リリカルハート~群青の紫苑~ (リテイク版有り) 作:不落閣下
翌日、シロノが朝の日課である自己鍛錬の締めである仮想敵との魔法戦をして難無く勝利し、風呂に入ってから無難な黒い服装に着替えて朝食の席に着く。すずかはこれからヴァイオリンの教室へ、忍の提案で午後から恭也と一戦交える事になり、ダイニングを離れたシロノは猫部屋と呼んでいる昨日保護してしまった野良猫の茶猫の様子を見ようと入って行った。
ノエルによりきちんと躾がされている猫たちの部屋は案外綺麗なもので、砂場や爪とぎ板以外には汚れた様子は無かった。もっとも、流石に獣もとい猫の匂いは隠れていなかったが。
「ん? ……ああ、そんなとこに居たのか」
「にゃ、にゃあ」
茶猫は扉の開かれる側に居り、その体勢は今にも逃げ出す算段でしたと言わんばかりのクラウチング姿勢だった。入ってきたのがシロノ以外だったならそそくさと何食わぬ顔で出て行ったに違いない。茶猫はクラウチング姿勢を止めてとことこと足元に近寄り、ズボンのすそに首裏を擦り付ける。その可愛らしい様子に懐かれたなとシロノは笑みを浮かべる。
シロノは動物が好きだった。けれど、前世では闘病の舞台である病院で会える訳も無く、ミッドチルダではそもそも野良が少ないしペットを飼う家庭でも無かったため触れ合う時間が無かった。シロノはひょいっと茶猫を前脇を持ち上げて、上げた膝で一度受け止めてから横抱きにしてテラスに歩いて行った。
昨日と同じ様にシロノはぼんやりとテラスの椅子に座って空を眺め、そんなシロノを見上げる茶猫は膝で丸くなっていた。肌触りの良い毛並みにシロノは癒されながら優しく撫で続ける。
「ふふっ、なんだか似合うわね」
「そうですか?」
「ええ、暖炉の前で安楽椅子に座って猫を膝に置いてると尚更に合うと思うわ」
ゆるそうな白いシャツにジーパンという家着極まりない格好で忍が向かい合う様に席へ座った。隣にはノエルが紅茶の準備をしていて、天気の良いティータイムと洒落込む様だった。シロノはアールグレイを頼み、忍は特製のブレンドティーを用意される。のんびりとした空気に紅茶の華やかな匂いが立ち上り、穏やかな雰囲気に更に拍車が掛かった。
「そういえば、その子に名前付けてあげた?」
「いえ、首輪も無いですし野良かなと思ってまだ……」
「んー、ああ、別に飼っても良いわよ。うちには沢山居るし、一匹十匹変わらないわよ」
「そ、そうですか? って、躾をするのはノエルさんらしいじゃないですか。そりゃ、忍さんは変わりませんよ」
「あら、ばれちゃった。ま、それはともかく。あら、蒼い瞳って外国種かしらね?」
「さぁ? 血統種とか雑種でも猫の可愛さは変わりませんし……、まぁ、不思議な感じもしますし、育ちが良かったりするのかな」
「うにゃぁ」
「あはは、良いみたいよ?」
「そうみたいですね。……猫の名前か。猫って言うとリーゼ姉妹ぐらいしか思い付かないなぁ」
「リーゼ姉妹って?」
「ああ、ぼくの同期にクロノ・ハラオウンっていう親友が居まして、クロノの師匠が猫の使い魔であるリーゼ姉妹なんです。確か、グレアム提督の優秀な使い魔でリーゼアリアが冷静沈着な感じで、リーゼロッテが活発な感じだったかな?」
「にゃ」
「へぇ? その使い魔ってのは何なのかしら。地球的使い魔と同じ?」
「そうですね……、まぁ言うなれば魔法生命体にシフトした生物で、ある意味クローンの様なものです。ほら、動物って人語話す程知能は無いけれど、良い人だとかぐらいは判別できますよね? その頃の記憶と感情をベースに、人語を喋れる知能を有する魔法生命体へと生まれ変わった存在が使い魔です。……もっとも、使い魔は瀕死の状態及び死亡して数分でなければ作る事はできませんがね。ですので、ペットとして可愛がった子を使い魔とするケースが多いです。だから、命を救ってくれた主人に使い魔は絶対的な忠誠を誓い、誓約を持って契約を果たします。聞いた事があるのは一生一緒に居る事とか、生涯を共にする事とか、ああ、息子が死ぬまで、とか家族的な誓約が多いですね」
「あら、そうなるとうちは沢山増えちゃうわね」
「あ、あはは……。けど使い魔にするには自身のリンカーコアとのパスによる魔力供給が必要なので、多くても二匹が限界だそうです。もっとも、魔法を使わずに過ごすならばその上限は増えそうですけどね」
「にゃにゃ」
「成る程ね……。まぁ、確かにお別れは寂しいけど、無理矢理生かすのも宜しく無いものね。一生涯のパートナーって関係か。なんか良いわね」
「にゃあ!」
「……そうですね。執務官をやってると良いなと思う事もあります。近くに誰かが居てくれるって本当に温かい事だから……」
「シロノ君……」
「にゃぁ……」
シロノはふっと空虚な笑みを浮かべて空に視線を上げる。まだまだ親に甘えたい年頃である筈のシロノが寂しさを覚えない筈は無い。それを察した忍は悲しい瞳でシロノを見やる。膝に丸くなっていた茶猫も同様に心配する素振りを見せていた。ふふっと笑ってシロノは紅茶を口にする。
「……この世界に来て良かった。今のぼくはそう心から思えます。今は錆付いていた感情が動き出したみたいで、ちょっとネガティブな雰囲気かもしれませんが、幸せ、なんです。誰かと一緒に居る生活が、こんなにも温かいものだと思い出せた。今も、感じているから……」
その言葉に忍は安堵した様にふっと笑みを浮かべた。この場でシロノを慰める事は容易いだろう。けれど、それをシロノは望んでいない。目の前で転んだ子供が心配する親の手を止める様に、前へと進む気概を見せている。本当に強い子だなと忍は思う。命の危機という修羅場を越えて、大人顔負けの職務をするシロノは危ういながら強いと感じてしまう。それは茶猫も同じ様だったようで、撫でていたシロノの手をペロリと舐めて慰めの意思を見せた。
「あはは、くすぐったいよ。そうだな、君の名前はアリアにしよう。うん、そうしよう」
その言葉に茶猫はびくっと背中を跳ねらせ、信じられないと言った様子でシロノの顔を見やった。けれど、シロノはそんな猫の機敏が分かる筈も無く、自分の名前として呼ばれた名に反応したのかなと思う程度だった。
「へぇ、綺麗な名前ね。由来は先程のリーゼアリアという使い魔にあるのかしら?」
「ええ、そうですね。アリアさんはぼくを見かけると心配してくれる優しい人でしたから。名を肖ると言った感じです。アリアさんの様に優しい猫になってくれればな、と。まぁ、この子もぼくに優しいようですけどね」
「う、うにゃぁぁ……」
何故か恥ずかしそうに顔を伏せた茶猫改めアリアをシロノは可愛がる様に撫でる。その様子を見て忍は思う。やっぱりシロノにすずかを任せて正解だったな、と。転んでも挫けても折れても立ち上がるだろう強い少年に将来を期待してしまう。きっと、いつかシロノは危険な目に遭うだろう。そうなれば、別次元という環境では何かをしてやる事もできやしない筈だ。それでは、意味が無い。何よりも大切なすずかが悲しんでしまう。月村家当主として、姉である月村忍として何かの火が灯った瞬間だった。
「ねぇ、シロノ君。S2Uを見せてくれるかしら?」
「はい? ああ、そう言えば約束してましたね」
「にゃ!?」
「まぁ、あんなに釘を刺されちゃね。大丈夫よ、月村製品に転用する事は無いわ。というか、そんな余裕も無いわね。すずかに最高のデバイスを作らなきゃだし」
「……まさか管理局に入局させようとしてますか?」
「…………あの子の意思なら、だけどね。それなら、いざと言う時にデバイスが必要でしょう」
忍の言葉に表情を変え、穏やかだった雰囲気が徐々に凍り付いて行く。それは冷徹の執務官と称されたシロノの異名の理由でもある仕事の顔。それを直視した忍はすずかを大切にしている事に喜びながらも、寒気がし始めたシロノの雰囲気に戦慄の片鱗を垣間見た。シロノから発せられる威圧感が辺りに吹雪の如く吹き荒れる。
「酷い人だな忍さんは。ぼくの性格を知っていながら口にするだなんて」
「ええ、そうかもしれないわね。でもね、すずかの方が大切なのよ。家族として、姉として、ね」
シロノの声は絶対零度の空間に響く様な冷たいもので、ぱきぱきと周囲が凍る様な幻想を抱く程に強烈なものだった。これが、十三歳のするものか。再び管理局という環境を異常と思った忍は温かい筈の紅茶を口にしたが、何故か味も分からず冷たく感じてしまった。後ろに控えていたノエルもまた、シロノの実力の一端を見てデータを更新していた。必要あれば身内にさえも絶対零度の瞳を向ける一面がある事を理解し、今回の場合はすずかがキーポイントだったと把握する。すずかお嬢様の目は御慧眼ですね、と付け足す辺り意外とお茶目だった。膝の上に居たアリアもシロノの雰囲気を直視する事はできず、ぶるぶると震える様に尻尾をお腹側に回してしまう。
「ぼくは反対です。特に、夜の一族という一面があるすずかちゃんなら尚更に。管理局を絶対的な正義と妄信するのは滑稽な愚考だ。もしも、管理局に入り上層部の誰かがすずかちゃんのそれに目を付けた場合、実験材料として事故死並びに冤罪を擦り付けて逮捕して裏で隠滅する事でしょう」
「なっ!?」
「当たり前でしょう。完璧な人間だなんて居やしないんです。自分の益になると他人を貶めて蜜を啜る職員が居る組織に何を期待するんですか。そして、今は一局員でしかないぼくでは、そうなったすずかちゃんを救い出す事だなんてできやしないでしょう。最悪上層部の居る区画に特攻して相打ちを狙う玉砕が精々だ。だから、ぼくは反対です。最悪、上層部の黒い噂のある人物を片っ端から裏から始末する覚悟をしなくちゃならない事になりますよ」
鋭く煌めく蒼い炯眼でシロノは忍を見やる。その瞳は本気のそれで、言っている事に嘘偽りが無いと聡い忍には分かってしまう。甘かった、と忍は思う。自分が思っている以上にシロノのリスク管理はしっかりしている。初見の出会いがアレだったから勘違いしていたのだ。例え自分の所属する組織であっても、プラスの考慮にすらならないと断言してしまう程に物事の裏というものを理解している。そこで、忍はシロノの役職を思い出す。地上本部所属執務官、と。つまり、その案件には同じ職員も存在しているに違いない。そこから裏を見る目を培ったとしか思えない。純粋な正義の使者では居られないと分かってしまう程に、その光景は残酷にも黒かったのだと裏を知る忍は悟った。
シロノは忍の様子が変わった事で事態を理解したと察し、ふぅと息を吐いて絶対零度の雰囲気を取り払った。途端、無色の威圧感から開放された二人と一匹は息をゆっくり吐いた。その様子に申し訳無さそうなシロノの顔が特に忍の心を罪悪感の槍が突き刺さる。根が優しい故に冷酷になれるのがシロノの性根であると感じたからだ。
「わ、分かったわ。迂闊な事をしようとしてたみたいね……。御節介が要らぬ世話になるところだったわ」
「ええ、別に管理局に入る事だけが道じゃないんです。工学系を生かしてデバイスマイスターになる道もあるんです。良かったです、分かって貰えて。今のぼくじゃミッドの本局の三分の一を潰す程度しかできないでしょうから」
そう笑みを見せたシロノに忍たちは再び凍り付く。この少年、玉砕覚悟のシミュレーションまでしてから事を語っていた。シロノの本気具合に流石の忍も苦笑いせざるを得なかった。膝の上のアリアもほっと安堵の息を吐いている辺りシロノの実力が高い事を示しているに違いない。先程の話が無かったかの様にシロノはS2Uをメンテナンスモードにして、マイスターを忍に設定してからテーブルの上に置いた。テラスの白いTテーブルにS2Uが置かれると可変した時の青白い発光し、一瞬見えなくなったテーブルの上にずらりと並ぶ未知の部品たち。近未来科学此処に極まるか、と忍を驚愕させる。アリアはその様子にちらちらとマッドな笑みを浮かべ始めた忍と空を眺め始めたシロノを見やる。恐らく管理局員であるシロノと管理外世界の忍との関係が気になっているのだろう。もはや、普通の猫じゃない反応のアリアにシロノは何気なくぽふっと頭を撫でる。だが、手を退けたアリアの蒼い瞳がシロノを見つめる。何処と無く非難する様な様子で、だ。
ちょろっと出た感じ覚えのある魔力に、漸くと言った様子で察したシロノが冷や汗を流し始める。
「あーっと、忍さん。ここでやるのも何なんでラボでやるとよろしいかと。S2U、一度初期状態に移行。後は忍さんの指示をサードユーザー登録」
「あら、そうね。ここじゃあんまり詳しくできないものね。分かったわ、それじゃまた後でね」
「では、失礼致しますシロノ様」
杖の形に戻ったS2Uをノエルが持ち上げて忍と共にテラスから忍の部屋に繋がっている地下ラボに向かって行った。そうして沈黙と共に一人と一匹の時間が始まる。シロノは丁寧にアリアをテーブルの上に乗せる。
「……お、お久し振りです」
「そうね。お久し振りシロノ。お察しの通り、リーゼアリアよ♪」
茶猫のアリアはそう活発な女性らしい声で再会の言葉をかけたのだった。