BLEACH Fragments of Remnant   作:ヴァニタス

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四番隊の矜持

 秩序が無いように見える虚圏(ウェコムンド)にも、縄張りというものは存在する。

 例えば中級大虚(アジューカス)が多く潜む“アジューカスの巣”――本来ならば互いを喰らい合うのみのアジューカスが徒党を組んで行動する時に拠点とする場所だ。

 アジューカスが結束する理由は純粋な利害の一致。効率よく獲物を狩る為に行動するので仲間意識はほとんどなく、アジューカスの巣も住居ではなく狩場の側面が強い。

 また、ほぼ全ての最下級大虚(ギリアン)の生息地となっている“メノスの森”という場所もある。地上にあるアジューカスの巣と違い、地下に群生する巨大な石英の森の通称だ。そこは中級大虚や最上級大虚(ヴァストローデ)跋扈(ばっこ)する地上に存在できない最下級大虚や、それ以下の虚達が住む地域である。

 

 天から垂れ下がる蜘蛛の糸のような石英の大木が並ぶメノスの森は、今日も鈍重なギリアン達が(ひしめ)いている。時折虚食反応(プレデイション)を引き起こして大虚が虚を喰らう、過酷なメノスの森に――朧気(おぼろげ)に、見慣れない光が奔っていた。

 それは非常に繊細な術式を施された鬼道の光だ。光の線が幾重にも束ねられた幾何学模様を霊子迷彩が覆い、更に霊圧知覚を誤認させる鬼道を重ね掛けしている。薄暗いメノスの森に蛍のような燐光を残すそれは森の中に大量に張り巡らされ、とある場所を中心とした広大な範囲に居る全ての虚に一本ずつ張り付いていた。

 

 メノスの森に明滅する光の中心には、人一人を軽く包み込める大きさの繭がある。正確には無数に伸びる鬼道の糸が()り合わさって造られた結界だ。幾重もの霊圧遮断と霊子迷彩を施した結界の中で――御蔭丸は滝のような汗を流しながら、極限まで集中していた。

 ――最大索敵距離・四九五〇間(9キロメートル)

 ――補足霊圧数・六万五一二九。

 ――内、霊圧解析完了数・四万〇〇三七。

 ――発動時間三刻更新……制御術式臨界到達。

 ――これ以上の続行不可・霊圧探査を終了する。

 

 神妙な顔で印を組み、限界まで眉間を寄せていた御蔭丸は三八時間に渡り続けていた霊圧探査の鬼道を解いた。不眠不休の鬼道発動は精神も肉体も疲弊させていて、白い死神は解除と同時に荒い呼吸を繰り返す。

 ――まだこの程度か。

 ――もっと鍛錬が必要だな。

 現状の能力を自己分析してため息をつきたくなる御蔭丸は、代わりに石英の水筒を豪快に煽った。実に四〇時間ぶりの水を水筒が空になるまで飲み干して、何も出なくなった白い容器をその辺に転がした彼は、立ち上がって凝り固まった身体を伸ばした。

 

 御蔭丸が座っていたのは地上の砂漠と地下の森の中間、地表まで生える巨大な石英の枝上である。丁度辺り一帯を見渡せ、かつそれなりの広さがある其処を修業の場に適していると判断したのだ。

 やっている修業は鬼道に関するものだ。鬼道を使える最大距離で、並列して発動出来る最大数を、全て同時に並行処理する。発動した鬼道を虚に接続しているのは実用性を確かめるため――接続した状態で虚に勘付かれるような鬼道では、御蔭丸の必要とする領域に届かない。

 ――全く。やはりと言うべきか、思った以上に厄介な置き土産だ。

 御蔭丸は疲れ切った顔で右腕を見遣る。封印の上に操作の鬼道を仕込んだ黒い布に包まれる右腕はもう一年以上この状態だ。既に慣れ切っている為生活にも戦闘にも支障はないが、右腕の動かし方を忘れていそうで不安になる。

 

 ――さっさと引き剥がさせねばな。

 ――そうしなければ尸魂界(ソウルソサエティ)に帰れない。

 そう思いはすれど、事は簡単に運んでくれない。鬼道の修行と開発の日々に明け暮れるものの、一向に見えない目標に御蔭丸はため息をついた。

 実の所、中級大虚を分離する為の鬼道の見通しはついている。中級大虚は霊子レベルで完全に融合しており、通常の方法で分離は出来ない。しかし融合する虚というものは往々にして内側から宿主を食い尽くすものだ。逆に言えばいくら完全融合状態でも互いの意識は独立しており、御蔭丸と中級大虚を隔てる確固たる何かがある筈なのである。

 それを探し出せば分離はすぐに出来る――という訳でもない。霊子レベルで融合しているなら、同じく霊子レベルで分離させる必要がある。人間の体細胞は約六〇兆、霊子単位では更に細かい。右腕から胸部の内臓までとはいえ軽く兆を超える霊子を全て鬼道で操り分離させる事がどれ程荒唐無稽か、想像するまでも無いだろう。

 

 とはいえ、勝算が無いわけでもない。御蔭丸は元滅却師――霊子を扱う術に関して言えば何よりも深く精通している。今は滅却師の力を失っているが、鬼道を使えば霊子を操るのも十分可能だ。最も、滅却師より遥かに手間と時間がかかってしまうが。

 それと御蔭丸は右腕の中級大虚を封印する際、腕の霊子を瞬時に全て読み取っている。あの時は無我夢中でも掌握したのだから、落ち着いてやれば霊子の一つ一つに鬼道をかける事も出来る。

 霊子の把握も操作も目途は立っている、ならば必要なのはそれを行えるだけの鬼道の技術。これはそれを高める為の修行だ。その裏で補助鬼道の開発も行っているのが今の御蔭丸の現状である。

 

 ――それにしても、鬼道はどうにも肩が()る。

 体操をして身体をバキバキ鳴らす。鬼道の発動中は身体をほとんど動かさないため、どうしたって筋肉が筋張ってしまうし、ここのところ鬼道側の鍛錬にかかりっきりだ。ハリベルにも三日会っていない――そろそろ帰った方が無難だろう。

 ――卍解の修行も(おろそ)かに出来んしな。

 最後に大きく背伸びをして今後の方針を定めた御蔭丸はさっと荷物を片付ける。保存食、水、鬼道を記した巻物と筆記用具などを乱雑に一纏めにして、さあ帰ろうと斬魄刀を背負った矢先――元滅却師の霊圧知覚が、迫る霊圧の影を捉えた。

 ――中級大虚か。霊圧は……かなり高い。

 

 ギリリッ、と長く切れた眼を引き絞る死神は森に光を落とす地表を見上げる。時折砂を零す白の砂海を注意深く観察していると、針の穴ほどの小さな影が閃いた。あれが観測した霊圧で間違いない――荒んだ表情に険を入れる彼は念の為周囲の結界を改めて張る。

 ――此方に向かってくるな。

 ――遣り過ごせればいいが……さて。

 どうも頭の回転が鈍い。限界まで鬼道を使用した疲弊が集中力を乱しているのを御蔭丸は自覚する。今厄介事に巻き込まれるのは面倒だと、中級大虚がこちらに来ない事を祈っていたが……願いむなしく霊圧は徐々に近づいてくる。

 ――隠れ続けるべきか、逃げるべきか……くそ、考えが纏まらん。

 

 働かない脳髄に悪態をついても状況は変わらない。珍しく渋面をつくりあげて御蔭丸が悩んでいると――見上げる頬にぽたりと、一滴何かが滑り落ちた。それを(ぬぐ)った御蔭丸は、指につく色に僅かに眼を見開く。

 ――これは……血か!

 今度は迅速に中級大虚を見上げる。点だった影ははっきりと輪郭が見えるまで近づいている。

 その中級大虚は多くの虚がそうであるようにまともな生物の姿をしていなかった。人の上半身に、羚羊(カモシカ)のような下半身――神話に描かれる半人半獣の如き中級大虚は、その身から流す赤に(まみ)れて落ちてくる。

 きっと地表で交戦していたのだろう。そして大きな傷を受け、メノスの森に落ちてきたのだ。ならば当然追手も居るだろうから、隠れて遣り過ごすのが一番良い。

 

 それを御蔭丸は考えるまでもなく理解していて、その理解を巡らす前に――白い死神は結界から飛び出し、空中で傷付いた中級大虚を抱きかかえた。

 ――傷が深い。急ごう。

 羚羊の下半身にある傷口を確認しつつ、空中に造った霊子の足場を蹴飛ばして結界の中に再び隠れる。直後、血に飢えた獣の形相をした中級大虚が数体、メノスの森に突っ込んできた。

 血の匂いか霊圧かを辿ってきたのか、アジューカス達は御蔭丸が半人半獣のアジューカスを抱きかかえた場所で苛立たしげに周囲を探っている。霊子の足場を蹴った時、ついでに血と霊圧の痕跡を消したので跡を追えなくなったのだろう。「メノスの森なんかに落としたからだ!」と、アジューカス達は口々に汚い言葉で罵り合っている。その様子を冷厳と眼に写す御蔭丸は、万一の為にあらかじめ用意していた囮用の鬼道を発動させた。

 

 その瞬間、メノスの森を大量の火花が席巻した。御蔭丸の居る大木を含めた全ての石英の木々から蒼白い火花が(ほとばし)る。火花による目眩(めくら)ましと鬼道による霊圧知覚の妨害だ。この火花の中では滅却師でさえ周囲の認識が困難になる。

 アジューカス達も例に漏れず混乱しているようだ。怒号と虚閃の破壊音が森に轟いている。それを醒めた顔で嘆息して、御蔭丸は半人半獣のアジューカスを担いでその場から脱出した。

 

 

 

   φ

 

 

 

「ん……んぅ……?」

 

 特徴的な巻き角の仮面の奥で、青味がかった緑が半月を描く。鍾乳洞の澄んだ湖面に水が滴るような、感傷的な美しい光はゆっくりと瞬き、ぼおっと視線を周りへ動かす。

 荒削りの白い壁が見える。右も左も上も下もそれで覆われており、壁の一部には人工的な棚が彫り込まれていた。何か置いてあるが、それが何かは分からない。ゆらゆらと蛍のように瞳を揺らめかせる彼女は、横たえていた上半身を持ち上げる。

 ――……私、眠ってたの?

 目を(しばたた)かせる彼女はのそのそと額を押さえる。自分が何をしていたのか思い出そうとするが、意識がはっきりしないようだ。靄のかかる心を掬い上げようと努力する彼女はふと、この空間を照らすものに視線を投げる。

 

 ――……何かしら、アレ?

 光を発しているのは天井の(くぼ)みにある球体だ。炎のように揺らめく事無く、それはピタリと静止して青白く輝いている。月光ではない見慣れない色に青緑の瞳を(まぶた)に隠している内に、彼女の意識はだんだんはっきりしていった。

 ――そうだ、確か私は襲われたんだ。

 ――いつもならあの程度の連中どうとでもなるのに、油断して……

 ――それで……それで?

 それでどうしてこんなところに居るのかと疑問を持って、彼女はギクリと緊張する。自分が訳の分からない状況に(おちい)っている事をやっと理解したのだ。

 ――此処は一体、何処なの……?

 

 背中に流れる綺麗な若草色の髪の隙間から双頭の槍を取り出しつつ、不安げな眼でキョロキョロする。壁の表面は猛々しいが、自然物より人工的な感じがする。彫り込んである棚は言わずもがな、そこに置いてあるのは食料の類らしい。ついフラフラと近寄りそうになるのを堪えて、彼女はある筈のものを探している。

 ――やっぱり、出入り口が無い。

 奇妙な事に、その空間には扉がなかった。食料の置いてある棚と天井の窪み以外、一面が人工的な壁に覆われている。

 ――これは思ったよりもまずい状況かも。

 冷や汗が一滴頬を滑り落ちる。仮面の奥で表情を険しくする彼女は壁を調べてみようと立ち上がろうとして、ズキリと四本の足に痛みが走った。びっくりして下半身を見てみたら、右前脚と左後ろ脚、それと羚羊のお腹部分を白い包帯が覆っている。

 

 ――ケガが治療されてる?

 ――一体誰が……

 半人半獣の彼女はいよいよもって訳が分からなくなってきた。襲われた時深く傷付けられたのは自覚していたが、それを苦と思わなかったのは誰かが手当てしてくれたからだろう。けれど一体何の為にそんな事をして、どうしてこんな場所に運んできたのか?

 疑問で眉間にしわを寄せつつも、彼女は立ち上がれるかどうか確認する。多少痛みはあるが歩けない程じゃない。傷を労わりながら四つの(ひづめ)で床を叩き、壁に近づこうとしたその時――彼女の正面の壁が光り出した。

 

「ッ!?」

 

 思わず飛び退いて身構える彼女を余所に、壁の光は強くなる。一面を覆う光は緩やかに束ねられ、長方形を縦に置いた形に落ち着く。すると今度は赤い幾何学(きかがく)模様が浮き上がり――光り輝く部分の壁が消失した。

 それを底冷えする瞳で様子見していた彼女は、消えた壁の奥に人影が見えた瞬間残像となって、即座に人影の背後に回り込み槍の尖端を突きつけた。

 

「――――動かないで」

 

 幼さの残る高い声を背中越しに投げかける。人影は状況が分かっていないのか理解が早いのか、槍を突きつけた瞬間から彫像のように動かない。妙に落ち着いた人影に彼女は眉をひそめつつも、巻き角の仮面を揺らして身なりを素早く観察する。

 白い髪に白い肌、白い衣を着こむ人影はかなり大柄な体格をしている。手に持っているのは瓶や包みの入った籠だ。漂う匂いからして、包みの中はおそらく食料……思わず目が向くのを我慢して背中を見れば、並みの二倍はあろうかという長刀を差している。

 ――斬魄刀……この男、死神?

 長刀の形状と発せられる霊圧から彼女は男の生業(なりわい)を判断した。どうして死神が虚圏に居るのかという疑問も生まれるが、まずは情報を聞き出すのが先決と矢継ぎ早に質問する。

 

「貴方は誰? 此処は貴方の住処? 何故私は此処に居るの?」

「……僕は死神で、此処は拠点の一つです。貴女を此処に居るのは、僕が治療を施す為に連れて参ったからですよ」

「……巫山戯(ふざけ)ないで。死神が虚を治療するなんて在り得ないわ。仮にそれが本当だとしても、そもそも私を助ける理由がない筈よ」

 

 死神と名乗った男の頓珍漢な答えに彼女の声が低くなる。急速に冷えていく空気に緊張の糸が張り詰め、槍を握る手がギリ、と引き締められた。同時に彼女の霊圧が刺すように尖っていく――次に馬鹿な答えを口にしたらどうなるか、という脅しだ。

 

「もう一度聞くわ。先に言っておくけれど、三度目は無いわよ――貴方の目的は何?」

「治療だと申し上げましたが……どうやら信じて貰えなさそうですね。

 まあ良いでしょう、それよりも傷を治したばかりなのであまり動かれない方がよろしいです。お疲れでしょうし、とりあえず矛をしまって食事でも致しませんか?」

「……それ、本気で言ってるの?」

「はい、本気も本気にございます」

「…………正気じゃないわ、貴方」

 

 槍を突きつける彼女の額に汗の玉が浮かぶ。よく見ればこの男、一歩間違えば命を失いかねない状況なのに涼しい顔で笑っている。それも飄々(ひょうひょう)としたものではなく、まるで慈母のような優しい微笑み……明らかに何かおかしい。

 ――最悪ね。こんな狂人に助けられるなんて。

 彼女は心中で首を振る。助けられた事は確かに感謝すべきなのだが、死神と虚の越えられない垣根も無視して、この状況で食事に誘う男とはもう一緒にいられない。ここで逃げなければ、何をされるか分からない――仮面の眼光を細く切り詰める彼女は、突きつける槍を素早く振り上げた。

 ――ごめんなさい、少し眠って貰うわ。

 狙うは首筋。骨が折れない程度に槍の腹を叩きつけて昏倒させる。その前にお礼の一つも言えない事を謝ろうと、心中で呟いた台詞を口にしようとして。

 

 ぐうううぅうっ、と。彼女のお腹が盛大な合唱大会を開催した。

 

「…………」

「…………」

 

 空気が一気に弛緩(しかん)して嫌な沈黙が下りる。お腹を鳴らした張本人は開けた唇から声を出せず、パクパクと開閉させていた。よりにもよってこんなタイミングで鳴らなくても、と仮面の下が真っ赤に染まる。

 

「……空腹の御様子ですし、ここはやはり食事に致しましょう」

「あ、ああああの、これは、その、ち、違うの!」

「何が違うのですか? こう言っては失礼ですが、僕にははっきり聞こえましたよ?」

「わ、私はお腹なんか鳴らしてない!」

「おや、僕は“お腹の音が聞こえた”・なんて一言も言っておりませんが」

「あっ! あ、ああいえ、違うわ! そりゃあちょっとは、ほんの少しだけ、雀の涙くらいにはお腹が空いてるけど! それでも私じゃないの!」

「そうですか。ところで今日は牛か魚の煮物を作ろうと思うんですが、貴女はどちらがいいですか?」

「両方美味しそうだからどっちもって違っ、待ってお願い話を聞いて! これはそう、貴方を油断させるための演技だったの!! どう、本物のお腹の音と区別できなかったでしょっ!?」

「ええ、ええ、分かっておりますとも。今席を御用意しますので」

「やめて! そんな優しい目つきで私を見ないで!」

 

 死神の生温かい視線に彼女は激しく悶える。恥ずかしさのあまり訳が分からなくなっているけど、とにかくこの空気はまずいと僅かな理性でぎこちなく言葉を紡ぐ。

 

「だ、大体ねえ! 貴方のような変な死神の作ったものなんか食べるわけないじゃない! 何入ってるか分かんないし!」

「味は保証致しますよ?」

「味の問題じゃないの! いや重要な問題だけど! いやいや今は関係ないの! (わたし)が、死神(あなた)の、作ったものを食べるなんて在り得ないでしょ!?」

「僕はそうは思いませんが」

「貴方本当に死神なのっ!? もうちょっとらしくしなさいよ、私に斬りかかるとかさぁ!! それに料理が出来るみたいだけど、貴方が持ってるものなんかちっっっとも美味しそうじゃな」「ぐううぅうぅぅうっ」「 」

「フフフ、差し出がましいですが、素直になられた方がよろしいかと存じ上げます」

「……も、もういやあー! 私は食いしん坊じゃない、こんな時までご飯食べたがる食いしん坊じゃないんだからーっ!!」

 

 彼女はついに羚羊の膝をついて泣き出してしまった。両手で仮面を覆ってしくしくと涙を流す半人半獣のアジューカスの肩に、白い手が慈しむように置かれる。

 

「大丈夫ですよ、お腹が空けば誰しもそうなってしまいますから」

「うう、ひっく……でもやっぱり食いしん坊だと思ってるんでしょ……いっつもご飯食べてるバカ食い女とか思ってるんでしょ!」

「そんな事はありません。今は食事をして身体を満たして、それからお話をしましょう」

「ぐすっ……いやよ、絶対食べない。ここまで来たらもう意地だわ! 貴方のご飯なんか絶対食べないから!」

「そうですか……牛と魚、両方の食事を用意しようかと思案していたのですが」

「うっ……い、いやよ、食べない! ていうかやっぱり食いしん坊だと思ってるじゃない!! この嘘つき!! 性悪!! インポ!!! 童貞!!!」

「はしたないですよ。折角美しい声を持ってらっしゃるんですから、そんな言葉使ってはいけません」

「なっ!? お、おだてても絶対食べないから! 絶っっっ対食べないからっ!! 私は食欲なんかに屈したりしない!!!」

「今ならデザートもお付け致しますよ」

「そ、そそそそんなのに私が釣られるわけ――――!!!」

 

 

 

「……………………………………………………………………………………ごちそうさまでした」

「お粗末様です」

 

 数十分後。非常に落ち込んだ様子の彼女の前には、綺麗に平らげられた皿が山のように積まれていた。死神は皿の白さが目立つ食卓を満足そうに見つめてテキパキと片付けている。

 

「……食べちゃった。あんなに食べないって言ったのに食べちゃった……それも何十皿も……ううっ、絶対食いしん坊だと思われてる……もうやあ、表歩けない……」

「クスクス、よく食べる方は好きですよ」

「うるさい! 元はと言えば貴方がこんな美味しいご飯作ったのが悪いのよ! それも食卓いっぱいに出して……! 残したらもったいないと思って全部食べちゃったじゃない、どうしてくれるのよ!!」

「僕はとても嬉しいですよ。作った料理をあんなに美味しそうに食べてくださるのは冥利に尽きますからね」

「貴方の気持ちなんかどうでもいいの! いくら嬉しくても限度があるでしょ、限度が!」

「それでも、貴女は残さず食べてくれました。食べ物を粗末にしない方はもっと好きです」

「息をするように褒めないで! ああもう、調子狂うわ……!」

 

 何を言ってもにこやかに返す死神に彼女は頭を抱えた。狂っていると思ったがやっぱり変な奴だ。最初に脅しなんかかけないで逃げとけばよかったと角をへこたれて後悔する。

 ――ああ、でもご飯はとっても美味しかった。

 さっき食べた料理の数々を思い返すと自然と頬が緩む。彼女の知る数少ない現世の料理から見た事のないものまでより取り見取りだった。味を思い返すだけでも涎が出てしまいそうだ。

 ――ハッ!?

 にへらーと顔を崩していた彼女は、死神の生温かい目線に気付いて表情を戻す。それでも仮面の奥に朱が差す彼女に死神は微笑み、片付けを終えた後、食卓を挟んで彼女の正面に座った。

 

「食事も終わりましたし、そろそろお話をしましょうか」

「……ええ、そうね」

 

 その言葉を皮切りに、彼女の纏う空気が一変した。再び緊張に包まれる場で死神は変わらず笑い、まずは自分からと口を開く。

 

「僕は護廷十三隊四番隊第三席、大神御蔭丸と申します」

「私はネリエル。ネリエル・トゥ・オーデルシュヴァンク。別に覚えなくていいわ、貴方とはこれっきりだろうし」

 

 (うやうや)しく頭を下げる死神、御蔭丸に対し彼女――ネリエルは憮然とした顔で鼻を鳴らして、胡乱気な眼を揺らめかせる。

 

「それで? 私を此処に連れてきたのは私を治療する為だ・って言ってたけど、何の為にそんな事したの?」

「何の為、と申されましても……治療する以外の目的はありませんよ」

「……嘘、じゃないようね。なら質問を変えるわ――貴方は何故私を治療しようと考えたの?」

「それが僕の責務だからです」

「責務?」

 

 訝しげに青緑の眼を細める彼女に、御蔭丸は大きく頷いて誇らしげに胸を張った。

 

「我々四番隊は傷付いた者を癒すために設立された部隊、戦うための集団ではありません。我々は敵を倒すのではなく、皆を救う為にあります。それは死神であろうと虚であろうと変わりありません」

「だから私を助けたってわけね……けれどそれは、死神の責務に反するわ。貴方達の仕事は私達を斬る事なんだから」

「他の隊の死神ならばそうでしょう。ですが四番隊は違います。

 我々の責務は戦果を挙げる事ではなく、傷付いた者を癒す事。苦しみに倒れ救済を求める人が、また笑顔で不自由なく暮らせるようにする事です。それこそが我々の責務であり――そして“誇り”です」

「――――……“誇り”、ね……」

 

 自信満々に語る男の柔らかな顔から眼を逸らして、ネリエルはフーッと長い息をつく。伏せられた眼に(さざな)む色は、愚かさを憐れむような青緑の光。

 虚圏に安息は無い。それは戦いを続けてきたネリエルがよく知っている。その虚圏で傷付いた者を助けようなどとするのは、まさしく愚か者だ。

 ――……けれど。

 ネリエルは少しの間、深く瞳を閉じた後、顔を柔らかな笑みで彩った。

 

「――(うらや)ましいわ。貴方には、命を懸けられるものがあるのね。私には、そんなのないから……」

「……“誇り”が、ですか?」

「生きる理由よ」

 

 眉根を下げて聞いてくる御蔭丸に彼女は苦く微笑む。

 

「所詮、私は虚だもの。生きてたって出来る事は何もないわ。今死んでも、千年後に死んでも私にとっては同じ事――私が生きた証なんて、何も残らない。

 だから、ごめんなさい……せっかく助けてもらったけれど、私はそれを嬉しいと思えないの」

「そう、ですか……」

 

 御蔭丸は悲しそうに肩を落とす。

 ――本当は、言わなくても良かった事なのに。

 揺れる男の白い髪を見つめるネリエルの心に、小さな痛みが走る。

 本当は言わなくてもよかった。助けてくれた事を喜べないと、助ける事を誇りとする男に言うべきことじゃなかった。そんな事をしても、御蔭丸という死神が傷付いて落ち込むなんて、彼女は分かっていたのに。

 ――最低だわ、私。

 そう思って俯き、痛ましげに眉根を下げるネリエルは、心の何処かではこれで良かったと考えていた。勘違いしてはいけない。自分は虚なのだから、人間らしい振る舞いなんて無意味なんだと言い聞かせる。

 例えこの御蔭丸という死神が、彼女の魂を尊重していたとしても。虚であるこの身には、虚ろな夢に過ぎないのだと、振り払うように顔を上げると――そんな事など、関係ないと言わんばかりに。死神が寂しそうにしながらも笑っていた。

 

「……とても残念です、ネリエルさん。貴女が生きる事を喜べない事も、それを否定できない自分もです。貴女と僕は違う存在、貴女の思いも、貴女の苦しみも、僕が真に理解する事は出来ないでしょう。

 ――それでも、ネリエルさん。僕は貴女が生きているのが嬉しいのです。貴女が生きて、今こうして話せる事を喜んでいるんです。

 だから謝るのはこちらです。ごめんなさい、貴女の思いよりも自分の気持ちを優先してしまう僕を、どうか赦して下さい」

 

 御蔭丸は穏やかな口調でそう言って、深々と頭を下げる。死神の思わぬ言葉と行動にネリエルはしばらく呆気にとられていたが――やがて大きく開いた青緑の瞳を優しく細めて、堪えきれないようにふき出した。

 

「クスクス……やっぱり変だわ、貴方って」

「よく言われます」

「でしょうね。でも――貴方のそういう所、嫌いじゃないわ」

 

 口元を軽く押さえて彼女はコロコロと喉を鳴らす。仮面からのぞく子供のような笑顔は、さっきまでの悲痛さが綺麗に取れていた。それに御蔭丸もいつもの笑顔を浮かべる。

 

「ねえ、まだ時間はあるかしら? 貴方さえよければもっとお話したいんだけど」

 

 笑顔の花を咲かせていたネリエルはずいっと身を乗り出してきた。仮面の奥の青緑色は興味津々に光っている。それに御蔭丸は子供をあやすように微笑んだ。

 

「構いませんよ。傷がきちんと塞がっているかもう少し看ていたいですし、僕で良ければお付き合い致します」

「ありがとう! じゃあね、“ごはん”のお話なんてどうかしら? 虚圏(ここ)ってほら、“ごはん”作る人なんていないでしょ? 私、“ごはん”に興味あるんだけど、話せる人がいなくって」

「ごはん……料理のお話ですか。分かりました、それでは虚圏に生息する霊蟲を使った簡単なものを紹介しましょう。材料を持ってきます」

「できれば美味しいものがいいな~」

「きちんと手順を踏めば美味しく出来上がりますよ。それよりも、つまみ食いなどされないでくださいね」

「わ、私は食いしん坊じゃないって言ってるでしょ!」

 

 真っ赤になって食卓を叩くネリエルに御蔭丸は笑って、棚から材料と包丁などの器具を取り出す。それからネリエルに料理の仕方を丁寧に教えていった。

 

 

 

   φ

 

 

 

 虚圏・某所。

 白い砂漠が延々と続く虚圏の中でも特に岩場の多いそこには、ハリベルが住処としている一際大きな岩がある。動きのない深い夜を白く塗り潰すそれは周りから目立っているが、近づこうとする虚はいない。生きるか死ぬかの世界でまさか目立つ場所を根城にする奴はいないという心理が働くし、もしいたとすればとても手におえない怪物の類だろうと予測出来るからだ。

 昔はそれでも突っ込んでくる馬鹿がいたのでハリベルは定期的に住処を変えていたが、今は御蔭丸の鬼道によって完全に隠蔽されている。仮にここに何かいると確信して調べにくる存在がいても、余程の者でない限り御蔭丸の鬼道を見破る事は不可能だった。

 そんな岩の周辺に、隠れながら近づく怪しい影がいた。白い後ろ姿に神経を張り巡らせて、“丸の内三つ鱗紋”の鍔を持つ長刀を背負う男は、何を隠そう大神御蔭丸その人である。

 

「…………」

 

 御蔭丸はやたら周囲を気にしながら慎重に歩を進める。他の虚に居場所を感知されないためかと思われたが、鬼道に隠蔽された隠れ家の入り口に入っても警戒を解かないあたり、どうやらそうではないらしい。

 まるで深夜が過ぎて家に帰り、怒る妻を想像してビクビクしている夫のような態度で扉の前までやってきた彼は、汗を垂らしながら唾を飲んだ。

 ――ここを空けて、もう四日か。

 ――やっぱり怒っているだろうか。

 ハリベルの様子を想像して身震いする御蔭丸は四日前の会話を思い出す。色々と道具を背負ってここを出る時、彼は共存関係にあるハリベルにこう言ったのだ。

 

『修行の為に三日程メノスの森に(こも)ってきます』

『…………三日だな? 必ず三日で帰ってくるんだな?』

『は、はい! それは勿論でございます!』

『どうだかな……前はそう言って一週間帰ってこなかったが』

『今度は必ず守りますから! 男に二言はありませんとも、ええ!』

『…………必ずだぞ』

 

 念を押す彼女の不機嫌そうな目つきで送り出されたわけだが、ネリエルの治療の為に約束を破る形になってしまった。時間の配分はメノスの森の拠点作成に一日、鬼道の修行で二日、ネリエルの治療に一日といった具合だ。

 ネリエルの治療と一口に言っても、半分は雑談に費やしたようなものだが。料理の仕方を教えたり料理道具をあげたりまたご飯を作ってあげたりしていたら、一日経ってしまったのだ。

 そして治療を終え、羚羊の下半身の包帯をとった後、ネリエルは去っていった。「今回は見逃してあげる」と言われたのは、死神と虚として最低限の垣根を超えないためだろう。一緒に作った料理を名残惜しそうに見ていたあたり、また来そうではあるが。

 

 それは今は放っておいていい。問題はハリベルとの約束を破った事だ。怒っていない事を諦めきった表情で祈りながら御蔭丸は扉を開け、恐る恐る中へ入る。

 

「た、ただ今戻りまし――――ヒィッ!?」

 

 中へ一歩踏み出した瞬間、御蔭丸の無理な笑顔すれすれにズガンと巨大な刃が突き刺さる。鼓膜が破れるような轟音と天井まで広がるひび割れに笑顔を引き攣らせる彼は、氷漬けになったようにそのままの姿勢で硬直する。

 

「……………………」

「あ、あの、た、ただいま戻り、ました……」

「……………………」

「え、えっと、その……話を聞いて、くださいますか……?」

「……………………」

「ハ、ハリベル……様……?」

「……………………遅かったじゃないか、随分と」

 

 カラカラの喉からかろうじて声を出す御蔭丸に対し、刃を投げた張本人であるハリベルは冷え切った表情を隠そうともしない。深い海の底のような暗い瞳はむしろ、御蔭丸が己の名に「様」を付けた事で悪化していた。

 ――ああ、やっぱり怒っている……!?

 あまりに冷た過ぎる視線に振る上がる御蔭丸はぎこちない動作で言い訳を絞り出す。その間もハリベルの形相は恐ろしく平坦なままだ。

 

「え、えっとですね! これには色々と、訳がございまして」

「ほう? それは私との約束を破るほど重大な訳か? お前自身が口にした、二度と約束を破らないという誓いを破るくらい大事だったのか? ぜひ聞かせてもらいたいな」

「い、いえ、けしてそんな事は「特に理由のない取るに足らない事で約束を破ったのか」大事です! とても重大な理由が発生したので約束を破らざるを得ませんでした!!」

 

 ハリベルの地獄のような詰問に御蔭丸は思わず姿勢を正して叫んだ。とにかくこの状況はまずい、一刻も早く抜け出さなければと御蔭丸の本能が全力で警鐘を鳴らしている。ダラダラと滝の汗をかく彼を、ハリベルは変わらない視線で突き殺している。

 ……しかし、綺麗な翠玉を淀ませる彼女は、不意に冷え切った表情に熱を戻してため息をついた。

 

「え、えっとですね、これは、その」

「…………ハア、もういい」

「え……ハリベル様?」

「もういいと言ったんだ。あと、様をつけるなと何度言えば解る」

 

 ビクつきながらきょとんとする御蔭丸にもう一度ため息をついて、ハリベルは立ち上がる。そしてツカツカと鎧のヒールを鳴らして彼に近寄ったかと思うと、そのまま御蔭丸へ身体を預けた。

 

「ハ、ハリベル様!?」

「様をつけるな」

「い、いえしかし、どうされたのですか!?」

「どうもこうもあるか。…………心配、だったんだ、お前が」

 

 男の筋肉質な胸に金の髪をうずめるハリベルは、歯切れ悪く言って顔を隠すように御蔭丸を引き寄せる。その言葉と仕草に困惑顔だった御蔭丸は急に表情を暗くして、彼女を抱き締めようとして止めた。

 ――依存、じゃないのは分かっている。

 ――だが、これは悪い状況だ。

 御蔭丸の生き方には相反するものがある。彼は誰かの願いの面影になる事を望んでいるが、一方で自分自身に深く踏み入られる事を拒んでいる。

 知っているのだ、自分という者が辿った過去(ルーツ)がどれ程人を傷付けるのか。

 分かっているのだ、それが間違っていると理解していても、それでも己は全てを受け入れようとする事を。

 

 だからこれは悪い状況だ。ハリベルは自身の心を正確に捉えている。今はただ長年の孤独を癒す為に、必要以上に肌に触れて命の熱を感じようとしている。けれどそれが何時しか取り返しのつかない感情を招いてしまう事は否めないし――もしそうなった時、彼女はきっとその心を受け入れる。

 ――そうなる前に、何とかしなければ。

 心中で御蔭丸が考えても、出来る事は無に等しかった。温もりに飢えているハリベルを僅かでも拒絶すれば癒せなくなる。かと言って幻滅させる真似をしても、彼女はそんな表層に囚われるような心の持ち主ではない。御蔭丸に出来るのはただ祈る事だけだった。

 ――ん?

 と、そんな事を考えていると、グイッと襟首を引かれた。何事かを眼を向ければハリベルが服を引き寄せて顔をうずめていた。クンクンと鼻が鳴っているあたり、どうも匂いを嗅いでいるらしいと思ったその瞬間――閉じられていたハリベルの瞳が、ギラリと刃のように光る。

 

「…………他の女の匂いがする」

「へあっ!?」

「さっきもういいと言ったが、撤回させてもらおう――御蔭丸。お前は何処で、何をしてきた?」

「え、いや、その、これは……うわっ!?」

 

 男がしどろもどろに舌を動かしていると、ハリベルが無表情に突き飛ばして彼を寝転ばせた。いきなりの事に受け身も取れなかった御蔭丸が呻くのを無視して、腹の上に思いっきり腰を落とす。傍から見ればハリベルが御蔭丸を押し倒した格好だ。

 しかし剣呑な目付きで男の喉元に刃を突きつける姿には色気もへったくれもない。なまじハリベルの顔が整っているだけに、能面のような無表情から発せられる圧力は相当なものだ。あまりの恐ろしさに縮こまる御蔭丸を見下ろして、ハリベルは厳かに唇を震わせる。

 

「聞こえなかったか? お前が、何処で、何をしてきたかと、私は聞いているんだが」

「え、えっとですね、修行の最中に空から傷だらけの中級大虚が落ちてきまして、その治療に当たっておりました」

「修行していたら空から女が降ってきたと、そう言っているのか。夢物語にしたって出来損ないの言い訳だな」

「ほ、本当です! 僕の魂に誓って嘘偽りは一切申しません!!」

「平気で約束を破るような魂に誓われたって迷惑だ。……だがまあ、千歩譲って信じてやるとして、お前はその後何をしたんだ?」

「あ、あの、メノスの森に作った隠れ家へ運んで、治療をして、目を覚まされた後は少しばかり話したり、りょ、料理を、ふ、振る舞っ……た……り……」

「ほう……? 料理を振る舞ったと。そうかそうか――私が現世から苦労して持ってきた食材を、お前は何の躊躇いも無く他の女に貢いだと。ハハハッ、思わず笑ってしまうくらい面白い話だとは思わないか? 御蔭丸」

「い、いえ、笑える事ではありませんし、その言い方では語弊が」

「笑え」

「あ……あは、あははは、はは……」

「ハハハハハハ」

 

 潜窟にハリベルの澄んだ笑い声が響くが、褐色の喉を鳴らす端正な顔立ちは能面のようにピクリとも動いていなかった。脳を凍り付かせる空虚な笑い声に、御蔭丸は絶望し切った時の壊れた笑顔を浮かべるしかない。

 そうしてハリベルは無表情に笑いながら、鉄板をへし折るような力で御蔭丸の胸をバシバシ叩いていたが、急に叩くのを止めた。強制的に笑っている彼が痛みでゴホゴホと咳き込んで、何事かと思ったその瞬間、鼻と鼻が触れ合うくらいの距離にハリベルの顔があった。その美しさとこちらを覗く翠の光に、御蔭丸は思わず息を呑む。

 

「ハ、ハリベル……さん?」

「……さんも付けるな。呼び捨てにしろ」

「……ハリベル……」

「それでいい。……なあ、御蔭丸。私は今まで、こんな風に怒った事は無い。悲しんだ事も、苛立った事も無い。永い孤独が、私を乾かしていた。それをお前が潤した。お前が私に、人のぬくもりを教えてくれた」

「…………」

「御蔭丸、お前は雨のような男だ。最初から私の意志なんて関係なしに現れて、勝手に私を癒していく。初めは疎ましかった。けれど今は、お前が過ぎ去っていくのが恐ろしい。

 恐ろしいんだ――お前が始めて出逢った時のように、ある日忽然と消えてしまいそうで、怖くて堪らない」

 

 彼女の表情は変わらない。ただ、胸元を掴む力が強くなる。

 

「だからせめて、私との約束だけは守ってくれ。行くなとは言わない。ずっと此処に居ろとも言わない。ただ、私に黙って消えるような真似だけは、絶対にするな――」

 

 絞り出すように喉を震わせる彼女に、御蔭丸は何も答えなかった。ハリベルはそれを咎めない。答えは最初から、紅く光る彼の眼に描かれている。

 御蔭丸は願いの面影だ。だからそう願う限り、何も拒む事は無い。それは裏返せばこの白過ぎる男が空虚である事の現れでもあるが、今のハリベルにはどうでもいい事だった。

 乾いた彼女に宿る渇望は、言葉では決して言い表せない荒れ狂う激情だ。いずれそれは大雨の濁流が小さな流れへ移ろうように、名のついた感情になるだろう。御蔭丸はその感情が己へ向けられない事を、切に願っていた。

 その願いが叶わぬ事を、理解しながら、それでもなお。

 




原作より六八三年前の出来事。
一刻≒二時間です。
今回も投稿を優先して十分な推敲をしておりません。筆者はもっと文量を増やして色々整頓したいのですが、今の所これ以上書けないと判断したので投稿した次第です。
ネリエルについて。
ネリエルは元十刃第3刃だったのでおそらくヴァストローデだと思いますが、今はまだアジューカスという設定です。容姿は帰刃状態に近く、人間部分を仮面の鎧が覆っていて肌の露出が少ないという感じです。そのうち脱ぐ事もあるでしょう。

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