BLEACH Fragments of Remnant   作:ヴァニタス

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命尽きぬ者

 喪失は、色のない灰のように。重みを感じさせる事なく、(ただ)々無限に積もり続ける。

 

 最初の喪失は己の家族。

 誇り高き父と、敬愛する兄と、誰よりも好きだった母。

 誰一人として護れず、皆死んでしまった。

 

 次の喪失は雨の降る故郷。

 紫陽花(あじさい)が芽吹く長閑(のどか)な村落と笑顔の民、そして家族が暖かく迎えてくれる家。

 それは炎と戦の狂気で、全て踏み躙られてしまった。

 

 三度目は名も知らぬ少女。

 故郷も誇りも喪った己を救い、悲しみを受け止めてくれた最後の(よすが)

 虚となった父から己を護る為、盾となって散っていった。

 

 それから何度、喪っただろう。

 一度だっただろうか、数えるのも億劫なくらいか。

 それは御蔭丸には分からない。

 憶えていないのではなく――思い出そうとする心が無い。

 三度目の喪失で彼は自らの心を壊し――人の願いの面影と成り果てた。

 誰も傷付けず、傷付けられる事を受け入れ、ただ笑うばかりの男になってしまった。

 

 心を亡くした狼は滅却師となり、流魂街の民へと流れ、死神を望まれ――そして今は、(ホロウ)に寄り添う魂と化している。

 それは“生きて帰って欲しい”という願いを果たすためでもあるが、もう一つ理由があった。

 最上級大虚(ヴァストローデ)でありながら犠牲を憎み、世界に絶望しかない事を知り、何よりも孤独を恐れる彼女。

 ティア・ハリベルの凍えた心を癒せればと――面影の生き方と四番隊としての矜持を胸に、彼女の傍で生きていた。

 いずれ尸魂界に帰る事を考えればあまりに無責任な行為だが、御蔭丸は誰かの願いを叶えているだけである。むやみやたらに面影となって、その末に死んだとしてもそれが本望と笑えるような異常者だ。責任を唱えてもやる事は変わらないだろう。

 

 それに人に為せる事は出来る事だけだ。全てを思い通りに運べるのは神だけである。御蔭丸はただの死神で――護りたいものも護れない、矮小な存在に過ぎない。

 だから出来る事を為し続ける。己の腕に憑りつく中級大虚(アジューカス)を乖離させる術を探しながら、ハリベルの傍に寄り添って生きる。

 誰かの願いを叶えるという目的の元に、面影として生き続ける。

 

 それすらも、世界は許さないのだろうか。

 

 ……――――きっと、そんな問いに意味はない。

 何時だって己の意志は無視される。どんなに力を振り絞ろうとも、全てを(なげう)っても喪失は無情に訪れる。

 護りたいものは、何時だって護れなかった。

 喪いたくないものは、何時だって喪われた。

 そんな大神御蔭丸に為せるのは、後にも先にも一つだけ。

 戦い、そして勝利する――それだけなのだ。

 

 

 

 ――――喪失する。

 (はら)の底から脳髄を灼き切るような痛みと同時に、下半身が喪失する。

 奪われたのだ――何かを殺す為だけに造られたような、黒く鋭い棘の群れに。背骨を手にしたまま体幹を貫く熱された闇の腕は、嗤い狂う金切音に呼応するように引き抜かれる。

 背骨と、脊髄を奪われる痛みが残る神経に針金を突っ込む。腕も、首も、肺も、痛覚の無い心の臓さえも破裂してバラバラになるような激痛が上半身で暴れ回る。

 

「ッ――――ッッッ!!!」

 

 叫び声は、出なかった。痙攣(けいれん)した筋肉が声帯の可動を妨げ、代わりに食道から這い上がる大量の血潮が薄い唇から嘔吐される。

 ――ッ……ッッ…………!!!

 感情すらも、言葉にならない。空虚を宿す白い砂を己の血反吐で汚す彼は、その赤く染まった砂に顔面からぶつかり、倒れる。

 ギシギシと蟲翅(むしばね)が鳴る。脳を素手で搔き出すような嗤い声が心を罅割る。ああ――死が、この身の全てを奪おうとしている。

 倒れ伏した御蔭丸は、もう五感も機能していなかった。耳を反響する金切音も、血錆(ちさ)びれた眼に写る白も、何も分からない。ただ死だけが、己を呑み込もうとしていると理解する。

 ――望んだ事だ。

 ――何も後悔は無い。

 

 痛みが飽和したのか、意識が妙に鮮明になる。あるいは走馬灯を見る前段階なのかもしれない。これまでにも体験してきた事だからよく分かる――違いがあるとすればそれは、助けなど絶対に来ない事。

 ――ハリベルは俺を見捨てるだろう。

 ――あの方は聡明だ、勝ち目のない戦いには挑まない。

 ――それに、救うに値しない男として接してきたつもりだ。

 ――俺を助ける理由もない。

 この半年間、御蔭丸は本当の自分をハリベルに見せてこなかった。おいそれと見せられるものでもないが、仮に見せても傷付けるだけだと知っていたからだ。

 

 そして腹に一物抱える者は得てして信頼を得ない。その能力や生き方に一定の信用は得られても、絆を結ぶ程の信頼には届かないのだ。

 御蔭丸とハリベルの間に、そこまでの信頼はない。だから助けは絶対に来ないと――そう踏んでいたのに。

 ――…………!?

 ――そんな……何故……!?

 肉体から乖離(かいり)した意識の(まゆ)(くら)い深淵へと沈む中で、御蔭丸は己と同じ色をした霊圧を感じ取る。

 御蔭丸はすぐさま叫ぼうとした。どうして逃げなかったのかと、何故戻ってきたのかと声を大にして問いただしたかった。

 

 ……だが、それは無理な話。

 もう彼の肉体はほぼ死んでいる。胎から下は言わずもがな、臓腑を潰された影響は残った半身にも出始めている。

 肺は空気を取り込む事で精いっぱい。喉はせり上がる血反吐を垂れ流すだけ。唇に意志が反映される事はなく、眼さえもハリベルに向けられない。

 意識だけが世界に取り残されている。世界が意識だけを留めている。

 まるで、ティア・ハリベルが死ぬその時を、心に刻めと言わんばかりに。

 ――またか。

 ――また喪うのか、俺は。

 

 心の底から、熱が生まれる。

 それは衝動だ。奪われたくないという衝動――喪いたくないという、感情の波。とうに壊れた筈の心が、無価値と断じた世界に反抗しようとしている。

 何故だろう……己には何も無い筈なのに。名も知らぬ少女を救えなかったあの日に――壊してしまった筈なのに。

 まるで自分でない自分がいるような感覚だ。意識だけが中空に浮いて、独りでに立ち上がろうとする己の姿を見下ろしているような錯覚を抱く。その自分が何なのか見極めようとして――すぐにその正体に気付く。

 それは継ぎ接ぎだらけだった。人の良い顔をして、獣のように荒々しく、人を癒す右手の隣には強大な力を握る左手がある。非常に不均衡で統一感のない有り様――誰かの願いの面影となった、己の影が作り出した、心の姿。

 

 ――ああ、そうか。

 その心は、立っている。脚の長さが左右違っていて不格好になっているが――それでも、自分の力で立ち上がっている。

 ――俺はまだ、立ち上がれるのか。

 継ぎ接ぎの心は、見下ろしてくる御蔭丸を見つめていた。絶え間なく輝く願いの結晶をその眼に宿らせ、白い狼に訴えかける――この願いが在る限り、お前は命尽きてはならないと。

 ――俺はまた、戦っていいのか。

 黒い棘の願いさえ受け入れている、その心に手を伸ばす。

 虚のように中心(こころ)の無い自分を、それでも欲し、願いを預けてくれた人々を思い描きながら――その心と、重なり合う。

 そして溢れる、暖かな光に導かれるまま――彼は再び、黄金の園に足を踏み入れた。

 

「――――来たか、お前様よ」

 

 黒い外套に身を包む(・・・・・・・・・)御蔭丸に、幼くも力強い声がかけられる。

 (くるぶし)の埋まる(あか)い絨毯の続く玉楼の彼方――見目煌びやかな玉座に腰掛ける少女は、傲慢な笑みを侍らせている。

 

「カカッ、よくもまあ喀々(おめおめ)と顔を出せたものだな。(わらわ)万籟(ばんらい)にも勝る言葉を妾の前で無視しておいて、今更何の用がある?」

 

 特徴的な猫眼を薄く砥いで睥睨する。享楽を隠そうともしない金の光は(あで)やかに、景色を切り取りただ一人だけを心に写す。白い髪にも白い肌にも、紅い眼光にも本能を滾らせる死神を。

 死覇装ではない黒に包まれる彼は、向けられる金の意志を紅で絡め取る。眼を()らさぬまま――その少女だけを想いながら、一歩ずつ前に進んでいく。その様子を少女は嘲笑いながら――隠せぬ歓喜で唇を飾った。

 真っ直ぐに視てくれる事が嬉しい。逃げずに話を聞いてくれる事が嬉しい。この妾を――必要としてくれる事をどれ程待ち侘びただろう。

 その喜びはきっと、誰にも理解されない。少女はこの虚栄の楽園で産まれて百年、共に歩みたいと願う唯一の人に拒絶され、ずっと押し込められてきた。その事実に憎悪も憤怒も嫌悪も無く――ただ求められる事だけを待ち望んでいた少女の想いは、ただ一人の為だけに。

 

「カカッ、カカカカ! ほれほれ、何か申してみろお前様よ!?

 反論があれば答えてみよ、どんな退屈な内容でも心に置いておいてやる!

 嘆願があるなら(さえず)るがよい、どんな巫山戯(ふざけ)た望みでも必ず叶えてみせてやろう!!

 この妾を欲するならば――お前様の魂が塵と果つるまで、共に歩み続けよう!!!」

 

 その喜びは、御蔭丸の耳を塞ごうと影に蠢く(たお)やかな腕を、御蔭丸自身が払った事で大きく弾けた。顔が(ほころ)ぶのも構わず玉座を飛び下り、御蔭丸まで続く段差を軽やかに走っていく。

 少女は本当に嬉しそうに御蔭丸と眼の位置を合わせられる段差まで駆け下りて、何か言葉を紡ごうとした。けれど気持ちばかりが急いて言葉が上手く出ないようだ。妙に色っぽい唇を開いては閉じを繰り返している。

 そんな少女に構わず、御蔭丸は歩を進め――少女の数歩前で止まり、紅い眼光を尖らせながら、非常に荒れた声で言った。

 

「お前の名を答えろ」

「なっ――――」

 

 その目も眩むほど単刀直入な物言いに、少女はポカンと口を開いて――直後、抱腹絶倒の勢いで笑い出す。

 

「カカカッ、キャハハハハハハハハハッ! 逢うて一番にその一言か、なんと不敵な無礼者よ!

 妾に対する謝辞は無いのか!? 妾がどれ程お前様を待ち侘びようとも来ぬ癖に、お前様は自分勝手に妾を望むのか!? 妾を手酷く拒絶してこんな宮殿に閉じ込めておきながら、慰めの言葉も何もないのか!?

 傲慢よなぁ、お前様よ! 他者の獲物を奪掠(だつりゃく)する獅子でさえ其処まで恥知らずにはなれまい! どうだ、何か申し開きはあるか!?」

「……三度は言わん、名を答えろ」

「キャハハハハハハハハハッ!!!」

 

 狂おしい程に少女は笑う。その細い腕で情熱的なドレスを押さえて、少女は獰猛に唇を吊り上げる。小さな肩を震わせるのは怒りではない――純真な喜びだ。

 

「そうだ!! お前様と妾の間に、そんな絆は無用の長物だっ!!

 妾はお前様で、お前様は妾――お前様が妾に向けるべきなのは他者への気遣いでも慈母の如き微笑みでもない! お前様がお前様自身に向ける、荒れ果てた岩の如き虚無でなければならないのだ!!

 妾はお前様自身として、その()を血で(よご)す事を、ずっとずっと待っておった!!!」

 

 その高らかな宣誓に、御蔭丸は無反応のままだ。ただ眼を尖らせて待っている。最後の縁と同じ姿をした少女が――己の力の成れの果てが、名前を紡ぐその時を。

 ――たゆまぬ黄金の宮殿に、低い轟音が反響する。

 それは何かがぶつかる音。何処までも広大で何処にも出口がない、無限の虚栄の代わりに一切の自由を奪われたその地に、パラパラとまだらをうって落ちてくる。

 雨だ。迷いのない澄んだ透明の雫達が、宮殿の窓をたたく音だ。窓辺に彫り込まれた緻密な彫刻を縁取るように流れる雨の色の反射の中で、少女は優雅にドレスを舞わせる。

 

「――――その必要は無い」

「……何だと?」

 

 駆け下りた時とは打って変わって、気高き獅子の如く玉座へ上る少女の背に、御蔭丸は眉を跳ね上げる。少女は焦るなと言うように、獰猛な笑みを浮かべたまま優雅に玉座へ腰を据え、脚を組んで頬杖で笑みを歪ませた。

 

「妾の名をお前様に語る必要は無いと言ったのだ。妾が今一度語らずとも既に、お前様は妾の名を知っている(・・・・・・・・・・・・・)

「…………どういう事だ」

「どうもこうも、そのままの意味よ。そも、お前様が妾の名を知らぬ筈が無いのだ――斬魄刀の名を知らぬ者が(・・・・・・・・・・・)斬魄刀の力を引き出せるわけが無いからな(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 考えてもみよ――尸魂界に存在するありとあらゆる斬魄刀は、元は全て“浅打(あさうち)”より芽生える。名前も無く、それ故にあらゆる形に姿を変える浅打に己が魂の精髄を写し取り、己が力の名を呼ぶ事で初めて個の斬魄刀は誕生するのだ。

 ――そう、名を呼ばねば斬魄刀は決して応えぬ。どれ程強い力を有しようとも、名を呼ばぬ限り斬魄刀は浅打のままだ。それなのに何故、お前様は半始解などという半端な形でありながら、名も呼ばずに個の斬魄刀を行使しているのだ?」

「…………!」

 

 表情を崩さぬまま驚く御蔭丸を鼻で笑い、少女は頬杖を突く腕と反対の手で指を差す。

 

「気付いたようだな。そうだ――お前様が初めて妾と出逢ったあの日、お前様は確かに妾の名を耳にしたのだ。お前様には聞こえずともお前様の“本能”は妾の名を聞き取り、お前様の知らぬうちにお前様は妾の名を呼んでおったのだよ」

「……ならば何故、お前は半始解でしか現れない」

「カカッ! そんな事は自明の理だ!! 存在するのだよ――お前様自身が口にしようとも決して、お前様の耳に妾の名を届かせまいとする者が!!!」

 

 少女が指差すモノは御蔭丸ではない。小さな手が指し示すのは御蔭丸に纏わり憑くモノ――岩礁にへばる人魚の髪のような、暗く美しい“影”だ。

 まるで御蔭丸が自ら着込んでいるように皮膚を埋める影は、今もなおそこから手を伸ばし、御蔭丸の耳を塞ごうとしている。その手を今まさに払いのけた無意識の行動に、彼は(ようや)く気付き――呵呵大笑する少女の声が宮殿に響いた。

 

「――――それが何かは、今は語るまい。

 さあ()け、お前様よ。彼奴(きゃつ)があの女を()り殺そうと牙を剥いておる。今征かねば、また喪う事になるぞ」

「――――!!!」

 

 雨の降る宮殿が振動する。精神世界さえ揺らがせるその禍々しい霊圧に御蔭丸は眼を見開いた。そしていつの間にか持っていた斬魄刀を当たり前のように握りしめ――少女に(おお)きな背を向ける。

 

「……次は、もっと余裕を持って妾の元へ来るがいい。誰かの願いの為ではなく――お前様自身の意志でな」

「…………」

 

 御蔭丸は答えず――その場に影を残したまま、傷だらけの狼は宮殿から消えた。

 「行ったか……」と少女が噛み締めるように呟いた後、影はその場に崩れ落ちる。止められなかった事を嘆くように――彼がまた戦う事を悲しむように。

 

「――カカカ、目論見は外れたな」

 

 肩を震わせるその影を、少女は凄絶な笑みで嘲笑う。

 

「貴様はあの日、主様(あるじさま)を死なせまいという一心でこの地へ導いたのだろうが――それが主様の本能を(よみがえ)らせた。ああなればもう迷う事はあるまいよ。主様は必ず彼奴に勝つ」

「…………、…………」

 

 言葉にならない言葉を呟く影を少女は気の済むまで嘲笑い――不意に凄絶な豪笑を緩やかな微笑みに変化させ、果ての見えない天井を見上げる。

 

「そう嘆くな。貴様も(いず)れ、主様に必要とされる日が来る。貴様と妾は元を同じとする同胞(はらから)――主様の力の姿なのだからな」

「……………………はい」

 

 呟かれたその言葉は、宮殿を打つ雨音に消えた。

 黄金の園に雨が降る。無色透明の、何の感情も示さない(いろ)の星界は、深く静かに、虚栄の宮殿を満たしていく。

 何処までも広大で何処にも出口のない、無限の虚栄の代わりに一切の自由が許されない地。だがそれは、乾き切っているが故にそう見えるだけなのだ。

 本来その地は水底に沈む。全てを隠す雨の降る、永遠の檻。胸を打つ雨音と美しさの舞い散る景色は――御蔭丸の故郷と似ていた。

 

 

 

   φ

 

 

 

 夜明けの無い永遠の闇に、煌めく黄金の光が満ちる。

 吹き上がる金の流砂は銀河のように、天高き月を貫かんばかりに(そら)へ昇っていく。発せられる圧は霊子の衝撃波となって砂漠を舞い上げ、石英の木々に乾いた悲鳴を上げさせていた。

 

「くっ……!」

 

 吹き荒れ迫る砂塵の波にハリベルは咄嗟に身をかがめ、折れた刃を盾にした。瞬間、大気を灼き切るような怒涛の風がハリベルを呑み込み、彼女は吹き飛ばされまいとしなやかな脚に力を込める。

 そして衝撃波が過ぎ去った後、長く美麗な睫毛を瞬かせる彼女は立ち込める白い砂塵の中心を凝視し――細く切り取られた翠玉(エメラルド)を真円に見開いた。

 

「何だ――――アレは」

 

 停滞する砂塵が晴れる。流動する白の切れ間に初めに見えたのは、大地を四肢で毒している闇の姿だ。暗黒の中に白い焔の眼を灯す鼻の無い仮面は、筆舌に尽くしがたい狂笑で満たされている。

 肌に重く圧し掛かる霊圧に知らず手が震える。まるで眼に見える空の全てが墜ちてきたかのような重圧。最上級大虚(ヴァストローデ)のハリベルでさえ脅威を感じずにはいられないそれは、あの闇のものではない。

 発しているのは、闇の正面に佇む男だ。この虚圏(ウェコムンド)の大地に紛れ、二分された夜空を白で切り取る(おお)きな男。大神御蔭丸の手には、斬魄刀が握られている――

 ――その事実を、ハリベルは一瞬理解出来なかった。

 

「アレは本当に……斬魄刀なのか――――――――?」

 

 呆然と呟かれた澄んだ声が大気に染み、呼応するように砂塵が風で押し流される。対峙する白と黒を隠していた幕が落ち――御蔭丸の正面に(そび)える、力の姿を露わにする。

 

 ――それは、罪人を(はりつけ)にする祭壇のような。逆様に大地を貫く十字架だった。

 

 仮にその斬魄刀を見る者が他に居れば、百人中百人がハリベルと同じ感想を抱いただろう。御蔭丸の背丈をゆうに超える大きさを誇るそれは刀剣とはとても思えない姿をしている。

 十字架を模した刀剣ではない。十字架に無理やり刃を付け足したものですらない。それには刃も無ければ槍のような尖端(せんたん)も無く、柄と思しきものが十字架の内に骨の如く潜むのみだ。それ以外に武器らしい特徴は無く、ともすれば聖堂に飾られていてもおかしくない造形をしている。

 まともな刀剣の形をしていない斬魄刀ならそれなりにある。中には刀剣ではなく生物の姿をとるものもある。しかしそんな例外とて一様に殺しの道具としての凶悪さ、あるいは日常に垣間見る事のない異質を有しているものだ。

 

 だが――御蔭丸の斬魄刀にはそれ(・・)がないのだ。武器としての、戦う為の道具としての性質が一切欠けている。本来なら戦場という非日常ではなく、人々の願い溢れる日常にあるべき物……それが血風(けっぷう)荒れ狂う虚圏にある事が、持ち手の異様を際立たせていた。

 御蔭丸が時折浮かべる、慈母の如き微笑のように。

 

「――――……斬魄刀を解放したか」

 

 闇が、嗤う。ギシギシと断続的に、金属を引き千切る甲高い声が鼓膜を割ろうと鳴り響いている。御蔭丸の斬魄刀と対照的な殺意の塊は、全身から突き出る棘の如く霊圧を鋭利に削っていく。

 その熱く激しい脈動に共鳴するかのように御蔭丸も霊圧を増大させ――血の滲む唇を鋭く開いた。

 

「ああ、そうだ。これが俺の斬魄刀……――――『天獄(てんごく)』だ」

「ギハ、ギヒャハハギヒハハ――――――――それがどうした?」

 

 あまりにも尖った霊圧で踏み締める砂漠を腐食させながら、アルヴァニクスは嘲笑する。

 

「今になって斬魄刀を解放したところで何になる? 貴様の霊圧は確かに上がった……この私が脅威を感じる程度にはな。

 だが――――それだけだ。

 貴様のそれはただの脅威、恐怖が芽生える程ではない。せいぜい手足が()げる幻視を抱かせる程度だ。そして、そんなモノでは――私を殺す事など出来ん」

「…………」

「百年前と同じ眼をしているからと泳がせたが、とんだ期待外れだったな。だがまあ、それでも上質な供物に変わりなし。貴様を殺す結末は――」

「……――――期待外れ、か」

 

 べらべらと舌を廻す闇の言葉を、仄暗(ほのぐら)空洞(くうどう)のような冷えた声が断ち切った。言葉を遮られて(いぶか)しげな眼を向ける闇を、御蔭丸は正面から見据えている。

 

「貴様らしくないなアルヴァ。俺はまだ、貴様に天獄を振るってすらいないぞ。名を語り、形を見せてやっただけだ――それで貴様は、天獄の何を理解した?」

「ギャハ――――確かに確かに。私はまだその斬魄刀に斬られもしなければ殴られもせず、能力の一旦さえ味わっていない。それで貴様の命をはかるのは早計だろうな。

 だが――その斬魄刀から感じる霊圧を加えても、貴様はかつて(・・・)より弱い。そんな様ではどれ程優秀な能力を有していようと話にならんなァ? キヒャハ、ヒャヒハヒャハハ――――虚閃(セロ)!!!」

 

 残響する嗤い声が虚閃に変わる。放たれる黄色い膿色の光線は直径も密度も先程までとは桁違いだ。より速く、より強く変化した死の霊圧を前に――御蔭丸は、そこから一歩も動く事なく。ただ静かに、穏やかささえ漂わせて立っているだけだった。

 そして黄金の粒子の霊圧が散乱するその空間に、侵食する悪意が突き立てられる。

 生じた爆裂は生命の誕生のように熱く強く、形振(なりふ)り構わない増殖速度を以て空を砕く。暴力的な破滅の枝は夜も砂漠も全てを呑み込み、世界にキノコ状の噴煙を吐き出させる。

 

「ギヘハ、ギャハハッ! その程度だ、所詮は!! 貴様にはもう私を殺す事など出来なはしない!!

 なれば、さらば、しからば死ね!!! 塵と果てた滅却師よ、その身も塵に還るがいい!!! ギハハ、ギハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」

「…………!」

 

 割れ響く狂笑に痛覚を穿(ほじ)られるハリベルは、展開する戦いに息を呑む事しか出来なかった。

 たった一撃が、大地を変貌させる威力。砂漠も木々も何もかもを取り払い、底の見えない谷を生み出す程の力。それを見せつけられたハリベルは、あの闇が己と戦った時は全く本気でなかった事を思い知らされる。

 ――大神御蔭丸と云う死神が、今の今まで。本当に戦ってこなかったという、信じ難い真実も。

 

「ギハ、ギハハ――――?」

 

 闇の嗤い声が、不意に止まる。己の霊圧知覚が奇妙な事実を察知したからだ。

 アルヴァニクスは今、現時点で撃てる最高の虚閃を撃ち放った。知恵も何もない、防ぐ道理があれば道理ごと喰い殺すような獰猛を秘めた一撃は、これまであらゆる生命を死に還してきた。

 だが――おかしい。始解によって増大した御蔭丸の霊圧は今の一撃で感じなくなったというのに、御蔭丸の後ろに居た筈のハリベルの霊圧が消えていないのだ。

 (うず)く疑念に任せ、アルヴァニクスは爆煙の中に目を凝らす。巨大な崖の先にある揺らめく白をねめつけ――垣間見えた光景に、驚愕の声を漏らした。

 

「何だ――――!?」

 

 破壊の崖が、途切れている。

 天も血も余さず呑み込む破滅の閃光が、御蔭丸の一歩先から侵攻出来ていない。阻まれている――大地に聳える逆十字が発する、神の奇蹟(きせき)の如き光の壁に。

 

「何だソレはッ!?」

 

 アルヴァニクスの咆哮から虚閃が生じる。先程と同じく、いや防がれた怒りによって更に霊圧の上昇した虚閃は、今度はその破壊力を示す事無く光の壁に阻まれ消失する。その事実に闇は激昂し、虚閃をデタラメに乱射した。

 だが、届かない。放たれた虚閃の群れはアルヴァニクスの周囲の大気を灼くばかりで、御蔭丸に牙を剥く寸前で天獄の壁に掻き消される。()せ返る腐臭の中、なおも虚閃を撃ち続ける闇に、御蔭丸は血の垂れる刃の眼光を突きつけた。

 

「……――――『護形刃界(ごぎょうじんかい)』。

 俺の霊圧を天獄に注ぐ事で生まれる超高密度に圧縮された霊圧の壁だ。あらゆる物を防ぐ、とまでは言わんが、並みの刀剣を遥かに凌ぐ霊圧硬度を有している――貴様の虚閃を止められる程度にはな」

「ソレがどうしたッ!!! 例え全てを阻む壁が貴様の斬魄刀の能力であろうと、貴様如きの霊圧で私の虚閃を止められるものか!! 貴様の霊圧など私の霊圧で全て抑えられる、それが道理だ!!!

 なのに何故――私の虚閃が通用しないッ!!!」

 

 眼の周りに罅を入れる程の激憤が虚閃の威力を更に跳ね上げる。地殻を抉り、霊子を灼き、動かぬ夜を()き動かしてそれでもなお、御蔭丸の髪の毛一本動かせない。

 

「道理が通らぬ!!! 何故だ、何故、何故――――!?」

 

 眼前の事象を拒絶するかのようにアルヴァニクスは虚閃を乱射していた。仮面に罅を入れながら乱杭歯を噛み砕き、否定を繰り返す細身の怪物は――更なる道理を捻じ曲げる光景に、心臓が止まったかの如く硬直する。

 運動を忘れた焔の眼球。白く揺らめく闇の眼が鏡写す世界の中で――御蔭丸の(はら)の傷が、塞がろうとしていた。

 戦いを見ていたハリベルも言葉を失う。死神である筈の御蔭丸の身体が、超速再生を彷彿(ほうふつ)とさせる速さで傷を修復している。

 ――いや、違う。

 ――あれは回道(かいどう)だ。

 

 御蔭丸を覆う霊圧の質からハリベルは超速再生の正体を看過する。

 回道――鬼道による治療霊術。何度か傷を治してもらった事があるから間違いない。だが回道は霊圧による治療技術、超速再生と見紛(みまご)う程の回復速度は無かった筈だ。

 ――あれも斬魄刀の能力なのか?

 ――そうだとしても、二つの能力を同時に持つ斬魄刀など在り得ない。

 ――始解によって霊圧が増大し、回復速度が上がった?

 ――だが、あの程度の上昇量では……上昇――――?

 そこまで考えて、ハリベルは御蔭丸の霊圧に違和感を覚えた。上昇している――少し前に脅威を感じた時よりも大きく、霊圧が上昇し続けている――――?

 

 違和感はすぐに、確信に変わった。御蔭丸の霊圧は確実に増大を続けている。それも尋常ではない速度で――御蔭丸の“脅威”を知らせるハリベルの知覚に、徐々に“恐怖”が混じっていく。

 ――何だ、この霊圧は……!?

 ジリ、と身体が勝手に後ずさったのを感じながら、ハリベルは白い死神を凝視していた。破れた衣から覗く肌は石の偶像の如く、生気の無い滑らかな白に戻りつつある。垂れた背骨もはみ出た血肉も跡形も無く治っていく。

 その回復と霊圧の上昇から、ハリベルは何が起きているのか信じられないながらも理解した。何も難しい事ではない――御蔭丸は最早ハリベルすら超える程の霊圧を以て、回復速度を強引に跳ね上げているのだ。

 

「大神御蔭丸ッ!!! 貴様、一体何をしているッ!?」

「さあてな――百年前と同じように、その身で味わって理解しろ」

 

 闇は半狂乱に叫びながら虚閃を撃つ。通じないと分かっていながら、それを理解する意識そのものが混濁してしまっている。御蔭丸はその混乱を更に助長させるように、『護形刃界』を急に解いた後、向かってくる虚閃を逆十字で打ち払った。アルヴァニクスの放つ虚閃など、もう能力を使う必要もないと言わんばかりに。

 仮面の顎を裂く闇はまたも叫ぼうと歯を軋らせるが、言葉が外に出る事はなかった。闇も気付いたのだ――御蔭丸の霊圧がアルヴァニクスに迫り、越えようとしている事に。

 

「何だ――――何なのだ」

 

 震える金切音が残響する。アルヴァニクスの白い焔に写る男は、百年前から何も変わらない。

 その髪は白く、虚の仮面の如く(おそ)れを纏い。その肌は白く、死者の指先の如く終わりを従え。

 その紅い双眸(そうぼう)は、花開く扁桃のように。幽世(かくりよ)をも斬り裂く修羅の如き眼を以て、神の逆十字を天に掲げた。

 

「何なのだその斬魄刀はッ!?」

「…………――――――――『()刃爆星(じんばくせい)』」

 

 叫ばれた言葉も、呟かれた言葉も、皆等しく塵と成り果て。

 虚圏の静かなる夜を、光の十字が爆斬した。

 

 

 

   φ

 

 

 

 虚圏に平穏の二文字は存在しない。

 そこは本能を剥き出しにする悪霊の集う地獄――報われない人生を終え、渇かぬ妄執で現世に留まる虚達の国であり棺。本能の(おもむ)くままに人間を喰らう彼らはそこで、命の原初へ吐き戻される。

 すなわち、才能も知性も心も必要のない――“力”のみが支配する世界。虚と化した魂の末路は(すべから)く、死神に斬られるか大虚(メノス)に喰われるかの二つに一つだ。

 毎日を死で追い立てられる虚は皆、並みの命より危機に(さと)い。不動の月光が織り成す今宵もまた、大虚からの襲撃を避けつつ生きる矮小な虚達は、蟻が散らばるようにとある場所から逃げていた。

 最上級大虚と最上級大虚が戦う、茫漠の白。虚圏における至上の存在が生死を賭け、全てを破壊しながら戦っている。逃げ惑う虚達が、どちらかの頂点が(たお)れる結果を招くだろうと予想していたその戦いは――誰もが予想しなかった白い死神の手によって収束した。

 

 破滅が世界を征伐する。

 (あがな)う光は星屑の如く、小さな明滅を灯して冷え切った夜空の果ての果てまで煌めいていく。煌めきの中心は裁きのように、死が満ちる虚圏に巨大な十字架を突き立てていた。

 それは最上級大虚をゆうに超える霊圧の爆剣――どんな能力を使ってもその能力ごと滅ぼされる錯覚を見せつける裁きの光だ。その威力は周囲に広がる衝撃波でさえ、死を想わずにはいられない。

 極近しい場所で“決着”を見定めていたハリベルは、荒れ狂う霊子の気流に逆らいかろうじてその場に留まっていた。きっと……死神があの光を振るう直前にかけていた鬼道が無ければ、抵抗むなしく吹き飛ばされていただろう。

 霊子の衝撃波が止み、刃の下で庇われていた褐色の美貌が眉を(ひそ)めると同時に、周囲に展開していた逆四角錐の盾――『倒山(とうざん)(しょう)』が露と消える。意図して解除されたのではなく、衝撃波で耐久度を超えて摩耗(まもう)したため自然消滅したのだろう。

 

 あの闇との交戦からの何度目かの救済に、ボロボロの鮫妃(こうひ)は苦悩を払うように頭を振り、厳しい眼を白塵に揺れる背中に向けた。

 逆十字を世界に突き立てたままで静止する死神、御蔭丸に傷は無い。貫かれた胎も砕けた両手も、本来の形を取り戻している。そして奇妙な事に――あれ程膨れ上がっていた霊圧が、始解直後の大きさに戻っていた。

 その不可解な事実にはあえて触れず、ハリベルは刃の無い十字架を血振りする御蔭丸へ透明な声を投げかける。

 

「……――――終わったのか、御蔭丸」

「…………いいえ。まだ何も(・・・・)終わってなどおりません(・・・・・・・・・・・)

 

 そう、静かに呟かれた言葉の意味をハリベルが吟味する前に――御蔭丸の正面に、黒い変化が産まれ堕ちた。

 (なばり)の孔が点在する。それは霧のように明確な実体なく脈動し、徐々に徐々に集まっていく。人の血液が心臓へ流れるが如く、一点へ収斂(しゅうれん)する黒は次第に増殖し、増殖し増殖し増殖し――何時しか人の器としてはあまりに細い、棘の闇へと変貌した。

 

「……――――ギハッ、ハハハッ。久方ぶりだ……この私がこれ程までに死滅(・・)するのは百年振り――貴様が死んだ、あの時以来だ。

 ゲハアハ、あれから随分、霊圧が痩せ細ったと落胆していたが……何の事は無い、貴様は本当に戦っていなかったのだな。眉唾だと侮っていたよ――よもや貴様のような夜叉の如き修羅の如き羅刹の如き滅却師が、戦わない道を選んでいたとは、到底信じ切れなかった」

「……そんな……莫迦な……」

「…………」

 

 天地を二分すると錯覚させるあの霊圧を喰らっても再生する闇に、ハリベルはついに色を亡くした。アレには勝てない、逃げるべきだと全身が恐怖で震え上がる。

 御蔭丸はひどく冷静に、天獄の長端を闇へ差し向ける。そしてまた、眼光をゆっくりと(すぼ)める死神の霊圧が上昇を開始した。

 だがそれを、止めるように――アルヴァニクスは爪の無い掌を御蔭丸達へ(かざ)す。虚閃を撃つ気かと、その動作にさえ恐怖するハリベルは咄嗟に身構える。だが吐き出されたのは霊圧では無く、ギシギシと軋む嗤い声だった。

 

「――――やはり、万象あらゆる全てというのは、この身で味あわねば分からんな。何を測ろうと何を考えようと何を想おうと――我々が真に理解する為には、自ら体験する以外に方法は無い。ギハッ、ゲハハッ! (ようやく)く理解出来たぞ、貴様の斬魄刀、貴様の力!!

 その天獄とやらの能力は――――

            ――――霊圧の蓄積と解放(・・・・・・・・)だな!!!」

 

 クツクツと闇は不気味な羽音を軋らせる。叫ばれたその真実に、御蔭丸は動揺しない。

 

「霊圧は魂の底から湧き出す霊力に依存するものだ。霊力の量が多ければ多いほど、扱える霊圧も高くなる。それ故霊力の少ない者の霊圧は弱く、より強い者の霊圧を超える事は出来ん。

 だが――貴様の斬魄刀はその道理を覆した。霊圧の蓄積――本来ただ消費されるだけの霊圧を自身の限界以上に溜め込み、そして解放する――そうすれば貴様の如き弱者の刃でも強き者の喉元に届き得る。

 溜め込んだ霊圧を盾に用いれば私の虚閃を止められ、自らに使えば超速再生の如く治癒し、力と為せば天地の隔たりをも破壊する。

 ――――まさに誰かの面影と成り果て、願いを蓄積する事でしか生きられない貴様に相応しい力だ」

 

 そう語る闇の言葉でハリベルは思い出す。そもそも御蔭丸と共存せねばならなかった理由は斬魄刀を弾いたからだ。あの時、御蔭丸は斬魄刀から霊力を補給し、それによって生き永らえていた。

 だがよくよく考えてみれば、斬魄刀は死神の力そのもの。霊力の源は所有者と同じ筈である。斬魄刀と同調し霊力・霊圧が上昇する事はあれど、斬魄刀自体から所有者とは別の霊圧を引き出す事など不可能だ。

 ハリベルは斬魄刀の事などそうは知らない。だが今まで戦って来た死神の中で御蔭丸と同じ事をした者は一人もいなかった。

 ――霊圧の蓄積。確かに強力な能力だ。

 ――だが、霊圧を蓄積するという事は、相応の弱点もある。

 ハリベルがそこに思い至ったと同時に、アルヴァニクスは焔の眼を悍ましく歪ませた。

 

「ヒャヒャ、そこまで理解出来れば弱点を見抜く事も容易い。ええ、御蔭丸――その斬魄刀に残った霊圧はあとどのくらいだ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)?」

「…………」

「ギヘハハハッ! その様子ではさっきと同じ威力の技は出せんようだな!! ヒハッヒハッゲハハハハッ!!!」

 

 沈黙を保つ御蔭丸を闇は軋みを上げて嘲笑う。

 そう、霊圧の蓄積とは攻撃するまでの動作に等しい。上段から斬り込むなら刀を上に振り上げる動作、鬼道を放つなら霊圧を変化させる詠唱、銃を撃つなら弾を込めるまでの時間……天獄は攻撃する為の準備を大幅に跳ね上げる事で、より強い攻撃を可能とする斬魄刀だ。

 それは攻撃するまでの時間が遥かに増大する事と同じである。御蔭丸の霊圧出力を超えた霊圧を解放するならなおさら時間は累積する。

 そして現在の御蔭丸の霊圧上昇率は先の一撃までの上昇率に比べれば見るも無残な有様だ。先の一撃は元から溜め込んでおいた霊圧を放ったのだろう――つまり今の御蔭丸は、同じ技を二度続けては使えない。

 

「貴様は私を殺す為に、己の持つ最高の技を放った筈だ。百年前と同じようにな――それで私を殺せぬなら、他のいかなる術を以てしても私を殺す事など出来ない」

「……だから何だ?」

「ああ、そうだったな! 万策尽きようが骨折れ肉千切れようが刃向かうのが貴様だった!! だがどうする!? 貴様は私を殺せない――私が貴様を殺すだけだ!!!」

「それでも戦うさ。それが俺と云う男だ」

「――――まあ待て」

 

 まだ十分に霊圧が溜めこまれていない天獄を振るおうといた御蔭丸を、闇は嫌らしい嗤いで静止する。

 

「貴様の斬魄刀は本当に素晴らしい。須くに死を(もたら)すこの私に死を予感させる程にはな。その力、今ここで殺すにはあまりに惜しい……故に貴様に機会をやろう」

「……機会、だと?」

「あァ――――貴様、卍解は何時習得出来る(・・・・・・・・・・)?」

「……――――!!」

 

 闇の呟きに御蔭丸は鋭い紅色を見開く。卍解を何時習得出来るか――そんな問いの意図など考えなくても分かる。アルヴァニクスは、卍解を習得した御蔭丸を殺したいと、そう言っているのだ。

 

「さあ、どうなんだ大神御蔭丸!?」

「……卍解は才ある者でも習得に十年の歳月を必要とする」

「十年、十年か!! ギヒャハハハハハハハッ!!!

 十年待つなぞ何の事もあらん!! 我が千年の殺戮に比べればなんと短き歳月よ!!!

 ――――死神・大神御蔭丸!!! 十年後だ、十年後にもう一度貴様を殺しに逝こう!!! それまでその力を磨き、私が殺すに足る者へ成り果てるがいいッ!!! ギャハ、ギハギャハハ、ギハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!!」

 

 それは一方的な死刑宣告。何者にも討ち果たされぬ不死身の怪物は脳髄を灼く嗤い声を残し――霧が晴れるように茫洋と、御蔭丸達の前から消えた。

 残留する黒い色が溶解するまで御蔭丸は気構えを崩さなかったが、闇がそこにいた痕跡が全て消えて、漸く斬魄刀の構えを解く。そして始解を保ったままハリベルに近づき、逆十字をそっと翳した。

 

「!? 何を……!」

「安心して下さい、危害は加えません――――『刃転輪(じんてんりん)()』」

「…………!」

 

 急な行動に身構えるハリベルに優しく微笑んで、御蔭丸は天獄に蓄積した霊圧を解放した。すると溜めこまれた黄金の霊圧はハリベルへと流れ込み、彼女の傷付いた肢体をみるみる癒していく。

 その様子を翠が揺れる瞳で静謐に見つめながら――ハリベルは多くの感情が綯交(ないま)ぜになった声を(かす)かに発した。

 

「…………見逃されたのか、私達は」

「いいえ。正確には僕の力が熟すまで手を出すつもりがないだけです。アルヴァは昔から――僕が滅却師で在った頃から、そうでしたから」

「…………」

 

 ハリベルの問いに御蔭丸はまるで旧知の間柄を紹介するように訂正する。笑みを潜めて荒れた表情で語る男を、彼女は垂れる金の髪を寂しげに揺らしながら見つめて……二人の間に沈黙が降りる。

 男は何も語らない。あの闇色の死との関係も、かつて滅却師であったという事も、何も説明してくれない。(はな)から話す気が無いならまだ救いはある。けれど、もしハリベルだけに話さないという事なら――――……

 沈黙は長く続いた。一種芸術的な彼女の身体を包む暖かな光は傷を癒してくれるのに、ハリベルの心は暗く沈んでいってしまう。恐ろしい――もしそれを聞いてしまったら、また孤独に戻ってしまうようで、恐ろしくて堪らない。

 眉間を辛く寄せるハリベルは躊躇(ためら)い、御蔭丸に治療されるままでいる。そして傷が全て治る寸前で――彼女はやっとの思いで喉を震わせた。

 

「…………一つ、聞いていいか」

「何でしょう?」

「お前とあの化け物の間に……一体何があったんだ?」

「…………」

 

 その瞬間、御蔭丸は笑みを消した。回道を使う為の霊圧も止めて、じっとハリベルの瞳に視線を送る。探るような、それでいて何も写さない空虚な紅をハリベルは受け止めようとしたが……その荒れ果てた瞳の奥を恐れてしまい、つい眼を逸らしてしまう。

 すると御蔭丸も視線を外し、治療を再開した。黙々と治療を続ける彼の表情は無く、やはり聞くべきではなかったとハリベルは苦しげに眼を(つむ)って項垂(うなだ)れる。

 その後御蔭丸は治療を続け、ハリベルの傷が完全に塞がったのを確認してから始解を解いた。巨大な十字架が黄金色の長刀になり、刀身に反射する己の顔に眼を細める。そのまま少し止まって、納刀した御蔭丸は毅然とした態度で言葉を発した。

 

「お答え出来ません」

「……どうしてだっ。私がっ……、……私が、虚だからか?」

「いいえ、違います。僕も貴女も、お互いの事を何も理解していないからです。

 僕の過去を知ろうとする人は、何時だって僕を想ってくれる人です。ですがそんな人を、僕の過去は容易く傷付ける。だから今はお答え出来ません。

 少なくとも――傷付いてでも僕の過去を知りたいと願う、貴女の願いを受け取らない限りは」

「…………そうか」

 

 何か弱気になっているハリベルに、優しく微笑んで見せる。生死を賭けた戦いの後だからか、ハリベルはいつもより感情を表に出していた。だから面影の男には、彼女の恐怖が視線を通して伝わってくる。

 表情は普段と変わりなく怜悧に凛々しくても、吸い込まれそうな翠の光彩はいつもより濡れている。死にかけた恐怖がそのまま孤独に呑まれる恐怖へ移ってしまったのだろう……御蔭丸はそれを和らげようと彼女の手を取り、優しく握りしめた。

 ハリベルはそれに驚いたが――手を放す事はせず、たどたどしく握り返す。そして睫毛を伏せ、顔を流れる金の髪で隠し――御蔭丸の巨きな胸へ、急にその身を預けた。

 

「! ……ハリベル、さん?」

「……なら、構わない。今はお前の過去なんてどうでもいい。

 ――お前は私を、癒してくれるんだろう? だったら……だったら今は、何も言わずに此処に居てくれ」

「…………はい、分かりました」

 

 襟首を掴んで嘆願するように呟く彼女を、御蔭丸は顔色を変えずそっと抱き寄せる。肩に触れる掌と、肌に感じる命の熱。ずっと望んでいて、ずっと諦めていたその暖かさに、孤独の鮫は例えようのない安心を抱いていた。

 ――奇妙な関係だ。

 ――こんな事、赦される筈が無い。

 その一方で、脈打つ心臓の音を聞きながらハリベルは思い――そんな冷静はいらないと言うように、ゆっくりと眼を閉じた。

 

 ――ああ。それでも構わない。

 ――私はもう、独りじゃない。

 ――独りじゃないんだ――

 虚圏に平穏は無い。あるのは殺戮が繰り返される血の海と、灰の浮かぶ地獄だけだ。

 ――けれど、その日。最も死に近い地獄の淵で、二つの存在が寄り添っていた。

 虚と死神。本来ならば相容れない二人は、確かめ合うように互いを抱きしめていた。互いの心を見ぬままに、互いの願いを果たす為に――奇妙な共存は続いていく。




原作より六八四年前の出来事。
書き終わってすぐの投稿なので十分な推敲が行われておりません。特に最後辺りの心理描写などは手直しするかもしれないです。

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