鮫は重く呟く。強い未練に満ちた翠の視線を御蔭丸へ向けながら、彼女はそれを口にしない。

 これは儀式だ。覚悟がなければ語らないと言った御蔭丸の過去を、引き留めないと誓ったあの日の約束を、果たす為の最後の儀式。

 それをしなければ、ハリベルにはとても耐えられない。世界でただ一人の愛する男を、この手の届かない場所へ見送るなんて。今すぐにでも御蔭丸の自由を奪って自分だけのものにしたい衝動を押さえて、ハリベルは視線で、行けと言った。

 (さと)い男は、それで分かる。御蔭丸は立ち上がり、斬魄刀を手に取った。済ませた別れの挨拶を長引かせる事なく、男は愛する人に背中を向ける。

 そのままあの闇の元へ向かい、そして二度と帰らない。それでいい、己は御蔭丸の生き方を邪魔したくない。

 愛しているから、ハリベルは。御蔭丸を引き留めない。だからせめて、去りゆく姿から眼を逸らす事を、許して欲しいと瞳を閉じた。

 

「……ハリベル。最後に、お前に謝る事がある」

 

 震える彼女の行動を無視して、背を向けたまま男は言う。続く言葉は予想できる、だからハリベルは眼を開かない。不意に溢れる涙に構わず、じっと言葉の続きを待った。御蔭丸は少しだけ、迷うように頭を揺らして。やがて決意し唇を開く。

 

「お前の傍からいなくなる事を、謝りたいんじゃあないんだ。もっと別の根本的なところで、俺は嘘をつき続けてきた。それをお前に、謝っておきたい。

 ハリベル。大神(おおがみの)御蔭(みかげ)(まる)は、俺の本当の名前じゃない」

「……な、に……?」

 

 予想外の台詞に、ハリベルは思わず眼を見開いた。背を晒して立つ男は、そこに負い目を乗せている。ハリベルだけに対するものではなく、死して出逢った多くの人達への。

 そして、死す前に護りたかった、全ての誇りに懺悔するように。拳を強く握りしめた、壊れた男は真実を語る。

 

「“御蔭丸”、というのはな。本来は成人前の幼子につけられる幼名だ。子供の頃はそれで通っても、元服を迎えれば名乗る事はない。俺には“御蔭丸”、ではなく。大神の者として与えられた本当の名前、(いみな)がある。

 ……だが俺には、それを名乗る資格がなかった。大神としての務めも誇りも貫けなかった俺に、斯く在るべしと願われた名は、もう名乗るべきではないと思った。

 だから名を捨て、出会う者全てに。大神御蔭丸と、名乗ってきたんだ」

 

 そこで御蔭丸と名乗っていた男は振り返り、ハリベルの傍へ歩を進める。片膝になって彼女の手を取り、真っ直ぐに。祈るように男は言った。

 

「ハリベル。俺はこんな男だ。どれだけ愛を誓っても、いずれ必ずお前を裏切る。そんな俺がお前に残せるのは、俺の本当の名だけしかない。

 だからハリベル、どうかこの名を受け取ってほしい。こんなものしか残せない、俺を許してくれるなら、俺はお前に誓う。

 ――この先、何があろうとも。俺の本当の名だけは、お前のものだと。お前だけが呼んでいい、お前だけに許された名だと。俺の誇りに、かけて誓おう」

 

 ――返答は、精一杯の抱擁(ほうよう)だった。

 ハリベルは諦めていた。自分だけの特別は、きっと望んでも得られないと。

 けれど御蔭丸は、いや御蔭丸と名乗っていた愛しい男は言ってくれたのだ。死神ではない、滅却師ではない、ただ一人の男として。彼が生前から持ち続け、折れてなお支え続けてきた、彼の誇りにかけて誓うと、言ってくれたのだ。

 それを信じずしてなにが愛か。己を持たない願いの面影である男にとって、それ以上の特別はない。ハリベルは滂沱の涙で男の肩を濡らし、力強く頷いた。

 心にも身体にも痛いほどの答えを受け取った男は、荒れた顔で抱き返して、その眼を閉じて静かに言う。

 

「――――俺の本当の名は、征宗(まさむね)

 大神(おおがみの)(しん)()(ろう)征宗(まさむね)

 この名を、お前だけに託す。ハリベル――お前だけが、俺をこの名で呼んでくれ。俺の誇り、そのものの名を――」

 

 ハリベルは答えない。口にはせず、抱き返す事で心を示す。

 それが二人の別れだった。行くなとも、ここに居ろとも、口だけの言葉は交わされない。

 男は愛しているから、唯一無二の特別を残し。

 女は愛しているから、それを受け入れ別れを許した。

 ただそれだけの、他愛のない。一つの愛がそこにはあった。

 

 

 

   φ

 

 

 

 御蔭丸は砂漠を征く。虚圏(ウェコムンド)に映える死覇装を纏い、斬魄刀を携えて。滅却師であった男は死神として、生前の怨敵を討ち滅ぼしに歩を進める。

 柔和な笑顔はそこにはなかった。仮面を外し、心を殺し、虚の如き死神となる。霊圧も研ぎ澄まされ高く鋭く、果てが見えない。虚圏を一人で歩く死神という格好の獲物なのに、虚が一匹も近づかないのはそれが理由だ。

 御蔭丸の周りには、濃密な死の幻像が渦巻いていた。

 

「やっほー。随分気合入ってるわね、御蔭丸」

「……ネリエルですか」

 

 近づきにくい死神の空気に、何事もなく踏み入る。組んだ腕に胸を乗せるネリエルは、呆れた視線を仮面越しに投げつける。

 

「行くのね。あの化物のところへ」

「ええ」

「何か言い忘れた事はある?」

「……ハリベルを、頼みます」

「言われなくてもそうするわ。私の大切な友達だもの。他にはある?」

「貴女との別れの挨拶を、まだ済ませておりません」

「そうね。それじゃあさようなら、御蔭丸。また会いましょう」

 

 軽い調子でネリエルは言って、さっさと歩き去っていった。少し驚いた様子で見送った御蔭丸は、ほんの僅かに優しげな笑みを浮かべて、すぐに無貌へ戻り進む。

 また会いましょう、とネリエルは言った。それは彼女なりの励ましだ。必ず勝ってと、無事でいてねと、再会を信じる一言だった。背中を押された御蔭丸は、より一層研ぎ澄ましてアルヴァの元へ突き進む。

 アルヴァニクス・エヌマニュエルは虚圏の黒い(おり)を根城としている。幾多の死体か、それ以外の(おぞ)ましい何かが積み上がった死の大地。何がしかを()む黒い虚が好んで住まう息吹かぬ深淵。

 特に虚の邪魔は受けずそれが見える場所まで、御蔭丸は歩いてきた。黒ずんだ地平線が、生物的黄色の霊圧で(うみ)のように泡立っている。

 見るだけで(ただ)れそうな腐臭に満ちた光景だ。死覇装の白い男は、特に目立った感想は抱かず、ザリッと砂を踏み躙る。そして死地へ一歩踏み出した。

 そして不意に、呼び止められた。

 

「……おい、その先へ行くんじゃねえ」「あれは地獄だ。あんたの行くべきところじゃない」

 

 不思議な声だった。男のようで女であり、高いと思えば低く感じる。二つ重なって聞こえる声に、御蔭丸は振り返る。いつの間にかそこには、胡坐をかいた虚がいた。

 

「知っております。だから僕は行くのですよ」

「死にに行くのか? 止めておけよ」「死んで良い事なんて、一つもないだろ」

「いいえ、殺しに征くのです」

「……どっちにしろ、止めておけ」「強い奴らは殺し合うもんじゃない」

 

 笑顔で応答する御蔭丸に戦意はない。この存在には気付いていたし、おおよそ無害である事も分かっている。むしろ声をかけられて驚いているくらいだ。

 頭を垂れて座り込む虚は、大きさに不釣り合いな白套(はくとう)に包まれている。風になびく姿から分かるのは、辛うじて人型であるという事だけだ。

 それだけでも、外見の見えぬ彼か彼女を最上級(ヴァストローデ)と判断するに余りある。垂れ流される霊圧と天高く積み上がった虚の死骸が、その判断を補完していた。

 

「……平時ならば、貴方の願いにも応えたでしょう。ですが彼の地に待つアルヴァニクスとは、戦いを約束しているのです。死神としても、僕としても、破るわけには参りません。

 申し訳ありません、名も知らぬ最上級様」

「……謝るなよ。あんた、死神だろ」「初めっから期待はしてねえ」

「はい、存じております。それではこれにて失礼します。

 ……僕では、貴方の願いは叶えられません。だからせめて、安らぎのあらん事を祈らせていただきます」

 

 御蔭丸は一礼して、黒い澱の中心へ向かった。その姿を、死覇装を(なび)かせる白い死神を、最上級はじっと見ていた。

 

「……そう思うなら、戦うなよ」「強い奴までいなくなったら、どうすりゃいいんだ」

 

 白套の虚は、疲れ果てたように呟く。それは虚の名の通り、空に虚しく響いて消えた。

 

 

 

「……この辺りにしておくか」

 

 黒い大地の中心近く。深淵を(のぞ)む穴の前で、御蔭丸は周りを見渡す。

 そこには何ともつかぬ闇があった。人の業か、あるいは影か。語るも悍ましいあらゆる闇を押し固めたような、黒い黒い大地が広がっている。

 その中心が目の前にある深淵の穴だ。眼を凝らしても何も見えず、獣の息遣いしか聞こえない。月光が差しても闇は晴れず、光すら呑んで淀んでいる。この穴の底には、一体何が潜んでいるのか。

 きっと、『“虚無”しかない(なにもない)』のだろう。御蔭丸はそう思い、大地を浅く足で削る。そして死覇装をはだけさせた。白い上半身には、ここにある黒とは似ても似つかない、静謐(せいひつ)な鬼道の黒紋が奔っている。

 半分はかつて、虚の侵食を抑えるために死に物狂いで施したもの。もう半分はこの日のために、鍛錬し開発した新しい鬼道だった。

 

(はっ)()の刀剣」

 

 紡がれる呪言を皮切りに、鬼道の黒紋が光を放つ。

 

大狼(たいろう)()(えい) (にれ)軍勢(ぐんぜい) 戰箏(せんそう)()()(たい)()(こう)

 

 動乱(どうらん)凱旋(がいせん)兵装(へいそう)斬景(ざんけい)(せん)()転輪(てんりん)(こく)(びゃく)(やいば)

 

 (けっ)(ぷう)()()(よる)(ひら)け 乱世(らんせい)(いた)りて(われ)(てん)(わか)つ」

 

 金色に輝く紋様が御蔭丸を覆っていく。肌を透かして肉に染み入り、骨に達して血髄(けつずい)を巡る。黒い右腕が一瞬震え、石碑のように凝固した。

 剥がすべきもの、残すべきもの、それら全てを脳裏に刻む。心の中に円を描き、その暗黒へ飛び込むように――鮮血の眼を見開いて、御蔭丸は宣言した。

 

「『(ざん)()(はく)(びゃく)』」

 

 金色の紋様が動きを止め、光が彼を包み込み――次の瞬間、光が弾け、虚の肉塊が弾き出された。

 

「……どうにか、上手くいったようだな」

 

 はねる肉塊を見下ろして、御蔭丸は装束を着直す。ついで鬼道を取り払い、自分の右腕をじっと見つめた。久方ぶりに見る、正真正銘自分の腕だ。鬼道で動かしていた感覚のずれを修正するために彼は右腕を揺り動かし――拳を強く握りしめ、肉塊へ向けて静かに言った。

 

「これは俺の右腕だ。確かに、返してもらったぞ」

 

 返事はない。もはや虚とすら呼べぬ生きるだけの肉塊は、大地をはねて転がっていく。御蔭丸はそれを眺めて、ささやかな既往(きおう)に浸っていた。

 曲がりなりにも十数年、御蔭丸を虚圏に縛り付けた原因だ。もしこの虚に蝕まれなければ、アルヴァと遭う前に尸魂界(ソウルソサエティ)へ戻っていたかもしれない。そう思えば奇妙な因果を肉塊に感じ、最低限敬意を払うべきかと思考を掠める。

 御蔭丸は柄を握り、数秒止まって、斬るのを止めた。考えてみればこの虚との決着は、十数年前に終わっているのだ。今行ったのはそれの蛇足の清算に過ぎない。

 白い男は止めを刺さず、はねる肉塊を見送った。もう終わった過去の遺物、肉塊は意志なくはねまわり、深淵の穴へ墜ちていった。

 

「……――ああ、分かっているさ。俺がすべき事は、それじゃない」

 

 御蔭丸がそう言った瞬間、穴から闇が噴き出した。墜ちた肉塊を月下に戻し、そのまま塵になるまで殺す。肉塊を一瞬で(くも)(がすみ)に変えた闇の渦は、穴の対岸へ収束し――黒い棘が現れる。

 

「――――ギハッ」

 

 闇が嗤う。熱く生臭い蒸気と共に、仮面が三日月の狂気に裂ける。人身にして人にあらず、痩躯にして臓腑なし。仄暗い炎の眼影を抱いて、アルヴァニクスは再臨した。

 

「久しぶりだな、アルヴァ」

「ああ――待ち焦がれたぞ大神御蔭丸! 今日と言うこの日を! 貴様を我が神の祭壇へ捧ぐこの時を!! 我が身を焼いて待ち望んだ!!!」

 

 噛み合っているようで成り立っていない。アルヴァニクスは会話しておらず、大地に身を投げ伏せっていた。随分毒々しいが、五体投地と呼べる姿勢。この狂い殺す黒色の棘は、神と連呼する何かに祈っているらしい。

 かねてより、この闇は何かに祈りを捧げていた。御蔭丸がアルヴァを追った生前も、再戦を契約した十年前も。神と呼ぶ何かに捧げる供物として、全てを殺し血迷っている。

 御蔭丸はそれを問うた事はなかった。問う必要もない事だった。何であろうと、アルヴァニクスは必ず殺す。その意志に、微塵の揺らぎもないからだ。

 刃を抜き鞘と重ね、逆十字を顕現させる。それにより濃密さを増す黄金の霊圧に、アルヴァは更にギシリと嗤った。

 

「……御託はよそう、アルヴァニクス。お互い、くれてやる言葉もあるまい。俺達の間に必要なのは、言葉ではなく刃だろう」

「ギハハッ、その通りだ滅却師! いや、今は死神だったか!? どちらでも良い、早く私を殺してくれ! あの日のように、あの眼をもって!!

 私が――貴様を殺し尽くす前に!!!」

「そうさせてもらおう、アルヴァ。

 ――出し惜しみは無しだ。全力で征くぞ」

 

 瞬間、黄金の霊圧が吹き荒れる。黒い大地が削れるような圧力に、アルヴァニクスの白い眼が狂気を糧に燃え盛る。

 片や無貌、片や狂相。白にして黒い死神と、黒にして白這わす虚が、殺意の眼光を交錯させる。御蔭丸が、高々と逆十字を掲げ――正面へ突き立て、その真名を解放した。

 

「卍解――――――――『(ごく)(らく)(しん)(あま)()()』」

 

 

 

   φ

 

 

 

 黒い澱の大地を前に、その虚は胡坐をかく。

 強すぎたが故に孤独の虚。仲間も絶え、一人砂漠に坐す以外に何も為さない無気力の獣。男か女かも分からない虚は、眼前の大地を見続ける事だけが慰めだった。

 そこには死がある。弱すぎたが故に共に居ながら、削れていった仲間がいる。喰らい合い淀み合い、共倒れした死骸に混じっている。その中心にある深淵の穴に、とても強い虚がいるのだ。

 死にしか興味のない、狂い嗤う存在だ。分かり合えもしない、言葉も交わせない、そもそもあちらはこちらの事なぞ知った事でもないのだろう。それでも、強い存在を見続ける事しか、この孤独は慰められない。

 だから見ていた。その黒い地平線に、黄金の輝きが溢れるまでは。

 

「……始まっちまったか」「……また、一人かよ」

 

 ひどく疲れ切った声でそう言って、虚は立ち上がり、ふらふらと歩いていく。

 行く当てなどない。ただ、一人じゃない場所が欲しい。白い外套を風に任せ、虚は月下に消えていった。

 

 

 

 黄金が夜を支配している。

 それは虚圏に於いても、尸魂界に於いても、現世に於いても一度として、存在しえなかった世界だろう。

 銀世界ならぬ金世界。停滞する粉雪のように、黄金の粒子が無数に煌めく。地表から天高き月まで、地平線の端から端まで覆っているのかと()(まご)うほどに、粒子は濃密に遍在する。

 御蔭丸に変化はない。逆十字はなく、その手に武装は見当たらない。当然だ、紅い眼光の狼にとって、牙とはすなわちそこに広がる黄金の粒子全てなのだ。極光(オーロラ)の如く神秘を纏う黄金の世界こそ、大神御蔭丸の卍解――――獄楽神天禍津だった。

 

「――――ギハッ、ギハハッ、ギャハハハハハハハハハハハハハハハッ!!!」

 

 その威容に、アルヴァニクスは文字通り狂った。

 

「――――神だと! 神だと!? 神と言ったか!!!

 言うに事欠いて、我が前に立ち(まみ)えて、祭壇に捧ぐ神の供物が、自ら神を名乗り上げるか!!!

 ――不届き。不届き、不届き、不届きィ!!! 誰の前で神を騙っているか理解しているか死神ィ!!! この大地にこの地獄にこの世界に、我が神以外の神など微塵も存在を許されん!!! この冒涜の代償は、貴様如きでは払いきれんと知れ――――」

 

 絶叫し(ねじ)れ狂い、アルヴァニクスが虚閃を乱射しようとした瞬間、黒い人型は突然彼方へ吹き飛ばされた。それも殴打の次元(レベル)ではない、まるで砲弾として大砲に入れられたような勢いでグチャグチャになりながら黄金の空を飛ぶ。

 

「ガヒュア、アアッ!?」

 

 千切れかけた首から空気を噴出するアルヴァは驚愕する。御蔭丸に動きはなかった、指一本(きん)(ひと)(すじ)すらピクリとも動かなかった。なのに何故、アルヴァニクスは吹き飛ばされた。

 風圧の中仮面だけを御蔭丸に向ける。やはり動いていない白い死神は、一切情のない顔で静かに言った。

 

「――――『()(てん)(めつ)(じん)』」

 

 瞬間、アルヴァの周囲を覆う黄金の粒子が輝きを増し――光の後、巨大な爆撃と轟音が虚圏の夜に咲いた。

 黒い大地が揺れ、遠い砂漠に嵐が沸く。かつて虚圏に突き立てられた光の十字のような、いや、その何倍もの威力がアルヴァニクスを消滅させた。

 御蔭丸は遠く花開く朱色の空を睨む。少し遠くに飛ばし過ぎた、まだ調整の必要がある。眉間を寄せて御蔭丸は思索し、斬魄刀との接続を強くした。遍在する全ての粒子から情報が流れ込み、脳内を情報で埋め尽くす。外への注意力が低下するが構わず、御蔭丸はアルヴァニクスの霊圧を徹底的に検知する。

 その時、御蔭丸の背後では黒色の闇が増殖していた。ギシギシと羽虫のように嗤い、超速再生したアルヴァニクスは鋭い棘の爪を掲げる。そのまま無防備な御蔭丸の背に音を置き去りにして爪を叩き込み――爪は届かずアルヴァニクスは、数十の雷撃の渦に呑み込まれた。

 

「ギヒャアハアッ! 成程、成程、成程そうか!! これが貴様の卍解か、大神御蔭丸!!!」

 

 雷に打たれ焼け爛れたアルヴァニクスは、今度は突然現れた光の棒の群に押し飛ばされ、空より落ちる無数の火球で爆炎に散る。同時に御蔭丸の傍で超速再生し、攻撃する前に巨大な竜巻に呑まれていく。そのように消滅と再生を繰り返しながら、断続的にアルヴァは吼えた。

 

「卍解とは!!! 得てして(すべから)く巨大であり、刀剣として常識を超えた形状を持つ斬魄刀!! 死神として頂点を極めた者のみに許される斬魄刀戦術の最終奥義!! 

 見落としていた、それ故に! この(ちり)のような(くず)のような(あくた)のような砂粒の群は、等しく貴様に繋がる刀剣!! 鬼道の媒介にはうってつけと言うわけだ――――!!!」

 

 蒼い業火に焼かれながらアルヴァは虚閃を射出する。数十の棘から生い茂り極大に肥大した黄色の虚閃は、御蔭丸に届く寸前に黄金の壁に激突し、不協和音を上げて散る。虚閃が通用しない事実に闇は嗤い、全速力で御蔭丸へ突貫した。

 周囲の粒子全てが武器なら、距離を取る事に意味はない。この金色の幕に絡め取られる限り、アルヴァニクスは全方位から刃を向けられているに等しいからだ。

 故に接近戦こそ最適解。超至近の肉弾戦なら、()(かつ)に鬼道も使えまい。離れているから高火力で儘滅(じんめつ)出来るのだ、御蔭丸もそれを分かって遠ざけてから消滅させている。

 そしてアルヴァニクスはもう一つ、弱点を早々に理解していた。風力を上げる竜巻にさらされ、大地より(てん)(よう)する岩肌に削られ、斬断され燃え尽くされても止まらない。壊れながら懐へ飛び込んだ闇は、再生した腕で御蔭丸の腹を突く。それが貫く寸前で止められた事に頬を裂かせ、無貌の死神を哄笑した。

 

「ギアハハハハハハッ、やはりそうか! 死神ィ、貴様この莫大な粒子の群を統制するだけで精一杯だな!? 十年前より反応が遅い、遅すぎて眼が乾いてしまいそうだ!!」

 

 咆哮と共に鋭い連撃が御蔭丸に襲い掛かる。首、手首、太腿、心臓。動脈を的確に狙う連撃を御蔭丸はギリギリで(かわ)し、鬼道によって反撃する。

 しかし吹き上がる生物的黄色の霊圧が鬼道の大半を掻き消した。御蔭丸も霊圧に押されるが、アルヴァニクスは離れない。あくまで至近距離での肉弾戦を続行する。

 眉間を尖らせる御蔭丸は、ここでようやく戦法を変えた。天禍津との繋がりを弱め、斬術による迎撃を行う。変化は一瞬、アルヴァニクスと御蔭丸が交錯した瞬間、突き出された棘の腕は肩から千切れ宙を舞った。

 

「ほう! 貴様の卍解はそんな事も出来るのか!」

 

 斬り飛ばされた腕を再生させながらアルヴァは嗤う。振り抜いた姿勢の御蔭丸は、いつの間にか黄金一色の長刀が握られている。だが体勢を戻すのが遅い、アルヴァニクスは蟲翅(むしばね)のように嗤い、間髪入れず蹴りを繰り出す。

 それを今度は、いつの間にか出現した黄金の槍によって防がれた。アルヴァニクスが知性のない攻撃をするたびに、御蔭丸の武装は変幻する。数十合も剣戟をむすび、その数だけ武装を変えられ、手足を()がれたアルヴァニクスは、その理由に勘付いた。

 

「成程そうか、粒子の卍解! 形無きが故にあらゆる(かたち)に変貌するか! その気になれば剣でも槍でも、思う(まま)に造り出せるわけだ!

 全く貴様らしい卍解だな! 始解の能力が願いの蓄積所以(ゆえん)ならば、この卍解は貴様の体現! もはや(かたち)なく、誰かの思うが儘にしかなれん大神御蔭丸そのものだ! いやはや実に愉しませてくれる!!

 だがやはり――それでも遅いぞ死神ィ!!!」

 

 繰り出された棘の腕を、またも御蔭丸はギリギリで防ぐ。その次もその次も、断崖の綱を渡るような危うさで、薄皮一枚のところで防御する。

 いつまでも続くまい、とアルヴァニクスは嗤った。鬼道から斬術に移行して多少なりとも反応するようになったが、それでも十年前より遅い。このまま再生しつつ攻撃を繰り返せば、いずれ防ぎ切れなくなると。

 上段から踵を落とす。紙一重で避けられる。

 手刀で首を狙う。十手で腕を絡め取られる。

 頭突きをかます。錫杖で弾かれる。

 がむしゃらに殴る。手甲で全て受け流される。

 二十合防がれ、三十合避けられ、五十合を受け流され、百を超えてもギリギリで攻撃を無効化された。

 

 ――何だ、これは。

 アルヴァニクスは流石におかしいと感じた。これだけ打ち込んでなおも紙一重で当たらない。反応は遅いが初動が速い。これではまるでギリギリで防いでいるのではなく、最速で防いだ結果そうなっているみたいだ。その考えに至り、周囲の粒子を流し見て、アルヴァニクスは舌打ちする。

 ――そうか、この粒子は刀剣としての役割だけではない。

 ――粒子が広がる領域に存在するものを探知しているのか。

 ――道理で妙な動きをするわけだ。反応した瞬間に防いでいるのはそういう絡繰(からくり)か!

 御蔭丸の武装変更時間がほぼ零秒(ノーウェイト)であるのも理由だろう。莫大な粒子の統制、探知による情報処理、それを行えば反応が鈍るのは必然。だが探知した情報によって見るより速く敵を把握し、最適な武装を造成(ぞうせい)して対応する。結果としてはギリギリだが、それは余裕に満ちたものだ。

 

「……解せんな。貴様、何をやっている?」

 

 攻撃しながら再生するアルヴァニクスが問う。先程から御蔭丸は凌ぐばかりで攻撃らしい攻撃をしない。せいぜい手足を斬り飛ばす程度、それでは殺せぬと理解しているはずなのに。

 やろうと思えば造成した武装に鬼道を練り込み、距離を取るなどいくらでも出来たはず。護形刃界でお互いを隔離し、一方的に鬼道を打ち続ける事もやろうと思えば出来ただろう。

 ――なぜそれを行わない? 理由は必ずある筈だ。

 ――単純にそれを行えないだけか?

 ――それとも時間稼ぎか? 何のために。

 ――この滅却師のやる事は常に私の想定を超える。受けてみなければ看過は難しい。

 ――一つ言えるのは……我が神が(ささや)きに囁いているという事だ!!!

 

「これ以上の膠着は座興に過ぎる! 貴様も卍解を見せた事だ――私も見せてやろう、神の僕たる我が神髄を!!!」

 

 連撃を止め、鍔迫り合いで火花を散らして闇は嗤う。同時に黒い身体に走る白い仮面紋(エスティグマ)が不気味に光り、アルヴァニクスは突如崩れた。

 御蔭丸は眼を見開いたが、驚いている暇はない。一瞬で感知し振り向けば、今まさに虚閃を放たんとするアルヴァニクスの()()()がある。すぐさま護形刃界を展開し虚閃を防ぐが、今度は御蔭丸の喉元が光り輝く。

 眼を落とせば、やはり虚閃を放たんとするアルヴァニクスの腕だけがあった。

 

「――――『(だん)(しん)(じん)()』!」

 

 虚閃が射出される寸前、御蔭丸の全身を黄金が覆う。直後、膿のような霊圧が黄金巡る夜を貫いた。大気が灼かれ、空気が()ね退けられる。

 そこから離れた場所に、御蔭丸は着地した。白い肌には黄金の薄絹が絡み、まるで羽衣(はごろも)のように彼の全身に(なび)いている。

 粒子を武装に造成できるなら、当然防具にも転用できる。薄絹一枚の厚さでも霊圧を籠めれば防御力は比類無きものになる、言わば自在に形を変えられる護形刃界。御蔭丸はこれによって至近の虚閃を防御した。

 ただしこれは武装と等価の防護装束。どちらか一方しか発動できないため、すぐ解除して警戒する。周りにアルヴァの姿はなく、不気味な霊圧が逆巻くのみ。その霊圧を戦闘の前から御蔭丸は観測し続けていた。

 アルヴァニクスを殺す勝機は、そこにしかないからだ。

 

「ギヘッ、ギヒヒィ……いやいや全く驚かされる。随分多彩な事が出来るのだな。攻防一体、鬼道の媒介、おまけに能力は霊圧の蓄積。卍解の戦闘能力は始解の五倍から十倍と聞き及んでいるが――貴様はそれ以上だな」

 

 背後から響くアルヴァニクスの声に眼を向け、御蔭丸は天禍津との接続を強める。

 ――もう少しだ。もう少しで、完全に掌握できる。

 ――その時間をくれるのなら、貰わない手はない。

 動き続けて溜まった熱気を肺から吐き出し、御蔭丸は闇と向き合う。眼光だけで射殺されそうな怨敵に向ける眼だ。アルヴァニクスはそれを受けて、感極まったように震えている。

 

「嗚呼、アゝ、ああ――何たる強さよ大神御蔭丸。鬼道一つ取ってすら、十年前とは比べ物にならん。技も威力も霊圧も、確かな死を感じさせてくれる。

 何よりその眼だ。私への憤怒に、私への憎悪に、私への殺意に満ちたその眼が良い。強くあり殺意あり命ある貴様ほど上質だった者は、千年の殺戮にもそうはいなかった。

 ――――故にこそ断言しよう! それでも貴様は私に勝てんと!! 貴様は我が神へ捧げるに相応しい最上級の供物だと、今ここで証明してやる!!!」

 

 仮面全体が罅割れる程の狂気をアルヴァニクスは浮かべ、そして崩れる。また腕だけで虚閃を撃つつもりかと、御蔭丸は身構え――その予測の甘さを知った。

 今度中空に現れたのは腕ではなかった。()()()だった。指先だけが霊圧を圧縮し、虚閃を放ってきたのだ。

 御蔭丸は避けたが、すぐに別の方向から虚閃が飛んでくる。そちらも指だけ、避ければまた別の方向から。気が付けば御蔭丸の周りには、指だけが浮いて霊圧を蓄えている。

 それだけではない。棘だ。アルヴァニクスの体中に生えていた棘の一本一本さえも個別に現れ、虚閃を放つ砲台と化している。眼を見開く御蔭丸は、断神刃衣を発動させた。そしてここが正念場だと、全霊をもって破滅に挑む。

 

 虚閃が全ての指から放たれ、追い撃つように棘からも撃たれる。まずは避け、困難ならば断神刃衣で受ける。次弾を撃たれる前に指と棘の砲台を、鬼道によって破壊する。あるいは砲台の先をずらしてあらぬ方向へ虚閃を撃たせる。

 なるべく断神刃衣で直接受ける真似はしなかった。薄絹の防護装束は護形刃界と同じく、攻撃は防げても衝撃は防げない。これだけの霊圧、これだけの虚閃を断神刃衣のみで受けてしまえば、衝撃だけで即死してしまう。

 肌と断神刃衣を密着させなければ良い話だが、先程喉元に腕が出現した辺り、おそらく空間さえあれば指と棘はどこにでも現れる。予測出来る以上、冒せない危険だ。

 それさえ気を付けてしまえば、防ぎ切れると御蔭丸は分析する。鬼道で対処し、瞬歩で避け、至近距離は白打で叩き落とす。それでどうにかなると踏み、またも予測の甘さを想い知らされた。

 

「……――ウッ、ぐう!?」

 

 突然、吐き気に襲われた。同時に身の毛もよだつ死の予感が、御蔭丸を冷たくさせる。感情のない無貌に初めて焦燥感を募らせ、御蔭丸は自分の腹を睨む。一見して変化の無い腹の内側に、アルヴァニクスの霊圧が収束していた。

 ――奴め、俺の(はら)に指を……!!!

 感知できた数は三本、全てバラバラに向いている。体内で虚閃が炸裂すれば、内側から大神御蔭丸は爆散するだろう。言うまでもなく即死だ。

 ――させるものかよ!!!

 御蔭丸に迷いはなかった。断神刃衣を解いた彼は腕に鉤爪を生成し――自分の腹を突き貫く。

 

「ぐ、ぎいいっ……!」

 

 内臓を貫く激痛を噛み殺し、鉤爪を廻して掻き回す。三本全て絡め取ったのを感じ取り、内臓が引き千切れるのも構わず鉤爪を抜いて、引き出した中身を鬼道で空へ押し飛ばした。直後放たれる虚閃を避けて、御蔭丸は血を吐きながら必死に回道を駆け巡らせる。

 膝を曲げてそうする彼に、突然拍手が降りかかった。痛みに耐えて睨みつけば、手を叩くアルヴァニクスが嘲笑の眼を向けている。

 

「ギハハ、ギハハハハハハハハハッ!!!

 今のを退けるか、流石は御蔭丸だ! 回道で治せるとはいえ自分の腹を貫き、掻き回し、引き千切るなど、死神の隊長格でも出来るものはそうはいまい!!

 流石だよ、感動した!! やはり貴様は最高の供物だ!!! そして――分かっただろう? 貴様に私は殺せないと!!!」

 

 御蔭丸が完治する前にアルヴァニクスは両手を向け、十条の虚閃を纏めて放つ。痛みを無視できず避けられない御蔭丸は、断神刃衣で防いで衝撃で彼方へ吹き飛んだ。いくつもの岩場を砕いてようやく止まった彼は、衝撃で飛びかけた意識を必死で繋ぎながら、負った傷を回復させる。

 

「貴様には理解出来まい、大神御蔭丸! 指一本、筋一筋、脳一片でも存命し蠢き殺す我が能力を!! 神に選ばれた私の、あらゆるものに相対し死ぬ事の無きこの不死性を!!!

 何者をも相手取り、何者をも私を殺せず、何者をも死に至らしめる!!!

 それは貴様も同じ事――貴様は百年前から最後まで、何一つ理解出来ず死ぬのだ!!!」

「――――いいや。理解出来ているさ、アルヴァニクス・エヌマニュエル」

「…………ナニ?」

 

 再び現れ、高らかに謳うアルヴァニクスを、静かな声が停止させた。首を九十度曲げて見下ろしてくる闇に睨み返し、御蔭丸は立ち上がる。

 

「貴様、今何と言った?」

「理解出来ている、と言ったんだ。アルヴァ、お前の能力なんてものは、百年前から見当がついていた」

「ほう――聞こうじゃないか、その見当とやら」

 

 余裕に満ちた嗤いで、アルヴァニクスは続きを促す。自らの能力に絶対の自信を持つ表れだろうと御蔭丸は判断し、喉に溜まった血を吐き出して静かに語る。

 

「確信じゃなく見当なのは、火力が足りなかったからだ。俺の推測の証明には、お前を何度でも消滅させる火力が必要だった。だから俺は百年前、滅却師最終形態(クインシー・レットシュティール)でお前を一片残らず消滅させた」

「ああ、あれは良い一撃だった。まるで我が神のように一切の慈悲なく、私のほとんどを滅ぼし去った。

 ――で? それが何故私の能力の確信に繋がる?」

「お前が一番分かっているだろう、アルヴァ。いや、アルヴァニクス・エヌマニュエルと呼ばれる集合体。死神となり、鬼道を覚え、卍解を習得した事でようやく火力が足りた。そのおかげで確信が持てた。

 アルヴァ、お前の能力は――――“細菌”だ」

 

 御蔭丸の断言に、アルヴァニクスはギシリと嗤った。

 

「……“細菌”。そうか、“細菌”か。その真意は何だ?」

「そのままの意味だよ。お前はアルヴァニクスという一個体に見えてその実、細菌のように細かな群の集合体だと言っている。

 これだけ再生する瞬間を見せられれば、お前に脳や心臓に中枢を委ねていないのは嫌でも分かる。ならば何処かにある中枢を見つければ済むし、全て消し飛ばせばなお早い。だがそれでも滅びないなら、不死性の説明はこれしかない。

 たった一つでも生き残っていれば増殖し再生できる、細菌の如き集合体。増殖している故に霊圧も尽きず、際限なく再生し際限なく死をまき散らす熱業の闇。

 それがお前だ、アルヴァニクス・エヌマニュエル」

「…………ギヒ、ギヒャヒャ、ギハハハハハハハハ…………

 ……――ああ、そうだ。その通りだよ、大神御蔭丸――――!!!」

 

 無貌の死神の眼前で、人型だった闇は(ほころ)びる。光に集る羽虫の群か、あるいは眼に見えぬ細菌のように。人型から逸脱した黒い霧のような何かがアルヴァニクスの周囲に蠢く。

 

「私の能力はまさしくそれだ! 貴様の卍解がこの天覆う全ての粒子であるように、我が身より増殖する“黒死の霧(プラーガ・ニエブラ)”こそ我が本質!! この能力故に全ての私を一度に滅ぼさなければ、私は何度でも復活する!!!

 そして大神御蔭丸! 貴様に私を滅ぼし尽くす事など出来はしない!! どれ程莫大な霊圧を溜めこもうが、どれ程莫大な力で滅ぼそうが、私はこの茫漠(ぼうばく)の夜に吐いて捨てる程遍在する!!!

 故に我が能力を看過しようとも、結末は何も変わりは――――」

「……――――七千百五十間だ」

 

 御蔭丸が呟いた瞬間、アルヴァニクスは停止した。今まさに棘へ変貌しようとしていた“黒死の霧”ですら漂う形で静止する。固まった黒い闇の中で白い焔の眼だけが揺れ動き、御蔭丸を凝視している。

 

「覚えがある数字だろう? アルヴァ。もっと分かりやすく言ってやろうか。

 ――13kmだ。お前がその“黒死の霧”とやらを広げられる限界範囲。お前を中心とした直径13km圏内が、お前が不死身でいられる空間だ」

「…………何故、理解出来た」

 

 乱杭歯の軋る仮面に笑みはない。時が止まったように停止する闇を、御蔭丸は血の眼光で射殺し続ける。

 ザリッ、と脚を滑らせて。鬼道の(かす)かな印を残しながら。

 

「獄楽神天禍津は広範囲に渡り粒子化した斬魄刀を展開する無形の卍解。その距離は数霊里に及び、その領域に入った全ての霊圧を高精度で探知できる。

 そして霊圧とは須く、その持ち主からのみ発せられるもの。霊圧が目の前のお前からだけでなく数千間に渡る空間から発せられれば、不死の秘密も合わさって真実を見破るのは容易い。

 俺は戦いに入った瞬間からずっと、お前の霊圧を探知し続けていた。鬼道で吹き飛ばし消滅させたのも、お前の霊圧の限界距離を測るため。お前の攻撃を凌ぎ続けたのも、探知にかかる時間を稼ぐため。

 そしてこうして話しているのは、既に準備が整ったからだ。

 

 お前を殺す準備がな――――『(じん)()(こう)(ろう)』!」

 

「何――!?」

 

 御蔭丸の烈声が響き、遥か遠き大地の果てに、黄金の壁が出現する。黄金の粒子が収束し形作られていく壁は見る間に天を覆い、視界を黄金で染め上げていく。

 その光景にアルヴァニクスの眼が奪われている隙に、白い大男は大地を蹴潰して埋め込んだ鬼道を発動させた。一瞬の静寂が駆け抜け、直後光の海が大地から湧き出て絶大な地震が彼らを襲う。

 

「――何だと!? 貴様、何故解った!?」

「お前の霧が大気に散らばっているのなら、この大地にも混じっていると想像するのは難くない。戦う前から動かずに術式を浸透させるのは中々骨が折れたが、これで大地に隠していた分は、全て滅ぼし切れたようだな」

 

 アルヴァニクスが祭壇と呼んだ穴から吹き上がる白煙を背に、御蔭丸は天禍津を操る。すると粒子は大地に沈み、瞬く間に黒い土を黄金一色に変貌させた。

 御蔭丸とアルヴァニクスの色以外、世界の全てが金に沈む。刃によって鎖された牢獄を完成させた御蔭丸は、アルヴァニクスに宣言する。

 

「『刃架恒牢』は破れない。天禍津の粒子の九割を使って形成したこの檻は、虚圏のどんな存在にも破壊できない強度を持っている。この檻を脱出したいのなら、俺を殺す以外に道はない。

 さあ――決着をつけよう、アルヴァニクス・エヌマニュエル。百年前のやり残しだ、もうお前を逃がしはしない。一片残らず必ず殺す。

 ――――滅却師の、誇りにかけて」

「…………ギヒィ、ギヘ、ギヒャヒャ、ギハハハハハ…………成程、“黒死の霧”が通らない。確かにこれでは逃げ場がないな。

 ――だが一つ、見落としているんじゃあないか? “黒死の霧”は貴様の体内にも入り込めるという事を!」

 

 動きを止めていたアルヴァニクスが激烈に嗤うと同時に、御蔭丸の体内で黄色の霊圧が収束する。それに勘付いて闇を見れば、指十本が全てなかった。指三本などと生易しい事はせず、今度は取り出す間もなく虚閃で殺すつもりだろう。

 闇を睨む御蔭丸に動揺はない。先程のように鉤爪を生成する事もなく、静かに胸へ手を当てる。アルヴァニクスがそれに訝しんだ瞬間――御蔭丸は霊圧を極限まで高め、自身の霊圧で自分自身を押し潰した。

 

「ぐうっ……!」

「な――!?」

 

 御蔭丸が呻きよろめく。霊圧を上げた影響で肉が裂け、血管が破裂し出血する。当然だ、アルヴァニクスから見ればその霊圧は明らかに過剰。大神御蔭丸と言う器の持つ容量を何倍も超越した霊圧によって、ともすれば肉体が決壊しかねない状態だ。

 しかしアルヴァニクスがそれに驚いていたのではない。目の前の死神が宿した霊圧が、“黒死の霧”を死滅させる霊圧の強さと完全に一致していた事に驚愕していた。現に御蔭丸の体内で増殖させた霧は霊圧に耐えきれず、虚閃を撃つ間もなく削れて消滅してしまった。

 そして御蔭丸は肉体が欠損した瞬間に再生している。つまるところこれは、“黒死の霧”に対する対策だったのだ。

 

「……これで、お前の霧は俺に侵入出来ない。お前の逃げ場は、何処にもない」

「…………いやだが、まだ私に勝機はある! そうだ、貴様の貯蓄した霊圧の量だ!!

 これ程の広範囲に渡る卍解の維持、鬼道に籠めた霊圧、そして霊圧による“黒死の霧”の放逐と肉体の再生!! 貴様は既に十年前に見せた『無刃爆星』とやらの何倍、何十倍、いや何百倍もの霊圧を消費している!!!

 如何に卍解が始解の上位互換とはいえ、それだけの霊圧を使い続ければもはや枯れる寸前だろう!!! 未だ遍在する私を滅ぼし切る霊圧など、残っている筈がない!!!」

「…………そう思うか、アルヴァニクス。なら、教えておいてやろう」

 

 御蔭丸はゆっくりと、アルヴァニクスに指をさす。その行動と感情の見えない虚ろな眼光に、アルヴァニクスは一歩退いた。御蔭丸は何の反応も示さず、死神の名の通り白い指先に濃密な破滅を湛えて、厳かに言う。

 

「天獄に蓄積出来る霊圧は、俺の三日間の霊圧に相当する。そして――――

 ――――天禍津に蓄積出来る霊圧は、九十九年だ」

「何……だと……」

「……もう、懺悔の時間も必要あるまい。終わりだ――――『(ひゃく)(じん)(ぼう)(せい)』」

 

 御蔭丸は静謐に、審判を下す処刑人のように心無く引導を渡し。立ち尽くすアルヴァニクスの視界が黄金の煌めきに溢れ。

 そして――――星を(ほろ)ぼす百の刃が、黄金の世界に乱立した。

 




原作より六七五年前の出来事。
次回、決着。

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