そんな結末認めない。   作:にいるあらと

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一夜のうちに散る華のように切なく、湖面に浮かぶ月のように幻想的に、木陰で羽を休める小鳥の囀りよりも美しく

 魔法としての理論なんて知らない。人体に纏わる知識ならば多少はあるが、それとて魔力が絡めば様相は一変するだろう。

 

 だからこれは、俺の仮説に過ぎない。これまでに得た、魔法に関する情報や実体験をもとにした推論でしかない。

 

 だとしても、それなりの自信と相応の根拠があった仮説だった。

 

「うっく……ぁっ、ぐ……」

 

 ――過度な演算処理に頭が痛む。視界はぼやけ、左目が捉える光景は黒ずんできた。もはや視覚としての役割を果たせていない。瞼を閉じた――

 

 まず『アリシアは助けられる』という確信に至ったのはアースラの艦橋(ブリッジ)でのことだ。

 

 管理局の戦闘部隊の人たちが時の庭園に浮遊カメラを引き連れて乗り込んだ。隊長を務めていたレイジさんは足止めのためにリニスさんと交戦したが、今回気にするべきは別行動を取った副隊長さんのほうだ。

 

 副隊長さんはプレシアさんの研究室に踏み込んだ。その時カメラが捉えた光景こそが肝だった。アリシアが膝を抱えるように縮こまり、カプセルに入っているという映像。

 

 カメラがアリシアを映してからは、プレシアさんが(まく)し立てるように多弁なまでにフェイトへと語りかけていたので深く考察する余裕はなかったが、しっかりと思い返せばおかしいのだ、それは。

 

 プレシアさんが携わった魔力駆動炉の暴走事故による被害者は大勢いた。アリシアだけではない、駆動炉の実験を行っていた施設の付近に住んでいる人たちが犠牲になった。それこそ、(おびただ)しいと言って差し支えないほどに。

 

「かっは……うぶっ……はぁ」

 

 ――手足がじんじんと痺れて、同時に震え始める。俺自身の魔力は、もう底をついていた。口の中は鉄の味が充満している。気分が悪い――

 

 魔導炉事故の被害に遭った、という括りであれば、付近の住民たちとアリシアとでさしたる違いはないが、被害の状況という括りでは二者の間には明らかな差異がある。口には出し辛いが、遺体の損壊度だ。

 

 俺が管理局のデータベースに忍び込んで視た報告書には、熟れたトマトを地面に叩きつければちょうどこうなるだろう、という画像ファイルが無数にあった。至る所で、内側から爆発したような犠牲者の遺体が発見されていた。

 

 幾つか目を通した報告書のうち、日付が新しいものにその理由が記述されていたことを記憶している。(いわ)く『過度な魔力素をごく短時間に放射された結果、許容を大幅に超える魔力に身体が耐え切れなくなった』と。

 

 これが違いだ。アリシアと他の被害者との、明確な違い。

 

 何故、アリシアだけは五体満足で原型を留めていたのか。その答えのヒントは、あの事故に生き残っていた人たちにあった。

 

 プレシアさんは教えてくれた。結界を張ることで駆動炉から放出される魔力を防いだ、と。

 

 であるなら、他の犠牲者と明らかに被害の度合いが異なるアリシアの理由もまた、魔法によるなんらかの抵抗と考えるべきである。それ以外に防ぐ手立てなどないのだから。

 

 魔力駆動炉が暴走し、尋常ならざる魔力がばら撒かれた時、おそらくアリシアは意識的にしろ無意識的にしろ、防御魔法もしくは結界魔法に類する魔法を使った。

 

 しかしまだ幼く、デバイスも持たないアリシアではプレシアさんたちのような完全な魔法を構築することができず、ぶつけられる魔力の勢いを低減させることしかできなかった。

 

 だからこそ他の住民たちとは違って肉体の損傷は軽微に抑えられ、だからこそプレシアさんたちとは違って無傷とはならなかった。

 

「うぐっ……ぅ。おぇっ、げほ、ふっ……はぁっ」

 

 ――食道を何かが遡上した。抑えようとしたがそんな意思とは無関係に、胃が痙攣して強引に吐き出させる。足にそれがかかった。どろりとして粘度が高く、鉄臭い匂いが鼻を突く――

 

 これは俺の憶測であり推測でしかないが、大きく間違っていはいないだろう。依然ユーノが言っていたことだが、限界を超えて魔力を絞り出し死に至った事例があるらしい。実際俺も、アルフと戦った時には体力的には余裕があっても息が上がったし、魔力を大量に使いジュエルシードを封印した翌日は全身が気怠さで包まれていた。

 

 以前から、不思議に思っていたことがある。

 

 魔導師にとって魔力は酸素のようなものだ。リンカーコアの生成・供給が追いつかなければ苦しくなるし、枯渇すれば意識すら薄れていく。それは理解できる。

 

 なのに、魔法を使えない人にはリンカーコアが存在しないとされているのに、なぜ普通に生活ができているのか。これについては俺も断言できるだけの論拠を持ち合わせてはいないし、ミッドチルダの学者さんの間でも意見が分かれているらしいが、しかし一つだけ確かなことがある。魔導師には魔力が必要であるということだ。

 

 魔力の消費と身体機能の低下には因果関係があり、かつ、魔導師であるのなら生命活動を行うのに魔力が不可欠。

 

 そしてアリシアは駆動炉からぶつけられた魔力素と、それへの対抗手段でリンカーコアを酷使したことが原因となり、身体機能が停止するにまで陥った。

 

 これらの事柄から、俺はアリシアの症状をリンカーコアの機能不全による、一種の仮死状態と見た。

 

「い、ぎっぅ……。はっ……あぁっ……」

 

 ――手と肩から送られる温もりと力は、鈍麻した圧覚でも受け取れた。俺の手を握っているのはプレシアさんで、肩を掴んで俺が崩れ落ちないように支えてくれているのはリニスさんだ。諦めちゃいけないんだ、もう少しなんだから――

 

 しかしここで新たな疑問が噴出する。身体機能が正常に働いていなかったのに、なぜアリシアの身体は仮死状態を維持できていたのか。

 

 駆動炉からの魔力素をある程度防御でき、アリシアは他の被害者のように肉体が弾けこそしなかった。そのおかげで外見は無傷のように見えるが、しかし魔力を極度に酷使したため身体機能は停止してしまった。それは心臓しかり、肺臓しかり、大腸や胃しかり、である。

 

 何の処置も施されずに放置されていれば、仮死などでは済まず、本当の死を迎えていたのは言うまでもない。

 

 アリシアの容体を悪化させず、仮死状態を堅守したのは他の誰でもない、母親のプレシアさんだ。

 

 アリシアはまだ、死んでなどいない。妄信と換言してもいいほどの母親の情愛。死んでいない、眠っているだけだと、そう信じて疑わなかったからこそ、プレシアさんはアリシアをカプセルの中へと安置した。いつか目を覚ますと信じて、肉体を維持するのに必要な成分を全て取り入れたオレンジ色の液体で包み込んだ。

 

 プレシアさんがアリシアの症状を正確に把握していたかは、俺にはわからない。

 

 だが、そのおかげで、頼りない一本の細い糸は切れずに今日まで保たれた。アリシアを救い出せる条件が満たされたのだ。

 

 エリーは言っていた。身体には血管よりも多く細く、魔力が通る線が張り巡らされている、と。

 

 アリシアのリンカーコアは疲弊しきってはいても、まだ微弱な魔力を送ることはできたのだろう。ハッキングしてやっとわかる程度だが、アリシアの体内で魔力が流れていたことが感じられる。やはり予期した通り、カプセルに充填された液体から魔力や酸素を取り込み、全身を通る管から魔力を流し、血液の代替としていたのだろう。ごく少量ではあっても弱々しく体内を循環し、身体の維持を果たし、決定的な死を避け続けていた。

 

「な、んで……なんでっ……っ! げほっ……ごほ」

 

 ――周りで聞こえていた岩を撃ち砕くような爆発音を、もう耳は拾ってくれなかった。身体の感覚も遠ざかっていく。必要な一点に魔力を集中させるために要らないところへの供給を遮断したのか、足は力が入らなかった。咳まで止まらなくなってくる。咳をする度に手や足にぱたぱたと血がかかった――

 

 アリシアが目覚めない原因は突き止めることができていた。

 

 リンカーコアの具合が悪くて起き上がれないのなら、そのリンカーコアのおかしくなっている部分に手を加えて治療すればいいだけ。それができる技術(ハッキング)知識(経験)を俺は持っている。

 

 リニスさんのリンカーコアではあるが、何度か実際に魔導師のリンカーコアを見たことが(とは言っても魔力を潜り込ませた時のイメージとして、だが)あるのだ。どういう魔力波パターンが正常で、どういう流れが異常なのか、ある程度感覚として心得ている。

 

 精密にして緻密な操作が重要なリンカーコアへの接続は十全にできていた。正常ではない部分、エラーを引き起こしている箇所への治療は万全手を尽くした。

 

 アリシアが陥ったリンカーコアの機能不全は、解消されたはずなのだ。

なのに。

 

「なんでっ……目が覚めないッ!」

 

 万策講じた。万事(つつが)なく完了した。(ばん)遺漏(いろう)なきよう努めた。

 

 なのに、アリシアは目を覚まさない。

 

 リンカーコアはもう、本来持っていた機能を取り戻しているはずなのに、なおも活動を再開しない。まるで、強い信念を持った何かが邪魔をしているかのようだった。

 

 体内に循環させる魔力の量は変わらず、ごく微量。どころか悪化してさえいる。カプセルから放り出されたことにより魔力を吸収できなくなっているのだ。これではそう時間は持たない。

 

 血液の代役を成して酸素を供給していた体内の魔力循環が停止すれば、十分で死を迎える。酷ければ五分と持たずに脳細胞が死滅し始めるだろう。

 

 今度こそ、アリシアは死ぬ。仮死状態とか、そんな救いが介在する余地なく、生物としての死を迎える。

 

「ほ、かに……な、にがっ……あるっていうんだ……はっぁ。どんな……げん、いんがっ……あるって……げほっ」

 

 魔力を通して探っても、他に異常など見受けられない。

 

 問題がない。それは俺にとって悪夢以外の何物でもなかった。

 

 問題がないにもかかわらずアリシアが目覚めないのであれば、俺にはもう手立てがない。

 

 独自に理論を築き上げ、死に物狂いで可能性を追い求め、迷いながらも直感を信じ込み、一心不乱に活路を見出した。助ける術を追求し、究明し、解明した。その結果、アリシアのリンカーコアの異常を発見し、(ことごと)くを解決した。

 

 それだけやっても、アリシアを救えない。ならば俺は、これ以上になにをすればいいのだ。なにをやれば、運命を覆せるというのだ。

 

「くそ……くそっ。もうっ、少し……もう少しっ、だってのに……っ」

 

 絶望感が這い寄ってくる。足の感覚はとうになく、手はかじかんで震える。アリシアの胸の中央に接しているはずの手のひらは麻痺し、感触も体温もなにも感じ取ることができない。

 

 疲労の極致を踏み越えている肉体と、既に底を割っている魔力。フル回転で限界まで演算を続けている頭はオーバーヒートを起こしている。神経は焼きつき、脳みそは融けそうだ。

 

 満身(まんしん)創痍(そうい)気息(きそく)奄々(えんえん)。気を抜けば一瞬のうちに意識は薄れ、離れていく。

 

 頭は発熱してくらくらと眩む。目を開かずとも視界はぼやけているだろうことはわかった。左目が疼痛を訴える。脳どころか全身が高熱に苛まれ、喉が渇いて仕方がないのに、口腔を満たすのは粘り気のあるどろりとした血液。どの部位から出血しているかはわからないが、胃は断続的に赤黒い血の塊を押し上げる。横隔膜がおかしくなっているのか、それとも肺に異変が生じているのか、空気を取り込むことすら困難だ。

 

 酸素が欠乏し、思考が濁っていく。全身の感覚が鈍り、自分が今どういう状況にいるのかすら把握できなくなった。

 

 身体は地面に沈んでいくのではと思うほど重たいのに、意識はふわふわと肉体から抜け出て宙を漂うかのようだ。

 

 ――どうせ……は、もう……のことなんて……――

 

 誰かの声が、聞こえた気がした。

 

 どこから聞こえてくるのかを探すことも、声の主にお前は誰だと尋ねることも、俺にはできない。それだけの力も残っていなかった。

 

 どうせ極限状態が原因の幻聴か、みんなの話し声を一時的に耳が捉えたか、そうでなければ夢でも視ているのだろう。

 

「う、ぁ……」

 

 千々に裂かれた意識は暗い海へと落ちていく。身体がぐらりと後ろに傾いた。

 

 床に身体を打ちつける、そう思った。倒れたら、もう、起き上がることはできない。

 

「徹っ……あなたは願いを叶えるんでしょうっ! だからここまで頑張ってきたんじゃないですか! 私たちの居場所を守ってくれると、そう言ってくれたじゃないですか!」

 

 倒れそうになる俺の背中を支えるのは、発破をかけるリニスさんの声。

 

 厳しく激しい物言いだが、その裏側は静謐(せいひつ)で思い遣りに満ちていた。

 

 優しいリニスさんのことだ、自分はなにもできず、なのに他人が苦しんでいる様子を間近で見続けるのは相当に辛いだろう。それでもこうして背中を押してくれるのは、ここで諦めてしまったら俺が絶対後悔することをわかっているからだ。

 

 居場所、帰る家。家族が全員揃って、なにも心配や不安を抱かずに笑っていられる場所。守りたかった、守らなきゃいけない場所。必要なんだ、誰にとっても。俺にも、プレシアさんにも、フェイトにも、アリシアにも必要なんだ。

 

 右手薬指に嵌められたシンプルで飾りっ気のないシルバーの指輪が、姉ちゃんから貰った指輪が、きらりと輝いた気がした。

 

 わかっている、これは幻覚だ。

 

 俺は目を瞑っていて、視覚を遮断している。その上俺の右手にはプレシアさんの手が重ねられている。魔法になんら関係しない指輪が輝くなんてあり得ないし、そもそも見ること自体が不可能だ。

 

 だから、それでいい。幻覚でいい。俺の心が生み出した幻でいい。だってそれは、俺がまだ諦めていないという証だから。

 

「徹君……無茶をさせているのはわかっているわ。それでも、お願い……っ!」

 

 アリシアから手が離れないように押さえ、引き戻してくれるのはプレシアさんの体温。

 

 優しく包み込んでくれるような、それでいて強い信念と覚悟を有したその手は、在りし日の思い出を蘇らせる。厳重に封をして心の奥底に隠したはずの記憶が、掘り返される。

 

『正しくなくたっていい、周りから非難されてもいい。そりゃあ人から受け容れられることのほうがいいし、人に優しいことならそれが一番だけどね。徹の選ぶ道がなんであっても、それでも徹自身が後悔しないように、自分の……』

 

 いつか夢に視た母さんとの会話の一文。雑多な記憶に埋もれていたはずの、母親との思い出。自分の名前の由来について親御さんに訊いてくるように、という旨の宿題を学校から出された時の会話だ。

 

 前に夢で視た時はここで途切れていた。これより先はノイズが混じって、まともに聞き取れなかった。

 

 だが、なぜだろうか。ここ数日で様々な経験を積んだからか、俺の心境に変化があったからか、それともプレシアさんが俺の手を握っているからか。

 

 どんな根拠に基づいているのか自分でもわからないけれど、それでも俺は、今ならその続きを思い出せると固く信じて疑わなかった。

 

 そうだ。あの時母さんは、照れたように微笑みながら、それでも俺の手を取って真剣に、目を見つめながら言ったのだ。自分の気持ちが俺に伝わるようにと切に願って、言ったのだ。

 

 ――自分の想いを貫き(とお)せるように――

 

「思い、出せた……」

 

 当時の俺は幼かったから、母さんはあえて『想い』という言葉をあてたのだろう。きっとそこには、俺が思っているよりも多くの意味と感情が込められている。

 

 意地であり意志であり、信念であり信条であり、覚悟であり矜持でもあるのだろう。

 

 今になってようやく、俺はその『想い』を受け取ることができた気がした。

 

「ああ……そう、だった。忘れちゃいけない……ことだったのに」

 

 自分のやり方を貫き徹す。

 

 いつだって壁にぶつかって、へこたれそうになっても諦め悪く、石に(かじ)りついても食い下がってきた。

 

 無様、不恰好、大いに結構。手に入れたいものがあるのなら、手放したくないものがあるのなら、地に伏せようが血に塗れようが構わない。

 

 これまで這い蹲ってでも手探りで答えを探してきたのだ。これまでもそうで、また、これからも。

 

 なら、今この瞬間だって。

 

「ありがと……。もうちょっとだけ、頑張ってみる……」

 

 喉に血が絡んで不明瞭だが、しっかりと声に出して決意を新たにする。

 

 コンディションは考え得る限り最悪だ。ここまで気分が悪いのは人生で初めてと言っていい。時間が経過する度に魔力は消費され、コンディションの最低記録は更新されていく。

 

 でも、一番大事なものは回復した。

 

 最後の最後まで諦めずに足掻く。みっともなくても、見苦しくても、解決法を模索する。

 

 身体はぼろぼろでも、心は折れていない。

 

 痛みを訴える内臓の申し立てを棄却し、大きく息を吸う。精一杯空気を取り入れて、止める。

 

 もう、魔力のタンクはゼロ、空だ。息を吸い込むだけで激痛を主張してくる。体力の残量もゼロ、底だ。動こうとしても動けない。

 

 全身に残った魔力を振り絞り、なくても搾り出し、右手に集中させてアリシアへと送り込む。

 

「――――ッ?!」

 

 ばつん、と何かが断裂する音が心の奥から響いた気がした。

 

 痛い、痛い痛い痛い痛い。苦しい、苦しい苦しい苦しい苦しい。

 

 気を失いそうになった。気が狂いそうになった。唇の端から赤い線が幾筋も垂れ流される。手の震えが止まらない。頭蓋骨の中で火薬が爆ぜているみたいだ。

 

 それでも、耐えた。これが最後の仕事だと念じながら力を振り絞り、アリシアの奥の奥、最奥まで魔力を(とお)す。

 

 手がかりを掴めた気がしたのだ。足がかりを見つけた予感がしたのだ。

 

 耳ではなく俺の頭の中に直接聞こえた誰かの声、リンカーコアはおよそ完治しているのに目覚めない理由。

 

 それにようやく行き当たった。原因はアリシア本人だ。

 

 根本的な問題は解決できている。リンカーコアを含めて、アリシアの身体に異常は残っていない。あるとするならば、アリシアの心のほうにこそ残されていた。

 

『どうせママは、もうわたしのことなんて……』

 

 俺の頭に届いた少女の声。ノイズが混じっていた朧げなその声を、虚ろな記憶をもとに補正し、補完した。

 

 その言葉の真意を、寸分違わずに理解することは俺にはできない。できないが、その言葉の続きは想像できた。

 

 アリシアから送られてきた思念に思うところがなかったわけではないが、それ以上に安堵の念が強く湧き立った。

 

 アリシアはまだ、生きている。魔力という線で繋がっている俺に少女の心が流れ込んできた事実は、少女の魂が未だ消滅していなかったというなによりの証左だ。

 

 身体どころか心臓すらその脈動を停止させていて、唯一命を繋ぎ止めている魔力の循環さえいつ滞るかわからない危ういラインだが、それでもまだ、生きている。

 

 リンカーコアの損傷・変質を解決した今、少女が目覚めない理由など心因的なものとしか考えられない。あとはアリシアが自分の意志で固く閉ざされた扉を開きさえすれば、壁を乗り越えることさえできれば、それで全てが解決される。

 

 だというのに。

 

「な……んで、助かろうと……しないんだっ」

 

 手を伸ばせば助かるところまできているのに、されどアリシアは拒む。

 

 このままでは自分の命が潰えることもわかっているはずだ。理解した上で、把握した上で、承知した上で、アリシアは俺の手を払いのける。

 

 助けなんていらない、救いなんて求めていない、このまま死ぬ。とでも言いたげに、アリシアは断固として抗拒した。

 

「なんで、んぐッ……げほっ……っ」

 

 魔力の限界なんて、体力の限度なんて、気力の極限なんて、とうに超えている。

 

 魔力のラインが断ち切れるのも、ハッキングが使用不能になるのも時間の問題だ。気合や根性でなんとかしようとしてできるものではない。

 

 アリシアの心変わりを、そう長い間待っていることなんてできそうになかった。

 

『あなたも、もういいよ』

 

 また、アリシアの声が聞こえた。

 

 魔力で繋がった糸を伝って俺に届けられる。先よりも深く潜っているからか、音が掠れるようなノイズはなかった。

 

『疲れたでしょ? わたしはここで、終わるの。だからもう、やめていいよ。……聞こえてるかわからないけど』

 

 続け様に放たれるアリシアの言葉には、諦観や悲哀とは違う響きがあった。

 

 状況も体調も、最低最悪を自乗したくらいに惨憺たる有様だが、それでもまだ救いがあった。

 

 一つは、もうやめるようにと勧めてきてはいるが、会話が成立しているということ。

 

 もう一つは、その会話が口頭ではなく念話であるということ。魔力を有線で繋いでいるので念話であると断定して言い切れないが、思念による会話であることには違いない。

 

 口を動かすほうであれば、今の俺のコンディションではまともに喋れなかったが、念話であれば魔力に乗せて想いを送るだけでいいので救われた。

 

『なんで……助かろうとしないんだ』

 

 内から溢れ出した感情は、そのまま思念として相手に送られた。

 

 しばしの沈黙のあと、応答。おそらくは短かったのであろうその沈黙は、神経どころか魂を削って状態を維持している俺からすれば、永久にも思えた。

 

『勘違いしないでね。あなたのことが嫌いとか、信用できないとか、そういうことじゃないんだよ』

 

 アリシアはそう前置きをする。

 

 送られてくる思念としての声は確かに幼い少女のそれなのだが、どこか言葉遣いや喋り方といったものが大人びていた。

 

 とてもではないが、歳のほどがフェイトやなのはといくつか違うだけとは思えない。容姿とはそぐわない達観したような印象を受けた。

 

『もうわたしの席はママの隣にはないから。わたしの居場所なんて、もう……どこにもないから』

 

『そんなわけない……っ、そんなことあるものか。プレシアさんの情愛を、リニスさんの献身を、フェイトとアルフの努力と尽力を知れば、そんなこと……』

 

『知ってるよ、わたし。知ってるの』

 

『は……?』

 

 アリシアの家族みんなが、死力を尽くして身命を賭して、アリシアを助けようとしていたことを知ればこの少女の頑なな意思も変えられると思った。

 

 だから俺はプレシアさんが、リニスさんが、フェイトが、アルフが、みんながどれだけ頑張ってきたかを語ろうとしたが、しかし、アリシアは止める。その努力の程は知っている、とカプセルに入れられていたはずのアリシアはそう言う。

 

 そんなわけがない、知れるわけがない、知れる術がない。頭では少女の発言を否定するが、アリシアの言い様には、口振りには、得体のしれない説得力があった。

 

 言葉を失った俺に、アリシアは続ける。

 

『身体は動かなかったけど、目も見えなかったけど、耳も聞こえなかったけど、ママがわたしのためにどれだけ頑張ってくれてたかは知ってるよ』

 

 言葉の間あいだ、切れ目切れ目に独特の余韻を残しながら、アリシアは『信じてくれるかはわからないけど』と付け加える。

 

『カプセルに入ってる時にね、なんていうのかな? 幽体離脱? そんな感じで身体から抜け出せることがあったの。ふわふわって。飛行魔法なんて知らないのに浮かんで、そのまま動けたんだ。壁も、カプセルも、通り抜けれたんだよ』

 

『そんな、こと……ありえない。幽体離脱? 意識だけが……浮遊する? そんなオカルト……』

 

『わたし自身よくわかってないけど、それでも信じてもらわないと次にいけないよ』

 

『わ、わかった……理屈はわからないけどそういうこともあるって納得しておく』

 

 正直、(にわ)かに信じ難い内容だが、それでも無理矢理に呑み込んだ。

 

 話を先に進めないといけない。そうしないと、アリシアを翻意させる前に俺が力尽きてしまう。

 

 理解したという(てい)で、アリシアに促す。

 

『よかった、ありがと。そうしてふわふわ動き回ってる時にね、ママが机に向かって紙にいっぱい書いてたの、見たんだ。研究室で作業してるのも見たし、一日中寝る間も惜しんで長い時間わたしを助けるためにいろいろしてくれてたのも見た。知ってるんだよ、ぜんぶ。きっと、あなたよりも』

 

『それなら、どれだけ愛されているかも知ってるだろ……。君を助けたいがためにここまでやったんだ。ここまでやってきたんだ』

 

『うん、そうだね。毎日毎日、がんばってた』

 

『君をもう一度抱きしめたいから、もう一度笑いかけてほしいから、身を粉にして打開策を探ってきたんだ。俺がしゃしゃり出たせいで少し方法は変わってしまったけど、助けられるところまできたんだ。アリシア、君だってお母さんに甘えたかったはずだろ?』

 

『そう、だね。またママが作ってくれる料理、食べたいな。遊びにも行きたいよ。ママはお仕事忙しくて、結局行けなかったから』

 

『今なら叶うんだ、全部上手く行くんだ。だから……早く俺の手を取ってくれ。もう……長くは持たない。帰ろう、早くみんなのところへ。家族のところへ……』

 

『家族……』

 

 アリシアとの念話では、声は掠れもせず饒舌に喋れているが、刻一刻と俺の体調は悪化の一途を辿っている。

 

 リニスさんに支えてもらわなければ体勢も維持できず、足も腕の末端も感覚が消失していてプレシアさんの手で押さえてもらっていなければアリシアと繋がり続けることすら難しい。途切れそうになる意識をいつまでも繋ぎ止めておけそうにない。

 

 朦朧としている頭で説得してきたが、俺が『家族』と口にした時、アリシアはこれまでと違う反応をした。

 

 ほつれそうになる思考の糸を紡ぎ、ここがアリシアにとって重要なポイントであると見定めた。

 

『家族のもとに帰ろう。しばらくは不自由すると思うけど、すぐにみんなで暮らせるようにするから……』

 

『その家族の中に、わたしの居場所はないんだよ』

 

 居場所。最初にアリシアが言っていた単語が、ここで再び現れた。

 

 居場所がないというアリシアの言に不可解さを覚えると同時、詰めるべき論点を間違えたかもしれないという焦りと後悔が押し寄せる。

 

『なに言ってんだ……そんなわけないだろうが』

 

 (ざわ)つく動揺を打ち消そうと俺が返すが、アリシアは静かに説明する。

 

『研究に行き詰まってたんだろうね。ママはクローン技術に手を出した。わたしの記憶や思い出を移したクローン体で満足しようと、したんだろうなって、思うけど……でもそれって、わたしはどうなるんだろうって不安になったよ』

 

『それでプレシアさんに……お母さんに裏切られたと思った、ってことか?』

 

『ううん、ママの気持ちもわかるから……寂しかったんだろうね。それでママが幸せなら、わたしはそれでもいいかなって思ったよ。それで前を向けるようになれるんなら……そっちのほうがずっといいって、思ったんだよ』

 

 アリシアは、母親への想いがなくなったわけじゃない。どころか強く、自分のことを二の次にできるほど強く想いを抱いている。

 

 しかし、それは随分と器の大きな考え方だ。自分より母親を優先するという考えは立派だが、普通はそこまで割り切るなんてできはしないだろう。

 

 とてもではないが外見年齢と整合が取れているとは言えない。小学生中学生なんて比じゃない、下手すれば並の大人以上に老成している。

 

 俺は思わず、重い瞼を持ち上げた。左は暗幕に閉ざされたように使い物にならないので、右の目でアリシアを見る。左目ほどではないが右目も(かす)んで見辛くはあるが、近いこともあり顔は見える。

 

 フェイトやなのはより二つ三つは幼い容貌のどこに、大人より大人びた精神が入っているのだろうか。そしてその精神はどこで熟成されたのだろうか。

 

 頭にアリシアの声が響く。口元は、動かない。

 

『でも、そのクローン体……こんな言い方は感じ悪いね。フェイト、だね。フェイトとママは、最初仲良くなかったんだ。ママが難しい文字や数字がいっぱい書かれた紙を見て言ってたよ。身体はそっくり、記憶もあるはず、なのに違うって。それを見てわたし、ちょっと嬉しく思っちゃったんだ。わたし、嫌な子だね』

 

『嫌な子なんかじゃない……そう思うのが当然だったんだ。自分の代わりがいるなんてことのほうが、本来おかしいんだから……』

 

 かすかに笑ったようなニュアンスで、アリシアは『ありがと』と呟いた。

 

 眠り続ける少女の長い睫毛も、柔らかそうな頬も、ぴくりともしなかった。

 

『ママはフェイトに冷たかったんだ。辛く当たられてたのに、フェイトはそれでもママにずっと話しかけてたよ。ママと顔を合わせるたびに「昨日は自分の部屋でこんな勉強をした」「今日はアルフとこんな遊びをした」「明日はリニスにこんなことを教えてもらうんだ」って。ママが無視しても、相槌をうたなくても、興味なさそうな態度でも、フェイトは諦めずに話しかけ続けてた。わたしなら、そこまでできないって思う。ママに素っ気なくあしらわれたら、わたしなら傷つくから……それで言ったら、やっぱりフェイトとわたしは顔は同じでも違うんだろうね。きっと、中身が違う。フェイトのほうがずっと強くて、強いんだ』

 

『アリシアとフェイトは違う。記憶や思い出が同じようにあっても、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の手で触って、自分の足で歩いてきた分、それぞれ変わっていくのは当たり前なんだ。でも、だからって、フェイトは強くてアリシアは弱いなんてことにはならない。アリシアにはアリシアの良いところ、強いところがしっかりとあるんだ』

 

『そう、かな……えへへ、嬉しいな』

 

 直接脳に送られてくるアリシアの声音は、はにかむような可愛らしいものだった。大人びた雰囲気から一転した、少し幼げな笑い声。

 

 照れくさそうな声とは裏腹に、顔色は変わらない。朱がさしたりは一切せず、青白いままだった。

 

『そうやってフェイトがママに話しかけ続けたらね、ママは少しずつフェイトに心を開いていったんだよ。少しずつ、本当に少しずつだったけどね。話しかけられたらフェイトのほうを見るようになって、フェイトの目を見つめるようになって、相槌をうつようになって、ママからもフェイトに喋ったりすることも多くなって、笑顔になることも多くなった。そうやってゆっくり仲良くなって、今ではフェイトの足音が聞こえるだけで、ママは手を止めてフェイトがくるのをそわそわしながら待ってるんだよ』

 

 やはり推察通り、プレシアさんは当初を毛嫌いしていたようだ。見た目はアリシアそっくりなのに、所々で差異があるフェイトは疎ましい存在だったのだろう。

 

 しかし、プレシアさんの強硬な姿勢は長くは保たれなかった。考えてみれば当然の帰結とも言える。

 

 最愛の娘と同じ顔をしていて、敬愛の眼差しを向けられ、親愛の情を持って話しかけられ、恩愛を抱きながら窮屈な箱庭で暮らしているフェイトを見ていれば、八つ当たりに近い怒りも、理不尽が過ぎる恨みも、筋の違う憎しみも、まともに維持できようはずがない。

 

 フェイトはプレシアに、(かえり)みることなく信愛を捧げていた。ほかのなにものでもない深愛を捧げていた。

 

 アリシアを失って凍てついたプレシアさんの心を、フェイトは包み込んで優しく融かしていったのだ。心の距離が近づくのにそう時間はかからないだろう。

 

 アリシアは、その光景を一番最初から今日に至るまでたった一人、眺め続けてきた。

ただ眺めることしかできずに、眺め続けてきたのだ。

 

『ママはフェイトに時間を割くようになったよ。一緒にご飯食べたり、お茶したりもするようになった。フェイトがママに笑いながらアルフの失敗談を話して、アルフは慌ててフェイトの口を抑えようとして、ママは微笑みながら二人を見て、リニスはアルフに暴れないようにって注意しながらお茶やお菓子を用意するの。丸いテーブルで輪になって、みんなが楽しそうにしながらおしゃべりしてるんだよ。いつも楽しそうに……いつも本当に楽しそうに、おしゃべりしてるんだ。フェイトが切り出して、アルフが的外れなこと言って、ママが柔らかく突っ込んで、リニスがアルフをいじるの。だいたいいつもそんな感じで笑いあってるんだよ。会話の流れができてるんだ。台本があるみたいにきれいでね、わたしもつい笑っちゃいそうになるんだよ。……ほんとに』

 

『そういう……意味か』

 

 ここまで本人の口から言わせて、俺はやっと気づいた。アリシアが言った『居場所』の意味。

 

『ママと、フェイトと、リニスと、アルフ。この四人が(・・・・・)「家族」なの。その四人で、「家族」なの。今さらわたしが入ったところで、関係がおかしくなっちゃうだけだよ。四人でできてるきれいな丸が崩れちゃう。わたしはもう、邪魔なだけ。わたしがいたところにはフェイトがいるから、わたしは入れない』

 

 これが理由、わかってもらえたかな。

 

 そう最後に付け足して、アリシアは締め括った。

 

 ここまで詳述されたら、アリシアが体験したという幽体離脱だが体外離脱だかの現象は疑いようがない。ロジックやセオリーは未だ見当もつかないが、アリシアは実際にプレシアさんとフェイトの会話を見て、聞いたのだ。

 

 母親と自分にそっくりな存在が、互いの使い魔も交えて楽しく過ごしているという日常を、アリシアは見続けて、聞き続けてきたのだろう。他愛ないお喋りを楽しんでいる『家族』の団欒を、一切介入できないその空間を、アリシアはただ眺めていた。一人だけ輪から離れて、外れて、どのような想いを抱いたのか。

 

 自分がいなくても、いや、いっそのこと自分がいないほうが、みんな幸せになれるんじゃないか。

 

 長い時間そんな『家族』の光景を見続けたアリシアは、そんなことを考えるようになってしまったのではなかろうか。自分がいなくなれば母親は研究もしなくていいし、フェイトは辛い戦闘訓練をせずに済む。のんびりと、毎日を家族一緒に穏やかに過ごせる。

 

 アリシアが考えつく先、結論は。

 

『家族の中に居場所はない。自分がいても邪魔者になる。だから……ここで死ぬって言うのか……』

 

『そうだよ。想像しただけで寒気がするもん。わたしがいなかった時はあれだけ弾んでいた会話が、わたしが入った途端に続かなくなったりしたら。そう考えるだけで、胸がきゅってなるよ。ママにもフェイトにも気を使わせちゃうだろうしね』

 

『アリシア……』

 

 アリシアの立ち位置からすれば、その通りなのかもしれない。幸せそうにフェイトとお喋りする母親の姿を見ていれば、自分など必要ないと思い詰めてしまうかもしれない。

 

 相手のために一歩引く。その志は立派と言っても差し支えないだろう。母親に迷惑をかけたくないと思うのは思い遣りであるし、フェイトの邪魔をしたくないと考えるのは優しいと言い換えることができる。

 

『……そいつは間違ってる』

 

 だとしても、俺は認めない。

 

 そんなものはただの卑屈、いじけているだけだ。自分に構ってくれず、妹ばかり可愛がる母親に拗ねて不貞腐れているだけなのだ。

 

 アリシアの精神を大人びていると言ったが、訂正しなければならない。こんなものは、大人になろうとしてなり損なった、ただの子どもだ。

 

『……さっきから……模範的な良い子みたいに、ママがどうとか、フェイトがなんだとか……お前自身はどう思ってるんだ。またお母さんの隣にいたいと思わないのか』

 

『だからね、わたしがいたって……』

 

『それは周りの目を気にしたお利口な意見だろうが。そんなものを全部省いたアリシア個人の願いを聞きたいんだよ』

 

『わ、たしは、わたしは……』

 

 淡々と放たれていたアリシアの言葉が、初めて揺れた。

 

『わたし、だって……わたしだってっ、ママと一緒にいたいよ。でも……怖いんだもん……。わたしはもう、ママとどんなふうに喋ってたかも忘れちゃった……。フェイトとお喋りしたほうが楽しいんじゃないかって考えたら、きっと怖くなって言葉なんて出なくなっちゃう。わたしの居場所なんてないんだもん……』

 

 アリシアが本音を吐露した。胸の内にわだかまっているどろどろとして形の持たない感情を、ようやく打ち明け、ぶちまける。

 

『居場所なんてのは用意してもらうものじゃないんだ。自分で作らないと、そんなものは偽物だ。そもそも、居場所がないなんてのは思い込みかもしれないだろ? 本当かどうかもわからないあやふやな感性を盲信して、未来を摘み取るなんてもったいないことをしようとしないでくれ。生きてさえいれば、どうとでもなるから……』

 

『たしかにわたしの思い込みかもしれないよ、勘違いかもしれないよ。でも、ほんとに……ほんとにわたしがいらない子だったら、どうしたらいいの? 居場所がなくてみんなを気まずくさせても、わたしはどうすることもできないよ。それなら、最初からいないほうが……』

 

 魔力の過剰消費、ひいてはリンカーコアの酷使で全身を激痛に苛まれているし、長時間にわたるハッキングで中身が溶けてしまいそうなくらい頭が痛い。口からは絶えず血が溢れて、気持ち悪さも極まれりという体調の悪さだが、それでも思わず、アリシアの見当違いのネガティブさには笑ってしまった。

 

 アリシアの懸念は全部主観での話だ。

 

 プレシアさんとフェイト、リニスさんやアルフの会話を遠巻きに見ていて、アリシアがそう思い込んだに過ぎない。心が弱り、暗くなってしまったがゆえの思い違いなのだ。

 

『プレシアさんは時空管理局に喧嘩まで吹っかけた。フェイトは姉の為に傷だらけになってでもジュエルシードを集めていた。リニスさんもアルフも身体を張っていた。どれだけひねくれていようが熱烈に受け止めてくれる。いっそ暑苦しいくらいにな』

 

『……でも』

 

『それでも不安だっていうんなら、俺の家にくればいい。プレシアさんやフェイトたちのところが居辛くなったら、俺のとこに遊びにきたらいい』

 

『……あはは、なにそれ。解決してないよ』

 

『俺は姉ちゃんと二人で暮らしてるからさ、時々静かすぎたり寂しかったりするんだ。遊びにきてくれたら嬉しいな。姉ちゃんの相手をしてくれるとなお良し』

 

『……約束だからね。遊びに行かせてね』

 

『ああ、約束だ。そして強制でもある』

 

『あははっ、それじゃあぜったいに行かなくちゃね。お願いするね……パパ』

 

 お願い、とアリシアはそう言った。そう言ってくれた。

 

 その後にくっつけた『パパ』という単語には追及したかったが、アリシアはぷつりと思念による通話を切ってしまった。

 

「……誰がパパだ、誰が」

 

 気になる発言もあったが、ともあれアリシアは前向きになってくれた。もう一度生まれ変わろうとしてくれたのだ。

 

 時の流れによって否応なく環境は変化する。変わってしまった身の回りの環境についていけるかと誰だって不安になるけれど、アリシアはその不安を乗り越えようとしてくれた。

 

 ならば俺はその頑張りに、報いなければならない。

 

 アリシアのリンカーコアは、俺の手抜かりがなければ本来の機能を取り戻している。そして今はアリシア自身も生きようとしている。

 

 問題はないはずだ。これで、目覚めるはずなのだ。

 

「……まだ、なにかあんのかよっ……」

 

 なのに、アリシアの身体は動かない。長い睫毛は上下で閉じられたまま呼吸もなく、体温も上がらない。

 

 危うく解除しかけたハッキングでアリシアの体内に流れる魔力分布を調べてみる。相変わらず循環している魔力量は少ないままだった。

 

「なんで……ああ、くそっ……そういうことかよ……。がはっ、ごほっ……っ」

 

 原因を探り、すぐに答えに行き当たった。

 

 リンカーコアは、空気中に散在している魔力素を体内に取り込むことで魔力を生成する。つまりは、まず第一に呼吸をしなければ魔力を吸収することもできない。

 

 しかしアリシアは体内に残留している魔力が極端に減少し、内臓器官すら動きを停止させてしまった。心臓も、肺臓も、である。

 

 カプセルの中にいた時はオレンジ色の液体から吸収することができていたのに、とカプセルから排出されてしまった後でそんなことを嘆いても仕方ない。

 

 今すべきことは問題点を明らかにして、対処法を構築することだ。

 

 肺が機能しておらず、一段階目の取り入れるという工程ができないということ。魔力が必要なのに、魔力が少なすぎて体内に取り込むことができていない状況にある。悪循環が螺旋を描いていた。

 

「これなら、なんとか……できる」

 

 課題をはっきりさせたら、すぐに解決策も見つかった。リニスさんが言っていた人工呼吸(マウストゥマウス)ではないが、要領は同じだ。

 

 アリシアにハッキングとは別に魔力を送り、内臓が再起動できるようにする。自分で呼吸できないのなら、他から回してやればいい。一度魔力を送って眠っていた身体が起きれば、あとはアリシア自身が空気中から魔力を抽出できる。

 

 だが、ここに落とし穴があった。

 

「……はっ、はは……。俺も……魔力がない、じゃんか……くそッ」

 

 休憩を挟んだとはいえ時の庭園突入前にも魔法を幾つも使い、こちらに来てからはそれこそ戦闘にハッキングにと魔力を消費してきた。

 

 どれが欠けても最善の結末にはならなかった。出し惜しみしていては確実にここまで来れなかった。選択を間違いはしなかった。全部正しかったと確信している。

 

 でも、ここにきて、魔力が枯れ果てた。一滴たりとも出てこない。ハッキングさえも、じきに途切れてしまうだろう。

 

 アリシアに渡すだけの魔力がない。最後の最後で、素質の壁が立ちはだかった。

 

 もう少し、ほんの少しだけでも俺の保有魔力量が多ければ、あっさりと終わらせることができていただろう。もう少し才能に恵まれていれば、もっとうまく立ち回れていたかもしれない。

 

「くそったれだ……そんなもん」

 

 素質の多寡で、運命なんてものが決まるものか。

 

 才能や素質、天稟や資質なんていう魔導師を構成する数多くあるファクターのうちのたった一部分のせいで、台なしになんてさせはしない。血反吐を吐いて地べたに()(つくば)っても、そんなことはさせない。

 

「連れて帰るって……約束、したんだから」

 

 ここが胸突き八丁、正真正銘最後の最後だ。この山場を越えれば、終わるのだ。

 

 ここからは何も考えなくていい。帰り道はクロノかユーノにでも任せてしまえばいい。アリシアを助けることこそが、俺がこの場所にいる理由だ。

 

 命を燃やせ。魂を焦がせ。燃料がないなら、我が身を燃料としろ。

 

「っ……ぅおォああァァッ!」

 

 血を吐き散らしながら、咆哮する。それは覚悟を決した雄叫びであり、襲い来る痛みを紛らわせるための悲鳴でもあった。

 

 憔悴(しょうすい)しきったリンカーコアを叱咤して魔力を生み出し、アリシアのリンカーコアへ送り込もうとする。

 

 魔力を捻出して送る時、全身が錆びた金属を擦り合わせるように軋む印象を受けた。ぎぃっ、ぎぎぃっ、と強引に重たいものを動かそうとしているイメージだ。

 

 目一杯に力を込めると、刹那の空白をおいて、次いで留め金が外れたかのような感触があった。

 

「あがッ……かっあ、はッ……ッ!」

 

 ばつん、となにか大事なものが千切れた音が、体内で残響した。凄絶なまでの痛みで一瞬、思考の八割までもがホワイトアウトする。危ういところでなんとか意識は手放さずに済んだ。

 

 俺の身体の中で、リンカーコアでなにが起こっているのか俺自身知るべくもないが、渇き果てていた魔力が少量ではあるものの湧き出した。

 

 滲み出たそれを、アリシアの小さな身体へ注ぐ。俺の魔力は深く深くへ進行し、その最奥、リンカーコアへと辿り着く。無色透明の魔力は拒絶反応など寸毫(すんごう)も示さず、アリシアへと直接的に供給された。

 

 輪転させるだけの魔力を手に入れたアリシアのリンカーコアは、久しく忘れていた己の役目を思い出したように、全身へと魔力を伝送する。

 

「これで……もう、大丈夫な……はず」

 

 機能不全を引き起こしていたリンカーコアは復調し、再起動するための魔力も得た。それほど間を置かずに心臓が動き、肺は呼吸を始め、自力で魔力を取り込むことができるようになるだろう。

 

 ぷつりぷつりと断線が目立ち始めた意識をこれ以上保っていられないので、今すぐにでも床に伏して微睡みに沈みたいが、アリシアの状態を確認しないことには安心して眠ることもできない。俺は魔力を送り続けた。

 

「んっ、ぁ……マ、マ……」

 

 数十秒ほど、一分経つか経たないかという時、ようやく望んでいた、待望していた、熱望して切望していたバイタルサインが現れた。

 

 肉つきの薄い胸の奥のほうで、とくん、と見逃してしまいそうなほど弱々しく、されど確かに力強く、心臓が鼓動した。一定のリズムで呼吸が行われ、胸が上下に動く。

 

 寝言のように呟いたアリシアの声は、一夜のうちに散る華のように切なく、湖面に浮かぶ月のように幻想的に、木陰で羽を休める小鳥の(さえず)りよりも美しく響いた。

 

「あ……っ、あり、しあ……っ! アリシアっ!」

 

 プレシアさんは感極まった様子でアリシアを抱き締めた。

 

 長期間にわたって身体を動かしていなかったので、アリシアの筋肉は弱くなっているだろうし硬直もしているかもしれない。アリシアの体調を鑑みると無闇に動かすのは、あまり褒められた行為ではない。

 

 だとしても、正論はそうだとしても、だからといってプレシアさんを止めることなどできようはずがなかった。恋い焦がれて、(こいねが)って、ようやく再び自分の腕の中に抱くことができたのだ。そんな野暮な口を、俺は持ち合わせていない。

 

「よかっ、た……」

 

 アリシアが、目を覚ました。

 

 深い眠りと悪い夢から抜け出したように、アリシアの瞳はとろんと虚ろだ。これが現実と認識できているのか不安に感じるほどにぼんやりとした面持ちでプレシアさんの胸に顔を(うず)めていた。

 

 久しくまともに使われていなかった眼球ではすぐにピントは合わないだろうし、なによりリンカーコアの機能不全から復帰した直後である。すぐに頭も満足に働くとは思えない。問いかけにちゃんと反応して返答できるようになるのは、もうしばしの猶予が必要になる。

 

 猶予が必要ではあるが、時間という休息が癒してくれる。時が経てば、喋ることができる。リハビリや周りの協力もいるだろうが、時が経てば自分の足で動くこともできるようになる。

 

 窮地は脱した。峠は越えた。

 

 もうなにも、心配することはない。

 

 アリシアから離れた手にはまるで力が入らず、肩から指先まで骨が溶けたみたいにだらりと垂れ下がる。リニスさんが背後から抱き留めてくれてはいるが、そのフォローがあっても姿勢を維持することができなかった。

 

 視界が暗転し、床へと倒れ込む。

 

「もう、いいよな……」

 

 プレシアさんは大粒の涙を流し、アリシアは母親の濡れた頬に手を伸ばして触れる。意識が断たれる寸前、目にした光景。

 

 その情景に重なるように、紫色と水色が視えた。小さな水色の光を優しく温かく包み込む、紫の光。二つの光が紡ぎ合わされるように螺旋を描いていた。

 

 そんな二人の姿を最後に捉えて、俺の意識は途切れた。




次の話で最後になると思います。

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