ポケモンがいる時間 -A hand reaching your neighbor star- 作:スイカバー
5.
ツバキが死ねば、幹部の座が空く。そこに僕が入る。そしてボスが死ねば、組織の後継者は幹部の中から選ばれる。僕も幹部としてその候補に加わることができる。そこにボスの遺言が見つかる。サカキをロケット団の新しいボスにしてやれ、と。組織のシステム、ボスの命令、いずれも僕を後押ししてくれる。そしてボスを殺した敵を討った英雄という充分な理由もあることになる。僕がボスになるだけの御膳立ては既に整っているということだ。
僕の意思に関係なく、外堀は埋まっていく。では僕自身はどうするのか。僕はいったいどうしたいのか。決められない。人を殺すことは、もちろんやらずに済むのなら避けて通りたい。でもこの状況でそんな決断が許されないことも、痛いくらいわかっている。今まで、命令に背いて粛清されてきた同胞たちを、僕は何人も見てきた。何ものにも縛られない無法者の集まる場所ではあるが、しかしだからこその、絶対的な秩序というものもまた存在する。一般社会のそれとは多少異なるかもしれないその秩序は、時に心地良く、そして時に厳しく牙を剥く。僕は今まさに、その毒牙の脅威を身を以て感じていた。
やらなければならない。やらなければ、僕が殺される。
つまりこれは正当防衛だと言える。仕方ないことなのだ。それに、僕がここで生き延びなければ、フジ先生の研究は完成しない。ミュウツーを作ることが叶わなければ、ポケモンの侵略によって、結局人類は滅びてしまうのだ。そうだ。ツバキは、人類の平和のための尊い犠牲なんだ。
もちろん、そんな論理が何の意味も成さないことはよくわかっている。それは僕が殺人という罪の意識から逃れるための、単なる方便に過ぎない。しかしそうでも考えなければ、僕は自分がおかしくなりそうだった。それでも、逃げ出すわけにはいかない。すべてはもう始まっているのだ。
ボスの勅命を受けてから三か月が過ぎた。ツバキはそれまでと変わらず、普通に仕事をこなしている。相変わらず大学にもちょくちょく通っているみたいだし、周りに他の団員がいないときは、よく僕に大学での授業の様子を話してくれた。どんな論文を読んだとか、どの教授の授業が面白かったとか。学問について語るときのツバキは、とても楽しそうだった。僕も何度かついうっかり、タマムシ大学の学生だったことを打ち明けてしまいたい衝動に駆られた。フジ先生の研究のことは秘密にしておくとしても、自分も大学生活を送った経験があることくらいは、話してもいいのではないか。
しかしそのたびにボスの命令を思い出し、なんとかギリギリのところで踏みとどまった。僕はこれからこの男を殺さなければならないのだ。一応体面上は兄弟のような関係になっているが、これ以上打ち解けて、情が移るようなことがあってはいけない。ツバキはどこまで勘付いているだろうか。僕はあまり感情を顔に出す方ではないけれど、しかし何か違和感があることくらいはバレていてもおかしくない。
かつて大学生だったこと、フジ先生の研究のこと、そしてボスの命令のこと。すべてを完全に隠せているとは思えない。だが幸いなことに、ツバキは僕に何も問い詰めてくることはなかった。
それはツバキの方も、後ろめたい隠し事をしているという同じ境遇にあったからかもしれない。自分に何か疚しいことがあるのに、他人を詰問することなんて、なかなかできるものではない。自分の中の秘密が大きくなればなるほど、他人との距離を縮めることは難しくなるものだ。
多分、僕たちはふたり共、自分の腹に一物抱えることによって、無意識に相手の領域に踏み入らないようにしていたのだと思う。そうしないと、これから自分が行うことの罪の重さに耐えきれなくなるから。もし誰かに打ち明けてしまったら、自分の中に隠していた罪の意識を外側から直視しなければならなくなる。そうしたら、決意は鈍らずにはいられないだろう。だからこそ、すべてを閉ざす。僕はこの三か月間、そんなふうに考えながらツバキと接していた。
もちろん、もしかしたらすべてが狂言だったのではないかと考えないでもなかった。つまり、僕とボスの取り越し苦労で、ツバキは叛逆なんて考えていなかった。その可能性だって充分にある。何しろ、根拠はボスの直感だけなのだ。信じる方がどうかしている。しかしボスのあの自信に満ちた表情と、そして万が一本当だったときのショックを想像すると、信じる前提で心構えをしておいた方が良いと思った。
それに、ツバキは確かに怪しい素振りこそ見せなかったが、しかし本当に何も違和感がないかというと、そうでもなかった。最初の方こそ僕をよく呑みに連れていって、そこで大学の話をしてくれていた。しかし命令から五か月が過ぎた頃から、呑みに行く頻度は少しずつ減っていった。一日の任務が終わると、ツバキはすぐに家に帰ってしまう。ボスを殺す準備をしているのだろうか。考え過ぎなのかもしれない。でもツバキがボスを殺すなんて言われてしまったのだから、考えずにはいられなかった。
八か月が過ぎた。
やはりツバキと呑みに行く回数は減っていたが、しかしそれ以外で怪しい点は特になかった。カジノの経営が好調で、僕もツバキもその対処に回るのに忙しい。呑みに行かないのは、単に仕事が大変で疲れているだけなのか。そんなふうにも考えた。
そんなある日。それはツバキと僕がいつものようにカジノの様子を見に行った帰りのこと。ロケット団のタマムシ支部の事務所に戻るところだった。
「そういやサカキ、明日はこの辺のシマの集金の日だったな」歩きながらツバキが言う。
「そうですね。確か十か所ほどあったかと」僕は答える。あまり周りに聞かれては困るので、できるだけ小声で喋った。
「それなんだけどよ、すまねえがお前ひとりに任せてもいいか。明日はちょっと用事があるんだ」
用事、という言葉に僕は反応した。
「いいですけど、何があるんですか?」
「いやなに、幹部会議さ。幹部全員がクチバの本部に集まって、今後の方針について話し合う。ここ最近はなかったんだが、でも今ウチの収益はぐんぐん上がってるだろ。だから金の問題がちょいとややこしくなってきてな。久々に会議を開いて、きちんとその辺をはっきりさせるってこった」
幹部会議……。クチバの本部に行くということは、当然ボスもそこにいるはずだ。そしてボスも会議に参加する。もしかして、ツバキはこの機会を狙っている?
僕は思わず「ボスも来るんですか?」と尋ねたくなったが、しかし明らかに怪しまれるだろうと考えて、躊躇した。あとでボス本人に確認すれば済むことだ。
「どうしたサカキ、ちゃんと聞いてるか?」ツバキが訝しげに僕の顔を覗き見る。
「ええ、はい。聞いてますよ。すみません」僕は慌ててかぶりを振る。だめだ、とりあえず今は何も考えない方がいいだろう。「明日、俺ひとりで集金に行けばいいんですよね。わかりました」
「お前ひとりで大丈夫か? 我が兄弟よ」ツバキは冗談っぽく笑って、僕の肩を小突いた。
「大丈夫ですよ。もう六年近くやってるんですから……」
「そうか、六年か。もうそんなになるんだな。早いもんだ」
ツバキは感慨深そうに空を見上げた。もう陽は沈みかけている。
「本当に、あっという間だったな……」
そう言って、ツバキは口を閉ざしてしまった。
「何ですか急に、そんなしみじみと」間が持たないので、僕はツバキを茶化した。
「いや、お前も一人前になったなあって。俺、嬉しいんだよ。こんな良い部下に恵まれて」ツバキが僕の方を向いて言う。心なしか、声が少し上ずっているように聞こえた。
「やめてくださいよもう。照れくさいじゃないですか。それに俺なんかまだまだですよ、兄貴に比べれば……」
「そりゃあ当たり前だ。あくまで弟分としては一人前、って言ったんだ。俺と比べるなんて十年早い。思い上がるのもいい加減にしろよ、お前。」
しんみりしたムードから一転、ツバキは冗談ぽく笑って僕の頭を叩いた。
それからの帰り道は、再びツバキの大学の話で盛り上がった。その話を聞きながら、僕はある奇妙な感覚に囚われていた。今まで気付かなかったが、このツバキという男は、どことなくユキナリに似ている。最初に会った頃はそんなふうには思わなかった。多分、だんだん似てきているのだ。ツバキは単にユキナリの研究に興味があるだけでなく、ユキナリの人となりにも影響を受けているのかもしれない。
しかし、だからこそ踏ん切りがついた。僕はもうユキナリの傀儡じゃない。ユキナリの呪縛から脱出しなければならない。ツバキを殺すことで、それは今度こそ、僕の中のユキナリとの繋がりを断ち切ることのできる最後の儀式となるだろう。そんな予感が頭をよぎった。
もう迷いはない。僕は明日、ツバキを殺す。
事務所でツバキと別れたときどんな会話をしていたか、アパートに着いた頃にはもう覚えていなかった。多分他愛もない挨拶だったのだろう。そんな意味のない言葉も、もう交わすことはなくなる。すべては、忘却の彼方に……。
しかしその決意は、ひとつのメッセージによって遮られた。明日に備えて床に就こうとしていたまさにそのとき、フジ先生からの電話が鳴ったのだ。
ミュウツーの試作体が完成した。すぐに見に来てほしい。
外は暗く、風が吹きすさんでいたが、僕は着るものもとりあえず、寝間着のまま部屋を飛び出していた。