そんな結末認めない。   作:にいるあらと

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その覚悟を、俺はようやく理解した

「はぁ、なんでこんな無茶をしたんだ。こんの……バカ!」

 

「一歩間違えれば怪我では済まない所だった。……わかっているのか?」

 

「だってっ……だって、二人が恐い顔して喧嘩してるのに……私のせいなのに、黙って見てるなんてできなかったんだもん……」

 

 (まぶた)を赤く腫らしながら、忍は普段のキャラにそぐわない口調で釈明する。瞳はまだ潤んでいた。

 

 忍は俺と恭也の仲裁に入った位置から動かず、そのままへたりと座り込んでいる。動かないのではなく、腰が抜けて動けないらしかった。

 

 恭也はまだ本調子に戻らない忍に寄り添っている。制服は所々破けているし、端正だった顔は見る影もないほど痣ができているが、それでも笑顔が浮かんでいた。

 

 俺と恭也に糾弾された忍はまた口元をへの字にして声を震わせる。枯れることを知らない忍の涙を拭うために、恭也はハンカチを取り出して忍へ手渡した。

 俺はその光景を、根元近くからへし折って倒してしまった木に腰掛けながら眺める。

本当に良かったと、忍に怪我をさせずに済んで本当に良かったと心の底から安堵しながら、俺は放心気味に二人を見ていた。

 

 

 忍が戦闘を停止させるために俺と恭也の射線上へと躍り出た時、俺たちは渾身の力を籠めた拳撃を自力で止めることはできなかった。恭也も俺と同じく、運動命令を撤回することはできなかったようだ。

 

 そんな状態にありながら、忍を傷つけずに済んだのは無我の境地故の産物だった。

 

 忍に手が触れる寸前、俺と恭也の意識はただ一つの目的の下、ほぼ完全にシンクロした。目の前の女に、大事な存在に傷をつけたくないという一心から、本能が思考を凌駕したのだ。

 

 自分の力で止められないのなら、自分以外に止めてもらう。

 

 俺は忍へと向かっていた恭也の拳を左手で受け止め、恭也は俺の右拳を掴んで食い止めた。

 

 走り込んで加速がついた身体を後ろに引き戻すことはできない。それなら逆に、もう一歩踏み込んで互いの攻撃を止めてしまえばいい。そんな理屈だった。

 

 その考えに行き着いたのは、既に行動を終わらせた後のことだったが。

 

 忍を挟んで恭也の手を捕まえたので、ぱっと見では忍が俺と恭也に抱き締められているような格好になった。それくらい近い距離にいた。

 

 呆然とした状態から復帰した忍は俺と恭也の首に腕を回して引き寄せると、いきなりその場にしゃがみ込んだ。予想外のことが続いて脳の処理が追いついていないところで忍に(もた)れかかられたので、バランスを崩して俺と恭也は地面に倒れ込む。

 

 地面に仰向けになって木の葉の屋根を見遣りながらどうしたもんかと考えていると、首に手を回したままの忍が、それはもう気持ちいいくらいにわんわんと、まるで小さな子どものように泣き出した。忍の泣き顔を見るなんて、それこそ初めて出会った日以来のことだったので大変戸惑った。

 

 隣を見ると恭也もどうすればいいか測りかねている様子だった。

 

 ついさっきまで殴り合いをしていたのに、いつの間にか中断させられ、終いには忍に泣きつかれている。そんな突拍子もない想像外の事態が起きてしまって、なんだかもうどうだっていい気分になってしまった。

 

 俺と恭也は顔を見合わせて、思わず笑った。何の為に何をしていたのかさえ、頭から抜け落ちていた。

 

 俺はしゃくり上げながら涙を流す忍の背中をさすり、恭也は優しく紫色の髪を撫でる。それは忍が泣き終わるまで続けられた。

 

 結局、此度(こたび)の再戦も、勝敗は決しないまま流れた。きっと俺と恭也の勝負は決まらない定めにあるのだろう。

 

 あの日も今日も、俺と恭也が喧嘩する理由は忍で、その喧嘩を止めるのも忍だった。

 

 

 忍がひとまず泣き止んで倒れ込んでいた状態から身体を起こしたことで、俺と恭也も仰向けから座位に移行した。泣き止んでもなおぐずる忍の対処は恭也に任せ、俺は大木をベンチ代わりにしていたのだった。

 

「ていうか忍、お前どうやってここまで来たんだよ。教室にいなかっただろ」

 

 恭也にハンカチを借りて涙を拭っていた忍へと、俺はワイルドな丸太のベンチから立ち上がって歩み寄る。へたり込んでいる忍と目線を合わせるように、俺も地面に腰を下ろした。

 

「綾ちゃんがね、教えに来てくれたの。徹と恭也が喧嘩してるって、止めに行ってって」

 

 涙は止まり始めていたがまだ落ち着いていないのか、忍はしゃくり上げながら答えた。

 

 なにやらちょっと幼い感じの受け答えになっているのが不安の種である。トラウマにならなければいいけれど。

 

「よく先生たちより早く来れたな。てっきり先生が近づいてきたものだと思っていたのだが」

 

 あやすように忍の頭を撫でながら、優しい声音で恭也が尋ねた。

 

「真希ちゃんや薫ちゃんが先生たちの足止めしてくれてるって、綾ちゃんが言ってた」

 

 忍は目を潤ませながら上目遣いで、恭也を見つめながら答えた。常と異なる忍のか弱い雰囲気に、恭也は生唾を呑み込んだ。

 

 地面は抉れ、緑色の木の葉が大量に落ち、挙げ句の果てに木が倒れているこの場の状態において恭也の考えていることは緊張感がないように思えるが、いかんせん、俺は恭也を責めることはできない。俺も忍の姿を見て心臓がどくんと跳ねたからだ。

 

 泣き顔を見られないようにしているのか、忍は心なし顔を伏せているので数本、長く綺麗な髪が顔にかかっていた。赤くなった目元に、鼻と口元を隠す仕草。女の子座りで葉っぱのカーペットに座りこんで、幼気に、甘えるような声で話す忍は、どんな男の目にも魅力的に、ともすれば蠱惑的に映るだろう。

 

 身体の中心に血が集まるような感覚がした。恭也がいなければ俺はとち狂った事を仕出かしていたかもしれない。

 

 恭也が俺へと目線を向けた。そして大きく深呼吸をする。どうやら恭也も俺と似たような衝動を感じたらしかった。

 

「これ、徹が持ってたものなんでしょ……?」

 

 『これ』と言いながら忍が取り出したのはくしゃくしゃになった皺だらけの紙。否、一枚の写真。俺がエントランスで男子生徒から強引に渡された茶封筒。その中に封入されていた数枚の写真の内の一つが今、忍の手にあった。

 

 何故それを忍が持っているのかと動揺しつつポケットを探ると、一枚なくなっていた。

 

「二人が窓から飛び降りる時、徹のポケットから落ちてたのを真希ちゃんが拾っててくれたらしいの。それで真希ちゃんが綾ちゃんに渡して私に……」

 

 長谷部は(その場には太刀峰もいたが)俺の家に泊まったことがあり、姉ちゃんと顔を合わせている。恭也と一緒に写真に写っている人間が誰なのかわかっていたのだ。そして教室で、俺と恭也との言い争いも耳にしていた。元凶がこの写真であると見当をつけたのだろう。

 

 そして忍に届けるために鷹島さんへと経由した。鷹島さんでは教師たちの足止めは出来そうにないだろうから、その役目の割り振りは正しい判断だ。

 

「言わないようにと、頼まれたんだがな……」

 

 忍が出した写真を見て、恭也が口を開いた。

 

 喋らないまま、事態を終息させることはできないと察したのだ。

 

「……真守さんは、徹にプレゼントを買いたかったらしい。そのプレゼントを選ぶのに、俺の意見を取り入れたかったのだと、そう言っていた」

 

「は……は? プレゼント? じゃあなんで……あんな如何(いかが)わしい場所にいたんだよ」

 

「徹、最近ネックレスを身につけるようになっただろう? それでアクセサリーの類に興味を持ちだしたのかと思って、真守さんに勧めたんだ。そしたら大通りから奥まったところに専門店があるらしい、というのを真守さんが思い出したようでな。真守さんに引っ張られるまま入っていったんだ。俺も怪しげな路地に足を踏み入れるのは気が進まなかったのだが……」

 

「専門店……?」

 

「うん、私も聞いたことあるわ。品揃えもいいしセンスもいいけど、ただそのお店、立地が悪いかつ怪しげだし、分かりづらいところにあるから行き辛いって。翠屋に来てたお客さんがそんなこと言ってた」

 

「プレゼント……プレゼントだってのか。そんな理由かよ……」

 

「そんな理由とはなんだ。俺は真守さんから言いつけられていたんだぞ。サプライズで渡して驚かせたいから絶対に教えないように、とな。満面の笑みでそう約束を強制させられたというのに……約束を破ったらこねくり回すとまで言われたというのに……はあ」

 

 顔に影を差しながら、恭也は肩を落とした。

 

 俺は恭也から発せられた文章を脳内で整理して、いつの間にか開いていた口を閉じた。

 

 どんな約束であれ、口約束であれ、交わしたのなら恭也は言い触らすようなことをしない。律儀で生真面目で、頑固で愚直な恭也の性格は理解している。

 

 しかし、なぜこんなことになるまで口を開こうとしなかったのか。

 

 拳と敵意を向けあってぼろぼろになるまで……いや、仮に喧嘩をした後でも恭也は教えようとはしなかっただろう。忍がいたからこそ、やっと喋る気になったのだ。

 

 なんであれ、なぜこうまで(かたく)なに口を(つぐ)んでいたのか、俺にはわからなかった。教室の時点で事情を説明してくれていれば、ここまで深刻なものにはなっていなかったはずだ。もしかしたら喧嘩にまで状況が悪化することもなかったかもしれない。少なくとも、俺の背後の大木は倒れることはなかった。

 

「真守さんは、最近の徹は様子がおかしいことに、その変化に気づいていた。何かに追われるように焦っていると、そう言っていた。さすがは徹の姉だ。溢れんばかりに愛情を注いでいる弟の異変に、姉である真守さんが気づかないわけないのだろう」

 

 恭也は頭上を見上げながら、姉ちゃんと会った日のことを思い出すように言葉を紡いでいく。

 

 俺も、忍も、それを黙って聞いていた。

 

「焦ってばかりでは大事なものを見失うから、足を止めて落ち着いて、周りを見て欲しい、と真守さんは笑顔で俺に言ったんだ。その為にサプライズプレゼントを用意したいと……言っていたのにな。ああ……全部話してしまった」

 

 恭也は俺に、怒られる時は徹のせいにするからな、と苦笑いを向けた。約束を破ってしまったと言いながらも憑き物が落ちたように、どこかすっきりしたような表情だった。

 

 俺の勘違い、だったのだろう。誰が撮影したのかもわからない写真を見せられて猜疑心を植えつけられ、姉ちゃんとの約束を守ろうとしていた恭也の口振りを悪い方に捉えてしまった。

 

 それでも、俺の知らない隠し事は、やはりある。姉ちゃんに関係していなくても、それでも俺に内緒にしていることは確実にあるのだ。

 

 しかしその秘事は、決して俺を蔑ろにするようなものではない。今はまだ明かすことができないだけ、諸々の都合が合わないだけなのだ。

 

 俺に損があるようなものであれば、恭也はすぐに伝えてくれる。

 

 今回の件は、恭也を、親友を信じ切れなかった俺の責任だ。誠実なる人格者である恭也が、忍と姉ちゃんの二人に手を出すなんてするわけがないのに、それこそ全幅の信頼を寄せていたはずなのに、信じ切れなかった。俺の心の弱さが、今日の騒動を引き起こしたのだ。

 

「次は俺の番でいいか?」

 

 そう言うと恭也は胸ポケットから一葉の写真を取り出し、俺と忍に見せた。

 

「これって……」

 

「あの喫茶店でウェイトレスにしてやられた時の、あの写真だな」

 

 恭也が持つ写真に写っていたのは、オールドウッド柄の壁と大層な装飾が施された額縁。その装飾過多な額縁の中には、俺と忍が顔を近づけている写真が引き伸ばされた状態で嵌め込まれていた。

 

 カップルならば割引があるとの誘い文句にほいほい乗せられて、抵抗する間もなく退路を断たれてしょうがなく撮らされた、あの写真が写っていた。

 

 俺と忍が確認し終わると、恭也は写真をくるりと反転させる。写真の裏側を見せた。

 

「裏にはアドレスが書かれている。そのアドレスは喫茶店『What』のホームページのものだった。そのサイトにも画像が貼られていてな、そこの説明文に『本店はカップル様には割引を〜』などといった文句が書かれていた」

 

 あの得体の知れない奇々怪々なウェイトレスがどでかいカメラを持って撮影などと口走った時点でうっすらと嫌な予感はしていたが、まさかここまで大仰にするとは思わなかった。想定して然るべきだったというのに。

 

 あの珍妙なウェイトレスに、まさか二度もしてやられることになるなんて悔しい限りだ。

 

「この写真が二〜三日前に下駄箱に入れられていたんだ。写真のことがあったせいで、心の何処かで徹に対する不信感が芽生えていたのかもしれない」

 

「これは買出しの後、徹と喫茶店に寄ってお会計の時に撮らされた写真ね」

 

「カップルなら割引しますっていう謳い文句に引っかかって、恋人の振りをした俺たちが悪いんだけどな……。キスしてるように見えるけど、顔を近づけているだけだからな。俺の頭で隠しているだけだ。当たり前だが、口はつけていないぞ。そのくらいの配慮はできるつもりだからな」

 

「そんなことだろうとは思っていた……いや、冷静になってやっとそう思えたんだ。やっぱり徹を信じきれていなかった。俺が悪かったんだ」

 

 自嘲するように、恭也は乾いた笑いを浮かべた。

 

 恭也も俺と同じだったのだ。心にゆとりがなくなり、冷静さを欠いたところで俺と話をして、まともな返答を貰えず、そして誤解を深めた。心底から信じていれば決意が揺れることはなかったのに、と自責の念に駆られ、疑惑の目を向けたことを後悔している。俺と同じだった。

 

 俺と恭也の性格は相反するところが多い、それは事実だ。だが、似通ったところもまた、同じくらいにある。

 

 だから出会った初日くらいしか喧嘩せずにこれまで来れたし、親友と呼べるまでに仲良くなれた。

 

 共通する価値観があったからこそ、俺と恭也はここまで親しくなったのだ。

 

 馬鹿みたいだ、なにやってたんだ俺たちは。すれ違いもいいところだ。最初から根っこの部分はなにも変わっちゃいなかったってのに。

 

「くっ……はは、馬鹿みてぇだな、ほんと」

 

「な、なんなの、徹。どうしたの?」

 

「馬鹿とはなんだ。いきなり笑って気持ち悪いぞ、頭を打ち過ぎてパーになったのか」

 

 急に笑い出した俺を、忍と恭也は怪訝そうな目で見てくる。

 

 馬鹿という言い草が癪に障ったのか、恭也の言葉はいつもより棘があった。

 

 しかし、それでも笑いを止められなかった。あまりの成長のなさに、呆れを通り越して可笑しさが前に出てしまっていたのだ。

 

「あの日から、なにも変わってねぇじゃんか。年取って身体は大きくなっても、変わらないもんなんだな」

 

「変わらないって、何がだ」

 

「年取るとか言わないでよ」

 

「勘違いして喧嘩して、忍に止められて話し合って、そこでやっと仲直り。初めて出会ったあの日となにも変わらない。なんにも成長してねぇよ、俺たち。はっは、馬鹿みたいだ。わざわざ喧嘩なんかする必要なかったじゃねぇか」

 

 馬鹿馬鹿しくて、くだらない。笑いすぎて涙まで出てきたほどだ。

 

 殴られた顔は痛むし、口の中は切ってしまっていて鉄の味がする。蹴られた腹はじんじんとした疼痛が残っているし、木を叩きすぎて拳も足も皮が剥けて血が出ている。

 

 最初から話し合っていれば、こんな痛い思いはしなくて済んだのに。本当にもう、愛おしいほど馬鹿馬鹿しい。

 

「ふっ……。そう言われると返す言葉もない。確かにそうだな」

 

「あんたたちなに笑ってるのよ! 私がどれだけ心配したと思ってるのよ! もう絶対喧嘩なんてしたらだめなんだからね! 絶対よ!」

 

 恭也は顔に痣を作っているし唇を切っている。忍は目を真っ赤に充血させていた。

 

 恭也とは本物の敵意を向けて争ったし、忍は巻き込んでしまって泣かせもしてしまったが、それでもこうして、三人一緒にいる。この空間が、この雰囲気が、いかに自分にとって大事なものかを再確認できただけでも、今回の喧嘩は収穫があったといえよう。恭也が腹の底で積もらせていた不満や憤り、遣る瀬無さや不快感も知ることができた。確実に実りはあったのだ。俺にとっても、きっと恭也にとっても。

 

「ほんと馬鹿みたいだ。そして馬鹿みたいに真っ直ぐだ。俺は、そんなお前たちだから一緒にいたいと思うんだ。そんなお前たちだから仲違いしたら悲しいんだ。そんなお前たちだから……俺は大好きなんだ」

 

 恥ずかしいとは思わなかった。いつものように照れ隠しもしなかった。頭で考える前に、口が動いた。

 

 本心からそう思えたのなら、気持ちはすぐに伝えるべきなんだ。心の奥にしまっては、時間が経つと不純物が混じって濁り、いつしか腐ってしまう。いつの日か今日のことをからかわれるかもしれないが、今言わないと後悔しそうな気がしたのだ。

 

「ま、全く徹は、恥ずかしいことを堂々と言う。俺は徹のそういう気障なところが嫌いだが……それ以上に、好ましく思う」

 

 呆れたように一つ溜息を零すと、恭也は天を仰いだ。木の葉の屋根から漏れた陽光が、恭也の(まなじり)を一瞬きらりと輝かせた気がした。

 

「なんで、なんで今そんなこと言うのよ……私をどれだけ泣かせる気なのよ!」

 

 またも忍は瞳を潤ませた。

 

 蚊の鳴くような声から次第に大声になり、最後には叫んでいた。

 

 忍は顔を伏せて感情を溢れさせながら、俺と恭也の手を取る。

 

「私も……二人が大好きっ……」

 

 涙と一緒にそんな言葉を零す忍の頭を恭也は撫で、手を握られた俺は顔を背けた。

 

 

「忍、そろそろ教室に戻ったほうがいい」

 

 俺と恭也の間で地面に座り込み、泣き疲れたのか頭上をぼーっと眺めていた忍に言う。

 

 忍は緩慢な動作で頭を動かすと、(なじ)るような目つきで俺を睨んだ。

 

「なんでよ、別にいいじゃない。三人でこうやってだらけるなんてそうそうできないのよ?」

 

 忍の反論には恭也が返す。

 

「だらけるのはいいとしても、授業があるだろう。それに長谷部さんや太刀峰さん、鷹島さんに問題は解決したということを伝えて欲しい」

 

「それなら三人一緒に教室に戻ればいいでしょ? なんで私一人だけ戻らないといけないのよ。……なに? もしかして……決着をつけるとか言い出す気?」

 

「そんなことしないって。争う理由はなくなったんだからな。そうじゃなくて、先生たちに説明しないといけないだろ?」

 

 俺は忍に、この惨状を見よ、という風に両手を広げた。

 

 平坦だった地面は、波打つ水面のようにぼこぼこになっている。これについてはまだなんとかできる。(なら)してしまえばいいだけだ。

 

 どうしようもないのは横たえられた大木である。これは言い訳の仕様がない。幹の直径はそこそこに太く、根元からへし折ってしまった為長さもある。隠すのは困難だし、隠せたとしてもいずれはばれる。なによりへし折られた切り株の部分は動かせないのだ。隠蔽しきれないのなら、最初から自供したほうがいい。

 

 それだけなら忍をこの場所から離れさせることもないのだが、教師に忍と俺たちが一緒にいるところを目撃されてしまうと、忍にも火の粉が飛ぶかもしれない。

 

 喧嘩の原因こそ忍も絡んでいるが、校舎の付近をめちゃくちゃにしたのは忍じゃない。俺と恭也だけなのだ。学校中探しても道具を一切使わず素手で木を折るなんて俺と恭也にしか出来なさそうだが、それは今は関係ない。

 

「俺も容疑者の一人だからな、一緒に行く事はできない。すまないが忍だけで戻ってくれ」

 

「そういうことだ。もうすぐ昼休みも終わるだろ。早く戻らないと五時限目の授業遅刻になるぞ」

 

 恭也の言い方ではまるで主犯は俺で、自分は巻き込まれただけなんだ、みたいな感じにも聞こえるが、その疑問は飲み込んだ。

 

「わかったわよ……もう。今日は……無理かしら。そうね、明日にはちゃんと自分の口で綾ちゃんたちに謝りなさいよ? 三人にも死ぬほど心配かけたんだから」

 

 俺と恭也からの了解の意を受け取ると、忍はふわりと長い髪をたなびかせて教室に戻った。

 

「……もう近くまで来ているのか?」

 

 忍の姿が校舎の角に隠れるまで見送ると、恭也が問いかけてきた。主語が抜けているが内容は通じている。

 

「ああ。じゃりじゃりと砂を踏む音が遠くのほうから近づいてる。一人分の足音じゃないな」

 

 忍が遠ざかった今、近づいてくる足音なんて教師連中しか考えられない。そもそも、喧嘩を止めるつもりで俺たちを探しているのだから教師が一人で来るわけはないのだ。忍の時にその考えが頭にあれば危険に晒さずに済んだのに、とも思うが、終わってしまったことをとやかく言っても仕方がなかった。

 

「叱られることになるだろうな。嫌だな。せっかく築き上げた大人しい生徒という看板を下ろすことになるのか」

 

「恭也はまだマシだろ。俺なんか前にも一回やらかしてるんだぞ。最悪、退学処分、なんてこともあり得る」

 

 裁判の時間は迫っているというのに、俺と恭也の会話はどこまでも暢気なものだった。

 

 笑いながら喋っていると、木と木の間から、数人の教師が走ってきているのが小さく見えた。その数人の中には担任の飛田貴子教諭の姿も確認できる。担当クラスを受け持つのは初めてという若い先生に負担をかけることになってしまいそうだ。

 

 一対一の喧嘩とはいえ、暴力事件には違いない。どんな経緯で喧嘩に発展したのかなどの聴取は、恭也と部屋を分けて行われることになる。

 

 ほぼ百パーセント、家に帰るまで恭也と顔を合わせるのはできないだろう。今のうちに訊きたかったことを訊いておこう。

 

「なあ、恭也。お前、なんであそこまで必死になってたんだ? もちろん忍についてや、俺の日頃の行いに対しての文句はあったんだろうけど、他にも理由があるように見えたぞ」

 

 言い争いの起因は、俺は姉ちゃんのことについて、恭也は忍のことについてだった。疑惑の火種が大きくなったのは、隠し事による後ろめたさと、俺と恭也両者に送りつけられた写真により植えつけられた不信感。日常での振る舞い方に不満もあり、それらが爆発して殴り合いに発展した。喧嘩の最中も勝負が決まらない焦燥から、それらについての文句は数え切れないほどに飛び出した。

 

 しかし恭也は、俺の内面について問い(ただ)していた。俺の身を案じるようなセリフを口にしていたのだ。

 

 拳を交えている時は頭に血が上っていてそれらにすら怒りを覚えたが、落ち着いた今ではどうにも気になった。真意を確かめないまま別れることはできなかった。

 

「……言わないといけないのか?」

 

「なんだよ、言いたくないのか? 言いたくないってんなら無理強いはしないけど」

 

「いや、まあ……言いたくないわけではないんだ。……そうだな、あの徹が正直に俺と忍に思いを伝えてくれたのだから、俺も正直に言うべきか……」

 

 教師たちの方向を俺と並んで見やりながら、恭也は口籠もって手を首元に添えた。言いたくないというよりも、言うのが恥ずかしいという風である。

 

 決心したように恭也は短く息を吐いて、口を開いた。

 

「真守さんではないんだが……俺も徹が重要な何かを背負っている事は気付いていた。その様子が苦しそうに見えて、今日は特に辛そうに見えて、放ってはおけなかった。見て見ぬ振りをしていられなかった。重圧に押し潰されそうな徹を見過ごせなかった。助けたいと思ったんだ。大事な親友だから……大切な存在だから、たとえ傷付けてでも助けたいと思ったんだ。道を踏み違えそうな程悩んでいる姿を見て、殴ってでも連れ戻そうと思った。徹が不思議に感じたのは、そういった感情が混ざっていたからかもしれない」

 

 今日は俺らしくないことばかりしている気がする……と、恭也は赤くなった顔を隠すようにそっぽを向きながら締め括った。

 

「そう……だったのか…………」

 

 恭也に教えてもらって、俺は殴り合っていた時の微かな違和感の正体をやっと理解した。

 

 そして恭也のおかげで、違う問題の解答も見つけられた。

 

 人の感情に疎い俺は、ヒントをもらってようやく彼女たち(・・・・)の目論見を悟った。硬く、そして重く、なにより冷たい決意を知った。

 

 その覚悟を、俺はようやく理解した。


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