BLEACH Fragments of Remnant   作:ヴァニタス

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荒野に岩壁の花を見る

 ネリエルは静かに扉を開けて、音を立てないよう顔を差し込んだ。ねじれた二本角を持つ仮面の奥から、伺うような視線を向ける。無駄なものが一切ない機能性重視の造りと、扉の周りに描かれた幾何学模様の鬼道術式。既に見慣れた光景なのだが、家主が眠っている時間に無断で来ると、何だか(やま)しい気分になる。頬を赤らめるネリエルは、手早く身体を中に入れて、注意深く扉を閉めた。

 灯りの無い暗い廊下を、そろりそろりと歩いていく。虚圏(ウェコムンド)では親しんだ闇でも、周りに染みついた匂いを嗅ぐと安心するのはなぜだろう。目的の部屋へ向かいながらネリエルは、機嫌よく顔をほころばせていた。

 

「…………あれ?」

 

 気を抜いたら鼻歌を口遊(くちずさ)みそうなネリエルだったが、奥から漏れ出る光にきょとんと眼を(またた)かせる。今まで無意識にも意識的にもここの家主に夜這いを仕掛けたネリエルであったが、鬼道の光が点いていた事は一度も無かった。あんな生き方でも健康を大切にする彼にしては珍しいと思い、同時に夜這いの失敗が確定して肩を落とす。

 ――今日はせっかくハリベルの霊圧を感じない日なのに。

 ある日を境に彼から片時も離れなくなった友人を思い出して、小さな罪悪感が押し寄せる。気高く美しく、深い孤独を抱えていた彼女と、目的の相手が特別な関係である事は知っている。けれどネリエルにはどうしても、二人きりで話したい事があった。

 ――貴女から奪いたいわけじゃないから、許してね。

 罪悪感を和らげるために心中で謝って、気配を消していたネリエルは堂々と光の元へ歩く。家主が起きているのなら、自分の侵入なんてとっくに気付いている筈だから。

 

「……こんばんは、ネリエル。こんな夜分にいらっしゃるのは珍しいですね」

「こんばんは。虚圏は何時だって夜よ、御蔭丸。そっちこそ、こんな時間まで起きてるなんて珍しいわね」

「ええ、不用品の整理をなるべく早く済ませたかったので。今日は寝る間を惜しんで作業をしています」

「不用品の整理? ちょっと見せてもらっていいかしら」

 

 部屋に入るとこちらを見ずに、見慣れた背中が挨拶をよこした。白い衣服に白い髪、大柄な体躯の御蔭丸だ。横長の台に腰掛けて忙しそうに手を動かす目的の(ひと)にネリエルは嘆息混じりに微笑む。そして優しい響きの言葉に興味を引かれて、彼の傍まで近寄って後ろから手元を覗き込んだ。

 ――……よく分からないものが一杯あるわね……

 こまごまとした不思議な形状の物に、ネリエルは首を傾げる。分かるのは材質の大部分が石英という事だけで、あとは鬼道の術式らしき幾何学模様くらいしか目につかない。実験か、またはここの各所に設置してある便利な道具に使った何かだろうと、ネリエルは勝手に納得した。

 ――……あら?

 

「ねえ、それも不用品なの?」

「それ? ああ、調理器具ですか。そうですね、僕にはもう必要のないものですから。使わないのなら処分してしまおうと思いまして」

「そうなの? 結構良い物だと思うんだけど……勿体無いわね」

「見た目は綺麗ですが虚圏(ここ)に来てからずっと使っているので、かなりガタがきていますよ。置いていても(ほこり)を被らせるだけですし、譲る相手もおりませんので。不本意ですが仕方ない事です」

「そうね……それならしょうがないかー」

 

 おそらく処分する物の上に積み上げられる調理器具を不服そうに眺めながらも、ネリエルは諦める。大の料理好き(食べる側)の彼女は既に調理器具一式を御蔭丸から貰っているので、同じものは受け取れない。彼が使っていた記念品として飾るなら価値もあるが――それはハリベルが許さないだろうと、ネリエルは別の意味で諦めた表情を浮かべた。

 

「――どうかしましたか?」

「えっ? ああ、いえ、ちょっとね。ハリベルが一緒にいないの・珍しいなーって思っただけよ」

 

 視線は前に向けたままなのに雰囲気を鋭敏に感じ取ってきた彼に、ネリエルは誤魔化(ごまか)すように言葉を返した。それに気付いてはいるだろうが御蔭丸は追求せず、苦笑交じりに口を動かす。

 

「ああ……ハリベルは彼女の(すみ)()で帰りを待っていますよ。僕が尸魂界(ソウルソサエティ)に戻るための後始末をするのは、見ていたくないそうです」

「……納得したわ。だから珍しく起きていたのね」

「はい。だから早く終わらせて帰らなければなりません。ハリベルが寂しがりますから」

「…………そうね。それなら、私に手伝えることがあれば言ってちょうだい。一人より二人の方が、始末も早く終わるでしょ」

「そうしていただけると助かります」

 

 青い緑の瞳を細めて、ぶっきらぼうに言うネリエルに、御蔭丸は微笑みながら横に寄って場所を空けた。そこへ座り込む彼女に処分する物の大まかな目安を伝えて、御蔭丸は処分しない物を纏める作業に入る。ネリエルは分別していない物が詰まった箱を引き寄せて、処分する物しない物、どちらか分からない物の三つに分けて分別を始めた。

 それから一時間ほど、彼らは黙々と作業を進めた。元々九割がた片付いていたので、時間はそうかからない。全ての分別が終わり、あとは不用品の処分を残すのみというところで、二人は軽く息をつく。

 

「ふー……結構疲れたわ」

「お疲れ様です、ネリエル。貴女のおかげで随分(はかど)りました。あいにく物が全て片付いているので何もお出しする事は出来ませんが、精一杯のお礼を申し上げます」

「あー、いいのよ、いつもお世話になってるし。これくらいはお礼される事でもないわ。それより処分しない物って、みんな尸魂界に持っていっちゃうの?」

「いえ、大半はハリベルの元へ置いていきます。これからを考えればあって損はない物ですので。僕が持っていくのは懐に入る小物くらいです」

「ふーん……わざわざ仕分けしたのはハリベルのため、かー……」

「ええ。そうでなければ彼女も納得しなかったでしょう」

 

 含みのある言い方をするネリエルに白い死神は笑顔で頷く。含みの内側に気付いているのかいないのか、とりあえず受け入れる姿勢を見せる大柄な男。そんな変わりない彼の有り様を、羚羊の虚は脚をブラブラさせながら横目で見ていた。

 ――変わらないと言っても最近は、ハリベルの事ばっかりだけど。

 ――しょうがないかな……私よりも彼女の方が深刻だったし。

 視線を切って、ネリエルはなんとなく天井を見上げてみる。鬼道の蒼い照明は御蔭丸の手によるもの。彼がこの地を去ってしまえばこれもいずれ使えなくなるだろうと、どうでもいい事を考える。

 ――それでも、私をもっと見て欲しいと思うのは。

 ――嫉妬になる……のかなぁ……

 

 天井を透かすように遠くを見つめていたネリエルは、パチリと自分の頬を叩いた。隣の死神がびっくりしてまじまじとこちらを見つめてくるが、気にしない。勢いよく立ち上がったネリエルは強張った身体をほぐすように大きく背伸びをして、快活な笑顔を御蔭丸に向けた。

 

「ところで御蔭丸。今日はどうして私がここに来たのか聞かないのね」

「ネリエルが夜半過ぎにいらっしゃるのは今までもありましたからね。その時と同じ理由だと思っただけですよ」

「へー、じゃあ今日はどんな理由で来たと思う?」

「……僕の寝床への侵入、でしょうか。自分で言うのもなんですが寝心地が良いので、恋しくなったのではと愚考いたします」

「ざんねーん、ハズレー! 正解はね――貴方に愛の告白をしに来た、よ」

「…………御冗談が過ぎますよ、ネリエル」

 

 座る御蔭丸を覗き込むように言うネリエルに、御蔭丸は困ったように微笑む。一見してその表情は娘のわがままをどうするか考える父親のそれによく似ていた。けれども照明を背にする綺麗な羚羊(れいよう)の影にいる男の眼は、荒んだ拒絶の色が渦巻いている。

 ――ま、分かっていたけどね。

 笑いながら凪いでいる顔を青味がかった緑に写す。受け入れながらも、踏み込ませない。傷付けるとわかっていながら、拒絶する方が傷は浅いと言わんばかりの虚ろな眼。こんな眼をハリベルは向けられて、それでも、愛していたのだろう。

 そしてそれは、自分も同じだと――ネリエルはふわりと柔らかな笑みを浮かべる。

 

「そんな眼をしても駄目よ、御蔭丸。貴方の性格なんてこっちは重々承知しているもの。あれだけ嫌がって逃げた私を追いかけてまで、私の願いを叶えてくれちゃったんだから、今更(ちん)()な言い回しではぐらかすのは止めてよね?」

「……どうしてもですか、ネリエル」

「いいえ? 別に貴方が受け入れてくれなくてもいいわ」

 

 あっからかんとした物言いに御蔭丸は眼を丸くする。それでも乾いた色は消えず拒絶する彼に、ネリエルはクスクスと声を漏らした。

 

「御蔭丸、私は貴方の事が好きよ。愛してる・って言ってもいいくらい。でも貴方は、そうでもないんでしょう? あれだけ私のために命を張ってくれていても――結局は、数ある大事な人の一人に過ぎないって思ってる」

「……それは……」

「無理しなくていいわ。貴方のそういう、自分以外の人はみんな大事だって考え方に私は救われたんだから。その上で、それでも私を愛してほしいって言えるほど、私の想いは深くないと思う」

「……それは違います、ネリエル……」

「そう? 私はハリベルみたいに、御蔭丸がいなかったら生きていけないくらいじゃないわ」

「……人の想いの深さは、何を犠牲に出来るかで決まるわけではありません……。行動や見せる意志に違いがあっても、その尊さに変わりはないと、僕は思います」

「そっか……御蔭丸が言うなら、そうかもしれないわね。私の心を見通した、貴方がそう言うのなら」

 

 いつの間にか笑みの消えた御蔭丸に、ネリエルは寂しそうに微笑んだ。

 ぶれないはずの鬼道の光が、炎の揺らぎを再現する。頼りなく揺れる影の中で荒涼としていく男は、彼女の笑みに何を感じているのだろう。儚さを宿す青緑の瞳に去来する願いの光を、白い死神は坐して眺める。

 表情の無い彼を見て、ネリエルはそっと眼を閉じた。そしてゆっくり首を横に振り、笑顔に寂しい影を(したた)らせる。

 

「……ねえ、御蔭丸。私達が出逢ったあの日を覚えてる?」

「……ええ、はっきりと思い出せます」

「私もよ。ただ生きていただけの人生に、初めて色がついた日だったわ。あれから色々あったけれど、私の中であの時くらい、特別な時間はない。

 御蔭丸――初めて逢ったその時から、貴方は私の特別でした。私は、貴方を愛しています」

「…………」

「……答えはやっぱりないのね。でも、それでいいわ。自分以外が全部特別な貴方の世界で、特別以上になろうなんてきっと出来ない事だから。ハリベルみたいに一方通行でも構わない・って、私にはとても思えない。

 だから私は、貴方から愛されなくてもいい。貴方を(うしな)わないのなら、友達止まりでも充分よ。貴方が傍に居なくても、生きていてくれるだけで――私はきっと満たされる。

 それってとっても幸せな事よ。そうでしょう? ねえ、御蔭丸――」

 

 散りかけた大輪のように彼女は微笑む。白い男は動かない。荒れ切ってしまった表情が音も無く、羚羊の君を見つめている。

 それで満足したネリエルは動かない男に顔を寄せて、頬に軽い口づけを落とした。流石にビクリと反応があって、ネリエルはおかしそうに喉を鳴らす。荒れた顔をしていた御蔭丸は、諦めたような雰囲気で徐々に柔らかさを取り戻した。ネリエルも笑って今までより一歩近い距離で、ちゃかすように御蔭丸と話す。

 からかい混じりの、少しだけ特別な関係。友と呼ぶには深すぎて、愛と呼ぶには遠い距離。それでも二度と、喪失しない間柄なら、それでいいと。ネリエルは快活に、そして慈しむように微笑むのだった。

 

 ……なお。後日それがハリベルにばれた時の一騒動は、完全な蛇足である。

 

 

 

   φ

 

 

 

 この終わらない夜の世界でも、刃の本質は変わらない。寄らば斬り、逃げれば裂き、立ち塞がれば無情に貫く。刃とは身を護る力であり、殺す為の武器。その本質を、退屈をしのぐためだけに振り撒いてきた白い燕は、迫り来る黄金の輝きに向けて刃の羽根を射出した。

 振動する鋼の羽根が石英の巨木を軽々と引き裂く。綺麗な断面図を晒して倒壊する森の中、巻き上がる粉塵すら斬り裂く刃が、黄金の十字架に弾かれ散り散りになる。

 

「キャハ、キャハハハハハハハハハッ!!! 何よっ――何なのよアレッ!! 反則にも程ってモンがあるでしょーが!!!」

 

 ついで降り注ぐ無数の白雷(・・・・・)に、チルッチは心底愉しげに爆笑した。弾かれた羽根を戻すついでにいくつかの白雷を防ぎ、チルッチも最高速度で逃げ回る。それでも百を軽く超える雷光線の雨は防げず、いくつもの孔がチルッチに穿たれていく。

 ひどい痛みだ。貫かれる上に傷口が焼かれる。それがいくつも肉体の内側を通るとなれば、チルッチの感じる激痛がどれ程のものか想像に難くない。だが彼女は喉を限界まで引き絞り、血反吐混じりの哄笑を壊れたように謳い続ける。

 燕を追い詰める白い影は、その笑い声を耳にしていた。枝から枝へ捉えられないように跳び回り、攻撃の手を緩めない。白い衣服を吹き荒れる大気に任せ、心亡き貌でチルッチと戦う御蔭丸は、お互いがお互いを見定め攻撃する刹那、艶やかに唇を濡らす凶悪な笑みを確かに見た。

 

「――――虚閃(セロ)!!!」

 

 薄紫の霊圧が収束し、光線となって放たれる。これまでチルッチが見せたどの虚閃よりも太い光に、御蔭丸は瞬歩を用い広い空間へ離脱する。

 そこへ狙い澄ましたように、刃の羽根が密集した。どうにも誘導されたようだと仮面のような顔で御蔭丸は判断し、上下左右前後(・・・・・・)全てに護形刃界を発動させる。黄金の立方体に激突した刃の群は壁を削る重奏を掻き鳴らし、そして墜落した。

 護形刃界を解いた御蔭丸は更なる鬼道を発動させる。移動を制限する『伏火』の網、確実にダメージを蓄積させる『綴雷電』の流れる『赤煙遁』、翼に絡みつき動きを鈍らせる『鎖条鎖縛』の雨――異常な数の、異常な精度で構成された鬼道の嵐。それらが()(とう)のようにチルッチを襲い、着実に追い立てていく。

 

「キャハハハハハハハッ!!! どーしろってんのよコレッ!! 打つ手がまるでないじゃないのッ!! 全く、イヤになるくらい絶望的な戦いねッ!!!」

 

 口先とは裏腹な歓喜溢れる血化粧の笑みで、チルッチは虚閃を何度も撃ち放つ。霊力の限界は近いが、それを気にしても何の役にも立たない状況。手も足も出ない絶体絶命の戦闘を、彼女は艶やかな笑顔で愉しんでいた。

 

「ガッ、アァッ!? ――チィッ!」

 

 それもやがて、終わりを迎える。身体に付着し肉を焦がし続ける粘性の炎に悶え、焼けた肉ごと斬って捨てる。その間にも鬼道の猛攻は止まらず、自分が少しずつ(ほつ)れていくような錯覚を覚えながら、チルッチは後退し通らない反撃を繰り返す。

 先程から刃の羽根は戻らない。おそらくだが鬼道か何かで一厘(いちりん)も動けないほど拘束されているのだろう。振動を限界まで高めても斬れない強度に笑いも出てきやしない。虚閃もあと数発で打ち止めだろう。

 その数発のうち一撃だけを目眩ましに使い、残存霊力の全てを用いて燕の虚はその場から消え去った。

 僅かながら驚いたように震える御蔭丸の霊圧に、チルッチはしてやったと唇を吊り上げる。見様見真似で無様だったが、死神の扱う歩法技術『瞬歩』に似た動きは、あのいけ好かない男を驚かすには充分だったようだ。気慰みにもならないがそれで一矢報いた事にしようと彼女は嗤い、自分の住処へ逃げ去っていく。

 

「……まっ、もう逃がすつもりなんてないんでしょーけど……」

 

 後ろからチクチクと首筋を刺してくる死神の霊圧に二重の意味で嘲笑を浮かべる。短期間に凄まじく強くなった死神への皮肉と、何年も前からチルッチを殺せたのに殺さなかった生き様への嘲りだ。

 他人のために他人を生かし、他人のために他人を殺す。そんなイカれた男の在り方を退屈しのぎに使って数年。いい加減飽きてきたところへ告げられた、虚圏から離脱する旨。勝手な奴だと憤れば、今日は本気で殺しに来るという。チルッチはそれを鼻で嗤い、話半分で戦いを始めて、今まさに死にかけまで追い詰められてしまっていた。

 

「イイけどさ……充分愉しませてもらったし、ね……」

 

 以前も逃げ込んだ洞窟に潜り込み、一番奥で身体を休める。刃の羽根は無く、全身に(くすぶ)る火傷と斬傷、それに鬼道で貫かれた射創(しゃそう)。擦過傷も少なからずあり、(たてがみ)はボロボロで仮面は(ひび)欠けがひどく目立つ。自分の掌一つ取っても見るも無残な有様に、チルッチは自嘲にも似た嗤い声を掠れた喉から絞り出した。

 洞窟内に美しい声が反響する。世界の全てを嘲るようでどこか充足した声に、砂を踏む足音が混じる。暗闇の奥に居るチルッチが入口を見れば、彼女の身体に黒い影を這わせる死神のような死神が居た。

 逆光の中から歩いてきてチルッチの前で立ち止まる。光に塗れて影に濡れても、白い男は白いままだ。それがどうしてかおかしくて、チルッチは嘲笑に純粋な笑みを落とす。死神の名を冠する白い大男はこれまで死神らしさの欠片も無かったが……今日は嫌に死神らしかった。

 

「お疲れ様です、チルッチ様。僕との退屈しのぎはご満足いただけましたか?」

「……キャハハ、満足したか・ですってぇ? それくらいあたしの顔を見て判断しなさいよ、あんたの得意分野でしょ」

「成程、満ち足りていただけたようでなによりです」

 

 御蔭丸は慇懃な物言いを無表情に言い放つ。昏い淵の底を覗いているようなそれに、チルッチは血反吐混じりの嘲笑を深めた。

 ――滑稽ねぇ、嗤っちゃうわ。

 ――こいつはこんなに死神って感じなのにさ。

 ――(あたし)よりも(ホロウ)らしいって、何の冗談よ。

 ――あーあ、ホントアッタマ悪イ……こんな奴に挑んじゃうなんてね。

 チルッチは心中で毒を吐き、現実で多量の血潮を吐く。じわりじわりと地面に染み込む粘つく赤は、彼女の美しかった鬣も黒く染めていく。この出血量に全身の傷、治療をしなければ確実に助からないだろう。

 それを見取った死神は、長刀の鍔をガチリと弾いた。逆光を反射する黄金の煌めきに、燕の虚は傷など物ともしない美しい笑顔を咲かせる。同時に彼女の巨大な腕が弾け飛ぶように動き、(くちばし)のような手刀で男の心臓を抉らんとして――腕は肩から斬り裂かれ、半歩引いた男を素通りして天井に深々と突き刺さる。

 

 腕を斬り裂き振り上げられた刃を見ても、チルッチはもう声を上げなかった。痛みすらも歓喜に変わるこの幸福の中で、苦痛の叫びなんて興醒めに過ぎる。退屈ではない満ち足りた時間、その中で逝かせてくれると言うのなら――それ以上に願う事などチルッチには無かった。

 ()くて刃は振り下ろされ、燕の虚は斬り裂かれた。彼女がこれまでそうしてきたように、鋭利な一刀は胴に袈裟斬りの線を残し、熱い血飛沫が死神に降りかかる。天を舞う燕が落とす羽根のような血の輝きを、御蔭丸は紅い瞳にただただ写し。やがてゆっくりと眼を閉じて、厳かに刃を納刀した。

 ……やがて頬に触れた血の温かさも消え、静寂だけが残される。眼を薄く開いた死神は、目の前に倒れる虚の魄動(はくどう)が消えた事を確認した。

 

「…………!」

 

 不自然な地響きが流れ、パラパラと塵が降ってくる。上を向けば天井に突き刺さった腕から放射状の罅が広がっていた。ここはもう崩れてしまうだろうと、御蔭丸は踵を返して出口に向かう。

 外に出た一歩後に、彼は一度だけ振り返った。血に汚れ、傷に塗れ、斬り落とされた髪のように横たわる彼女。砕けた仮面の内側に見える、満足げな顔をその眼に焼き付け――洞窟が崩れ去るまで見届けて、何も見えない無情のまま、静かに歩き去っていった。

 

 

 

   φ

 

 

 

 ――ふと、遠い朱色の夢から醒めた。

 暗い部屋の一角、革張りの長椅子にもたれていた御蔭丸は、白い顔に赤い眼光を切り開かせる。荒れ果てた色をした彼は夢現に前髪をかきあげ、特に意図せず視線を彷徨(さまよ)わせる。五秒ほどそうして、御蔭丸は長椅子に座ったまま寝ていた事を自覚した。

 静かな形相を保つ彼は、ゆっくりと(まぶた)を開閉する。少しだけ眠気を払って、寝室に移動するつもりだろう。半眼で立ち上がろうとした御蔭丸はそこで、自分にもたれかかっている彼女に気付いた。

 左腕にすがりつくように頬を寄せてハリベルが眠っている。彼の白い腕は彼女に抱きしめられ、指と指を絡ませてしっかりと握られていた。普段のハリベルからすればらしからぬ行いに、御蔭丸は醒めた顔で寝顔をのぞく。

 仮面の鎧で身を守っていた彼女は、こんなに弱弱しかっただろうか。肌寒そうに身体を小さくして、御蔭丸を逃がすまいとしている。眠っていてさえ不安げに光る金の睫毛を彼は見て、そっと息をつき、そのままの姿勢で眼を閉じた。

 彼らにとっては、ありふれた事だ。御蔭丸がどこに居ても、眠る時は必ずハリベルがそばにいる。なにか取り決めたわけではなく、自然にそうなっただけだ。愛し合っているのなら――そのくらいは、当然だろう。

 

「…………」

 

 瞼の裏の暗闇の中で、御蔭丸は考える。こんな壊れた男の腕を唯一の頼りのように抱きしめる彼女を、果たして幸せにできるだろうかと。

 彼にとって人を愛すると言う事は、その(ひと)のために死ねるかどうかに帰結する。それは誰かの願いによって死ぬ事とは根本的に違う事だ。

 願われた末に死ぬのは、結果でしかない。彼はただ面影を演じているだけで、そこに御蔭丸の意志が介在する余地はない。

 しかし愛した人のために死ぬのは、間違いなく彼の意志だ。壊れ果てていようと、自らの意志でそうする事。それだけが彼にとって愛の証明となる。

 それが歪んでいるのは自覚している。だから御蔭丸は、こんな自分でもハリベルの幸福になれるのかどうか、常日頃から考えていた。

 この愛しい虚の前でだけは、願いの面影ではない。ただ一人の男として、寄り添ってやらねばならないのだから。

 

「ん……」

 

 隣で眠るハリベルが、不安そうに喉を鳴らす。夢見が悪いのだろうか、腕を抱きしめる力が強くなり、強張った身体を密着させてくる。御蔭丸は荒んだ眼で彼女を見て、揺れる金の髪を優しく撫でた。しばらくそうしているとハリベルは安らかな寝息をたて、艶やかな肢体に柔らかさが戻っていく。

 険のない穏やかな寝顔を眺めながら、御蔭丸は撫で続ける。今はまだ、こうして触れてやれる。けれどいずれ、彼女のそばからいなくなる時が来る。

 その時、ハリベルに何をしてやれるだろう。白く壊れた男は腕に暖かな熱を感じながら、荒れた顔で考えていた。

 

 

 

 夜が明けて目が覚めると、柔らかな翠の色と目が合った。寝台で眠っていた彼に寄り添う、ハリベルの瞳だ。安らかに微笑む褐色の彼女は、愛おしそうに男の頬を撫でている。

 

「おはよう、御蔭丸」

「……おはよう、ハリベル」

 

 荒んだ表情で彼女の手を受け入れる御蔭丸は、身体を起こそうとしてできなかった。頬を撫でる柔らかな手が首に回され、ハリベルが密着してきたからだ。寝起きではだけている彼の素肌に胸を寄せ、腰をすりつけて脚を絡める。

 (ねや)には邪魔だと、ハリベルが鎧を脱いで眠るようになったのは何時からだったか。褐色の艶やかな肉体を包むのは妖艶なラインを強調する薄い一枚だけだ。その一枚越しに感じる暴力的な柔らかさが、ねだるようにゆすってくる。男の顔は荒れたままだったが、期待に応えてハリベルに軽い口づけを落とす。

 

「んぅっ……ん……」

「……もう朝だ。食事にしよう」

「……あと一回、頼む」

 

 幸せそうに頬を染める彼女ともう一度だけ唇を重ねて、二人は寝台から降りた。ハリベルが服装を整えている間に、御蔭丸は朝食を用意する。食卓に座る時は二人隣り合っている。向かい合うよりもこちらの方が良いと、御蔭丸からそう言った。

 

「美味いな」

「……ああ」

 

 食事中に交わすのは一言、二言くらいだ。二人は黙々と箸を進めて、時々お互いの口に気にいったものを運ぶ。ハリベルが御蔭丸によくやるのだが、逆になると彼女はいつも嬉しそうだった。

 食事を終えたら家事をする。主に御蔭丸がやっていた事だが、最近はハリベルも一緒にしている。一秒でも離れたくないのか、いずれいなくなる事を想定しているのか。御蔭丸はついそんな事を考えてしまうが、ハリベルはそうでないと言っていた。理由なんかどうでもいい、ただ一緒にいたいのだと、荒れた男へそう微笑んだ。

 家事も終われば、する事はない。御蔭丸の修行は既に完遂されているし、ハリベルは元々何もしなくとも生きていける。二人きりで、残り少ない時間を過ごすだけだ。

 ここは虚圏だ、出かけて思い出を作れる場所はない。彼らが愛し合っている事自体、そもそも在り得ない。だからこそハリベルは、何でもない二人の時間を何より愛しく思っている。夢にさえ見なかったこの時間を焼き付けようと、御蔭丸のそばで過ごしている。

 

「……御蔭丸……」

 

 ハリベルは時折、少し甘えた声で名前を呼ぶ。決まって寂しがっている時だ。やや乱雑に座る彼に肌を寄せて見上げてくる褐色の君に、御蔭丸は頭を撫でるか口づけを交わす。

 それだけでハリベルは、幸せそうに微笑むのだ。出逢った当初はあれ程張り詰めて冷たかった彼女が、今が何よりも幸福だとその笑顔で物語っている。

 御蔭丸はその笑顔を見るたびに彼女を抱き寄せて、愛を囁いていた。「こんな歪んだ男でも愛してくれてありがとう。俺もお前を愛している」と。そう口にする時に浮かべる笑みは何をも受け入れる柔らかなものではなく、荒れた男の消え入りそうな笑顔だ。それでも、いやそうであるからこそ、ハリベルは愛されている事を実感していた。

 

「私もだ。愛している」

 

 身体に回された筋肉質な腕を抱いて、ハリベルは顔に目一杯の紅を(ちょう)する。返す言葉も甘く染まって心地良い。あとは言葉もいらないと、お互いの体温を確かめながら鼓動に耳を傾ける。

 青い鬼道の照明が抱き合う二人の影を照らす。彼らの色が白でも黒でも同じように重なる影は、いつまでも別れず一つのままだった。

 

 

 

 さて。二人きりの時は人目もはばからず蜜月を続ける彼らであったが、流石にずっとそうしているわけではない。数は少ないがネリエルが来ることもあるし、甘い空気に耐えきれなくなった斬魄刀が不機嫌全開で暴れたりする。

 そんな時ハリベルは常日頃の冷静沈着な態度をとるし、御蔭丸は荒んだ眼に笑顔の仮面をかぶる。いくら愛し合う関係でも、人前ではいつも通りだ。少なくとも二人はそのつもりなんだろうなと――三人と一振りで食事をとる中、ネリエルは苦笑いで匙を口に運ぶ。

 

「次の料理があがりましたよ。どうぞ召し上がってください」

「ありがとう、御蔭丸。……これも美味いな。お前の料理はどれも美味しい」

「ありがたいお言葉です。貴方にそう言っていただけるのは嬉しいですよ、ハリベル」

「そ、そうか。……すまんがそこの瓶をとってくれ」

「かしこまりました」

 

 口調はいつもと変わらないが、交わす視線の熱い事熱い事。褒めたりお礼を言うのにいちいち赤くなっているし、瓶を手渡される時もわざわざ両手を握るように受け取っている。

 ――恥ずかしいからみんなでいる時は惚気ない・ってハリベルは言ってたけど。

 ――すがすがしいくらい言動不一致よね。

 御蔭丸は御蔭丸で一番美味しそうなところを真っ先にハリベルへ取り分けている。一緒に食べてるのに半端ない疎外感を感じるネリエルは、生暖かい眼で甘々しい二人を見ていた。

 そんなネリエルには気付かず、二人のいつも通りなイチャつきは続く。料理を終えて食卓に座った御蔭丸とハリベルの手が不意に重なったり、ハリベルの口元についた欠片を御蔭丸が指で拭って口にしたり。怖いくらい平然と恋人みたいな事をしている。

 ――ここに私いる必要なくない?

 ――ホント、なんで呼ばれたのかしらねー。

 ――……普通のご飯なのに甘いわー。甘すぎて吐きそう。

 ピンクのハートがふわふわしているような雰囲気に、なんか投げやりになるネリエルは耐えきれず視線を外した。

 そこには修羅がいた。

 ――…………あら? こんな大きい猫いたかしら?

 怒髪天の勢いで髪を逆立てる様は金毛の猫みたいだ。凄まじい顔つきで歯を食いしばる少女にネリエルは一瞬現実逃避する。が、すぐに首を振って現実に戻り、今にも飛びかかりそうな天獄へサッと耳打ちした。

 

「あのー、天獄ちゃん? 気持ちは分かるけど落ち着いて、ね?」

「黙れ! 貴様に主様の腑抜けた様を四六時中見せつけられる妾の気持ちが分かるか!!

 何が悲しくて妾という華麗なる斬魄刀を無視して喋喋(ちょうちょう)喃喃(なんなん)とする様相を見なくてはならんのだ! 寝ても覚めてもべったべったと餅のように乳繰り合いおって! もう瞼を閉じても裏側に焼きつくくらい見飽きたわ! 終いには焼きつき過ぎて血涙を流すぞお前様ァ!!!」

「あー……うん、それは同情するわ。ていうか聞いてて私もちょっと腹が立ってきたわ。

 でも駄目よ、天獄ちゃん。時間もあまりないんだから、二人の邪魔をしちゃ悪いでしょ。寂しかったら私が構ってあげるから。ほら、むぎゅー」

「ぬあっ!? こ、こら、引っ付くな元奴隷一号! 暑苦しいであろうが、くぬうっ、その無駄にでかい脂肪で妾を(うず)めるのはやめよ! ええいやめよと言うに!!」

 

 小動物を抱くみたいにネリエルに包まれた天獄は柔らかな二つの塊から逃れようと必死にもがく。だが悲しいかな、傍からは少女を猫可愛がるように見えて無駄に力の入った腕はがっちりと天獄を固めていた。

 天獄はしばらく暴れていたが、やがて諦めたのかぐったりと動かなくなった。それにネリエルは満面の笑みで微笑んで、天獄を人形のように膝に乗せる。雪のような肌と赤いドレスの少女はまさに等身大の人形のように美しい。纏められた金髪の下に鬼もかくやという面貌がなければの話だが。

 何はともあれ、天獄が落ち着いた事にネリエルは安堵する。二人の邪魔をしては悪い、というのは間違いなくネリエルの本音だから。手慰みにネリエルの若草色の髪をいじる少女を放っておいて、青緑の眼を彼らに向ける。

 

 並んで座る御蔭丸とハリベルの距離は近い。ともすれば肩が密着しそうな近さで、二人はそれだけお互いの事を許しあっている。

 ――……羨ましいなー……

 嫉妬の火が揺らめくのは、ネリエルも御蔭丸が好きだから。喪わなければ特別でなくていいと、羚羊の彼女はそう決めている。けれどこうして見ていると、やっぱり愛し愛されたい。そう、思わずにはいられなかった。

 ――ていうか本当に二人とも、自重するつもりないわね。

 ――さっきだって天獄ちゃんとの話、聞こえてたと思うんだけど。

 ――回りなんか気にならないくらい二人の世界なの?

 ――ちょっといい加減にしてほしいくらいだわー。

 軽い気持ちで青筋を立てるネリエルは、そこでピーンと思いついた。イジワルな顔をする彼女は匙をとり、一転して満面の笑顔ですくった料理を御蔭丸に向ける。

 

「はい、御蔭丸! あーんして!」

「え? ネ、ネリエル?」

「いいじゃない! 私達、友達でしょ? これくらいスキンシップの範囲だって! ほら、食べて食べて!」

「いえ、あの、ネリエル。僕はハリベルとですね」

「え……? 食べて、くれないの……? ひどいわ御蔭丸……せっかく御蔭丸のためにあーんしたのに……私泣きそう……」

「え、ええ!?」

「……ひどい奴だ。見損なったぞ、御蔭丸」

「ハリベルまで!? し、しかし、よろしいのですか?」

「……ネリエルとのスキンシップくらい、いちいち私が口を出す事でもないだろう。それとも何だ? 何か疚しい事でも隠しているのか?」

「そ、そんな事はありませんが……」

「なら早く食べてやれ。私はそこまで器量の狭いつもりはない。それに……その、ネリエルのを食べたら……今度は私が、あ……あーん、するからな」

「ハリベル……」

「ほらそこー、ナチュラルにイチャつかない! ほら御蔭丸、はやく食べないと冷めちゃうでしょ! あーん!」

「わ、わかりました。それではいただきます」

 

 差し出された匙を御蔭丸は口に入れる。

 その後、御蔭丸は自分の作った料理なのに感想を求められ、今度はハリベルに同じことをされ、面白そうだと乱入した天獄の二人と一振りから延々と匙を向けられるのだった。

 

 

 

 ――そうして、騒がしかった一日も終わる。

 照明の落ちた暗い寝室。寝台横の小さな器具だけが頼りなく灯る中で、御蔭丸とハリベルは横になっている。同じ寝台で寄り添って、ハリベルは御蔭丸の腕を枕に、就寝前の会話を楽しんでいる。

 

「もうすぐ、今日が終わるな」

「ああ、そうだな」

「……もうすぐ、お前ともお別れだな」

「……ああ、そうだな」

 

 さっきまで微笑んでいたハリベルは、不意に表情を暗くしてそんな事を言った。消え入りそうに笑っていた御蔭丸も、荒涼とした顔で天井を見上げる。

 

「……私はあと何度、お前と一緒に眠れるだろうな」

「……俺は知っている」

「だろうな。だが、言わないんだろう? 私のために」

「……ああ」

「お前は最初から、そういう男だった。自分なんかどうでもいい、誰かの願いの面影になれればそれでいいと、心から笑える壊れた男だ。

 そんなお前に、私は救われた。そんなお前だからこそ、意味のない(わたし)を愛せたんだろう。だから私は幸せ者だ。例えお前が壊れていても、元より岩壁の花のように触れ得ぬ願い。それが叶っただけで、世界一幸せだと、私は言える。

 ――だから、なあ、御蔭丸。お前には分かるだろう? 私の胸に蠢いている、醜い女の愚かな不安が」

 

 今にも泣きそうな震える声に、彼は天井から視線を移す。寂寞(せきばく)として摩れた眼には、一人の弱い女がいる。この殺戮に満ちた世界で頂点に立つとは思えない程、弱くなった心をさらけだす女が。

 御蔭丸には、分かっていた。ハリベルがいつも不安に苛まれている事を。だから意識的にそばにいて、自分の想いを言葉にした。それでも、信じきれないのだ。心のどこかでこう思うのだ。

 私は本当に、御蔭丸に愛されているのかと。

 

「――ハリベル。俺の言葉は本心だよ」

 

 白い男は真っ直ぐに、翠の瞳を見定めて言う。笑顔の下に隠してきた壊れた自分を見せつけて、言葉が真実だと知らしめる。

 

「俺はもう、大事な人を作るつもりなんざなかった。二度と喪いたくなかったからだ。それはこの心を壊してさえ、貫き続けた俺の本心だ。

 でもよ、ハリベル。お前はそんな俺でもいいと言ってくれたじゃないか。虚だからと負い目があるようだが、本当に負い目があるのは俺の方だ。こんな歪んで壊れていても、それでも全てを犠牲にして愛せると――そう言ってくれたから、俺は胸を張って言える。

 俺はお前を、愛している」

「……信じて、いいんだな」

「当然だ」

「……お前は私を、愛しているんだな」

「ああ、勿論だ」

「……フフフ。嬉しいよ、御蔭丸。私は本当に幸せ者だ。けれど――

 ――――私だけじゃ、ないんだろう?」

 

 いつの間にか溜まっていた涙を拭って、微笑むハリベルは。心の底から幸せそうに、男の最も(いびつ)な在り方を突き刺した。

 

「――――」

「そんな顔をするな、御蔭丸。分かっている。私には分かっているから、そんな悲しい顔はしないでくれ」

 

 幸福に満ちた声色と共に、頬を優しく触れられる御蔭丸は、どんな顔をしていたのか。壊れた心で立ち上がる、男の心を更に壊すような核心を突いたのだ。

 きっと誰も見た事のない、自分だけが知っている顔だ。そうハリベルは暗く思い、そっと撫でながら言葉を続ける。

 

「私は、愚かな女ではないつもりだ。お前が壊れていたから愛されているのに、お前が壊れている故に私以外を愛する事を、責めはしない。過分な利益にはそれだけの不利益がある。頭ではきちんと分かっている。

 けれど、私は女なんだ。どうしようもなく、女なんだ。

 お前が私の愛を正面から受け入れてくれたのに。お前の愛を疑う私のために、ずっと貫いてきた信条を曲げて愛していると言ってくれたのに。愚かな私は、それ以上の――私だけのお前を、望んでいる」

「…………それは……出来ない…………」

 

 呟く御蔭丸の声は、苦渋に満ちていた。常に笑って、ふと本心をのぞかせれば壊れていて、自分のために生きられなくなった男が。こんなに苦しんでいる姿を見せるのは、特別な関係だからに他ならない。

 それを分かってハリベルは、それ以上を望んでいる。もうじき会えなくなってしまうなら、胸の裡に沈める方が良いと知っていながら。

 もうじき逢えなくなってしまうから、ハリベルはその心を押さえきれなかった。

 

「…………ああ、分かっている。お前は結局、誰かの面影の御蔭丸なんだ。何処まで行ってもそれだけは、未来永劫変わらない。変えたいけれど、変えさせたくない。そんなお前に、私は惚れたんだから。

 だからこれは、私の我侭(わがまま)だ。少しでも私にしか許されない、特別なお前が欲しくて、むざむざ苦しめるような事を言ってしまった。……すまないな、本当に」

「……気に、するな。俺が、悪い」

「優しいな、御蔭丸。むごたらしいくらいに。その優しさに甘えて、いらない事まで喋ってしまいそうだ。

 …………本当、なら……お前の仔でも孕めれば、それで満足だったんだ」

「……ハリベル」

「お前と深く繋がるだけでも良かった。けれど(わたし)の身体は、そんな風に出来ちゃいない。虚に無い筈の心もあって、死神と同じような外見なのに。

 ……――ああ、本当に。どうして私は、虚なんてものに産まれ堕ちたんだ。こうでなければ、こんなにも。苦しまずに、済んだのに――」

「ハリベル!!!」

 

 途中から泣いていたハリベルを、御蔭丸は強く抱きしめる。それが彼女の願いかどうかは、壊れた狼の頭から完全に除外されている。

 ――今はただ、目の前の女に泣かれたくない。大事な大事な、愛する女に。苦しい想いでいてほしくない。それだけだ。それだけの筈だ。

 泣きそうな顔で泣けない男は、そう信じるしかなかった。言い聞かせるような御蔭丸の感情は、抱きしめられる強さを通じてハリベルにも流れ込む。

 心のない筈の虚でも、通じるものはあるんだなと、今にそぐわない事を彼女は思って。同じくらい強く強く、御蔭丸を抱き返した。

 

「――ハリベル。俺はお前を愛している」

「――ああ、私もだ、御蔭丸。私もお前を、愛している」

 

 虚圏の白い砂漠に、荒涼とした風が吹く。動かない月は光を放ち、砂塵を冷たく煌かせる。

 虚圏は変わらない。悠久の古よりそうであった(こく)(びゃく)の夜は、これからも変わらず在り続けるだろう。命を感じぬ月光の夜に、絶え間ない死が巡り続けるだろう。

 それと同じように、抱き合う二人は永劫に変わらぬように感じられた。ただの錯覚だったとしても、今だけはそれが真実であるように。相反する死神と虚は、ずっとずっと抱き合っていた。




原作より六七六年前の出来事。
今回は書きにくかった割にそこそこ矛盾なくいけたと思う筆者です。
正直恋愛描写は思った以上に書き辛いです。特にハリベル様は虚圏というシチュもあいまって動きがまったくありませんので。ネリエルと斬魄刀との絡みも最初はなかったのですが、話を回すためやむなくいれた感じです。
次回からは筆者の趣味が全開になるかと思います。シリアス的な意味で。

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