服の裾を引かれるような感覚がした。
はっと意識を持ち直し、足元の障壁から跳躍して黒色の魔力弾を回避する。時の庭園の外、暗闇の海へと魔力弾は同化するように消え去った。
『主様、無礼を承知で申します。動揺するお気持ちはわかりますが、今はしっかりと前を見据えてください』
浮き足立つ俺の心を、エリーは一声でぴしゃりと落ち着かせる。頬を平手で打たれた気分だ。一瞬呆気に取られたが、平静さを取り戻せた。
『こんなところで潰えさせて良い程度の夢なのですか? そうではなかったはずでしょう。ならば冷静に頭を使って解決策を、最善への道を模索してください。大丈夫です、心配無用です。主様なら、冷静に考えれば必ずや導き出せるはずです。絶望的な状況をひっくり返す、奇跡の一手を』
エリーは本当に、俺のことをよくわかっているようだ。想定の範囲を超えたら思考停止に陥るメンタルの弱さ、精神的脆弱性。ネガティブな考察に入ってしまうとどこまでも沈んでしまう悪癖まで。
そんな情けない俺に対して、エリーは叱咤激励してくれた。真正面から、嘘偽りない愛で以って、応援してくれた。小さい俺を包み込んで、背中を押してくれた。
これで奮起しなければ、男じゃない。甘えてばかりでは、格好がつかない。
視線の先の彼女から目を離さず、深呼吸する。ぶれていた思考力に芯が戻る。視界も気のせいか広くなったように感じる。
『ありがとう、エリー。なんか俺、気が張ってたみたいだ。助かった』
『い、いえ……出過ぎた真似を致しました。処分は
『そうだな……そんじゃ俺を焚きつけた罰として、背中を任せるよ。相棒』
『は……はっ! みゃか……任されました! 身を粉にして、精魂尽くす所存です! 愛方として、全力で!』
リニスさんだったものの周りに魔力の粒が浮き上がり、凝縮していく。次第に大きく膨れ上がる。
どんな種類の魔法かは判別できないが、どの系統にしろ攻撃以外のわけがない。
こちらの出方を窺っていたのかは知らないが、痺れを切らして打って出る判断をしたのだろう。リニスさんを元に戻す方法はわからないし、そもそもどんな手段であのような異常極まる状態に到ったのかも不明だが、なんにせよ対処しなければリニスさんを取り戻すことはできない。
相棒とともに、気合いを入れ直して事に当たる。
『そら、来るみたいだ。集中してくぞ、エリー!』
『はい!』
胸の奥から、滔々と力強い流れが湧き出てくる。今まで使っていた魔力付与の強度も、エリーの豊潤な魔力によって格段に上がっている。なんなら、魔法を使わなくても並みの射撃魔法程度であれば、頑張れば素手で弾けるくらいに基礎能力が底上げされている。そう言っても過言じゃないレベルに、俺とエリーは達している。
『……なあ、エリー。あれって防げるか?』
『……回避を徹底してください』
『いやいや、質問に答えてくれよ』
『………………回避を徹底してください』
『なるほど、それが答えだったのか……』
人としての限界という境地に立っている俺たちですら、黒の魔力を羽織る彼女に
黒の彼女の周囲を踊るように浮遊している六つの魔力球は、身を竦ませるに足るだけの威力を孕んでいる。
浮遊しながら号令を待つ魔力球の様子は射撃魔法系に類似しているが、その直径の大きさが否定する。砲撃の前兆ともなる杖の先端に発現する魔力球に外見こそ似てはいるが、それよりも一回り以上、巨大だ。
『乗っ取りとかもう気にすんなよ、エリー……その場の判断でフォロー頼む』
『ありがとうございます。元よりそのつもりではいましたが、果たしてお役に立てるかどうか……』
『お前まで弱気にならないでくれよ……』
相手がどう出てくるのか、魔力を重点的に足に送って様子を見ていると、とうとう彼女が動いた。
外見からくる印象と逆行するような機能美を有した杖を、俺に向ける。その動作に
砲撃か、射撃魔法か、それとも別種の攻撃魔法か。いくつもパターンは考えたが、そのいずれの予想も反した。
杖の先端が一瞬、本当にほんのひと瞬き、煌めく。
視界の真正面から、コマ落ちするように闇が迫ってきた。
「発動の速さは健在なのかよ!」
両隣に並ぶ特大魔力球からの攻撃ではない。幾度となく目にした、杖から放つ彼女の砲撃だった。
咄嗟に自分の右側に障壁を張り、それを右手で突くことで身体を左に運ぶ。
『素晴らしい反応速度です、主様』
『まだ終わってないッ!』
砲撃で少なからず体勢を乱したところを狙い撃つように、六つの特大魔力球が牙を剥く。
『もしかしたら、という低い予想が的中しましたね……』
『フェイトやアルフの教官役だからな……できないなんてことはないだろうと思っていた。厄介さが増してるけどな……』
足場の障壁を強く踏み込み、跳躍移動を繰り返す。危なくなれば『襲歩』も使い、回避していく。
特大サイズの魔力球は、種別としては砲撃ではなく射撃魔法に属していた。だが、魔力球自体が俺に向かってくるのではなく、魔力球から魔力弾を吐き出すというもの。
これに
フェイトがなのはを相手に使用した時は三十を超えるスフィアが展開されていたが、彼女の場合は六つ。いくら単発威力が桁外れとはいえ、発射体が六つであれば、今の状態なら躱し切ることはできると思っていた。飛んでくる魔力弾は照射時間短めの砲撃くらいの大きさがあるが、フェイトのものと較べれば連射能力は低い。回避はできると、そう考えていた。
黒の彼女が、その程度で済むわけがなかった。
「そろそろ、逃げ道が……」
威力が高く、連射もできて、それが六つも設置されているのに、その上ある程度の誘導性まで保有している。
もちろん誘導弾ほどの追尾性はないが、それでも跳躍移動で立体的に動く俺を追いかけてくる。早めに回避行動を取れば追随してくるくらいのことはできるようだ。
『主様、来ます!』
『まったく、容赦ないな……』
その砲撃弾の雨に晒されている最中に、彼女の杖から極太の砲撃が俺の隙をつけ狙う。
分厚い対空砲火を前に、いつまでも避け続ける自信は俺にはなかった。
「なにか、突破口はないのか……っ」
右側に跳躍し、焼き払わんと迫る砲撃をやり過ごす。
やらなければならないことは山積しているのに、攻勢に転じることすらままならない。思考のリソースは射出される魔力弾の軌道計算と安全地帯の確保に割り振られていて、リニスさんを捕らえる魔力の謎を追究できない。
同時にしなければいけないことが多過ぎた。そのどれもを一度にやろうとするあまり、集中力が分散される。
『っ! 主様っ、右方!』
エリーに喚起されて確認すれば、逸れる弾道の一発の裏側に、もう一発の魔力弾が潜んでいた。
退避は間に合わない。
接近された際の彼女の破壊力を想起したら不安になるが、致し方なしに障壁を張る。
「くっ……おぉあ!」
負の感情が塊になったかのようなどす黒さをした巨大な魔力弾は、寸時障壁と拮抗したものの侵撃を止めることなく、障壁を突破した。
俺とエリーの魔力で編まれた壁により幾分速度は落ちたが、それでも相応のエネルギーを保持したまま、巨大な魔力弾は脇腹に突き刺さる。服は爆ぜ飛び、自分のものとは思えないほど白い肌が露わになった。
『……っ、申し訳ありません、主様。もっと早く察知できていれば……』
『うっぷ……かっ、は。っ……いや、エリー……助かった』
エリーは謝っていたが、右から息を潜めて近づく魔力弾の存在を知らせてくれなければ気づくのは更に遅れていた。しかも防御を撃ち抜かれたのを知覚した瞬間に、被弾箇所に魔力を集めてくれていた。その助けがなければ、怪我はずっと深刻だったはずだ。
少なくとも、白磁のような柔肌が赤くなる程度では済まなかった。
それに今回の被撃は、ダメージも貰ったが貴重な情報も頂いた。
「砲撃はともかく……魔力弾の方は工夫次第で防げる、かな……」
黒の彼女が最初に繰り出した打突に対しても、つい先の魔力弾に対しても、こちらが展開したのは普通の障壁だった。いや、普通といってもプログラムに手を加えていない、というだけであって普通とはかけ離れた魔力が込められてはいたのだが。
魔力弾を防いだ時の手応えからして、俺がいつもやっているように術式を書き換えて角度なり密度なりを改変すれば、おそらく軌道を逸らすくらいはできる。
しかしそれは対症療法でしかない。魔力弾一つを攻略できても、いずれは彼女の戦闘パターンのバリエーションで押し潰される。それほどに彼女の魔法は多彩だ。
根本的に考えを転換させなければ、そう遠くない間に詰むことになる。
『なにか、手を講じないと……っ! なにか……』
『…………』
跳躍移動で回避を続け、時折来る直撃コースの魔力砲弾は密度・角度変更型の障壁で逸らし、直撃する弾道の数が多くなれば『襲歩』で離脱。選択の幅が一つとはいえ増えたので若干ではあるが避けやすくなった。
だが、憂慮すべき事態に陥っている感覚もひしひしとする。魔力砲弾の弾道が、俺の身体を捉える確率が微増し続けてきていた。立体的な動きに慣れ、照準がオプティマイズされてきているようだ。
一撃必殺の砲撃も、尚も休むことなく発射されている。
エリーとの一体化、
『ごっ、あ……っ。エリー……大丈夫か?』
『っ、はい』
相当な速度を出している魔力砲弾だが、器用に方向を変化させて障壁を正面から叩き、貫通することが増えてきた。じわじわと体力を削り取られて、まるで泥沼に沈んでいくように感じた。
身体が一体化している以上、多少らしいがエリーにも痛みは伝わる。俺が不甲斐ないせいで、エリーにも重荷を負わせてしまっている事実が心苦しいが、俺も今の戦況を維持するだけで精一杯だ。
打開する策は、未だ見つからない。
『主様……私に、一つだけ方法が……』
『はっ、ぁ……。方法……?』
エリーがおずおずと、けれど覚悟を決めた様子で提案する。
『魔力の送量を、一段階引き上げます。リミッターを解除することで、扱える魔力の量は……増えます』
『魔力量、調節してたのか……。なんでここまで黙ってたんだ?』
『主様のリンカーコアに、過度の負担がかかるからです。いくら心身を一体化させているとしても、臨界点を超えてしまえばなにが起こるかわかりません。それに、この状態を解いた時に、主様の身に後遺症が残らないとも限りません。これ以上の出力は、危険域なのです。故意にお伝えしておりませんでした……申し訳ありません』
エネルギーの結晶体であるエリーと凡庸な人間である俺とでは、キャパシティーに大きな隔たりがある。いくら肉体と精神を重ね合わせているといっても、許容できる魔力の量には限界があるのだろう。
強大な力を直接使おうとすれば、脆い人間の身では必ず悪影響が及ぼされる。そこでエリーは、膨大な魔力で俺の肉体やリンカーコアが破綻しないよう、知らないところで調整してくれていた。
エリーがわざと伝えていなかったのは確かだが、それは俺の身体に配慮して、だ。糾弾するようなことでは、決してない。
『このままじゃ結局袋小路だ。それをわかっているから、エリーも教えてくれたんだろ?』
『他に手が残されていないと……判断しました』
『俺がもう少し上手くやれていれば、エリーに気苦労をかけることもなかったんだけどな。ごめんな』
『主様の責ではありません! 魔力の量以外に取り柄がない私が、主様の役に立てない私が……一番、悪い……』
エリーは、自責の念に駆られていたのか。魔力を渡すしかできないと、他に何もできないと。そんなことは全くの勘違いで、ただの思い込みだというのに。
俺は何度も励まされていて、何度もエリーの言葉で救われている。近くにいてくれているだけでこんなにも心強く、頼もしく感じていることを、エリーは知らないのだろう。
本当に、気遣いができて、厳しくも優しくて、ちょっとネガティブな、可愛い我が相棒だ。こいつとなら、どこまでも行けると、俺は断言できる。
『さっきは俺が励まされたからな、次は俺が発破かけてやるよ。弱音吐いてんじゃねえぞ。反省点なんて俺も負けないくらいいっぱいあるんだ。落ち込むのも、後遺症とか気にするのも、後でいい。後になって考えて、その時にまたどうにかすればいいんだ』
エリーに諭しながら、自分にも言い聞かせる。
俺は、自分の弱さを知っている。でも、自分の弱さを知っているからこそ、自分以外の人の真の強さを理解することができる。
自分を信じることはできなくても、信頼している身近な人を信じることは、俺にだってできるのだ。
エリーの優しさを、思い遣りを、
死力を尽くそうと、そう思えるのだ。
『やってくれ、エリー。なに、心配はいらない。失敗したら俺とエリーで責任は半分こ、成功したら俺とエリーで喜びは倍。簡単な話だろ?』
『主様のお気持ちに……感謝します。……果てる時は、共にです』
『縁起でもないことをさらっと言うんじゃない。……分かりきってることだ』
『では、いきます……っ』
体感的には、ばちん、とスイッチが入ったような感覚だった。
視野が一時的に狭窄する。視界の端がじわじわと黒く澱んでいく。心臓の鼓動が、いやに頭に響いた。
いつか鎮まることを願いながら、耐え忍ぶ。
不快感が遠のくと、一転、天井が取り払われたかのような開放的な気分が訪れた。地面に縛りつける重力から解き放たれたような、どこまでも飛んでいけそうな高揚感に包まれる。
『やれないことなんてない。俺とエリーなら』
全身に力が漲る。今なお斉射が続けられている魔力砲弾からはもう、命を脅かされるような恐怖を感じることはなかった。黒の魔力を纏った彼女にだって、負ける気はしなかった。
解像度が増したような思考を使って魔法の演算をする。これまでにないほどスムーズで、脳への負担も感じられない。飛来する砲弾の弾道全てを把握し、近いものから逐次障壁を展開していく。
魔法の強度、発動速度、展開する位置。いずれも、俺が脳裏で描いた通りの性能だった。
空間を切り裂いて移動する魔力弾によって生じた大気の乱れに、長く伸びてしまった空色の髪が強くなびく。
横目にちらりと見えた髪は、縦長の塔の内部にいた時よりも変色していた。もともと鮮やかだった長髪が、今は煌々と発光しているように見える。
その髪色の変化に、自分の身体に起こっていることだというのに恐れはしなかった。ただただ、原因についての疑問だけが脳内に渦巻いた。
『私と主様の距離が、より近くなっているのです』
エリーが、俺の身に起きている現象を説明してくれた。
先までと同じように頭にエリーの声が響いてはいるが、どうもなにかが変わったような気がする。数メートル先から喋っていた人が目の前まで近づいてきた、とも違う。これはそう、エリーが喋っているのに、なぜか自分が喋っているような、どちらが声を出しているのか曖昧になっている。
エリーの言う『より近く』というのは身体的、精神的な距離を指しているのではない。根源的な存在としての意味合いを持っている。
この変化を感じ取れてしまえば、エリーが忠告してきた『身体への負担』や『後遺症』についても、大体の察しがつく。
『段階を引き上げる、ってのは
『主様は一つを知るだけで十を理解するのですね。その通りです。段階を引き上げるごとに、制限を緩和させるごとに、主様が扱える魔力の量は増大しますし、私がお手伝いできる範囲も格段に広がります。しかし、その度に主様と私の距離が近づき、深く繋がり、やがて同化するのです。心身が重なるどころではなく、存在が、魂が、融け合うのです。そうなってしまえば今の状態を解除した時、どんな異常が発生するかわかりませんし、融け合い過ぎればもしかすると……』
『解除することもできなくなるかもしれない……ってとこか』
『仰る通りです……。ですから……』
『だとしても、エリーの力を借りなきゃ事態は好転しない。なら、このままやるしかないだろ』
『ですが、このままでは最悪の場合、主様の魂が消失してしまうかもしれないのです。魔力比率の高い私に合わせるように、身体の構造が変性しました。同じように、このまま同化していけば思考や意識の占有率まで私が上回ってしまいかねません。私が主様の一部となるのではなく、主様が、ジュエルシードの一部となってしまいます。主様が私の外殻となってしまうかもしれないのです』
『そうはならないよ』
『そんな保証、どこにも……』
『ならない、絶対に』
『主、様……』
ジュエルシードの一部になる。そう聞いて、一つ思い出した記憶があった。鷹島さん宅の
エリーはきっと、改悪されていた期間が長すぎたのだ。生き物の願望に棲み付き、取り憑き、侵食する。そんなやり方の他に手段を許されていなかった期間が長すぎて、力のコントロール方法を見失ってしまった。
でももう、今は違う。悲しみの連鎖を生み出す呪縛から解き放たれたエリーなら、望めば望んだ通りに力を振るえるはずなのだ。
なのにエリーは、膨大な魔力の中に俺を取り込んでしまうと嘆いている。自分の力を十全に発揮する自信がないのだ。悲劇を撒き散らす存在だったことへの罪悪感で不安に押し潰され、自分の能力を信じられなくなっている。
エリーもまた、俺と同じだった。
大切に思う人のことは信じることができるのに、自分のことになると途端に信じられなくなる。これはもう自分一人ではどうしようもなくて、自分一人では解決できないものなのだ。
自分のことが好きじゃないのに、信じるなんてできない。
だから俺は、ならば俺は、エリーの背中を押す。これまで関わってきたみんなが俺の背中にそっと手を添えて、優しく押し出してくれたように。
『お前は暗くて冷たい牢獄の中にいすぎたせいで、歩き方を忘れただけだ。ずっと捻じ曲げられて使われていたせいで、正しい力の使い方を忘れてるだけなんだよ。なあ、エリー。人々の願いを叶える、優しく美しいランプの妖精さん。お前は自分のこと、好きか? 自分の可能性ってものを信じているか?』
『……好きなわけ、ありません。鮮血と罪科に塗れた、こんな私など……。いえ、違いますね。これは愚にもつかない被害妄想です。実際に悲劇を生み出したのは私で、災禍を生み出したのも……私です。主様がいてくださらなければ森羅万象に仇なす存在でしかないこんな私など……信じられるわけがありません』
『そうだよな。自分のことを心から信じるなんてのは、俺たちみたいなのには難しすぎる。それなら、俺のことはどうだ?』
『好きです、大好きです、愛しています、心よりお慕い申し上げております』
『し、信じているか、ってことなんだけど……』
『当然です。言うまでもありません。主様が右といえば全ての左は右になります。月だって太陽になります』
『そ、そうか。なら、今のところは俺の言葉を信じとけ』
『それは、どういう……?』
自分の言葉は信じられなくても、信じている相手からの言葉なら信じられる。
エリーに励まされて、絶対にうまくできると元気づけられて、俺は奮起した。自分だけなら絶対にそんな考えは持てない。全幅の信頼を寄せるエリーがまっすぐに明言したから、こんな自分でもやれることはあるんじゃないかと、そう思えたのだ。
それは、限りなくネガティブな前向きさだったとしても、しっかりと前を見据えている。歩みを進めることができるのなら、今はそれでいい。
たとえこれが欺瞞だったとしても、自分を騙しているだけの思い込みだったとしても、構わない。今は他人からの言葉でも、その言葉を契機に自分を好きになれたのなら、自分を嫌って塞ぎ込むよりも、きっと幸せだ。
『自分のことを好きになれるまで、俺の言葉を信じとけ。過去を嘆き悔いているエリーなら、同じような悲劇は繰り返さない。それだけの力がお前にはあって、その力を制御するだけの良心がある。最悪もなにも、悪いことになんてならない。大丈夫。お前なら、できる』
数拍の間があった後、静かにエリーが発する。
『……主様の困ったところは、普段理屈や論理や道理、相性や様々な状況を踏まえて理論的に相手を説き伏せるのに、こういう時だけ相手の心情に訴えるようなことをするところです』
苛烈な戦場に身を置いていることすら忘れてしまいそうな、凛として響く声。もう、俺とエリーのどちらが喋っているかわからないという曖昧な感覚は、どこぞの彼方へと消え去っていた。
俺とエリーの肉体、精神、存在は、近く、限りなく近くなっている。それでも、意識は確固として二つに分離していた。俺の中にエリーの存在を感じていて、おそらくエリーも、同じように感じているはずだ。
意識も声も鮮明になった中、エリーはどこかからかうような口調で続ける。
『さらに加えて困ったところは、主様にそう言われると本当にできる自信が湧いてきてしまうところです』
身体を共有し、心は重なっているのに、 意識だけは
いや、奇跡などという単語を使うのは無粋だ。これは互いに身も心も許しているからこそ可能にさせた、信頼関係の極致なのだ。それを偶然とか運命とか、たとえば奇跡とか、たまたまそうなったかのような言い方をするのは許されない。俺が許さない。
『なんか俺、すごい嫌な奴みたいに聞こえるんだけど』
エリーの言葉を受け、俺も返した。
気兼ねなんてない。古くからの友人に対するように、気楽に話す。
『ふふっ、そのあたりは言及しないでおきましょう。さあ、主様。駄々をこねている分からず屋に、トラジックヒロインを気取っている頑固者に、ハッピーエンドはあるということを見せつけて差し上げましょう』
『
『あら、少々混線しているようですね。主様のお声が聞こえませんでした』
『有線で繋いでるようなもんなのにどこと混線するってんだよ。……お前が元気になったんなら別にいいけどな』
『主様の寛容なところ、私、大好きです。……お背中はお任せください。主様の言う「私の可能性」……信じてみます』
空色の世界で視た、人の形をとったエリーの柔らかさと温もりが背中から伝わってきた気がした。