リリカルハート~群青の紫苑~ (リテイク版有り)   作:不落閣下

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10 「背中を押して、です♪」

 シロノが高町家の武人たちに揉まれた翌日。五時に起床したシロノは痣になっている箇所を擦りつつ、トレーニング用の黒いジャージ姿になり、つい先程起動したノエルに水の入ったボトルを受け取って中身を少しだけ飲む。

 月村家の広い庭を前にして念入りに準備運動したシロノは日課のランニングに没頭する。反復する記憶は昨日の鍛錬であり、恭也たちとの戦闘での反省点の克服メニューの構築が主なものだった。ぐっぱぐっぱと両手を閉じたり開いたりしながらいつもの倍の十四キロ程走って肩で息をするシロノがテラスの前をクールダウンで歩くのを、春休み最後の日であるためシロノと長く居れる時間の最後と考えたすずかが眠そうな顔で見つけたのが六時半の事だ。

 テラスの前でS2Uにより魔力負荷と重力負荷をかけたシロノは腕立てを始めとしたゼスト隊鍛錬メニューの二倍の量をこなし始める。その様子を群青の花がワンポイントのワンピースに着替えたすずかがファリンを連れてテラスの椅子に座って見学。いつもと違ってかなり疲れているシロノに小首を傾げる姿は無垢な天使の様に見えた。

 思いっきり肩で呼吸をしながら、再びストレッチし終えたシロノはがくがくする体に鞭を打って立ち上がる。S2Uを構え槍術の回避運動の足捌きの反復を行い、手を入れていない土の部分を抉るその姿は何処か鬼気迫るものがあった。

 男の子の意地、という奴だろう。恭也に一撃も入れれずに負けたのが悔しかったシロノは基礎を更に重ねるという手段を持って自己鍛錬に喝を入れたのだった。年齢差があるのは仕方が無い。ならば、練習の質を少しでも上げて日数を重ねるべきだ、とシロノは考えたのだ。

 今すぐに届く距離ならば弱さに悔しい思いをする訳が無い。普段なら朝食の一時間前には終わる朝鍛錬が二十分前に終わると、ぐったりと四肢を伸ばして仰向けにシロノは地面に倒れ込んだ。その全力疾走な様子にすずかはにこにこ顔で見つめて、我武者羅に頑張る夫を縁側で眺める嫁の様な雰囲気がそこにあった。ファリンがノエルに呼ばれて屋敷へ戻っていった後、息を整えたシロノはすずかに聞こえる様に呟く。

 

「……昨日、恭也さんにボコボコに負けた」

「……はい」

「一撃も入れられずに負けたんだ」

「はい」

「凄く悔しかったんだ」

「はい」

「だから、負けたくないって思ったんだ」

「はい」

「基礎で負けてるから、基礎を二倍にしようと思った」

「はい」

「でも、まだまだ足りないとも思うんだ」

「はい」

「……遠く感じるんだ、あの背中が」

 

 すずかは弱音を吐くシロノが可愛いと思った。背中をまた押して欲しいのだと。誰でもなく、自分に押して欲しいのだと分かってしまったから。激しい鍛錬の直後だからかシロノの顔は赤かった。大好きなシロノに頼られてしまったすずか赤面しつつも、あの時の言葉を思い返してシロノへ言った。

 

「届きますよ。シロノさんなら、きっと、超えてしまうくらいに」

「そうかな」

「そうですよ」

「そっか。……ありがと、ぼくはまだ頑張れる」

「はい! 応援します!」

 

 頼られたという事が嬉しくてすずかは満面の笑みで立ち上がったシロノを迎えた。シロノの顔は四歳下の少女に頼ったというのが恥ずかしいのか頬が染まっていて若干ぎこちなかった。汗だらけのシロノの顔をすずかがテーブルに置いてあったタオルで優しく拭い、ボトルを手渡す。受け取ったシロノは半分はあったボトルの水を飲み干して、手を差し出すにこにこしたすずかに苦笑して手渡す。ぐっぐっと腕の筋を伸ばしながら何時もの様に風呂へ向かったシロノを見送ったすずかは、ハッとした様子で視界に居たニヤニヤ顔の忍を発見してしまう。

 

「ふふふっ、朝からラブラブね?」

「お姉ちゃん!? い、いつから見てたの?」

「すずかがシロノ君を見つめ始めた頃よ」

「あぅぅ……、お姉ちゃんの馬鹿ーっ!!」

「あ、ちょ、すずかーっ!?」

 

 顔を押さえてダイニングへと走っていってしまったすずかをお約束のように忍が追い掛けて行く。そんな二人の騒がしい声に微笑みを浮かべ合うノエルとファリンは風呂に入っているであろうシロノに心の中で礼を言う。夜の一族という重い鎖に縛られていたすずかは仲の良い友人が三人できる数ヶ月前まで月村家の蔵書を読んで時間を過ごす日々で、忍の話に笑う以外にその笑みを浮かべる時間は無かった。

 たった四日。シロノが来てから四日しか経っていないのにすずかはとても明るくなった。先ず、一番最初に挙げられる点は何よりも恋を知って可愛くなった事だろう。シロノに見蕩れる様子を後ろに控える立場である二人はよく知っていた。そして、忍とのコミュニケーションに活発性が見られるようになった事だ。以前のすずかならば拗ねて機嫌を取ろうとする忍に構って貰うのがお約束だった筈だ。それが今では、シロノの事でからかわれたら赤面して可愛らしい悪口を口にする光景が見られた。

 シロノの前ではお淑やかで居たいという可愛らしい感情がノエルの忠誠心を鼻から噴出す様な錯覚を覚える程に感じられるのだ。あの、読書の虫で暗かったすずかお嬢様が立派になって、と茶化してしまうくらいに変わったのだ。

 誘拐されたすずかを救い出して婚約者になったシロノはノエルとファリンの誇れる人物になっていた。真っ直ぐに目標に手を伸ばし続けるその気概は、後ろ向きに泣いていたすずかの手を掻っ攫うように引っ張り上げた。その前向きな姿に無い筈の心を打たれたのだ。このまま末永くすずかと幸せである様に、全身全霊に仕えようと二人の自動人形は頷いて食事の準備へ戻る。

 数分後に戻ってきたシロノはつーんと拗ねているすずかと宥める忍の姿に首を傾げたが、いつもの光景に微笑みを浮かべて席へ座る。配膳しにきたノエルとファリンも明るい光景に笑みを浮かべる。本日の朝食はクロワッサンとハムエッグに野菜のサラダとあっさりとしていたものだった。

 ……シロノ以外は、だ。

 

「シロノ様はこれから肉体強化のためのメニューをご所望だと忍お嬢様から伺っております。基本であるササミに卵白のみのスクランブルエッグを添え、生野菜のサラダには特製濃縮プロテインドレッシングが掛かっております。味はご期待ください。忍お嬢様考案の恭也様筋骨隆々計画を再案したシロノ様強靭無敵計画に則って好みの味に仕上げてありますので、ご安心を」

「……し、忍さん?」

「あら、余計な御節介だったかしら。体の資本はやはり計算された食事だと私は思うのだけれども」

「嬉しい限りですが、せめて一言欲しかったです……。いや、まぁ、願ったり叶ったりですが……」

「あ、あはは……」

 

 そう、やけに自信満々なノエルの説明通り、目の前にあったメニューは普通なそれにしか見えない美味しそうな食事だった。だが、内容を聞いて少し口元を引き攣ってしまうのも無理が無いと思いたい、とシロノの内心の弁である。フォークでササミから食べ始めたシロノは四日間で自分の好みの味を特定されている事に戦慄した。月村家のメイド恐るべし、とその有能さを称えるしかなかった。不覚にもお代わりしたくなるくらいの絶品な味であったのだ。

 

「……美味しいです。ですが、お願いですので食事前に内容を露呈するのは……」

「ふふっ、そうですね。意地悪が過ぎた、という感じですか。承知致しました」

 

(完璧に人間のそれじゃないか!? 静かな場所で耳を澄ませば聞こえる駆動音がブラフに感じてくるんだけど……)

 

 ノエルの人間らしい小悪魔めいた悪戯に驚くべきか、そのノエルを作り上げた月村の圧倒的な技術力に驚くべきか、とシロノは結局両方に驚いてそのとんでもなさを再確認するのだった。ちらちらと特製サラダを見やるすずかの視線に気付いたシロノは味が気になるんだろうな、とドレッシングの掛かっているレタスを突き刺した。

 

「はい、あーん」

「え、その……、あ、あーん」

 

 シロノはフォークに刺さった野菜をすずかの口に向けて差し出した。その光景に忍はにやにやとし始め、ノエルとファリンもおお、と感嘆していた。差し出されたすずかは滅多に無いチャンスを前にわたわたしたが、赤面した顔であむっとフォークを咥えた。その何気に色っぽい光景に不覚にも自分のやった事に気付いて恥ずかしくなったシロノは頬を上気させてしまった。

 初々しいカップルに忍は妹愛を鼻から流しそうになり手で抑えて悶えていた。そして、やや恥ずかしくて気まずいままシロノはすずかが咥えてたフォークでスクランブルエッグを掬って口にした。その光景をちらちらして見ていたすずかはその堂々とした間接キスに頭が茹で上がる気分だった。

 やけに熱々な朝食になってしまったが、シロノはマルチタスクで羞恥心を隠す事すらも忘れて特製メニューを食べ終えた。赤面して時折はぅと色っぽい吐息を吐くすずかをなるべく見ないようにして煎れられた黒珈琲に全身全霊をかけるシロノの珍しい姿にぐっと忍はサムズアップ。

 

(良いわぁ……ッ!! こういう恋愛を恭也ともしてみたかったなぁ。ふふふ……)

 

 トリップし始めた主人姉妹にノエルとファリンは苦笑する。本当にシロノが月村家に来てくれて良かったと心から思うのだった。結局その後、トリップした二人が戻ってきたのは一時間程した後の事で、シロノが三杯目の珈琲を飲み干した頃だった。紅茶を飲んでリラックスしている二人を見ながら恋愛って冷静になると恥ずかしいと、思い出した様に使い始めたマルチタスクのサブで顔色を変えて思うシロノだった。


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