BLEACH Fragments of Remnant   作:ヴァニタス

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喪失と言う名の死

 色の千切れる 音がする

 

 今にも消えそうな白い色

 私はそれを、黒い赤で引き裂いていく

 

 網膜を破る 声がする

 

 何を言っているか聞こえない

 私にはもう、言葉の意味が分からない

 

 裂けた喉から 腹が鳴る

 

 昔、似たような空腹に私は支配されていた

 まだ半身が人でなかった頃 仮面を被った鈍い獣で在った頃

 飢えを満たす為だけに殺し続けて

 今の私は存在する

 

 その私も、もうすぐ終わる

 大事なものを引き裂いて

 得難いものを掻き喰らって

 欲しかったものを、全てなくして

 

 ……砕けた顎に、涙が流れる

 

 私にとっての『死』は“喪失”

 何かを奪い、失う時 私は世界を恨んでいた

 動かない月をただ見上げて ずっとずっと泣いていた

 

 どうしてこんな風にしか生きられないのかと

 どうして私は殺してしまうのかと

 どうして私は、虚なのかと――

 

 大事な人を食べながら ずっとずっと そう泣いていた

 

 

 

「ふにゃあっ!?」

 

 身体をビクリと震わせて、若草の髪が跳ね上がる。

 時は現世の正午過ぎ、相も変わらず御蔭丸の住処に入り浸っていたネリエルは、机から涎の糸を引きながらシパシパと目を瞬かせていた。

 

「…………あ~……最悪だわ……大量のチョコバナナに追いかけられる夢ってどんな悪夢よ……。あんな太くて大きくて黒光りしたものにいっぱい……。

 欲求不満? 欲求不満なの私? そりゃあ私にだってそういうのはあるけどさ……よりによって男の家でそんな夢見なくていいじゃない……恥ずかしくて死にそうだわ、もう……」

 

 寝惚けた顔にしわを刻んでそう呟くネリエルは、さっきまで寝ていた机に突っ伏した。青緑色の目が美しい顔の横には、涎の海がキラめいている。

 

「…………とにかく後始末しましょう。こんなところ、誰にも見られなくて良かったわ……」

 

 羞恥で頬を染めつつ近場の布に手を伸ばす。ネリエルとて女性だ、特に御蔭丸には見られたくないので早々に証拠隠滅をはかった――

 

「おお、なんだ拭いてしまうのか。せっかく貴様の醜態を万劫末代に残す千載一遇の機会であると言うに、消し去ろうとはもったいない」

「わひゃあああっ!?」

 

 ――のだが、急にかけられた幼子の声に彼女は飛び上がるほど驚いた。思わず声のした方へ身体を向けようとして、脚をもつれさせて椅子から転げ落ちる。

 

(いっ)たあ!? え、な、何!? 誰!?」

「誰とはなんだ、誰とは! 全く、主様といい貴様といい、(うつつ)には妾を前にして敬意を払わぬ奴が多すぎる。

 ……まあ、良い。必要以上に驚いて妾を楽しませようとするその意気、実に気にいった。

 貴様、これより妾の奴隷第一号に命ずる。この栄誉、喜びに震えて受け取るがよい」

「は、はあ!?」

 

 見ず知らずの少女にいきなり奴隷宣言されるという状況にネリエルは素っ頓狂に声を荒げた。お尻から倒れたので結構痛いし、まだ後始末してないのでそっちも気になるしと、半身半獣の虚は混乱している。

 ――え!? なに、なんなの一体!?

 ――この子誰よ、もしかしてまた御蔭丸が連れてきた女虚!?

 ――いえでも、霊圧は死神に近いし……ていうかこれ、もしかして……

 

「ざん、ぱく、とう……?」

「ほう! よう分かったの奴隷の分際で!

 左様、妾こそが主様の唯一にして無二の華麗なる斬魄刀、天獄よ」

 

 机に腰掛けこれ以上ないドヤ顔でふんぞり返る少女――天獄を、ネリエルはポカンとした顔で見上げる。名乗った名前には聞き覚えがあった。いつしかに尋ねた、御蔭丸の斬魄刀の名前だ。

 ――て、適当に言った事が当たった……

 ――ていうかこの子が御蔭丸の斬魄刀なんだ……斬魄刀まで女の子なの?

 ――そもそも斬魄刀って人になれるの? ああもう、わけわかんない!

 纏まらない考えに乱れた髪をワシャワシャとなぞるネリエルは、とりあえず失態(よだれ)の後始末を優先する事にした。偉そうに見下してくる天獄を無視してさっさと立ち上がり、取り損ねた布を乱暴につかむ。

 そして机を拭こうとしたところで――紅いドレスから伸びる可愛いフリルの手がネリエルの髪を引っ張った。

 

「あいたたたたっ!?」

「貴様、今妾を無視したな? 奴隷風情が偉そうに、妾をないがしろに扱っていいのはこの世で主様一人だけだ!」

「そ、そんな事知らないわよ! 私は貴女の奴隷じゃないし、貴女が御蔭丸をどう思ってるかなんて分からないし、ああもうとにかく髪が痛いから放して!!」

「放せ、だと? まだ立場が分かっていないようだな……ならばこうしてくれるわ!」

「いたっ、ちょっ、きゃあっ!?」

 

 髪を引っ張られて流石に怒ったネリエルは激しい口調で抗議したが、天獄は傲岸不遜を貫いたままだ。ネリエルは何とか振りほどこうとするも、少女は手慣れた手つきで髪を手綱のように引き、あろうことか羚羊(カモシカ)の下半身へ飛び移った。

 

「ちょっ、な、何するのよ!」

「是非も何もない。貴様の半身は妾を乗せる為にあるのだろう? で、あれば妾が騎乗するに(いささ)かの矛盾もあるまい」

「大有りに決まってるでしょ!? 私は貴女を乗せる為にこんな姿してるわけじゃないのよ!」

「なに!? そんな筈はない! この世のあらゆるものは妾なくして存在すら許されんのだ! それは貴様とて例外ではないぞ奴隷一号!」

「だから奴隷じゃないってっ……あーもーめんどくさい……。

 えっと、天獄ちゃん、だっけ? お姉ちゃん忙しいからまた後で相手してあげるわ。いい子だからここで待ってなさいねー」

 

 寝起きである事も相まって流石に機嫌の悪くなったネリエルは、背中から粗雑に天獄を引っぺがして子供をあやすように椅子に置く。まるで人形のように扱われた天獄はため息をつきながら机を拭き始めるネリエルをぽかんと眺めていたが……やがて憤怒に満ち満ちた表情で歯を食いしばり、ネリエルが机を拭き終えた瞬間、猫のような機敏さで再びネリエルの背中に飛びついた。

 

「きゃっ!? ま、またなの!? 後で相手してあげるから待っててって言ったじゃない!」

「うるさい!! 妾をここまで虚仮(こけ)にするなど、礼儀を知らぬ不敬者め! 貴様は一度痛い目を見なければ分からんようだな!」

「はあ? 何なのよさっきから、奴隷呼ばわりしたり偉そうに……いい加減にしないとそろそろ怒るわよって、きゃああああっ!?」

 

 度重なる天獄の暴挙にうんざりしたネリエルが、少々力任せに少女を引き剥がそうとしたその時。

 あろう事か天獄は、仮面の鎧の隙間に手を滑り込ませ、ネリエルの豊満な柔肌を直に揉みしだいたのだ。

 

「えっ、やっ! ちょ、ちょっと何してっ……んあ!?」

「んー? いやなに、聞き分けの悪い奴隷にちょいと仕置きをしてやろうと、な?」

「お仕置きなんて受ける謂れは……んくうっ!? そ、そんなとこイジらないでっ、あっ!」

「カカッ、可愛い反応だ! 妾は悲鳴が大好きだ、女子であればなお心地良い! どうだ、ここか? ここがええのかえ? カカカカッ!」

「や、やめっ……あっく!? ほ、ほんとにやめて、やめてったら……んううっ!」

 

 妙に(うま)い手つきで柔肌をまさぐってくる少女に、ネリエルは身悶えながら必死に身体を振り回す。さっきは怒ると言ったが見た目はあどけない少女、あまり乱暴に扱いたくない。

 天獄も天獄で捕まえようとするネリエルの手を華麗に避けつつ彼女の弱点を重点的に刺激している。暴れ馬のように部屋の中を駆け回るネリエルの悲鳴に艶が混じり、上気した顔に甘い吐息が揺らめきつつあった。

 

「あっやっ……もうっ、ほんとっ、やめっ……」

「ここまで来て止められるものか! どれ、そろそろ本格的に仕置きをしてやろう――にゃうっ!?」

 

 お仕置きと言う名のネリエルいじりを悪化させる天獄に彼女がいよいよ堪らなくなった頃、背中に感じる少女の重さが不意に消えた。その瞬間壁際に移動して外れかけた鎧を抱きしめるネリエルの眼には、襟首を掴まれ宙に浮く天獄と、見た事も無い荒れ果てた顔をした御蔭丸が写っていた。

 

「これ! 何をするかお前様! 妾がせっかく出来損ないの奴隷に礼儀を教えてやっていたというのに、なぜ邪魔をする!」

「…………」

「ええい問いに答えんか! 妾がいつ何を理由に顕現(けんげん)しようが妾の勝手であろうが! お前様の許可などとる必要はない! そんな事より妾の問いにだな!」

「…………」

「何だと!? あの奴隷に謝罪しろと言うのか!? なぜ妾が奴隷などに頭を下げねばならんのだ! いくらお前様の命とは言え、従えん事もあるぞ!」

「……えっと……御蔭丸、よね……?」

 

 無言で睨み続ける白い大男にまるで会話しているように天獄は吼える。火照った吐息を整えながらその様子を見ていたネリエルは、普段と全く違う形相の友人へ恐る恐る声をかけた。

 

「……申し訳ありません、ネリエル。僕の失態で貴女に迷惑をかけてしまいました。心より、謝罪いたします」

 

 すると御蔭丸は荒れ果てた表情から一転、すまなさそうな微笑みで深々と頭を下げる。カードを引っくり返すような顔の変化に唖然としていると、御蔭丸の腕に吊り下がる少女が更に大きく喚き立てる。

 

「お前様! こんな出来損ないの奴隷に頭を下げるなど何事か! そんな事妾にだってやらぬくせに、お前様と言う奴は……!」

「…………」

「うっ……な、なんだその眼は? 妾に謝れと言うのか? 妾とて好きでこのような仕置きをしたかったわけでは……その……」

「…………」

「う、ううっ……あ、謝れば良いのだろう、謝れば! 謝るからそんながなる(・・・)なお前様!」

 

 紅眼が発する無言の圧力に、火が消えたようにシュンとなる天獄は、地面に降ろされネリエルに歩み寄る。まだ頬に朱が残るネリエルは先の蛮行を思い出し、身を固くして天獄を睨んだ。その反応を気にも留めず、紅いドレスを揺らす少女は全く不本意だと顔を歪めながら、顎を引くように小さく頭を下げる。

 

「チッ、なぜ妾がこのような……反省してまーす。ほれ、これで良いのだろうお前様……あいたっ!? な、殴る事はないだろうが! こんな(かよわ)(わらべ)に手を上げるなど見下げ果てたぞお前様!

 ええい、お前様は一度性根から叩き直す必要がある! そこに直れ!! 妾が直々に鞭を振るって……何? うるさいから帰れ?

 …………な、な、何という物言いだお前様! 妾の寛大な堪忍袋もいい加減ブチ切れるぞって、勝手に帰すな――――!!!」

 

 無言で嘆息する御蔭丸が片手に握っていた斬魄刀の鍔を弾くと、天獄は憤怒の滾る金眼の光を残して消失する。絹のように霧散するその煌きを一瞥(いちべつ)もせず、斬魄刀を置き、懐から取り出した紅い扁桃の髪留めを付ける頃には、御蔭丸はいつも通りに笑っていた。

 

「重ねて謝罪申し上げます。あのような態度を取らせたのは僕の責任、あとで厳しく指導しますので、どうかご容赦ください」

「えっ、あ、ええ……別に貴方が悪いってわけじゃないからいいけど……それよりもあの子、貴方の斬魄刀だって言ってたけどホント?」

 

 その笑みのままもう一度頭を下げる男に、ネリエルはわたわたと鎧を着直しつつ頭を上げるよう促した。ついでに少女の話を裏付けるための質問をすると、御蔭丸は苦く微笑んで答える。

 

「ええ、まあ……恥ずかしながらあの子が僕の斬魄刀・天獄にございます。普段からも隙を見せると五月蠅(うるさ)い子で……最近具象化を覚えたばかりに、ああして勝手に現実世界(こちらがわ)へ出てくるのです」

「具象化? 聞いた事がないけれど、それって斬魄刀が人間の姿になるって事?」

「ああ、ネリエルにはまだ話していませんでしたね。正確には、斬魄刀の本体を現実世界に呼び出す事を具象化と呼ぶのです。一度に話すと長くなりますので、興味があるならどうぞ席にお掛けください。お詫びの意味もこめて何かお作りしますから」

「わっ、いいの!?」

 

 話よりも食事の誘いに喜色満面になるネリエルに彼は微笑んで椅子を引く。さっきまでネリエルが転寝(うたたね)に使っていたネリエル用の椅子だ。羚羊の下半身に合わせて作られたそれに慣れた様子で腰かけて、彼女はさっと出された作り置きの菓子を上機嫌に口へ運ぶ。

 

「んー、おいしー! 相変わらず御蔭丸の作る食べ物は美味しいわ!」

「何よりのお言葉でございます。すぐに用意しますので、少々お待ちください。ああ、そちらの甘味は全て召し上がっていただいて構いませんので」

「ホント!? じゃあ遠慮なく!」

 

 彼の言葉に目を輝かせるネリエルは俊敏な動きで菓子を頬張る。初めて会った時はその健啖を恥じていたが、もう抵抗はなくなったらしい。ネリエルとの出会いから三年――いい加減慣れてきたのだろうと御蔭丸は微笑み、テキパキと食材を広げながらふと気付く。

 そう、ネリエルの出会いから早三年。虚圏に墜ちてからを考えればもう五年が過ぎようとしている。

 ――アルヴァとの戦いまで後五年、か。

 ――急いても何も変わらんが、流石に結果が欲しいところだ。

 ――……具象化が出来た程度では笑う事も出来ん。

 

 難しい顔で霊蟲を手早く調理していく。ネリエルは基本的に出された物は何でも食べるが、それなりに肉を好む節がある。最近は特に顕著なので、肉を多めに使った品を何品か仕上げた。それを食卓へ運び、料理の後始末をして御蔭丸も腰掛ける。

 

「さて、それではお話しましょうか。ネリエルさえよければ、ですが」

「ぜひお願いするわ。静かな食事も悪くないけど、なんだか寂しいもの」

 

 既に菓子を完食していたネリエルは早速皿に手を付けている。スタイルの良い上半身の外見からは想像もつかない食べっぷりに彼は微笑んで、先の話、卍解の取得条件を分かりやすく説明した。

 

 斬魄刀には二段階の解放が存在する。

 一つは斬魄刀と対話・同調を行い、解号と名を呼ぶ事で解放される『始解』。

 そして斬魄刀を具象化・屈服させ、その更なる能力を引き出させる『卍解』。

 全ての斬魄刀はこの二段階の解放が可能であり、卍解は隊長格になる為には必須の技能だ。始解と卍解の戦闘能力の差は個人の資質と鍛錬の度合にもよるが、一般的に五倍から十倍――それを鑑みれば隊長格就任の条件として当然と言える。

 

「――で、その卍解が死神にとって切り札みたいに強いのは分かったけれど。そう易々と習得出来るものなの?」

「断じて否、と申し上げましょう。斬魄刀との対話と同調はそう難しくはありませんが、具象化と屈服、特に具象化は至難の業です。

 具象化は斬魄刀と肝胆相照らす程にまで至らねば出来ない事です。それは現実においてさえ、生涯をかけて一人いれば重畳と言えるもの。それを戦う為に生まれた力と行う事がどれほど困難かお分かりいただけるでしょう。本来ならば、十年では到底足らない年月を必要とするのです。

 それ故に斬魄刀の具象化に至ってしまえば、卍解習得は目前と言えます。勿論、斬魄刀の屈服にも並々ならぬ努力が必要ですが、具象化に掛ける時間程ではないというのが死神の共通認識ですね」

「ふーん……じゃあ、斬魄刀の具象化が出来る貴方はもうすぐ卍解を覚えられちゃうってわけね」

 

 どこか興味なさそうに食事をかじるネリエルに御蔭丸は苦く微笑んで否定する。

 

「そう上手くもいかないのですよ。天獄の気性は今の僕に合いませんから、連続した命の危機に(さら)されなければ始解さえ出来ませんでした。屈服させる条件は輪をかけて相性が悪いので、あと数年は掛かるものと見ています」

「へー……才能がある死神でも習得に十年かかる卍解を、相性が悪いのに始解から数年足らずで解放できると思ってるんだ。フフフ、貴方って謙虚だけれど、割と自分に才能がある・って思ってるわよね」

「当然でございます。自らの力を過小評価する程、自信の無い性格はしておりませんよ」

 

 ちゃかすように笑う彼女の言葉を優しく微笑んで肯定する。普段から他者の願いを叶えるために行動する御蔭丸は、自分に出来る事を常日頃から把握している。だからアルヴァと対峙した時も、十年あれば充分と言った。

 あの闇の願いを叶えるならば、その程度で充分だと。

 

「……まあ、そのあと数年も僕一人では決して成し遂げられないでしょう。ハリベルやネリエル、貴女の御助力を必ず乞う事になると考えております。その時が来ればどうか、お力添えをお願いします」

「…………気は進まないけど、いいわ。貴方にはいつもご飯を作ってもらってるし。ちょっとは何か返さないと貴方に悪いから。

 でもあんまり当てにしちゃダメよ? 私は虚で、貴方は死神なんだから」

「はい、心得ております」

 

 深々と頭を下げる彼に、ネリエルはビッと指を差して念押しした。こうして共に食事をし、一度は寝床に潜りこんだ事があっても、それだけは譲れない部分なのだ。

 それがもはや形骸に過ぎないものだとしても、形骸だからこそ守らなければならない。この男は――この死神の居場所は、ネリエルにとってあまりにも居心地が良すぎる。

 

「……まったく、本当に分かってるかどうか分かんない顔だわ。ま、別にいいけれど」

 

 ジト目でにらみ、やや乱暴に厚切りの肉を口にして。それから彼らは箸を進めつつ、協力に関する具体的な話を進めた。御蔭丸が何をするのか、ネリエルが何をすればいいのか、どの程度まで力を貸すのか、などなどを話すうち、話題は御蔭丸が自分を痛めつけるきらいがあるという点へ飛ぶ。

 

「私が一番危惧してるのはね、貴方が修行のしすぎで死んじゃわないかってところよ。あのチルッチとかいう奴と戦った時もそうだけど、御蔭丸って本当に限界寸前まで力を振り絞るじゃない。限界まで戦えるのはすごい事よ、けれどそれをずっと続けてたらいつか壊れちゃうわ」

「確かな指摘でございます。しかし僕には回道がありますので、ある程度は問題ありませんよ」

「それよそれ! いくら怪我が治せるって言っても限度があるでしょ! 前に致命傷以外ならどうとでもなるって言ってたけれど、少し過信してるように思うわ。

 大体、貴方が修行する理由ってもともとは『憑りついた中級大虚を分離する』為でしょ? そこまで回復に自信があるなら憑りついてる箇所をバーッて斬り落として超速再生すればいいじゃない。私ならそうするわ」

「ふむ……そうですね。その可能性も考えましたが、残念ながらもう行えないのです。僕の回道の限界を説明するついでに、その辺りもお話しましょう」

 

 虚らしいネリエルの主張に彼は首を振り、裾をまくりあげて黒い右腕をテーブルに乗せる。白い着物に隠れて見えないが、その黒は御蔭丸の肩から胸にまで広がっているのだろう。赤い幾何学模様の鬼道によって制御されたその腕からは、意志の無い虚の霊圧が脈動していた。

 意志を亡くしてなお生きようとする妄執への侮蔑か、寄生された腕を眺めるネリエルの瞳が冷たく光る。それに何がしかを薄く感じ取りながら、御蔭丸は説明を始めた。

 

 まずは御蔭丸の回道技術についてだ。そもそも彼は四番隊第三席であり、その技術は副隊長と比肩してもなんら遜色ない。しかし隊長格には及ばず、ここ数年の修行を経てようやく足元に追いすがる程度である。

 それでも彼が即死でない限り回復できるのは、天獄から大量の霊圧を補給できるからだ。回道は患者の内部霊圧と術師の外部霊圧によって治療を行う技術、それ故に内外両方へ供給して霊圧を爆発的に跳ね上げる天獄の能力は非常に相性がいい。

 そのため彼は天獄に霊圧が蓄積されている、という限定条件下ではそうそう死ぬ事は無い。流石に能力を使う間もなく即死してしまってはどうしようもないが、そこまで追い詰められる状況ならどの道お終いであると、朗らかに微笑みながら言ってのける。

 

「つまり、貴方は斬魄刀の能力を使った力技で死ぬほど(・・・・)程度じゃ死なないってわけね」

「ええ、その通りにございます。仮に心臓の代替となる人工物や技術があれば、寄生された内臓ごと右腕を切り離しても生きていられるでしょう。技術で言えば、卍解と同時進行で鍛えている鬼道ならば可能性はあります。しかしそれをしたところでもう、僕の中から虚が消える事は無いのです」

「それはどうして?」

「馴染み過ぎたのです、あまりにも。融合された直後ならいざ知らず、数年の歳月と度重なる戦いでの負傷は、僕の中に虚の因子を大量にばらまきました。

 この身の半分は既に死神よりも虚に近しい。僕自身の肉体が、虚と混じり合った今を正常と判断しているのです。ですから右腕を切断しこれを再生したとしても、今と同じように虚の混じった右腕となるでしょう。こうなってはもう、斬って捨てるという選択肢はないのですよ。

 融合を鬼道で分離する方法が、唯一なのです」

「そう……本当に面倒なのね、それ(・・)って」

 

 巨きな男の白い身体に仕舞われる右腕を流し見て、ネリエルは浅く嘆息した。あくまでも虚として接しているつもりの彼女にとって、御蔭丸の右腕は彼女らが邂逅する事となった原因そのものだ。

 死神との関係を持たせたその右腕は疎ましい。ただの肉塊の癖に生きようとする有り様も気にいらない。だが、御蔭丸と知り合えた事だけには割と感謝している。しかし彼にとってはやはり邪魔だろうし、こんな自分の胸中を知られたくはない。

 そういった心境を微妙な面持ちで表す彼女は、まぶたで視線を切って食事を続けた。既に御蔭丸の修行の手助けは了承しているのだ。今の話はいわば蛇足で、途中でぶった切っても問題はない。御蔭丸も気にしないだろうとネリエルは認識していた。

 

 しばらく、二人に沈黙が下りる。聞こえるのは時々響く、食器のぶつかる小さな音だけ。一見して波の無い表情で黙々と箸を進める彼女を、御蔭丸は読めない笑顔で見つめている。

 その笑みは普段通り、願いの面影を写している証なのだろうか。空の歯車を胸に回す男は、微笑みながらただ茫洋とそこにいるだけだった。

 

「……あら? 結構あったと思ったのに、もうなくなっちゃった。御蔭丸、申し訳ないけれど、もう少し作ってもらえない?」

「はい、かしこまりました」

 

 ネリエルの要求に彼はさらりと答える。食事はネリエルの協力を取り付ける見返りなので、彼女も遠慮はしなかった。そういった利益や序列の線引きに関して、ネリエルは厳しい考え方を持っているのだ。

 台所に消える御蔭丸を見送って、彼女は密かに自分の腹を撫でる。あれ程食べた筈なのに、彼女は空腹のままだった。

 

 

 

 

   φ

 

 

 

 

 それから更に一年の歳月が過ぎた。特筆すべき事は無く、チルッチの襲撃と言う名の御蔭丸を使った遊びが日常になった頃。

 相も変わらず修行に明け暮れている筈の御蔭丸は今、いつも通りと言えばいつも通り、給仕の真似事に勤しんでいた。

 

「――それが、奴隷一号に初めて妾と謁見する栄誉をくれてやった日であった。以来こやつは妾の忠実なる奴隷として、日々気慰みの技を磨いておるのだよ」

「まあ、なんてすごい話なのかしら。貴女と初めて会ったって事以外ぜーんぶ間違ってるなんてとってもびっくり。私びっくりしすぎて手が滑りそうだわ」

「ぬあっ!? き、貴様ァッ!! 主様が妾の為に丹精込めて作った菓子を横から掻っ攫うとは何事だ!! それは妾に対する宣戦布告と見なすぞ!!!」

「別に貴方のためだけに作ったわけじゃないでしょ。いただきまーす」

「ああーっ!? ひ、一口だと!? これほど精緻な甘味を吟味もせず一口で飲み食らうだと!? その田舎者丸出しの行いが貴様を奴隷足らしめる所以(ゆえん)と知れ!!!」

「だーかーらー、奴隷じゃないってば! 別に田舎者でもないし! もー御蔭丸ー、この子どうにかしてよー。話し相手になってあげるのは良いけど、ちょっとわがまま過ぎよ」

「……私は構わないがな。賑やかなのは悪くない」

 

 言い争う二人の間でそう微笑むハリベルは、優雅な所作で紅茶を飲む。時は現世の午後三時。いわゆるおやつどきを堪能しているのは、ネリエル、ハリベル、そして天獄の二人と一振りだ。女三人寄らば(かしま)しいの言葉通り、普段無口なハリベルでさえも少し饒舌になり、脈絡のない話を続けている。

 

「……申し訳ありません、ネリエル。今日ばかりはどうか、その子の我儘(わがまま)にお付き合いください。あまりに度が過ぎれば対処致しますので」

「度が過ぎてない様に見えるの? ああ分かったわ、貴方にはじゃれ合いに見えてるのね。まあ、否定するつもりもないけれど、何だか苦手なのよねー、この子」

 

 申し訳なさそうな笑みで頭を下げる御蔭丸にネリエルは刺々しく息をつく。嫌いではないが、出会いが出会いなだけにあまり好きになれない。それでも御蔭丸の斬魄刀だし、と、傲岸不遜を貫く少女を横目でちらりと眺める。

 紅いドレスを纏う天獄は怒りを充満させながらも、御蔭丸が運んできた菓子を礼儀正しく食していた。長い袖は邪魔だろうに、一切汚さないところに育ちの良さを感じさせる。そのように生まれたのか、御蔭丸の作法を受け継いだのかは分からないが、見た目だけは本当にお嬢様だなー、とネリエルは感想を抱いていた。

 その視線を知ってか知らずか、怒りつつも菓子の味を楽しむ少女は、きっちり咀嚼(そしゃく)して飲み込んでから、鋭くも可愛らしい犬歯を光らせる。

 

「ふん! 妾とてこのような(ひな)びた砂漠でなければ、貴様如きを奴隷に据えるものか! 妾に相応しいのはそう、気品と知性ある貴様のような愛でるべき才媛よ」

「気持ちはありがたいが、愛でられるのは肌に合わない。それよりこれもどうだ? 少し苦いが、相応に美味いぞ」

「ほう、どれ一つ……うぬぬ!? た、確かに少し苦いが……それが味わい深い甘さを引き立てておる! この美味の献上、褒めてつかわすぞ!」

「そうか、なによりだ。ついでにこれも食べてみないか?」

「全く、ハリベルったらすっかり楽しんじゃって……前から思ってたけど、貴女って結構な世話好きよね」

 

 もむもむと幸せそうに口を動かす天獄に、ハリベルは普段張りつめている目元を緩めている。御蔭丸を保護した例もあるし、生来そういう性格なのだろうと、少女を慈しむ友人にネリエルもフッと微笑む。

 そうしながらも無意識に、もう何十皿目かのお菓子を平らげて、空になった皿を見て目を丸くした。

 

「あれ、もうなくなっちゃった……ごめーん御蔭丸ー、新しいの持ってきてー」

「ふん、豚め。奴隷としての振る舞いも出来ぬ癖に食欲だけは一人前か。カカカッ、鯨飲(げいいん)()(しょく)とはこの事よ。せいぜい主様の炊金饌(すいきんせん)(ぎょく)なる食事で肥え太るがいいわ」

「……貴女もそうならないよう、ほどほどにしなさいね。ハリベルもあまりあげないようにね。世話するのと甘やかすのは違うのよ」

「ああ、心得ておく」

 

 返事をしつつ勧めるのを止めないハリベルにまたも嘆息して、彼女は御蔭丸から新しいお菓子の皿を受け取った。

 御蔭丸との出会いから四年に近い頃。ネリエルがまだ幸せでいられた日々の欠片は、ゆっくりと過ぎていく。

 

 

 

「始解に必要なのは対話と同調。そして卍解に必要なのは具象化と屈服――才ある者でも習得に十年はかかると言われる卍解は、具象化に至った時点で習得寸前と言われておる。

 だが、我が主様ときたら妾を具象化して二年を数えようというのに、いまだ妾を屈服出来なんだ。

 才もある、努力もする、時間もかける……それなのに実らぬ主様の在り方は、つくづく以て(あん)()()(どん)とは思わぬか?」

「キャハハッ、そうよねー! いつまでもくっだらない事グチグチ引っ張り回すなんて、アタマ悪イったらありゃしないわ! 毎回毎回それに付き合うあたしの身にもなって欲しいわねぇ!

 だからさっさと諦めてさ、いつも通り見せなさいよ! あんたの戦いの本能って奴を――さあッ!!」

 

 哄笑する燕の虚は、金色に輝く鞭を振るう(・・・・・・・・・・)。先端に回転する独楽(こま)を設えたそれは遠心力を伴い、人体を容易く粉砕する暴力と化して倒れる死神へ突貫する。

 それを辛うじて逆十字で受けるも、威力を殺せず押し飛ばされた。しかしそれは計算づく、直後に飛来する十枚の翼刃から逃れるためであり、(かわ)せるものは全て躱し、残りは十字架を振るって叩き落とす。

 

「キャハッ、やるう! でもこういうのはどうかし、らっ!」

 

 燕の虚、チルッチは愉しそうに唇の端を尖らせて、鞭で逆十字を絡め取った。そのまま釣りの要領で御蔭丸ごと上空へ放る。同時に天獄を持つ腕に十枚の刃を集中して撃ち放った。

 いくつかは鬼道で防げても、全てを弾く事は出来ない。なにより鬼道の使用を禁じられている今、御蔭丸は天獄を手放すしかない。絡め取られた十字を捨てて、霊子を蹴って刃を避ける。

 そのままもう一度霊子を蹴り、舞い上がる飛燕のように砂漠へ墜ち――着地と同時に、白の砂漠に沈む無数の黄金(・・・・・)から、下手な岩よりも巨大な戦斧を引きずり出して構えた。

 

「あっハァ! 次は(きこり)の真似事かしら!? 全くあんたは、飽きさせてくれないわね!!」

 

 咆哮と同時に襲い掛かる鞭と刃羽を、鮮血色の輝きが射抜く。最初の独楽を打ち払い、一枚目の刃を避け、二枚目を撃ち落とし、三枚目を受け流し、四枚目を殴りつけたところで腕が痺れて戦斧を落とす。なおも迫る五枚目を、髪一本でしゃがんで避けて――そのまま今度は手甲を装備し、白打で残りの五枚を凌いだ。

 それで両腕が完全に痺れて使えなくなるが、構わない。少なくない傷を負う白い大男は砂に刺さる武器群へ跳んで、両刃剣の柄に咬みつき、牙を剥く狼のように身構える。

 そうやって武器を持ちかえては突撃を繰り返す御蔭丸を眺めながら――臨戦態勢で待機するネリエルは、沈痛な面持ちで目を閉じて首を振った。

 

「――――……見てられないわ。あんな戦い方、まるでケダモノじゃない。彼が必要だっていうならそうなんでしょうけど、あれじゃあんまりよ……」

「カカッ、分かっとらんのう奴隷一号。あれこそ主様の本質よ。貴様に見せる笑みなど所詮、他者に向ける偽りの一つに過ぎんのだ」

「それは分かってるわ。分かってるけれど……でも、もっと他にやり方があるでしょう?」

「存在せんよ。妾を屈服させる方法は妾が決める。その為に誰を使おうと何を縛ろうと、文句を言われる筋合いなど無い。そも、主様があのような在り方でなければ、こんな縷縷(るる)綿綿(めんめん)な手段など誰が好き好むものか」

 

 いつの間にかこちらに来ていた金眼の少女が忌々しげに吐き捨てる。けれど歓喜で飾られた瞳は、己が主の闘争をありありと喜んでいた。纏められた金糸の髪を見下ろすネリエルは、そんな天獄に未だ拭えぬ苦手意識を持っている。

 ――嫌だわ。私ってこんなに性格悪かったかしら。

 最初の出会いがアレだったとはいえ、もう二年も前の話だ。いい加減天獄の言動には慣れているのに――どうしても、この少女が好きになれない。

 

「おっと……終いか。以前よりはほんの少しばかりましだが、主様もまだまだよな」

「……!」

 

 ネリエルが天獄に気を傾けている間に終わったらしい。急いで眼を向ければ、倒れ伏す御蔭丸を嗤うチルッチが、止どめの刃を振り抜こうとしていた。その刹那にネリエルは消え――御蔭丸とチルッチの間に、双頭の槍を無理やりねじ込む。

 

「……ナニ? 邪魔しようっての?」

「当たり前でしょ。じゃなきゃずっと待ってるわけないじゃない」

 

 手のひらを軸に槍を回転させて刃の羽を弾いて、ネリエルは睨みながら嗤うチルッチを冷たく見澄ます。天獄への苦手意識とは違い、目の前の中級大虚(アジューカス)は間違いなく嫌いだ。御蔭丸に無理矢理キスしたあの光景は思い出すだけで沸騰しそうになるし――そうでなくとも、弱さを顧みずに戦うその生き方が、気にいらない。

 

「それにもう十分でしょ。御蔭丸が倒れたらそこで終わり・って、最初に約束してたじゃない。破るなんて許さないわ」

「ハンッ、そんなの知ったこっちゃないわね! 戦いなのよ!? 何をしてでも相手を殺すなんて当たり前じゃない!! 約束なんて律儀に守る方が悪いのよ!!」

「そう……なら、仕方ないわね。死なない程度に手加減してあげるから、かかってきなさい」

「……相ッ変わらず上から目線ね。あたし、アンタみたいな奴大ッ嫌いだわ」

「あら、奇遇ね。私もよ」

 

 眉を捻じ曲げるチルッチにすまし顔で答えて、ネリエルは躊躇いなく虚閃を発射した。

 回避に意味はない。チルッチの動きを読んでいたネリエルは着地場所へ突貫する。飛び出した脚力と体重を乗せた双頭の槍はとっさに防御したチルッチの羽を容易く貫き、そのまま弾き飛ばす。

 巨大な燕は勢いを殺すべく翼を広げるも、慣性に抗いきれず白い岩に激突した。轟音と、吹き上がる砂煙を油断なくねめつけるネリエルは、直後射出された薄紫色の虚閃を片手で受け止め、全て飲み込み、撃ち返す。

 

 チルッチが驚く間もなく、ネリエルの霊圧を乗せ倍以上の威力となった虚閃が燕の五体を塗り潰した。先の轟音など比にならない破壊音が鳴り響き、広大な砂漠が一筋の溝状に抉られる。

 チルッチは、無傷と言わないまでも避けていた。間一髪で脚を動かし直撃を防いだのだ。それでも避けきれなかった部分の損傷は戦闘不能が明らかな状況で、対するネリエルは息一つ切らしていない。

 

 同じ中級大虚(アジューカス)である筈なのに――その差はあまりにも、歴然であった。

 同じと呼ぶには酷なほど、あまりにも。

 その現実を、ネリエルは鋼のような瞳で見据え。対するチルッチは、ただひたすらに嗤っていた。

 何を嗤う訳でもなく。何か狂ったわけでもなく。ただそれが、耐えきれないくらい滑稽だと、嘲笑うように。

 

 

 

「……うぐ……」

「あら、気が付いた?」

 

 御蔭丸が眼を覚ました時、彼女たちの戦いから既に数時間が経過していた。起きた場所がメノスの森の隠れ家で、見上げるネリエルに傷は無いところを見るに、チルッチは撃退されてしまったようだ。それも惨敗と言う形で。

 ――……ありがたい事だ。

 ――こんな児戯にもならない俺の修行に本気で付き合ってくれるのだからな……

 ――いつまでも待っては、くれないだろうが。

 獰猛に嗤う燕の虚の願いを思い出し、御蔭丸は痛む身体を無理やり起こす。天獄は寝台の側に置かれているが、手には取らない。この程度の傷なら蓄積した霊圧を使うまでも無いと、御蔭丸は回復に勤しむ。

 

「……何度も言うけれど、回道《それ》頼みで修業するのやめた方がいいわよ?」

「ええ、全くです。ですがこれ以外の方法を、あの子は認めてくれませんので。心配は嬉しいのですが、応えられず申し訳ありません。……忠告を無視するのは僕の悪い癖ですね」

「その言葉だけの反省もね。本当に貴方って人は……誰かの為誰かの為ばっかりなのに、人の話は聞かないんだから。そろそろ本気で怒っちゃうわよ?」

「ハハハッ、それはご勘弁ください。怒られるのはハリベルだけでお腹いっぱいですよ」

「なにそれ、ずるいわ。私にだって怒る権利くらいあるでしょ。一体誰のおかげで修業出来てると思って……ああもう。

 御蔭丸がお腹いっぱいなんていうから、お腹空いたじゃない」

 

 口先だけ怒っていたネリエルの表情が赤く染まる。朗らかな口調を塗り潰すような豪快な腹の虫の鳴き声に彼も微笑んで、すぐに食事の準備を始めた。

 もう恒例の事だ。チルッチも巻き込んだ修行で御蔭丸が傷付いて倒れ、ネリエルが助けて、お礼に食事を作る。やっている事が血生臭い戦いの準備であっても、それは虚圏にあるまじき平穏な日常だった。

 

「さあ、出来ましたよ。今回は見た目より量を重視してお作りしました。きっとご満足いただける筈です」

「わあ、こんなにいっぱい! ありがとう、御蔭丸! それじゃ早速、いただきまーす!!」

 

 礼が早いか匙が早いか、どちらか分からない速度でネリエルは食事に手をつけた。食卓に並べては消えていく料理の数々に、御蔭丸は苦笑して台所へ再度向かう。

 そして聞こえてくる小気味よい音に深い寂しさを感じながら、ネリエルが匙を動かしていると、食卓の向かいに見たくない少女の姿が現れる。相変わらず傲慢で、見下した眼をしてくる斬魄刀、天獄だ。

 

「カカッ、相変わらずよな奴隷一号。大食らいの家畜に劣らぬその食べっぷり、主様もさぞ骨を折っているであろう」

「…………何かしら。文句でもいいにきたの?」

「まさか。貴様に不満があれば文句ではなく拷問に処すだろうよ。いつまで経っても立場の分からぬ愚か者にはよい薬になるであろうし、何より妾が愉しいのでな!」

「あらそう、なら私には関係ないわね。言いたい事がそれだけなら、ご飯がまずくなるし、消えて貰っていいかしら?」

「ハッ、下郎のくせに言いよるわ。だが見くびるなよ? 我が主様の拵(こしら)えた数々の一品が、妾如きの弁舌で品位を落とす事など無いと知れ」

「はいはい、貴女が御蔭丸大好きっ子なのはもう分かってるから、どっか行っちゃってちょうだい」

「これがそうもいかんのだ。貴様は一応分というものを弁えておるが、確認はせねばなるまい?

 ――気付いておるのなら、さっさと主様の前から姿を消す事だな。我が主様は筋金入りのうつけものだ。貴様の変化の原因に勘付けば、いともたやすく命を投げ出すだろうよ」

 

 傲慢な振る舞いに殺意をにじませる少女にネリエルが向ける視線は剣呑だ。その言葉が双方にとって最善であるとしても、少女への苦手意識がそうさせるのか。それとも……気を使う余裕さえも、もう彼女には残っていないのか。ネリエルは考える事無く、食事の合間に唯一の懸念を口にする。

 

「…………貴女が知ってるなら、もうバレてるんじゃないの」

「妾が主様の斬魄刀だから、か? ふん、そうであれば良かったろうよ。そうであれば、主様は一分の苦も無く妾を振るってくれただろうに」

「……そう、なら安心ね」

 

 吐き捨てるような言葉を少し吟味して、ネリエルは納得する。考えてみれば当たり前だ、斬魄刀と死神が互いの知識を共有しているなら、名前を聞き出すのにあそこまで苦労するはずがない。

 天獄が教えない限り、御蔭丸が原因を察するまで知られない。少女はその上で、わざわざネリエルの前に現れたのだろう。自らの主に危害が加わる前に、火種を消してしまおうとして。そこまで考えてネリエルは、天獄への苦手意識が何だったのかに思い当たった。

 ――ああ、そうか。

 ――私がこの子を苦手な理由は、そこだったんだ。

 

 この子供の姿をした暴君は、誰よりも御蔭丸の事を考えている。より正確に言えば、御蔭丸以外をどうでもいいと思っている。

 だから最初に会った時から態度がずっと変わらない。ネリエルが友好的に接しても変わらず、御蔭丸の敵として敵意を持ち続けている。

 それは正しい。御蔭丸をかけがえのない存在として過ごしているハリベルと違い、ネリエルは虚と死神という絶対的な隔絶を意識しているからだ。口先だけであったとしても、死神が虚に対し気を許すなどありえない。その逆もまた同じ。むしろ御蔭丸が例外なのだと、当のネリエルでさえ、忘れかけていた。

 ――……それに、この子はきっと気付いていた。

 ――私自身も知らなかった、目も当てられない衝動に。

 

 その上で伝えなかったのだろうと、ネリエルは食事の手を止めず思考する。会ったその瞬間に言ってもらえればまだ対処は出来たかもしれないが、放っておけば何もせずとも消えるのだ。御蔭丸しか眼中にない天獄が後者を取るのは当然だろう。

 ――全く。見た目も振る舞いも、御蔭丸には全く似てないのに。

 ――こういう計算高いところだけは、そっくりなのね――

 皿に残った最後の一口をすくい取り、ゆっくりと咀嚼し、嚥下する。汚れた口元を拭いて、ネリエルは満たされない腹に手を当てる。

 そろそろ、御蔭丸が次の食事を持ってくるだろう。それを食べたら、もうおしまい。御蔭丸に会う事はもうないだろうと、ネリエルは眉根を下げてかすかに笑う。

 

「出来上がりましたよ――っと、もう召し上がりましたか。ネリエルのようにたくさん召し上がってくれると、作り甲斐があって嬉しいです」

「また貴方は……私だからいいけど、たくさん食べるは褒め言葉じゃないんだからね?」

「もちろん、承知しております。貴女だから言えるのですよ、ネリエル」

「私だから言えるって、もう。許してあげるけど、他の子にそんな事言っちゃだめよ」

「はい、心得ております」

「また口だけの返事! 全く、貴方と会ってから小言ばっかり増えた気がするわ。シワができてたら責任とってもらうからね、主にご飯の量で」

「ハハハ、了解致しましたよ、ネリエル。ですがその心配はご無用です。貴女は変わらず、美しいですから」

「そんな褒め言葉じゃ騙されないんだから! このご飯に免じて今日は許してあげるけど!」

 

 ぷりぷり怒りながら差し出された皿を受け取るネリエルは、先程まで天獄のいた席に座るよう視線でうながす。彼の着席を確認すると、ネリエルはつとめていつも通りに食事と歓談を楽しんだ。

 そんな彼らから離れた場所で、安置された斬魄刀が鈴のように柄を鳴らした。

 

 

 

 

   φ

 

 

 

 

 振り返ってみれば、泣いた事なんて一度もなかった。

 巨大で鈍重な大虚(メノス・グランデ)でいた頃の記憶はそう多くない。覚えているのは自分が最下級(ギリアン)であった事と、それ以外を塗り潰す暴力的な飢えだ。

 人間ではなく同族に向いたその悍ましい飢餓が、彼女に残る最初の記憶。(ひしめ)く徒党を喰い荒らし、己より強くとも喰い荒らし、大量の虚閃にさらされながら喰らう事以外頭になく。

 そうしていつしか、身体は変わり。巨大な化物であった彼女は、半身だけが人間の、半身だけが獣のもっと恐ろしい化物となった。

 感慨はない。飢えが晴れ、心に知性が舞い戻っても、思った事は特になかった。

 変わらないからだ。思考なんてあってもなくても、喰らう以外にするべき事など、虚にありはしないのだから。

 

 ネリエル・トゥ・オーデルシュヴァンク。

 何の意味も持たない名前だ。そう呼ばれる事も、名乗る事も無い。家畜の首にかけられた番号札のようなもの。仮に素性を問われた時に、そう返す為だけの名前だった。

 そして問われる事すらも無く、役目を果たさないままの名前など忘れかける程に彼女は生きた。殺した同族の、喰い散らかした残骸に埋もれてしまうくらい、長い間。

 敵はいなかった。彼女を殺しうる存在は確かに何処かには居たのだろうが、幸か不幸か会う事も、目にする機会さえなかった。

 食事だけが大量にあった。美味くも無い、力と自分を保つだけの食。他の者は嬉々として喰らい合っていたが、どうにも理解できなかった。力の増大も、自分を保つ事にも、そう意味を見いだせなかったからだ。

 永遠の夜と、白い砂漠だけが彼女の世界だった。変わらない、変わる事の無い、変わってはいけない、色の無い飽き果てた地獄。そんな中で意味も無く生きていたのは、それだけしかネリエルには出来なかったからだ。

 

 だから、疲れてしまった。いつも通り一人で、多くの同族と戦っていた時。彼女はふと力を抜き、攻撃を受けて大虚の森へ落ちていった。

 そうだ、意味なんてない。ただ、ネリエルは疲れたのだ。戦う事に、生きる事に、喰らう事に。今を無意味に生き続けても、どうせいつか死ぬのなら、それは今でもいいのではないかと、ただ疲れてそう思った。

 受けた痛みに耐えもせず、徐々に飛んでいく意識を留めようとも考えず、落ちていく中で心を手放して。意識しながら無意識のままに、彼女は終わりへ身を投げた。それなりに壊れた世界で生きていたが、結局世界が壊れていたなんて彼女は理解しないまま、死ぬ事にした。

 

 ああ、だからなのだろうか――あの狂った死神に助けられてしまったのは。

 

 助けられたのは初めてだった。どこか分からない場所に不安になったのも、助けられたと知って謝りながら殺さず無力化しようとしたのも。

 世界に色がつきだしたのはその時からだ。助けられる直前の心境なら、腹が鳴ろうが恥もせず殺して食べていただろう。ただ、初めての事が多すぎた。美味いと思える食事、理性的な会話、穏やかな時間、明確な生きる目的――どれもこれも眩しいくらい、ネリエルの心に光を与えた。

 楽しかった。そう、楽しかったのだ。あの死神と過ごす時間が、例えようもないほど幸福だった。彼女の生きてきた時間の中で、唯一幸福だと感じられる一時だった。

 

 ――ああ、だから、取り返しがつかなくなるまでそれに浸ってしまったのだ。

 

 他の幸せを知らない事も、今までがあまりに虚しすぎたのもあるだろう。ネリエルは口ばかりで関係を否定し、有るわけが無い心のおもむくままに死神と過ごした。死神を匿っているという最上級、ティア・ハリベルとも友人になれた。チルッチだけは気に食わなかったが……気に食わないと思う事がほとんどなかったネリエルにとっては、それも含めて夢のような時間だった。

 だから、同族を喰らう数が少しずつ減っていった。戦うよりも、食べるよりも、幸せな事があると知ったから。それに時間を費やすより一秒でも長く、彼らの元で過ごしたかった。

 そして虚であるネリエルの身体は少しずつ、軋みを上げるようになった。

 

 

 

 見飽きた夜の砂漠を歩く。

 行く当てはない。ところどころに生える石英の木々のように意味も無く、歩く事だけを考える。それで頭をいっぱいにしていないと、今にも走り出してしまいそうで。……走り出したら最後、死ぬまで心は戻らないと、ネリエルは苦悶に満ちた表情で悟っていた。

 大虚は成長する。それは年をとるという意味ではなく、力の増大によって次の段階に進む事だ。最下級なら中級、中級なら最上級――三つの等級の間にはおおよそ超える事の出来ない壁があり、それを突破するためには力をつけるしかない。

 そしてその方法は全ての大虚が生まれた瞬間から刻まれている。即ち、食べる事。同族の捕食によって大虚は自らの力を強くする。それを繰り返した末に素養のある者だけが壁を超える事を許される。

 

 ネリエルは幸運にも、その壁を超えるだけの素養があった。いや、この場合は不運にもだ。彼女には中級から最上級に至るだけの素養とそれを成し得るだけの捕食数があった。

 だが、死神と出会ったあの時から、彼女の捕食数は激減した。最上級に至る寸前の、ネリエルという器が変わりつつあるその瞬間に、最も必要な事を彼女は怠ったのだ。

 蝶が蛹から出る瞬間を永遠に維持できない様に、何かをしかける途中で止まるのには負荷がかかる。壁を越えかかった状態で力が増大しなくなり止まった状態を維持する負担は、飢えと言う感情となってネリエルにのしかかった。

 

 最初は無視できる程度だった。後で多めに捕食すればいくらでも取り返せる範囲だった。

 だが飢餓感がゆっくりと大きくなっていく一方、ネリエルの捕食数は減っていった。それで満たされなければ飢えはもっと強くなる。それでも彼女の捕食数が増える事は無く、ゆっくりと、ゆっくりとネリエルは飢えていった。

 それに気付いたのが、もう取り返しがつかなくなった頃だ。我慢に我慢を重ねて、狂った死神との甘い毒のような時間を過ごしていた彼女の飢えは、もう自分で制御できるようなものではなくなっていた。

 

 一度解き放てば、ネリエルの飢えを満たす事以外考えられなくなる。それこそ雑魚も虚圏の王と呼ばれる存在も見境なく、あらゆる虚を喰らい尽くそうと牙を剥くだろう。

 それが例え、親しい友人のハリベルであったとしても。……それが例え、世界に光を与えてくれた、あの死神であったとしても。

 

 足取りの不確かな蹄に骨灰(こつばい)のような砂が絡まる。理性の鎖で縛りつけた泥のように重い脚を引きずって、少しでも遠くへ離れていく。

 ――まだ、大丈夫。

 顎に涎がとめどなく流れるが、気にしてなんていられない。彼女はもうすぐ、ネリエルと呼ばれる虚からただの獣に成り下がるのだから。それまでに一歩でも遠くへ行かなければ――あの狂った死神が、何の策も無くネリエルを助けに来かねない。

 

「馬鹿、よね……本当に……。私なんか、助けた、って……何の意味も、無いのに……」

 

 (かす)みのひどい思考の中でも、あの死神の行動は手に取るように予測できる。

 他人のためなら(かえり)みない。自分の事は歯牙にもかけないくせに、誰かのためなら死ねと言われてもそうするような、救えない馬鹿。そんな奴が今のネリエルを知ったらどうするのか。

 間違いなく、駆けつけるだろう。尸魂界へ帰る為の修行を捨てて、斃すべき敵も忘れて。それこそ温かさを手放せない、高潔で哀れな彼女(ハリベル)を置いて。出来る事がなくとも、彼は必ずやってくる。

 ああ、そうだ。見抜かれている。ネリエルが認めたくなくて、今も必死に考えないようにしている事を、あの死神は見抜いている。きっと初めて会った時からずっと気付かれていたのだ。

 

 ただ、ネリエルと名乗った半人の虚が。死にたくないと願っているのを。

 

「……ほんと、馬鹿みたい……私、なんかの、そんな願いで、命を棄てるって、言うの……?

 在り得ない……そんなの、在り得ないわ……絶対、に……」

 

 脂汗が涎に混じる。自分の顔を濡らしているのが汗か涎か、それ以外か。ネリエルにはもう分からない。一歩でも遠くへ。少しでも自分の大切なものから離れ去る事だけが、今の彼女に出来る全てだった。

 まだ、大丈夫。死神に気付かれてはいない。あの苦手な斬魄刀は、自分の主が危険にさらされるような事はしない。チルッチは嗤うだけ嗤って、嘲り果てた顔で死体に唾を吐く筈だ。ハリベルには、後の事を託してある。

 何も問題はない。あとは死ぬだけ、生き急ぐように。一度理性を失ってしまえば、ネリエルはもう止まらない。喰らうだろう、怪我も気にせず。喰らうだろう、力の差も見えず。喰らうだろう、それが大切なものでも。

 喰らうだろう……例え千の虚に飛び込んで、その身が塵になるとしても。

 

 きっと、そうなる。だから遠ざかった。初めて知った大事なものを、喪いたくなかったから。ああ――それなのに。

 

 どうして御蔭丸(この男)は、当たり前のように。目の前で微笑んで、立っている。

 

「―――あ、あァあ、ああああ――――!!!」

 

 決壊する。それ以外形容しえないくらい、ネリエルの反応は顕著だった。今までの苦渋に溢れ、それでも耐えていた表情が、絶望一色に塗りつぶされる。対する死神は穏やかに、子供を眺めるような慈愛に満ちた顔付きで、紅い瞳にネリエルを写す。

 

「……なっ……んっ、で!! あなっ、たが!! ここに、いるっ、のよお!!!」

「――ネリエル。貴女が生きたいと望んでいたから。それでは理由が不足ですか?」

「っ……あ、ああああ――!!!」

 

 先と同じように、言葉にならない音が叫ばれる。獣声のようで、慟哭に似て。ガチガチと歯を鳴らすネリエルの顔は、多量の涎で塗れている。

 

「逃げてっ……!! お願いだから、どこか遠くへ行ってちょうだいっ!!!」

「出来ません。僕が生きるという事は、誰かの願いの面影になる事。貴女が他の何よりも生きていたいと願い続ける限り、それを無視する事など僕には出来ないのですよ。

 それが分からない貴女ではないでしょう? ネリエル」

「あ、ああ……なんで、なのよ……なんで貴方はそうなのよお……っ!! う、うぅあ、うう……」

 

 羚羊の虚は耐えるように頭を押さえて悶えている。空を切るように振り回される彼女の髪が、枯れかけの若葉に見えるのは気のせいか。それを眺め、御蔭丸は努めてその場から動かない。白く狂った大男は自分の運命を知りながら、笑みを絶やさず受け入れている。

 ガシャリと、双頭の槍が地に落ちた。彼女が知性ある者として振るっていたそれが手から滑り落ちた事に、唸る羚羊は気付かない。垂れた涎が砂漠に染み、すぐさま風化していく中。いつの間にか発条(バネ)のように折り畳まれていた獣の脚が跳ね飛び、御蔭丸は笑みを浮かべたまま、白い砂漠に仰向けとなる。

 

「ハアーッ、ハアーッ、ハアーッ、ハアーッ……!!!」

 

 獣の腸のように熱い吐息が仮面の奥から大気へ溶ける。まさしく捕食者として死神を地面に押しつけたネリエルは、恐怖と絶望で染まった表情で御蔭丸を睨みつけた。

 

「どうして貴方はっ!! いつも私の言う事を聞いてくれないのっ!! 死なないで欲しいって、弱いクセに戦わないで欲しいって何度も何度も、何度も言ってるのにっ!!!

 いや、いやよ……食べたくない……私は貴方を食べたくない!!! でもお腹が空いてるのよ(・・・・・・・・・・・)!!! どうしようもないくらいお腹が空いてるの(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)!!! だから逃げてって言ってるのにっ、貴方を食べない内に逃げてってあれ程言ったのに!!! どうして貴方は、逃げてくれないのよぉ……。

 食べたくない……食べたくないの……(わたし)は……食べたくない……」

 

 喉を引き絞るように吐き出される彼女の言葉に、どれ程重い感情が乗っていたのか。御蔭丸にはよく分かる。ネリエルの葛藤、願望、そして飢え。ネリエルと言う虚がどれ程、大切なものを喪うまいとしているか。御蔭丸には、よく分かっている。

 

「――ネリエル。僕は貴女に食べられても、構いませんよ」

 

 それでも男は、残酷に。他人の願望によってしか生きられない性質故に、ネリエルの心を折りにかかる。

 

「初めてお逢いした時も言いましたね。僕にとっての誇りとは、殺す事でなく生かす事。貴女が生きてくださるのなら、それに勝るものなど僕の中には無いのです。

 それで貴女が深く傷つき、絶望を知ってしまったとしても。それでも貴女が生き続けたいと願うなら、僕はその下で埋没する礎となりましょう。

 だから――生きてください、ネリエル」

 

 白く流れる髪に咲く扁桃花のように微笑んで。御蔭丸は唯一黒い右腕でネリエルの頬を優しくなでる。その感触に、初めてを与えてくれた甘く優しい、残酷な暖かさに。ボロボロに綻んだ瞳から感情の波が溢れ出た。

 そしてそれを、振り切るように。獣と成り果てた羚羊の虚は、狂った死神へ歯を突き立てた。

 月光の満ちる墓標の前で、嘆くように伏しながら。

 

 

 

 ……それから、どれ程の時間が経っただろう。

 涙はとうに枯れていた。心の亡失した彼女の頬に残るのは、死神の血潮の乾いた痕だけ。瞬きの無い乾いた眼球を遥か天へ向け――二本の脚で座り込むネリエルは、動かない月を見上げている。

 ――なんて、ひどい世界だろう。

 終わりのない夜に見下ろされ、彼女は初めて、世界に救いがない事を知る。いや、救いがないのは世界ではなく、ネリエル自身。虚と呼ばれるその身体が――もはや虚圏に数体しかいないと言われる最上級の存在となったこの身体が、どれほど醜い所業の上に成り立っているのか。

 初めてで、大事で、喪いたくないと想った(ひと)。その感情に名前はつけられなかったけれど、きっと自分の命よりも大切なのだと思っていた。そう、思い込んでいた。

 けれど誰よりも他人の為に生きた彼は、ネリエルの心に巣食う最も強い願いを見つけ出してしまった。無意味に生きて、無意味に喰らって、無意味だったのに、今更のように。喪いたくないと思ってしまった女の、無様な願いを。

 

 ああ、結果はこの様だ。大切に想っていた人の、散らばった残骸の上で。大事なはずの彼の血肉で汚れた姿で。生き永らえたのに、呆然と月を見上げる事しか、ネリエルには出来ない。

 こんな女の為にどうして死ねる? 生きた事を喜べもせず、喪った事を悲しめもしない。こんな意味の無い虚の為に、どうしてあの死神は死を選べた。

 ――そんなの、とっくに分かってる。

 ――御蔭丸は悍ましいくらいに、狂っていたから。

 ――心が軋んでしまいくらい、惨たらしく狂っていたから。

 

 男の笑みを、思い出す。いつも優しげで、全てを受け入れる慈母のように暖かな微笑み。敵意の無い、どこまでもこちらを気遣う物腰と、他者のためだけに生きる姿。

 そんな死神、いる筈が無い。いや、人間でも虚でも、そんな在り様は狂っているのと同じだ。こんな私でさえ……今になってもまだ、自分の命が惜しいと言うのに。

 ――……醜いわ……なんて醜い。

 ――こんな事なら、御蔭丸と出逢わなければよかった。

 ――そうすれば彼はまだ、生きていられた筈なのに。

 ――私が御蔭丸を……殺し(たべ)てしまった……

 

「……ごめん……なさい……ごめんなさい……御蔭丸……」

「……泣かないでください、ネリエル。貴女に泣かれると、僕まで悲しくなってしまいます」

「…………え…………」

 

 呆然としたまま、目を降ろす。ネリエルの視界にあるのは、朱色に沈んだ肉の花。生きていた死神の何十倍もあろうその中に。

 己の血肉に塗れながら、微笑む男が横たわっていた。

 

「みか、げ……まる……?」

「はい、僕ですよ、ネリエル。いやあ、申し訳ありません。僕とした事が少々、意識が飛んでいたようです」

 

 夢でも見ているのだろうか。ネリエルはあっけらかんと上半身を起こす男を見開いたまま固まっていた。御蔭丸はそんな態度に平然と微笑み、鬼道を打ち込みながら食われた右腕を修復する。

 

「どう……して……?」

「おや、これは異な事を仰いますね。前にも申し上げたでしょう? 僕は即死でなければ回道で回復できると。今回の事もそれを見越してでして――まあ、有体に言えば、僕は死ぬつもりなど端から無かったという訳でございます」

「そ……ん、なの、って……」

 

 本当に――この死神は。そんな言葉が理由になると、思っているのか。

 

「このっ……大馬鹿者――――――――!!!」

「うわっ!?」

 

 思わず、飛びかかった。裸も同然の格好だが、それがなんだ。起き上がった御蔭丸はネリエルに突貫された衝撃で、赤に(ただ)れた砂漠へ倒れる。

 

「何ソレ!? 何なのソレっ!? そんなふざけた言い分で、私が納得すると思ってるの!? 馬鹿にするのもいい加減にしなさい!!」

「いやふざけてなどは」

「黙らっしゃい!!! 今の今まで許してたけど、今日と言う今日だけは許さないわ!!

 大体、そんな事できるならどうして先に言わないの! 貴方の事食べたくないだなんて叫んで、逃げて、押し倒したのに! まるで私が馬鹿みたいじゃない!」

「いやあ、話すタイミングがなかったと言いますか、それくらいは気付いていらっしゃるかと」

「私の知性に責任を押し付けないでよ! 言えばいいでしょ、何のための口よ! ああもう、ホント――貴方っておかしな死神ね!!」

 

 ボロボロと、涙が零れる。彼女から落ち、温かく顔を濡らす大粒のそれを御蔭丸は甘んじて受け入れていた。彼女がそう望むのなら、言う事など何もない。泣くあまりに言葉がつっかえ、堪えられなくなった彼女が胸に顔を埋めるのも、気にはならない。

 ただ、これ以上踏み込まれると友愛以上になりそうだと、今更のように思い。それは困るなあと心の壊れた死神は、微笑みながら拒絶の算段をしていた。

 それにネリエルは気付かないし、まだ気付かせるつもりもない。この様子では無駄に終わるだろうがなと、無意味に笑う御蔭丸を余所に、ネリエルは泣きながら、不鮮明な掠れ声を絞り出す。

 

「……食べて、しまって……ごめんなさい……」

「構いません。元よりそのつもりでここに来ました」

「……殺して、しまって……ごめんなさい……」

「死にかけましたが、生きております。どうか気に病まぬよう、(こうべ)を垂れて願います」

「……少しは、罵りなさいよ、馬鹿……」

「出来ません。貴女の意志を無視した事に、変わりないですから。罵倒されるべきなのはむしろ僕でしょう」

「……貴方は本当に、おかしな死神だわ……」

「ええ。それが僕という死神です。そして貴女は、こんな僕を受け入れてくれました。だから帰りましょう――ネリエル。貴女は一人ではないのですから」

「……ありがとう……御蔭丸――」

 

 顔を埋めたままネリエルはそう言って、白い衣の裾を引き寄せる。昏く止まった虚圏に小さく響く、自鳴琴(オルゴール)のような嗚咽(おえつ)を聞きながら。御蔭丸は笑って彼女を好きにさせていた。

 抱き寄せるような真似はせず。自分が彼女にとっての特別にならなければいいと、あまりにも身勝手な事を願いながら。

 

 こうしてネリエルは、大事な場所を喪い、また得る事となった。御蔭丸はまた一人、強大な大虚に無い筈の心を芽生えさせた。

 御蔭丸は全てを受け入れる。それが誰かの望みならば、後にどんな惨劇が待ち受けようとも、受け入れるしかない。願いの面影になる事だけが、彼の生きる道故に。

 そして全てを受け入れても、愛する事は無い。皮肉な事に、誰かを愛するだけの心が、もう死神には残っていないのだから。

 

 見飽きた月は夜に留まる。虚でありながら喪失を恐れる女と、死神でありながら虚のような男を見下ろしながら。それが何ら特別でないと言うように、冷たい光を放っていた。

 




原作より六七九年前の出来事。
お久しぶりです。この二次創作に関するデータが全て吹っ飛んだため無気力になっていた筆者です。
リアルの忙しさもあり、意気消沈しながら細々と書いていたらこんなに時間が経っていました。
こんな筆者の作品を待っていてくださった方には感謝の念が絶えません。
また間をあけずに投稿できるよう努力します。

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