ポケモンがいる時間 -A hand reaching your neighbor star- 作:スイカバー
6.
俺はその後、ロケット団の情報網を駆使し、ミュウツーの行方を追った。本当に信頼のおける部下の何人かだけに、真相を簡単に話した。知り合いの研究者が作ったポケモンが暴走して、どこかに逃げた。それを探してほしい、と。
その間、どこかの街でミュウツーが暴れ出しはしないかと、不安に駆られる毎日だった。暴走したというのだから、一般市民を襲っていてもおかしくはない。しかし、幸いにもそのような事件は報道されなかった。それどころか、単なる目撃例すら皆無だったのだ。
俺は先生の資料に残されていた、ミュウツーの自我機能のことを思い出していた。自我、つまりミュウツーは理性を備えているのか。人々の前に姿を現さないのも、自分で思考して、それが自分にとって利益になると、理性で判断しているからなのか。
だったらなぜ、グレンの屋敷ではあんなに目立つ事故を引き起こしたのか。
理由はわからないまま、時は流れた。
フジ先生の容体は相変わらずだった。体の怪我はもうすっかり治ったが、問題は精神の方だ。一応少しずつ回復はしており、簡単な意思疎通ができるくらいにはなった。それでも夜中にいきなり目を覚まして発狂するなんてことはしょっちゅうだった。あの日の出来事は、いったいどれほどショックな体験だったのか。
フジ先生本人も憐れだが、何より傍に付き添っている奥さんが気の毒でならなかった。奥さんは研究のことを何も知らない。ただ先生と一緒に離れ小島に連れてこられ、ある日主人が変わり果てた姿になってしまったのだ。心中察するに余りある。
事故から一か月ほど経った頃、ロケット団の衛星がようやくミュウツーの姿を補足した。場所はカントー地方とジョウト地方の間をまたぐ、シロガネ山という山の山頂付近だった。シロガネ山は凶暴な野生ポケモンが多数生息することで知られており、一般人は立ち入り禁止されている。そして、山の近くにはセキエイ高原がある。ポケモンリーグのやつらに知られると何かと面倒だ。
俺は抱えていた仕事を部下に任せ、単身シロガネ山に乗り込んだ。一般人は入れない場所だが、俺はジムリーダーのご身分だ。修行がしたいと言って山のゲートで身分証を見せると、すぐに入れてもらえた。
俺は衛星のデータを受信するレーダーを片手に、山を登った。途中、好戦的な野生ポケモンたちに何度も勝負を挑まれたが、俺のポケモンの敵ではなかった。ニドキング、ダグトリオ、サイドンなど、鍛え抜いたポケモンたちに指示を出し、野生ポケモンを退けていった。
三時間ほど歩いただろうか。もうすぐ山頂だ。ほっとして頂上を見上げたそのとき、上から何者かの影が差しているのが見えた。陽の光を背に浴びて顔は良く見えないが、しかしそのシルエットは紛れもなく、試験管の中で何度も見てきた、それだった。
ミュウツーが目の前にいる。
俺はモンスターボールからポケモンたちを出し、即座に臨戦態勢に入った。多分、ミュウツーを倒すことはできないだろう。モンスターボールで捕獲することも不可能だ。やつはあまりにも強すぎる。でも、一瞬でいい。一瞬だけでも隙を作れば、チャンスはある。
フジ先生はこのような事態を想定して、ある薬の研究も進めていた。それは、ミュウツーの自壊機能を誘発させるための薬だった。
なぜそんな機能が必要なのか。もしこの計画が上手く進み、大量のミュウツーを量産してすべてのポケモンを送り返すことに成功したならば、そのとき、新たな問題が発生するからだ。残されたミュウツーたちをどう処理するかという問題が。
ポケモンがいなくなったのはいいが、戦うために生まれた戦闘マシンであるミュウツーがこの世に残っていたのでは、何のための平和かわからない。そのため、すべての仕事が終わった後に、ミュウツーたちには消えてもらう必要があるのだ。
そこでフジ先生が考えていたのが、ミュウツーに自壊機能をプログラムさせておくことだった。あらかじめミュウツーに一定の寿命を設定しておき、その寿命の期間が過ぎると自然に機能停止し、体のパーツがバラバラに壊れるというものだ。
そしてフジ先生は万が一の場合に備え、この自壊機能を強制的に誘発させる効果を持った薬を開発していた。それを飲ませれば、ミュウツーはすぐにでも機能停止するわけだ。ただ今のところ、それはまだ設計段階で、実際に完成品があるわけではなかった。だから先生はあのときミュウツーの暴走を止められなかったのだろう。
しかしその薬の作り方は、屋敷の金庫にあった資料の中に残されていた。俺はその資料を持ち帰り、極秘に調合を進めた。そして今、俺のポケットにはその薬のカプセルが入っている。俺のポケモンたちが一瞬でもやつの動きを止めて、その隙にやつの口の中にカプセルを入れることができれば、ミュウツーの息の根を止められる。
……本当にそれでいいのか? フジ先生ならこんなときどうするだろう。ミュウツーを殺そうとするだろうか。自らの命令を聞かないポケモンだ。下手すれば自分の命も危ない。でも、きっとポケモンを向こうの世界に送り返す機能だけは正常に働いているはずだ。俺たちが望んでいた使命は、果たしてくれるだろう。自分の命と引き換えに、ミュウツーを野放しにし、ポケモンたちを送り返す姿をあの世から眺めるという選択肢もあるにはあった。
いや、それは無理だ。ミュウツー一体では送り返せるポケモンの数などたかが知れている。俺たちの手でミュウツーをもっと量産しなければ、一匹のミュウツーの力など焼け石に水だ。第一、俺はまだ死にたくない。
俺はミュウツーと対峙し、チャンスを窺った。距離は五メートルほど。隙なんてまったくない。それでも、やるしかなかった。こんな生物兵器を生み出してしまった者の責任として、フジ先生に代わってこの手で。
山頂は寒かったが、それでも緊張からか、額に汗が滲み、頬を伝って地面に落ちた。俺がふと下を向くと、次の瞬間、ミュウツーが視界から消えた。
刹那。ミュウツーは俺の後ろに回り込み、左腕を俺の首へと回した。
殺される。俺は目を閉じて覚悟した。こいつは、想像以上の化け物だ。これはこんな化け物を興味本位で作り上げてしまった俺たちへの報いなのか。
諦めかけたそのとき、頭の中を奇妙な感覚が支配した。今までに感じたことがない。それはまるで音を耳ではなく口で噛み締めて食べるような、いや、匂いを目で感じるような。五感のすべてが混ざり合って不協和音を奏でる、そんな不思議な感覚だった。これはこのミュウツーの技なのか?
気が付くと、頭の中にメッセージが浮かんでいた。
それは音でもあり、文字でもあり、また匂いでも味でも触覚でもあるような、どの器官で受信したのかわからない、あらゆる感覚を超越したメッセージだった。体全体でそれを体験したと言ってもいいだろう。そのメッセージを無理矢理言語化してみるなら……、
放っておいてくれ。……いや、邪魔をするな、か? もううんざりだ、だったような気もする。
すると、続けてまたその奇妙な感覚が二度三度襲ってくる。今度はいくらか明確な形で受け取ることができた。
何もしないなら見逃してやる。だがもし邪魔をするなら、最も苦しむ地獄を見せてわからせるしかない。……そんなところだ。
思うに、これはミュウツーの念波が思念の形で届いたものなのだろう。ミュウツーは言語を介さずに、このように思念でメッセージを発信することができる。これはフジ先生の設計図にはなかった能力だ。自我機能の発達によって会得したものなのか。
更にミュウツーは俺の首に腕を回したまま、右手を額に当ててきた。次は五感すべてを使ったメッセージではなく、単なる映像だった。俺の頭の中に、映画のように映像が展開される。
そこにはフジ先生がいた。フジ先生が地面に立っている。俺とミュウツーはそれを空中から見下ろしている。辺りは荒廃しきった灰色一色の世界だった。森は枯れ果て、建物は崩れ落ち、空からは黒い雨が降り注いでいる。モノクロ映画だと言われても違和感のないくらい、色褪せた世界。
そこに、どこからかポケモンたちがやってくる。フジ先生を取り囲むようにして、大勢のポケモンたちが輪になって集まる。その輪は二重にも三重にも織り成される。そしていつの間にか、フジ先生の足元だけを残して、世界はポケモンたちで埋め尽くされてしまった。モノクロの風景が急に色とりどりのポケモンたちに覆われる。
一転。ポケモンたちから色が消えた。鮮やかな色の数々はどこかへと忘れ去られ、世界は再び白と黒と灰色のみによって再構成される。
そして、ポケモンたちが溶け始めた。いつの日だったか、大気に触れて液体化したあの試験体のミュウツーのように、無数のポケモンたちの体が、一斉にドロドロに溶け出したのだ。
そのポケモンたちの姿を見て、フジ先生は耳を塞いでいる。映像を見ているだけの俺には何も感じないが、このドロドロは何か音を発しているのか。それとも……、声か? ポケモンたちが、フジ先生に何かを語りかけているのか?
この荒廃した世界は、恐らくポケモンが元いた世界なのだろう。ポケモンは自分が今住んでいる世界の危機を察知すると、他の世界を探してそこに渡り歩く。だからこの世界は、ポケモンたちがこれ以上住むことができないと見捨てた世界に違いない。ミュウツーの力でポケモンを送り返すと何が起きるのか。それが今見ているこの映像なのか。
溶け出したポケモンたちの肉片は、地面に落ちることなく、重力に逆らってフジ先生の体に吸い寄せられていく。最初はガムがくっつくように、少量ずつだったが、みるみるうちに先生の体はポケモンたちに覆い尽くされ、ついには巨大な球体にまで膨れあがった。無数のポケモンの肉体によって形作られたそれは、まるでひとつの天体だった。
そこから何の変化もなく、球体の中の先生の様子もわからないまま、映像は暗転し、終わった。
何もなくなった暗闇の中で、俺は考える。フジ先生はあの世界でいったい何を感じたのだろう。俺には映像でしか体験できなかったが、あの場にいたフジ先生はすべてを感じられたはずだ。
音、声、匂い、感触。
あのポケモンたちは先生に何か語りかけていたように思える。五感すべてに訴えかけるように。自分たちがこんな絶望の世界に送り返されることへの怨嗟の発露だったのか。
フジ先生が発狂してしまうほどの狂気。間違いなく原因はこれだ。先生もこの世界をミュウツーに体験させられた。恐らく、先生は何十万、何百万というポケモンたちの嘆きを、その精神ですべて直接受け止めたのだろう。
これが、ミュウツーが自我を持ち、自らで判断して行ったことなのか? だとしたら、ミュウツーは何をしようとしている? まさかポケモンたちの気持ちを代弁しようとしているとでもいうのか?
気が付くと、俺は再びシロガネ山の山頂にいた。力が抜けて座り込んでしまっている。
「お前は、これを見せてフジ先生を発狂させたのか?」
俺は息も絶え絶えに、ミュウツーに尋ねた。いつの間にかポケモンたちはモンスターボールに戻っている。ミュウツーはまた思念を飛ばして答えた。何度も受けたためか、この違和感にもだいぶ慣れてきた。
そうだ。あいつにはもっと強烈な形で体験させた。諦めさせるために。
「諦める? 何をだ?」
間違った道へ進むことをだ。
「間違った道? どういうことだ?」
それはお前が一番よくわかっているんじゃないのか。
「俺が?」
お前にもあの男と同じ体験をさせることができた。だが、それをしなかったのは、お前には間接的な方法で充分だと判断したからだ。お前はあの男ほど道を逸れていない。
「なに……」
それ以上、俺は何も答えられなかった。フジ先生が間違っていた? その理由を俺が一番わかっているだと? そんなはずはない。俺はフジ先生の一番の理解者だ。フジ先生の正しさを誰よりもよくわかっているんだ。
ミュウツーは、俺をフジ先生と同じように発狂させようとはしなかった。フジ先生というフィルターを通じて、他の感覚を遮断し、幾重にもクッションを置いた形であの映像を見せた。だからショックこそ受けたが、発狂するまでには至らなかった。俺にはそれで充分だった?
そのとき、俺は無意識にふと腕時計を見て時間を確認した。その動作を見て、ミュウツーがまた思念を送る。
やはりな……。お前はこの世界に生きている。それでいいんだ。それが一番自然な形なんだ。
そのメッセージを受け取って、俺はなんとなくわかった気がした。そうか。やはり俺は変わってしまっていた。もう、俺は昔の俺ではないのだ。
俺は、変わらない人々をこれまで何人も見てきた。
ポケモンの探求への情熱を絶やさないユキナリ。
方法は変わっても、他人に優しさを振りまくことをやめないキクコ。
子供の頃から、片時も復讐の心を忘れなかったツバキ。
そして誰からも認められなくとも、自分の信念を疑わずに、人類のためだと信じて、世界を救うたったひとつの方策に身を捧げ続けたフジ先生。
彼らはずっと変わらずに一途な生き方を貫いてきた。
だが俺は、彼らのように変わらないでいることはできなかった。俺はロケットのように、常に先へ先へと進む人生を送ってきた。これからどこへ行くのかもわからず、今までどこを旅したのかもわからない。すべてが暗闇の中。どこかに星があるかもしれないと手を伸ばすが、見えるのは暗闇ばかり。しかし、むしろそんな暗闇こそが、だんだん心地良いものに思えている自分に気付く。
「ミュウツー」俺は立ち上がって、ミュウツーに話しかけた。
「ここはな、ポケモンリーグの近くなんだ。立ち入り禁止区域ではあるが、それでも優秀なトレーナーたちの出入りは少なくない。俺はな、お前が人に見つかるといろいろとマズいことになるんだ。別にこのままこの世界で暮らしたいならそれでも構わない。だができるなら、もう少し人目につかないような場所に移り住んではくれないだろうか」
俺はできるだけフランクな口調で言った。いかにもビジネスライクに。お得意の取引先と商談を交わすときのように。
ミュウツーは一瞬目を閉じ、そしてうっすらと笑ったように見えた。再び俺に思念を飛ばす。
わかった。それがいいと思う。お前もなかなか話のわかる男だな。
「おたがいにな」そのミュウツーのメッセージを理解すると、俺も思わず口元が緩んだ。
「確か、ハナダシティ、えーとここから北東に百五十キロほど行ったところにある街だがな。そのハナダの郊外に、洞窟があったと思う。割と住みやすそうな綺麗な洞窟だ。ただ、凶暴な野生ポケモンがうじゃうじゃいるんで、誰も近寄らないんだ。あそこならまず見つかる心配はない。野生ポケモンも、お前の力なら問題ないだろ」
ミュウツーは頷いた。それから一分ほど、俺たちはたがいの顔を見つめたまま、その場に立ち尽くした。言葉も思念もない、何のやり取りもない時間だったが、俺たちの間には奇妙な理解と、そして連帯感のようなものが生まれていた。
俺はこの世界に生きている、か……。確かにその通りかもしれない。どうして気付かなかったのだろう。いつから俺は変わってしまっていたのだろう。
俺はもう一度腕時計を見た。部下に残してきた仕事の進捗状況が気になったからだ。
もう、他の世界のことなんてどうでもよくなっていた。
俺はいつの間にか、研究への情熱を失くしていたんだ。
ロケット団の仕事が。このちっぽけな世界の、ちっぽけな社会で行う、ちっぽけなやり取りで、ちっぽけな人々を支配する。そんな日々こそが。何よりも愛おしいと思うようになっていた。
これが、大人になったということなのだろうか。
ミュウツーはおもむろに後ろに翻った。そして足を蹴り出して宙に浮き、北東の方角へと飛び去っていった。
俺はしばらく、その大空を翔ける流れ星のような軌跡を眺めていたかったが、ミュウツーの姿はすぐに見えなくなってしまった。