ポケモンがいる時間 -A hand reaching your neighbor star-   作:スイカバー

12 / 35
3

3.

 それは今までの人生で最も長い一週間だった。

 

 本格的な学術論文を読むのは初めてのことだったが、フジ先生から渡された論文は短いものだったので、数時間で読み終わった。しかし読み終わったあとの余韻というのか、その内容を咀嚼するための時間が、僕には何倍も必要だった。朝、アパートの部屋で読み始め、お昼前には読み終わったのだが、その後もその論文の文章の波が僕の頭の中をぐるぐると回り続け、気が付いたら日が暮れていた。食事を取ることも忘れていたのだ。

 

 その夜は眠れなかった。論文を繰り返し何度も何度も読み返した。もしここに書かれていることが事実だとしたら、この世界というものの認識が大きく書き換えられることは必至だろう。

 

 自分の足元が揺らぐ。所与の、当たり前だと思っていた基盤が、音を立てて崩れ落ちてしまいそうな予感。興奮と恐怖がないまぜになって、心拍音を何倍にも増幅させる。その音を体全体で感じるたびに、僕の意識は眠りへの拒絶を主張するように覚めていく。毛布で体をくるんでも、震えが止まらなかった。結局その日、僕は一睡もできないまま、暗い部屋の中で朝日を拝むことになった。

 

 その論文は、にわかに信じがたい事実が記されていた。僕はそれをまずは自分の手で検証してみなければならないと感じた。しかし学部二年生の僕に考えられることなんてたかが知れている。まずは大学の図書館に行き、過去の論文から、この論文の内容に言及しているものを探すことにした。他の研究者たちがこの論文にどんな反応を示しているのか知るためだ。データベース端末で検索できるので、そんなに手間はかからない。

 

 フジ先生のその論文は二年ほど前に発表されたもので、幸い今のところ、ヒット数はそれほど多くなかった。しかしその少ないヒット数は、直接的であれ間接的であれ、そのすべてがフジ先生の論文に対して否定的な見解を示すものだった。つまり、フジ先生の論文は、誰からの支持も得られず、「間違っている」という反論しか返ってこなかったということだ。

 

 本来ならここでほっとするべきところだろう。恐るべき内容が記された論文が、多くの研究者によって「それは間違いだ」と保証されたのだ。もしフジ先生の仮説が当たっていれば、僕はこれから先、自分のポケモンの顔すらまともに見られなくなったことだろう。間違いで良かった、そう思うべきだった。

 

 それなのに、僕の頭の中のもやは晴れなかった。なぜか拭うことのできない違和感が僕の思考を支配していた。

 

 本当に間違いなのか? フジ先生の言っていることは、本当にただの絵空事なのか?

 

 僕はフジ先生に会った。短い時間だったけど、実際に会って話をした。それに引き換え、フジ先生の論文を批判しているこの研究者たちは、今まで名前を見たこともなかったし、もちろん顔すら知らない。それは別に彼らが無名だからではなく単に僕が無知なだけなのだが、しかしどちらを信じるかと言われたら、僕はフジ先生を信じるしかなかった。

 

 もしこの論文の内容が本当に荒唐無稽であったのなら、僕はやはり多数派の研究者たちの意見に従って、信じることをやめていただろう。なのに結局フジ先生を信じることにしたのは、多分初めてこの論文を読んだときに、お腹の底から納得してしまうようなある種の真実味を、肌に刻み込むがごとく感じてしまったためだろう。論理を超えた次元に厳然たる真実が存在するのだと、なぜか、いつの間にか、僕は確信を抱いてしまっていた。

 

 非常に奇妙な思考であったのだが、このときの僕は、この論文が反論まみれになっているという事実それ自体が、逆にこの論文が真実であることを証明しているかのような、そんな逆説的な感覚に支配されていた。

 

 まずはとにかく、ユキナリの意見が聞きたかった。確信を抱いたはいいけど、本当にこの確信が正しいものなのか、この頃の未熟な僕はまだ判断ができないでいた。やはり僕はユキナリがいないと何もできなかったのだ。アパートに帰ってすぐにユキナリに電話したが、ユキナリはあいにく出張で研究所を留守にしていた。研究所の職員は誰も連絡先を知らないという。

 

 今にして思えば、このときユキナリと連絡が取れていれば、僕のこの後の人生はあんなにも変わらずに済んだのかもしれない。それまでにも、そしてこれからも人生の分岐点は常にいくつもあったけれど、後になって一番大きな分かれ道はここだったのだろうと、時々思い返す。

 

 何にせよ、このときはユキナリに相談することができなかった。僕は僕だけの力でこの論文の内容を吟味・判断しなければならなかった。キクコや大学の友人に頼ることは、なぜか考えなかった。ユキナリがいないなら、僕ひとりの力でやらなければならないと、そんなふうに考えていた。

 

 ユキナリは、フジ先生を師事するのはやめておけと言っていた。ユキナリはフジ先生のことをどれくらい知っているんだろう。ユキナリもこの論文を読んだのだろうか。それとも学生時代に、授業中のフジ先生のあの表面的な態度だけで、そう判断したのだろうか。わからない。

 

 それからの数日間は、図書館でユキナリの書いた論文を読むことにした。ユキナリと話せないなら、せめて少しでもユキナリの思考に触れてみたい。直接フジ先生の論文に言及しているものはなかったけれど、それでも考えるための何かのヒントになるかもしれないと思ったからだ。

 

 恥ずかしいことだけど、今まであんなに散々ユキナリユキナリ言っていたくせに、ユキナリの論文を読むのは実はこのときが初めてだった。何となく、今まで身近な存在だったユキナリが、論文越しだと遠い存在に思えてしまう、という違和感みたいなものがあって、それが論文に触れることを敬遠させていたのかもしれない。単に僕がそんなに真面目な学生じゃなかったというのもあるけれど。

 

 ユキナリの論文は何本もあったが、数日かけて一通り読み終わった。とても面白かった。内容はもちろんのこと、あのいつも飄々としているユキナリが、こんなにも深く鋭い洞察を以て世の中を見ていたのか、という点でも驚かされた。

 

 しかし、それがむしろ逆に仇となったのかもしれない。僕が知っている普段のユキナリと、論文の中のユキナリはギャップがありすぎた。論文の中のユキナリは、僕にとっては、フジ先生の論文に反論していた顔も知らない研究者たちと、さほど変わらない存在にしかならなかったのだ。

 

 それに比べると、フジ先生の場合は、本人と論文の中の人格が相当程度に一致しているように感じられた。本当ならそんなことは関係なく、論文の内容そのもので判断するのが研究者としての基本なのだろうが、この頃の僕にはそんな合理的な思考は持ち得なかった。

 

 要するに、ユキナリの論文は、僕の、フジ先生の論文に対する確信を揺るがせるものは何ひとつなかったということだ。

 

 もしも読む順番が逆だったら。先にユキナリの論文を読んでいれば。初めての論文がフジ先生のものでなかったなら。また違う結果になったのだろう。しかし既に体験してしまった過去は変えられない。最初に触れたものというのは、往々にして必要以上に大きな印象を記憶に刻み込む。僕はもう、逃れられなかった。

 

 図書館でユキナリの論文を読んだ日の帰り、僕は夕暮れ時の道を踏みしめながら、家路を歩いた。途中、本屋に寄って動物図鑑を立ち読みした。できるだけ誰も手に取らないような、古そうな図鑑を選んだ。何ページかめくって流し読みする。次に、魚屋に行き、売っている魚をひとつずつ指さして確認した。

 

 やはりそうか……。こんなことに今まで気付かなかったなんて。しかし、そういうことだったのだ。確信がより一層深まっていく。

 

 その後、公園があったので少し立ち寄り、ブランコに腰掛けた。もう夕食の時間帯なので、周りには誰もいない。僕は背中に担いでいたリュックサックを下ろし、中からモンスターボールを取り出した。ポケモントレーナーだった頃、パートナーとして一緒に旅したポケモンたちだ。

 

 ニドキング、スピアー、ペルシアン、ダグトリオ、他にも何体か。トレーナーをやめてからはバトルをすることはなくなったが、時々ボールの外に出して遊ばせてやることにしている。ボールの中はポケモンにとって快適な空間らしいので、無理に外に出す必要はない。単に僕がたまにポケモンたちの顔を見て、忘れないようにするため。つまり僕自身の都合でしかない。

 

 僕はモンスターボールを手に取り、じっと眺めた。モンスターボールの外側からポケモンの様子を知ることはできない。僕はニドキングたちの姿を頭の中で想像する。しかしその輪郭がはっきりと定まることなく、急に頭をよぎったフジ先生の論文の一節が、輪郭をかき消した。

 

 ポケモンは一刻も早くこの世から排除しなければならない、我々の敵なのだ。

 

「ニドキング、みんな……。お前たちは、本当に、僕ら人間を……」

 

 気が付くと手が汗で滲んでいた。足は震え、心臓の鼓動がテンポを増している。僕は恐る恐るボールを開き、ニドキングを外に出した。ニドキングは両腕を左右に開いて雄叫びを上げ、僕の方を一瞥する。

 

 ニドキングの姿は、多分今までと変わらず、いつも通りだったのだろう。しかし夕焼けに照らし出されて後ろに何倍も大きく尾を引いた影法師、そして遥か遠くの沈みゆく太陽を見つめ、真っ赤に染まったその瞳、それらが視界に焼き付いた瞬間、僕はもうそれを今までと同じニドキングとは認識できなくなっていた。ニドキングと僕が同じ世界に存在する同じ生き物だとは、到底思えなくなっていた。

 

 またしばらく眠れない夜を過ごし、一週間後、僕は再びフジ先生の研究室を訪れた。

 

「非常に深い感銘を受けました。ぜひ、先生のお手伝いをさせてください」

 

「ほう、見どころがあるとは思っていましたが、これほどとは……。実に良い目をしていますね」

 

「それで、いったい何をすればいいんですか。この世界を、救うためには」

 

「わかりました。これはまだ誰にも話していない極秘事項なのですが、あなたにだけは教えましょう。最強の人工ポケモン、ミュウツーを作り出す方法を」

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。