BLEACH Fragments of Remnant   作:ヴァニタス

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刃は己が為になく

「さて、お前様よ。修錬(しゅうれん)を始める前に一つ、妾の頼みを聞いてはくれまいか?」

「…………」

 

 幼くも猛々しい声が、煌びやかな空気に滴る。紅いドレスを華やかに踊らせる、一挙一動に優雅さを織り込む少女――天獄(てんごく)は一人、獰猛に嗤いながら舞っている。

 黄金の大塔が無数に立ち並ぶ出口のない宮殿。御蔭丸の精神を表す虚栄で埋め固められたその世界には、彼とその斬魄刀以外誰も呼ばれる事のない、凄まじい広さの舞踏場がある。

 壁という壁を心打たれる荘厳な絵画が覆い、天井にあらゆる宝石で造られたシャンデリアが光る其処は、情熱的にステップを踏む天獄の独壇場だ。金の髪を光に遊ばせ少女が紅く舞い踊るたび、大音量の音楽が広い空間に虚しく響く。それでも構わず嗤い踊る天獄を、ひどく摩れ果てた顔の男が静かに眺めていた。

 

「お前様の羽翼(うよく)となるを、妾は一日千秋に勝る思いで待っておったわけだがな。流石にそれだけが妾の望みではないのだ。

 故にお前様よ、この修錬に於いてお前様が負ける度、妾の願いを一つずつ叶えて貰いたい。それが妾の頼みごとよ」

「…………」

「うむ、そうか、引き受けてくれるか。まあ当然よな、妾のような(かよわ)女子(おなご)をこのような(ひな)びた(みや)に何年も閉じ込めたのだ。真っ当な者なら自責の念にかられて己が持つ全てを妾に献上するが筋というもの。この程度の頼みごとは一も二も無く頷いて当然であろうよ――カカカカカッ!」

「…………」

 

 (うた)うように呟きながら天獄は艶やかにステップを踏む。この間、御蔭丸は一切喋っていないのだが、まるで意に介していない。言葉にせずとも意志が通じていると言いたげに少女は嗤い、虚栄に踊る。

 御蔭丸はたった独りの舞踏会を眼に写しながら、深く虚ろな沈黙を保っていた。ここは御蔭丸の心の(うち)、自ら壊した精神の影。白い彼が誰かに見せる願いの姿は、ここには欠片も存在しない。

 故に御蔭丸は喋らず――その代わりと言わんばかりに、天獄は頬に朱が差すくらい熱の入った声を奏でている。

 

「初めの願いは何が良いか。お前様のだだっ広い背におぶさるのも良いが、硬いばかりの膝に座るのも一興やもしれん。お前様に頭を撫でられるのは嬉しくも何ともないがそれはそれで良いやも知れぬし、いっそ(しとね)を共にするのも有りであるな。ああ、実に実に楽しみよのう」

「…………」

「おっと、済まなんだ。妾とした事が酔生(すいせい)夢死(むし)の境地に浸ってしまっておった。お前様の事を考えるとどうも地面に足がつかぬでな、まだ踊らねば天に昇ってしまいそうだ。故に妾の嵐影(らんえい)()(こう)の舞を今少し謁見(えっけん)する事を特別に赦そう」

「…………」

 

 傲慢に見下して嗤う少女を、白い死神はただ眺める。特に意味は無い。特に意味は無いが――自らが壊した心より産まれた天獄の在り方を、何故か見定めなければならない気がした。

 天の刃金(はがね)は優雅に踊る。時には穏やかに、時には荒々しく――御蔭丸が得て、喪ったものを示すように金色の髪を華やかに揺らし、紅いドレスで世界を紡ぐ。波濤(はとう)の勢いで響く音楽に身を任せる少女は、その終演(フィナーレ)に最高の花を添えた。

 そして喝采の無い舞踏会に漂う余韻に浸る間もなく、御蔭丸は斬魄刀を抜き解放する。躊躇いなく己を扱う事に少女は(おご)(たか)ぶって――天地を貫く逆十字を、粉雪のような小さな手に顕現させた。

 

「待たせたな、お前様よ――本当は今少し話をしたいが、もう我慢の限界であろう? 故に()く始めるとしようか。

 修錬は今宵も変わらぬ。妾が妾の力を振るい、お前様がそれを受け止めるだけだ。妾は力の名を語らぬ、使い方も言わぬ……だが、充分だろう? 妾を初めて担った時、当たり前のように妾の力を使ったお前様なら――容易く理解出来る筈だ」

「…………」

「うむ、良い返事だ――――なれば踊れ! (いと)しい(いと)しい我が辺獄(へんごく)よ!!」

 

 少女は嗤い、彼は荒れ果てる。おそらくは戦場から最も遠い虚栄の園に、高らかな鉄の歌声が木霊(こだま)した。

 

 

 

   φ

 

 

 

 

「ふ~ん。大体察しはついてたけど、やっぱり修行の為に虚圏(ウェコムンド)にいるのね」

「何時でも帰れる、という訳ではないのですが、当面はその通りと言っても問題ないでしょう」

「他にも貴方みたいな死神はいるの?」

「その可能性は限りなく低いでしょうし、いたとしても今の僕にはそれを知る術がありません。ただ、並の死神では生き残る事は困難でしょうね」

「あら、それって自分が並の死神じゃないって事かしら?」

「少なくともまともな死神ならば、虚と戦わずに一緒に食べたり話したりしないでしょうから」

「それもそうね。あ、これ美味し」

「…………」

 

 メノスの森の修行拠点――今日も今日とて鬼道の修行に明け暮れていた御蔭丸は、突然やってきたネリエルに驚きつつも料理を振る舞っていた。前回ハリベルに怒られた事とネリエルに教える料理の関係上、材料は全て虚圏原産である。

 

「ねえねえ御蔭丸、この“ごはん”はどうやって作ったの?」

「……芋虫型の霊蟲の肉を厚く切って、香辛料をまぶし焼いたものです。香辛料は体液を絞って乾燥させたものを使いました」

「じゃあこっちでも作れるのね! ん~、この溢れ出る肉汁が堪らないわ~!」

「そうですか……ところでネリエルさん」

「さん付け禁止!」

「……ネリエル。食事を楽しまれるのもいいのですが、一体何時までお召し上がりになるのでしょうか……?」

 

 もむもむと幸せそうな顔で口を動かすネリエルは片っ端から皿を空けていく。大量に積み上がった白い塔をひくついた笑顔で眺めながらせっせと片付ける御蔭丸に、ネリエルはにんまりと意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「あら、たくさん食べる人は好きなんでしょ?」

「いや、確かにそういいましたが、ここの在庫もそろそろ尽きそうなのです。これ以上作ると在庫がなくなってしまいますので……」

「それについては心配いらないわ。万が一をちゃ~んと考えて色々狩ってきたんだから」

「色々って、玄関に積まれている“アレ”ですか……どれだけ食べるつもりなんです?」

「貴方が音を上げるまでよ」

「あ、あはは、そうでございますか……またハリベルに怒られそうだ」

 

 御蔭丸は上が見えないくらい積み上がった霊蟲の山をちらりと見て疲れたようにぼやく。かれこれ半日台所にかかりっきりともなれば疲労は当然だが、四番隊の仕事に比べれば涙が出る程楽なのも事実だ。現に御蔭丸の身体は心の疲れに反してテキパキと動き続けている。

 そんな彼を眺めながら食事にいそしむネリエルは、ぱちくりと目を(しばたた)かせていた。思いもよらない珍しいものを見た、という表情で口を動かし、皿の中味を一気に頬張る。そのままごっくんと嚥下(えんか)して汚れた口元を拭いた後、感心した様子で呟いた。

 

「へえ~……貴方でもそんな顔をするのね」

「え? 僕の顔がどうかしましたか?」

「いえ、大した事じゃないのよ? ただ貴方って、いっつも笑っているじゃない。だからそんな風に疲れた顔してるの、珍しいなー・って思っただけ」

「ああ……申し訳ございません、御不快でしたか?」

「いいえ、全然。むしろ好ましいと思うわ」

 

 つり上がっていない唇の端をさすって困ったように微笑む御蔭丸に、ネリエルはクスリと笑みをこぼす。そしてきょとんと疑問符を浮かべた。

 

「でも、どうしてそんな疲れてるの? ひょっとして私がたくさん食べるからかしら……だったら悪い事をしたわ」

「いえ、貴女の食事を作る事なんて四番隊の仕事に比べれば何て事はありません。ただ、此処のところ修行の成果が(かんば)しくないので……少し無理をしすぎただけです」

 

 ――天獄(アイツ)によく会っているせいでもあるだろうがな。

 まだ一度として勝った事のない己の力を思い浮かべて辟易する。天獄は御蔭丸の力、そして御蔭丸そのもの――それ故に長く対峙し続ければ、本当の自分が浮き彫りになってしまう。願いが取り払われ、荒れて果ててしまった己の心が表に出てしまうのだ。

 だからネリエルに素の顔を見せてしまったのだろう。しばらく顔の筋肉をこねくり回して表情を作った御蔭丸は、いつも通り柔らかく笑って出来上がった品々をネリエルの前に並べる。

 

「お待たせ致しました」

「わあっ、みんな美味しそう! これ全部食べていいの!?」

「貴女の為にご用意したのですよ。どうぞ好きなだけお召し上がりください」

「ありがとう! じゃあ早速、いっただっきま――――って、違う違う。今日はご飯を食べに来たんじゃなかったわ」

「えっ!? そうなのですか!?」

「なんでそんなに驚くのよ……流石の私もご飯をたかる為だけに貴方に会ったりしないわ」

「い、いえ、今まで食事以外の事をしている姿を見た事がないので、つい……そ、そうですよね! ネリエルさ……ネリエルだって食事をしてばかりじゃないですよね!」

「さん付けしなかったのは褒めてあげるけどかなり失礼な事言ってるわよ貴方。……ふう、やっぱり今日此処に来たのは正解だったわ」

「正解? 一体何の話でしょう」

「貴方の命に関係する話よ、御蔭丸。私はね、貴方に“忠告”しにきたの」

 

 ジト目でため息をつくネリエルはそう言って、霊蟲の羽のサラダをパクつく。その間にネリエルの持ってきた霊蟲の処理と下(ごしら)えをしながら御蔭丸は話の続きをうながした。

 

「“忠告”、でございますか?」

「そ、最近この辺りで結構強い大虚(メノス)が暴れているらしいわ。アジューカスの巣でもメノスの森でも、誰これ構わず喧嘩を売り歩いているそうよ。だから気をつけなさいって言いに来たの」

「大虚……最下級(ギリアン)ですか?」

「さあ? 私は噂に聞いただけよ。そいつが最下級か中級(アジューカス)かも分からないわ。ただ最上級(ヴァストローデ)って事は無いでしょうね。もしそうならもっと早く噂が出回ってるし、この辺一帯はもう更地になってる筈だもの」

「ふむ、成程……」

 

 すまし顔で食事を続けるネリエルを余所に、御蔭丸はとある可能性の可否について思案する。

 無限に再生する命尽きぬ者。十年後に殺しに来ると言ったあの闇の姿を思い出して、御蔭丸は首を振ってその考えを否決した。

 ――アルヴァが暴れだしたか、と一瞬思ったが。

 ――やはりない(・・)か。まだ俺が生きている以上、意図的な殺しは控えている筈だ。

 皿を洗う合間に結論付けて次の準備に取り掛かる時、ふとネリエルを見るとジトーッと妙に据わった青緑の瞳で睨まれていた。心の薄暗いところを透かされるような視線を受けて思わずたじろぐ御蔭丸に、彼女は血色の良い唇を震わせる。

 

「……もしかして、戦おうとか考えてた?」

「い、いえ、まさかそんな事は致しません。僕は戦いを(いと)う性分ですので」

「ふーん……それにしちゃ、随分物騒な眼をしていたわ」

「それは……――――(たお)さねばならない、敵がおりますので。僕はその為に修行をしているのです」

「……そう。ならいいわ。でも御蔭丸、念のためにキチンと言っておくわよ。

 ――もし私の忠告通りの“何か”と遭遇したら、絶対に戦おうとは思わないで。貴方はそれなりには強いわ。けれど、所詮はそれなりよ。戦ったとしたら多分――貴方は死ぬわ」

「……(くだん)の存在は、それ程強いのですか?」

「言ったでしょ。私は噂を聞いただけ――その“何か”がどんな姿をしているかも、どんな能力を有しているかも知らないわ。

 ……けれど、その“何か”が暴れた跡地みたいな場所を、此処に来る途中で見たの」

 

 そこで一旦区切ったネリエルは静かな圧力を伴った視線を投げていた。弱肉強食の残酷な世に身一つで抗い続けた彼女の本気の忠告に、御蔭丸も表情を削って受け止める。その荒れ果てる男の顔に一抹(いちまつ)の哀れみを覚えながら――ネリエルは厳かに、幼い声を響かせた。

 

「――まるで刀剣の竜巻が通ったみたいなひどい惨状だったわ。蟲も木も岩も虚も――そこに在った筈のものが全部、根こそぎ切り裂かれてた。貴方も大概おかしな死神だけど、あの惨状を作りだした存在は貴方よりも常軌を逸している――確実に話の通じる相手じゃない。

 だからもう一度言うわよ、御蔭丸。もし“何か”と遭遇しても、絶対に戦わないで。私は貴方に――死んでほしくないの」

「……分かりました。心得ておきます」

 

 力強く頷く御蔭丸は、いつも通りの慈母の微笑みを浮かべていた。その笑顔を遠い目で見つめるネリエルは、悲しそうに目を伏せる。

 彼女ははっきりとではないが知っている。大神御蔭丸という男がいつも笑っているのは、彼女自身がそう望んでいるからだと。彼が敵対しないのは、ネリエルが戦う理由なくして戦わない事を分かっているからだと。そして御蔭丸がそんな風に願われた形を取ろうとする事を――ネリエルは本能的に理解していた。

 だからネリエルは何度も忠告を重ねた。例え彼女が理性で御蔭丸の本質を理解していなくても、彼女の本能がこう囁いていたからだ。

 もしも、噂の“何か”が御蔭丸と遭遇してしまったら。御蔭丸が逃げない事を選んでしまったら。その“何か”が御蔭丸を切り裂きたいと願ってしまったなら――御蔭丸は、それを受け入れてしまうかもしれない。

 もしそうなってしまったらとても悲しい事だと、ネリエルは思い。それ以上の想像を放棄するように、目の前の料理を一心不乱にかき込んだ。

 

「ごほおっ!? ごほ、ぐふっ!?」

「ネ、ネリエル!?」

「げほっ……の、のど……ごほっげほっ、苦しっ……!!」

「ああ、そんなに急いで召し上がるから喉に詰まってしまうのですよ! とにかく喉から食べ物を出さないと……くっ、背中を叩いてもお腹を押しても出ません!! こうなったら、喉の異物を直接排除するしか――ネリエル、覚悟をお願い致します!!!」

「げほっ!? が、あ、やあ! そんな太い手、入るわけなっごほっ……! 駄目っ、待って、待っもが――――!?」

 

 

 

   φ

 

 

 

 メノスの森とハリベルの住処の間、果てしなく続く石英の巨木に覆われた道なき道を御蔭丸はふらふらと歩いていた。メノスの森からの帰り道のため、持ち物は少ない。せいぜい背中に背負う斬魄刀くらいなものである。

 ――ふう、ちょっと大変だったな。

 首をゴキリと鳴らしてだらしない顔でため息をつく。ネリエルの喉が詰まった時はどうなる事かと思ったが、鬼道で異物を全て引き出したので事無きを得た。喉の詰まりを取るための鬼道なんてそう使う場面もないだろうが、御蔭丸はその事で自身の能力の向上を自覚する。

 ――咄嗟(とっさ)にそれなりの完成度を持つ鬼道を使えるようになった。

 ――まだ足りないが、進歩を感じられるのは喜ばしいな。

 とぼとぼと足を動かしながら御蔭丸は左手に鬼道の術式を構成する。半ば意識せずとも発動は可能……こうやって無意識まで刷り込まれていけば精度も手数も格段に跳ね上がる。しかしまだ届かないと、更なる修行の必要性を感じながら――御蔭丸は倒れるように、一瞬でその場にしゃがみ込んだ。

 

 その瞬間、微かな風切り音が駆け抜け、御蔭丸の髪から上が全てズレ(・・)る。風景画を二つに切ってずらすように景色が裂け、砂漠まで突き抜ける石英の巨木が鈍重な音を立てて崩れ始める。

 メノスの森に満ちる地響きに御蔭丸は素早く動いた。落ちてくる人間大の枝を避け、雨のように降る砂から身を隠す。そして石英の巨木が重なって倒れる前に鬼道を発動して、自らの白と赤の色彩を消した。

 メノスの森が崩れ去る。まるで刀剣の竜巻が通ったように、鋭利な切り口でバラバラにされた石英の山を――舞い散る白い(つばめ)の羽根が、真っ二つに轟断(ごうだん)した。

 

「ハ~~~アッ!! つまんないつまんないつまんな~~~い!!! こんなのいくらブッた斬ったって全然楽しくないっての!!!」

 

 石英がバラ撒かれた衝撃の中心から苛立つ女の声が響く。しかし粉微塵になった石英の白煙に写る影は巨大で人の形をしていない。

 最初に現れたのは影の半分以上を占める非常に大きな(たてがみ)だった。尖った仮面の頭部から伸び背中で二つに分かれているそれは、柔らかく美しい白の羽毛。その隙間からチリチリとぶつかり合う金属の光を覗かせながら――巨大な燕の如き(ホロウ)は、刃の羽根を拡散させる。

 

「ホラホラ、何か言ったらどうなのさ! その辺でガタガタ震えてるザコ虚どもっ!! 怯えて逃げて死ぬくらいなら、このあたしと戦ってからくたばりなっ!!!」

 

 崩れた森に響き渡る咆哮と共に無数の刃が飛来する。縦横無尽に宙を駆け抜け、独特な音色で障害物をあっさり両断していく刃の羽根――そのいくつかが偶然にも、姿を消して隠れていた御蔭丸へと迫る。

 ――弾道が重なり過ぎている、避けられんな。

 ――仕方ない、受け流すか。

 漁師の投げる網のように隙間なく飛んでくる刃を紅く鋭い眼に写して、そう判断した御蔭丸は、自身の迷彩を保ったまま新たな鬼道を発動させる。

 ――縛道の三十九、『円閘扇(えんこうせん)』。

 円形の盾を出現させる円閘扇。それを凸レンズ状に変形させ、刃の数だけ正面に配置する。受けるのではなく受け流す――レンズ状の盾の凸部分で刃を滑らせ軌道を変えるのだ。その作戦は功を奏し、刃の羽根は全てあらぬ方向へ逸れていった。

 

 ――まずいな。

 しかし御蔭丸は喜ばず、受け流した円閘扇を見て顔を(しか)める。大した衝撃を受けていない筈なのに発現した円閘扇は全て罅割れていた。それに間近を通った刃の羽根から聞こえてきた、金属が擦れ合うような独特の風切り音――あれは振動する刃なのだ。

 ――下手に防げば命は無い。

 ――それにあの刃……まだ終わったわけじゃない。

 御蔭丸がそう考えると同時に、逸らした筈の刃が背後から飛んでくる。先程のように複数ではなく一つ、それを霊圧知覚で察知した彼は、鬼道ではなく瞬歩で避ける。白い死神の残像を切り裂いた刃の羽根は再び燕の虚の鬣へ吸い込まれ、元あった場所にしまわれた。

 ――撃つも戻すも自由自在、か。

 ――随分と厄介な代物だ。

 崩れた石英の影へ逃げた御蔭丸がそう分析していると、燕の虚は首を傾げるように鬣を揺らす。

 

「……んん? 今なーんか羽根に当たった感じがしたんだけど……気・の・せ・い・かな~?」

 

 人間一人なら容易く握り潰せそうな巨大な手を仮面の額に乗せて、燕の虚は周りを注意深く観察する。それを遠くから様子見る御蔭丸は霊子迷彩の上に霊圧を消す鬼道をかける。これで発見されにくくなるだろう。

 ――このまま遣り過ごすか。

 そう思う御蔭丸の狙い通り、燕の虚は暫くキョロキョロと首を動かしていたが、獲物が見つからないのか苛立ち気味に地団太を踏む。

 

「……なによ、やっぱり誰もいないじゃない。あ~あ、探して損した! 他に()りがいのあるヤツもいなさそうだし、こんなホコリっぽいところ、いつまでもいたら汚れちゃうわ! さっさと帰りましょ!」

 

 石英を蹴飛ばして怒りを露わにする燕の虚は、鬣の下から二枚の巨大な翼を引きずり出した。白い翼膜の先には、さっき弾いた刃の羽根がズラリと並んでいる――あの虚の主要な攻撃器官はあれで間違いないだろう。

 綺麗な白い羽毛を羽ばたかせる燕の虚は怒気が吹き上がる表情のまま、二枚の翼を大きく広げた。その姿は空に舞う飛燕に似て美しい。チリチリと擦れ合う刃の羽根の振動音も花を添えている。敵ながらその美しさに思わず目を奪われる御蔭丸は、ふと一つの疑問を呈した。

 ――何故すぐに飛び立たない?

 燕の虚は翼を広げた姿勢で静止していた。ピクリとも動かず、聞こえてくるのはチリチリと振動する金属音だけ。隠れる御蔭丸が少し顔を出して睨んでも状況は変わらない。動いているのは刃の羽根だけだ。チリチリと、チリチリと――擦れる振動音が緩やかに大きくなっているのを自覚した瞬間、御蔭丸は敵の狙いを愕然と悟る。

 ――しまった……――――!

 すぐに瞬歩で逃げようとするが、もう遅かった。御蔭丸が脚部に霊圧を巡らせる前に――燕の虚は、尖った(くちばし)を激烈に歪める。

 

「――――あっハァッ!! みーつ・っけた――――!!!」

 

 高らかな嗤い声が彼の耳に届いた瞬間、刃の羽根が一斉に射出される。縦横無尽に滑空し怒涛の勢いで迫る刃の群れに、御蔭丸は眼を研ぎ澄ませ――背中に差す斬魄刀の柄に手をかけ、淡く煌めく黄金の刀身を引き抜いた。

 

「裁け――天獄! 護形(ごぎょう)刃界(じんかい)ッ!!」

 

 黄金の残光を描く刀身は巨大な十字架に変貌する。それを盾のように正面に突き立て、あらかじめ蓄積していた霊圧を圧縮した壁として放出した。

 遥か上空の砂漠まで届きそうな黄金の壁が生成されたと同時に、無数の刃が壁に着弾する。瞬間、壁を削る金属音が何重にも重なって鼓膜を突き刺すが――天獄の壁を突き抜ける事は無く、刃の羽根は次々と地に落ちる。

 そしてさっきと同じ様に刃は戻っていき――燕の虚の翼に全て再装填された後、尖った嘴を吊り上げる彼女は嬉しそうに嗤っていた。

 

「へえ……チョットはやるじゃない。あたしの羽根を防いだ奴、ひっさびさに見たわ」

「……金属振動で超音波を発生させて索敵したんですか。見た目以上に便利な能力をお持ちのようですね」

「ハッ、一発でそこまで分かっちゃうんだ! 中々楽しめそうじゃない――のッ!!」

 

 彼女が言い切ると同時に刃の翼が叩きつけられる。御蔭丸は護形刃界を維持し続けて凌ぐが、攻撃を受け続けるうちに天獄の壁を支えられなくなっていた。

 ――振動が壁を伝わって俺の手を痺れさせてくる……!

 ――本当に、見た目以上に厄介な能力だ!!

 ただでさえ一撃が重いと言うのに、刃の振動が衝撃を増幅している。徐々に麻痺してくる両腕に、このまま防御を続けるのは(まず)いと御蔭丸は汗を垂らす。例え天獄の壁が破られなくとも、支える御蔭丸の方が力尽きれば己が作った壁に潰されかねない。

 ――とにかく今は、体勢を立て直す……!

 ぬらりと光る鮮血の眼は深く静かに凪いでいた。両腕に回道をかけて麻痺を減少させつつ、一方で脚部の霊圧を練る。そしてキャハキャハと嗤う虚の連撃の隙を突いて――護形刃界を解き、瞬歩でその場から離脱した。

 

「キャハハハハハハハハ――――……はあん? ドコ行ったのよ。まさか今のでバラバラにブッ飛んだの? 少しは期待してたんだけど……結局ただのザコだったのかしら」

「――ご期待に添えず申し訳ございません。しかし僕はまだ、死ぬわけにはいかない身なのです」

「!?」

 

 背後に響く声に燕の虚が弾けるように振り返ると、崩れた石英の山の頂点に白い衣を(なび)かせる男がいた。並の人間より巨きく、その長身より更に巨大な逆十字を握る白髪紅眼に――燕の虚は歪む嘴の隙間から、紫の眼光で睨みつける。

 

「――――……何よ、それ。あんた一体何したの」

「“瞬歩”、と云います。死神の有する高速移動術ですよ。御覧になるのは初めてでしたか?」

「……まあね。“瞬歩”どころか死神だって見るのは初めてよ。なにせあたし、産まれて一回も現世に行った事ないからさ」

「……そうですか。大虚は同族の虚を食すと聞き及んでおりましたが、貴女のように人間の魂魄に興味を示さない方もいるんですね」

「完全に興味ナシ・ってわけでもないけどね。ただ人間の魂は薄い(・・)って聞くからさー。わざわざ現世まで足を運んでうっすい(もの)食べるなんてアッタマ悪イし――こうやって暴れてれば、あんたみたいに結構濃い(・・)のが釣れるってワケ」

「――成程。通りで貴女の噂を耳にするわけです」

「キャハハッ、噂ァ? なんで死神のあんたが虚圏の噂知ってんのか知らないけど――そんなのカンケーないわよねッ!!」

 

 その瞬間、話の途中から徐々に収束していた霊圧が、赤味がかった薄紫の虚閃となって撃ち出される。彼はそれを感知していたので悠々と瞬歩で避けるものの、反撃はせずまた燕の虚の背後を取る。

 

「……まだ話の途中ではないのですか?」

「だったら何よっ! ココはもう戦場なのよ、話の途中だろうが食事の途中だろうが戦いは続いているに決まってんでしょ!!

 あたしはね、退屈してんの! 戦場で気が休まる時なんて一瞬だって無いのに、どいつもこいつも腑抜けぞろいのバカばっかり!! 戦ってるのに気を抜いて、そんであたしにバラバラにされる!! そんなザコと戦うなんてもうウンザリなのよッ!!!

 ――だから、あんたがあたしを楽しませなさい!!! 当然断らないわよね、死神は虚を斬るのが仕事なんだから!!!」

「…………」

「あっハァ!! 気が乗らないの!? でも安心しなさい――――嫌でもその気にさせてやるわっ!! このチルッチ・サンダーウィッチがあんたをバラバラにしてあげる!!! それが嫌なら戦いなさい、死ぬまでね!!!」

「……了解致しました、チルッチ・サンダーウィッチ様」

 

 白い羽毛の(たてがみ)を逆立てて嗤う燕の虚――チルッチに向けて、御蔭丸は幽世の鬼火を双眸に灯した。そして()山血(ざんけつ)()の地獄を歩む修羅の如く、闘気の無い逆十字を厳かに構える。

 

「護廷十三隊四番隊第三席、大神御蔭丸――――参ります」

 

 名乗りを上げた返答は、高らかな美笑と刃の羽根の風切り音だった。障害物を全て両断しながら進む刃の群れを、冷静沈着に弾きながら――御蔭丸は、願いの面影と化していく。

 チルッチ・サンダーウィッチの、戦いの渇望を満たす面影へと。

 

 

 

「なあ、お前様よ。何故お前様が妾に勝てぬか、考えた事はあるか?」

「…………」

 

 滴る雨に紛れる声が、血の滲む男の耳朶を揺らす。破壊された舞踏場の中心で大の字に寝転がる御蔭丸の前には、つまらなげな天獄が逆十字を背にもたれかかっていた。

 

「まあ、お前様の事だからそれはもう一生懸命考えたであろうな。だが結局、答えは出ぬまま――妾に倒され続ける日々よ」

「…………」

「何故勝てぬのか、それは妾の口からは言えぬ。その答えはお前様が自ら辿り着かねばならない事だ。少なくとも……お前様が最初に用いた三つの技、それ以外を妾から引き出させぬ限り、妾に勝つは夢のまた夢であろう」

 

 だらりと細い手足を遊ばせてそう語る少女は、身に染みつく雨を鬱陶(うっとう)しそうに眺めている。御蔭丸にとって好ましいものでも、ふてくされ気味の少女にはそうでもないようだ。

 横目で天獄を見つめる彼は、そこで思考を切ってふらりと立ち上がる。そして少女の持たれる天獄とは違う、墓標のように突き刺さっていたもう一振りの逆十字を握り、霊圧を限界まで籠めた。それを知りながら動かない天獄は、呆れた顔でため息をつく。

 

「まったく芸の無い……お前様よ、それでは駄目だと今言っただろう。考えて戦うは真実ではあるが、お前様は元よりそういう類ではあるまい。

 ――思考なんぞ要らぬのだ。かつてを思い出せ、お前様。お前様が何よりもお前様らしかったあの頃へ、今一度立ち戻れ。そうすればまあ……妾に一太刀くらい入れられるやもしれんな」

「…………」

 

 特徴的な猫目を光らせて呟いた天獄は、気怠そうに逆十字から降りて軽々と手に持った。きっちり構える御蔭丸とは対照的な自然体、隙だらけなのに隙の無い天獄は――獰猛な笑みと共に、逆十字を優雅に操る。

 その十字架の行く先を、御蔭丸は思い出しながら――戦いへ身を投じていた。

 メノスの森の奥底から断続的な破壊音が響く。鋭利な切り口でバラバラにされた石英の木々が山を作る一部から、その破壊痕は枯野に燃え上がる炎のように広がっていた。

 

「キャハハハハハハハハハハハハハハッ!! ホーラホラホラ、どうしたのさっ!! 逃げてばっかじゃつまんないでしょ!! チョットは反撃し・な・さ・い・よ!!!」

 

 刃の羽根を射出しながら嘲笑う燕の虚、チルッチへの返答をしている余裕はなかった。御蔭丸は出来る限り瞬歩で避け、回避できない刃の羽根だけ天獄の長端で弾いている。衝撃による痺れは護形刃界で凌いでいた時よりも大きい――迂闊に弾き続ければ、いずれ天獄を滑り落として御蔭丸は死ぬ。

 だから御蔭丸は回避を最優先にし、天獄から霊力を補給しつつ着々と鬼道を練っていた。斬術による直接戦闘では勝ちの目は無い――故に遠距離から鬼道による狙撃を試みる。

 

「改造鬼道――『重撃(じゅうげき)白雷(びゃくらい)』!」

 

 チルッチの片翼から射出された五枚の羽根を全て避けきった御蔭丸は、彼女の仮面の眉間に向けて二本の指を差し、霊圧を蒼白い閃光に変える。

 重撃白雷――通常の百雷より威力・貫通力・速力全てを強化した(いかずち)の光線である。下手な装甲なら紙のように貫くが――もう片翼に装填される刃の羽根に防がれ、あえなく消失する。

 ――元々高い霊圧硬度を持つ羽根が振動によって更に強化されている。

 ――その上あの羽根の高速振動は霊子結合を弛緩させ、鬼道の術式を破壊してしまう。

 ――……相性が悪い。ここまで打つ手を制限される敵がいるとは……

 眉間に多くの(しわ)を寄せる御蔭丸は、後方から戻ってくる五枚の羽根を避けつつ打開策を思案する。

 単純に考えれば方法は三つ。刃の羽根の高速振動を上回る高速振動によって破壊するか、何かしらの方法で摩擦を極限まで減らして刃の羽根を無力化するか、純粋に力押しで破壊するか。

 

 徐々に逃げ場を塞ぐように飛来する羽根を紙一重で回避して、彼は前者二つを却下した。今の技量ではあの羽根の高速振動を上回る高速振動は生み出せないし、摩擦を減少させる術を御蔭丸は持ち合わせていない。残る一つは力押し……その方法は、あるにはある。

 ――天獄の蓄積した全霊圧を解放する技、()刃爆星(じんばくせい)

 ――それを当てられさえすれば、決着はつく。

 ――……だが、外せば勝利を失う諸刃の剣……まだ機ではないな。

 倒れた石英の大木に囲まれた場所まで追い込まれた彼は、正面に護形刃界を展開して攻撃を防ぐ。そして衝撃による痺れに毒される前に鬼道を発動させた。

 

「縛道の二十一、『赤煙遁(せきえんとん)』!」

 

 チルッチの翼が天獄の壁に直撃した瞬間、御蔭丸は赤い煙幕を発生させる。急速に膨れ上がり視界を(さえぎ)る鬼道の煙を、チルッチは馬鹿にした顔で嘲笑した。

 

「あ~らら、これじゃあ何にも見えないわねぇ――なあんて、言うと思ったかしら!?」

 

 崩れた森に広がる赤い煙は翼の一振りで一気に取り払われる。しかし御蔭丸は既にいない……わざとらしく手を眼の上に持っていって辺りを見回すチルッチは、開く嘴の隙間から妖艶に歪む唇を覗かせる。

 

「ま~た隠れちゃったの~? 随分意気地なしでちゅね~、死神ってのはみんなそうなのかしら? まっ、別にいいけどさ――――あんまり逃げ回るんなら、お仕置きしちゃうわよ」

「……それはご勘弁願いたいものです」

「な――」

 

 チルッチが両翼の羽根を射出しようとした瞬間、彼女の真上に白い死神が現れる。両手で構える天獄に雷吼炮の術式を巡らせ、渦巻く雷を放たんとして……それを見開かれた眼で見るチルッチの口元は、更に大きく歪んでいた。

 

「――んちゃって☆」

「っ!」

 

 それを御蔭丸が認識する前に、彼は細長い腕に貫かれた。見てからの反応速度じゃない、チルッチは初めから彼がそこに出現する事を分かっていたのだ。

 

「忘れたの? あんたがいくら上手く隠れたって、あたしはこの羽根で見つけられんの! 今もホラ、こうやって――ねッ!!」

 

 真上の御蔭丸を串刺しにしたチルッチは、背後に別の御蔭丸が現れたと同時に翼を無慈悲に振り抜いて斬り裂く。そうして真っ二つに両断された死神も、腕で貫いた死神も消えた事を全く気にせず、彼女は嗤いながら三度現れた御蔭丸を両手で掴み取った。

 

「ぐ、があ!」

「つーかっまーえっ・た☆ 散々逃げ回ってくれちゃって、手間掛けさせてくれたわね。でももームリ、あんたはオシマイよ」

「くっ……破道の――」

「オシマイだって――言ってんでしょっ!!!」

 

 最後のあがきと言わんばかりに鬼道を使おうとした白い死神の首を、チルッチは容赦なく跳ね飛ばした。不気味な程白い首と胴が別れた瞬間、大量の血飛沫がチルッチに降りかかる。充満する血錆の匂いと美しい羽毛を汚す黒ずんだ赤に――狂おしく唇に弧を描く燕の虚は、高らかな嘲笑を絶叫する。

 

「キャハ――キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!

 チョット退屈だったけど、結構楽しかったわよあんた!! もう顔と名前忘れちゃったけどね!!!」

 

 握り込んだ両手の中でぐったりと力を失くす首の無い死体にそう叫んで、彼女はその辺に投げ捨てた。ぐちゃりと濁った水音を立てて転がるそれを、チルッチは満足そうに眺めて――次の瞬間消失した死体に、愕然と眼を丸くする。

 

「なっ――――!?」

 

 彼女の心に生じた驚愕は、一瞬の隙を生んだ。精神の空白が、背後で蠢いた人影に気付くのを遅らせたのだ。

 振動する刃の羽根の超音波が捉えた物体に気付き、チルッチが背後を振り向く頃には――石英の一部に擬態していた御蔭丸が、既に逆十字の長い尖端ではっきりと照準を合わせており。

 

「何よ、今の――――ふッ、ざっけン、なァ!!!」

「――――無刃爆星」

 

 絶体絶命の状況に嘴の仮面を激しく歪める彼女が行動を起こす前に、天獄の能力を解放した。

 

 

 

   φ

 

 

 

 チルッチ・サンダーウィッチはひどく退屈していた。

 (ひしめ)くギリアンの中で目覚め、手当たり次第に周りを喰らって中級大虚(アジューカス)となった彼女は、世界がとてもつまらなかったのだ。

 自身の存在の空虚さと意味の無い生についてはすぐに理解出来た。同族の虚を喰らい続けなければいずれ知性を失う事は本能的に悟ったし、同族を喰い続けた先に何も無い事など考えなくても分かっていた。

 だからチルッチは、自分の気の向くままに退屈を埋める事にした。生涯孤独である事も、意味の無い一生を送る事も、彼女にとってはどうでもいい――神によってそうと定められた運命を変える事など、誰にも出来はしないのだから。

 

 ただ執拗(しつよう)に、飾り立てる。

 同族の虚を殺し、その血を身体に浴びる(たび)、自らの羽根が美しくなる事を彼女は知った。

 他者の血を吸って綺麗になる身体など、いかにも無意味な虚らしいとチルッチは嗤ったが――自分が美しく育っていくのは、純粋に嬉しかった。

 

 ただ執拗に、磨き上げる。

 同族の虚を喰らい、自身の霊力(チカラ)が増大していく度、彼女は老いさらばえるような退屈を知った。

 段々と戦いの高揚は失われ、空虚な殺戮だけが残る。最初は自身を喰らおうと嘲笑う者、下卑た視線、見下した顔、侮った態度――思い知らせてやりたいと心を沸き立たせる敵が溢れるくらい居たのに。

 何時しか彼女の周りには切り裂かれた死体の山と、均一化した恐怖だけしかなかった。戦いに赴くたび、降伏と怯えた眼だけを向けられるチルッチの心は、苛立ちと退屈だけが渦巻くようになる。

 

 チルッチ・サンダーウィッチに恐れるものは無い。飾り立てた自分の身体が壊される事も、磨き上げた自身の霊力が消えてしまう事も、恐ろしくは無い。いずれ全ては消えてしまう――切り落とされた髪のように、死んでしまうのだから恐ろしくない。

 ……けれど。そんな彼女に一つ、恐ろしいと感じる事が生まれたのだ。

 それは一生を退屈で埋めてしまう事。退屈を持て余して老いさらばえてしまう事。退屈なままに生き――退屈なままに、死んでしまう事。

 意味の無い生だからこそ、彼女は()(まま)に生きようと決めた。

 全てが無に還るからこそ、せめて自分が満足出来る生き方をしたかった。

 だから――退屈に殺されてしまう事だけは、絶対に許せなかった。

 だからチルッチは暴れたのだ。それが最上級大虚を招いて死んでも構わない。大量の中級大虚に囲まれて嬲り殺されても構わない。この退屈を埋める為なら――全てを失っても構わないと思うほど、チルッチは渇いていた。

 

 そうして彼女は――白い死神と出遭い、戦ったのだ。

 

 

 

「――――無刃爆星」

 

 その呟きは、破滅の言葉。(かす)かに大気を揺らす響きとは裏腹に、生み出される暴力は最高の上を突き抜ける。

 天地を貫く光の十字。神の威光を顕現させたかの如きその力は、莫大な霊圧による星斬りの爆剣。命尽きぬ者でもない限り耐えうるものは存在しないであろうその光に――燕の虚は呑み込まれる。

 この攻撃によって生じる変化は激烈だ。巨大な逆十字はメノスの森の遥か上に位置する白の砂漠を容易く貫き、巨大な蟻地獄のように広大な範囲をメノスの森へ滑落させる。

 当然森も無事では済まない。直径五〇〇間(900メートル)に生える石英の大木は根こそぎへし折られ、倒壊していく。あらゆるものが破壊され、メノスの森は森としての姿を失い――残ったのは、残骸と白砂の満ちる領域と、降り注ぐ不動の月光のみであった。

 

「ぐっ……はあっ、はあっ、はあっ……!!」

 

 その破滅の中心で、御蔭丸は天獄を杖代わりに膝をついて荒い呼吸を繰り返す。外傷は無いが、乱れた呼吸は収まらない。血が足りないのだ――天獄の柄を強く握る両手は震え、手首にはかなりの量の血が滴っていた。

 それを半ば虚ろな眼で睨む御蔭丸の視界に、軽い音を立てて白い物体が落ちてくる。

 

「げほっ、げほっげほっ、ごぼおっ……!!!」

 

 折れた嘴から大量の赤が吐き出される。ビクビクと身体を痙攣させるそれにあった白く美しい羽毛の鬣や力強い二枚の翼は、見るも無残な有様だった。それでも彼女は立ち上がろうと必死にもがき――半ば役割を失った仮面の奥から、激情に燃える赤味がかった薄紫の眼を突きつける。

 

「ごぼっ、がふっ……キレ(・・)、てンじゃないの、あんたっ……!! 分身、なんかで……勝つつもり、なんて、なかったんでしょ……!! まともな戦いじゃ、勝てないって……最初っから、分かってたんでしょっ……!!!」

「はあっ、はあっ、はあっ……!」

 

 御蔭丸は答えられない。顔に幾筋もの汗を流す彼は空気を取り込む事で精一杯だ。苦虫を噛み潰したような形相で呼吸をする白い死神の返答を待たず、チルッチは血を吐きながら言葉を紡ぐ。

 

「だからって……分身に、自分の血、入れるなんて……イカれてる……!! あたしに、油断、させるために……あたしにッ、勝利を確信させてッ、隙をつくらせるためだけにッ……致死量ギリギリまで、血を抜くなんて、正気の沙汰じゃないっ……!!!」

 

 御蔭丸の作戦はチルッチの言葉通りだった。

 “尸舞(かばねまい)”――残像に鬼道を加え実体とする技。所詮は残像なので複雑な動きは出来ないが、敵の攪乱(かくらん)にはもってこいの技である。

 しかし残像に霊子を詰め込んでいただけの頃とは違い、鬼道ならば多少の応用が利く。残像そのものに特殊な挙動をさせたり、今のように残像の中に別の物質を入れたり出来るのだ。

 御蔭丸はこれを利用した。赤煙遁を発動させた瞬間、彼は瞬間的に始解を解いて自分の両手首を斬ったのだ。動脈から溢れる血を致死量ギリギリまで分身に入れ、それをチルッチに突っ込ませると同時に再度始解し、鬼道で石英に擬態して機を待っていた。

 そして作戦は成功した……しかし御蔭丸の表情は非常に厳しい。

 

 ――仕留め、損ねた……!

 呼吸の荒い彼の心境を占めるのはその一言のみである。

 致死量ギリギリまで血を入れたのはチルッチに見破られないため。常に戦いに身を置く虚圏の住人を騙すには半端なやり方では駄目だからだ。

 しかしそのせいで血が足りない。空気をいくら取り込んでも全身に酸素を送る血がない以上、呼吸はか細い老婆に等しい。回道で血を増やしてはいるが、御蔭丸の技量ではかなりの時間が必要になる。

 その上御蔭丸は無刃爆星でチルッチを倒し切れなかった。無刃爆星は諸刃の剣、今の天獄には霊圧が蓄積されていない。チルッチが満身創痍とは言え、ロクに動けない御蔭丸は倒す手段を失ったことになる。

 そして――傷だらけのチルッチはなおも闘争心を燃やし、ボロボロと身体の破片を落としながら立ち上がろうとしていた。

 

「げほっ……ホント、アッタマ悪スギ……! そこまでして、あたしを殺せないなんて……ナメたこと、してくれるじゃない……!!」

「はあっ、はあっ、はあっ……僕では貴方には勝てなかった……それだけの事でございます……」

「勝てなかった……? ――――ふざけんじゃないわよっ!!!」

 

 半ば諦めた表情でそう語る御蔭丸に、チルッチは折れた翼を限界まで広げて激昂する。

 

「あたしが生きてンのは、あんたが弱かったからじゃない!! あんたが最後の最後、あのバカみたいな霊圧をぶつけんのを躊躇(ためら)ったからでしょうが!!!

 だからナメんなっつってんのよ!!! 死にかけになってまで殺しに来たクセに、敵の命を気遣って負けた気になんな!!! キモチ(わり)ィのよイカレ野郎!!!」

「はあ、はあ、はあ……」

 

 喉が切れて血が出る程()えて、チルッチは刃の羽根を撃とうとした。しかし一応形を保っているとはいえ、まだ羽根を撃てるまでには回復していない。羽根は射出されず、気力で持っていた脚は膝から崩れ落ちる。それを厳しい眼で睨む御蔭丸は、彼女の言った言葉を全面的に認めていた。

 そう――仕留め損ねたのは、最後に躊躇してしまったからだ。チルッチに天獄を突きつけ、消し飛ばさんとしたあの瞬間――御蔭丸は一瞬、動きを止めてしまっていた。

 殺しに気後れしたわけじゃない。普通の心を持たない御蔭丸は本質的に、あらゆる行為に対する迷いを持たない。彼の存在理由は誰かの願いの為、それを果たすためならば如何なる手段をも厭わない。

 しかしそれは逆に、誰かの願いに縛られるという事だ。御蔭丸がチルッチの殺害に逡巡した理由は一つ、彼女が死ぬ事を望んでいなかったからである。

 

 チルッチ・サンダーウィッチの願いは退屈を満たす事だ。その為なら死んでも構わないと想っているのは見て取れたが、実際に死ぬ事を望んでいたわけじゃない。退屈に身を委ねている内は死んでも死に切れない――そんな心が透けて見えたから、御蔭丸は攻撃を躊躇した。

 それがチルッチへの侮辱だと理解していても、誰かの為にしか戦えない彼は迷いを止められなかった。その一瞬の空白が彼女に回避と防御の猶予を与え、結果として仕留め損ない、双方満身創痍で向かい合う状況が生まれたのである。

 そしてチルッチは、そんな死神の心の動きを本能的に察知しているから、血管が浮き出る程激怒していた。御蔭丸もまた、彼女の怒りを理解しながら――そこに躊躇いなく、油を注ぐ。

 

「はあ、はあ、……チルッチ・サンダーウィッチ様……一つ、提案がございます……」

「……ハァ? ここまで、やって……今更ナニ?」

「……このまま戦っても、共倒れになるだけでしょう。ですから一旦……勝負を預けるというのは、どうでしょうか……?」

「――――アァアッ!? ど・こ・ま・で・ナメクサんのよ、あんたは――――ッ!!!」

 

 あまりにも馬鹿にした物言いに、チルッチは霊圧を暴発させる。自分の身体が霊圧でやられるのも構わず、道理を超えて立ち上がった。その激情と霊圧に身を竦ませる御蔭丸に、チルッチは血を吐きながら怒り狂う。

 

「言ったでしょ、ココはもう戦場なのよ!! あんたがあたしの為に戦っていようがあたしが死にかけだろうが、どっちかが死ぬまで戦いは終わらないっ!!!」

「……気付いて、おられたのですね……」

「はァ!? 当ったり前じゃない!!! こんだけコケにされてわかんないわけないでしょーがっ!!! なんでそんなクソッタレな事してんのか知んないけどね!!!」

「……僕は、僕の為には戦えないんです。そこに誰かの願いが無ければ、刃を振るえない……誰かがそう望まない限り、僕は無力も同然、なのでございます……」

「……あっそ。やっと分かったわ、あんたのアッタマ悪イ考え方……だからあんたはあたしに勝てないのよ!!!」

 

 身体に悲鳴を上げさせながら、チルッチは猛禽のように唇を吊り上げた。怒りはおさまらず膨れ上がるも、それ以上の歓喜が彼女の身体を突き動かす。見るも無残な翼を広げ、噴き出す血潮を止めもせず――それを理解出来ないと眼を見開く御蔭丸の“理性”を壊すように、彼女は嗤って咆哮した。

 

「殺しに理由が必要なの!? 戦いに誰が望んだか望んでないかなんて、くっだらない事がなんで必要なのよ!!

 あたし達はね、自分のため以外には戦えないの!! 何を護るためだとか救うためだとか言ったって、結局そう思う“自分”がいなきゃ戦いようがないじゃない!! あんたは誰かのためじゃない、願いを叶えたいって思う自分のためにしか戦ってない!!!

 世界の(ことわり)が全部ひっくり返ったって、それだけは変わらないわ!! だってそうでしょ――あたし達はそういう、戦いを求め続ける(かたち)に生まれたんだから!!!」

「…………!」

 

 口元に流れた血の痕を歓喜に歪めてチルッチは全身で突撃する。虚閃も羽根も撃てない以上、残る肉体をぶつけるしかない。それを罅の入った理性で理解する御蔭丸は、動揺しながら天獄で防ぐ。しかし精神の乱れは露骨に影響し、甘い踏み込みをチルッチは嬉々として嘲笑う。

 

「いい加減眼を覚ましなさいよ!! 退屈はキライって言ったでしょ、お利口な人形なんかお呼びじゃないのよ!!

 さあ、見せなさい――――あんたの“戦いの本能”を!!!」

「戦いの、本能……ぐあっ!?」

 

 開かれる御蔭丸の丸い赤に写る翼が、天獄ごと御蔭丸を弾き飛ばす。滑空し岩にぶつかる彼は、今の一撃で流れる血に、膨れ上がる死に理性が塗り潰されるのを自覚する。

 ――いかん……!

 ――俺は、そのようには戦えない……!

 そう思っても、握る天獄はチルッチの歓喜に共鳴していた。斬魄刀も望んでいる――戦いの本能が支配する戦いを。何者の為でもなく、ただ己の為の戦いを。御蔭丸はそれを必死に拒んでいたが、その隙にチルッチが刃の羽根を叩き込む。

 天獄を盾にして、それでも防ぎ切れなかった。振動する刃が身体に沈み、赤い血潮が宙に噴き出す。その真紅が、御蔭丸の眼と同じ色が――彼からほんの一瞬だけ、理性という名の(くさび)を剥がす。

 

 チルッチ・サンダーウィッチに勝つには、それだけで十分だった。

 

 チルッチは凶笑して岩にうずくまる御蔭丸へ止めを刺そうと翼を振るう。しかし、彼女の動きに刃の羽根はついてこない。チルッチが思わず紫の瞳を向けると――肩から先の翼が無かった。

 

「キャハハハハハハハハハハハハ――――は?」

「――――」

 

 呆けた声に一歩遅れて、切断された翼が地に落ちる。

 落ちた羽根は自分の死体のようだと、チルッチは呆けたまま眼を落とす。地面には綺麗な溝が出来ており――それは逆十字をいつの間にか上へ振り抜いていた、眼を紅く光らせる御蔭丸へと続いていた。

 

「――――『森羅(しんら)葬刃(そうじん)』」

「何よ、それ――――ずっるい、じゃない……」

 

 鬼のような男の呟きに、チルッチは苦々しくも嬉しそうに嗤い――翼を斬られた痛みに、繋いでいた精神の糸が切れた。

 ボロボロの燕が地に墜ちる。翼を捥がれ、磨き上げた身体を死の淵まで砕かれた彼女は、それでも歓喜で唇を(いろど)り――すぐ近くに歩いてきた死神に、痛みの汗を流しながら嗤いかけた。

 

「……あたしの負けね。さっさと殺しなさい」

「……その要望には、お答えしかねます」

「……ハァ? まだそんなくっだらない事――」

「僕が僕の為に戦えないから、ではありません。僕の為に戦うなら、なおさらここで決着はつけられないのです」

 

 ピクリと眉根を顰めるチルッチに、御蔭丸は荒れ果てた顔で言葉を続ける。

 

「――僕は、戦いが嫌いです。例え死んでもそれを貫けるだけの生涯を、歩んで参りました。ですが皆、それを望みません。いつか僕が自分の意志で立ち上がり、自分の意志で戦う事を願っています……だから、ここで決着はつけません」

「……どういう事よ?」

「僕はまだ、人の願いの面影から変わるつもりなどないと言っているのです。本当は未来永劫変わらないと断言したいのですが……貴女のような願いを受け入れると、時折昔の自分に引き戻されそうになるのですよ。

 願われている以上……いずれ僕はそうなるでしょう。ですから僕が、かつての僕に立ち戻るまで、この勝負は預からせていただきます」

「ナニそれ……そんなワケわかんない理由で生かすって言うの!?」

「退屈を紛らわせるには、十分な理由でしょう。

 それに五体が残っているうちに敗北を認めるなら、貴女もまた本能で戦ってなどいないのです。命在る限り戦えと――少なくとも僕は、そう教わりました」

「くっ……だからって、納得なんて……!」

「もとより、納得していただくつもりなどありません。僕はただ――貴女に止めを刺さず立ち去るのみでございます」

 

 御蔭丸は荒廃したままそう言い切って、返事も待たず瞬歩で消えた。一人取り残されたチルッチは暫く唖然としていたが、事態を把握するにつれ憎しみにも似た表情で大地を叩き割った。

 

「くそっ……ちくしょうっ! あの野郎、本っっ当にイカれてる……!!

 ……ええ、いいわ。あんたはあたしが必ず殺す!! 必ずよ!!! それまで首でも洗って待ってなさい、大神御蔭丸……!!!」

 

 月光の降り注ぐ死の世界。その奥底で、燕の鳴き声が一声響いた。

 

 

 

「ぐっ……くう……」

 

 チルッチ・サンダーウィッチとの戦闘直後、メノスの森から砂漠に這い上がった御蔭丸は、近場の岩場に倒れ込んでいた。流石に体力が尽きたのだ。

 天獄は既に長刀に戻っている。霊圧の蓄積と解放を始解程ではないが使用できる長刀状態を御蔭丸は重宝しているが、戦いの後ともなれば使った霊圧の再蓄積で精一杯だ。天獄からの供給が望めない今、自力での回復に勤しむしかない。

 しかし御蔭丸は血も足りてないし体力も無い。動けるようになるまで数時間では済まないだろうと、荒涼としながら思っていると――倒れる彼の前に、カツンと滑らかな脚が舞い降りた。

 

「……迎えに来てくれたのですか、ハリベル……」

「……随分疲弊しているな。助勢した方が良かったか?」

「いえ……手を出さないで頂き、ありがとうございます……」

 

 呆れ顔で見下ろすハリベルに、彼は弱弱しい笑みを返す。こんな時でさえ笑う御蔭丸にハリベルは諦め気味にため息をついて、そっと幅の広い肩に腕を回して立ち上がらせた。

 

「……帰るぞ。ここじゃロクに傷も癒せんだろう」

「……申し訳ありません。今は貴女に甘えさせていただきます」

「構わないさ。あとで甘えさせてくれるならな」

 

 多少心が打ち解けてきたのか、軽い相槌なら打つようになったハリベルに、御蔭丸は嬉しいような悲しいような気持ちになる。それでも良い事には変わりないので、微笑みながらハリベルに連れ添ってもらう。特に会話も無く、ただ身を預けるだけの彼は、ふと斬魄刀に眼を落した。

 ――お前の言った「立ち戻るべき俺」というのはアレの事か、天獄。

 笑みを苦く曲げながら心中で問う彼に、鞘に収まった天獄は嘲笑うように刀身を震わせる。答えはそれで充分だ……「立ち戻るべきかつて」とは、本能のままに戦う狼であった生前(あのころ)だと、声無き斬魄刀は雄弁に語っている。

 ――願われている以上は、獣にでも何にでもなってやるさ。

 ――だが俺は、自分の為には戦えない。それは理解しておけ。

 苦々しく眉間を寄せて、斬魄刀を強く握り込んだ彼は――頬に触れる慎ましい感触に顔を上げる。笑みの無い、摩れて淀んだその男を、ハリベルはじっと(みどり)の瞳に写していた。

 

「……ひどい顔をしているな」

「…………何でもありません。すぐに、戻します」

「そうか……」

 

 やつれた顔で笑う御蔭丸に、ハリベルはそれだけ言って視線を外す。そして独り言のように艶やかな声を静かに発した。

 

「……お前は私を頼らないんだな」

「え……?」

「私はお前に癒されてばかりだ。少しは、何かを返したいと思う事もある」

「……お気持ちだけ、ありがたく頂戴いたします」

「だろうな。私にはまだ、お前の過去を受け止めるだけの覚悟が無い。お前にそこまで深い情は抱いていない。自分の事だけで、精一杯だ。

 ――それでも、側に居てやる事は出来る。お前が私にそうするように、私もそれくらい出来る事は、知っていてくれ」

「――――……はい、分かりました。心に留めさせて、いただきます」

 

 こちらを見ないまま、そう呟く彼女に――御蔭丸は淡く微笑んで、言葉だけだった「甘え」を行動に移す。少しだけ、ほんの少しだけもたれかかる彼に――ハリベルはふっと笑って支える力を強くした。

 

「…………ふ~~~ん。同居人がいるってのは聞いてたけど、あれがそうなのね。わざわざ来ないでもよかったかしら」

 

 そんな二人を遠い岩場から眺める半人半獣のアジューカス、ネリエルは何とも言えない表情で腕を組んでいる。

 

「結局忠告もいらなかったわね。彼、勝っちゃったみたいだし、あんなに強い同居人がいるんだから最悪死ぬ事もなかったでしょうし。あ~あ、心配して損しちゃった」

 

 唇を尖らせて小石を蹴る彼女は、不機嫌そうに(ひづめ)を鳴らしていた。カツカツと地面を揺らしては岩から落ちる小石を蹴るのを繰り返して、もやもやを払うようにブンブンと頭を振る。

 

「あーもーやめやめっ! 別に関係ないじゃない、私と御蔭丸は変な(えにし)で繋がっていただけなんだから。またいつも通りご飯をたかりにいけばいいのよ、それで何も問題はないわ。

 …………でもなんか気に入らないから今度適当に理由つけてひっぱたいてやる」

 

 自分でもよく分からない怒りに駆られてそう決意する彼女は、特に意味も無く月を見上げる。虚圏に振り注ぐ不動の月光は、それが生まれた瞬間から変わりなく静止している。それを見上げるネリエルも変わりなく虚であるのに――彼女にはその月が、違った顔を向けているように感じていた。

 

「……ほんと、何やってんだろ、私」

 

 寂しそうに眼を細めるネリエルは自覚していない。変わったのは自分である事、変えたのはあの死神である事。それを死神と虚の最低限の垣根を保つネリエルは理解しようとしていない。

 それでも、彼女の青味がかった緑の瞳には。相反する二人が寄り添う姿が、ひどく羨ましく写っていた。




原作より六八二年前の出来事。
喉に物が詰まっても手を突っ込んではいけません。作中の応急処置は鬼道あってこそなので間違いです。
作中の年代がどのように推移しているか混乱している筆者です。当初のプロットよりズレが生じるのは仕方のない事ですが、その場のノリで(いわゆるライブ感で)書いているところが結構あります。こんな書き方しかできないのでどうかご容赦を。
チルッチについて。
原作より強くなっている感がなくもないですが、相性の問題で片づけます。無理にでも押し通します。
一応石田戦では索敵の必要はありませんし、滅却師の矢を振動で弾いているのでそういった事も出来るのではないかという予想から今回の形に落ち着きました。考え方が剣八よりだったりするのは、原作が面白いからいけないんです。
申し訳程度のハーレム要素も乗っけて今回はここまでです。次回はシリアスで行こうと思っていたんですが、ネリエルとハリベルの絡みも面白いかもしれません。そこにチルッチも乱入するとまあ、ハーレムみたくなるでしょうか。なんかアンケートっぽいので要望があれば活動報告にお願いいたします。

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