「前にも見た覚えのある、光景だ……」
文鎮でも吊り下げているのかと思うほど重たい瞼をこじ開ければ、眩しいくらいの白で彩られた天井。こてんと頭を倒せば象牙色の枕があって、右目を下方へとやれば身体に密着しながらも圧迫感皆無のふわふわとした毛布が掛けられている。
ここは管理局艦船、アースラの医務室だ。以前、リニスさんと戦った後運ばれたのもここだった。
俺が医務室にいるということは、崩落しつつあった時の庭園から無事に抜け出せたということに他ならないのだが、はたして誰がここまで運んできてくれたのだろう。アリシアにハッキングしている最中は必死だったのでクロノやユーノに任せればいいや、などと適当に考えていたが、冷静になるとクロノやユーノの体格で俺を運ぶというのは相当な苦労になりそうだ。
「アリシア……大丈夫なのかな」
薄ぼんやりした記憶を探るが、アリシアの蘇生を完了したところまでしか思い出せない。そこからぷっつりと綺麗に抜け落ちていることから推測するに、俺の意識はそこで途絶えたのだろう。
あそこから急激に体調が悪化、などということになっていなければ良いが。
「今日は何日で、今は何時なんだ……」
前回医務室にぶち込まれた時は俺を心配してなのはが隣で寝ていたが、今回はいないようだ。なのはがいれば必然的にレイハもいるので、レイハに日付と時間を手っ取り早く教えてもらえたのだけれど、いないのならば仕方ない。
肩を回して現在のコンディションを確認する。多少気怠い感はあるが、眠りから覚めて頭は冴えているし気分も悪くない。ちょこっとくらいなら動くのも問題ないだろう。
絶妙な反発力とふわふわぬくぬくの布団から出るのはかなりの気合を要するが、ここから出て人を探そう。
テスタロッサ一家がどうなったのかも気がかりだ。策が上手いこと機能してくれていることを祈るしかない。機能していたとしても九分九厘リンディさんから怒られるけれど。
掛けられていた毛布を勢いよく剥がし、身体を左にずらしてベッドから降りる。温かいお布団でぬくぬくしていたので、適温を維持しているだろう室内の気温が少しばかり肌寒かった。
「って、ぅわぅっ! ユーノいたのかよ!」
身体を左に向けると、ユーノがベッド脇に置かれている丸椅子の上で船を漕いでいた。
大方、いつ俺が起きても誰か一人はいれるようにと交代で医務室にいてくれたのだろう。優しいな、本当に。
「ん……あ、兄さん……」
「あ、悪い。起こしたか」
驚きのあまり大声を出してしまったせいで寝ていたユーノを起こしてしまった。
黄土色の髪の毛はところどころぴょこんとはねている。俺に叩き起こされたせいで、男の子にしては大きな瞳がとろんと眠たげに潤んでいた。
ユーノはぱちぱち、と何度かまばたきすると、徐々に目を大きく見開いた。弾けるように椅子から立ち上がって俺に詰め寄る。
「に、兄さん!? か、からだは大丈夫ですか?! 気持ち悪かったり、貧血気味だったりは!?」
「おおう……。だ、大丈夫だ。腕とか足はまだちょっと動かしづらいけど、それ以外はなんともない」
「よ、よかった……っ、ぼく、しんぱいでぇ……っ」
「ごめんな、もう本当に大丈夫だから」
駆け寄ってきたユーノは一通り体調を確認すると、俺の服の胸元を両手で握り、俯いて涙声になった。
想像はしていたが、やはりユーノはかなり心配してくれていたようだ。当の本人である俺もこんなことになるなんて計画にはなかった。ともあれ、心配をかけたことには違いない。申し訳ない限りだ。
「あ、そうだ……クロノにも連絡を入れておかなきゃ……」
少しして落ち着いたのか、ユーノは目元をくしくしと拭うと一歩ぶんほど離れて
クロノに連絡云々と言っていたので、おそらく念話で俺が起きたことを伝えているのだろう。ユーノから連絡を受ければ、きっとクロノはすぐにここまで来てしまう。憂鬱だ、絶対に怒られる。
「クロノに念話を入れておきました。リンディ艦長にはクロノのほうから言っておいてくれるそうです」
「リンディさんにもとんだ迷惑をかけちゃったな。ぶっ飛んだ迷惑とも言えるけど」
「あと、クロノから伝言です。『すぐに行く。逃げるなよ』だそうです」
「…………」
くっ、読まれていたか。
というよりも、怒られて
いくらプレシアさんやアリシアを助ける為とはいえ、それだけのことをやらかしてしまった。甘んじて叱責を受けよう。
「はぁ、気が重い……」
「クロノも心配してましたからね。クロノが怒るのはそれだけ兄さんに親しみを感じているからです。怪我をしてほしくないからなんです。一種の愛情表現ですから、こってりとしぼられてください」
「わかってるって。わかってるから、更に気が重いんだ。……まあ、それはそれとしてだな」
「それはそれとしてって……本当にわかってるんですか?」
「わかってるってば。気になってたんだけど今日は何日なんだ? 俺はどれくらい眠ってた?」
クロノが俺を叱りに来るまでびくびくしながら待つというのも非生産的だ。気になっていた点を尋ねておくことにした。
正直なところでは日付やらなんやらよりもテスタロッサ一家への処遇のほうが気がかりだが、そちらはクロノに訊いたほうが詳しいだろう。クロノにぼっこぼこに叱られてから教えてもらおう。
「今日は五月五日です。時間はたしか昼前くらいだったはずです」
「それじゃあ丸一日は眠り続けていたのか」
「あれだけのことをやり抜いて一日と少し昏睡しただけで起きたほうにびっくりしますよ。医務官さんも三日は起きないと、下手をすれば一週間以上眠り続けるかもしれないと仰っていましたから」
「いやあ、慣れてるからな!」
「笑えませんよ」
「ご、ごめん……」
軽く冗談で流そうとしたら、ユーノから液体窒素ばりに冷たい目を向けられた。
そんな視線をどこで覚えてきたのやら。この子には歪まず健やかに育ってほしいけれど、俺が近くにいてはなかなか真っ直ぐには育たなそうだ。
「そ、そういえば、プレシアさんが持っていたジュエルシードってどうなったんだ? 十三個もあったわけだけど……」
ユーノのつぶらな瞳を直視できないので話題をすり替える。
実際この件についても憂いていたのだ。俺が意識を失ったあと、
「ああ……。それは、ですね……」
先とは一転し、ユーノが気まずそうに目線を逸らした。
その時だった。ユーノの背後から空色の結晶が浮かび上がり、弧状の魔力粒子による輝線を描きながら俺へと飛来した。
見紛うはずがない、エリーである。背中になにも担いでいないユーノの背後からご登場遊ばせたということは、フードにでも入っていたのだろうか。
エリーはぴかぴかとその身を瞬かせながらも光量は抑えられている。俺の無事を喜んでくれているが、完全復活ではないので派手に喜びを表現するのを控えているのだ。
頬に擦り寄ってくるのはちょびっと邪魔だけれど愛らしくもあった。
「それで、どうなったんだ?」
「兄さんの言うエリー、ですか? そのジュエルシードがですね、兄さんが倒れるや否や十三ものジュエルシードを吹き飛ばしたんですよ。怒り狂うように魔力流を放って、外縁部辺りの岩盤もろとも虚数空間へと叩き落としてしまったんです」
「わお……」
ひし形の結晶体の上端と下端をつまんでエリーを見る。すると『やりすぎちゃいましたっ』みたいなはっちゃけた光をぽわぽわ放出した。
いや、本当にやりすぎだよ。
「純粋な魔力流でしたがその密度が密度でしたので、十三のジュエルシードはほぼ機能を喪失したように静かに虚数空間へと落下していきました」
「な、なんかごめんな。ユーノはジュエルシードを回収するために俺たちの世界に来たのに……」
「いえ、いいんです。僕が回収しようとしてたのはジュエルシードが暴走したり使用されたりして事故や事件が起きないようにするためでしたから。虚数空間に落ちるのなら、それはそれで構いません」
「それならいいんだけど……。あと、そうだ。時の庭園からは、みんな無事に脱出できたのか? 床とか崩れそうだったけど」
ぺたぺたとくっついてくるエリーを手で退けながら、ユーノに尋ねる。
俺がアリシアにハッキングを仕掛け始めた時でさえ、足場となっていた岩盤はあかねが補強をしてくれていたが崩落間近といったふうだった。外側とはいえ、エリーが魔力流でぶち抜いてしまったのならそこからダメージが波及して全て壊れてもおかしくない。
ユーノは困ったように笑みをこぼす。
「そっちについては……赤黒い色のロストロギアがなんとかしてくれました」
その紹介を待ってましたと言わんばかりの勢いで、ユーノのポケットから深い赤色の球体が飛び出した。言わずもがな、あかねである。
緩やかな軌道で俺の頭上へと近づくが、あともう少しで接触するというところでエリーが間に入って邪魔をした。
かちん、と音を鳴らして、お互いがお互いに結晶体にぶつかる。睨み合うかのように僅かな隙間を空けて浮遊し続けていた。
次元を航行しているアースラの一室で、エリーとあかねが喧嘩でもおっ始めれば大変なことになる。下手をすればこの艦が沈みかねない。
「お前ら仲悪いな……。仲良くしろとまではいかないから、せめて喧嘩はするなよな」
比喩でもなんでもなく、両者の間で火花を散らしつつあったので、右手と左手、二つの手に分けてエリーとあかねを握り込む。暴れたりしないだろうかと不安だったがそれらしい抵抗はなく、意外にあっさりと収まった。
今回の件の功労者とも言うべき二人にする扱いではないが、話が前に進んでくれないのでエリーとあかねにはしばしの間我慢しておいてもらおう。
「暴れ出しそうなロストロギアを、しかも二つを素手で落ち着かせるような人間は兄さんしかいないでしょうね……」
「暴れるなんてとんでもない。こいつらにとってはただの口論だ。そんで、あかねが一役買ったみたいだけどなにがあったんだ?」
「崩れかけた地盤を魔力で固めてくれたんですよ。僕たちがいた最下層から転移ゲートのある階層まで。そのおかげで安全に、しかも迅速に離脱できました」
「へえ……あかねが、ねえ……」
意外、と言ってしまってはあかねに悪い気もするが、やはりどうにも意外としか言いようがなかった。一時は人という生き物そのものを恨み、無差別に傷つけようとしたあかねが帰還ルートの確保するというのは。
それが精神的成長なのか、それともやむにやまれぬ事情があったのかはわからないが、理由はどうあれ全員を安全に退去させたことは変わらない。このまま素直な子に育ってくれたら嬉しい限りだ。
右手に握っていたあかねを解放し、レイハより一回りほど小さな球状の結晶体を親指の腹で撫でる。するとあかねは、刺々していながらもどこか柔らかい光を放った。あかねの性格から察するに、嫌がってはいないようだ。
そうやってユーノに時の庭園から脱出した時の話を聞いていると、こん、こん、こん、と医務室の扉が控え目にノックされる。どうぞ、と短く応えると静かに扉がスライドした。
「徹、もう起きて大丈夫なのか?」
「おう、平気だぞ。……そっちこそ大丈夫なのか?」
顔を向ければ、入室してきたクロノの髪は若干乱れており、よく見れば目の下にくまもできている。
おそらくロストロギア回収の報告書に加えて、プレシアさん絡みの諸々でレポートを纏めていたのだろう。フェイトたちへ温情をもらえるように内容を練っていたのかもしれない。
「ああ、僕は少し寝不足なだけだ。本局へ送る書類に手間取っていた」
「そうなのか……手伝えることがあったら言ってくれよ」
「まずは自分の身を気にするんだな」
「はは……耳が痛い。悪いな、クロノ。迷惑かけた」
「……はぁ」
俺を見て、クロノはこれ見よがしに嘆息した。片手を腰にあてて威厳っぽいものを小さな身体から醸し出す。
「徹が僕にかけたのは迷惑じゃない。心配をかけたんだ。もうあんな真似はしないでもらえるとありがたい」
「おいおい……格好良すぎるぞ」
「持ち上げても説教の時間は変わらないからな」
「そんなつもりはないって。本心だ」
「また馬鹿なことを……」
尖った言い方はするものの、クロノは照れたように頬を指先でかいていた。ユーノが口を
「起きてから何も口にしていないだろう。軽食は既に頼んである。あと喉が渇いているだろうと思って、これも持ってきておいた」
医務室の入り口から見て右奥に位置する俺のベッドへ、クロノは緩やかな軌道を描きながら何かを投げた。どうやら小さめのペットボトルのようだ。
薄水色の液体が回転して撹拌されながら飛来する。病み上がりの俺に渡してくるのだから違うとは思うが、もしや炭酸飲料ではなかろうな。
「あだっ」
右手を伸ばして受け取ろうとするが、ペットボトルは
俺の頭で跳ねたペットボトルはぽふん、とベッドに落ちた。
打った箇所を右手でさすっていると、小馬鹿にした光を点滅させながらもあかねが自身の魔力を器用に使って俺の手元までボトルを運んでくれた。言っていること(こいつの場合光っていること、だが)とやっていることがちぐはぐである。
「ありがとな、クロノ。……クロノ? ユーノも……どうした?」
ペットボトルを掲げながらクロノに感謝をするが、反応はない。クロノだけではない、ユーノもだ。
クロノは眉間に皺を寄せ、ユーノは目を伏せて顔を背けている。
状況を掴めない俺を尻目に、クロノは近づく。
それを見て何かに気づいたように、俺の近くをふわふわと漂っていたあかねが一瞬強く輝いて、右腕の上腕部あたりにくっついた。寄り添うみたいな動きだった。
左手に握っていたはずのエリーも、無理矢理に手の拘束から抜け出して、あかねとは反対側、左の二の腕あたりに触れる。
意図が判然としない行動だった。
「アースラに帰投した時、徹は意識を失っていた」
「あ、ああ……俺も記憶がないし、そうなんだろうな」
ベッド脇にまで歩みを寄せたクロノが表情を曇らせながら言い辛そうに、けれど、言う。
「吐血や喀血がひどかったから……このアースラでも出来る、可能な限りの精密検査を行ったんだ」
クロノは目を合わせようとしなかったが、ここにきてようやく視線を交わす。
俺の目を見ているはずなのに、なぜか違うところを見ているような印象を、クロノから受けた。俺の顔の中心よりわずかに左を、クロノは注視していた。
「外傷は特に見受けられなかった。ほとんどがかすり傷や軽度の打撲で、すぐに治せる程度のものだった。内臓器官は著しく弱っていたが、安静にしている限りには問題ないとのことだ」
本題はここからだ、とクロノは続ける。怒りと悔しさともどかしさを混ぜ合わせ、遣る瀬なさでコーティングしたような顔だった。
「精密検査は身体の内外のみならず、魔力に関しても診断する。……リンカーコアに一部、異常が見られた。心当たりがあるんじゃないのか?」
「心当たり、ね……」
思い当たる節がないわけではない。というよりも、思い当たる節しかないとまで言える。
度重なる魔力の過消費。これ以上の原因はないだろう。
リニスさんとの戦闘、あかねの救出、極めつけにアリシアへの治療。その都度魔力を使い続けて、使い果たした。
限度を堂々と踏み越え、限界を悠々と飛び越えた。これでなにもないほうがおかしい。
それに俺自身、アリシアの治療の際、身体の中で異常が生じているのを認めていた。
そして今も、感じている。
体調を崩していたり、気分が悪かったりするわけではない。実際に試したわけでもない。
これは感覚だ。大事ななにかを喪失したという感覚があった。
「兄さん……僕、は……」
今にも泣き出してしまいそうな表情で、ユーノが俺を呼ぶ。
ユーノの立場であれば、その心境は複雑なものがあるだろう。大元を辿れば、ジュエルシードの回収の協力を要請してきたことから俺となのはは今回の一件に関わった。端を発したのはユーノだった。
だからといってユーノを責める気など微塵もない。手伝って欲しいと申し出があったからなのはは心を動かされ、真摯な姿勢と対応をユーノに見たからこそ、俺も協力することにした。
最終的に判断したのは俺だ。手伝うと決めたのは俺の意志だ。
責任の所在は、ユーノにはない。
「気にするな、って言ってもお前は気にするんだろうな。だから今は、これだけ言っとく。ユーノと出逢ってから大変なことは何度もあったけど、引き受けなきゃ良かったなんて一度も思ったことはない。後悔はしていない」
ユーノへと顔を向け、思い悩む必要はないと伝わるように微笑みかける。
しかし、ユーノの瞳はさらに潤み、口元を歪ませる。
ごめんなさい、と一言呟き、医務室から飛び出した。
当事者である俺が言ったところですぐには納得できないだろう。自分の中で落とし所を見つけるしかない。
あとからクロノにフォローを入れてもらうように頼み込もう。
ばん、と小さくない音を室内に響かせ、扉が閉まる。小さな背中を追っていた目を、話の主題に戻す。
「それで、クロノ。俺は
「二つ……ある。一つは射撃。もう一つは……魔力付与、だった……」
渋面を作り、歯を食い縛りながら搾り出すように、クロノは口にする。
「そっか。まあ、仕方ないな」
空気の重さを振り払うように、努めて軽く俺が言う。
「仕方、ない……?」
その軽薄さが気に障ったのか、クロノの形相が一変した。声に苛立ちが混じる。
「仕方ないなんてッ、そんな一言ですませていいものではないだろうッ! そんな言葉ですませられるものではないだろうッ! 徹が並々ならぬ努力を重ねて、戦闘に使えるレベルにまで押し上げたんだ! その努力が、徹の頑張りが、
「無理をしたら、それくらいの代償を負うことになるってわかってた。さっきも言ったろ、後悔はしてない」
「後悔してないなんて……強がりだ……ッ」
クロノが言った二つの魔法。射撃魔法と、魔力付与。その適性を、俺は
その前兆、予感のようなものはあった。アリシアへとハッキングする際、魔力が足りなかった俺は空っぽの状態から無理矢理に搾り出した。
その時、激甚な痛みとともに何かが切れるような、腱を断裂したような、そんな感覚があった。
それが、二回。回数と失った適性の数は符合している。おそらく、不要な部分を削って無駄をなくしたことで、ほぼゼロから魔力を捻出したのだ。
「強がりじゃないって。そりゃ、ちょっとは困ることになるけどな。射撃魔法はクロノから直々に、わざわざ時間を割いて教えてもらったから悪いと思ってるよ」
「僕のことなんかどうだっていい。徹は射撃魔法の適性は低かったが、工夫して実戦に耐えるだけの強度を生み出した。徹の
「射撃魔法は今回役に立ってくれたし、そもそも上限が見えていた。もとから先はなかったよ。それよりも魔力付与だな。俺の唯一の武器だったからなあ。……もう、お前たちには渡り合えそうにないな。つっても、最初から肩を並べられてなかったからあんまり変わらないか」
「何を言ってる……僕はまだ、鮮明に覚えているぞ。魔法という技術を知って間もない人間が、短時間とはいえ僕に食い下がった。徹には、適性や素質は乏しくても才能はあったんだ……。限られた手札の中で戦い抜く才覚が……」
歯噛みして、拳を握り締める。リノリウムに似た材質の床を、クロノは見つめた。
俺は幸せ者だ。力をいくつか失ったことを、本人である俺以上に悲しんでくれる人がいる。幸せ者と言わずになんと言えばいいというのだ。
ユーノもそうだが、クロノも責任感が強い。自分の力が及ばなかったせいで、などと自分自身を追い詰めるかもしれない。
だから。
「クロノからしてみれば虚勢を張っているように見えるかもしれないけど、本当に気にしなくていいぞ。使い方次第でまだやりようはあるし、いざとなれば新しい戦術を組み直すからさ」
だから、
正直なところ、適性などに関しては踏ん切りがついている。こうして深く介入してしまった訳なのでこれからも多少は管理局に関わることもあろうが、しかし今回のような大事件はそうそうないだろう。事件があったとして、その案件を任される道理もない。残された能力で手伝えることを探せばいい。
それよりも、大きな問題が一つあった。
「…………」
「それよりも、プレシアさんやフェイトたちの処遇について聞きたいんだけど
……。クロノ、どうした?」
一度話を切って声をかけるが、俯いたまま反応をしない。
顔を覗き込めば、小さく口を開こうとしているのが見えた。
「このまま黙っていれば気付かれないとでも思っていたのか?」
どくん、と一際強く心臓が脈打つ。
感情が込められていないフラットなボーイソプラノが部屋に残響した。
「な、なんの話をしてんだよ……」
精密検査をしたとクロノは言っていたが、それは外傷とリンカーコア、つまり魔力についてだ。内側についての診断をしてはいないはずだ。
わかるわけがない、気づけるわけがない、そう思っていた。
「なあ、徹……。お前、左目……見えてないんだろう……」
「は……な、んで…………」
その期待を、呆気なくクロノは裏切る。
言葉を失う俺に、クロノは畳み掛ける。
「医務官から言われていた。これだけ限界を超えて魔力を使い果たしていたら、適性だけではなく他の箇所にも影響が出ているかもしれないと。その場ではどこが悪くなっているかわからなかったが、徹の顔を見てすぐにわかった。飲み物を渡した時に、確信した。左目の視力まで、失っている」
「いや、違う……そんなことは、ない。ペットボトルを受け損なったのは、筋肉痛で身体が思ったように動かなくて……」
「ここには、鏡が置かれていないな。だから徹は気付けなかったんだろう」
鏡、とそう言われて、思わず左目を隠した。今更隠しても手遅れなことはわかっているのに。
「左目の、瞳の色が変色しているんだ。銀に近い、薄い灰色に……」
「はっ……マジかよ。色が変わるとか、漫画じゃねえんだから……」
だから、か。虹彩が変質していたから、だからユーノは俺の顔を見て、俺の目を見て、医務室を飛び出したのか。居た堪れなくなったから。
左目を覆っていた手を戻す。
両側から、まるで支えるように温かな二つの感触がある。右腕にはあかね、左腕にはエリーが寄り添ってくれている。視界の左半分は暗闇に染め上げられているが、その二つの温もりが安らぎをくれていた。
「魔法の適性二つに、左目。赤の他人を助けた代償がそれらだ。それでもまだ……それでもまだッ、後悔していないと言えるのか!」
素質がなかったから、使い物にするために苦心して築き上げた射撃魔法の術式。無色透明の魔力色という特性を最大限活用することができたのが射撃魔法だった。
魔法が絡む事柄で欠片も才能がない俺の、唯一と言っていい武器、魔力付与。魔法という技術体系を初めて認知した時からここまで、戦闘において俺の命綱となっていたのが魔力付与だった。
策を弄する俺にとって、重要な役割を成していたのは視覚だ。相手の動作や癖、どういった魔法を展開するかを捉えてあたりをつけて攻め方を考える。肉弾戦に重きを置いていた俺にとって、いや、どのような形であれ、戦いの中に身を置く者にとって視野の広さは肝で、要で、生命線だ。それが失われたとあっては支障をきたすどころではない。多かれ少なかれ、日常生活にまで影響が及ぶだろう。
それでも。
それでも俺はクロノの問いかけに刹那の間も空けず、一瞬たりとも言い淀まず、心の底から即答した。嘘偽りなく虚偽虚言なく、建前や虚勢もなく、迷いや戸惑いもなく、即応できた。
「後悔なんてしていない。もしもう一度やり直せるのだとしても、俺は同じことをする。何度だって、きっと」
そう断言した俺を見て、クロノは信じられないものでも目の当たりにしたかのように見開いた。
下唇を噛んでしばらく黙ると、クロノは小さくため息をつく。
少しだけ口元を緩め、苦笑いを浮かべた。
「……徹のそれはもはや、病気だ。そんな自己犠牲は改めた方がいい。命を削ることになる」
「はっは、構わないな。助けたい人を助けられないくらいなら、そんなの死んでるのと同義だぜ」
「そうだった、徹はこんな人種だったな……変に気を遣った僕がばかみたいだ」
「いやいや、心配してもらえるのは嬉しいぞ?」
「ぺらぺらへらへらと……まったく」
勝手に言っていろ、と吐き捨てながらクロノは向かい側に移動し、ベッドの周囲に施されている金属製のアーチに体重をかける。腕を組み、いつもの調子を取り戻した。
きゅっ、と身体の両側からの力が強まる。痛くはない程度にエリーとあかねがくっついてきていた。どうやらこの二人は、俺の感情の機微にすら感付くようだ。
「さっき徹が訊こうとしていたテスタロッサ達についてだが」
「ん、お、おう」
意識をエリーとあかねに移していた時にクロノに話しかけられたため、生返事のようになってしまった。
クロノが怪訝な目で俺を見る。
「やはりまだ体調は万全とはいかないのか? どうせまだ答えは全て出ていないことだし、後日にするか?」
「いや、大丈夫。プレシアさんたちのことならすぐに聞きたい。……って、え? 答えが出てないってどういう意味だ?」
「管理局の上層部に今回の一件が解決したことと、ここまで事件の規模が拡大してしまった原因について報告はしたが、そのテスタロッサ達の処遇についてはまだ決定が下されていないんだ。だから部屋を分けて、形だけは拘留ということになっている。アリシア・テスタロッサだけは状況が状況だけに大事を取って治療室にいるがな。そういえば確かちょうど今、母さんが……んん、艦長が説明の為の
とりあえずは、プレシアさんたちが過酷な扱いを受けていないようで安心した。クロノの言う拘留が、アルフが受けていたようなもの程度だとしたら、クロノが言った通り、それは体裁を取り繕うための『拘留』である。内容は歓待と呼んで差し支えない充実っぷりだ。
アリシアについても配慮をしてくれているようだし、俺が口を挟むことはなさそうである。ケアが行き届いているものだ。
「ほうほ……ちょ、ちょっと……ちょっと待って」
と、ここで脳内アラートが鳴り響く。
危うく聞き逃しそうになった。いや、聞き逃してもそうでなくても大して変わりはしないのだが。
「報告って、これまでの定期連絡に加えて、解決したことも添えて……報告したってことだよな?」
「ああ、そうだ。定期連絡のことなんてよく知っていたな。エイミィから聞いたのか?」
「ま、まあそんなところ……。そ、そんでリンディさんは上層部の人に今回の一件の説明をしている、と」
「だからそう言っただろう。本当ならもっと早く、昨日にでもすべきだったがあまりにばたばたしていたし、向こうの都合もつかなかったからな。今日になった。どうした、徹? 顔色が悪いぞ? しばらく横になったほうがいいんじゃないか?」
まずい、とてもまずい。クロノの声がどこか遠く感じるほど、まずい。
時の庭園を脱出したらリンディさんに話を通しておかなくては、と思っていたのに、ぐーすか寝ていたせいでタイミングを逸した。
これはもはやお説教だけで済みそうにない。折檻だ、確実に折檻が待っている。
様子が豹変した俺を心配してクロノが声をかけてくれるが、とてもではないがそちらに対応できる精神状態ではない。
優しい人ほど、怒ったら怖いのだ。あの若さで高い役職についていることを考えれば、リンディさんは優しいだけではない。厳しく接さねばいけない場合にはとことん厳格に振る舞うだろう。
腹をくくるか、もしくは首をくくるしかないかもしれない。
びくびくと怯えていると、扉の向こうから何かが聞こえてきた。
最初は何が鳴っているのかわからない小さな物音だったものが徐々に近づいてきて、それが足音であることに気づく。床を踏み鳴らす音は大きく、そして早い。
足音と同期するように動悸がする。
言葉遊びをしている場合ではない。直感でわかる。リンディさんだ。
一瞬、逃げてしまおうかな、などと愚かな考えが脳裏をよぎる。しかし、改めた。改めたというより、諦めた、のほうが正確だが。
ふ、と自嘲の笑みすら湛えて、扉が開く光景を眺めていた。
扉が開く。
ミントグリーンの爽やかな髪をなびかせながら、青筋を額に青筋を浮かび上がらせたリンディさんがご登場遊ばせた。果然、予期した通りである。
「あら、徹くん。もう起きて大丈夫なの? 元気そうでよかったわ」
リンディさんの表情は笑顔だが、青筋が立ったままだった。ここまで恐ろしい笑顔があるのか。
「艦長、説明のほうは終わったんですか? 早かったですね」
「ええ、思ったよりすんなりと終わってしまったわ。すんなりと、ね……。ところで……徹君? 私の話を聞いてもらってもいいかしら?」
「は、はい……。なんでしょうか……」
雰囲気の異変を感じ取ったのか、クロノの表情が固まった。ずびしっ、と効果音が聞こえてきそうな程の速さで姿勢を正す。
「クロノから聞いているかしら。私、ついさっきまで時空管理局の人にね、報告をしていたのよ」
「は、はい……聞きました」
「それなら話が早いわね。ジュエルシードの一件について、ちょっとだけ都合よく解釈してプレシア・テスタロッサさんや、フェイトさん、アリシアさんたちの処遇を取り図ろうといろいろ思索を巡らせていたの。珍しくすこし緊張しながら上層部の人にお話ししに行ったのよ。そしたらね、顔を合わせて開口一番、なんて言われたと思う? とても不思議なことにね、『いやあ、此度は不運なことが多かったようだねえ』って言われたの。ね、不思議でしょ?」
「そ、そそうですね。ででも、でもたしかに不運なことがいくつもありましたけどいやなんでもないです」
鋭い眼差しで
ちらりとクロノを見やると、冷や汗を額に浮かばせながら、お前何やらかしたんだ、と目で語りかけていた。何をやらかしたと言われても見当がつかない、心当たりが多すぎて。
「プレシアさんたちに掛けられていた容疑なんだけど、大きいものは三つ、あったのよ。時空管理法違反とロストロギアの不正使用、あと一つは管理局艦船への攻撃ね」
罪状を挙げると同時に、白く長い指を一本ずつ立てていく。人差し指、中指、薬指と。
「このうち二つ、時空管理法違反とロストロギアの不正使用についてはクロノを経由して、徹くんが提示した釈明を採用させてもらったわ」
「こ、光栄です……」
にこにこと空恐ろしい笑みを崩すことなく、リンディさんは薬指と中指の二本をおろす。
残った人差し指は、すぅっと俺の目の前に突き出した。
「でも一つ、管理局艦船への攻撃についてだけは、どうしても上を納得させられるような説明を用意できなかったのよ。プレシア・テスタロッサの次元跳躍魔法による雷撃で船が損傷したことは覆せないし」
「…………そ、それは……まあ、大変、ですね……」
ずずいっ、とリンディさんが顔を寄せてくる。
俺は座っていて、リンディさんは立っているため、身長差からリンディさんのご尊顔に影が差した。美しさに言い知れない迫力が含まれていた。
クロノに救いを求める視線を送るが、当の執務官さまは、ふいと顔を背ける。見捨てられた。
「私すごく悩んだわ。艦船への攻撃に言及されればみんなを助けられなくなるし、確実に助けられるようにしようと思えばプレシアさんにすべての罪を着せることになる。それはフェイトさんたちから母親を奪うということよ。本当にもう、おなかが痛くなるくらいに悩んだわ。でも実際に説明に行ってみれば、向こうは船に攻撃されたことについてなにも追及してこないの」
気が気じゃなかったわあ、とほわほわした猫撫で声で、笑みを端整な顔に貼りつけながらリンディさんは言うが、目が据わっている。もはや『気が気じゃない』はこちらのセリフである。
こんな真綿で首を絞めるような問い詰め方をされるくらいなら、厳しく叱責されるほうがまだ気楽だ。
「だから遠回しに探ってみたのよ。『艦の損害についてですが』とかなんとかね。そしたらね、なんて言ったと思う? 『時空嵐に巻き込まれるとは不幸だったね』だって。不思議ね? ね?」
「そ、そう、ですね。ふ、不思議ですね。次元跳躍魔法に触れた定期報告でなにか手違いでもあったのかも、しれませんね……」
目を逸らしながら俺が相槌を打つと、リンディさんは俺の頬に手を添えた。
ぐぐぐっ、と強引に俺の目線を合わせ、満面の笑みで口を開く。
「どうして徹君が、定期報告で次元跳躍攻撃について触れていたって知っているのかしら?」
「えっ……いや、だって……さっき」
「定期報告、なんて私は一言も口にしていないわよ? おかしいとは思っていたけど、やっぱり徹君が細工をしていたのね」
「むぐぐ……」
リンディさんは俺の頬をつまんで捻る。微笑みが邪悪だ。
くそ、抜かった。定期的に送信されている報告書が
いや、ちゃんと白状する気ではいたけれども。ただ決心がつかなかっただけであって。
「ま、まさか徹……報告書を書き換えたのか?! しかし、どうやって……。報告書を書き換えれば日付も変わるし、そもそも管理職の人間と担当者以外には書き換えることすらできないのに……」
ここまで我関せず、という立ち位置を取っていたクロノが横から
俺に不利になる時だけ喋るのか、この子は。
「ああ……えっと、それは……」
「ハッキングを使ったんでしょう? それなら足跡を残さずにアクセスできるものね」
「徹、公文書偽造だぞ……立派な罪だ」
「しょ……証拠は……」
「なんだ? 改竄した証拠を出せなどと言い逃れるのか?」
「証拠は残していない!」
「その言い逃れは考え得る限り最悪だ……」
存分に俺のほっぺたを弄び、ようやくリンディさんは離れた。
「でも結果として、徹くんの犯罪ぎりぎりの行為のおかげでプレシアさんたちには大きな罪は科せられないわ。それだけはファインプレーね」
「ぎりぎり、というか犯罪そのものですよ、艦長」
「よしクロノ、お前は少し黙っとけ」
「細々とした違反はあるけど、そちらはこれからの態度や身の振り方次第で減免もできるし、執行猶予ももらえるでしょう」
リンディさんは腕を組んでため息をつく。
この時ばかりは、一仕事終えたというような、純粋に安心した表情だった。
「プレシアさんの罪はほぼ拭われ、アリシアさんは助かって、フェイトさんたちも無事。これ以上望むべくもない解決ね。二人とも、お疲れさま」
「一時はどうなるかと思ったものだが……なんとかなったな。徹、お疲れ」
「これで、全部……解決できたのか……。フェイトやプレシアさんたちは、また家族で暮らせるように……なるのか……?」
これで今度こそ終わり、なのだろうか。いまひとつ実感がわかなかった。
リンディさんが俺を見て、優しく微笑む。
「すぐに、なんて約束はできないけど、プレシアさんたち家族は遠くないうちにまた一緒に暮らせるようになるわ」
「そっか……よかった。ほんとに、よかった……」
辛い思いはしたし、痛い目にもあった。諦めてしまいそうになるくらい苦しいこともあった。
でも、守ることができたんだ。誰一人として失わず、一つの家族を崩壊させず、悲しい結末を迎えずに済んだ。やり遂げることが、できた。
それは俺にとって、なによりの褒美で、報酬だ。
「まあ、それはそれとして」
リンディさんが飄々と、感動的な空気をぶった切る。
「徹君が法に
「え、あれ? ここはみんなで頑張ったね、っていう達成感とともに有耶無耶になる流れじゃ……」
「そんなわけないでしょう? 時の庭園での行動もそうだし、いくらテスタロッサ家の人たちを助けるためとはいえ、管理局のデータに不法アクセスして改竄したのは紛れもない事実。明るみに出すことはしないけど、今後こういったことがないように厳しくお説教しないと、周りに示しがつかないわ。安心してね、徹君。道連れはここにもう一人いるから」
ぎらり、とリンディさんの
「あっと、僕としたことが忘れていました! 片付けなければいけない書類が溜まっていました! それじゃあ徹、また手が空いたら顔を見にくるから安静にな。それでは失礼します」
早口にそう
さすがリンディさんの息子、幼くても執務官と言う要職に就いているだけある。退き際を心得ている。ただ、できればもう少し仲間意識を持ってくれているとありがたかった。
エリーとあかねはいつの間にか、ベッド脇に設けられたサイドテーブルの上、タオルに鎮座していた。
ぴかりとも光らないところを見るに、こいつらはスリープモードにでも入ったのだろうか。小さく動くこともない。
もしかすると俺が目覚めるまでユーノと一緒になって見守ってくれていたのかもしれない。だとすればとやかくと責めることもできなかった。
エリーとあかねが眠りについた今、医務室に残されたのは叱られる側の俺と、叱る側のリンディさんの二人だけ。どうやら助けはないようだ。
「うん、わかった。いいよ、俺が悪かったわけだしリンディさんに話を通しておくべきだったんだからな。甘んじて受けよう……」
俺は両手を挙げて目を瞑り、降参の構え。
言い訳のしようがないほど勝手なことをやらかしてしまっていたのだから、反論の余地などありはしない。
今回はうまく事が運んだだけであって、かなり危険な真似をした。命綱なしてで綱渡りをするようなものだ。
しかも、リンディさんやクロノにもリスクを背負わせてしまった。何か一つでも歯車が狂っていれば、二人の立場も危うかったのだ。
即逮捕もあり得たのだから、お説教で済ませてくれようとしているだけ感謝しなければいけない。
すた、すた、と足音が近づく。ベッドのすぐそばまで寄ってきた。次いで、ぎしっ、とスプリングが軋む音。
あれ、なんでスプリングが、と思う間もなく、それは訪れる。
「よく頑張ったわね、徹君」
「え、あ……」
突然の抱擁に驚いて目を開く。
リンディさんはベッドに膝をついていた。
俺を両手で抱き締めながら、彼女は喋る。声からはからかっている様子も、冗談の気配もまったく感じられない。
「ちょっ、ちょっと……なに? 説教するんじゃないの?」
「そうでも言わないとクロノはこの部屋から出て行かないでしょう?」
「なんでクロノを追い出す必要が……」
「そうじゃなきゃ、徹君は素直になれないじゃない。年下がいたら強がっちゃうでしょ……徹君は」
ならば、先のお説教や道連れ云々はクロノを退室させ、二人きりになるための方便だったのか。
だとしても、リンディさんはなぜわざわざこんなことを。
「徹君の後遺症については、もう聞いているわ。適性二つと、左目の視力。テスタロッサ家の人たちを助けることが徹君の願いだったとしても、つらいわよね」
「後遺症なんて言いかたはやめてくれよ。俺が下手を打っただけなんだ。それに、後悔なんてしてないから……。適性だって他を流用すればどうにかなるだろうし、左目だって完全になにも見えないってわけじゃない。今気づいたんだけど、人の魔力が目で見えるみたいなんだ。リンディさんの魔力は髪色と同じミントグリーンでさ、すごく綺麗で爽やかな色彩が……」
ぎゅうっと、抱き締める力が強くなる。言葉が途切れた。
「後悔してなくても、つらいのは本当でしょう? 徹君は分が悪い状況でも嘘をつこうとはしないものね。ただ、本音を隠すだけ。助けたことを後悔はしていなくても、苦しんでる。わかるわよ、見ていれば……」
「そんな、こと……な、ぃ……」
心の中を見透かされているかのようで、俺自身ですら見えない部分を見抜かれているかのようだ。
心臓が熱い。頭が真っ白で、言葉が出てこない。
「本気でフェイトさんを助けたかったのでしょうし、本心からプレシア・テスタロッサさんを守りたかったのでしょうし、アリシアさんを救いたかったというのも本願なのでしょう。みんなの居場所を壊さずに済んで良かったと、本当に心の底から思っているのもわかるわ。だからこそ、耐え難い。努力して磨き上げてきた武器がもうなくなってしまったことが」
リンディさんは片手を俺の背中に回し、もう片手は頭に持ってくる。語りかけながら、俺の頭を優しく撫でる。
「他に言えないわよね。『後悔はしていない』としか、言えないわよ。つらいなんて、失いたくなかったなんて口に出せば、フェイトさんたちに重荷を背負わせることになってしまう。徹君の犠牲の上で成り立っている幸せだと、そう認識させてしまうから……本心から断言できる『後悔
抱き締められた温もりと、包み込んで癒してくれるような柔らかさ。耳を撫でる穏やかな声。母の面影。
纏わせていた心の殻が、ぼろぼろと音を立てて剥がれていく。
「徹君の周りには、年下しかいなかったものね。年長者としてみんなの前に立って、後ろのみんなを安心させないといけない立場だったもの。無理をしていたのよね……よく頑張ったわね。泣きたいのを歯を食い縛って耐えて、足が折れそうになるのを懸命に奮い立たせて、手が震えそうになるのを必死で誤魔化して、いつだって頼りになる大きな背中を年下のみんなに見せてきた。徹君が前に立って引っ張ったから、みんなこうして無事でいられているのよ。だから、だからね……」
胸が締めつけられているように、息苦しい。目元が熱い。視界が滲む。
すごく不安だった。これで正しいのかと、ずっと自問自答していた。こうして強がる必要のない大人に優しく包まれて、ようやく気づいた。
俺は心細かった。
ふらふらと漂わせていた両腕を、リンディさんの背中に回す。幼い子どものように、彼女に抱きついた。安心感に浸りたくて、腕に力を込める。
彼女はなにも言わず、黙って強く抱き締めてくれた。
堤防が決壊するかのように目から熱い涙が溢れる。声を押し殺すことなど、できなかった。
「今だけは、守ってきた子たちは誰もいないから……泣いてしまいなさい。頑張ったぶんだけ、甘えてもいいの。誰も見ていない、私しかいないから……もやもやした感情を吐き出しなさい。全部、受けとめてあげるからね」
失ったものは少なくない。
けれど、救えた命もまた、少なくはなかった。
自分の意志を貫き徹した
左目を失ったからなんだ、もう片方がある。
適性を二つ失ったからなんだ。魔法を知った瞬間からまともに使える適性などなかったのだ。既存の魔法を改造して転用するか、いっそのこと新しい魔法でも作り出してしまえばいい。
失ったものなんぞどうとでも代用できる。なくしたものより、得たもののほうが多いし、大きい。
なにも問題なんてない。なにも支障なんてない。困ったことがあればその都度対処していけばいい。
目下俺の頭を悩ませているのは、姉にどう説明するかという点と、リンディさんの顔を見れそうにないという点くらいのものである。
はい。というわけで最終話でした。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
長かったですね、まさか一年と数か月かかるとは思いもよりませんでした。本当ならAsまでやりたかった、というよりも、はやての結末を認めたくなかったがために書き始めたんですけどね。なにがどうしてこうなった。
感想について。
返信できなくてすいません。この話を書き終えて、感想はすべて読ませていただきました。
この場を借りて、お礼申し上げます。応援してくれた多くの方、ありがとうございました。続き書かないの?とかって言われるのはとても嬉しかったです。
返信できなかったことについてはただただ申し訳ない限りなのですが、書いている途中に感想欄に目を通していたら、僕の脆い精神は半ばからポッキリと逝っていた可能性がありました。真摯に受け止めて作品に反映させるべきなんですけどね。
最終話について。
続きを書く予定なんてなにも立っていないのに、次のための伏線を張るという。
弱体化するのは仕様です。
続きを書くことが、もしかしたらあるかもしれません。ただメンタルがすこぶる貧弱なので、すぐには書けそうにありません。
機会があれば、またちらりとでもいいので見てくれると嬉しいです。無印編はやりきったとはいえ、やりたいことはいっぱい残っていますからね……。
キャラクターへの愛着がやばい。
初めて書いた二次創作の作品でどうにかこうにか完結までこじつけたのは良かったのですが、やはりいろいろ未熟な部分が散見されました。いつかリベンジしたいです。
話を簡潔にして、余計な描写を省く。テンポをよくするというのが一番の課題ですね。たくさん突っ込まれたリニスさんとの戦闘、あれは頑張れば半分くらい削れた気がする。ううむ、その時は必要だと思っていたからこそ書いたとはいえ、やっぱり悔しいなぁ。
一番最初の構成ではループ物をやろうと思っていたので、『リリなの』でもう一度やるとしたら、たぶんそんな感じのお話になるかと。なぜ今作でループ物をやらなかったのか、理由は簡単です、技術が不足していると分かり切っていたものですから。いつの日か書けるといいな。
たぶん、そう遠くないうちに違う二次創作に手を出すと思います。見かけて興味を持っていただけたら覗いていただけるとありがたいです。いつ書き始めるかもまだ考えていませんけれど……。
さて、最後にもう一度謝辞。
長きにわたってお付き合いくださり、本当にありがとうございました。感想を書いてくださった皆様、評価をつけてくださった方々、拙い文章を読んでくださった人全員に感謝です。ありがとうございました。
それでは、またどこかで。