ポケモンがいる時間 -A hand reaching your neighbor star-   作:スイカバー

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第四章 死が包む静寂
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 殺風景だった研究室とは正反対の、密度の高い空間が目の前に広がっていた。五メートル四方ほどのその部屋に、本は一冊もなく、あるのは計器類や機械の部品ばかり。そして部屋の中央に置かれた大きな容器が異様な威圧感を与えてくる。天井にも届くほど長い、円柱形の透明な容器で、中には薄い紫色の液体が詰まっている。

 

 二回目のゼミの後、僕はフジ先生の自宅にやってきていた。ぜひ一度寄ってほしいと誘われたのだ。見た目はごく普通の一軒家なのだが、しかし地下室があるという点はあまり普通ではないだろう。先生はその地下室を自宅での研究室として使っているようだ。滅多に人を入れることはないそうだが、今回特別に僕を招待してくれた。

 

 正直、この部屋はあの大学の研究室のイメージからはかけ離れていた。何も物がなかった部屋に比べると、ここは物が多すぎる。コンピュータはないようだが、代わりに計算用の製図台や計算機が置かれている。

 

「そういえば先生、先生の研究は計算や図面を使わないと仰っていませんでしたか?」僕は先週のゼミで先生が言っていたことをふと思い出し、尋ねた。「なのにどうしてここに製図台や計算機があるんです?」

 

 フジ先生は顔色ひとつ変えることなく答えた。

 

「すみません、あれは嘘でした」

 

「え?」あまりに正直な回答に、僕は思わず変なところから声を出してしまう。

 

「この研究室のことは、周りには秘密なんです。この研究だけは、誰にも知られるわけにはいかない。世の中の人々全員が、真実に気付くまでは」

 

「真実……、あの論文のことですね」

 

「そう。あなたは私の仮説に賛同してくれました。しかも単なる興味本位というわけではなさそうだ。それなら、あなたにだけは教えてもいいと思ったんです」

 

 僕はフジ先生の論文の内容に大きな衝撃を受けた。これまで自分が築いてきた価値観が一瞬にして崩れ去るような心地がして、眩暈がした。思わず目を覆いたくなるような内容だ。ポケモンが異世界=パラレルワールドからやってきた存在で、僕たちの世界の生き物と居場所を入れ替えて、世界を乗っ取ろうとしているだなんて……。何だこんな馬鹿馬鹿しい妄想、と切り捨てることもできた。しかし、どうしてか僕は信じる気になってしまった。上手く説明できないが、多分これで正しいのだろうという信念をいつの間にか抱いていた。

 

 また、このときフジ先生が図面の件で嘘をついていたとわかったのも、僕には好印象だった。嘘を付ける人間は信用できる。それが一定以上の知性の持ち主であるなら。

 

「それで、先生はここでいったいどんな研究を行っているんですか?」僕は高鳴る鼓動を深呼吸して鎮めながら、恐る恐る聞いた。

 

「先ほども言いましたが、私はここでポケモンを作ろうとしています」そう言ってフジ先生は部屋の中央の容器に手を触れる。「ポケモンの侵略に対抗しうる、最強のエスパーポケモン、ミュウツーを」

 

「最強のエスパーポケモン……、ですか?」

 

 フジ先生は淡々と説明を続ける。

 

「私の論文に書いてあったでしょう。ポケモンはパラレルワールドを移動する際、体から念波を発して空間や物体に影響を与えると。それが我々の存在を脅かす能力であるとするならば、対抗手段はただひとつ、その念波を無効化してしまうことです」

 

「無効化? そんなことができるんですか?」

 

「ポケモンの念波と正反対の波長をぶつけることができれば、可能です。ふたつの念波は相殺され、作用しなくなる。それどころか、反対側の念波の出力が勝れば、反対の効果を引き起こすことすらできるのです」

 

「反対って、まさか……」僕はフジ先生の言わんとしていることが何となく読めた。

 

「そう、この世界のポケモンをパラレルワールドに送り返し、逆にパラレルワールドに行ってしまった既存生物をこちらに呼び戻すことが可能なのです」

 

「呼び戻す……。つまり、世界が元に戻るということですか?」

 

 声の震えが止まらない。何ということを考えているんだ、この男は。

 

「そうなりますね。侵略者によって勝手に塗り替えられてしまった世界は、いずれ元の形に戻さなければならない。これはそのための計画、そのための研究なのです」

 

 足の力が抜け、僕は思わず床に座り込んでしまった。

 

「本当にそんなことができるんですか? 先生の理論自体は正しいと思いますが、それでもそれを実際にどうやって実践するのか、僕には想像もできない」あまり舌が回っていなかったが、なるべく冷静さを装いながら僕は聞く。

 

「例えば、正反対の念波を作り出すという点。ポケモンの念波は確かに他の生物にはない独特の波長のものですが、それでも種族や個体によって微妙に性質が違いますし、それらすべてに適用するような念波を作るなんて……」

 

「いい質問です。君はやはり私の助手になるに相応しい」フジ先生の表情が和らいだ。初めてこの人の人間らしい顔を見た気がする。「ここまで私の説明を理解してくれていたとは、実に嬉しく思います」

 

「いえ、そんな……」そう言いつつも僕もまんざらでもなかった。褒められるのは素直に嬉しい。

 

「あなたは、ミュウというポケモンをご存知ですか?」不意にフジ先生が質問を投げかける。

 

「ミュウ? いえ、知りません」聞いたことのないポケモンだった。「あ、でもさっきミュウツーって言ってましたよね。あれと何か関係が?」

 

 フジ先生は頷きながら答える。

 

「そうです。ミュウツーは、ミュウというポケモンをベースにして作り出すポケモンなのです」

 

 そこからのフジ先生の説明を簡単にまとめるとこうなる。

 

 ミュウというポケモンは、すべてのポケモンの祖先にあたると言われる幻のポケモンである。南アメリカでごくわずかな発見例があるのみで、実際に捕まえた者は誰もいない。そもそも本当に存在するかどうかも定かではないらしい。

 

 しかし、すべてのポケモンの祖先というだけあって、今現存するポケモンはどれも、多かれ少なかれミュウの形質を受け継いでいる。それはミュウの遺伝子だったり、ミュウの念波の波長だったり。すべての道はミュウに通ずとでも言うのか。つまり、ミュウの念波と正反対の性質を持つ念波を作れば、それは必然的にすべてのポケモンに対応できる念波になるはずなのだ。

 

 加えて、ミュウはエスパータイプのポケモンという説が有力らしい。エスパータイプは全タイプの中でも極めて強力な念波を発することができる。このミュウの特徴を直接受け継いだポケモンを作れば、それもまたエスパータイプになるであろうし、それによってより効率的に念波を拡散することが可能となる。

 

 ミュウと正反対の念波の性質を持ち、そしてミュウ以上に強力な念波拡散能力を持ったポケモンを作り出す。それがフジ先生の研究の最終計画である、第二のミュウ、”ミュウツー”というポケモンの創造理念だった。

 

「そして今、私の手元にはミュウのまつ毛があります」

 

 そう言ってフジ先生は棚の引き出しを開け、小さなケースを取り出した。その透明な蓋の向こうには、細く短い毛のようなものが見える。

 

「極秘のルートで奇跡的に手に入れたものです。ミュウツーを作る以上、まずは何よりもミュウの遺伝子情報がなければならない。一昔前ならまつ毛一本じゃ何もわからなかったかもしれませんが、遺伝子工学が発達した現代では充分すぎるくらいです」

 

 僕はもう何も言葉が出なかった。ただただ、フジ先生の話を聞くばかりだった。新しい発見の連続。抑えきれない興奮。既に恐怖はなかった。

 

 彼の研究に協力することが、この世界を救う筋道となる。ポケモンの侵略から、自分たち人類を助けることができる。そのためならなんだってできる。若さゆえの盲目だったのだろう。このときの僕は、もうそんな自分しか見えていなかった。熱に浮かされていたとしか思えない。

 

 それからはフジ先生と今後の課題について、時間を忘れてひたすら語り合った。人工のポケモンを作り出すための理論の洗練、それを成功させるために必要な物資や日数、そして完成したあとの運用などなど、話すべきことはいくらでもあった。

 

 特に現状、最も切実な問題は、やはりというか、お金だった。この自宅の研究所には様々な機材が所狭しと並べられているが、フジ先生の見込みによるとこれでもまだまだ足りないらしい。少なくとも今ここにある倍の設備が不可欠とのこと。そうなるとこの地下室を拡張するための改修工事も行わなければならない。相当な金額が必要になる。フジ先生は既に今、大学からの給料を、生活費を除いてほぼすべてこの研究に当てている状態で、さらにいくらか借金も抱えているらしい。それほどまでに本気なのだ。

 

 そして、僕にもできる限りの資金援助をしてほしいと頭を下げてきた。もちろん僕は学生で、アルバイトもしていないので、収入と言えるものはない。しかし、この大学の学費のために積み立ててきたポケモンバトル大会の賞金がいくらかある。四年間の学費をすべて払っても、まだ少し残る見込みだ。とりあえずそれを先生に渡すことを約束した。そしてこれからも何らかのお金が手に入れば、可能な範囲で研究費の足しにしたいとも申し出た。それだけの価値があると思ったからだ。フジ先生は努めて冷静な口調で礼を述べたが、眼鏡の奥は何も見えないくらい曇っていた。

 

 それにしてもこんなこと、一週間前の僕なら絶対に断っていただろう。研究のために学生からお金を借りる先生なんて、怪しいと思うのが普通だ。しかし、僕はもうそんな疑いを持とうという考えすら既に捨てていた。いつの間にか目の前の研究者に全幅の信頼を置いていたのだ。少なくともフジ先生が僕を詐欺で引っかけようだなんて考えているとは思えない。それならこんな回りくどいやり方はしないはずだ。

 

 夕方頃にお邪魔したはずなのに、気が付いたらもう日付が変わろうとしていた。もちろん食事も取っていない。最近こんな生活ばかりだ。

 

「すみません先生。明日も授業があるので……」

 

 盛り上がっていたところだったが、さすがに次の日の授業に支障を来すわけにはいかないので、この辺でお暇することにした。

 

「ああ、もうこんな時間ですか。遅くまで引き留めて申し訳ない。ですが、お腹も空いているでしょう。妻に何か作らせますので、帰る前に少し食べていってください」

 

 フジ先生は、寝る直前だった奥さんに夜食を作らせ、それを庭先の縁側に持ってきた。僕とフジ先生は縁側に座り、夜食のおにぎりを頬張る。フジ先生は何やらぶつぶつ独り言を呟いている。先ほどの議論をまとめているようだ。

 

 僕はふと夜空を眺めた。今日は雲が出ていないから、星が良く見える。月は満月だ。

 

 月か……。ふと子供の頃、お月見山でユキナリやナナカマドさんたちと見た夜空を思い出す。そういえばあれ以来、月をまともに見たことなんてあったかな……。ずっと勉強漬けだったから、空を見上げることすら忘れていた。

 

 僕は無意識のうちに、月に向かって手を伸ばしていた。懐かしい感覚が蘇る。

 

 地球と月。星と星。

 

 そのままでは、手を伸ばしたって届きっこないくらい、遠い遠い彼方。

 

 でも、届かないのは、ひとつの星の中に囚われているから。星の表面に立っているうちは、どこに手を伸ばしても、虚空を掴むしかない。

 

 だけど、星から一歩外に踏み出せば。ロケットに乗って宇宙へと飛び立てば。他の星に辿り着けるかもしれない。

 

 僕は、ロケットになりたかった。

 

 ……そこまで考えて、僕ははっと気づいた。どうして僕はフジ先生の論文を信じる気になったのか、ようやくわかったのだ。簡単なことじゃないか。

 

 先生の論文の中では、僕とポケモンは同じだったんだ。

 

 ポケモンもまた、ロケットになって、他の星々に手を伸ばしたかっただけなのだ。


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